魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
返信の仕方がわかりません・・・。
「ノエル。 すずか、どう思う?」
「脈あり。 と、考えてもよろしいかと」
そう、と忍は相槌を打つと、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含み、長い口舌で乾いた喉を潤した。
すずかは既に学校に向かい、広いリビングには忍とノエルしかいない。忍はソーサの上にカップを置くと、リビングを出ていく時のすずかの後姿を回顧した。
まるで背中に幽霊でも背負っているかのような暗澹さで、忍は冷たい風が胸を吹き抜けたかのような気持ちになった。
「すずかは……、私のこと恨むかしらね?」
忍は、微かに暗い光を瞳に宿らせ、口元を自嘲気味に歪めながらノエルに問いかけた。
「わかりません。 ただ、忍さまの優しさは他者には伝わりづらいものです。 優しさを活かすには強さと厳しさが必要であるということを、今のすずか様が理解するには難しいかと存じます」
ノエルは空になった忍のティーカップに、再び紅茶を注ぎながら淡々とした口調で答えると、忍は意外なものを見るかのように目をしばたたき、深々と鼻息をついた。
この従順な専属メイドは、こちらの機微を理解している。二人の間には主従の関係以上の絆が確かにあった。
だから、ノエルはきっと気がついているはずだ。
忍が、すずかに隠した嘘に。
「私はだめな姉ね……。 傷つけることでしか、あの子を守ってやることができないなんて……」
薄紅色の紅茶から、ゆらりと立ちあがる芳香な湯気を見ながら、忍はそんなポツリと零した。
勝負は今日の夕方だ。それまでの僅かに残された時間でさくらと段取りを決めなければならない。
やらなければならないことは多く、時間も切迫しているが、せめてこの一杯の紅茶を飲む時間だけは、現実から目を背けたかった。
◆◇◆
終わってしまえば呆気のないもので、ただ戸惑いだけが残った。
血に酔っていた最中は方向性のあった思推に溺れ、脳みそが蕩けてしまうほどの光悦と腰が砕けそうなほどの快感に支配されていたというのに、酔いがさめた今胸を占めているのは激しい動揺と羞恥で、すずかは一葉の視線を逃れうように背を丸くしてうずくまっていた。
既に一限の開始を告げるチャイムは鳴り終わっており、二人の居る踊り場だけでなく学校全体が静寂に沈んでいて、まるで世界に二人だけ取り残されてしまったかのような不気味さと気まずさが二人の間には漂っている。
月村の一族にとって、血とはアルコールと同じだ。一度口にしてしまえば、芳醇な香りが舌に広がり、冷静な思考を溶かしてしまう。
個人差はあるが、普段は輸血パックの血液を飲んでいるすずかが、温かな人の生き血を始めて飲んだのだ。直ぐに酔いが回ってしまうのは当然の結果と言えるのかもしれない。
そして、思考を混濁させるというのは血を吸われた側も同じで、一族の唾液には微弱な毒素が含まれている。
牙が皮膚に食い込んだ瞬間に、傷口から入り込み体内に回らせるのだ。
もっとも、毒といっても人体に深刻な影響を与える類のものでもなく、興奮と軽い幻覚を引き起こすもので、依存性もない大麻のようなものだ。
すずかが一葉に舌を絡ませた時、一葉が抵抗もせずに、むしろ情熱的に応えたのはそのせいだ。
脈打つ心臓の旋律と、交換し合う唾液。絡め合う舌が直接脳髄を掻き乱すような快感に溺れ、すずかは本能の赴くままに一葉の血を啜り、貪った。そして、一族の秘密を吐露してしまった。
それは、本来ならば万死に値する重罪だ。
一族の掟を破った者には厳罰が下される。そこに立場や年齢は加味されない。
だが、すずかの中で渦巻く後悔は、そんなものは関係なかった。
忍が動き出した今、どんなに遅くとも今日中には一葉の耳に一族のことが届くだろう。ならば、今すずかが教えたところで早いか遅いかだけで結果は変わらないのだ。
だとしたら、出来れば自分の口から伝えたいという思惑がすずかにはあった。それに、忍はああは言っていたが、一葉は社会的な立場で見ると一般人。それも小学生であり、夜の一族の系譜には間違いなく関わっていない。
だが、一葉は夜の一族に限りなく近い存在……、もしかしたら夜の一族の方が一葉に近いという方が正しいのかもしれない。
夜の一族の始祖。人間に生まれながらも、人としての器に入りきらなかった者たち。一葉がそのような存在だとしたら、忍のいい分は納得こそしないが理解はできてしまう。
そして尚更、一葉は自分と一緒に居るべきなのだと強く思った。
神様はきっと、夜の一族を哀れんで自らに似せ、美しく魅惑的に造った。だが、いくら姿を似せようと、その身は所詮醜い似姿で、似ているからこそいっそう身の毛がよだつものだった。
人でも神でもない、こんな醜い身を与えた創造主を呪う痛みを、おぞましい化け物であるという苦しみを、自らが生を受けてしまった日を憎む哀しみを、きっと一葉は知っている。
嘘で固めた仮面の下にある、化け物という素顔を知らずに接してくる、優しく温かな人たちが振りかざす無垢という名の刃の痛みを、きっと一葉も知っている。
だからこそ、自分たちは一緒に居るべきなのだ。
同じ傷でできた、同じ痛みを舐め合い、慰め合うために。
ただ、すずかと動揺と後悔の理由。それは自身のファーストキスに関してのことだった。
「わ……、私……。 ディ……、ディープキス……」
熱に浮かされたような声で、改めに声に出して自分がしでかした状況を再確認すると、たちまちに噴火寸前の活火山ような恥ずかしさが灼熱のマグマとなって込み上げてきた。
掌を自分の頬に当てると、まるで風邪を引いた時のように熱い。鏡を見なくとも顔が真っ赤に火照っていることがわかった。
突然はしたないことをしてしまったことに一葉は怒っているだろうか?
それとも呆れている?
一葉の顔を見ることが怖くて、出来ることならば今すぐこの場から走って逃げ去りたいのに、キスの余韻が未だに腰を砕いていて立ちあがることさえままならない。
穴があったら入りたいとは正しくこのことだ。この際、段ボールでも構わなかった。
「えーと……、すずかさん……」
「ヒャッ、ヒャイ!?」
背中からの声に、丸めていた背中がピンと伸びる。声も喉に絡まって随分と上擦ったものが飛び出た。
「とりあえず、お互い目を見て落ち着いて話し合おうじゃないか。 今一状況が飲みこめなくて、正直困惑してるんだ」
僅かな戸惑いが入り混じりながらも、あくまで冷静な声だった。
すずかは、きゅっと薄い唇を引き締める恐る恐る首を振り向かせた。視線の先には作為のない表情で胡坐をかいている一葉が居て、一葉の顔を見た途端に溜まりに溜まった羞恥心が噴き出て、また前に向き直してしまった。
「ちょっと、なんで今諦めたのさ?」
「ごごご、ごめんなさい! でっ、できればこのままでお願い!!」
すずかは他意はないのだが、恥ずかしくて一葉の顔を正視することができなかった。それどころか、女心というものをまるで理解していない一葉に対して軽く心がささくれた。
こちらとしては血に酔っていたとはいえ本能の赴くままに初恋の人の唇を奪ってしまったのだ。
そうした心情を少しでもいいから察して欲しい。
いや、初恋?
すずかは自分の感情に疑問を持った。果たして自分は一葉に恋をしているのだろうか、と。
一葉と出会ってからの二年間でそうした感情を抱いたことは一度もなかった。
友達よりも少し近しい間柄、親友という定義が正しい。
その枠の中に居るのはアリサとなのはも同じで、一葉だけが一歩飛び出ていたわけもない。三人の立ち位置は変わることなくずっと同じだったはずだ。
それに、アリサはともかくとしてなのはが一葉にいわゆる恋慕の視線を向けていることにすずかは気がついていた。
それは情熱的なものではなく、なのは本人でさえ気がついていない淡く、拙い想い。
見ているこっちがもどかしくて、微笑ましくて、幸せな気持ちになるものだ。
恋する少女と恋される少年。それは、自分のような化け物が立ち入ることなど決して許されない、綺麗で無垢な二人だけの物語り。
そんな二人を見ることがすずかは好きで、そんな物語りを間近で見られる幸運をあの時の自分は世界で一番幸せだと思っていたのに、あの日の自分に今の自分を見せてやりたい。
一葉がこちら側だとわかった途端、こんなにも一葉を渇望している浅ましい自分の姿を。
誰にも譲らない。
誰にも渡さない。
醜い、醜い独占欲。それなのにそれ以上に一葉に隷属したいという矛盾した欲望が腹の下あたりで渦巻いている。
鎖で繋がれ、飼育されたい。足蹴にされ、その足の裏を舐めまわしたい。身体も心も、全てを支配されたいという危うい感情。
これでは、まるで獣だ。
二日前の旅館ですずかが一葉の影を見た時、この少年は自分なんかよりも遥かに化け物じみた存在であることを理屈なんか通り越して理解した。
その時から生殺の与奪権を対価に安寧を求める獣のように、一葉に服従したいと心のどこかで願っていたのだ。
こんな感情、果たして恋と呼んでもいいのだろうか?
小説で読む恋はもっと楽しくてフワフワしていて、蜂蜜のように甘く檸檬のように酸っぱいものだ。
少なくともこんなにもドロドロとしていて黒いものではないはずだ。だが、その感情は一度自覚してしまうと、津波のように押し寄せてきてあっという間に心を支配してしまっていた。
すずかはもう、一葉と友達には戻れない。親友なんかじゃ、満足できなくなってしまっていた。
「このままって……。 背中に向かって話しかけるのって、無視されてるみたいで嫌なんだけど……」
「あっ、あのさ! 一葉くん!!」
一葉の言葉を遮って、すずかは頭で考えるよりも先に言葉を重ねた。
「今日、私の家に来て欲しいんだ……」
「……はい?」
会話が全くかみ合わない突然の自宅へのお誘いに、一葉は状況が口から出た頓狂な声は、二人しかいない踊り場の壁にぶつかって反響した。
◆◇◆
逃げよう。
水に垂らした一滴の墨のように、そんな考えが一葉の心にじわじわと広がっていった。
朝のホームルームの前、すずかから唇を奪われ、血を吸われ、まさに驚天動地な出来事から既に二時間が経過しており、後五分ほどで中休みを知らせる鐘の音が学校に響くはずだ。
ちなみに、すずかは一限が始まる前に既に早退している。家に帰って、忍に色々と話さなければならないことがあるそうだ。
事の顛末の後に、すずかの口から語られたのは“夜の一族”と呼ばれる月村家の秘密だった。
動揺が冷め止まないしどろもどろとした口調だったが、それでもずっと昔から光の当たらない歴史の影で生きてきた惨めな一族の話しと、その件について忍から一葉に話しがあるから、今日の放課後に月村邸に来て欲しいという旨を聞かされたのだ。
すずかの話しでは、一葉が一族の秘密に気がついている可能性がある為、立場を明確にするために友好な関係を築きたいとのことだが実際はどうかわからない、ということだ。
確かに、忍が懸念していた通り一葉は月村邸の住人たちが普通の人間ではないことに気がついていた。
それは世の全てを欺きせしめてみようという演技めいた違和感と、必死に自然に振舞おうという不自然さがきっかけだった。
なにも知らない者だったら気がつかない、微かなズレ。蝶の群れに一匹だけ蛾が紛れ込んだかのような居心地の悪さがあの家には在った。
常識と日常という安寧に感覚が麻痺したものでは決して感じることができない強かな擬態。人の心を持ちながら人ではいられない苦しみと、他者と深く交わることができない孤独。そして、それをどうすることもできない絶望、屈辱、妬みがあの家には潜んでいた。
一葉はその感情の全てを知っていたからこそ、その雰囲気を敏感に感じ取っていたのだ。
かつて一葉が過ごした生も同じだった。家名と家に縛られ、人の領域を超えてしまった差別と蔑如の視線。
運命に宿命づけられた北極星のように、闇に塗りつぶされた世界で孤独に佇むことしかできず、壊れていくことしかできなかった。
人は生まれ落ちた時は誰もが自由のはずなのに、いたるところを見えない鉄鎖で繋がれている。
すずかはきっと、吸血鬼という異端と月村という家名に縛られながら、他者とは違う後ろめたさと、自分ではどうすることもできない疎外感を抱え込みながら今日まで生きてきたのだろう。
すずかの口から紡がれた告白を聞いた一葉は、すずかを哀れむと同時に、聞いてしまったことをひどく後悔した。
人外、人の世の裏側に潜んで生きる人種はいつだって秘匿に重きを置く。社会という秩序の中において生き残るための古くからの習わしは世界や時代が違くとも変わらないはずだ。
それが例え、小学生という社会的に脆弱な力しか持たない一葉であっても例外ではないだろう。
僅かでも自分達を脅かす可能性を持つ者には、早々に手を打ってくることが容易に想像できたし、すずかはみなまでは口にはしなかったが、言葉の節々から忍が一葉にある種の危惧を抱いているということが見て取れた。
二日前の夜に、アルフと対峙した時に見せた自分の影。それをすずかだけでなく忍にまで見られていたことは迂闊だったとしか言いようがない。
すずかの話しでは、“夜の一族”というのは同じ祖を持つ分家と宗家で作られた組織のようなもので、忍はその宗主の座に就いており、また今日は忍の後見を務める幹部が一葉に会いに来るらしい。
もし、すずかの誘いのまま月村邸に赴いたら、間違いなく自分にとって不利益なことしか起きないと確信めいたものを一葉は感じていた。
仮に忍たちが友好的に話しを展開しようとしても、なんらかの形で一葉の生涯を縛る制約は課せられるだろうし、記憶の改竄も方法は限られるがないというわけでもない。
最悪、命の危険を案じなければならないことにだってなり得るかもしれない。
ただでさえ、今はジュエルシードやアゼルのこと、そしてなによりも自分自身のことで手いっぱいだというのに、これ以上余所に気を回す余裕など一葉にはなかった。
すずかには、非常に申し訳ないが一葉は“夜の一族”や月村家などに関わる気など微塵もなかった。
もっとも、今逃げたからといってその後にどうにかなるという問題でもないということぐらいは重々に承知している。
だが、少なくともアゼルのことを片づけるまでは逃げ続けよう。その後であれば、記憶を消されようが、なにをされようが構わなかった。
一葉は頬杖をつきながら視線を窓の外へ移すと、ゆったりと雲が流れていた。
一葉は今日一日、教壇に立つ女性教諭の言葉は全て右から左に流れ、時折指でシャーペンをくるくると回していただけだ。
そろそろ授業が終わると思いだした頃、教室の黒板の上に設置されているスピーカーから鐘の音が響いた。
「じゃあ、今日はここまでね」という声を皮切りに、教科書やノートを机にしまう紙擦れの音と同時に生徒たちが無言の抑圧を一斉に解放したように喋るだし、瞬く間に教室は喧騒に支配された。
一葉も手早く机に教科書とノートをしまうと、筆箱だけを鞄に入れる。とりあえず、今日はこのまま早退し、明日からはしばらく風邪を装い学校に来ることを控えることにした。
そうすれば、両親が共働きである緋山家では昼間の時間も有効に使え、忍もなんだかんだで良識のある人間だ。病人相手に無茶はしてこないだろうという考えがあったからだ。
一葉は教諭に早退する旨を伝えようと、鞄を持って立ちあがろうとする。
ふと、窓の反射越しになのはと目が合った。
ずっとなにかを思い詰めているような、弱々しい表情を見て一葉は心が冷めていくのを感じた。
この二日の間、ずっとそうだった。
昼間にこうして起きている時も、寝ている時も、少しずつ嗅覚や聴覚といった視覚以外の感覚が鋭利になっていき、それに反比例するかのように感情が削られていった。
今まで息を潜ませていた影が徐々に蝕んでいるかのように心が闇に染まっていく。たった二日前は、すずかに大丈夫と言っておきながら、舌の根も乾かぬ内に一葉は人であろうとすることに疲れ始めていた。
きっと、既になにもかもが手遅れなのだ。
魔法やアゼルとの出会いは、きっときっかけに過ぎない。
自分の進む道の先は歩いていくか走っていくかの違いだけで、きっと行き着く先は同じだったはずだ。
ならば、今の自分には前進することしかできない。結果など、その後で勝手についてくる。
そうだ、重要なのは生きた結果ではなく、今を生きることだ。
そう悟った一葉を、なのはもアリサも、そしてすずかが流す悲しみの一滴さえも心を波立たせることはできなかった。
◆◇◆