Prologue
深い闇。ここは人間に知らされていない地だ。魔族の住まう魔界ではなく、神や人間が住まう天界でもない。ここは、墜ちし者が住まう地《グルーフォン》と魔族から呼ばれる。入り口も出口も判らない場所だ。判ることはただひとつ、ここに渦巻く闇がとても深く、禍々しいということくらいだ。
ほんの一瞬、それだけでも気を抜けばすぐにこの闇に取り込まれてしまうだろう。ここはそういう場所だ。
「ぐっ......!」
そんな闇のなかに一人、魔族の少年が呑み込まれている。いや、見た感じは八歳だが、あのくらいの歳ならば千年は余裕で生きているだろう。精神年齢は本当に八歳かもしれないが。
その少年は懸命に抗っているが、それも終わりに近づいていた。
「がああああ!!」
今までよりも格段に大きな叫び声を上げると、突如少年の体から力が抜けた。――闇に負けたのだ。目尻から一滴の涙が零れる。
負けたと同時に、少年の体に変化が見られた。鋭い爪は赤黒く変色し、鋭い瞳孔を持つ眼は赤く血走っていく。魔族の特徴である角は、青色から闇色に染まっていく。元々鋭い牙は更に尖り、少年の肌は健康的な色から青白くなる。
「ククククク……フフ、フハハハハハハハハ…………アハハハハハハハハハハハハ‼︎」
狂った笑い声がグルーフォン中に響く。やがて魔界に届き、遠く離れた人間界にも微かに届いた。
少年は口の端を歪め、眼をギラリと闇色に光らせた。まるでーーお前に今の俺が殺せるか? と。
その一部始終を見ていた少女は介入することもなく、傍観者としてーー神として、魔族の少年を殺すことなく立っている。無言のまま、少女は視線をグルーフォンから別の世界――人間の住まう人間界に向け、これから実行することを脳内でシュミレーションする。
――まずはルーンが、私に関する記憶を消された姉様たちを連れてきて、ここーー《雲上の橋》の下を覗いてもらう。姉様たちの気がそれに向いている間に、ルーンと私で姉様たちを突き落とす。
そうして消えてもらうのだ。姉様たち自身の為に。
落ちれば、永遠に等しい寿命を持つ神が唯一、その途中で命を終えることができる。存在自体を消すことができる。何よりも、苦しみから解放されることができる。
不意に四人ほどの足音が聞こえてきた。ルーンたちだろう。見つかれば計画は失敗してしまうので、少女は近くの物陰に隠れる。
深呼吸をすると、少女とよく似た双子の子――ルーンが見えた。ここからでは少し遠いが、何を話しているのかよく聞こえる。会話している相手も見えた。――少女の姉、ネイシアだ。長女としての気品と創世神としての神々しさが相まって、申し訳ないという気持ちが更に強くなる。しかし、今更この計画を止めるつもりはない。
「それで、どうしてここまで連れてきたの? 見て欲しいものがあるとは聞いたのだけど」
長女のネイシアがルーンに問うた。ネイシアの隣で命の神であるルミネリアが、ネイシアが言う見て欲しいものを見つけようと橋の下を覗き込んだ。ルミネリアの上半身が橋から乗り出す。
「姉様、もしかしてあれかなぁ? グルーフォンの闇に囚われている魔族。なんかヤバめの状況みたいだけど……」
「だとしても、俺たちがそいつを助ける義理はないだろ。魔族は俺たち神々の敵だ。もし仮にそいつが人間界に悪影響を及ぼすとしても、俺たちがそいつを消すのは事が起こってからだ」
冷酷に、長男であるダクトはそう切り捨てる。橋に手を置き、もたれかかった。暗黒神であるダクトは他の神よりも冷酷だ。真紅の瞳は橋の下に向けられていたが、やがて興味が失せたかのように頬杖をつく。
「そうね……ひとまず経過観察にしましょう」
ネイシアはダクトの言葉に賛同しながら、橋の手すりに手を置いた。
その瞬間、時は満ちた。物陰に隠れていた少女は足音で気づかれないように、太陽神としての力ーー翼を展開させて静かに、なおかつ速く飛ぶ。ルーンも少女の動きに合わせ、暗殺と記憶の神としての本領を発揮させる。気配を遮断し、衣服を掴んだことさえ感じさせない動きだった。
――しかし。どんなに完璧な動きをしていても、それを超えるさらに完璧な動きで対処する者もいる。それをやってのけるのは――少女の兄、ダクトだ。ネイシアとルミネリアは落ちていったが、ダクトは暗黒神としての力を使い、素早い横移動をした。そして少女を真紅の瞳で凝視する。
「き、君は――」
しかし少女はこの先を言わせなかった。油断している隙に少女はダクトの腕を掴み、ルーンは素早くダクトの背後にまわる。再びピッタリな動きで橋の下に落とし、兄妹たちがだいぶ下まで落下したのを確認した後――双子は自ら飛び落ちる。
「ルーン」
「なあに?」
「名前を呼んでみただけよ」
そっか、とルーンが呟いた後、ルーンも少女の名前を呼ぶ。
「フリース」
「どうしたの?」
「ありがとう」
向日葵のようににかっと笑い、おそらく、様々な意味合いが込められたお礼を口にした。
ありがとう。この言葉でフリースの眼から涙が流れてくる。何か言わなければ――そう思うのに、何も言えず、《清めの雲》に突入してしまったフリースは何も言えずに、自分の体が消えていくのを感じた――。
のちに人間世界では、大いなる災厄が溢れかえることとなる。