魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
大きな正門をくぐり、一葉を乗せたベンツは玄関先の車寄せに付けられた。
低い振動を絶え間なく続けていたエンジンが停止すると、しばらく間を置いてからノエルが後部座先の扉を開く。
一葉は促されるままに車を降り、アーチ状の玄関をくぐると玄関先には大きめのスリッパが並べられ用意されていた。
屋敷中に敷かれた毛並みのよう紺色の絨毯。一葉はスリッパに足を嵌めると一歩先を歩くノエルについていきながら長い廊下を歩く。
そして屋敷の一階の突きあたりにある部屋の前まで案内された。
一角獣と獅子の装飾が施されたチューダー朝様式の厳めしい扉だ。一葉はその部屋を知っていた。
中に入ったことはないが。確か初めて月村邸に招待された時にすずかから、来賓が来た時のみに使用される部屋だと聞かされた記憶が脳裏に蘇る。
この部屋に案内されるということは、今日はすずかの友人としてではなく正式な来賓として扱われるということだ。
「どうぞ、お入りください」
ノエルは躊躇する様子も見せずに、慇懃な態度でその扉を開ける。
部屋の中は昼間なのにカーテンが閉められていて、シャンデリアが照らす人工の明かりで満たされていた。
「ようこそ、一葉君。 待ってたわよ」
「……どうも」
大体十メートル四方の部屋の中心に置かれた、木製の応接テーブル。他にはいくつかの本棚と古い機械式の大時計。そして部屋の最奥に置かれた重厚そうな執務机が在るだけで、部屋全体の雰囲気としては質素だがどこか高級感が漂っているが、調度品や時間を被った柱や壁からは余所者委縮させるような空気を放っているようにも思えた。
そこで一葉を待っていた二人の女性。
一人は当然忍だが、もう一人は見たこともない女性で、一葉は怪訝に眉根を潜める。
女性はその表情を察したのか、上品に微笑むと自己紹介を始めてくれた。
「初めまして、緋山君。 君のことは忍やすずかから聞いているわ。 私の名前は綺堂さくら。 二人の叔母に当たるわ」
「どうも、初めまして」
さくらの自己紹介に、一葉は上っ面だけの返事で返した。
一葉の注意は部屋の間取りに向いていた。
扉は一つ。窓はカーテンで見えない。万が一の時の為に逃げる経路は頭の中でシュミレートぐらいはしておいても失礼にはならないだろう。
「どうぞ、かけてちょうだい」
着席を進める忍の声は硬質で、既に穏やかではない空気が漂っていた。
一葉は臆した様子を見せることもなくソファに腰を鎮めると、車を降りてからずっと肩に居たベヌウは車内に居た時と同じように一葉の膝に跳び移る。
一葉は直ぐにでも立ち上がって踵を返したい衝動を堪えながら、正面に座る二人を見た。
一葉としてはやましいことはなにもしていないし、月村の家に泥を塗ったわけでもない。本来ならばこうして呼びつけられる筋合いなどないが、彼女たちがひた隠しにし続けてきた秘密を理不尽ながら知ってしまった者としての義務と責務でここに居るのだ。
忍は狡猾な狼のような警戒した面持ちで一葉に視線をぶつけてくる。だが、忍の隣に居るさくらは、押し固めたような硬い表情からは戸惑いが滲んでいた。
忍の叔母と言っていたが、見た目だけでなくさくらは実際にまだ年若いのだろう。
側室や妾が当たり前だった時代とは違い、今時姪と歳の近い叔母は珍しい。
忍は藍色の髪を腰まで伸ばしているが、さくらは赤に近い焦げ茶の髪を肩で切りそろえている。瞳の色も違うが、目のキレや鼻筋の良さ、唇の形など細部は非常に似ており、こうして並べてみると姪と叔母というよりも少し歳の離れた姉妹のようにも見え、余計に二人の表情の温度差が浮き彫りになって見えた。
さくらは一見して静かな佇まいでいるが、どこか落ち着きはなく意識の中心を一葉では悪、、むしろ隣に座っている忍に向けていた。
それどころか一葉を見る視線には気遣いさえ窺える。
さくらが、すずかの言っていた幹部の親族だというのは状況からして間違いはないだろうが、だとしたらこの温度差は一体何なのだろうか?
「綺麗な鳥ね。 緋山君のペット?」
一葉が思推の端に触れていると、さくらは一葉の膝の上で翼を休めるベヌウを見て尋ねてきた。
「ペットというか、なんというか……。 少なくとも愛玩動物ではないですね」
ベヌウがデバイス出ると知らない人間に、動物が相棒であるなどと公言する無恥さは一葉は持ち合わせてはいないので、とりあえず曖昧に言葉を濁した。
「へえ。 じゃあ、将来は鷹匠?」
「いやあ……、確かにカッコいいとは思いますけど、今のところ将来については考えてません」
ペットを掴みにするのは、初対面同士の会話の掴みとしては上等だ。さくらは事もに接する穏やかな口調で会話を弾ませ一葉と接すべき距離を図っているのだろう。
だが、一葉としては気を使われているからといって、媚を売る理由にはならなず、徹底して当たり障りのない応答を続けた。
さくらとの会話の最中、一葉は喜怒を形に現さず徹底して見えな壁を展開し続けると、さくらの徐々に口数が少なくなっていった。
「緋山様。 紅茶とコーヒー、どちらになさいますか?」
二人の会話が途切れた、絶妙のタイミングでノエルは会話が割り込み尋ねてきた。
家の格式は執事で決まるとはよく言うが、ノエルは執事ではないものの、その物腰の丁寧さと徹底された教育を見れば月村の家名は伊達などではないことが窺える。
同時に、ノエルの慇懃な態度は普段、一葉達が遊びに来た時などの噛み砕いたものではなく、今日は妹の友人としてではなく忍の正式な来賓として招かれたのだと、声には出ない言葉で言われている気がした。
「いや……、すぐにお暇するので結構で……」
「一葉君には紅茶を。 私たちにはコーヒーをお願い」
一葉がやんわり断りを入れる前に忍が声を被せてきた。どうやらノエルとは違い、忍は慇懃無礼で通すつもりらしい。
ノエルは忍のオーダーに一礼すると、流れるような滑らかな動きで部屋から出ていく。
扉が静かに締まるのと同時に、そのタイミングを待っていたかのように忍が唇を動かした。
「で、単刀直入に聞くけど私たちのことはどれくらい知ってるのかしら?」
忍はソファの背もたれに体重を預け、足を組みながら手慰みに自分の指を絡めていた。
表情は能面を張り付けたように感情を読むことはできないが、それでも鋭い視線は射竦めるように一葉を貫いている。
隠微に緊張した空気が部屋を支配してゆく。
今、一葉の正面に座るのは気さくな友人の姉ではなく、一人の立場を持った大人だった。
「どのくらいと聞かれても、すずかと忍さんが自称吸血鬼だってことぐらいですよ。 後は一族郎党が集まって夜の一族ってのを名乗ってるってことですかね」
忍の質問に一葉はあっさりと白状すると、忍は一瞬だけ意外なものを見るように瞳を揺らした。
「意外ね。 てっきり、とぼけるものだとばかり思っていたのに」
「とぼけて見逃してくれるんだったら是非ともテイクツーをお願いします。 次は全力でとぼけてみせるんで」
一葉は真顔で冗談の境界すれすれを言うと、忍は鼻で笑った。
「却下に決まってるでしょ。 それで、一葉君はいつから私たちのことに気がついていたのかしら?」
「気がついてたっていうか、今回のことで繋がったってのが正しいですね。 元々、違和感は感じてたんですよ。 月の周期に合わせて口から血の匂いをさせる姉妹と、動く度に機械の駆動音のするメイドさんなんて、アメリカあたりにありそうなB級ホラー映画っぽいじゃないですか。 だから、自分の勘違いかなって思ってたんですけど、今朝すずかに話を聞かされて全部の辻褄が合って納得したってとこですね」
一葉にとって今回の出来事は、忍とすずかが日常で思いがけず取りこぼしてきた数々の不自然が繋がっただけのことに過ぎず、正直に言ってしまえば二人の正体など対岸の火事の如くどうでもいいことだったのだ。
興味も関心も示さず、気付かない振りを続ければ今までの日常を過ごすことができると思っていたのだが、まさかこのタイミングで露見し刺されると予想もできなかった。
「でも、別に脅すつもりもい言いふらすつもりもありませんよ。 だから、もう帰ってもいいですか?」
「言いわけないでしょ。 そんな口約束、信じろという方がどうかしてるわ」
忍の瞳には黒い影が落ち、口調には棘があった。不穏な態度をとる忍の空気を感じ取ったのか、今度はさくらが穏やかな口調で話し始めた。
「あのね、私たちの秘密を知った人間にはそれなりの対処をしなきゃいけないの。 一つは、私たちに関する記憶を消させてもらった上でこの土地から出て行って貰うこと。 これに関しては、金銭的なことはできる限り私たちが負担することになってるわ。 そしてもう一つは契約といって、私たち一族の協力者、もしくは身内になって貰うものよ」
「なるほど……。 恭也さんは、その契約ってのをしたんですか」
恭也の名前を出すと、忍の眉がピクリと動いた。
「そうね。 彼と忍は生涯を一緒に過ごす道を選んだ。 元々、相思相愛だったし彼は家柄的に鑑みて誰も反対はしなかったわ。 でも、一葉君の場合は今の年齢も考慮に入れて、契約するとしてもしばらくは私たちの監視がつくことになると思う」
「……そう言う話しをしてくれるってことは、オレに記憶を消されるか契約ってやつをするかを選ばせてくれるんですか?」
「そうね。 私たちは緋山君自身の意見を尊重するわ」
子供に接するときの、優しく柔和な笑みを浮かべて言うさくらに、一葉は迷惑そうに顔を歪め口を開いた。
「そんなの、どちらもお断りですわ」
はっきりとした拒絶の言葉に、さくらの表情に戸惑いが走る。
「……どうしてかしら?」
今度はさくらに代わり、険しい目つきで忍が地を這うような低い口調で尋ねてくる。
「どうしてもなにも、どの道オレに与えられた選択肢はそっちが用意したものだけじゃないですか。 記憶を縛られるか、人生を縛られるか。 どっち選んでもオレにメリットは全くないじゃないですか」
一葉は眉を顰め腕を組み、冷静な口調で答える。
幾重にも折り重なれた心理の罠に、一葉は気がついていた。
最初はノエルが学校にまで向かいに来たことから始まり、逃げられない状況をつくる。そして、普段とはかけ離れた態度で接し、心理的な圧迫をかけて切迫した状況下で僅かな猶予を与える。
その猶予というのは、思考の選択肢だ。大抵の場合は意図的に与えられた選択を、自分の判断と錯覚し自らに枷を嵌めてしまうだろう。
だが、一葉は氷のように冷静だった。
「そもそも、オレを引き込んで忍さんたちにどんなメリットがあるんですか? オレの影を見たんなら尚更ですよ。 忍さん如きが、オレを飼いならせるとでも思ったんですか?」
まるで、一方的に巻き込まれた被害者のような面をした一葉の平坦な言葉に忍は不機嫌に下唇を噛む。腹に逸物を抱えている以上、この場で怒り狂う筋合いなどないと理性が断じる一方で、目の裏が赤く染まるほどの怒りが込み上げてきた。
目の前の少年はあまりに冷静で、理解しがたくて、こちらのなにもかもを見透かすような冷たい視線を向けている。
一葉の正鵠を射た指摘にさくらも数瞬前までの子供を見る目つきは鋭いものへと変貌していた。
この、オン・オフのスイッチの入れ替えの素早さは流石というところだろうか。
さくらも、既に一葉に普通の子供として接していたら痛い目に合うということを感じ始めているのだろう。
そう、一葉は普通ではない。そのことはずっと以前から薄らと感づいてはいたが、この巡り合わせのきっかけとなったのがすずかであるというのは皮肉以外のなにものでもないだろう。
自分が守りたいと願った妹が自ら、懐に脅威を招き入れたのだ。
三者の間に、一瞬の沈黙が降りる。そのまま気まずい雰囲気が空気の支配を始めようとした頃、扉から単調で乾いた音が二回響いた。
「失礼いたします」と、一礼をして入ってきたのはティーワゴンを押したノエルだった。
ワゴンの上には人数分のカップと、ポットが二つ。それとお茶受けのショートケーキが置かれている。
ノエルは応接テーブルにワゴンをつけると、手慣れた手つきでカップに紅茶とコーヒーをそれぞれ注ぐと、丁寧に配膳し忍の後ろに佇んだ。
一葉は目の前に配膳された紅茶に手を伸ばす。忍も乾いた舌を濡らすために、夜の闇と同じ色をしたコーヒーを一口含んだ。
ほどよい苦みの下に広がり、色々な感情と一緒に呑み下す。忍は湯気が揺らめくカップをソーサーの上に戻すと、鉛を含んだように重たい唇を動かした。
「……かつて、まだ世の中が戦禍に塗れていた頃に人ならざる者、人あらざるものが今よりもずっと多くいたと言われているわ。 宗教、呪術、特殊能力。 いわゆる異端の力を持つ者たちが、私たちの一族の祖と考えられているの」
「面白そうな話しではありますけど、それって今関係あることですか?」
話しの展開に、一葉は手にしていたカップから唇を離して怪訝に眉を寄せるが、忍はそれをあえて無視して言葉を続けた。
「かつて、と言ったのは、それはもうずっと昔の話しだからよ。 時代と文明の進歩が異端の能力を必要としなくなった。 権力者たちが争ってまで手にしようとした力はいまじゃほとんどが知識や機械にとって変わられてしまっているというのに、力を持った者は今でも生まれ続けているのよ。 この世に必要とされなく今もなお、ね。 ねえ、一葉君。 哀れな話しだと思わない? この弱肉強食の世界で、強者はいつだって力を持たない、声が大きいだけの大衆よ。 私たちは力を持って生まれたとしても、弱者であって、いつまでたっても救われることなく身内同士で虫のように身を寄せ合って生き永らえている。 私たちが、強者に喰われる弱肉だとばれないように、怯えながらね」
忍は顔に自嘲の笑みを張り付けながら語り、警戒の表情が帯び始めた一葉を睥睨する。
聡明な一葉のことだ。おそらく、ここに呼ばれた本来の目的に感づき始めているのだろう。
「……、今の話しを聞く限りだと、忍さんは救いよりも力が欲しいって言ってるように聞こえるんですけど」
「その通りよ。 だけど、勘違いしないで。 私が欲しい力は身内に対する抑止力であって、別に世の中をどうこうしようなんて一切考えてないわ。 恥ずかしい話しだけど、私は一族の当主といっても絶対の権力を持っているわけではないの。 私が欲しいのは、今の私の生活を脅かそうとする人たちに対する力……。 つまり、一葉君のことよ。 正直に言って、私は君が欲しい。 できることなら、この場で契約をして貰いたいのよ」
「残念ですけど、オレは忍さんが考えているような力なんか持ってません。 そもそも、オレの力は、誰かの為に使えるような優しいものじゃないんですよ」
「使える、使えないは私にとって関係ないのよ。 ただ、力を持った一葉君が私の傍に居る。 それで十分。 できれば、私が優しくしている間に首を縦に振って貰いたいのよ。 私も力づくは嫌だし、なによりすずかが傷つくからね。 でも、勿論タダでとは言わないわ。 一葉君が望むもの……、私のできうる限りのものであれば、なんでも叶えてあげる」
忍は隣に座るさくらの、苦虫を噛み殺すような表情を視界の端に捉えた。きっと、壁際で彫像のように佇むノエルも同じような表情をしているのだろう。
傍から見れば、女子大生が小学生を威圧的に責めているようなこの場では一切不自然に見えない。
むしろ、威圧的な態度をとっているのは一葉の方だった。
静かに牙を潜ませる獣のように、一葉が忍を射抜く視線には隠された殺意があった。
「契約……っていうのは、忍さんと恭也さんを見ている限り、善意を担保として契る契約なんでしょうね。 お互いの信頼が合って初めて成り立つもの。 一応、参考までに聞いておきますけど、忍さんがオレに契約を持ちかけるのは、忍さんの善意から来るものなんですか?」
一葉の質問に、忍は首を横に振った。
「いいえ。 これはすずかの善意よ。 すずかが、一葉君との関係を壊したくないっていう善意が、今のこの時間を作っているの。 そもそも、私は最初はね、一葉君と契約するつもりなんてなかったんだけど、すずかに泣いて頼まれてね……」
言葉の通り、忍は一葉と契約する気など最初はなかった。一方的に、強行的に従属の契りを交わすつもりでいたのだが、忘れようと記憶の底に封じ込めたすずかの涙を、今朝のすずかの慟哭に引き起こされ、同時に甘さが出てしまった。
電話越しでさくらに言った時、契約は建前だと言ったが今は違う。もし、一葉が話しに乗ってくるのであれば、妹の願いの通り正規の手順を踏もうという考えが心の内にあった。
「すずかの善意に、一葉君も善意で応えるべきだと私は思うわ。 もし、私たち一族と契約するのならば、その時はすずかと契約を交わして貰う。 将来の、すずかの旦那様の候補としてね。 きっと、すずかもそれを望んでいるから……」
忍の譲歩の原因はそこのあった。
この数日の、すずかの一葉に対する執着は尋常じゃなく、心の内に灯った炎が燃え上がり、周りを見えなくさせているような……、初めて自分が恭也に恋心を自覚した時と同じ目をしていた。
きっと、すずかは一葉に恋を知ったのだ。だとしたら、このまま恋も、愛もない近親婚を強いらせなけらばならないのならば、すずかの女としての幸福を考えるのならば、このまま一葉と、という心算があった。
すずかの、将来の結婚相手は既に決まっている。まだ一度も顔合わせをしていない、二十も年上の男だ。
一族の血を引いてはいるが、三親等以上離れている男は、それが唯一だった。人柄も悪くなく、社会的な地位もあるが、それがすずかの幸福に繋がるなどと忍は思っていない。
忍も、かつては一族が決めた将来の伴侶がいた。だが、自分の我儘で恭也をそれと決め、相手方の面子を潰してしまったのだ。
そして、そのつけは妹であるすずかが背負うことになる。血のしがらみや、呪いとも言えるような呪縛にすずかに負わせてしまったことをいつも気に病んでいた。
すずかはまだ九歳で、人の心は不変というではない。だが、女としての幸福を考えてやることは、今からでも早すぎるというわけはないのだ。
そう、なにもかもすずかの為。
すずかを想う忍の良心が、こうして一葉との対談の席を設けさせた。
だが、忍の良心は薄氷を踏みつけるかのごとく、打ち砕かれる。
「すずかが望もうが望まないが、オレには関係ありませんね。 もう帰ってもいいですか?」
一葉の言葉に、ただでさえささくれていた神経がさらに尖り忍は不穏に声を出した。
「私の妹じゃ不服かしら?」
「そういう意味で言ってるんじゃないんですよ。 すずかは可愛いし、性格もいいし、物凄く魅力的ですよ。 ただね、化け物のいざこざに人を巻き込むなって言ってるんです」
一葉の口調は静けさの下に、鋼鉄のような硬い拒絶を孕んでいた。
“化け物”と吐き出された侮蔑と差別の言葉に、胸に氷を押し当てたように冷たくなる。
「……そう。 残念ね」
ああ、本当に残念だ。
この少年はすずかの善意を足蹴にした。
自分の良心を利用し、甘さにつけいることができなかった。
なんて、愚かなのだろう。この少年は、自分がまともな人生を送れる最期の機会を、自らの手から取りこぼしてしまったのだ。
忍は二つの眼球に意識を集中させた。
目の奥に熱がこもり、景色が薄ら赤い色彩に覆われる。
魅了の魔眼と呼ばれる、異端の能力は吸血鬼の力の一つだ。
見つめた相手の身体の自由を奪う催眠術の一種で、応用すれば記憶の操作もできる汎用性の高い能力。
血のように鮮やかな深紅に変色した双眸で一葉に視線をぶつけると、一葉は一瞬だけ虚を突かる表情を浮かべ、彫像のように筋肉を硬直させ固まった。
「驚いた? これも吸血鬼の能力よ」
「知って……、ますよ……。 今朝……、すずかにもやられた……」
「あら、喋れるの? 驚いたわね」
口では言いながらも、忍はどこか楽しそうに唇を歪めていた。
「私の魔眼の力の強さは一族の中でも一番なのに。 本当だったら石像みたく動くどころか、喋ることも眼球一つ動かすこともできなくなるのよ」
忍はソファから腰を上げ、一葉の前に移動すると再び腰を下ろし視線を合わせる。
「楽しみね。 一葉君の影の正体、その力がどれほどのものなのかが」
「……」
動かぬ一葉の憎々しい目つきを滑稽に思いながら、忍は白魚のような指先で一葉の頬を撫でるように触れる。
「安心してもいいわよ。 別に、交渉が決裂したからって一葉君の記憶をどうこうするつもりなんて最初からなかったのよ。 ただ、私の奴隷になって貰うだけだから」
忍の穏やかでない発言に、一葉は目を揺らす。
「私たちは“従属”って呼んでるものでね、私の血をほんの少しだけ一葉君にあげるの。 そしたらね、不思議なことに一葉君は私の血を定期的に飲まなきゃ生きていけない体になっちゃうの。 つまり、生きていくためには私に一生逆らえない。 理解できたかしら?」
吸血鬼に血を吸われると眷族になると伝えられる伝承の起源はそれにあり、長い時代の変遷の中で、その言われは大部分が改竄され、間違った形で伝わってきたのだ。
だが、忍が一葉に血を与えたからといって一葉が吸血鬼になるというわけではない。
忍やすずかのように、血を糧に生きる一族は血中に濃度の高い麻薬成分を大量に含んでおり、一度でも体内の侵入を許してしまうと精神的な喉の渇きに生涯苦しめられることになる。
渇きを抑える方法はただ一つ。侵入を許した血の持主の血液を、定期的に摂取することだ。
もし、それを怠れば最終的には発狂し死に至る。
つまり、一度でも血を受け入れてしまった人間は隷属という相互関係が強制的に結ばれることになるのだ。
その非人道さと不道徳に塗れ爛れた関係ゆえに、先達たちは百年以上も昔に禁忌とした。
忍は鋭い犬歯で自らの唇を薄く噛み切る。痛みとともに鉄の匂いが咥内に広がった。
「一葉君が最初から首を縦に振ってくれたらこんなことしなくて済んだのにね。 残念よ……、本当に」
忍は一応の首筋に犬歯をあてがい、優しく牙を突き立てる。
温かな人の温もりを舌に感じながら、ひと思いに突き立てようとした刹那__
「本当に残念だよ、忍さん」
凛然とした一葉の声が響き、空気が忍の身を切り裂いた。
◆◇◆