魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
「“えにし”があれば、きっとまた会える」
一葉はそう言った。腰につけた鎖に触れると、それは冷たい鉄でできているはずなのに、なぜか温もりが掌に広がっていく感覚がした。
初めてできた友達……。いや、友達と呼べるほどのものではない。それでも、初めて言葉を交わした同世代の少年は、フェイトにとって特別なものには変わりがなかった。
__きっと、また会える。 だって、“えにし”は繋がってるんだから……
もう一度会えた時には、もっといっぱい話したい。自分のことも、そして一葉の話しも聞きたい。それで、ちゃんと友達になって貰いたかった。
そんな温かい妄想が、フェイトの脳裏に浮かんでは溶けていく。
早く会いたい。そう思う気持ちは、フェイトが思っていたよりも、ずっと早く実現した。
二人が再び出会った場所。そこは戦場だった。
◇◆◇
「んで……、どんな知り合いなのさ?」
アゼルがタバコをふかしながら言った。既に日は暮れており、仮宿として使っている高級マンションのリビングにある大きな天窓からは月の光が差し込んでいる。
上下灰色のスウェットを身に纏ったアゼルはシャワーを浴びたばかりで、胡坐をかきながら白いソファの上で下世話な笑みを浮かべていた。
「……誰と?」
アゼルの言葉に、フェイトは憮然と答える。硝子製のオーバルテーブルを挟んで、シメントリーのソファの上で着替えもせずに、クッションを抱えて寝転がっていたがアゼルの視線から逃げるように、ゴロリと背もたれの方に寝返りを打った。
「まーた、とぼけちゃって。 一葉だよ、緋山一葉。 さっき、仲好く喋ってたくせに。 どんな関係なのよ?」
「……別に、兄さんには関係ない」
背中の向こうにあるアゼルの表情は見えないが、見なくても判る、にやついたアゼルの口調にフェイトは胸の中がささくれた。
アゼルに言われずとも、フェイト自身がまだ困惑しているのだ。友達になれるかも、と淡い期待を勝手に抱いたのは自分だが、それでも裏切られたという気持ちがあった。
あの森で、一葉と二度目の邂逅を果たした時に一葉はフェイトのことを敵を見る目で見ていた。そして、そのことに怯んでしまった。
相手が顔見知りだったというだけで、覚悟が揺らいでしまったのだ。一瞬でも大好きな母と、出会って間もない一葉を天秤にかけた自分が恥ずかしく思えた。
「フェイト、貴女は見ていないと思いますが、あの少年はかなりの手練でした。 今後の対策を立てる為には、今は少しでも情報が欲しいのです」
耳に届いたのは、リニスの声だった。
素体となっている山猫の姿に戻ったリニスは、アゼルの膝の上で丸くなっている。
以前は母の使い魔であったリニスは、今ではアゼルの使い魔として使役されており、以前は通夜のある焦げ茶色の毛並みだったが、主従契約を変更した際に色が変色し、今はくすんだ灰色の毛並みになっている。
そして、変わったのは色だけではなかった。
アゼルがどんな契約を結んだのかは知らないが、勤勉で優しかったリニスの人格は書き換えられ、今ではアゼル至上主義といった正確に変貌している。
使い魔は契約者との契約内容によって、その人格は左右される。そんな、魔導師として当たり前のことを理解してはいても、かつてのリニスの面影をフェイトはどこかで求めては寂しさが胸を差す。
フェイトは、今のリニスがどうも好きになれなかった。そして、同時にアゼルもだ。
「まー、情報以前に僕としては純粋な興味だよ。 可愛い妹に友達ができたんだ。 それは喜ばしいことじゃないか。 それが、たとえ敵でもね」
胃がムカムカする。アゼルはいつだってそうだ。触れられたくない箇所を遠回しに、だけど的確に真綿で締めるように刺激してくる。
フェイトは妙な居心地の悪さを感じて、腹筋を使って身を起してソファから降りリビングの出口へと向かった。
「お、行っちゃうの?」
わざとらしくアゼルが聞いてくる。
「シャワー浴びてから寝る。 明日も早いから」
フェイトが素っ気なく言うと、アゼルがさらに言葉を続けた。
「フェイトさぁ……、フェイトがどんな友達を作ってもそれは勝手だけど、一葉は止めておいた方がいいよ」
「どういうこと?」
フェイトは立ち止まって首だけ振り返る。そこには火の付いたタバコを咥えたアゼルが、揺らめく紫煙の向こうで、いつも通りの薄ら笑いを張り付けていた。
「言葉の通り。 きっと苦労することになるよ」
「……」
フェイトは黙って、アゼルの言葉を待つ。アゼルは咥えていた煙草を一息吸ってから煙を吐き出した。
「彼はフェイト側の人間じゃないんだよ。 一般的な人間じゃない。 今はつまらなくなってるけど、きっときっかけがあれば直ぐに化けの皮が剥がれると思う」
目を細めて言うアゼルに、フェイトは一抹の疑問を覚えた。
「兄さんは……、一葉と知り合いなの?」
フェイトが地球に着いたのは一週間前だ。そしてアゼルが合流したのは二日前。それまでは実家である時の庭園に居たはずだし、アゼルが以前に地球に来たことがあるなんて話しは聞いたことがない。その僅かな間に、一葉と出会ったことは考えにくいにもかかわらず、アゼルも一葉も、まるで昔馴染みのような口振りで話していた。
「知り合いといえば知り合いだし、違うといえば違うのかもね。 ただ、“緋山一葉”に会ったのは今日が初めてだよ」
アゼルの回りくどい言い方に、フェイトは眉根を顰める。
「ああ、別に無理に理解しようとしなくてもいいよ。 人間てのはね、一皮剥けば誰れだって爪と牙を持った獣なんだよ。 ただ、彼の持つ爪と牙は人の分を超えてるってだけでの話しさ。 そして、彼が今着ている化けの皮を脱いだ時に犠牲になるのが誰かなのかを、フェイトがわかってくれさえいればね」
アゼルはそこで言葉を区切って、その犠牲に誰がなるのかを煙草の先端で暗に示した。それは、フェイトと、アゼル自らだった。
「だったら、敵じゃなくて友達になれば大丈夫、なんて安直な考えは持たない方がいいよ。 牙を抜かれた獣は人に隷属しなければ生きていけないけど、野生の獣は人と混じり合うことなんて決してない。 孤高であり、孤独でなければならない。 彼はそういう生き物なんだよ」
「一葉は動物じゃない……。 人間だよ?」
そうだ、一葉はアゼルが言うような獣じゃない。そうでなければ初対面の相手にあんな優しさを見せるはずがない。
アゼルのわかったような口調に、擦れるような苛立ちを堪えるように、フェイトは腰にぶら下がる鎖を無意識の内に握りしめていた。
だが、アゼルはそんなことに気にも留めず言葉を続けた。
「確かに、今の彼はそう見えるかもね。 あれは擬態がうまいのか、それとも周囲の小教に流されて戸惑ってるだけなのかまでは分からないけど、どちらにしろ僕たちがジュエルシードを求め続ける限りぶつかり合うことになる。 一葉のことをどう想うのかは勝手だけど、覚悟はしておいた方がいいと思うよ?」
アゼルはそう言うと、咥えていた煙草の灰をテーブルの上に置いてある灰皿に落とした。それは、わざわざ時の庭園の自室から持ってきた、アゼルがいつも愛用している本物の人間の、それも子供の頭蓋骨で造られた灰皿だ。その無遠慮な悪趣味も、フェイトがアゼルを毛嫌いする要因の一つだ。
「覚悟もなにも……、私は母さんの為にジュエルシードを集めるだけ。 それを邪魔するんだったら、一葉だろうと誰だろうと関係ない。 排除するだけ」
フェイトは踵を返し、リビングから出ていく。背中から聞こえてきたアゼルの、「おやすみ」の言葉を無視して、フェイトは足を進めた。
◇◆◇
「あの少年は、アゼルがかつて生きていた世界の住人だったのですか?」
リニスはベッドの上で上半身だけを起こして、耳にかかる髪を指先で掻きあげながらアゼルに問いかけた。
明かりの落とされた薄暗い部屋を照らすのは、枕元のサイドテーブルの上に置かれたランタンだけだ。オレンジ色の淡い光が、リニスの露わになった肌を妖しく照らす。
リニスは掛け布団のシーツで胸元を隠してはいるが、一糸纏わぬ生まれたままの姿だ。そして、同じベッドの上に寝っ転がっているのはアゼル。部屋にはむせ返る生臭い匂いが充満しており、男女と情事の後であったことを顕にしていた。
「憎くはないのですか?」
枕に頭を預けて煙草を吸うアゼルを見下ろす形で、リニスは問いかける。
アゼルの母と契約を打ち切られた時に、リニスは本来の毛色を失ったが、どういうわけか瞳の色だけはそのまま残っていた。
コーヒー豆を炒ったような澄んだ瞳は、アゼルを純粋な視線で射抜く。
「憎いっちゃぁ、憎いね。 ジュエルシードを差し出して、仲間の命乞いをしたときの腑抜けっぷりを見たときなんか、マジでぶっ殺してやろうかと思ったもん」
「私が言っているのはそういうことではありません。 肉体が変わったとはいえ、かつて貴方を殺した人間なのですよ。 復讐しようとは思わないのですか?」
「んー……、そうだなぁ。 一葉が彼だと気がついた時に、憎悪よりも先に悦びが来たのは認めるよ。 彼との殺し合いは、愉しいものだったし、憎しみをぶるけることができる期待もあった。 だけど、僕が今なすべきことはそれじゃない」
アゼルはそう言いながら、寝転がりながらランタンの隣に置いてある灰皿に煙草を押しつぶし、そして裸体の身を起こした。
「僕には行くべき道がある。 復習や憎悪なんて感情は、路肩の石にしか過ぎないんだ。 それでも、こうして彼との邂逅を果たしたんだ。 このまませいぜい踊って貰うことにするよ。 彼にも、母さんにも、フェイトにも、僕が用意した舞台の上で……。 僕を……、アゼル・テスタロッサを終わらせる物語を終焉に迎える為もね」
ここではない、遥か未来を見据えるようなアゼルの横顔に、リニスは言葉にできないような郷愁を感じた。アゼルの契約内容は、それを交わしたその日から魂に刻まれている。
それでも、アゼルに哀れみを感じれずにはいられなかった。
リニスはアゼルの肩に頭を乗っけて体重を預ける。アゼルは覗き込むようにリニスの顔を見ると、深い憂いを湛えたその表情に、困ったような笑みを浮かべた。
「アゼル……。 私は、赦されることなら貴方とずっと……」
それは霞のような声だった。アゼルはリニスが紡ぐ言葉を続きを言わせまいと、自らの唇をリニスの唇に押しつける。
「ん……、んぁ……」
くぐもった声が、重ね合わされた唇から洩れる。最初は触れ合うだけの軽い口づけだったのに、お互いに情欲の炎がついたのか、腕を背中に回し合い求めあうように身体を求め合った。
貪るように絡め合う下の動きも、段々と激しいものになっていく。
「……ぷぁ」
喉ものとに押し込める窒息感に、二人は名残惜しげに唇を離すと撹拌された唾液が銀橋を作ってプツリと切れる。
アゼルは背中に回していた腕を、リニスの胸に移動させ押し倒す。リニスの頬は扇情に赤みが増し、蕩けた口元からは涎が垂れていた。
「もう一回しようか?」
アゼルが意地悪な意味を浮かべたまま、リニスに圧し掛かる。リニスは何も言わずに、アゼルの首に腕を回した。
◇◆◇
山を沿うようにして切り崩された螺旋状の山道を、低いエンジン音と振動を上げて走行するハマーの車内は非常に騒がしかった。
女三人寄れば姦しい、とはよく言うが、その車内という密室には女性が七人もいるのだから仕方がないといえばそうなのかもしれない。
進行方向に向かって左側の運転席に居るのが、一葉の母の亜希子。このジープの持主だ。
そして助手席にすずかの姉の忍。中部座席には左からなのはの姉の美由紀と母の桃子。そして後部座席には小学生組のなのはと、アリサ、すずか一葉の順で座っている。
軍用車両を改造したハマーは、シートがやや硬いが七人乗っても車内の空間には余裕があり、圧迫感というものを感じさせない構造になっている。旅行という浮ついた空気の中、それぞれがお菓子やジュースを口元に運びながら、好き勝手に会話を楽しんでいた。
ゴールデンウィークの初日を迎えた今日は、連休を利用した緋山家、高町家、月村家、バニングス家の合同慰安旅行の初日だ。と、いっても、アリサの両親と一葉の父は仕事の都合で来ることはできなかったが、当然、これにはベヌウとユーノもついてきている。
そして、アリサとすずかの愛でるという純粋な暴力に晒され続けていた。最初の方こそ、念話で助けを必死に求めていたのだが、しばらくするとその声は途絶え、今では死んだ魚のような目をしてぐったりとしている。
なのはは、そんな二匹を申し訳ない気持ちで見ていると、アリサを挟んで一葉がふと視界に入った。
車内の会話に参加することもなく、誰も話しかけるなと言わんばかりに、耳にはイヤホンが嵌め込まれていて、左の頬には湿布が痛々しく張られていた。
そんな一葉を見て、なのはは暗澹な気持が胸に落ちた。
月村邸での一件から今日まで、一週間の時間が流れた。そして、僅かなその間になのはと一葉の関係は呆気なく瓦解した。
あの日を境に、一葉はあからさまになのはを避けるようになり、アリサとすずかにも距離を置くようになり始めた。
学校に居る時も一人でいる時間を増やし、放課後も一人で帰る。ジュエルシードを探索するときは、姿は見せるがそれだけだ。
今日の旅行だって、ずっと前から企画されていたのに前日になって一葉が行きたくないと駄々をこねたらしい。 頬の湿布は肉体的な説得をした結果だと亜希子が言っていた。
急に余所余所しい態度をとり始めた一葉に対して、すずかは戸惑い、アリサは悩みがあれば相談すればいいのにと憤慨していた。
なぜ一葉が自分達と距離を置くようになったのか、その理由が黒い靄のように霞んでいてはっきりとせず、胸の中にもどかしさが募る。
一週間前の、あの森でなにかがあったことには間違いない。それでも、その“なにか”がなのはには判らなかった。
金髪の少年と、一葉が剣を交えて居たまでは記憶に残っている。だが、次に気がついたのはすずかの部屋のベッドの上だった。
自分が気を失っている間に、事態はどのようにして収束に向かっていったのか、そしてなぜレイジングハートに封印されていたジュエルシードが一つ減っているのか、ユーノに尋ねても言葉をはぐらかすだけでなにも教えてはくれはかった。
まるで自分だけが仲間外れにされているような居心地の悪さに、胸が締め付けられる。
あの時になにが起こって、どうして一葉が自分達から距離をとり始めたのか、なのははどうしてもその理由が知りたかった。
◇◆◇
「断固拒否する!!」
「なんでよ!? 別に問題なんてないでしょ!?」
「大有りに決まってんだろ! 頭沸いてんのか、お前は!?」
アリサと一葉の口論は激しさを増す。アリサはともかくとして、普段は冷静な一葉も興奮しているようで、お互いが目を見開きながら顔を紅潮させて唾を飛ばし合っていた。
しかし、激しい炎のぶつかり合いのような二人の雰囲気とは裏腹に、周囲の大人たちの見る目は微笑ましい。すずかも困ったように笑っているだけで、亜希子は爆笑している。
「頭が沸いてんのはそっちでしょ! 日本語が読めないの!?」
アリサが一葉と視線をぶつけたまま指差した先には、一枚の張り紙が張ってあった。“女”と刺繍された赤い暖簾の隣に在る、黄ばんだ張り紙には手書きの文字でこう綴られている。
“十歳以上のお子様の、ご入浴はご遠慮お願い致します”
「あんたは九歳! つまり、私達と一緒に入れるじゃないの!」
「入れるのと、入りたいは別問題だから! て、言うか羞恥心持とうよ少しは!!」
「さっきからズラズラ理屈ばっかりこねて、何様よアンタ!? おとなしくこっちに来なさいよ!!」
「そんな横暴にオレは屈しないぞ!」
二人の口論の原因は、一葉がどちらの温泉に入るかだった。普通に男湯に入りたい一葉と、女湯に連れて行って一緒に入りたいアリサの意見は平行線のままで、男湯と女湯を分ける暖簾の前で、既に十分以上が経過していた。
「別にいいじゃんか。 こんな別嬪に囲まれて風呂に入れることなんて、多分これから先の人生で一生ないぞ」
「母はちょっと黙ってて。 話しがこじれる」
にやついた表情でアリサに助け船を出そうとする亜希子に、一葉はピシャリと言った。どう考えても、この状況を楽しんでいるようにしか見えない。なのはは、アリサがなにを想って一葉を女湯に誘っているのかはわからないが、その意見には胸の内で賛成していた。
勿論、裸を見られることが恥ずかしくないわけではないし、一葉の裸を見ることもそうだ。
だが、それ以上になのはは恐怖していた。
一葉が先週の一件から、不自然に距離を置き始めたことはなのはにもわかっている。そして、このまま一葉が自分達のところに戻ってこないのではないかという疑心が恐怖に代わっていたのだ。
一葉は良くも悪くも、なのは達のグループの中核の人間だ。一葉がいたから、アリサとすずかと今の関係を築くことができ、そしてそれを今日まで維持し続けることができた。
もし、一葉がこのままグループから抜けてしまえば、そのまま瓦解へと繋がることになってしまうかもしれない。
アリサはきっと、最近の雰囲気を肌で感じ取っていたのだろう。一見して高飛車な性格と思われがちだが、アリサは最低限のモラルは持っている。そうでなければ、一葉を女湯に誘うなんて我儘を言うはずなんてない。
なのはだけでなく、すずかもまたアリサを応援するような視線を送っていた。今回の騒動の渦中になのははいる。その後ろめたさもあり、自分から誘うことはできなかったが、一葉とゆっくり話し合う機会を設けたかった。
今回の温泉旅行は、絶好の機会だ。いつもとは違う状況ならば、今日まで噤んできていた口も緩むかもしれない。その時に、一週間前、気を失っている間にいったいなにが起きたのかを聞くつもりだった。
今のところ表立って意見をぶつけ合っているのはアリサと一葉だけだが、女性陣の誰も一葉と同じ温泉に入ることに対して嫌な顔をしていない。小学生の子供はひとり混じったところで、どうとも思わないからだろう。
このままアリサが押し続ければ、そのうちに一葉が折れるのではないかという希望を持っていたのだが、二人の口論の均衡を崩したおはなのはの父である士郎だった。
「まあまあ、落ち着いてアリサちゃん。 このまま一葉くんをそっちに連れてかれちゃうと、僕が一人になっちゃうよ。 それは勘弁しもらいたいなぁ」
柔和な笑みを浮かべながら、士郎は自分の腰のあたりまでしか身長のない一葉の肩に手を置く。その口調には有無を言わさない強みがあり、アリサはウっと押し黙ってしまった。
「まぁ、士郎さんがそう言うなら仕方ないかなぁ。 あーあ、何年かぶりに一葉と裸の付き合ができると思ったのになぁ……」
「すいません、亜希子さん。 ただ、せっかくの温泉なのに一人きりっていうのはちょっと寂しすぎて」
「いやいや、わたしゃその気になればいつでもできるんで」
最初に折れたのは亜希子だった。ただ、その表情は悪ふざけの笑みを浮かべていて最初から本気でなかったことが窺える。
士郎の言うとおりに、一葉を除けばこの場に居る男性は士郎だけだった。恭也は恋人の忍と旅館付近の散歩に行ってしまっている。
「うぅ……ッ。 おじさんがそう言うなら……」
アリサが悔しそうに喉を鳴らしながら言うと、一葉がなにかを思いついたように手を叩き、口を開いた。
「よし。 じゃぁ、オレの代わりにベヌウを提供しようじゃないか」
『ちょっと! なに言ってるんですか!?』
一葉の突然の言に、ベヌウが念話でだが空気を裂くような奇声を上げた。この旅館に来るまでの間、アリサとすずかに散々弄ばれた恐怖があり、ようやくそれから解放されると思っていた矢先のことだ。
「いや、アンタの代わりにペットって……」
アリサが消沈した声色で言うと、その様子を見て士郎が口を開いた・
「アリサちゃん。 今は一葉くんがそう言ってくれてるんなら良いじゃないか。 それに温泉に入るのは今だけじゃないし、ここの温泉は二十四時間ずっと開いてるからいつでも誘えるよ?」
「ちょっと! 士郎さん!?」
今度は一葉が空気を裂くような声を上げた。だが、士郎はそんなことを気にする様子もなく、「さ、行こうか」と一葉の肩においていた手でそのまま襟首をつかみ、ズルズルと男湯に引きずりこんで行ってしまった。
ただ、僅かな隙に一葉の肩に居たベヌウを、アリサはしっかりとかっぱらっていたのだから、アリサはアリサで油断できない存在なのかもしれない。
「次は夕食の後に入るからね! 逃げるんじゃないわよ!」
アリサが左腕でベヌウを胸に押しつけながら、右手は暖簾の向こう側に消える一葉を指差しながら叫ぶ。
『高町嬢、高町嬢。 できるなら、私は今すぐに一葉の方に向かいたいのですが……』
なのはの頭の中にベヌウの声が響く。チラリとなのはがベヌウを見ると、翼を広げるどころか、身動きすら取れない状態だ。
『うーん……、ごめんね。 諦めて』
『……でしょうね』
落胆のため息とともに、ベヌウは吐き出すように言った。こんなに呆気なく諦めるということは、心のどこかでは最初からこうなることを予想していたのかもしれない。
『覚えてくださっているとは思いますけど、私は一応機械であるということを頭に入れておいてくださいね。 ある程度の耐水性があるとはいえ、長時間水に浸かることは想定されて設計されてはいません。 できれば、長風呂は避けて欲しいのですが……』
『うん。 わかった。 アリサちゃんたちに、それとなく言っておく』
『……温泉とは、日本人にとっての心の癒しになるそうですね。 自然の景観を見ながら湯に浸ると、心が緩むと聞きます。 温泉は初体験ですが、もしかしたら私も同じような心境になってしまうかもしれませんね』
『え?』
脈絡も為しに言いだしたベヌウの言葉に、なのはは怪訝な声を出した。だが、ベヌウはアリサの腕に抱かれたまま淡々と言葉を続けた。
『もし、そのような時になにかを聞かれれば、ついつい口を滑らせてしまうかもしれません。 これは、気をつけねば……』
『えと……。 それって……』
ベヌウの言葉に、なのはは一瞬困惑した。わかりやすすぎるほど遠回しなその言質は、聞きたいことがあれば何でも答えてやるという副音声が見え隠れしているような気がしたからだ。
ベヌウがなぜ、急にそんなことを言い出したのかはわからない。だが、この機会を逃すと自分の知りたいことを知ることは二度とないと悟った。同時に、ここが分岐点であるということも。
きっと、自分は試されているのだ。ここで逃げたら、一葉もベヌウも自分の腕が届かない遠くまで行ってしまうのだろう。あの日の森の中で、一体なにが起こったのかは知らない。だが、知らないでは済まされないことが間違いなく起こったのだ。
まずは知らなければいけない。夕暮れのあの日、森に呑みこまれ壊れた街を見た時の覚悟を思い出せ。
なのはは、襟元を強く締めながら、ベヌウを抱いたまま暖簾の中に消えていくアリサの後を追った。
◇◆◇