魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
屋上へと続く階段の踊り場。普段は教員も、生徒も使わないこの場所は階下の喧騒は嘘のように静寂に包まれていた。
蛍光灯の電気が切れているのか、朝にも関わらず薄暗い。年季が入り黄ばんだ壁にアリサは一葉の身体を叩きつけた。
アリサに比べて一葉は少しだけ身長が高い。それでも、投げ出された衝撃で膝を崩した一葉は下から睨み上げるような形でアリサを見上げるが、その視線にアリサは更なる苛立ちを覚えた。
一葉の鳶色の瞳は薄く濁っていて、自分じゃない、もっと遠くを見ているような気がしたからだ。
アリサは拳を固めて一葉の胸倉をつかみ、壁に押し付ける。吊り上げるような形で、今度はアリサが下から見上げる番だった。
「あんた……、なのはになにしたのよ?」
自分でも驚くほど不穏な声が、アリサの口から出た。胸の底から吹き出るようにこみ上げる激情を無理矢理抑え込んだ瞳を、アリサを見下ろす一葉の冷たい視線とぶつける。
アリサはわけがわからなかった。数週間前から感じ始めた、親友たちとのズレ。今、思い返せば、ちょうどフェレットを拾った日あたりからだろう。
なのはは下を見ることが多くなり、一葉はどこか様子がおかしくなった。
アリサは、なのはが一葉に好意を寄せていることにずっと前から気がついていた。三人の女子の中に男が一人の仲良しグループだ。遠くない内にそうした恋慕の感情でなにかしらが起こるということぐらいは容易に想像できる。一時は、なのはが一葉に想いを告げたのかと勘繰ったが、そういうわけでもないらしい。
なのはは未だに、自分の抱える感情に気がついている様子はないし、一葉の様子がおかしいのも、そんな浮ついたものが原因とは思えなかった。
そう、一葉は変わった。よく言えば、熱中できるものを見つけたともいえるが、どこか見えない影に追われているような鬼気迫るものがあった。
そして、なのははきっとその影の正体を知っている。知らなくとも一枚は噛んでいるはずだ。二人との付き合いは決して短くはない。それぐらい、挙動を見ていればなんとなくわかってしまうのだ。
この不器用すぎる親友たち誰にも相談もせずに落ち込むことしかできなくて、自分で自分の傷を広げている。
自分は一人ぼってだとでも思っているのだろうか?なぜ、相談もなにもしてくれないのだろうか?渦巻くそんな疑念は、屈辱とも感じる怒りの炎となって胸を焦がしていた。
「別に、なにもやってないよ。 てか、なんでオレに切れるの? わけわかんないんだけど」
「……! 嘘つくんじゃないわよ! あんたも! なのはも! 気がつかないとでも思ってたの!? 私たちに隠してこそこそなにしてんのよ!?」
一葉の襟首を締め上げる拳に、さらに握力がこもる。眉を顰めて迷惑そうな表情をする一葉の顔面を殴ってやろうかという激情に駆られるが、僅かに残った理性がそれを押しとどめた。
「私たちは……友達じゃないの!? 親友じゃないの!? なのに勝手に抱え込んでっ……! 相談でもなんでもしなさいよ! それとも私たちじゃ力になれないっていうの!?」
襟を締め上げる拳に、ぎりぎり固い衣が擦れる感触が圧迫された指先に伝わってくる。苦しいはずなのに、一葉は抵抗もせずアリサに為すがままにされて唇を静かに動かした。
「お前には、関係ないことだよ」
吐き出された言葉に、プツリとなにかが切れる音が頭の中に響いた。自分で自覚するよりも千倍速い、アリサは硬く握った拳を一葉の鼻先にめり込ませていた。
「アリサちゃん!?」
衝撃に身体を壁にぶつけ、一葉が腰を崩れさせる最中、アリサの後ろから悲鳴にも似たすずかのつんざく声が聞こえてきた。
きっと、一葉を無理やり連れ出すのを見てついてきたのだろう。
アリサは奥歯を噛みしめて、鋭い目で一葉を睨んだ。
一葉は尻もちをつきながら、アリサを見上げている。
その目は不満そうに濁り、唇をムッと歪ませているのを見て、アリサはますます頭に血がのぼった。
「一葉くん! 大丈夫!?」
一触即発な不穏な空気を漂わせる二人の間に、すずかが慌てて割り込む。一葉は鼻血を出していた。
すずかはアリサに背を向けて尻もちをついている一葉に視線を合わせると、スカートのポケットから白いハンカチを出し血を拭おうとするが、一葉はそれをやんわりと手で拒否した。
「なのはがさ……、なにも言わないのはそれなりの理由があるんだよ……。 別に二人を信用してないわけじゃない。 それぐらい、察してあげなよ」
聖祥の白い制服に、赤い血が滴って斑の模様を染み込ませる。
「じゃあ……、なのはがそうだったら、あんたはどうなのよ?」
アリサの言葉に、一葉は能面を張り付けたかのように感情が読めない表情を向けて応えた。
「オレがどうかなんて、それこそ関係のない話しでしょ。 もうオレに話しかけてこないでよ。 メールも電話も、正直かなり迷惑だし」
アリサは余りの怒りに息苦しさを覚えた。先ほどまでの黒々としたものとは違う、剥き出しの炎のように激しい怒りだ。
一葉に裏切られた。
いや、違う。これは裏切りよりも、もっと酷いものだ。
心臓をズタズタに切り裂かれて、夜の海に捨てられたかのような痛みが頭を焦がす。
「……っ! じゃあ勝手にしないさいよ!!」
目に込み上げてきたものは怒りか涙か、アリサにもわからなかった。理性なんて怒りの炎に焼き尽くされてとっくになくなっている。
だが、今は理性など必要なかった。
親友だと思っていた相手から吐き出された、信じられない言葉に、アリサは荒波のように押し寄せる怒りと悲嘆、苛立ちに耐えるので精いっぱいだった。
崩れ去る恐怖、痛み、悲哀。これ以上は喉が詰まって、どんな罵りの言葉も出てこなかった。
アリサはなにかを振り切るかのように、一葉とすずかに背を向けると、足音を立てながら乱暴に階段を降りていった。
◆◇◆
『一葉も大概甘いですね。 甘過ぎて胸やけがしてきましたよ』
一葉の頭に、そんな声が響いてきた。
『聞いてたんか……。 盗聴はあまりいい趣味とは言えないと思うけど』
『盗聴だなんて人聞きの悪い。 屋上に居たら、勝手に聞こえてきただけですよ』
そんなベヌウの言葉に、一葉は小さく舌打ちをした。学校にベヌウを連れてくる時、さすがに教室に入れる訳にもいかず普段は屋上に待機させているのだ。
そして、一葉がアリサに連れて来られた場所は屋上に続く階段の踊り場。ベヌウが一葉の接近に気がついて様子を窺うのは当然のことだ。
『本当に人を遠ざけたいのであれば、もっと心を傷つけるべきです。 中途半端に優しさを残すと、後でしっぺ返しが来ますよ』
『……アリサはまだ子供だ。 あれで十分だよ』
『そういう考えが甘いと言っているのです。 少しばかり辛く当った程度で人の縁を切ることができるなどと、本気で思っているわけではなでしょう』
夜気のように冷たいベヌウの声に、アリサに殴られた頬の熱も引いていくような気がした。
ベヌウの言うとおりだ。一葉は必要以上にアリサを傷つけることを避けた言い回しをした。
アリサを傷つけることで、自分が傷つくことを恐れていたからだ。
それでも、振りむくときに見逃さなかった、普段は気丈なアリサが目尻に溜めているものを見て、心がささくれた。
『……念話切るよ。 まだ、すずかが居るんだ』
遠回しに追い詰められているような居心地の悪さを感じ、一葉は強制的にベヌウとの念話を遮断した。
すずかは今にも泣いてしまいそうな表情で一葉を見ている。
手には白いレースのハンカチが握られたままで、一葉はふと自分の制服に視線を落とした。袖は血糊がべったりと付いていて、所々赤い斑点模様が染み込んでしまっている。
デザインを重視した聖祥の制服は、こうした汚れが目立ってしまう。ここまで汚れてしまうとクリーニングに出しても染みが取れるかどうか怪しい。
鼻孔から流れる血が止まる様子はなく、一葉は口の中に広がる生臭い鉄の味のする唾を行儀悪く廊下に吐き出すと、眉間を指先で圧迫して天井を仰いだ。
「一葉くん……。 ハンカチ、使って」
「いいよ。 汚れるでしょ」
「でも……。 じゃあ、せめて保健室に……」
「この状況をどう説明すんのさ? 正直に言ったら、もれなく職員室連行と親呼び出しがついてくるよ」
一葉がそう言うと、すずかは言葉を喉に詰まらせた。
小学生といえど、クラスメイトに殴られたのだ。それも単純な喧嘩ではなく無抵抗な相手を殴ったとなるとアリサは最悪自宅謹慎処分ということもあり得る。すずかもそのことに気がついて、萎れた花のように俯いてしまう。
「そんな気遣いができるのに、なんでアリサちゃんに本当のことを言ってあげないの? アリサちゃんだけじゃない……。 私にだって……」
「本当のことってなんだよ?」
「それは……」
一葉が首を傾かせたまま不機嫌そうに睨みつけるが、すずかは視線を下に向けたままだ。今の今までのアリサのように激しい怒りではなく、あたたかな闇が包み込むような居心地の悪さが一葉の胸を締め付ける。
「第一さ、オレがなにか隠し事してたとしてなんで逐一みんなに報告しなきゃならないのかがわかんないんだけど。 自分たちだったら力になれるとでも思った? そういう自惚れたところが本当に鬱陶しいんだよ」
「なんで……?」
「あ?」
「なんで一葉くんは……、必死になって私たちに嫌われようとするの? 私たちじゃ……、私じゃダメなの? 私じゃ、一葉くんを繋ぎとめることはできないの?」
すずかの震える声は幾分ぎこちなかった。その癖、言葉ははっきりしていて、途中、なにか小さなものを握りしめるかのように掴んだままのハンカチをそっと握り直す。視線も下に向けたままで、苦しそうに廊下に落ちた一葉の血の斑点を見つめていた。
「私は……、一葉くんが普通じゃないこととぐらい知ってる。 でもね、一葉くん。 私だって……、もしかしたら一葉くんと一緒かもしれないんだよ?」
「どういう意味……」
すずかの意味深な言葉を一葉は聞き返そうとすると、ギョッとして言葉失った。
俯かせていた顔を上げて一葉と視線を絡ませる目。前髪から覗く瞳は普段の墨を流したかのような藍色ではなく、血のように真っ赤に染まっていたからだ。同時に、見えない鎖に四肢を縛られたかのように身体が動かなくなる。
自由が利かない恐るべき事態だというのにもかかわらず、一葉は不思議と恐怖を感じなかった。
相手がすずかということもあるのかもしれない。だが、それを差し引いたとしても、悪魔に誘惑される聖者のようにすずかの赤い瞳から目を離すことができなかった。
ふと、すずかが顔の距離を縮めてくる。熱のこもった吐息が頬に当たり、ふわりとしたスミレの香りが鼻を掠める。
そして、ねっとりとした熱いものが一葉の頬を這った。
「ぁふ……ん」
艶めかしいナメクジのような動きをするそれは、すずかの舌だ。唾液をたっぷりと含め、唇を擦らせながら一葉の顔を舐めまわす動きは、一葉の鼻血の軌跡をたどっている。
「んぁ……」
すずかは一通り一葉の顔を舐めつくすと、だらしなく開いた唇から涎を垂らしながら顔を離した。
鼻先がぶつかってしまいそうなほどの距離。すずかの赤い瞳は情欲に潤ませていた。
「はぁ……ん、んふ……。 おいし……」
すずかは光悦な表情で呟くように言うと、口元に垂れた涎をペロリ舐めた。そして腕を獲物に近づく蛇のように動かし、一葉の首筋に絡ませる。
恋人が抱きつくような形で、すずかは自分の唇を抵抗できない一葉の唇に押しつけた。
微かに開いた唇の隙間から押し込むようにすずかの舌が侵入してくる。あまりに現実離れした事態に、夢を見ているような心地になっていて、一葉は舌先と舌先が触れあった途端、無意識にすずかの痴態に応えていた。
なにかを求めあうように撹拌しあう口内。唇と唇の隙間からは熱く甘い吐息が漏れ出して、水っぽい淫靡な音が誰もいない踊り場に響く。
これは本当に夢なのかもしれない。そんな妖しい感覚に脳髄が蕩けそうになってきた時、不意に走った痛みに意識が引っ張り戻された。
「づっ……!?」
鋭い何かで切り付けられたかのような痛みに、一葉は呻きにも似た声が喉から漏れた。
すずかの犬歯で、下唇を小さく引き裂かれたのだ。
一葉はまどろみから叩き落とされたかのように自分の意識を取り戻した。だが、身体が石のように動かないのは変わらず、艶めかしく口内を動き回るすずかの舌の感触がやけに生々しく感じた。
すずかは一葉の口の中で咀嚼するように動かしていた舌を出して、唇から滲み出る血を掬うように舐め取り、甘噛みする。
名残惜しげな銀糸を垂らしながらようやく一葉から唇を離すと、娼婦のような妖艶な笑みを浮かべた。
そんなすずかの表情は、普段の大人しい姿からは想像できなくて、一葉は幽霊を見ているような気持ちになった。
「ね……? 私も……、普通じゃない……」
すずかは言いながら一葉に視線を絡ませると、言葉を重ねた。
「私はね……、吸血鬼なんだ。 人間じゃない……。 一葉くんも……、そうなんじゃないの?」
熱に浮かされ潤んだすずかの瞳には哀れみが混じっていて、居心地の悪さを感じた。すずかはきっと、一葉が人を辞めてしまおうとしていることに気がついている。だからそんな目で一葉を見るのだ。
「一葉くんと私は、すごく似てる……。 人に言えない秘密があって……、それを隠しながら人の群れに紛れてる。 自分が普通じゃないって、絶対に誰にも気がつかせないように、仮面をかぶってる……」
すずかの告白が進むにつれ、一葉の頭は冷静に回転を始めた。すずかの口ぶりから察するに、おそらく忍も同類の吸血鬼なのだろう。
旅館での一件以来、何かしらの接触があると思っていたが、まさかこんな形になるとは想像すらできなかった。
「私もそう……。 吸血鬼っていう素顔の上に、月村すずかっていう仮面をかぶって……、そうやってみんなを欺いてきたの……」
正面に据えるすずかの微笑みは、まるで自嘲の笑みのように見えた。
吸血鬼だという化け物に生まれてしまった孤独。人間ではないのに、人の心を持って生まれてしまった浅ましさと、危うい演技を続けなければらない苦痛。迫害されるものとして生を持ってしまった身を焼くほどの恐怖。
すずかはきっと、そうした黒く凶悪な感情に晒され続けてきたのだろう。
「一葉くんの仮面の下にある素顔を、私はまだ知らない。 だけど……、一葉くんは一人じゃないんだよ? 私が居る……。 同じ苦しみが……、同じ痛みがわかる私が……。 だから、お願い……」
首に絡められた腕に、もう離さないと言わんばかりに力がこもり、吐息が再び唇に頬にかかる。
「私と……、友達を辞めないで……」
すずかはそう言うと、薄く瞼を閉じて自分の唇を、再び一葉の唇に重ねた。
◆◇◆
「すずか。 今日、一葉くんを家に連れてきなさい」
温泉旅行から帰ってきて二日目。チェーダー朝様式で固められた月村邸の食堂で忍はしなやかな白い指でティースプーンで紅茶をかき混ぜながら言った。
半透明のレースカーテンから差し込む澄んだ光が高い天井に吊るされている豪華なシャンデリアに反射して煌めいている。
長方形の長テーブルを覆う染み一つないシーツの上にはマイセンで揃えられた食器にトースターやスクランブルエッグが湯気を立て並べられている。
ファリンは厨房に居て姿はないが、ノエルは忍に後ろに控えていて、いつも通り朝の様子だというのに、それは表層だけで実際に二人の間には月と地球を隔てる見えない壁があるように思えた。
普段の親密さはなく、なんとも居心地の悪い空気が漂っている。
時間の融通がきく大学生の忍とは違い、小学生のすずかは家を出る時間が早い。忍は時間に余裕がありゆったりとスクランブルエッグを口に運んでいるが、すずかはトーストの最後の一欠片を口に入れて咀嚼しながら「ああ、ついに来たか」と胸の内の圧が一段高まるのを感じた。
忍の口調はなんでもない風を装っているが、その視線は剛直なナイフのように鋭くて、拒否は許さないと存外に語っている。
普段は家で見せることはない、人を屈服させる威圧感を細い身体から滲みだしており、忍の言葉は“月村忍”ではなく“夜の一族当主”としての言葉で、すずかは視線を逸らした。
だがそれでも、意地でも首を縦には振らなかった。
これはささやかなプライドだ。忍は一葉との交渉を、一葉の記憶を削除することを前提に進めようとするだろう。
もしかしたら、交渉すらせずに力づくで、ということもあり得る。
忍だってその気になれば、すずか介してなどという面倒なことはせず強引に一葉を連れてくることができるというのに、その役目を鈴鹿に任せるというのはそうすることですずかに共犯意識を刷り込ませようとしているのだろう。そして、無理やりにでもすずかに一葉の記憶を消すことを納得させようというのだ。
狡猾な忍の考えそうなことである。
すずかは口を噤んだままフォークを置き、ティーカップに注がれていた冷めた紅茶を一気に喉に流すと、忍と視線を合わせないまま席を立った。
絶対に連れてきてなどやるものか。そんな頑なな思いがすずかの中にはあった。
この二日間、正確に言えば旅館の縁側で別れた後から一葉が自分に接する態度や纏う雰囲気があからさまに変化していた。
一葉の鳶色の瞳は諦念とも呼べるような色が支配していて、今ではない遠いどこかを見ているような気がした。
今の一葉は以前と違い、電話にもメールにも応えてくれず、穏やかな自然消滅を図っている。だが、それでも自分達の関係に亀裂が生じただけで、まだ完全に瓦解したわけではない。
もしかしたら……、きっかけさえあればまだやり直せるかもしれない。そういった考えがすずかの中にはあり、忍の思惑は歓迎できないものだった。
このまま口を噤み続ければ、一葉から月村邸に近づくことは決してないだろう。だとしたら、後は曖昧なままでも今の関係を維持し機会を窺うべきだとすずかは考えていた。
「今日、さくら叔母さんが来るわ」
忍に背を向け、純銀のドアノブに手をかけようとしていたすずかは、忍の言葉に動揺し、ハッと振り返った。
二人の視線がぶつかり合う。一瞬、性質の悪い冗談ではないか脳裏に過ったが、鋭いし忍の視線がそんな甘い考えを否定した。
「……どうしてっ!?」
平静を装いきれなくなったすずかの口から、悲鳴にも近い声が喉を震わせる。だが、そんなすずかとは対象に、忍は胸元で指を絡め淡々とした口調で唇を動かした。
「そんなの、一葉君と会わせる為に決まってるでしょう」
「そん……な……」
綺堂さくら。今は亡き忍とすずかの母親の歳の離れた妹で、二人の後見人を務めている人物だ。その血筋や才能から夜の一族でも相応の地位を持っており、発言権は忍と同等か、それ以上のものを持っている、ある意味忍以上の女傑だ。
そんな人物と一葉を引き合わせる理由を、すずかの聡明な頭は瞬時に理解してしまった。
忍は一葉のことを自分たち姉妹だけの話しでなく、一族全体の問題にするつもりなのだ。
もし、そうなれば例え当主の妹であろうと、たかだか九歳の矮小たる自分は横から口出しできなくなってしまう。忍の沈黙の二日間は、この日の為の根回しに必要な期間だったのだ。
窓から差し込む陽の光が、忍の白い輪郭を一層にきわめ立たせる。すずかは出し抜かれた憤りを忍にぶつけるかのように激しく睨みつけると、忍は表情を弛緩させ肩を竦めた。
「あのね、すずか。 貴女、勘違いしてるみたいだけど、私は一葉君と契約することもと視野に入れてるのよ?」
「え?」
予想しえなかった忍の言葉に、すずかの喉から頓狂な声が滑り出た。そんなすずかを見て、忍は弄ぶ指先の上に顎を乗せ、微かに唇を緩ませながら言葉を重ねる。
「とりあえず座りなさい。 まだ、時間あるんでしょ?」
「え? う……、うん」
忍の言うとおり、通学バスが停留所にやってくるまでの時間まで余裕はある。それに、バスに乗り遅れてしまってもノエルに来るまで送ってもらう手もあった。
すずかは忍に促されるままに、一度は乱暴に立った椅子に再び腰を下ろすと、正面に座る忍はカップを唇に少し傾け、僅かな間を置いてから平坦な声で唇を動かした。
「誤解がないように先に言っておくけど、契約はあくまで話し合いが穏便にまとまった場合だけよ。 決裂、もしくは私かさくら叔母さんが一葉君を危険と判断した場合は、容赦なく記憶を消させてもらうわ」
「それって……」
「別にすずかの為じゃないわよ」
私のため?と胸中で言葉を続けたすずかに、釘をさすように忍は言葉を重ねる。
「私も、さくら叔母さんも彼の存在が一族にとっての益になるかもしれないって考えたからよ。 すずかも、間近で見たんでしょう? 一葉君がどんな存在かって」
忍の言葉に、すずかは二日目の出来事が脳裏に過る。
身体全体を突き抜けた凶暴な圧。悪意と殺意が具現化したかのような影は、自分を見ていたわけではないのに、心臓が氷漬けになってしまったかと思うほどの恐怖を感じた。
「すずかも知ってると思うけど、夜の一族は決して盤石というわけではないわ。 人の数だけそれぞれの思惑があって、わかり合えず、すれ違い、ぶつかってしまう。 その中には、穏便でないことしか頭にない狭隘な人たちだっているのよ」
忍の視線に、僅かに険が滲む。
忍が言うのは遠縁に当たる、確か人狼族の氷室とか言う男の話しだ。すずかは直接会ったことはないが、数年前にクーデター紛いの事件を起こした野心家だ。
当時、それは結局失敗に終わったものの、主犯である氷室の行方は現在も掴めないまま今に至る。
夜の一族は聡明な頭脳と卓越した技術力で、大きな会社をいくつも経営しており、同時に政財界にも広く顔が効く。
莫大な財産と権力を有する一族の包囲網から逃れるのは、普通に考えて不可能だというのに、だ。
つまり、それは同じ一族の中で誰かが氷室を匿っていることに他ならない。
確かに、一族の中には忍が当主の座に座ることを良しと思わない者は少なからずいる。
そんな人物と手を組み、氷室は再び決起の時を窺っているのだと、噂程度には聞いたことがあった。
「一葉君は私たちの可能性よ。 彼が私たちの側についてくれれば、そういった人たちの抑止力になってくれるかもしれないわ。 暴力を、さらなる暴力で抑え付け、反抗する気も起こさせないような、そんな理不尽な抑止力にね」
「一葉くんを……、利用するの……?」
くぐもった声がすずかの口から零れる。
忍は本当に一葉と契約するつもりがあるのか、すずかの胸に一粒の不安が芽吹いた。
夜の一族の契約とは一族の秘密を知った者と生涯の友となるか、伴侶になるか、少なくとも善意の契りだ。
だが、忍の口ぶりは一葉を利用し、自分たちの番犬に仕立て上げようとしているような、まったく別の思惑を持っているような気がした。
忍が一葉と結ぼうとしている契りは、もっと別のなにか……、そのなにかはすずかにもわからないが、確信めいたものを感じ、胃が縮んだ。
「それを含めての可能性よ。 彼を利用する価値があるのか、私たちに利用することができるのか、それだってまだわかってないもの。 ねえ、すずか。 すずかはどう思う?」
「……どう、って?」
「一葉君は私たちにとってどういう存在になるか、ってことよ」
なにかを探るように、忍は深い視線ですずかの目を見た。
すずかは、忍が自分になにを言わせようとしているのかわからなかった。それでも、一葉のことを悪し様に語る忍に対して、すずかは胸に亀裂が入り、黒い澱が滲み出てくるような気持ちになった。
「そんなの、私にわかるわけないじゃない。 私がわかってるのは一つだけだもん……。 一葉くんはお姉ちゃんが思ってるような人なんかじゃない。 わかりづらいけど……、本当はすごく優しいってことだけ」
すずかは膝の上に置いた拳を密かに握りしめた。
哀しい?
苦しい?
いいや、違う。胸に塗れた澱の正体は辛さだ。
大好きな姉が、緋山一葉という少年を誤解していることに、すずかは胸を炙られるような辛さを覚えた。
すずかの真っすぐな言葉に、忍は鼻息一つで返事をし、曖昧な表情をつくりながら椅子の背もたれに寄りかかるだけで、それ以上なにかを言うことはなかった。
◆◇◆