魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
雲一つない空だった。
いつもより高く感じつる気ぬける青空からは太陽の鬣が降りしきり、新芽の芽生えたばかりの銀杏の並木道を煌々と照らす。いくつもの天使の梯子が透き通る薄緑の葉脈の隙間を抜けて、アスファルトの道に降りてきていた。
一葉とベヌウは図書館へと繋がる一本道の道中にいた。
まだ五月だというのに、この日の気温は初夏のもので一葉は長袖ではなく無地の黒いTシャツにダメージジーンズとサンダルといったラフな出で立ちをしている。
時間帯はまだ正午前で、おそらく今頃はなのは達は応援に向かったサッカーを観戦している真っ最中だろう。
一葉も、当初の予定では肩にかけたショルダーバッグの中に入っている本を返却してから、適度に冷房の利いた図書館で読書をしていたはずだ。
しかし今、一葉だけでなくベヌウでさえ道のど真ん中で困惑の沼にどっぷりと脚を突っ込んでしまっていた。
『どうしよう……?』
『どうしましょうかね……?』
「あっ! 今、また喋ったやろ!?」
二人の目の前には、念話を聞き取れる車椅子の少女がいた。
◆◇◆
『高町嬢はともかくとして、ユーノはもう完全に一葉を信用していませんね。 多分、これからも信用を得るのは無理でしょう』
『ま、仕方ないわな。 魔法っていう特別な力がある世界から来たんなら、魔法のない世界を下に見る傾向はあるだろうし、そんな世界に見たこともない力を持ってるやつがいたら、あまりいい感情を持たないのは当たり前だろうしね』
一葉とベヌウは朝食を摂ってから直ぐに家を出て、図書館に向かった。
海鳴区の東に位置する場所にある図書館は、海鳴海浜公園の敷地内にあり、図書館に至る道に沿うようにして植えられている銀杏の並木道の向こうに建てられている。
海鳴図書館は数年前に市に点在するいくつかの小さな図書館を統合して建設されたもので、それに見合って規模も県内で一番の敷地と蔵書量を誇っている。
今日は一日が完全休養日となったことで、一葉は久しぶりに図書館で読書を楽しむことに決めていた。
一葉が読むジャンルは様々で、小説もそうだが、学術本や図鑑、ルポルタージュまで多岐にわたる。別に、心を躍らせる物語や知識に飢えているわけではなく、文字が読めればなんでもいいのだ。
銀杏のトンネルをしばらく歩くと、洋館を思わせるレンガ造りの建物が見えてくる。中世の館をモチーフに建てたのだろうが、その趣と建てられたばかりの真新しさのギャップが全体の雰囲気をチープなものにさせていた。
『ぶっちゃけると、私も最初はそうでしたからね。 あまりユーノ・スクライアのことは強く言えないのですが……、ユーノ・スクライアも高町嬢もまだ幼く世界を知らない。 あまり気にしない方がいいと思いますよ』
ベヌウが言っているのは一葉と、なのはとユーノとの間にできた溝のことだ。それは些細な、だけど確実にできた決して埋まることのない猜疑と言う名の溝。
そのくせ、なのはは一葉が隠してきたこと、そして今も隠し続けている秘密を聞こうとしては、躊躇ったり、必要以上にチラチラと一葉の顔色をうかがったりと、まるで私の気持ちに気がついてと言わんばかりのアピールに、一葉は少しうんざりし始めていた。
なのはが、そしてユーノが聞きたいことはわかっている。
一葉の剣は魔法と違い理側の存在ではない。おそらく、ユーノからしたら行き着く先のない問いのように思えるのかもしれない。そして、その解放なくして一葉に対する疑念や厭わしさ、弾劾したいという、ヘドロのような感情は胸の内にため込まれ続けていくのだろう。
そして、そのことをなのはに伝えているということも容易に想像がついた。
『いつか、一葉のことを二人に話す日はくるのですか?』
『さてね……。 今のところ、その予定はないな』
一葉は、耳元で囁かれるベヌウの問いを、海から運ばれるあたたかな風に揺れ落ちる葉を見ながら言った。
その目つきは、まるで黄昏を見つめる老人のように儚いものだった。
いつか自分のことを話す機会が訪れるかもしれないことは、いつも頭の片隅にとどめていた。
だが、それは決して今ではないし、一葉がベヌウに自分のことを話したのは、出会いそのものが特殊だったからだ。安寧の世界で生きる家族や、なのはをはじめとした友達たちには出来ることであれば永遠に口を噤み続けるつもりでもあった。
『結局、オレは臆病者なんだよね。 正直に言うとさ、人に嫌われるのは怖いし、完全に拒否されるぐらいだったら、溝があっても今の方が全然マシだよ』
一葉の唇から紡がれた言葉は、ひどく薄く透明だった。
夜の闇に紛れて爪を研ぎ、牙を剥いて血を浴び、肉を喰らい続けた男の魂を持って生れてしまった少年の願い。
それは、誰かに受け入れてもらいたい。醜い自分を仲間にしてもらいたい。優しく、美しい人たちと一緒にいたいというものだった。
そして、思いがけず手にしてしまった願いを、一葉は失うことをなによりも恐れていた。
『一葉……』
そんな一葉の横顔を見て、ベヌウはなにかを言いかけて、止めた。
今のベヌウには一葉を慰める資格など持ち合わせていなかった。主従の契も交わしておらず、一葉の行く末をただ傍観者として徹する為だけに側にいる。
そんな自分が慰めなどという傲慢なことをしていいはずがないと思ったからだ。
それでも、ベヌウは胸の内に深い孤独を抱える少年に、少しずつ自分が惹かれていることに気がついていた。
五月の穏やかな陽気の中、突然背中に氷を這わせたかのような悪寒が一葉に走った。
それは殺意や殺気といった不穏なものではないが、胃が浮くような違和感が一瞬にして鳥肌へと変わる。
一葉は鞄を抱えて、咄嗟に右に跳ぶ。
一葉の突飛な行動に、肩にとまっていたベヌウはバランスを崩し翼を広げて無理やり体制を整えた。
そして、一葉が側道にった瞬間、今まで一葉が歩いていた場所に風を呑みこむ音を上げて猛スピードの車椅子が通過していった。
「チイィ! 外してもうたか!!」
アスファルトを焦がすドリフトで車椅子の勢いを殺しながら、関西訛りの少女が唸った。
歳は一葉と同じぐらい。セミロングの焦げ茶の髪が特徴的な小柄な少女だ。
「アホか! ぶつかったら死んでるわ!!」
「なにゆうてんのや。 人間ちょっとやそっとじゃ死にはせん」
電動の車椅子をレバーで操作しながらカラカラと近づいてくる少女は太陽の光を一身に浴びて咲いた向日葵のような笑顔で言った。
少女の膝の上には年季の入った無地のクリームいをした膝かけが乗せられており、それは少女が長年愛用していると同時に、それと同じ時間だけ脚を動かすことができないのだと見て取れる。
「久しぶりやな、いっちー。 今までなにしてたん?」
「お前の暴行未遂は完全にスルーかい。 それからいっちー呼ぶなって言ってんだろうが子狸が」
「こないな美少女つかまえて誰が狸や、誰が」
「お前だ、お前。 自分で美少女言うな。 それから地味に痛い。 カバンぶつけんの止めろ」
少女は膝かけの上に置かれていた、黄色い花の刺繍の入った手提げカバンをがバシバシと一葉の太腿にぶつけていた。中にはハードカバーの本が何冊か入っていて、結構な衝撃が骨に響く。
一葉は少女の手からカバンを取り上げると、そのまま自分の肩に下げ歩きだした。
少女の方も、まるでそれが当たり前かのように車椅子を前に進ませ始める。
二人の間には、何とも言えない穏やかな雰囲気が流れていた。
それは一葉にしては珍しいことで、ベヌウは内心で感嘆していた。
まだ同じ時間を過ごし始めて一週間と少しばかりしか経っていないが、それでも一葉が常に他人とは明確な一線を引いていることに気がついていたからだ。
踏み込みすぎず、馴れ合いすぎず、なにかあったときはいつだって逃げ出せる距離を保っている。それは、自分が普通ではいられないという卑屈さからか、はたまた劣等感がそうさせているのか、それはなのはや、ベヌウはまだ会ったことはないがアリサとすずかという少女にも同じだ。
魔法やジュエルシードのこともあって、なのはとの関係に溝が生まれはしたが実質的な距離は縮まっている。
それでも一葉は自分の立ち位置を決して見誤ったりはしない。
だが、この車椅子の少女は一葉との間に溝や距離は感じられなかった。
「なんか、格好いい鳥さんつれとるなぁ。 どうしたんや?」
「空から落ちてきたのを拾った。 それで飼うことにした」
「……私、鳥獣保護法とか詳しく知らんが、それって犯罪ちゃうんか?」
「犯罪ってばれなきゃ犯罪にはなんないんだよ」
「お巡りさーん! ここに犯罪者がいてまーす!!」
「やめい、騒がしい」
一葉はカバンを振って軽く少女の身体にペチリと当てると、少女カラカラと笑いだした。
身体の生涯を微塵も感じさせない、そんな屈託のない笑顔だ。
『一葉、こちらの少女は?』
ベヌウは一葉に尋ねた。
その声はしっかりと届き、一葉は念話で答えようとした時だった。
「あぁ、私の名前は八神はやてっていうんよ」
「は?」
『え?』
「……ん? あれ? 今、喋ったのって誰や?」
はやては首を傾げた。
◆◇◆
「突然ですが魔法使いになりました」
「馬鹿にしとんのか喧嘩売ってんのか聞いてもええか? ちなみに喧嘩を売っとんのなら、今なら高価買取中やで?」
はやては腕を組みながらこめかみを引きつかせた。
はやてと一葉がいる場所は図書館の表玄関にある広場だった。モダン調の石畳が円状に敷き詰められた広場は大人の足で二十歩ほどで、その中央には幾何学的なモニュメントが鎮座している。
一葉はその広場の隅にある塗装の剥がれかかったベンチの上に正座をさせられていた。
「あの……、八神嬢……?」
「ベヌウは黙っとき。 私は今、いっちーと喋っとるんや」
「はい……。 申し訳ありませんでした」
はやての膝の上に置かれたベヌウは見下ろされる冷ややかな視線に容易く屈服した。
一葉は一葉で、はやての見透かすような視線から逃れようと必死に目を逸らしていた。
ベヌウの念話がはっきりと耳に届いたはやてに、魔法やベヌウと出会った経緯などを誤魔化す術はなく、結局全てとまではいかないがある程度のことは喋らされてしまった。
それでも、内容も突拍子のないもので、はやても瞳の奥から疑問の火を消すことは中々消そうとはしなかった。
会話が途切れ、はやては一葉はジト目でしばらく見つめていると、深い溜息をついた。
「まぁ……ええわ。 百万歩ぐらい譲っていっちーが魔法使いになったてことでええ。 で、それでどうなん?」
「どうなん……とは?」
「なんか危険なことに首を突っ込んでへんかってことや」
「いいえ……。 そのようなことは決してありませんが」
はやての鋭すぎる問いかけに、一葉は咄嗟にシレっとした表情で嘘をついた。
「ダウト。 大嘘や」
一葉の嘘に、はやては逡巡の迷いもなく確信的な口調で言った言葉に、一葉の動揺は表情に浮き彫りに出た。
それを見て、はやては再び深い溜息をつく。
「あんなぁ、いっちー。 いっちーが自分で気がついてるんかどうかは知らんけど、嘘をつくときに目を逸らす癖を直さんと、ばればれやで?」
一葉の嘘にはやては最初からわかっていた。一葉が嘘をつくときに瞬きが増えて人の目を見られなくなる癖に気がついたのは、出会ってまだ間もない頃だ。
それは一年と、少しだけ前になる話し。
銀杏の並木が黄色く萌え、たわわとなった実が地面に落ち始める季節の頃だった。
はやて動かない足のせいで、本来義務教育である小学校は休学扱いになっており、はやてが実際に時間に縛られなければならないことは病院への通院だけだった。
そんな友達もできない環境で、両親も既に他界にして、人との繋がりは希薄だったはやてが本の世界に没頭するのは自然の摂理なのかもしれない。
その通り、はやては孤独な灰色の世界よりも、夢や希望が満ち溢れている本の世界に生きていた。
綴られた物語から夢想する世界では風よりも早く野を駆け抜けることができ、その足で世界中を旅して回った。
嵐のような恋に落ち、蜂蜜のような愛を経て、運命の人と結ばれた。
本の世界は、まさに自分が生きているもう一つの世界だったのだ。
そんなはやてにとって図書館とは無限の世界の宝庫であり、自分が遂げることのできない未来の可能性が眠る場所だった。
病院のない日であれば開館時間に訪れては物語の世界に浸り、閉館時間となれば多くの本を借り出し家でさらに夢想する。そういう生活が続いていた。
それこそ、自分がどちらの世界に生きているのか、わからなくなってしまうほどまでだ。
そんな生活が変わるきっかけとなったのが緋山一葉との出会いだった。
今でも、昨日のことのように鮮明に覚えている。
窓から差し込む黄昏が図書館を黄金に染め上げる夕暮れ時、下半身が麻痺して立つことのできないはやては、本棚の高い位置にある本に必死に手を伸ばしていた。普段ならば、司書の人に頼んだりするのだが、その日はたまたま目に見える範囲には誰もいなかった。
はやては結局諦めようと、伸ばした手を戻した時に、後ろから別の人の手が伸びてきたのだ。それが一葉だった。
日本人の平均である癖の強い黒髪に、やや目つきの悪い鳶色の瞳。いわゆるイケ面というものではないが、中性敵でさっぱりとした顔つきをしているが、体つきも特別いいわけでもなく、どこにでもいそうな少年。だが、はやてはその少年を見た瞬間、足の爪先から髪の毛の一本に至るまで電気が駆け抜けたかのような衝撃を覚えた。
この少年は、自分と同じだと。
それは少年の鳶色の瞳の奥に静かに揺らめく黒い濁り。毎日鏡で見る、自分と同じ胸の内に埋めようのない洞を持った者の目だ。
その時はやては、、はぐれてしまった群れを見つけた渡り鳥のような歓喜に心臓が熱くなった。
これは運命だ。
一人ぼっちだった自分に、神様が仲間をくれたのだと。
はやてが一葉と仲良くなるまで時間はかからなかった。一葉が図書館にやってくるのは学校が終わってからの放課後の時間帯が多く、その時間から閉館の間で僅かな間ははやてにとって最も心の安らぐ時間になっていた。
気がつけば、一葉ははやてにとっての拠り所になっていたのだ。一葉と一緒にいるだけで、あたたかなものが胸を満たして行き、一葉と言葉を交わすだけで、灰色だった世界が鮮やかに彩られていった。
だからこそ、はやては一葉が明確に引いた最後の一線を越えようとはしなかった。
一葉とはやての距離は近い。それは間違いないが、それでも伸ばした手を先から飲み込まれていってしまいそうな闇が広がる境界が一葉にはあり、はやてはそれに触れられずにいたのだ。
それはきっと、はやてが一番共感した孤独の正体。夜の色に同化して、冷たい心臓を抱えてひっそりと生きる烏のような澱。
はやては恐ろしかった。
その澱に触れてしまえば、自分の前から一葉が姿を消してしまうのではないかということが。
今日だって、一葉は嘘ではぐらかそうとした。
寂しいことだが、それはつまり、はやてが踏み込んではいけない領分なのだ。
「でも、嘘やばれたとこで私には教えてくれへんのやろ? もうちょい、頼りにしてもろうてもええんやで?」
はやてはまつ毛を伏せて沈んだ声で言った。
一葉と過ごす穏やかな日々の反面、胸に立ちこめる黒い雲は決して晴れることはないのかもしれないという寂しさ。
自分だけが一葉を拠り所としてしまっている心境の複雑さ。そして自分では力になれないという歯がゆさがいつもはやての胸には白いシャツに染み込んだシミのようにあった。
「うーん……、本当にどうしようもなくなったら頼りに行くわ」
眉を寄せて困ったように笑いながら一葉は言う。
取り繕いや嘘は感じない。それでも一葉はきっと、自分だけの力で終わらせようとするのだろう。
はやてが群れからはぐれた渡り鳥だとしたら、一葉は孤高の獣というイメージがあった。狼や、ライオンといった狩りをする動物ではなく、例えるなら雄牛。どっしりと構えた強靭な肉体を持った一人ぼっちの獣。
誰かを巻きこむなんてことは絶対にしない。
はやては寂しさを一葉に悟られないように、努めて意味を浮かべながら薄い胸を叩いた。
「わかった。 そん時は私がどーん、と受け止めたる」
「おお、よろしく頼む」
それが話しの区切りだ。
はやてはこれ以上、一葉がなにをやっているか首を突っ込むことはしないし、一葉も話すつもりはない。
それは一葉とはやてがお互いの雰囲気、目に見えぬ重力のような関係性が成り立たせる言葉の要らない会話のようなものだ。
一葉はその区切りで正座を強要されいていた足を崩そうとする。
しかし……、
「誰が足崩してええ言うた?」
はやてがピシャリと言い放った。
「とりあえず、いっちーには正座のまま魔法についての説明でもしてもらおか?」
背筋が凍るほどの素敵な笑顔に、一葉は戦慄した。
◆◇◆