魔法少女リリカルなのは Broken beast   作:やまあざらし

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23!

 「なんで!? どうして一葉くんを行かせたの!?」

 

 「落ち着きなさい、すずか」

 

 「落ちつけるわけないでしょ! 私、一葉くんを追いかける!!」

 

 「待ちなさい!!」

 

 裸足のまま飛び出して、夜の闇に消えていった一葉を追いかけようとしたすずかの腕を、忍は咄嗟に掴んだ。

 

 「離してよ!」

 

 「ダメに決まってるでしょ! いいから、少し落ち着きなさい!!」

 

 すずかは掴まれた忍の手を振り払おうと乱暴に暴れるが、小学生の体格で大学生の忍に叶うはずがない。仇敵を睨みつけるような視線で、すずかは忍を見上げた。普段温厚なすずかがこれまでに凶暴な感情を顕にするなんて、忍でさえ初めてだった。

 それだけ一葉を想っていたのか、一葉という友達がいる世界での温もりを大事にしていたのか忍にはわからない。それでも、忍は表情を強張らせて、すずかに突きつけなければあらない言葉があった。

 

 「すずか……、一葉くんのことは……。 このまま戻ってきても、戻ってこなくても忘れなさい」

 

 「……え?」

 

 すずかは一瞬、忍がなにを言っているのかわからなかった。しかし、理解した瞬間に刃のような衝撃がすずかの全身を切り裂いた。

 

 __なんで? なんでそんなことを言うの? どうして私に友達を忘れろって、残酷なことが言えるの?

 

 頭の中で忍の言葉が火のようにぐるぐると渦巻く。なにをどう尋ねていいのかわからなくて立ち竦むだけのすずかに、忍はさらなる言葉の刃を斬りつけた。

 

 「あなただって気が付いてるんでしょ? 彼がまともな人間じゃないってことぐらい。 この旅行が終わったら、一葉君には私たちに関する記憶を消させてもらうわ」

 

 視界がぐにゃりと歪んだ。身体は冷え切っているのに、掴まれている腕が熱くて痛い。頭の中も、心臓も、全てが焼けつくような痛みで喉が苦しくなった。

 

 「ど……して……?」

 

 「彼が危険だからよ。 それに私たちのことになにか感づいてる素振りを見せることもあるし、このまま放っておくわけにもいかないのよ」

 

 「だったら……事情を話して契約を交わすとか……! 他にも手があるじゃない! なんでそんな……!」

 

 「一族との契約は最終手段よ。 そう易々と使っていいものでもないの」

 

 「……っ! じゃあ、なんでお姉ちゃんは恭也さんと契約できたの!? なんでお姉ちゃんはよくって私はダメなの!? そんなのおかしいよ!!」

 

 すずかは、自分でもゾクリとするほどに厳しい声を出した。廊下の蛍光灯に照らされた闇の中で、忍は気まずそうに目を伏せ、なにかを喋ろうとしてから躊躇い、再び唇を動かした。

 

 「そうね……、お姉ちゃんばかりずるいよね……。 だけどね、すずか。 すずかも見たんでしょう? ここで、一葉君の影を……。 あの……、禍禍しい獣の姿を……」

 

 忍の言葉に、すずかがビクリとした。“あれ”を、あの一葉の影に潜む雄牛の影を忍は見たのか!?

 あの、禍禍しいまでの瘴気を纏った獣の姿を見てしまったのか!?

 

 表情を強張らせるすずかは、掴まれた腕から微かな振動が伝わってくるのを感じた。それは、忍が顔を青くして震えている振動だった。

 

 「私も、あれを見たわ。 すずか。 なんで恭也はよくて一葉君はダメかって、本当はわかってるんでしょう? 恭也は人だし、私たちも人間ではなくとも人として振舞うことはできる。 でも、一葉君は違う。 一葉君は、人間ではあるけど人じゃない。 私たちよりも、遥かに化け物じみた存在よ。 そんな危険な存在を、私は月村の当主として見過ごすことはできないの」

 

 忍は、ここで見た一葉を思い出す。あれを目にしたのは偶然だった。恭也との散歩の帰り道、この中庭から見た自分の妹と同い年の少年が発するおぞましい空気。 獣氣、とでも呼ぶべきなのだろうか……。いや、あれは普通にケダモノのものだ。

 むせ返るほどに濃密で野生じみた殺意の渦。忍は、それを自分に向けられているわけでもないのに、刹那、死を覚悟した。

 

 例えばもし、一葉と恭也がルールのない殺し合いで戦ったとしても恭也は一葉に勝利をすることはできないだろう。小学生と大学生という圧倒的で絶対的な体格と体力の差を置いてでも、恭也がどれほどまでに人として肉体を鍛え上げても、所詮は人の枠組みにしか収まることができない。恭也は強くとも、一葉ほどの怖さはないのだ。

 

 一葉はおそらく、人のままに魔の領域に踏み込んでしまった者、もしくは今まさに踏み込もうとしている者なのだろう。だとしたら、血が薄れつつある夜の一族と、今まさに誕生しようとしている生粋の純粋種。どちらが強いのかなど論ずるまでもない。

今の時点で身を凍らせるほどの脅威を感じているのだ。これから五年先、十年先、一葉が大人になり誰にも手がつけられないほどの怪物となって自分達と対峙した時に、滅ぶのは間違いなく夜の一族の方だ。

 

 このまま放置しておくわけにもいかないが、忍は一葉に短絡的に手を出せない理由があった。

 それは社会の枠組みの中にある人間の関係性。一葉は月村の人間と家族ぐるみの付き合いをしていることは周知の事実として認識されている。そんな一葉が、突然月村家に関しての記憶を失ったら間違いなく周囲が訝しむ上に、緋山家の家は借家などではなく土地持ちだ。遠くの地に追いやるとしても、経済的な問題が出てきてしまう。

 

 思い返せば、一葉は初めて会った時から不気味な少年だった。忍は夜の一族という特異性から、幼い頃から狼の群れに紛れて生きる羊のように息を潜ませ、世間と溶け込まないようにしてこなければならなかった。その経験が、望まざるとも精神を早熟させ無邪気な幼少時代を奪うことになったのだが、一葉もまたかつての忍と同じような雰囲気を持っていた。子供のくせに、子供のように振舞おうとする不自然があったのだ。恭也が一葉を毛嫌いしていた理由はそこにある。

それでも、実害はない。そんな甘い考えが、このような事態を引き起こすことになるとは思いもしなかった。

 

 「大人になりなさい、すずか。 私たちはね、失うことでしか生きていけない、弱い生き物なのよ」

 

 「そうしなければ生きていけない!? じゃあ、なくなっちゃえばいいじゃない!! 友達を切り捨てなきゃ生きていけないんなら……、夜の一族なんてなくなっちゃえばいいんだ!!」

 

 「すずか!!」

 

 スパァン!と乾いた音が響いた。忍は自分の掌に広がる熱のこもった痛みを感じ、数瞬遅れてから自分がすずかの頬を叩いたことに気が付いた。

 すずかはなにが起きたのかわからないようで、目を丸くして赤らんだ左の頬を押さえて忍を見上げていた。

 すずかが大切だった。忍は、すずかが生まれた時、差し出した自分の指を弱々しく握ったすずかを守ろうと誓ったのだ。

 失うことでしか生きていけない一族に生まれたからって、かけがえのないほどに大切なものぐらいある。忍は両親が死した後も、すずかの唯一の居場所である月村の家を守ろうと必死だった。

 それなのに、そのすずかから月村を、自分の想いを否定する言葉を浴びせられて手を上げてしまったのだ。

 

 「あ……。 ご……、ごめ……」

 

 「私は……」

 

 顔を青くしてすずかに謝ろうとした瞬間、すずかは腰が抜けたかのようにその場にへたり込んで、呻くように涙を流し始めた。

 

 「私は……、夜の一族になんか……生まれたくなかった……」

 

 忍はその言葉に、胸に心臓が裂かれるかのような痛みが走った。忍がすずかほどの年齢だった時は友達など一人もいなかった。必要もなかった。

 守るべきなのは一族の安寧と、すずかだけだった。そういう生き方をしてきたからこそ、忍にはすずかの哀しみが理解できなかった。

 

 忍は、ふと空を見上げた。

 そこには、すいこまれてしまいそうな夜の闇に浮かぶ丸い月が、嘲笑うかのように吸血鬼の姉妹を見下ろしていた。

 

 

 ◆◇◆

 

 

 夜の闇を照らすのは、頭の上から降り注ぐ月明かりの束だけだった。

 人工の明かりなど一切ない、太古の夜が息づく深淵の闇に一縷に差し込む月明かりは、湖の水面に反射して、星屑をちりばめたか空をそのまま映しているようだった。

 

 ごつごつした木々や、蔦が垂れる森に囲われて、深く静かに水を湛える湖の畔でフェイトはうずくまるように膝を抱えながらぼんやりと水の揺らめきを眺めていた。

 

 湖の向こう側は低い崖になっていて、フェイトがしゃがみ込んでいる位置からは湖と夜の境界が見えないが、フェイトが腰を下ろしている水際は柔らかな草が生えており浜辺のようになっている。

 この空間は、遥か昔に雷でも落ちたのだろう。広がる森の中で口を開けたかのようにぽっかりと広がる空間にフェイトは居た。

 

 むせ返るような土と緑、水の香りの中でフェイトはジッと待ち人がやってくるのを待っていた。

 アルフからの念話で、一葉を呼びだすことに成功したという報告を受けてから十分ばかり経過している。そろそろ、ここに着く頃合いかもしれない。

 

 フェイトは、なぜ自分がこんなにもあの少年に固執しているのかわからなかった。それでも、誰もが皆口をそろえて一葉が異常だと言う。危険だと言う。アゼルは愉悦の表情で、アルフは戦慄した声色で。まるで一葉が人ではないような言い方に、フェイトは腹が立っていた。

 あの少年は、そんな人間じゃない。そのことを、誰もわかっていないのだ。

 一葉は敵だ。それでも、フェイトは一葉に会って言いたかった。

 

 君は、優しい人だよ、と。

 

 フェイトは腰にぶら下げた無機質な鎖に指先を絡めた。これが、フェイトが触れた一葉の優しさだ。

 

 もうすぐここに一葉が来る。期待と不安が入り混じり、心臓をねじあげられるような気持ちの中で、フェイトは湖に浮かぶ星を見ていた。

 

 

 ◆◇◆

 

 

 冷ややかな夜の森の風が頬を撫でる。一葉がアルフに促されるがまま足を踏み入れた森の中で、一葉は自らの過失に後悔していた。

 

 一葉の服装は薄いTシャツに羽織。後はハーフパンでなだけで、足元は裸足だ。旅館に置いてあったゴムサンダルを拝借してきたのだが、夜の森に散策に入る装備ではない。

 

 先行しているアルフは獣道とも呼べない粗末な道をつくってくれてはいるが、人の侵入を拒むかのように枝葉を伸ばす常緑樹の固い葉が露出している一葉の肌を切り裂く。手を伸ばせばその先が見えなくなってしまうような暗闇の中で、一葉は小さな傷をいくつもつくっていた。

 

 一葉とアルフの間に会話はなく、枝を掻き分けるガサガサとした音が夜の闇に溶けて不気味に木霊している。

 いったい自分はどこに連れてかれようとしているのか。アルフに導かれる一葉の胸の内は強い好奇心で満たされていた。

 

 争いにおいて、情報とは単純な兵器や兵力にも勝る重要なものだ。あらゆる情報を多く有している方が、戦局を圧倒的有利に進めることができるのは常識だ。

 だがアルフの主は、一葉がその存在を確認する前から自らの存在をほのめかした上に、使い魔という戦力までも露呈させた。よほど腕に自信があるのか、それともなにも考えていないだけの愚か者なのか。

 判然とすることはできないが、どのような人物なのかは実際に会ってみればわかる。そう思いながらも、心の隅で旅館に残してきてしまったすずかに対する気持ちもあった。

 

 すずかには申し訳ないことをしてしまった。まるで、置き去りにされてしまった子供のように苦しそうな表情のすずかが脳裏に過る。

 普段は温厚なすずかが、あんなにも感情をぶつけてきたことなど未だかつてなかった。すずかとしては、強い葛藤の末に行き着いた結果だったのだろう。

 だが、一葉はすずかから逃げるような形でアルフについていってしまった。

いや、これは逃げたんだ。思いがけずに手に入れてしまった、かけがえのないほどに大切なものを失うと現実を再確認しなければならな恐怖から逃げ出しただけだ。

 

 一葉は後悔していた。

 逃げるだけならば、誰にだってできる。この一週間の間にも、目を閉じ、耳を塞ぎ、明かりを消した暗い部屋の隅でただ時間が流れるのを待つことができたのならば、という誘惑になんども駆られた。自分が変わってしまう前に、今のままの自分を周囲の人たちの思い出に閉じ込めて、なにも言わずに姿を消そうとも思っていた。

 それでも、同時にそれだけはしてはいけないということも一葉は理解していた。どうしたらいいのかなんてわからない。だが、一葉は圧倒的ななにかに絡め取られていくかのような、音もなく静かに締めつけられているかのような、そんな感覚を覚えていた。

 

 これから先の、遠くない未来。自分を知っている人達に向けてさよならを言ってから去らなければならない。それが、おそらく自分にできる唯一の決着だ。

 だが、あの時ふとすずかの泣き顔に、別の少女の泣き顔が重なって見えた。

 

 それは、はやてだ。

 あの孤独な少女は、自分が姿を消したら再び孤独になってしまうのだろうか。もしかしたら新しい友達を見つけ、輝かしい未来を自分の力で切り開いていくのかもしれない。

 だが、未来はわからない。人間は一歩踏み出す先の未来さえ見ることができないのだ。それでも間違いないの、自分がなにも言わずに姿を消したのならば、今日のすずかと同じようにはやても涙を流すということだ。

 はやては気丈に見えて、その本質は脆く繊細な優しい子だ。寂しさを誰にも悟られないように、いつも笑ってごまかしているはやてが涙を流すことは、自分が傷つくことの千倍嫌なことだった。

 感情や心理な、複雑なものは必要ない。単純に、はやての泣き顔よりも笑っている時の顔の方が好きなだけだ。それでも、一葉ははやてすらも切り捨てなければならない。

 

 自分の心の奥に閉じ込めていたはずの、目を覆われた狂牛のように暴れ回る影が織を壊して自分を呑みこんでしまう前に。

 はやてを壊し、なにもかもを哀しみに沈めてしまう前に。

 

 

 ◆◇◆

 

 

 「着いた。 ここだよ」

 

 森に入ってから十分ほど歩いただろうか。アルフが目的地への到着を告げると、鬱葱とした森から急に視界が開けた場所に出た。光を閉ざした深閑の森の空気は一変して、月の鬣が降り注ぐ小さな草原が一葉の眼前に広がっている。

 近場に水場があるのか。一葉の居る覚悟からは見ることはできないが、水の匂いとせせらぎが辺りに満ちている。

 一葉が一歩踏み出すと、そこは今まで踏んでいた固いごつごつとした石と土ではなく、柔らかな草の絨毯が敷き詰められていた。

 

 「ちょっと待ってな。 今、フェイトを呼ぶから」

 

 アルフが何気なしに言うと、一葉は眉根をひそめた。

 

 __フェイトって、確か……

 

 聞き覚えのある名前に、記憶の海底からフェイトというの名前いう名前の少女の顔を想いだそうとするよりも瞬刻早く、月明かりが淡く照らす草原の向こうから、徐々に近づいてくる人影に気が付いた。

 歩くよりも少し早い、駆け足で近づいてくる影は青白い月明かりに、金色の髪と白い肌が蝋燭の明かりのように照らされて夜の闇に浮かぶ美しい幽霊のようにも見えた。

 そして、輪郭がはっきりと浮かび上がった少女の顔を確認すると同時に、目の前に立っていたアルフの背中を反射的に蹴っとばした。

 

 「ッガ……!?」

 

 後ろかの襲いかかった突然の衝撃に、アルフは肺の中に溜められた空気を全部吐き出すような声をあげて、前のめりに地面に衝突した。

 その隙に、一葉は左に大きく飛び跳ねてアルフと、一葉の思いがけない行動に足を止めたフェイトから距離をとった。

 

 「……アルデバラン」

 

 自分の耳にしか届かない小さな声で、アルデバランを呼び起こす。紡がれた、起動パスワードによって、一葉は鋼色の光に包まれ、黒い甲冑に姿を変えた。

 

 「可能性の一つには考えてたけど……、アゼルの回し手かい」

 

 フェイトはアゼルの妹だったはずだ。だとしたら、今の現状は陽動に惑わされてしまい、ジュエルシードを持ったなのはと引き離されてしまったことを意味している。

 ベヌウは置いては来ているが、それでも困戦は必至になる。猫耳の使い魔も来ていれば、状況はさらに悪くなるだろう。

 確かに、アゼルの陽動という可能性を視野に入れていなかったわけではない。だが、こんなところまでアゼルが来るはずがないという甘ったれた先入観が、今回の過失を招いてしまった。

 

 一葉はフェイトに槍の切っ先を向ける。呆けた表情で立ちすくんでいたフェイトは、ハッとして慌てて声を継いだ。

 

 「ち……違う! 待って!!」

 

 「早く、デバイスをセットしてよ。 一方的にいたぶるのは趣味じゃないんだ」

 

 「待って! 話しを聞いてよ!!」

 

 一葉の、ナイフのように尖った視線に、フェイトは居たたまれない気持ちで心臓が焼けついてしまいそうだった。一葉の目に敵意や害意はない。ただ、残してきてしまったなのはの身を案じる焦燥の炎だけが揺らめいていた。

 

 佇まいや、纏う雰囲気である程度の力量は測ることができる。アルフも、フェイトとの間に入り、フェイトを守るように牙を唸らせる。

アルフも決して弱くはないのだろうが、一葉が脅威に感じるほどのものは持っていないはずだ。

 だが、それは一葉の持つ現状の常識の範囲内に限ってのことであり、魔法という未知の力で押された場合は、戦況がどう転ぶか予想できない。

 敗北することはないだろうが、それでもなのはの元に向かうまでの時間は稼がれてしまうかもしれない。

 そうだとしたら、一葉が取るべきことは一つ。この場で圧倒的な実力差を見せつけて、戦意を喪失させることだ。

 

 「……、早くしてくれないかな? じゃないと、こうしている間にも……」

 

 瞬間、一葉が立っていた場所の土がめくれあがると同時に、一葉が姿を消した。

 

 縮地という歩法がある。現代の、スポーツと化した活人術である日本武道の雛型となっている、あらゆる古武術、つまりは殺人術に通じて奥義とされている歩法だ。

 それは特殊な歩法により、距離の概念を失くすという驚異の技術。現代の武道に使いてはいないが、戦乱の世において武を極めた達人は、総じてこの歩法を身につけていた。

 

 アルフにとっては、風が通り過ぎた程度にしか感じなかっただろう。しかし、その風がそよぐ瞬きの間に、一葉はフェイトとの距離をゼロにした。

 

 「ほら、心臓に手が届きそうだ」

 

 一葉はフェイトの胸に手を置いた。

 

 刹那、世界は濃厚な悪意に沈んだ。酷薄な笑みを浮かべる一葉を中心に、信じられないほどの殺意が夜の闇さえも蝕む。

 

 一葉の動きを追い切れなかったアルフの身体は、空がそのまま落ちてきたかのような圧力に、意識を繋ぎとめるだけで精いっぱいだった。

 肺がどれほど酸素を欲しても、身体が動くことを拒絶した。野生すらも超越した、狂気にも似た殺意にアルフは屈服せざるを得なかった。

 野生の狼を素体にしたアルフでさえそうなのだ。幼いフェイトがこれほどまでに凶悪な殺意を中てられて無事でいるはずがない。

 

 だが、一葉の予想と期待は、顔を茹でダコのように真っ赤にしたフェイトに裏切られることになった。

 

 「……エッチ」

 

 「……は?」

 

 ポツリと零したフェイトの言葉に、一葉の間の抜けた声が森に吸い込まれて消えていった。

 

 

 ◆◇◆

 

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