魔法少女リリカルなのは Broken beast   作:やまあざらし

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 少し集めのお湯に肩まで浸かると、一葉はふー、と大きく息を吐いた。

 肩まである癖っ毛は後ろで一つに束ねている。頭の上には白いタオルが置かれていて、正しい温泉の入り方を体現していた。

 一葉の隣に居る士郎を同じ風体をしている。傍から見れば、親子のように見えるかもしれないが、士郎は三十代後半とは思えないほどに、引き締まった筋肉をしている。そして、身体全体に残る痛々しい傷跡は、どう見ても堅気には見えない。

 今でこそ喫茶店のマスターをやっているが、昔は傭兵まがいの仕事に就いていたらしいい。なのはが小学生に上がる頃に、仕事で大けがを負って生死の境を彷徨ったらしい。幸い後遺症も残らなかったのだが、それをきっかけに引退したのだと、緋山家で亜希子と信之とともに晩酌を交わしてほろ酔い状態になっていた士郎がポロリと零していた。

 

 「本当は日食に合わせて来れればよかったんだけどねぇ……」

 

 「まぁ、その辺は仕方ないでしょ。 太陽系は人間に都合を合わせちゃくれませんよ」

 

 「確かに。 間違いない」

 

 一葉が、温泉に解されて血からの抜けた声で言うと士郎は笑った。

 一年ほど前からニュースで騒がれている皆既日食は、本来だったら今年のゴールデンウィークと重なるはずだった。百年に一度の規模で、その最良観測地が海鳴市だということもあって、最近は街興しを盛んに行っていたのだが、どういうわけか太陽系が重なる時期が少しずれているらしい。

 

 「それでも、この景色が見られただけで十分ですよ。 これ以上を望むと罰が当たりますって」

 

 一葉と士郎の視線は、先ほどからずっと温泉から見える露天の景色に固定していた。岩風呂から揺らぐ湯気の向こう側には、都会では見ることができない、突き抜けるような広い空が昼と夜が混じり合う藍色に染まっていた。逢魔時の空は、緩やかに闇が支配していき、連なる山脈を呑み込んでゆく。

 夜のとば口の、ひんやりとした空気の中で入る温泉は心地が良かった。

 一葉が目を細めて思っていたことを言うと、隣から笑いをかみ殺すような声が聞こえてきた。

 

 「……どうしたんですか?」

 

 尋ねると、士郎は頭の上に乗せていたタオルの位置を整えながら答えた。

 

 「いやぁ、なんだかんだで結構楽しんでるみたいでよかったな、って思ってね。 亜希子さんの話しだと、今日の旅行はあんまり乗り気じゃなかったみたいだからさ」

 

 「ずっと拗ねててもしょうがないですからね。 来たなら来たで、楽しまないと損でしょう」

 

 「それは、その通りだけど……、切り替えが早いねぇ」

 

 一葉の言葉に、士郎は顔を綻ばせながら言った。

 二か月も前から計画されていた、四家族による今回の旅行で、一葉は自分がこの場に居ることが場違いな気がしてならなかったが、それでも来てしまったものは仕方がない。

 気持ちを切り替えて、出来るだけ楽しもうと思っていた。

 

 アゼルとの邂逅から、一週間の時間が過ぎた間にジュエルシードの反応は途絶えた。おそらく、アゼルとフェイトが封印して回っているのだろう。

だが、それならばそれでもいい。ユーノには申し訳ないが、一葉にとってジュエルシードは大した問題ではない。一葉が最も恐れていることは、なのはのことだった。

 

なのはのことを考えると、墨を飲んだかのような気持ちになる。

 

 なのはは気性は争いごとに向いていなさすぎる。人の哀しみも、憎悪も知らずに成長した温室で育てられた花のような無垢な性格のなのはを、哀しみと憎悪しか知らないアゼルの前に晒すわけにはいかない。

 同じものを目標にして動いているのであれば、近い未来に、間違いなく再びぶつかり合うことになるだろう。

 なのはを、これ以上深みにはまらせるわけにはいかないのだ。

 しかし、一葉のそんな想いとは裏腹に、まるであの森での失態を取り戻そうとするかのような勢いで、なのはは以前にもましてジュエルシードの探索に熱意を入れるようになり始めた。

 ユーノがそのことを後押ししていることを、一葉は知っていた。

 確かに、得体の知れない力を持つ自分よりも、比較的平均の位置に居るなのはを頼ろうとするのは理解できる、だが、それでも九歳の……それも女の子を自分の都合で戦場に立つように促すユーノの神経が信じられなかった。

 ユーノにも事情はあるし、もしかしたらそれがユーノの世界での当り前なのかもしれない。

 それでも、なのはがこのままジェルシードを探し続けることは納得できなかった。

 

 ならば、自分が戦うしかない。

 なのはを戦場に立たせないためには、アゼルと戦わせないためには、自分が強くなるしか道は残されていない。

 

 例え代償に、“緋山一葉”を失うことになっても……。

 

 「どうしたんだい、怖い顔して?」

 

 「お?」

 

 士郎の声に、士郎は思考の海から引き揚げられた。自分でも気が付かない内に、眉間に皺が寄っていたらしい。一葉は石気を引き締める為に、両手でお湯を掬って自分の顔に叩きつけた。

 ここに来る途中の車の中で、ある程度の整理はつけてきた。今日はめいっぱい楽しもうと決めてきたのだ。もしかしたら、これが自分が自分でいられる最後の行楽になるかもしれないからだ。

 

 アゼルと剣を交えた日から、今日までの間に一葉の中で異変が起きていた。

 ぽっかりと口を開けた暗闇の中から、誰かがこっちへ来いと誘う声が聞こえてくる。最初は木霊のような小さな声だったのに、日に日に輪郭を帯びどんどん近づいてくる。

 それはきっと、自分の獣の部分。視界に入る誰もかもを食い千切ってでも、血を求め続ける、理性のない本能。誰を不幸にしても、どんな世界が待っていても、一度戦が始まれば、更なる戦を求め続けずにはいられない存在の声だ。

 

 「なにか悩みごとかい?」

 

 「まぁ、悩みが多い年頃ですから」

 

 「……その悩みには、うちの娘も入ってるんだよね?」

 

 鋭すぎる、さりげない士郎の言葉に、一葉は思わずドキリとした。一葉が士郎を視線だけ動かして盗み見ると、士郎は目の前の景色に向いたまま言葉を続ける。

 

 「ここ最近ね、なのはが夜によく出歩いてるみたいなんだ。 本当なら、親としては叱らなきゃいけないんだろうけど、どうもただ遊び歩いてるというわけでもないらしい。 一葉くんは、なにか知ってるんじゃないかな?」

 

 「……」

 

 「この間も、忍さんの家でなにかあったそうじゃないか。 なのははその時のことをなにも言わないけど、恭也がね……。 本当に申し訳ないことをしたよ……」

 

 「今日の恭也さんのなり、やっぱり士郎さんが犯人ですか……」

 

 「ああ、あれで溜飲を下げてくれるとありがたいんだけどね」

 

 一葉と士郎が言っているのは、今日の恭也の風体のことだ。頭と右腕には包帯が巻かれ、頬には一葉が貼っている湿布よりも大きな絆創膏が貼られていた。

 その姿は見ている方が痛々しく感じるほどのものだ。

 

 「まったく、小学生に暴力をふるうなんてなにを考えてるんだか……。 普段の修行に甘えがある証拠だ」

 

 「いやぁ……、それでもあれは少々やり過ぎでは……」

 

 出立の直前、高町家の車に乗り込む恭也の煤けた表情を思い出すと、なんとも言えない気持ちになった。よほど強烈な折檻を士郎から受けたのか、一葉と目が合っても気まずそうに視線を逸らすだけでそれ以上のことはなにもなかった。

 

 恭也が士郎に折檻を受けた理由。それは月村邸の一件でのことが発端だ。

 あの時、一葉がなのはを担いで森を抜けると、出迎えたのは顔面を蒼白にしたすずかと、アリサとファリン。そして冷静な面持ちを保っていた忍とノエルと、鬼の形相をした恭也だった。

 一葉が森の中で倒れていたのを見つけて運んで来たと説明しながら、なのはをノエルに引き渡したのと同時に、恭也が突然一葉の胸倉を掴んで壁に叩きつけたのだ。

 その視線からは、怒りを憎悪、そして隠された侮蔑が滲んでいて、言葉にせずとも恭也がなにを考えていたのかが直ぐに理解できた。

 

 “お前がなにかしたのだろう”、と。

 

 一葉は背中を響かせた衝撃に奥歯を噛んで耐えながら、なにか喋らなければと思うが、頭の中に浮かぶ言葉はどれも声にはならずい、ひっそりと沈んでいく。

 左腕と両足が焼けるように痛かった。“篠”を放った時の反動か、その痛みのせいで頭の中が鈍感になっていたのだ。

 これは後になってわかったことだが、この時に一葉の左太腿の筋肉が肉離れを起こしていた。左腕も右足も、その一歩手前だった。

 “篠”は高速の、突きの連続技。必要なのは上腕の筋肉と腰のしなやかさだが、それ以上に柔らかく、強靭な太腿の筋肉群が重要になる。

 未だ九歳で未発達の一葉の筋肉はそのどれもをも持ち合わせてはおらず、たった一撃を放っただけで、筋肉の内出血が皮膚から滲み出るほどに身体がボロボロになってしまっていた。

 すずかたちの狼狽の声が遠のいていくのと同時に、目の前が平板になって、そのまま意識を失ったわけである。

 

 目を覚ました時には病院のベッドの上で、なぜかはやてが顔を覗きこませていた。

 気を失った一葉の外傷に気が付いた忍たちが、自家用車で病院まで運んで来たのだが、その光景を外来で来ていたはやてが偶然目撃して、ずっと付き添っていてくれたらしい。

 今は家に連絡を入れに行き席をはずしているが、恭也は忍にこってりと絞られていたらしい。

そして、なぜかはやてから物凄く怖い顔で説教を受けたのは、また別の話しだ。

 

 「鞭を惜しめば子供はダメになる。 叩くべき時は容赦なく叩くよ、僕は。 それに、アフターケアは忍さんがやってくれるだろうし……、今頃慰めて貰ってるんじゃないかな?」

 

 はぁ、と一葉が曖昧に相槌を打つと、士郎は話しを本題へと戻した。

 

 「それで、話しを戻すけど……。 亜希子さんの話しでは、一葉くんも最近夜に出歩いてるみたいじゃないか。 聞く限りじゃ、その時間帯はなのはが外出してる時間と重なるんだよ」

 

 士郎の言葉に、一葉はギョッとした。家を抜け出す時は細心の注意をはらっていたはずなのだが、亜希子にはどうやら通用しなかったようだ。

 元々、館が異常に鋭いところはあったが、正直ばれているとは思っていなかった。

 だが、気が付いているのになにも言ってこないということは、それなりに信用はされているということなのだろうが、本当のことを言うのはやはり躊躇ってしまうのだが、この周りに誰もいない状況でこう言う話しを切りだされるということは、士郎はずっと二人きりで話せる機会を窺っていたのだろう。

 

 「なるほど、その話しをする為に二人きりになる機会を作ったわけですか……」

 

 「その通り。 勘がいい子は好きだな、僕は」

 

 あっけらかんと言う士郎に、一葉は肩を竦ませながら、呆れたように溜息を吐いた。

 

 「確かにオレが関与してることは認めますけど、そのことはなのは本人から聞きゃいいじゃないですか」

 

 「僕は口下手だからねぇ。 人から情報を聞き出すのが得意じゃないんだよ。 それが自分の娘だったらなおさら、可愛すぎてなにも聞けなくなる」

 

 「口下手の割にはいい感じに追い込まれてる気がするんですけど」

 

 「それだったら、このまま全部喋ってくれるとありがたいんだけどね」

 

 「それは断ります。 なのはが言ってないんだったら、オレの口から言っていいことじゃないんで」

 

 一葉がきっぱりと言うと、士郎は困った笑みを作りながらお湯を身体の顎先まで沈めた。

 

 「まぁ、一葉くんならそう言うとは思ってたけど、あまり危険なことに首を突っ込んじゃいけないよ。 君と話してると、時々忘れるけど一葉くんもまだ子供なんだから」

 

 「……わかってますよ。 自分でできることと、できないことの区別ぐらいはついてます」

 

 士郎の言葉に、一葉はズキリとした痛みを覚えた。こういう心遣いは苦手だった。

 

 「わかってるんならこれ以上はもう言わないけど……たまには周りの大人たちも頼りなさい。 僕も、力になってあげるから」

 

 「……はい」

 

 一葉はこの時、士郎が本当に言いたかったことが理解できていなかった。誰にも頼らないというその強さが、後に悲劇が一葉を飲みこむことになる。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 『え? じゃあ、一葉くんはずっと魔法の特訓をしてたの?』

 

 『ええ。 ここ最近のジュエルシードの探索に姿を見せなかったのはその為です。 朝早くから夜遅くまでやっていますよ』

 

 ベヌウは溜息混じりの念話で言った。なのはとベヌウがいる場所は、熱のこもった湯気が立ち込める広い室内温泉だ。薄や色のタイルが敷き詰められた浴室の真ん中には、八角形の浴槽が埋め込まれていて、なのはとベヌウは二人でお湯に浸かっていた。

 他のみんなは外の露天風呂に言っていて、浴室の一面に仕切られた硝子戸の向こう側に居る。

 硝子戸から差し込む黄昏は、浴室に立ちこめる湯気まで彩り、その上を火の木の良い香りが彷徨している。

 なのはは室内温泉を堪能してから露天風呂の方に合流すると皆に嘯いて、ベヌウと話しをする為にここに残った。

 ベヌウはなのはの隣で、浴槽の縁で濡れ場を畳んでいるだが、ユーノはアリサに拉致られてしまったので念話だけでの参加となった。

 

 家族と、友達と一緒の旅行。それは心が浮かれるべきはずのことなのに、なのはの気持ちは鉛を飲んだかのように沈んでいた。

 

 『先週の、月村邸での出来事は聞き及んでいると思いますし、高町嬢は直ぐに気を失ってしまっていましたが、それでも一葉の実力の一旦はその目で見たはずです。 私自身、一葉があれほどの実力を持っていることは驚きましたが、所詮は諸刃の剣。 あの時の怪我だって、まだ完全には癒えてはいないというのに……』

 

 「え?」と、なのはは念話ではなく肉声で漏らした。諸刃の剣とはどういうことなのだろうかという思いもあったが、それよりも、今ベヌウは怪我と言ったか、と。

 

 そんななのはの反応に、ベヌウは冷え冷えとした視線でなのはを見ていた。

 

 『なにも、聞かされてはいないのですか?』

 

 「どういう……、こと?」

 

 白い室内がシン、と静まり返る。

 温かなお湯に身体を浸しているにもかかわらず、芯から冷え込んでしまいそうな空気と重さに押しつぶされてしまいそうになる。

 なのははベヌウの言葉の意味がわからなかった。確か、あの時に一葉は怪我らしい怪我はしていなかった気がする。それこそ、自分が気を失う前までの話しだが、今日までに一葉はそんな素振りを見せていなかった。

 それに、あの少年……。確かアゼルと名乗っていた少年が持っていた武器は太刀だった。あんな物騒なもので傷つけられたら、今頃温泉に来ているどころの騒ぎでは済まないはずだろう。

 なのはが思考の渦にはまっている様子を見て、ベヌウは大きな溜息を吐いた。

 

 『その様子だと、本当になにも知らないようですね……。 私はてっきり、ユーノ・スクライアから聞き及んでいるものだと思っていましたよ』

 

 ベヌウの言葉に、なのははこめかみがズキリとした。思考の渦は相殺され、一葉だけでなくユーノでさえ自分を除け者にしようとしている事実だけを直ぐに認識した。

 

 『一葉はあの時、自らの技の反動で肉と腱が切れかかっていました。 今は、痛みは引いたようですが、自分の持つ技術が使えない以上、魔法の力に頼るしかないというのが一葉の至った結論でした。 その意見には私も賛成だったのですが、今の一葉は自分の身体を苛め過ぎている。 今度は自分が自分の身体を壊してしまうかもしれません』

 

 『……ユーノくんは……、知ってたんだよね? 一葉くんが怪我したこと。 なんで……、教えてくれなかったの?』

 

 なのはは姿に見えないユーノに問いかけた。そこにどんな表情があるのか、なのはにはわからないが、一瞬だけ声が揺らいだ気がした。

 

 『それは……、なのはに余計な心配をして欲しくなかったから……』

 

 ユーノの、僅かに動揺する気配が伝わってきた。ユーノの言葉は、きっと真意には間違いないのだろう。決して嫌がらせや、投げやりな気持ちで口を噤んでいたとはなのはも思っていない。

 だが、ユーノのそんな言い分に、なのはの感情は一瞬で沸騰した。

 

 『余計な、って……、余計な心配ってなに!? 一葉くんが私たちのせいで怪我をしたことは余計なことなの!? なんでユーノくんはそんなことが言えるの!?』

 

 なのはは辛そうに声を震わせた。細張った指で自分の顔を覆う。

 

 恥ずかしかった。情けなかった。無知を振りかざして、いつも通りに一葉に接そうとしていた自分を、一葉は一体どういうふうに見ていたのだろうか。

 怒りを感じていたのだろうか、それとも呆れていたのか。胃を鷲掴みにされたかのような気持ち悪さがなのはの心に滾々と沸き上がる。

 そんな感情の吐き出し方をなのはは知らない。ただ、際限なく溜めこむことしかできなかった。

 

 『黙っていたのは、悪いと思ってる。 だけど、なのは。 この際だから言っておくよ。 一葉は普通じゃない、はっきり言ってどこかおかしい。 彼の傍に居ると、なのははきっと不幸になる。 そうなる前に、一葉から離れるべきだ』

 

 『そんなこと……! ユーノくんが決めることじゃないでしょ!? 私の友達は私が決める!』

 

 声を荒げるなのはに対して、ユーノは冷静な声色で言葉を続ける。

 

 『なのはだって、本当は気が付いてるんでしょ? 一葉が普通じゃないってことぐらい。 彼は異常だ。 それは、一葉の持つ能力のことだけじゃない。 立ち振る舞いや、雰囲気、一葉の存在そのものが、どこか不自然なんだってことぐらい……』

 

 『……っ!』

 

 なのはは喉に声を詰まらせた。ユーノが言葉にしたこと、それはなのはが心のどこかで思っていたことでもあるからだ。

 一葉がアゼルと邂逅したあの日から、一葉が一葉でなくなってしまうような奇妙な感覚を覚えていた。そして、その感覚は落ちることのない油のようにねっとりとなのはの心にこびりついて、いつの日か些細な火種が煉獄の炎を吹き上げるのではないかという、胸を締め上げる不安が広がっていた。

 

 『なのはは知らないだろうけど、一葉とアゼルって奴は知り合いだったんだ。 多分だけど、一葉はなにかを企んでる。 なのははいいように利用されてるだけなんだよ。 だから……』

 

 『少し黙りなさい、ユーノ・スクライア』

 

 氷のように鋭い声が、ユーノの声を遮った。

 

 『貴方はよく、私の前でそこまで一葉を悪し様に語れますね。 少々、驚きましたよ』

 

 『今のが……、僕の素直な感情だよ。 僕の言ってることが間違ってるっていうんなら、教えて欲しい』

 

 『一葉がなにも語らないのであれば、それは貴方達が知らなくてもいいことです。 そして、それは私も同じです。 貴方達には、貴方達が弁えるべき分があります』

 

 『……、なにも言えないってことは、僕たちに知られちゃまずいことがあるんじゃないのか?』

 

 『やめてよ! 二人とも!!』

 

 なのはは、泣き出してしまいそうな声を上げた。ユーノとベヌウの間に漂っていた不穏な空気は、なのはの声に遮られ、双方とも口を噤んだ。

 

 なのはは怖かった。その場限りの慰めを口にしたとしても、再びベヌウに詰られそうな気がして。身体が震えてしまいそうなほどに、それが怖くて……。いや、これは恐怖じゃない。寂しさだ。

 いつも当たり前に隣に居た人が、突然遠くに行ってしまうのではないかという寂しさは、なのはをまるで胸に洞があいたかのような気持ちにした。

 

 『高町嬢、一葉が戦う理由は貴方にあるのですよ』

 

 『……うん』

 

 『わかっているのならば、ジュエルシードから手を引いてください。 高町嬢が諦めてくだされば、一葉もまた戦う理由がなくなります。 これ以上、誰も傷つきません』

 

 『……ごめんなさい。 ベヌウさん』

 

 なのはは、呟くような小さな声で謝った。

 

 『なぜですか? ジュエルシードの回収ならば、保障は出来かねますが私がなんとかしましょう。 それとも、なにか他の理由があるのですか?』

 

 理由なんて、わからない。もしかしたら無いのかもしれない。

 ユーノが困っていて、一葉と共通の秘密が持てて、最初はそんな軽い気持ちで始めたジュエルシードの探索だった。

 だが、今は違う。言葉にはできないが、きっとここで引いてはいけないのだと、なのはは確信にも似たものを持っていた。

 

 『ここで諦めたら……、ここで逃げちゃったら、本当に私の前から一葉くんがいなくなっちゃう気がするの……。 ユーノくんの言ってることも、ベヌウさんが言いたいこともわかるけど……。 だけど……、私はこのまま一葉くんがいなくなって、後悔することしかできないなんて絶対に嫌だから……』

 

 『ならば、その想いを一葉に伝えてください。 高町嬢がそう言うのであれば、私はこれ以上は止めることはしません』

 

 『……うん』

 

 なのはは、憂鬱そうな表情で長いまつ毛を伏し目がちにして頷いた。ベヌウの言うとおりにして、自分の気持ちを一葉に伝えてもそれをちゃんと言葉にできるのかわからず、胃のあたりがじくじくした。

 いや、それよりもわからないのは自分の感情だ。

 一葉がいなくなるのは嫌だ。一葉が隣に居てくれなければ嫌だ。一葉が自分のことを見てくれなければ嫌だ。どんな時でも、傍に居て欲しい。

 こんな感情、アリサやすずかに対してはない。しかし燻ぶるような、それでいて叫びたくなるような狂おしい感情が一葉に対してあった。

 それがいったいなんなのか、なのはにはわからない。だけど、絶対に見て見ない振りをしていいものではないということはわかる。

 ただ、無くすだけなのは嫌なのだ。この手から全てが零れ落ちて、なに一つ掴めないまま、なに一つ守れないままに。

 

 『話しはこれで、お終いにしましょう。 高町嬢、そろそろ露天の方に向かわないと、御友人が迎えに来ていますよ』

 

 ベヌウの言葉に、なのはは硝子戸に視線を移すと、アリサが迎えに来ていた。なかなか来ないなのはに、痺れを切らしたのだろう。

 なのはは慌てて湯船から身体を起こすと、ベヌウの身体を抱き上げたお湯からあがった。

 

 お風呂を出たら、一葉くんとちゃんと話しをしよう。なにを話していいのかわからないし、どう言えばいいのかもよくわからない。それでもなにかを伝えなければ、なにも始まらないし、掴むこともできないのだ。

 なのはは密かに決意して、アリサの元へと向かった。

 そして、見落としていたのだ。ベヌウの、深い憂いを湛えた新緑の瞳を。

 まるでその瞳は、この物語がハッピーエンドでは決して終わらないと悟っているかのような、そんな瞳だった。

 

 

 ◇◆◇

 

 

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