「やはり西住さんの戦車が一番動かしやすいな」
なんでもない一言のつもりだったのに、それを聞いた彼女の顔はくしゃりと歪んだ。
4月。関東にて。
「おはよう、麻子さん!いい天気だよ」
「む…おはよぅ…西住さん」
勢いよく部屋のカーテンが開けられ、穏やかな朝陽が部屋の中を照らした。
国立内海大学。
日本有数の、世界レベルで戦車道に力を入れている国立大学である。
その寮の一室。部屋の主人の1人たる冷泉麻子は緩慢な動きでベッドから脱出し洗面所へ向かった。
(これが冬になったら私はベッドから出れるのだろうか…)
重い瞼が完全に落ちないよう目を擦りながら、なんとか顔に冷水を浴びせかけると少しは眠気が引いた。長い黒髪に櫛を入れ最低限の寝癖を誤魔化し洗面所を出ると、キッチンの方から肉が焼ける音と空腹を誘う匂いが麻子に襲いかかる。
キッチンで今、牛乳をコップに注いでいるのはもう1人の部屋の主人こと西住みほ、その人である。麻子とは違い既に寝巻きから着替えており、その上からボコ柄のエプロンを着けていた。
「毎朝、すまないな…家政婦のようなことをさせてしまって」
「ううん、好きでやってることだから。それに朝食は誰かと一緒の方が美味しいし」
麻子はやや申し訳なく思いつつも首肯した。彼女は自分独りでの食事は(スイーツを除けば)ただの栄養補給に過ぎなくなってしまう、ということをよく理解していたからだ。
大洗女子学園で戦車道の隊長を勤めた西住みほは、操縦手である冷泉麻子と共に内海大学へ戦車道特待生として入学することになり、寮内でルームシェアをすることを麻子に提案した。それを麻子は快く受け入れ、無事に同居生活と相成ったのである。
麻子としては提案された時は
(知り合いが近くにいた方が西住さんも安心するだろう)
程度に思っていたのだが、蓋を開ければ高校時代より甘やかされているような現状に後悔…ではないが少なからず思うところがあった。
(私は案外甘やかされると危機感で自立するタイプなのかもしれないが…流石に朝の支度を任せきりというのも悪いしな。沙織に相談してみるか)
「麻子さん、お皿運んでもらっていい?」
「まかせろ」
麻子は食欲でほぼ眠気が消えた体を動かす。今日の朝食はカリカリに焼いたベーコンと程よく溶けたチーズがトッピングされたトーストだ。ルッコラが添えてあり彩りもいい。食欲をそそる朝食である。
「うん、美味い」
「よかったぁ。あ、テレビつけよっか」
トーストを齧りながらテレビをつけ、朝のニュースを眺める。端に出ている天気予報いわく今日は春らしい陽気で日中は晴天のようだ。午後は眠くなりそうだな、と麻子はぼんやりと考えた。
『最近では牛丼チェーンも朝食のセット販売を…』
「ルームシェアのおかげでキッチンが広いお会い部屋にしてもらえたから、本当はもうちょっときちんとしたものを作りたいんだけどね」
ニュースを見ていた西住さんがトーストを食べながらやや恥ずかしそうに笑う。
「私はこれくらいでいい。西住さんの用意も楽じゃないだろう」
「ただのトーストだから全然平気だよ?」
みほはなんでもなく言うが、今の時間より早く起きるというだけで麻子からすれば重労働に違いないのであった。
「私にはとてもできない」
「麻子さんはきっと料理も上手だと思うけどなぁ」
麻子は自分でも自分のことを優秀な人間だと自負している。やろうと思えば全くレシピ通りにコース料理を作れるだろう。一度本を読めば内容を理解できるし教えられれば忘れない。最先端の論文をある程度読み解くこともできる。だが朝の低血圧は完治しないし、器量とか他人を慮るようなことはからきしだった。
「じゃあ西住さん。また後で」
「うん!後でね!」
大学の構内で別々の教室へと向かうみほと麻子。みほが向かったのは戦車道の講義室であり、麻子が向かうのは研究棟である。
内海大学は国際強化選手への誘いを断ってまで特待生になったみほと、既に大学生レベルの知能を持ったにもかかわらず同じく特待生になった麻子に対して一般の大学生と違う措置を取っていた。
みほは彼女の持つ優れた教育能力と指揮能力を更に伸ばすことを目的としたみほ専用のカリキュラムが特別に組まれた。中には教官とのマンツーマンの講義もある。
麻子は研究棟全ての研究室に出入り自由となり、講義を受けるのではなく戦車道あるいは研究室で一定の成果を出すことで単位認定がされるということになった。
勿論これはみほたちが初めてというわけではなく、これまで内海大学は特待生に対してそのように対応して来たのだ。
(海外との交流が深いからこそこんな対応ができるんだったか。だらだら出来ないのは困るが、知っていることをわざわざもう一度教わるよりはマシだな。…西住さんも張り切っているようだし)
まだ大学の講義を受けるようになってから半月も経っていないが、みほが充実した日々を送っているのは麻子が傍で見ているとすぐ分かった。
麻子は戦車に乗る時間までどこの研究室を覗こうか考えながら、今日のみほがどのような作戦を見せてくれるのかと思うと無意識のうちに足取りが軽くなった。
麻子は数式を黒板に書き終えると白髪頭の教授が唸り、昼休みを告げる鐘が鳴った。
「すまん!これは宿題にさせてくれ」
「どうぞ」
ああでもないこうでもないと悩む教授に素っ気なく言うと麻子は研究室を後にする。食堂で何か食べようと思っていると、後ろから声をかけられた。
「あっ!冷泉さん!」
「…石坂さん、だったか」
「憶えててくれたんだ!嬉しいなー」
麻子に声をかけたのは内海大学の女学生である石坂だ。ショートヘアな彼女は女子にしてはやや背が高く、服装によっては性別が分からなくなりそうな容姿をしている。あと声が大きい。ごく最近、研究室での講義を見学して回っている時に知り合ったのだ。
「昨日の今日だからな」
「それもそっかー!あ、もしかして今から食堂?良ければ一緒に行かない?」
「構わないが」
「やった!」
ウサギのようにぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる石坂。彼女なりの感情表現なのだろうな、と麻子は思った。
そして連想ゲームのように自分の後輩を思い出す。卒業式では心配になる程泣いていた彼女たちを。私生活で何か交流があったわけではないが、共に戦場を乗り越えた仲間である。
「…冷泉さん?」
「少しぼーっとしていた。行こう」
(連絡先を知らないし、それもついでに沙織に聞くか)
頭の中のやることリストに追加し、麻子は昼食のメニューをどうするかに思考を切り替えた。
戦車を操縦する。命令通り動かす。
そんなことに、本当にただそれだけのことに冷泉麻子は魅力を感じたことがない。
「冷泉麻子さん」
「なんだ」
「貴女には恐らく才能があるわ。戦車乗りとしてっていうか、スポーツマンとしてね」
麻子は内海大学の戦車道用に設置してある森林フィールドの中でレバーを前後させている。
麻子が操縦しているのは内海大学が保有しているM24チャーフィー軽戦車だ。アメリカ製の第二次大戦で使用された軽戦車であり、平地では時速50kmを超える加速が可能である。
麻子の後ろ、チャーフィー軽戦車の車長席からその技術を称えているのは、内海大学の戦車道において副隊長を務める小島という女学生だ。
「不整地での走行技術もあるし、敵の弾道を想定しながら戦車を動かせてるのが分かるわ。この調子でやっていけばすぐ隊長の戦車を操縦できるわよ。アピールすればもっと早いかも。特待生なだけあるわね」
副隊長のその言葉を聞いた麻子が抱いた感想は実にシンプルなものだった。
「興味ないな」
「……。2時の方向へ進んで。スピードを落とさずに、ここを突っ切ってB地点を目指して。もちろん周囲の敵戦車を警戒するつもりで」
「わかった」
クラッチを操作して鉄の塊に命を吹き込む。エンジンがいななき、無限軌道が快活に回り始める。
麻子は口にはしないものの、この練習に対して正直がっかりしていた。注文通り戦車を動かすことなど、特待生として選ばれたのだから最低ラインだ。もちろんこの練習の目的は麻子の力量を見るためのものだというのは理解していたが、それでもやはり退屈と言うほかなかった。
高校生に対して単純な四則演算をやってみろと言っているようなもの、言われたからただ手だけを動かす作業に過ぎない。
「試合はいつになる?」
「もうすぐ新入生たちで紅白戦をやる予定になってるわ。ただこれは高校で車長をやっていた子たちの作戦立案能力も求めるから、少し時間がかかるの」
「そうか」
会話を切り上げた麻子は、当然のように木々に車体を擦らせることなく、チャーフィー軽戦車をB地点まで無事に送り届けた。