魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
心臓が燃え立つような衝撃的な出会いから、いくばかの時間が経っていた。
クロノはリンディと共にアースラの食堂で食事を摂り終えたばかりだった。
アースラの食堂は談話室と一体となっており、艦内でも最も広いスペースが確保されている。
固定式の長テーブルとイスがいくつも設置されており、白熱灯で照らす室内は白い壁に反射していっそうに広く感じさせる様相をしていた。
「まさかセキレイ・クロスフォードが生きてたなんてねぇ……。 クロノ君、親戚だったなんて初めて聞いたよ」
溜息と共にエイミィが呟く。食後のコーヒーを口に含み、ホゥと息を吐いた。
「父さんは婿養子だったらしいから名字が違うしな。 それに言いふらすようなことでもないし」
クロノもまた、エイミィ同様にコーヒーで口を濡らす。
リンディとクロノに連れられ、緋山一葉の母である緋山亜希子、もといセキレイ・クロスフォードがアースラに乗艦してから直ぐに、クロノは準待機を命じられた。
今も恐らく、艦長室でリンディとセキレイが一葉が事件に巻き込まれた経緯や今後の扱いについてを協議している最中だろうが、クロノはその席に立ち会うことは許されなかった。
不満がないわけではない。だが、セキレイと話している時の母の言葉に裏側に感じた張り詰めた不安や、胸の奥を擦るような感傷を感じ取ったクロノは何も言えなくなってしまったのだ。
「ふーん……。 それにしても、まさかこんな辺境の管理外世界で教科書にも載ってるような超有名人に会えるなんて……。 後でサインもらえないかなぁ」
「どうだろうな。 僕は少ししか話しをしていないが、どうも死を装ってた風な節があった気がする。 尤も、そこら辺は僕たちが踏み込んでいい領域じゃない。 艦長の管轄だ。 でも……、もし可能なら、ゆっくり話せる時間は欲しいな
セキレイ・クロスフォードは、かつて天才と呼ばれる魔導師だった。
僅か8歳で管理局に入局し、数え年が10になる頃にはその「エース・オブ・エース」と呼ばれていた。
エース・オブ・エースとは、管理局で最も優秀な空戦魔導師にに与えられる称号で、現在は空席となっているがその時代最強の魔導師の象徴ともされるものでもある。
彼女の勲功は数え上げればきりがなく、士官学校の教科書の題材にも取り上げられており、現行で使用されている戦闘訓練のシュミレーターもセキレイの戦闘記録を基にプログラミングされている。
晩年は実力派のみで構成された時空管理局本部遺失物対策室機動一課第一分隊強行班の副隊長に任命され、隊長ゼスト・グランガイツと共に隊を率いていた。
尤も、機動一課強行班は別名「亡霊部隊」と呼ばれ、存在はするが一切の実務内容は非公開とされており12歳以降の戦闘記録や訓練記録は残ってはいないが、それでも局内の古株の魔導師の間では今なおその武勇伝は取り留めのない会話の間の話題に上がったりもしていた。
そんな彼女の最期は壮絶なもので、オーバーSランクに指定されている最凶最悪のロストロギア「闇の書」を守る四体の騎士プログラムをたった一人で相手にし、道連れに自爆したとされている。
その時セキレイはまだ14歳だった。
そして、その死は今も栄誉に包まれ語り継がれている。
結果として、騎士プログラムを欠いた闇の書の主は書の暴走を起こし、追跡任務にあたっていた二隻の次元艦と、当時艦長を務めていたクロノの父親を含めた乗組員二〇〇名の尊い命が犠牲となったが、それでも次元世界が一つ亡びる程度であれば軽微な被害ととまで言われた歴代の闇の書事件に置いて、一般人を含まないこの数値は奇跡といわれている。
その奇跡の立役者ともいえる英雄が管理局に凱旋するとなれば、それはきっと喜ばしいことなのだろうが、クロノはそれでもリンディとセキレイはそのことを望んでいないように思えていた。
「でも、それは目の前の事件を解決してから。 なのはちゃんたちの戦闘記録の報告書出来たんだけど、今見る? 映像もあるよ
「早かったな。 報告書の方は僕のデバイスに送ってくれ。 後で目を通す。 映像は今出せるか?」
「うん」
エイミィは食べ終えたトレーを横に寄せて身を乗り出し、乗組員に支給されている半導体をテーブルの上に置いた。そして、指でいくつかの操作をすると透過スクリーンが宙に映し出される。
それは、高町なのはとフェイト・テスタロッサの戦闘映像だ。
時間の死んだ夜の海鳴の街を背景に、金色と桃色の魔力を交錯させている。
「この二人の戦闘は始めてみるけど……、凄いな。 特に白い子の方は、本当に魔法を覚えて一カ月足らずなのか?」
「ユーノ君の証言が本当ならね。 なのはちゃんの魔力値は180万、黒い子の方は200万。 最大発揮値になると、その三倍ってところかな。 二人ともAAAクラスの魔力だよ」
「巨大な魔力タンクみたいなものか。 羨ましい限りだよ」
AAAランクとなれば管理局でも5%程しかいない希少な存在だ。
クロノ自身魔力が飛びぬけて高いわけではない。先天的な才能に左右される魔力値に恵まれた画面の中で熾烈な戦いを繰り広げる二人の少女に、僅かながらの嫉妬と羨望を覚えた。
しかし、その内の一人が味方につくとなればこれほどまでに力強いことはない。
「特になのはちゃんはクロノ君の好みっぽいしねぇ。 今から粉かけとく?」
「そういう類の冗談は好きじゃない。 それよりも、少年たちの方はどうなんだ? 僕が駆け付ける前の戦闘記録は?」
確かになのははエイミィの言う通り可愛らしい少女だ。クロノも十四歳という思春期の真っただ中で異性に興味がないわけではないが、流石に九歳の女の子は守備範囲外だった。
クロノはエイミィのからかいを無視し、一葉とアゼルの映像を求めた。
「はいはい、あるよ。 クロノ君って本当にからかい甲斐がないよね」
エイミィは頬を膨らませながら、再び半導体を操作すると画面がつい数時間前の光景に切り替わる。
映し出されたアゼルと一葉は、魔法がぶつかり合う空気を軋ませるような破裂音と、鉄と鉄がぶつかりああう空を裂くような剣戟を響かせる。
この戦いは既に数時間前に過ぎ去ってしまった出来事だと言うのに、今なお戦い続けているのではないかと思ってしまうほどの生々しさと臨場感が伝わり、背筋にひやりとした汗が噴き出てくる。
その起因となっているのは卓越した戦闘センスもさることながら、二人の有する見たこともない能力のせいだろう。
ふと、画面が切り替わる。エイミィが予め重要な部分だけを編集していたのだろう。
映し出されたのは一葉は剣群を出現させる瞬間と、アゼルがなのはに吹き飛ばされた自身の腕を再生させた瞬間だった。
「改めて見ると凄まじいな……。 こんな戦いができる魔導師なんて、管理局にも数人もいないぞ。 それに、この能力は……
「今のところは、二人とも魔法の力じゃないってことだけはわかってるってところかな。 超能力とか霊能力とか、魔法以外の力の発見は何例か報告されてるし、珍しいことだけどあり得ないわけじゃないとは思うんだけど……。 少なくとも、この能力は現在報告されてるどの能力にも当てはまらない未知の力だよ
両者とも能力の解析は不可能。それが分析の結果だった。
一葉の剣の能力は出現の原理が解明できず、さらに極微弱ながら次元震の発生が確認されている上に、アゼルに至ってはまるで時間が切り取られてしまったかのように能力の発動の瞬間すら確認することができなかったのだ。
「それに、セキレイ・クロスフォードの息子の失われた時代の魔法と護国四聖獣か。 聖王教会が知ったら喉から手が出る程欲しがるだろうな
「間違いなく月の踊り子の所有権は主張してくるとは思うよ。 もしかしたら契約者の身柄もね」
聖王教会とは数多くの管理世界に影響力を持つ、かつてベルカ王国を統治した聖王を主神として崇める有数の宗教団体だ。
教会騎士団という独自の私設部隊を有しており、またロストロギアの保守、管理も行っているため管理局との関係も深い。
月の踊り子はかつて聖王を守護する為に開発されたもので、また現存する唯一の護国四聖獣である「影を駆る者」も聖王教会が保管している。
宗教的観念や文化的価値からして、教会が出張ってくるのは明白だった。
「だろうな。 しかし、僕個人の意見としてはあの力を管理局で活かしてもらいたいな……って、なんだその顔は?」
「いやぁ……、あんな目に遭わされたのにクロノ君心広いなぁって思って……。 成長したね。 お姉さん感心したよ」
「頭なでるなっ! 全く……。 第一、あれには僕にも責任がある。 次元法そのものを知らない人間に法律の話しをしたところで通じるわけがなかったんだ。 もっと別のアプローチをするべきだった
エイミィは一瞬だけ意外なものを見るような目をすると、直ぐにからかうように目を和ませ、クロノの頭を撫でた。
エイミィとクロノは幼馴染だった。成績が優秀で者覚えが良い分、頭が固く他者からの批判を排他的にとらえてしまう面があったが、それこそ弟の成長を垣間見たような気持ちになり、どこか嬉しさがこみ上げていた。
「そうね。 でもどの道、結果はあまり変わらなかったと思うわよ
「艦長」
クロノとエイミィがじゃれ合っていると、後ろから凛とした声が響く。
振り返るとリンディが立っており、そこにセキレイの姿はなかった。
二人は立ちあがろうとするが、リンディはそれをやんわりと手で抑えた。
「そのままでいいわ。 エイミィ。 後で報告書と映像のマスターデータを私に頂戴。 コピーは全部削除して。 それから、緋山一葉とセキレイ・クロスフォードに関してのことは一切について口外を禁止します。 今までの報告書、及び航海日誌から二人の名前を消しておくように」
「え……? それって……」
「質問は許可しないわ。 これは命令よ」
表情のこもらない、押さえつけるような絶対零度のような声だった。その声の響きと内容に、エイミィは戸惑う。
リンディの命令は、管理局に対する隠蔽工作。つまり背信行為だ。もしも明るみになれば相応の罰を受けることになる。
しかし、次元艦に置いて艦長の命令は絶対だ。後ろめたさがないわけではないが、エイミィはその命令に従うしか術はなかった。
「わかりました……。 それで、セキレイ・クロスフォードは……?
「一旦帰ったわ。 設備も治療も、少なくとも地球の医療技術よりは上だろうし、心臓にデバイスが埋め込まれた状態の一葉くんを地球の病院で診せる訳にもいかない、って
ならば、リンディはセキレイを見送り直ぐにエイミィの口を塞ぐためにこちらに来たのだろう。
一葉はともかく、セキレイの生存を知っているのは出迎えに立ち会ったリンディとクロノを除き、通信対応をしたエイミィだけだからだ。
リンディは二人に視線を合わせることなく、卓上で流れっぱなしになっていた一葉とアゼルの戦闘記録を憂いを含んだ瞳で見据えていた。
「クロノ……。 一葉君は管理局に向いてないわ。 もし局員になったとしても、それは一葉君自身も、周りの人間も苦しめることになるだけよ
重たいものを胃から吐き出すような、暗い呟きにクロノは眉根を寄せた。
「どういうことですか?」
「長いこと次元艦に乗ってると、たまにこの子のような人間に会うことがあるのよ。 力を持って生まれたせいで人を傷つけずにはいられない……、戦うためだけに産まれてきたかのような、それしかできない哀れな人間……。 一葉君の母親もそうだったわ
「……
つらそうにするリンディの言葉がどんな気持ちから派生したものなのかわからない。それでも、そこには終わりのない後悔や癒されることのない傷の疼き。そして人間の孤独と運命に嘲弄される者に対する憐れみがこもっているような気がした。
◆◇◆
彼女が何を考えその道を選んだのか、何を考えて自ら破滅の道を選択したのか、もしこの世界に真実の愛というものが本当にあるのならば、彼女はたった一つの愛と引き換えに、この世界の全てを憎み、世界の全てに憎まれる決断を下したのだろう。
呪いとも呼べるような彼女の生い立ちを、リンディは知っている。愛されることを知らなかった彼女は結果として、全てを棄て守ろうとした愛と共にその身を滅ぼした。そして、たくさんの人に心臓を引き裂くような痛みと、永遠に癒えることのない傷跡を残し、決して消えることのない影を心に刻み込んだのだ。
彼女が絶望ともいえる決断の中に、どんな希望を見いだしたのかリンディは知らない。もしかしたら希望など最初から持っていなかったかもしれない。希望という夢を見ず、現実を直視しながら世界が亡びる瞬間を、ようやく見つけ出した愛と添い遂げようとしたかっただけかもしれない。
リンディに唯一わかったのは、彼女は後悔などしていないということだけだった。
彼女は人でありながら人でないような、何も持たない空っぽだった彼女は後悔するだけの過去を持っていなかった。
裕福な家庭や、多くの友人。あらゆる恵まれた環境に産まれたリンディにはそれがどんなに辛く、悲しいことなのかわからない。
しかし、あの日から遠く離れ、時間も人も過ぎ去っていった今なら、彼女に最愛の夫を奪われた今なら、彼女の気持ちのほんの一部分だけでもわかり合える気がした。
艦長室には重たい空気が張り詰めていた。
純和風にレイアウトされた部屋の隅に、取ってつけたかのように置かれている鹿威しが時を刻むように音を鳴らす。
囲炉裏を挟みセキレイ、今は緋山亜希子と名乗る女と向かい合い畳に敷かれた座布団に腰をおろしていた。
両者の手元には茶菓子とお茶が置かれている。リンディはどうにも手をつける気分にはなれなかったが、正面の亜希子は不意に湯気立つ湯呑を持ちあげ、口の中を潤すと唇を動かした。
「10年前のあの日にね、多分次元流に巻き込まれたんだと思う。 目が覚めたら地球に居たんだ」
亜希子の魔導師時代を知るリンディには信じられないような、重たい声だった。
リンディの知る彼女は、強く、潔く、哀しみも痛みも持たず、何よりも残酷な戦士だった。それが、もはや別の人間と対峙していると錯覚してしまうほどに、今の亜希子は声も、過去を振り返るように目を伏せる表情にも人間味が溢れていた。
微かな動揺を押し隠すように、リンディは兼ねてからの懸念を亜希子にぶつけようとすると、亜希子はリンディが何を聞きたいのか直ぐに察して、遠い過去を振り返るような微かな笑みを浮かべながらリンディが問いかけに被せるようにして答えた。
「一葉君は今年で9歳よね……。 だったら父親は……」
「ああ。 カストルだよ」
カストル・グランガイツ。
一葉の本当の父の名前だ。今の旦那である信之とは亜希子が地球に墜ちた直後に拾われ、それから結婚したのだ。
当時、信之は大学院生で亜希子は既に一葉を身籠っていた。父親が違うことを承知で、信之は修士課程を修了したと同時に亜希子と一緒になった。
最初の方こそ暮らしは厳しかったが、今ではデザインの会社で役員を務める傍ら私立大学でも教鞭をとるなどして比較的裕福な暮らしができている。
どんなに強い風にも負けない一つ葉のように生きて欲しいと、産まれた子どもに「一葉」と名をつけたのも信之だ。産まれたときから今に至るまで、種が違う子どもをわが子のように可愛がってくれている。
今になって思い返せば、亜希子はきっと穏やかで心根が優しい信之にカストルの面影を重ねていたのかもしれない。
カストルは、高い魔力資質を持ちながらも物静かで争いを好まない気性で、管理局に籍は置いていたものの戦闘魔導師にはならずデバイス技術者の職に就いていた。
一目惚れだった。
何もかもが正反対だった青年に、亜希子はたった一目合っただけで、たった一言言葉を交わしただけで、全身を貫かれ支配されるような衝撃を受けたのだ。
最初は知らない感情に翻弄され、自分自身が内側からカストルに壊されていってしまうような錯覚に、カストルに恐怖を覚えたこともあった。
他人など、自分以外の動く何かとしか捉えられなかった亜希子にとって、心臓のもっと奥を優しく締めつける未知の感情の正体に気が付いた時初めて、自分は人間になれたのだと思った。
カストルもまた、亜希子に好意を寄せていた。お互いの任務や、仕事の合間に理由をこじつけ逢瀬を重ね、二人の距離は少しずつ、それでも確実に近付いて行った。
しかしカストルは自分が想いを伝えたせいで亜希子との関係を壊れてしまうことを畏れ、亜希子もまた、呪われた産まれと、穢れた過去が足枷となり、しばらくの間は友達以上恋人未満のもどかしい関係が続いていた。
その時、リンディは既にクロノを出産し育児休暇で管理局の職を一時的に離れていたが、エース・オブ・エースに恋人が出来たという噂は耳に届き、またクライドの耳にも入っていた。
尤もクライドと亜希子は非常に不仲な兄妹で、二人とも管理局のエリートコースに乗ったにもかかわらず、付き合いどころかほとんど顔を合わせようともしなかった。
何しろ、リンディは亜希子とクライドが兄妹であったことを結婚後に知ったぐらいだ。
二人が血の繋がった兄妹であることを知っているのは、本当に極一部の人間だけだろう。
カストルと亜希子の関係が決定的になったのは、ある冬だった。
リンディは今でも鮮明に覚えている。
管理局の本部が置かれている第一管理世界ミッドチルダ。首都であるクラナガンに数年ぶりに雪が降った日のことだ。
おしろいのような細雪が寒々と散らばり、宵の底を白くするような夜だった。何の前触れもなく、突然亜希子がリンディの家に訪ねてきたのだ。
亜希子が家に来ることは初めてだった。鼻の上まで包み込んだマフラーから覗く双眸は悲しい程に冷たく、雪の冷気が流れ込む玄関先で、三つになったばかりのクロノは不思議そうな表情で亜希子を見上げていた。
その時、クライドは哨戒任務のため不在であったため、亜希子はリンディに言伝を置いていった。
「兄さんに……、ごめんって伝えておいて」
声は胸をつくほどに美しかった。高い響きのまま、夜の雪から木霊してきそうなほどに、儚く、透明であった。
それだけを言い残し去ろうとする亜希子を、リンディはただならないものを感じ取り引き留めようともしたが、亜希子はそのまま夜の闇に溶けるように消え、その日から消息を絶った。
リンディと亜希子の繋がりは、クライドのことを除けば同じ隊に所属していたことがあっただけだ。
遺失物対策室機動一課。そこで、リンディは亜希子の部下だったことがあるが、決して親しかったわけではなく、クライドと結婚をしてからは意図的に避けられ近寄りもしなかった亜希子が、なぜ、わざわざ家までやってきたのか、リンディはその真意をしばらく経ってから知ることになる。
亜希子は過去を断ち切る贖罪を告げに来たのだ。
亜希子とクライドの過去を、リンディは結婚して直ぐに聞かされた。そして、亜希子の悪魔にも似た強さの理由を知った。
リンディは亜希子ほど不幸な人間を知らない。その不幸や、不遇、歪んだ過去は鎖となり、兄であるクライドさえも縛り続け、自らの心を伽藍にして、その空虚に強さを詰め込まざるをえなかったことを知った。
あの日、亜希子は伽藍に詰め込んだ強さを棄て、新たな強さを詰め込むための決別にきたのだ。
カストルが、闇の書の主に選ばれた。
リンディがそのことを知ったのは、亜希子がカストルと共に姿を消してから三カ月が過ぎてからのことだった。
闇の書は特一級危険遺失物に指定される程危険な力を持つロストロギアであり、何よりも厄介なのは自動転生システムと呼ばれる機能だ。
既存の術者が命を落とすと同時に、ランダムで転送し新たな術者を求める。それ故に、闇の書が発見されるたび、滅んだ次元世界が一つだけなら軽度とさえ言われるほど甚大な被害が出るにもかかわらず完全破壊は不可能と言われ続けていた。
管理局は常に闇の書の行方と動向を警戒しており、クライドもまた闇の書の警戒の任にあたっていたのだ。
だが、まさか管理局の身内が闇の書の主に選ばれるなど誰も想像もしなかったのだろう。
カストルは直ぐに身柄を拘束され、その日の内に氷結魔法を用いてカストルごと永久封印が決定された。
封印処理が決行される日。それが、亜希子がリンディを訪ねてきた日のことだった。
亜希子はカストルが拘束されている施設を単身で強襲し、警備の任務にあたっていた局員24名を殺害。そのままカストルと、闇の書と共に姿を消した。
亜希子は特殊部隊の隊員ではあったが、幼少時代に最年少エース・オブ・エースとしてメディア露出が多く、管理局内外でもそれなりの人気があったため、管理局は世論からの批判を避けるために亜希子の背信行為は極秘とされ、表向きには闇の書に関する特別任務に就いていることにされたが、血の繋がった兄であるクライドが二人を匿っているのではないかという疑惑が持ち上がり、休職していたリンディにも誓約書のサインと引き換えに知ることになったのだ。
亜希子とカストルの逃亡は一年にも及び、最期に二人を追いつめたのはカストルの兄、ゼスト・グランガイツ率いる亜希子の古巣でもあった機動一課と、クライドの部隊だった。
公式の発表では、この時に魔力同士の衝突によって発生した次元流に巻き込まれ死亡したことになっている。そして、今に至るまで作り変えられた史実が伝えられることになった。
真実を知っているのはリンディと、あの時に生き残った僅かな隊員だけだ。
「あの子がお腹にいるって気が付いたのは、地球に墜ちてからしばらく経ってからだった。 財産どころか戸籍もなくってさ、自分のことで精一杯だったくせに堕ろそうなんて微塵も考えなかったね。 あの子は……、一葉はカストルが生きた、唯一の証だから……」
「子どもを産むことを決心したのは、貴女の産まれのこともあるんでしょうね……。 クライドに聞いたわ」
整った顔に暗い影を落としながら、亜希子はきっと過去の情景を頭の中で回顧しているのだろう。
次元流に呑まれ行きついた先が管理外世界だったことは、きっと亜希子にとって不幸中の幸いだった。
しかし地球の、それも日本ほど市政の管理が行き届いた国で戸籍のない人間は存在しないことと同じ意味を持つ。まともな職どころか保護すらも受けられない、生活する場所も確保できず、頼れる人間もいない中で子どもを産む覚悟は、並大抵のものでは出来ないだろう。
それでも亜希子は、子どもを産むことを選んだ。それは、カストルとの間に出来た子であるだけでなく、亜希子の生い立ちが起因しているのだとリンディは直ぐに察した。
亜希子がエース・オブ・エースの称号を手にした最大の要因は、高い魔力や才能ではなく、生来産まれ持った魔力変換資質だった。
魔力変換資質は電気、氷雪、流水、空圧と様々なものが報告されているが、亜希子が持っていたものは炎熱系の亜種、発熱の能力だ。
それは炎や氷のように目に見えず、指向性のない魔力の排出に近いものだったが、意図的に鉄さえも一瞬で蒸発させるほどの熱量を持続的に発生させることが可能だった。
その力の強さは、かつて古代ベルカ王国で聖王と共に頂点に君臨した、炎熱系魔導師歴代最強と謳われた、聖騎士ルベルカ・ニケ・ラダスティアの再来とまで呼ばれたほどだった。
だが、その産まれ持った力の代償は、母親の命だった。
強すぎたその力は母体を焼き尽くし、亜希子は自らの能力で焼き殺し炭化した母親の腹から産まれてきた。
「私はね、なんで母さんが私を産もうと決意したのか分からないでいた……。 ずっとさ、自分には母親を殺してまで産まれた価値があるのか、家族に恨まれながら生きていく意味があるのかなんてことばかり考えてたんだ。 それでも、一葉が私のお腹に宿った時、母さんの気持ちが分かった気がしたんだ……」
兄に恨まれ、母を溺愛していた父は壊れ酒に溺れた。
亜希子はなぜ自分が愛されない子どもなのか知ったのは、その力が認められ管理局に入ることが決まった夜のことだ。
家に居場所のない亜希子に部屋などなく、夜は廊下で毛布にくるまって眠っていた。まどろみに眠りに就こうとした時に、乱暴に父に部屋に連れていかれそのまま犯された。
処分されずに残っていた母親のベッドの上で、父親のもので内臓が抉られる苦痛の中で、自分が母親を殺したことを知らされた。
亜希子はその時、父を焼き殺すことだって出来た。しかし、自分が愛されなかった理由と、家族が歪んでしまった原因が自分にあることを知り、幼かった亜希子は、これが自分に与えられた罰なのだと受け入れたのだ。
父の狂気は、父が死ぬ日まで続いた。毎晩母の名を叫びながら、母のベッドの上で獣のように犯され続けた。父を悦ばせるための芸をいくつも仕込まれた。
例え管理局の任務や訓練で身体が疲弊しきっていても変わることなく、そして初潮が来るようになっても避妊具を使用することなど一度としてなかった。まさしく狂気を超えた、鬼畜の所業であった。
今思うと妊娠しなかったことは奇跡だったのかもしれない。
あまりにも強すぎるため人を傷つけずにはいられない力を持ってしまったが故に、亜希子は愛することも、愛されることも知ることが出来ない環境に生まれ育った。
自分の心を守るために、心を空っぽにし、そこに暴力を詰め込むことで自我を保った。
そんな亜希子が人を愛し、愛してくれた人との結晶が腹に宿った時、なぜ母が命を犠牲にしてまで自分を産み落としたのか、わかった気がした、
「母さんは、希望に溢れて私を産んでくれたんだ。 一葉が私の中に居るってわかった時、私が感じたように。 ようこそ、私のところへ……。 ありがとう、私のところへ……ってさ。 多分、先輩もわかるでしょ?
亜希子の母は、自分の命を守るためには子どもを堕ろすしかないと知った時、堕胎をかたくなに拒んだらしい。
結果として分娩室は、誰もが恐れていた通りの灼熱地獄と化し母は命を落とすこととなったが、あの時カストルの子供が自分の中に居ると知った時、絶望を忘れて喜びしかなかった自分と同じように、母もきっとそうだったのだろう。
例え肉体が亡びても、宿った生命の欠片は引き継がれ、生き続ける。そんな生の希望を残すことができる喜びが自分にも母にもあったのだ。
その気持ちは、一児の母であるリンディにもわかった。
「そうね……。 だけど……」
亜希子の語りに、リンディは口を挟んだ。
それだけで、亜希子はリンディが何を言おうとしているのかがわかった。
「わかってるよ。 一葉は普通の子供じゃない。 私とカストルの間に産まれたとか、そういうことじゃない。 もっと恐ろしくて、おぞましい運命を背負って産まれてきた。 あの子の持つ能力が……、きっとその証だ
産まれた一葉を始めて抱いた瞬間、この子はどこかがおかしいと直感的に感じ取った。
亜希子は運命に翻弄さて、多くの巡り合わせによって不幸に立ち会ってきた。だが、自分が腹を痛めて産んだ子どもには、人間の意思を超越し、人に幸や不幸を与える力、もしかしたらその力によって巡る全ての見えない鎖によって、産まれ落ちたその時、もしくは産まれる前から縛り付けられているのではないかと思った。
「最初はね、自分のせいだと思ったよ。 私はたくさんの人を殺してきたし、自分一人じゃ背負いきれない程の罪を犯した。 そのツケが、私の子供であるあの子にまわってきたんだって。 だからこそ、私はあの子を普通の子として育てようとしたんだ。 争いや魔法なんて知らない世界で
しかし、それは間違いだった。
あの魔法が空から墜ちてきた日、一葉がジュエルシードの暴走体と対峙した時、亜希子はその様子を遠くから見ていた。
そして、一葉の持つ能力が世界の摂理や理から外れているという確信を得、自らの犯した過ちに気が付いた。
亜希子は、自分の過去や魔法のことを一葉に言うつもりはなかった。あらゆるしがらみや、争いの世界から遠ざけようとしてきた。
そのせいで、亜希子が一葉を守ろうとすればするほど、一葉の腕は細く、足は弱くなっていく。
いつまでも、母親は子どもを支え続けられるわけではないことに気が付けなかったのだ。
しかしあの日、一葉は自らの足で戦いの場所に足を踏み入れた。
一葉はどこかで、自分の運命を感じ取っていたのだろう。
一葉には一葉の未来がある。そして、それを切り開けるのは一葉だけだ。あの日、ジュエルシードを巡る戦いが始まった時に、一葉を守る亜希子の戦いは、一葉自身の戦いに変わったのだ。
「どの道、あの子はそうなる運命だったんだよ。 で、先輩はあの子をどうするんだい? 一葉の能力も、魔力も管理局としては魅力的だろうし、護国四聖獣もついてくる。 なにより、私のような背信者の子供だ。 好きなだけ使い潰せる
「……上には報告しないわ。 このことを知ってるのは乗組員の中でも信用できる人間だけだし、私も身内を売るほど落ちぶれてないもの
いつの間にか、口の中が渇いていた。
リンディは手元にあった湯呑を持ちあげ、口に含む。中身はすっかりと冷え切っていた。
もし管理局にセキレイ・クロスフォードの生存を知らせれば、返ってくる答えはその場での抹殺だということはわかりきっていた。
今の亜希子は管理局の象徴として英霊の扱いになっており、数々の功績は尾ヒレを着け独り歩きしている状態だ。
尤も、その英雄に憧れて管理局に志望する若い魔同士も少なくないため放置されているが、もしセキレイがミッドチルダに戻るとなれば、それは今まで管理局が政治的判断で隠してきた真実が明るみになるということだ。
それだけは、どうしても阻止しなければならない。
だが、その子供である一葉は別だ。
高い魔力資質を持った二人の間に産まれただけでも魔導師としての将来は有望で、さらには未知の能力と、護国四聖獣というおまけで済ますにはあまりにも豪華すぎる特典まで付いてくる。
管理局の上層部には一部とはいえ、穏やかではない連中もいる。万年人材不足の管理局だ。縛り付けてでも連れて来いと言ってくるだろう。
それこそ、人心を無視したような条件で屈服させる手段を用いることは日を見るよりも明らかである。
しかし、夫であるクライドの面影を持つ一葉にそのような運命を強いるのは、リンディ
にとって組織の人間としての義務よりも、血のしがらみの方が勝ったのだ。
「やっぱり、先輩は甘いね。 なんであの部隊に居たのか不思議だよ。 もっとも、兄さんもそんなところに惚れたんだろうけどさ」
リンディの答えを、亜希子は予想していたようだった。
思い返せば、リンディは倫理の螺子が欠けたような人間ばかりが集まる強行班では浮いていた存在だった。
二人の出会いを亜希子は知らないが、リンディのどのような部分にクライドが惹かれたのか、きっとそれはあの部隊で浮ついていたその部分だったのだろう。
クライドのことを口にすると、亜希子はふと虚しい切なさに曝された。
「兄さんは……、元気?」
それは意識せず出た言葉だった。
自分の行いは、法治国家において到底許されることではないことを亜希子は理解している。
一年にも及ぶ逃亡生活の最中でも、たくさんの人を傷つけ、そして命を奪ってきた。
犯罪者の家族が遺族からどのような目で見られるのかなど、管理局であった亜希子は十分に知っている。カストルと共に逃げたことは後悔していないが、しかしクライドのことだけが消えないしこりとなって胸の奥に残っていた。
「……」
リンディは束の間口を閉ざす。そして瞳の光が荒荒とした嵐の前の空か、冬の朝雪のような重たく沈んだのを見て、亜希子はこの問いかけがリンディにとって触れてはならないものだと思った。
「ごめん……。 教える義理はないよね……。 私のせいで兄さんの立場はかなり悪くなっただろうし、会いたいとも思ってないか……
「死んだわ……
「え……?」
独りごとのように小さな声は、不思議なほどはっきりと亜希子の耳に届いた。
「クライドは死んだわ。 貴女が墜ちた直後にカストル君は闇の書の力を暴走させようとしたの。 きっと、貴女を殺してしまった私たちに復讐をするために。 クライドは闇の書の力が完全に発動してしまう前に、次元艦を自爆させて被害を未然に食い止めたのよ
10年前のあの時、次元流に巻き込まれ薄れていく意識の中で、大きな魔力が弾けて消えていった。そして、たくさんの小さな命が呑みこまれていくのを感じた。
その中に、クライドも居たのだ。
闇の書の暴走によって生まれたエネルギーは次元の結合すらもたやすく破壊するほどのもので、唯一防ぐ手段として大型の次元艦に搭載された魔力炉のエネルギーを極限まで高め相殺するしかなかった。
クライドは自身が艦長を務めた艦と共に、次元の狭間で塵となり他の次元世界を守ることを選択した。
結果として艦に乗っていた二〇〇名の局員は命を落とし、カストルが消滅した後に闇の書がどうなったのかもわからない。
誰も救われず、誰も報われない。カストルと亜希子の逃避行の果てに最期に残ったのは、途方もない悲しみだけだった。
「最初は、私は自分の気持ちを割りきれなかったわ。 お互い結婚する時にそういうことが起きてしまうんじゃないかって覚悟はしてたけど、いざクライドが私の前からいなくなってしまった時は心臓に穴が開いてしまったんじゃないかって思うぐらいに辛かった……」
胸に開いた見えない穴は、決した他の何でも埋めることは出来なかった。
失われた温もりを求めて、リンディは管理局の上司や行きずりの男とも何度も寝たりした。しかし、それはどれも一時の快楽を貪るだけで、情事の後は死にたくなるほどの虚しさだけが胸を抉るだけだった。
もしもクロノがいなければ、リンディはクライドの後を追っていたかもしれない。だが、遺された者の哀しみや、愛した人と二度と会うことのできない絶望を、自分の感傷で押しつけるわけにはいかなかった。
リンディは女のとしての絶望よりも、母親としての未来を選択したのだ。
「最初は……、副隊長。 貴女を憎んだわ。 貴女さえいなければ、あんな馬鹿な真似をしなければ……。 貴女がカストル君と一緒に大人しく死んでくれていれば、クライドが死ぬことはなかった。 貴女はクライドの人生を奪っただけじゃない。 私からクライドを奪い、そしてクロノから父親を奪った
「その憎しみは……、至極まっとうなものだよ。 私は一葉を見逃してくれるのであれば、何をされても抵抗はしない。 先輩の気持ちが私を殺すことでほんの少しでも晴れるんだったら、私はそれを受け入れる
亜希子は産まれたときから奪う側の人間だった。
実の父親から最愛の妻を奪い、まだ幼い兄から母親の愛情を奪い、管理局に入ってからは誰かの夢や未来、命を奪い続けてきた。
だが、カストルと出会い、信之と出会い、一葉が産まれてから奪われる側の恐ろしさを知った。カストルを失った慟哭、憎悪、悲哀、人間の持つ醜い感情を全てかき混ぜたような痛みとどうしようもない寂しさは今での消えない傷として心臓の奥で疼いている。
自分が抱えいている癒えようのない痛みを、常に誰かに与え続けてきた十字架は下ろすことなど出来やしないが、こうして罰を与えられることもなく平穏な暮らしをしている自分を遺族は許しはしないだろう。
どの道、いずれはこの日が来るだろうと覚悟していたことだ。
爪を一枚ずつ剥がされるような、歯を一本ずつ抜かれような、この世のあらゆる苦痛を与えられようとも、もしもそれで空を覆う重たい雲のような憎しみのほんの一握りでも晴れるのであれば、亜希子は甘んじてそれを受け入れるだろう。
それによって死者が戻るわけでも、リンディの心に空いた穴が塞がるわけでもない。命を持って償っても、それによって遺された者の悲しみや怒りがなくなるわけではないことも承知している。
所詮はただの独善だ。
許されたいから傷つけられたい。傷つく事で救われたいのだ。
それは躾のために親が振るう鞭を歯を食いしばり耐える子どもと同じだ。
犯してしまった過ちを償うことなど出来やしないが、亜希子は自分の過去を過ちとも思っていない。
自分の過去を否定することは、カストルへの愛を否定することだからだ。だからこそ、その愛を誰かに否定される前に、誰かに罰して欲しかった。
しかし、亜希子の想いとは裏腹に、リンディは首を横に振った。
「確かに、私は副隊長を許せない時期があったわ。 もしかしたら、今も心のどこかで憎んでいるかも知れない……。 だけど、いくら憎しみを持ったところで過去は戻ってこないし、私たちはどうしようもなく遺された未来を生きていくしかないことぐらいはわかってる。 なによりも、クライドは貴方のことを憎んではいなかったから
「そんなわけ……、あるはずない。 兄さんは私を憎んでいたよ。 もしかしたら今日あたり私の枕元になって恨みつらみを言いに来るかもね」
亜希子は言う。
しかし、リンディは悟りを開いたような澄んだ瞳で亜希子をジッと見据えた。
それは、まるで澄んだ湖底を覗き込むような視線だった。
「私とクライドは結婚してから直ぐに、お互いに遺書を書いたのよ。 こんな仕事に就いてる以上、万が一のこともあるっ、てね
それは婚姻届を役所に出して、直ぐに書いたものだった。
今思い返すと、もしかしたらクライドはあの時、既に自分の未来を予期していたのかもしれない。
書いた内容はお互いに教えず、鍵の付いた小箱に入れた。もしお互いに何もなく、無事に定年を迎えることができれば、封を開けずにそのまま燃やしてしまう約束を交わした。
だが、その約束は果たされることなかった。
クライドの身体は千々となり次元の藻屑と消え、中身の入っていない棺によっての葬儀が終わってからしばらくして、リンディは小箱の鍵を開けると、中には三通の手紙が入っていた。
一通はリンディに宛てたものと、もう一通がクライドに宛てたもの。もう一通に宛名はなかった。
リンディは明子を迎えに行く前から予め懐に忍ばせていた封筒を、亜希子に差し出す。亜希子は封筒を受け取り、カサリと中を取り出そうとすると、既に封は開けられていた。
中には5枚の便箋が収められていた。かつては純白であった便箋は、年月の経過で黄ばんでいた。
実直な性格であったクライドらしい文字で綴られた真実は、今まで妻であったリンディの目に触れることしかなかったが、十年の時を経てようやく本当の送り主に届いたのだ。
「そこには、貴方に対する懺悔とお父様の死の真相が書かれていたわ。 あれは自殺じゃない。 クライドが殺したのよ」
父の酒に毒を混ぜたこと。母の死は亜希子のせいではないとわかっていたのに、それでも悪意に負け辛く当ってきてしまったこと。父の狂気を知っていて、それでも目をそ向け続けてしまったこと。
便箋にはクライドの罪の告白と懺悔、そして亜希子に対する贖罪の言葉が並んでいた。
「クライドは貴方のことを大切に思っていた。 きっと……、私よりも。 あの時……、あの人が死を選んだ時も最期に残したのは私やクロノじゃなくて、貴方に向けた言葉だったわ
__すまない……、すまない。 セキレイ……、お前を守ることが出来なかった……。 何一つ……、お前を救ってやることができなかった……。
クライドは喉から絞り出すような苦しそうな声でそう言い残し、光の中へ消えていった。
クライドはきっと後悔していたのだ。
それはきっと、自らの心の弱さ故の悪意が妹の人生を狂わせたこと。肌に纏わりつく生温かな闇のような不遇の中でようやく見つけた、人並みのささやかな幸福さえ、自らの手で破壊しなければならなかったこと。
そしてなによりも、複雑に絡み合った因果の果てに、妹を犯罪者に、人殺しにさせてしまったことを。
文章を目で追っていく度、亜希子は胸が締め付けられ、目の奥が熱くなった。
寂しさの檻に捕らわれていたのは自分だけではなかった。一人ぼっちだと思っていたのは、自分だけだった。
こんなにも兄に想われていたのに、自分は孤独と自責の呪いに縛られ、わかり合うことを畏れ自らに枷を嵌め続けていた臆病ものだったことを思い知らされた。
「こん……、なの……。 今さら知ったって……、遅いんだよ……。 馬鹿兄貴……」
震える声は、もうこの世にはいない兄に向けてのものだった。
瞳から溢れる滴が、頬を伝って零れ落ち、黄ばんだ便箋に滲みを作る。
幾つもの想いや願いが過ぎ去って、手遅れになってしまった今、ようやく兄の心に触れることが出来た。
永遠に残ると信じて疑わなかった胸の奥にできた物狂わしい腫瘍のようなしこりは消え、たちまちに亜希子は頬から鳥肌が立ちそうなほど涼しくなって、腹まで澄みとおってきた。そして、腫瘍のあった箇所はたわいなく空虚となった。
それは、なにもかもが許されてしまうと錯覚してしまうほどに、優しい空虚であった。
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