朝、出勤前に早耶香は手作りの弁当をもって克彦のマンションを訪ねてきた。ポケットから合い鍵を出してドアを開けようとして、ドア前にあるシミに気づいた。
「こんなところにオシッコさせてマナー悪いなぁ。人んちの前になんて、飼い主、どんな人なんだろ」
三葉が漏らした痕が乾いてシミになっているのを犬のものだと思い、文句を言いながら玄関に入って、飼い犬のマナーなど、どうでもよくなるショックを受けた。
「っ……女物の靴……」
玄関には三葉の靴があった。明らかに女物で、しかも脱ぎっぱなしの乱れた置かれ方で昨夜に何かあったことが感じられる。
「…………」
誰よ、誰なの、なんで泊めてるのよ、私と婚約してるのに女の人を泊めるってどういうことよ、と叫びたい気持ちと裏腹に早耶香は見たくないものを見ずにいられない気持ちで、静かに廊下を進み、途中で脱衣所から洗濯乾燥機が終了するアラーム音を聴いた。
「………今、終わるってことは、夜中に回して……」
もう克彦の部屋の家電製品はすべて把握しているので、終了時間から逆算して洗濯を始めた時間が夜中だともわかった。手作りの弁当を持ってくることは克彦に伝えていない、早起きできたら頑張ろうという目標なので不定期にしていることだった。そして、夕べは三葉との電話で遅くなったけれど、その前に少し寝ていたので起きることができていた。
「……私が来るかもしれないって……考えないの……合い鍵だって持たせてくれてるのに……」
それだけ突然の出来事で女性を泊まらせたのか、それとも早耶香と破局してもかまわないという意志の表れなのか、せめて前者であってほしいと望みながら、早耶香は廊下を突き当たりまで進み、そっとリビングへのドアを開けた。
「っ………三葉ちゃん…と…」
リビングのソファには克彦と三葉が寄り添うように眠っていて、しかも三葉は下半身がバスタオルだけで、そのバスタオルも寝ているうちに乱れていて、羨ましいくらいキレイな脚線が見えている。
「……………そっか………彼氏……できたって………こういうこと……」
今すぐ叫びそうなほど感情が高まっているのに、嵐の前の静かさのように早耶香はつぶやき、ふらふらとキッチンへ弁当箱を置いた。
「……夕べ……電話してきたときも……ここで二人で……私をコケにして……」
婚約者と親友が二人して自分を裏切ったのだと思い込んだ早耶香はシステムキッチンの引き出しを開くと、よく切れる一番大きな包丁を手にした。
「………この女を殺して………私も死ぬ………あなたは一生後悔して…」
ずっと三葉は彼氏ができず、できないんじゃない、つくらないの、と主張していたことの論拠が無いわけではないことを早耶香は痛いほど知っていた。つくろうと思えば、いつでも三葉は克彦からの好意を受け入れるだけで、すぐにつくれた。高校時代から、ずっと克彦は三葉を好きだったし、早耶香は克彦を好きだった。それでも、運命の人を待ち続けるような三葉の態度に克彦が半ば諦め、ようやく早耶香が克彦と婚約するところまできた。そこまで来た今になって、おしくなったのだ、この女は克彦をキープして余裕をもっていた、けれど、その克彦が結婚するとなったら、おしくなったのだ、だから盗りにきた、いつでも取り返せる、そう考えていたに違いない、違いない、違いない、早耶香は吐き気がするほどの殺意を胸に溢れさせ、一歩ずつ眠っている三葉に近づいた。
「…ん? あ、早耶香、おはよう。……って、お前?!」
眠りが浅かった克彦が目を覚まし、殺意のあまり無表情になっている婚約者と、その手に握られた刃物を見て、誤解されているのに気づいた。
「い、いや! ち! 違うぞ! こ、これは違う!」
動揺する克彦の言動で寄り添って寝ていた三葉も目を覚ました。
「ん~………眠い……テッシー、ベッド借りていい? っていうか、今何時……あ、サヤチン、おは…」
三葉は鼻先に向けられた刃物に気づいた。そして、状況を再認識して、婚約者のマンションにパジャマの上着1枚しか着ていない女がいたら、しかも、それが長年の親友だったら、早耶香がキッチンの害虫を駆除するような殺意をもって刃物を向けている理由がわかって冷や汗が流れた。
「ち、ちが、うぐっ?!」
言い訳しようとする三葉の口内に刃先が突っ込まれてきた。少しでも動いたら舌や唇が斬れるという体勢になり、三葉は一言も発せなくなりガタガタと震えた。
「ぅっ……ぅぅっ………ひぅ……ガチガチ…」
三葉が奥歯を鳴らすほど震えると、口内の刃物に歯があたり、音を立てる。もう、ほんの少し早耶香が一突きするだけで三葉は殺される。そこまで追い詰めてから早耶香は訊いてみたくなった。
「どんな気分?」
「ひっ…ぅっ…ぅ…ガチガチ…」
三葉は両目から涙を流して、とにかく誤解だと伝えようと、瞳を左右に向けるけれど、早耶香の殺意は変わらない。克彦も止めたいけれど、少しでも動くと早耶香が力を入れそうで何もできない。三葉は恐ろしさのあまり、おしっこを漏らした。
シャァァァァ…
ソファの上に座ったまま、腰を巻いていたバスタオルを濡らしている。
「ま、待ってくれ! 早耶香! 違うんだ! 誤解だ!」
「…………」
早耶香が冬の糸守町のように冷たい目で婚約者を見て、それから視線を三葉の下半身に流した。その目の動きで、誤解も何も、言い訳も何も、どう言い繕うつもりなの、という問いだとわかる。
「聴いてくれ! 落ち着いて聴いてくれ! オレと三葉は何もなかった!! 本当だ!」
「…………」
「夕べ三葉が急に、ここへ来たんだ!! 何かに襲われたというか、追われたというか! そんな感じで逃げてきたから! だから、ここへ入れたんだ!!」
「…………」
また早耶香の瞳が汚物でも見るように三葉の下半身へ視線を流して、なぜ脱ぐ必要があるの、と問う。
「そ、それで、……み…三葉は、かなり怖かったみたいで……玄関前で漏らしてたから下着とパジャマは洗濯中なんだ。本当だ! 洗濯乾燥機の中を見てくれ!」
「…………」
少しだけ早耶香の殺意がやわらいだ。言い訳と状況証拠が一致している。犬の仕業だと思ったシミが三葉の失禁なら、この状況の言い訳としては、言い逃れのために思いついたにしては奇抜すぎ、逆に事実をそのまま語っている気はする。
「本当にそれだけなんだ! 逃げてきてパジャマを洗ってシャワーを浴びて、それで安心したらウトウトして、ここに座っていた! それだけだ! 信じてくれ!」
「………。二人が、くっついていたのは?」
「そ、それは……三葉が怖がっていたから……本当なんだ! なんか知らないけど、めちゃめちゃビビって、ここに逃げ込んできたから! 何かが見えて追ってきたらしい! な、三葉!」
「ぅ…ぅ…」
まだ刃物を口内に突っ込まれたままの三葉が息づかいだけで返事している。
「さ、早耶香! 危ないから、それをおさめてくれ! オレは浮気なんてしてない! 三葉とは何もない! だから!」
「…………何もなかったか、どうか、確かめるから、こっちに来て。あなたは、そこにいなさい」
いつも三葉ちゃん、と親しみを込めて呼ぶ早耶香が、あなた、と冷たく言い放って克彦と寝室へ入っていく。三葉は口内から刃物を抜いてもらうと、その場に崩れて丸くなった。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
血まみれで上半身だけで追ってくる死んだ早耶香も怖かったけれど、生きていて激怒した早耶香も怖かった。途中まで躊躇いなく刺し殺すという目をしていて本当に怖かった。しばらく三葉が震えていると、早耶香と克彦が寝室から出てきた。
「何もなかったのは本当みたいね」
「だろ」
婚約している男の一回目の発射量と再チャージに要する時間と充填率を知っている早耶香は仲良さそうに婚約者と腕をからめている。
「サヤチン、テッシーと仲直りしてくれたんだね、よかったァ」
「…………」
早耶香は克彦へは愛おしそうな視線を送っていたけれど、三葉へは虫けらを見るような目で見ることは変えなかった。
「なんで、まだ、そんなカッコなの?」
「っ…ご、ごめん……腰が抜けて、立てなくて…」
「…………」
早耶香は脱衣所へ向かって洗濯乾燥機からパジャマと下着を取り出すと、三葉に投げ渡した。
「早く着なさいよ」
「う、うん。ごめん、ありがとう」
「………」
早耶香は無言で自分のスマフォを手にすると、そこから三葉の電話番号やメアドを消していく。それが終わると、克彦のスマフォも承諾無く触って三葉の電話番号とメアドを消した。さらにSNSでのメッセージ機能もブロックしたり消去したりしてから、三葉に命じる。
「あなたのスマフォも出しなさい」
「え……あ、……スマフォはアパートに置いたまま……。私のスマフォを、どうするの?」
「お互いの連絡先を消去して絶交」
「っ…ま、待って! ごめんなさい! 本当にごめんなさい!!」
パジャマを着終えた三葉が腰が抜けたまま這い蹲るように早耶香へ謝る。
「ごめんなさい、サヤチン、私が悪かったから。どうか、信じて! テッシーとは何もなかったの」
「………。何かあったとか、無かったとかさ。あったら殺してたけど、無くても許せることじゃないよね。私と克彦が婚約してるの知ってて夜中に、そんなカッコでさ、一晩過ごして、何を狙ってたわけ?」
「違うの! 狙ってなんかないの! お化けが出たの! それで、ここに逃げてきたの!」
「ふーん……お化け?」
いかにもバカにした信じていない声色だった。
「本当なの! 本当に見たの! だから怖くて誰かに助けてほしくて」
「………交番でもいけばいいじゃない」
「……………ぐすっ……本当に、ごめんなさい! ごめんなさい! 信じて、サヤチンを裏切る気なんて本当に無かったから!」
もう土下座して謝っている三葉の涙が床にポロポロと落ちると、見ていた克彦は可哀想になった。
「なあ、早耶香。そろそろ許してやれよ」
「…………未練あるの?」
「そ、そういうことじゃなくて。三葉はオレらの友達だろ? 夕べも、別に男と女とか、そんな雰囲気じゃなくて、本当に何かに追われてる感じで真っ青な顔で逃げ込んできたんだ。ほら、足の裏とかも、ケガしてるだろ?」
三葉自身も気づいていなかったけれど、アパートから素足で転がり出たときに小さな傷がいくつもできていた。パジャマに通勤用のパンプスという珍妙な姿でスマフォも財布も持っていないのも裏付け証拠にはなってくる。
「…………」
「なぁ、早耶香」
「………とりあえず、あなたのアパートに行ってスマフォを、いっしょに調べるから。それで夕べの彼氏ができた話とかがウソだったら、もう絶交」
「うん! 調べて! 本当だから!」
「三葉、彼氏できたのか?」
「うん! できた! とうとうできた!」
「そうか。……。よかったな」
まだ未練がありそうな反応だったので早耶香は足元にいる三葉を蹴りたくなったけれど、それは我慢した。通勤までの時間が残っていないので三人とも急いで三葉のアパートへ向かった。三葉の部屋はドアが開いたまま、電灯もつきっぱなしで、本当に着の身着のまま飛び出してきた様子だった。幸いにして空き巣に入られた様子もない。
「………」
「三葉、入らないのか?」
「だって、お化けがいるかも……」
「さっさとスマフォ見せて」
「ううっ…」
「オレが入ってもいいか?」
「うん、お願い」
克彦が慎重に中へ入る。今年で24歳になる今でも月刊ムーを定期購読しているので超常現象には興味がある方だった。ただ、どちらかというと古代建築物やタイムトラベルといった多少は科学的な側面のある超常現象に興味があり、お化けや呪いといった類への興味は薄いし、あまり信じていないので慎重に入ったのは、空き巣でも隠れていて格闘になったら自分の他は女子2名なので油断するわけにはいかないという気概のためだった。狭いアパートは玄関からでも奥まで見える。死角になるのはバスルームくらいだった。
「風呂場も覗くぞ?」
「うん、お願い」
「……何もいないな」
残り湯が冷めているくらいで怪しいものは何も無かった。ただ、部屋の様子は本当に驚いて飛び出してきたという風で、財布が入っているバックも転がっていて、スマフォもベッドの上、脱いだストッキングやショーツ、ブラジャーも放り出されたままで、この状態でドアを開けたまま放置してきたのは、やはり恐慌状態だったからだとわかった。
「よっぽど慌ててたんだな。ほら、スマフォ」
「ありがとう。見て、サヤチン」
まだ怒っている友人をなだめるために三葉は発信履歴やメッセージを見せて、瀧とのやり取りを開示した。
「ね、本当でしょ」
「………。ここにかけてみるよ。本当に、あなたと付き合ってるか訊くから」
「う……うん。…いいよ…」
「おい、早耶香、そこまでしなくても!」
「いいんだよ。サヤチンが信じてくれるまで確かめて。私が悪いのは、わかってるから」
「…………」
早耶香は自分のスマフォから瀧の番号へかけてみる。その途中で三葉が付け加える。
「瀧くんにかけるのはいいけど、夕べ私がテッシーの部屋にいたことは言わないで。お願い」
「……ずるい女」
「うっ…ごめんなさい」
三葉が謝っているうちに、瀧は知らない番号からの電話を受けた。
「はい、もしもし、立花瀧です。お電話ありがとうございます」
「……。ああ、就活中か……」
やたらと緊張した瀧の声で早耶香は懐かしさを覚えた。人生のうちで知らない番号からの電話にも積極的かつ丁寧に出る一時期独特の声だった。
「あ、あの……どちら様でしょうか?」
「あなたは宮水三葉という女性と、どういった関係でしょうか?」
「っ…え…えっと……それは……その……あの……あなたは警察の方ですか?」
「………」
早耶香は首を傾げる、どうして警察の話になるのだろう、と不思議だったけれど、瀧の方は警察から連絡があるかもしれないやましい記憶はあった。再会した直後、思わず三葉と路上で抱き合ってしまった。あのとき見逃してくれそうだった警察官が、あとで問題視して監視カメラの映像あたりから身元が割れたのかもしれない、もしも逮捕されたら就活は終わりだ、という悲壮な空気が声から伝わってくる。瀧は弱気になり、早耶香は苛立っているので強気に問う。
「質問しているのは私です。宮水三葉という女性との関係は?」
「…………。い、いえ! 知りません! 何の関係もありません! 誰ですか、その人、ぜんぜん知らないっす!」
「…………」
早耶香が三葉へ冷たい視線を送る。瀧の声は大きかったので三葉へも聞こえていた。三葉が驚いて悲しそうに問う。
「そ、そんな! 瀧くん! 私だよ! 私と付き合ってるよね?! 付き合ってくれるよね?!」
「っ…三葉さん………もう捕まってるの?」
「え? ……お化けに? お化けには捕まらなかったよ、ちゃんと逃げたよ」
「は? …………何の話?」
「瀧くんこそ、何の話なの?」
「いやいや、三葉さんこそ、何を言ってるんだよ? っていうか、このケータイ番号は? さっきの女の人は?」
ぜんぜん噛み合わない二人に早耶香が冷たく言う。
「この電話は浮気調査です」
「浮気……」
「っ、サヤチン……」
「夕べ、私の婚約者の部屋に、宮水三葉さんがいました」
「っ…」
三葉が早耶香の袖をつかんでイヤイヤと首を横に振る。言わないで、と発声してしまうと、それが事実だと伝わってしまうので涙目でお願いするけれど、早耶香は汚いものを払うように三葉の手を払った。
「その宮水さんが言い訳に、あなたと付き合っていると言い出しています。これは真実ですか?」
「え………えっと………」
「瀧くん、お願い!」
「……まあ……付き合ってるというか、そんな感じはありますけど……夕べ、三葉さん、どこで何をしてたんですか?」
「さあ?」
そこで唐突に早耶香は電話を切った。
「サヤチン、ひどい! 誤解されちゃう!」
「………」
無言で早耶香に睨まれると、三葉は反論できなくなった。
「うぅぅ……だから……ごめんってば……お化けがいたの……本当に見たの…」
三葉のスマフォがアラーム音を鳴らして出勤時刻が迫っているのを教えてくれる。三人とも社会人であることを優先して出勤した。早耶香は昼休みになって三葉からメッセージが届いているのに気づいた。メアドを削除したので未登録発信者からとなっているけれど、タイトルで三葉だとわかる。本当にごめんなさい、というタイトルを一応は開いた。内容は謝罪と言い訳だった。
「……まったく……本気で人を殺そうと思ったのは初めてよ……」
思い出すと自分でも空恐ろしくなるほどの殺意だった。昨日までの友人を今朝は本気で殺すつもりだった。重いタメ息が出る。
「はぁぁぁ………とりあえず、克彦にも怒っておかなきゃ。そんな簡単に許すと思わないでよね」
克彦とメッセージを交わすと、夕食を奢ってくれることが決まった。早耶香は仕事が終わると都内のホテルへ向かった。
「まあ、克彦のことは許してあげる」
結婚式を予約しているホテルのレストランで一人21600円税込みサービス料別のディナーコースを奢ってもらえたので許す気になった。美味しいフランス料理とスカイツリーも見える夜景で傷ついた女心が癒えてくる。
「三葉のことも許してやれよ」
「女同士の間に口を出さないで」
「………。ワイン、もう一本、頼もうか?」
「うん。デザートに合うワインがいいなァ」
「ソムリエに言ってみるよ」
知ったかぶりせずに克彦がソムリエに問い、すっきりとした貴腐ワインを頼んでくれると、早耶香は結婚式が待ち遠しくなった。
「結婚式、楽しみやね」
「ああ。けど、やっぱり田舎でも挙げないと、うるさいかもな」
「う~ん……そうやね…」
このホテルが気に入っている二人は都内での挙式を望んでいたけれど、双方の両親は同郷なのだから糸守町で挙げるのが当然だと主張している。妥協しても岐阜市内か、しゃれたホテルがいいなら名古屋市で探せ、と言われていたけれど押し切って予約していた。予約した後になって、それなら二度の席を設けろと言われていた。
「まあ、こっちでの挙式を仕事関係と東京にいる友達にして。田舎の方は親戚と、田舎に残っている友達関係ってことにするか、だな」
「うん………いずれ、町に帰るのかな? 私たち」
「どうだろうな………まあ、オヤジの会社もあるしなぁ……。早耶香は東京がいいか?」
「東京のいいところもあるけど、悪いところもあるし。町もいいところもあるけど、悪いところもあるよね」
「そうだな。……おい、ケータイ、さっきから無視してるけど、いいのか?」
克彦が早耶香のバック内で振動しているスマフォのことを言った。早耶香は夜景を見ながら一口ワインを飲んだ。
「いいよ、どうせ、誰からか、わかるし」
「三葉だろ、出てやれよ」
「はぁぁ……二人とも許してもらえる前提なのが腹立つなぁ……どれだけ私を傷つけたと思ってるの?」
「う、すまん。……けど、返信くらいしてやれば、三葉も何度も鳴らさないだろ」
「………」
気が進まないけれど早耶香はバックからスマフォを出して着信履歴とメッセージを見た。
「………あきれた……」
「三葉、なんて?」
「謝りたいのと、一人で寝るのが怖いから、私の部屋に泊めてって。どういう神経してるのかな? 今朝の今夜で泊めてとかさ」
「……それだけ怖いんだろ? 夕べ、本当に真っ青だったぞ」
「ふーん……」
早耶香は、彼氏のとこ泊まれば、と返信した。デザートのチョコレートドームが運ばれてきて、ウェイターが二人の前で熱い生クリームミルクをドームへ注ぎ、溶けたチョコレートとドーム内に置かれてあった冷たいバニラアイスが絡み合う。華やかな演出と、わずかな時間しか味わえない熱さと冷たさの混じった絶妙なデザートを楽しんでいるうちにもスマフォが振動していたのを早耶香は無視して、食べ終わってワインを飲んでからメッセージを見た。
「……………」
「三葉、なんて?」
「彼氏は父親と同居だから泊めてもらえないって」
続けて謝罪と泊めてほしいことが重ねて書いてあったことは克彦に言わず、ワインを飲み干した。
「三葉の彼氏って、どんな男なんだ?」
「さあ? よく知らないけど年下とか、運命の人とか、そんな感じのこと言ってたかなぁ」
「運命の人か………隕石が落ちてから、そういうこと言い出したなぁ」
「ちょっと、頭おかしくないかな? あのとき、大事件だったからなのか私も記憶が曖昧だけど、何か無茶なこと頼まれてした気もするし。今回のお化け騒ぎもさ、おかしくない?」
「………かまってほしくて騒ぐ、みたいな感じか?」
「そう、それ。かわいそうだとは思うよ。お母さん、早くに亡くなってるのに、お父さんまで出て行ってさ。けど、四葉ちゃんなんか、しっかりしているのに」
「そう言ってやるなよ。いろいろ大変なんだろ。……けど、本気でお化けが見えるなら医者か……御祓いでも連れて行くか?」
「御祓いって本人が巫女なのに?」
「もう元巫女ってだけで、神社は四葉ちゃんが継ぐ流れだろ、もう完全に」
「そうね。町長さんも町を救った英雄ってことで無投票が続きそうだし。もしかしたら、数十年後には四葉ちゃんが町長かもね」
「ありうるなぁ」
二人で席を立ち、克彦はカードでワイン代とサービス料を含めて64260円を決済すると、婚約者をアパートまで送った。
「ごちそうさま、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
克彦が見えなくなるまで見送ると、暗い夜道を見つめた。
「お化けねぇ。バカバカしい」
つぶやいて踵を返すと自室に入る。早耶香は学生時代から三葉より狭いアパートに暮らしていた。町長たる父親からも仕送りがあった三葉と違い、ただの町役場の公務員でしかない父親の収入からなので、なるべく負担をかけないよう安い部屋を選んだので本当に狭い。つい田舎を出るとき、眠るところだけは慣れた物がいいと持ち込んだクイーンサイズのベッドを置いたら、それが部屋の三分の二を占め、机さえ置けない状態だった。けれど、家賃の安さのおかげで就職して自立してからも給料から固定費を払って残る分が多かったので結婚資金を貯めることができている。
「お風呂、入って寝よ」
あいかわらず、ときどきスマフォが振動しているけれど、それを無視して下着姿になると、お湯を貯める。湯船も狭い。東京に出てきたとき、こんなに狭い湯船が製造販売されているのかと驚くほど狭かった。
「糸守町だったら、漬け物にする野菜を洗う場所くらいよね、これ」
わずか半畳ほどの空間に湯船と洗面台とトイレが詰め込まれている。
「美味しいレストランが徒歩10分であるのはいいけど、ウサギ小屋みたいな生活はイヤだなぁ」
早耶香の実家は裕福ではないけれど、もともと地価が無料に近い糸守町なので100坪はあったし、むしろ庭と畑の雑草の手入れが大変なくらいで、早耶香の部屋も今の3倍は広かった。その生活で育ったので東京の狭さはつらい。湯船も半分ほどお湯を貯めれば、あとは自分が入るだけで満杯になるという有様だった。お湯を止めて全裸になった時だった。
ドンドン!
「っ?!」
激しく玄関ドアを叩かれる音がして早耶香は驚き、裸だったこともあり身を固くした。一戸建て住宅と違い、脱衣所さえないので玄関ドア以外は全裸の早耶香を外と隔ててくれるものがない。その玄関ドアさえ、薄い鉄板なので音もよく伝わる。
「サヤチン、助けて! お願い! 助けて!!」
「……三葉ちゃん……」
もう絶交してやろうかと思っていた親友だったけれど、怯えきった悲壮な声で助けを求めてきたので心配になった。
「どうしたの?!」
叫び返しつつパジャマを急いで着る。
「助けて!! お化けが追いかけてくるの!!」
「………」
開けようか迷い、早耶香は覗き窓を見る。そこには泣きながら助けを求める三葉だけが見えて、あとの背景は、いつも通り平穏だった。
「何もいないじゃない……」
「お化けが追ってくるの!! サヤチンのお化けが!!」
「………誰がお化けだ。やっぱ、開けてやらない」
「ひぃぃい!! 私のお化けも来たぁぁ!!」
「自分のお化けって、どんな状態よ、それ……やっぱり、病院に連れて行った方がいいのかな。彼氏も実在するのかなぁ……」
電話で会話した瀧の実在さえ疑わしくなってきた早耶香がドアを開けるべきか、もう無視して三葉とは永遠に別れるか、真剣に迷っていると、ドアの向こうで三葉は追い詰められたのか、背中をドアに押しつけるようにする気配がした。
「ひひぃいぃ! さ、触らないで! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! お願い成仏してください! サヤチンも私も生きてるの! 許してください許してください!」
何かへ泣きながら謝って、おしっこを漏らし始めた。
ジョボジョボぉ…
薄いドアなので音が響くし、まるでドアの向こうで三葉が刺し殺されて血が流れてくるようにドアの下から、三葉の小水が染み込んできた。
びちゃ!
腰の抜かして座り込む音も響いてきた。
「………」
少し早耶香は怖くなった。心霊現象を信じる方ではないけれど、お化け屋敷は苦手な方だった。これだけ三葉が怯えているとなると、何かいるのかもしれないし、元々は巫女だった三葉は霊感があるのかもしれない、という非科学的なことを考えたりもする。もう一度、恐る恐る覗き窓から見る。
「……何もいないじゃない……仕方ないなぁ」
このままでは近所の人が警察を呼ぶかもしれないし、三葉のアパートから最短距離の克彦のマンションではなく早耶香のアパートまで助けを求めに来たのは夕べの浮気疑惑を反省したからだとも思えるし、ここで助けてやらないと失禁するほどパニックを起こしているので、また克彦の部屋に逃げ込むかもしれない。いまだ、三葉に未練をもっている様子の克彦は、きっとパニック状態の三葉を見たら部屋に入れる気がする。そうなるよりは監視できる方がいいと、早耶香はドアを開けた。
ドサっ…
ドアにもたれかかるように座り込んでいた三葉が玄関に倒れ込んできた。
「ひっ…ひっ…」
青ざめた顔が引きつっているし、やっぱり失禁していたようで通勤着の股間が濡れている。手足もガタガタと震えていて、これが演技や芝居でできるとは思えなかった。
「大丈夫?」
「…ひっ………サヤチン……ああ、サヤチン、ちゃんと下半身のあるサヤチン……」
「何それ」
すがりつくように三葉が手を伸ばしてくるのを早耶香はよけた。
「汚い手で触らないでよ」
「ぐすっ…助けてくれて、ありがとう…」
「………。お化けって、どんなのを見るの?」
「私とサヤチン、あと町の人も、みんな隕石が落ちたときに死んだの」
「…………また、隕石の話……いい加減、その話で私たちを振り回すの、やめてくれないかな」
早耶香は頭痛がするような仕草で頭を押さえた。
「正直、うんざりなの。高校時代も、あなたに振り回されて、とんでもないことさせられたような記憶もあるし」
「あのとき、その前の世界では、みんなが死んだんだよ。その死んだ人たちが、生きてる私を呪ってるの」
「…………それ、本気で言ってる?」
「だって、そうとしか考えられないもん!」
「………もう帰って。二度と私と克彦の前に、その顔を見せないで」
「っ…、そ、そんな……ごめんなさい! 夕べのことは、この通り謝るから! どうか、許して! お願い信じて!」
倒れ込んだままだった三葉が狭い土間で土下座を始めたので、早耶香はタメ息をついた。
「はぁぁ……あのさ、生理的嫌悪感ってわかるよね? もう、あなたと同じ空気を吸ってるのがイヤ。今朝、殺されなかっただけ、マシだと思ってくれない?」
女性同士で生理的な拒絶感が生まれると、もう関係の修復が絶望的だということは三葉にも伝わり、昨夜克彦と同衾したことが心底許せないのだと早耶香は言葉でも態度でも示している。もう長年の親友関係は終了して、完全な他人、むしろ消え去ってほしい他人という目で見られて三葉は、ぼろぼろと涙を零した。
「ひっ…ひっく……うっ…うわああぁん! ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません! 許してぇ…ふえぇえええん! サヤチンごめぇえん! もうしないからぁぁ! もうしないからぁあああ! ああああんん! ゆるしてえええ! サヤチンと友達でいたいよぉ! ふえぇぇ!」
「………」
大声で子供のように泣きながら本気で謝られると、つい早耶香も許しそうになってしまい、可哀想という感情が生まれる。早耶香にとっても親友と呼べるのは、三葉しかいない。けれど、ずっと好きだった克彦が好意を持ち続けている女性でもある。女として蹴り出してドアを閉めたい気持ちと、人として助けてあげたい気持ちが早耶香の中で戦い、早耶香は冷たい表情のままタメ息をついた。
「ふぅぅ…とりあえず、中に入って。ドア閉めるし。お風呂、使って、ちょうど、お湯、貯まってるから」
「ありがとうぅぉ! サヤチンぅぅ!」
「許したわけじゃないから」
「ぐすっ……ありがとう……サヤチン……本当に、ごめんなさい。二度と、しないから」
「ほら、ここに脱いで」
早耶香はドアを閉めてビニール袋へ濡らした衣類を入れさせる。よく見ると、三葉は逃げる途中で転んだのか、ストッキングが破れて膝から血が出ている。
「ケガまでして……そんなに怖いお化けなの?」
「うんっ……血だらけで……私は身体が半分、潰れてるの……サヤチンは下半身が無くて…なのに手で走って追いかけてくるの」
「うっ…ごめん、聴きたくない。そういうの苦手。しかも、自分たちって……。とりあえず、お風呂に入って」
「ありがとう、サヤチン」
礼を言いながら三葉はバスルームへ入ったけれど、扉は5センチほど開いたままで入浴する。それを早耶香が閉めると、また開けて頼む。
「ごめん、一人になるの、怖いの。ちょっとだけ開けておいて」
「…………まさか、同じこと夕べ克彦にも頼んだりした?」
「………………」
三葉が黙って深々と頭を下げた。
「あんたねぇ……人の婚約者を…」
早耶香が拳を握って殴りつけそうにプルプルと震わせると、三葉は殴られる覚悟をして目を閉じた。
「ハァ……ハァ…とりあえず、お風呂を済ませて」
「はい……ごめんなさい」
三葉は狭いバスルームから外へ水しぶきを飛ばさないように身体を洗う。洗い場など洋式便器が置かれていて、ほとんど無いので苦労している。早耶香が冷たい声で親切に言ってやる。
「お湯は残さなくていいよ。私が入るとき、また入れるから。湯船の中で身体も洗って」
「うん……ありがとう……ごめんなさい」
三葉は脚だけ流してから湯船に入り、身体を洗うと、すぐに揚がった。
「お先です。ごめんなさい」
「………」
「どうか、許してください。本当に、やましい気持ちはありませんでした」
三葉が、また土下座するので、バスタオルを差し出した。
「サヤチン……ありがとう」
「………。予備のパジャマ、貸してあげる。新品のショーツがあるから、それも使って。あとでお金は請求するよ」
「うん、ありがとう。………泊めてくれるの?」
「追い出したら、どうする気?」
「…っ……お願いです、泊めてください……お願いします…一人はイヤなの……一人になると出てくるの」
「もう土下座はいいから」
早耶香は新しい湯を貯めてから自分も入浴する。バスルームの扉を閉めようとすると、三葉が頼んでくる。
「サヤチン、少しだけ、開けておいて」
「………子供か」
「怖いの。お願い、お願いします」
三葉が涙目で頼んでくるので早耶香は諦めた。別に覗かれるわけでもないので5センチほど開けたまま入浴した。揚がってパジャマを着て髪も乾かすと、いよいよ女同士、言っておくべきことがある。ごく狭い部屋なので早耶香はベッドの上にいて、三葉は玄関先の板の間に正座している。泊めるとなると、広めのベッドに二人で寝るか、正座している板の間に寝させるかの二択しかなく。大学時代には何度か、お互いの部屋に泊まったりもしたけれど、そのときはベッドに二人で仲良く寝たし、もともと三葉の部屋の方に泊まることが広さの関係で多かった。
「言っておくことがあるよ」
「はいっ」
正座していた三葉が背筋を伸ばした。
「克彦は、もう私の婚約者なんだから学生時代の友達気分で泊まりにいくのとか、ありえないから」
「はいっ」
「……………。やっぱりダメ、許してあげられないかも。その顔を見てるだけで、すごくムカムカしてくる」
早耶香が枕を叩いた。長年の親友を許してやりたい気持ちと、長年の想いの障害が昨夜は婚約者と過ごしたかと思うと、殺意に近い怒りが胸の奥から湧いてくる。今度は枕を殴った。
「思いっきり叩いてやりたいくらいよ! ホントムカつく!!」
「……叩いて……思いっきり叩いて」
三葉が立ち上がって近づいてくると目を閉じた。
「サヤチンに、すごく悪いことしたって思ってるから、叩いてください。お化けが見えたのは本当だけど、テッシーの部屋にいたのも本当だから……気の済むまで叩いて」
「………」
早耶香が三葉の頬を見て、それから自分の手を見る。全力で叩きたい感情は胸の中にうねっている。けれど、暴力に訴えたくない気持ちもあるし、叩き出したら止まらなくなりそうな気もする。しばらく悩んだ早耶香は閃いた。そして収納に入れてあった布団叩きを出してくる。寝る場所に、こだわりのある早耶香はベッドの上に和布団を敷いて寝る派であり、天気のいい日には布団をベランダに干している。そのときに使う布団叩きを出してきて、勢いよく振った。
ブンッ!
その空気を切る音で三葉が目を開けて布団叩きを持っている早耶香を見た。
「……っ………」
さすがに三葉の顔がこわばり、それでも、また目を閉じて覚悟を決めた。
「いい覚悟ね」
「……うん………私が悪かったから…」
「…………」
早耶香が布団叩きの先を三葉の頬に触れさせた。それだけで三葉はブルっと身震いした。
「いくよ」
「…うん…」
「って、さすがに顔はないよね」
「サヤチン?」
「こっちにきて、お尻を出して四つん這いになりなさい。暴力じゃなくて、お仕置きタイムにするから」
「は……はい」
三葉はベッドにあがり、お尻を出して四つん這いになった。もちろん、何をされるかわかっているし、糸守町では珍しくないお仕置きだった。日照時間の少ない糸守町では布団を干す時間が限られていて、おかげで布団叩きは盛んだった。それが転じて、悪戯した子供に親が尻叩きするのに用いられることも多い。久しぶりに、その姿勢をとって三葉も懐かしさを覚えた。これをされるのは母が生きていた頃になる。もちろん、母から受けた。三葉のアイスを勝手に食べた四葉への復讐として、まだ5歳だった四葉が昼寝している間にマジックで顔にバカ、アイス泥棒、アホと描いて憂さ晴らししたのを母に叱られて叩かれた。強烈に痛かった。
「これを咥えていなさい」
「え……」
早耶香がタオルを渡してくれたので三葉は首を傾げる。
「なんで?」
「本気の本気で叩くから、悲鳴あげられると近所迷惑だからよ」
「……はい」
三葉はタオルを咥えて目を閉じた。早耶香も構える。狙いをつけるために一度、お尻を布団叩きで触れ、それから振り上げた。
ビュ…ビシィ!!
「ひっ?!?! ぅぅぅぅ…」
三葉は頭が真っ白になるほどの痛みを感じて目を見開いてシーツをつかんで悶えた。こんなに痛いと思わなかった。小学生だった12年前に、どれだけ母が手加減してくれたか、よくわかったし、早耶香が本気で怒っているのもわかった。
「ご…ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
「2発目、いくよ。ちなみに、さっきのが50%くらい。次は8割くらいで叩くから」
「っ……」
今の痛みで半分と言われ、三葉はお尻が寒くなるのを感じたけれど、お仕置きなので逃げずに四つん這いを維持する。そっと、お尻へ布団叩きが触れてきて、それが振り上げられる。
「えいっ!」
早耶香のかけ声と同時に布団叩きが振り下ろされる。
ビュッ! ビシィィ!!!
「あッ!! ………ぅぅぅううう…」
三葉は咥えていたタオルを落として喘ぎ、シーツに顔を押しつけて震えた。
「…ぅぅっぅう…」
お尻の皮膚が裂けて血が出ているんじゃないかと思うほどの激痛だった。くっきりと布団叩きの形が三葉のお尻に残っている。
「…ぁぁあぁ……ハァ…ハァ…」
息が止まるほどの痛みだった。
「次は100%、ちゃんとタオルを咥えなさい」
「……も……もう許してください」
あまりの痛みに三葉が赦しを乞うと、早耶香が冷めた目で見下ろしてきた。
「ふーん、あなたの反省は、その程度なんだ? たった2回だよ?」
「っ………もっと、叩いてください」
三葉が涙を零しながら言うと、早耶香は怒りが晴れるのと同時に、妙な快感を覚えていた。長年のコンプレックスが氷解するように胸がすく。そして、背筋がゾクゾクと快感に熱くなった。もっと、いじめて泣かせたい、さんざん気をもんだ克彦の三葉への思慕に対する逆恨みが直接に叩くことで、こんなにも気持ちよく晴れるとは思わなかった。早耶香は唇を軽く舐めると、布団叩きを三葉のお尻にあてた。
「少しなら悲鳴をあげてもいいよ。100%だから」
むしろ悲鳴を聴きたかった。ゆっくりと、あえて、ゆっくりと布団叩きを振り上げ、そして振り下ろす。
ビュッ!!! ピシィィッ!!!!
「んっあああああああ!!!」
もう四つん這いを保っていられず三葉は叩かれたところを両手で押さえて転がった。
「ううぅぅぅ……ひぅ…ひぅぅ…」
「………」
気持ちいい、なんて気持ちいいの、と早耶香は胸を熱くして頬を赤くした。そして熱っぽく冷たい声で言う。
「なに逃げてるの。ほら、四つん這いに戻りなさい」
「ひっ…、も……もう許して……それ、痛いの……すごく痛いの…ぐすっ…ひっく…」
まだ三葉の気持ちは謝罪のために四つん這いへ戻ろうとしているけれど、肉体の方が痛みのために拒否反応を示していて、お尻をかばって震えている。
「わかった。100%はやめてあげる。今度は20%、ただし連発ね」
「……連発……」
「包丁で刺す気だったのに、こんな子供のお仕置きに替えてあげるなんて私って超優しいよね?」
「うん………。……ありがとう…ございます」
「よしよし、さ、続けるよ」
「……」
三葉は落としたタオルを拾って咥え、四つん這いになった。
ピシッ! ピシッ! ピシッ!
「んっ…んんっ…んぅう!」
ピシッ! ピシッ! ピシッ!
「んーっ…んーう! うっん!」
「いい子、いい子、反省して、いい子になろうね」
「はいっ、お母さん!」
「……誰が母さんじゃい」
ビシッ!!
「ひぐっ?!」
強く叩かれた三葉が、おもらしする。
しょわ…
少しだけ小水を噴き出してしまった。
「ちょ?! 人の布団に何してくれるのよ?!」
早耶香がティッシュで染み込まないうちに拭き取って怒る。
「ひっ…ごめんなさい! うっかり出ちゃったの……」
「うっかりにも、ほどがあるでしょ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ひぅぅう…」
謝りながら泣くので早耶香も強く怒る気が失せた。
「はぁぁ……もういいよ。今日のところは、これで許してあげる」
これ以上叩くのを続けると、お尻の皮膚から血が出そうだったし、何より変な趣味に目覚めてしまった自覚があるので自重して終わることにした。ただ、また叩きたいという欲求があるので、今日のところは、という限定つきで私刑をやめた。
「サヤチン……本当に色々ごめんなさい」
「はいはい」
さすがに、かわいそうになって早耶香が三葉の頭を撫でると、抱きついてきたので抱き返した。しばらく抱き合って、一応は仲直りということで二人でベッドに横になる。ともかくは復讐を終えたので、今度は早耶香が心配して問う。
「ねぇ、三葉ちゃん。昨日の彼氏ができた話って本当?」
「え? うん、本当だよ」
「エア彼氏とかじゃなくて?」
「サヤチン、電話で瀧くんと話したでしょ。……変なこと言うから、誤解されないようにフォローのメッセージ送るの、大変だったんだから」
「変なことするからでしょ」
「うぅ……ごめんなさい」
「で、彼氏とは、うまくいきそうなの?」
「うん、たぶん」
「そう。じゃあ、仕事は? 順調?」
「順調だよ。前回の新製品が売れ行きよくて、今度ね、プロジェクトリーダーに選ばれたの。お前は味覚のセンスがいいって大先輩のブレンダーにも誉められたし」
「へぇぇ、すごいね。飲料メーカーだよね。ジュースとか、お酒の。そっか、恋も仕事も順調なのかぁ……なんで、お化けなんて見るんだろうね? なにか悩みでもあるの?」
「………わかんない……本当に出てくるの……」
「あ……、ちょっと、腕、見せて」
早耶香が寝たまま三葉のパジャマをめくって腕を見る。とくに肘の内側を観察して注射跡が無いことを確認した。
「変なクスリとか、飲んだりもしてない?」
「そんなことしないよ。そんなレベルで疑わないで」
「ごめん、ごめん。都会って、そういうの、いつのまにか流行るしさ。大学でも何人か退学になったから」
「あったね、そういうこと。今でも夜になると売ってるし」
「悩みでもクスリでもないなら、なんでかな?」
「…………私たちが隕石で死んだ世界があるかもしれないって……信じてくれる?」
「……………信じてあげたいけど………信じてないのに、信じてるって言ってあげるのも口先だけになるから……」
「うん……ありがとう……」
「そろそろ寝ようか」
そう言って早耶香は立ち上がってバスルームに入る。
「サヤチン? 何するの?」
「トイレよ」
答えて早耶香が扉を閉めると、三葉が慌てて頼んでくる。
「ヤダ! 開けておいて!」
「いやいや、ヤダは、こっちよ! トイレって言ったでしょ! お風呂ならともかくトイレはイヤよ!」
「お願い! 少しでいいから開けておいて! 一人にしないで!」
「絶対イヤ! 大きい方だから、ちょっとくらい待って!」
早耶香はパジャマと下着をさげて洋式便器に座る。夕食が豪華だったので普段は朝になる排便が少し早まっていた。
「開けて! お願い! 少しだけでいいから扉を開けておいて!」
「……変態……」
聞こえないようにつぶやいて排便に集中したいので耳を塞ぎ、音を聴かれたくないので水を流す。
「開けて! ひっ?! 来た! 出た!! ひぃいい! ごめんなさいごめんなさいぃいい! ひぃいい! 開けて開けて開けて! ひあああぁぁ!」
三葉が扉をガタガタと揺らしている。その声が本気で助けを求めているけれど、早耶香も動けないので、とにかく用事を終えてトイレを流してパジャマをあげてから扉を開けた。
「三葉ちゃん………」
「ひぃぃ…お母さん……お母さん……助けて……お母さん…」
三葉は扉の前で震えながら、また漏らしていた。貸した予備のパジャマを濡らしてしまっている。しかも母親を呼んでいた。亡くなった母親のことを思い出して泣いたりすることは、ほとんど無かったはずなのに追い詰められて頼るものが、それしかなかったように泣きながらつぶやいていた。
「かなり重症みたいね……。どうしよう。……よしよし」
とりあえず早耶香が抱きしめると、三葉は泣きじゃくって抱きついてくる。しばらく泣きやむまで抱きしめて着替えさせてから、三葉の目を見つめながら真剣に訊いてみる。
「ねぇ、三葉ちゃん。お化けが見えるのを相談するの、精神病院と御祓い屋さん、どっちがいいと自分で思う?」
「………御祓い屋さん………かも……病気じゃないと思う。幻覚じゃないと……たぶん…」
「そう。じゃあ、明日、ちょうど土曜日だし、どこか御祓いしてくれるところ行ってみよう」
「サヤチンも……来て…くれる?」
「行ってあげるよ。不安なんでしょ」
「うん、ありがとう」
また二人でベッドに寝転がり、早耶香はベッドの下へ手を伸ばすと、埃をかぶっていた月刊ムーの数年前の号を開いた。
「たしか、このへんに……あ、あった。けど、信用できるかなぁ……」
雑誌にある広告で御祓いを行うという店舗が何店も紹介されていて、都内の店もあった。
「サヤチン、それは?」
「一応、御祓い屋さん」
「……怪しくない?」
「こういうは眉唾だけど、三葉ちゃん、スマフォで口コミを調べてみて」
「うん」
ネットで口コミを見ると、評価はピンキリだった。
「絶賛してるのはステマっぽいかも………高い壺を買わされそうになったとかもあるし……うーーん……一応、当たったこともあるみたい……あ、これは恋占いか……御祓いは………あんまり評価がないね」
「いっそ、四葉ちゃんに頼んでみたら?」
「…え………四葉に…………」
「本職だし、かなり評価、高いよね。この記事でも」
月刊ムーに再建された糸守神社の特集があった。落下した隕石を御神体として新たに加え、奇跡的に町民が誰も犠牲にならなかったことも取り上げられ、さらに巫女の宮水四葉による予言や開運が高評価を受けているとある。
「広告じゃなくて記事なんだしさ」
「……いいよ……遠いし……」
「やっぱり、四葉ちゃんには会いにくいの?」
「………うん……全部、あの子に押しつけて東京に来たし………」
東京に行きたい、その想いで大学受験し就職もしたけれど結果として、それは妹の四葉に神社の再建や避難生活からの自宅再建まで、すべて押しつけて出てきたことになっている。祖母は高齢で、父親は別居、それなのに妹を置いて東京に来ていた。三葉が高校を卒業したとき、まだ四葉は小学5年生だった。その妹は一言の文句も言わず、そして三葉が東京で就職したということは、神社の跡継ぎも必然的に四葉になるということで、ずっと巫女をやめたいと祭りの度に言っていた三葉と、苦痛は訴えなかった四葉では自然な成り行きだったけれど、話し合いはもっていない。ただ三葉が東京に来たかったから飛び出してきた。そして戻るつもりはない、そんな身勝手な姉だったので妹には会いにくい。まして、頼み事など、どんな顔をされるかわからない。
「じゃあ、やっぱり近いところに行ってみようか。明日」
そう言って早耶香が電灯を消すと、三葉が訴える。
「イヤだ! 電気は消さないで!」
「え~……私、明るいと寝られない人なんだけど」
「ごめん! お願い、つけて!」
「………」
かわいそうなほど怯えているので早耶香は電灯をつけた。そしてヘアバンドを探してアイマスクの代わりにする。
「微妙に明るいけど、まあ寝られるかな」
「ごめんね」
そう言いつつ、三葉が身体をよせてくる。くっつかれると暑苦しかった。
「あのさ、こうやって、くっついて寝る気?」
「……ごめんなさい……怖くて……」
「はぁぁ……まあ、いいよ、よしよし」
仕方がないので頭を撫でると抱きつかれた。
「そんなに怖いんだ?」
「うん」
「わかったよ。とりあえず、おやすみ」
「おやすみなさい。ありがとう、サヤチン。サヤチンが友達でよかったよ」
「………夕べも、この調子で克彦に、くっついて寝たわけね?」
「うっ………」
「この泥棒猫め♪」
早耶香が見えないながらも抱きつかれているので位置はわかる三葉の乳首を摘んだ。
「あうっ?!」
「次やったら、お尻が腫れるほど叩いてやる」
「もう腫れてるよ」
まだ三葉の尻は痛かった。
「さ、寝よう」
「うん」
「…………」
「…………」
眠るために二人が無口になったときだった。
メシッ…
部屋の中に音が響き、三葉がビクリと身震いした。
「ひっ?!」
「あ、大丈夫、大丈夫。このアパート、古いから、ときどき、こういう音するの」
「そ…そうなんだ…」
「うん、最初はビビるけどね。半年も住むと慣れたよ。ラップ音じゃないから安心して」
大学1年から住んでいる早耶香は眠そうに説明して寛いでいる。それで三葉も納得して目を閉じたけれど、また音が響いてきた。
メシッ…
「っ…」
「大丈夫だって」
「…うん……ごめんね、いちいちビクっとして」
「いいよいいよ、平気、平気、おやすみぃ」
メシッ…
「っ…」
「……………」
早耶香も少し怖くなってきた。慣れた音ではあったけれど、これほど頻繁に鳴るものではなかった。せいぜい一晩に1回か2回くらいなのに、かなり連発されている。早耶香は目を覆っているヘアバンドをずらして室内を見回した。
「う~ん……何もないね。今日は湿度の変化でも激しいのかな。まあ、安心して。いつもの音だから」
「…うん……」
「はいはい、抱っこしてあげるから」
もう実は早耶香も怖いので三葉と抱き合う。半信半疑ではあるけれど、精神病院より御祓いを選ぶくらいには三葉の話を信じていたりもする。
メシッ…
「「っ…」」
いっしょに二人してビクッとなった。
((…クスクス…))
かすかに笑い声が聞こえた気がする。しかも、三葉と早耶香の笑い声だったような気もする。
「きょ、今日は本当に、よく鳴るね。うるさいくらい」
早耶香がヘアバンドを外して起き上がり、冷蔵庫へ向かった。そして缶ビールとウイスキーを出した。
「あ、うちの会社の」
「そうだよ、三葉ちゃんにもらった優待券で買ってみたの」
早耶香は怖いので酔いつぶれて寝ることにした。ベッドの上で二人で飲みながら話しているうちに寝るという作戦で怖さを追い払い、二人で眠った。
大学受験のためにセンター試験を受けに岐阜市内の受験会場に来た日だった。
「……ぅぅ~……まだ30分も……もう30分しかない……」
山奥の糸守町から会場に向かっていては間に合わないので糸守高校から受験する全員が前日からホテルに泊まって受験していたけれど、三葉は寝室の環境が変わったことで、なかなか寝付けず結果としてギリギリに会場へ滑り込んでいた。
「……ぅぅ……」
おかげで朝からトイレに入れていない。猛烈な尿意と戦いながら、試験問題とも戦っていた。
「……ハァっ……まだ29分……」
挙手して離席しようかとも思うけれど、まだ問題も解けていないし、なかなか進められないので時間配分を考えると、女性試験官を呼んでもらってトイレに行って帰る時間が無い。
「……はぅぅ……」
三葉は寒いのに額へ汗を浮かべながら、問題を解いていく。シャーペンを持つ指先が震えるほど、おしっこを我慢していた。
「……ぁ~ぁ……はぅぅ……」
「そこ! 静かにしなさい!」
「は、はい! すいません!」
注意されてビクっとしたので、さらに苦しくなった。
「………ぅ~……」
ダメ、もう漏れる、もう、この問題は捨てよう、トイレに行かせてもらおう、と三葉は最後の設問を、すべて勘だけでマークシートを塗りつぶすと挙手した。
「どうしました?」
「トイレが漏れます!」
「「「「「プッ…ククっ…」」」」」
変な日本語を発したので、何人かが爆笑しそうになり、それに耐えている。三葉も自分の失言が恥ずかしすぎて真っ赤になって下を向いた。幸か不幸か、糸守高校の生徒は、ほとんどいない。共謀してのカンニングを避けるために県内の高校から参加している生徒たちを、なるべく他校生と並ぶように配置されている結果だった。
「……。女性試験官を呼びますから、少し待ちなさい」
「は、はい」
もう漏らしそうだったけれど、大切な試験なので三葉は尿意を我慢しながら、受験番号や解答順に間違いが無いか、目でチェックしていくうちに重大なミスを見つけた。
「っ…………」
解答順が途中から間違っていた。同じ問題へ2つもマークしてしまい、以後の解答もすべてズレている。最後の設問を勘で埋めたので問題数が合わないことに気づくのが遅れていた。
「…ハァっ……ハァっ……」
震える指先で消しゴムを使い、一つ消しては一つズラして塗り、それを繰り返していく。そのうちに女性試験官が来てくれた。
「どうぞ、立ってください」
「あ……あう……いえ! ミスがあって!」
三葉は時計を見た、もう9分しかない、これでは退室して戻ってくると、修正している時間がない。
「ちょっとだけ! ちょっとだけ待ってください! お願いします!」
「ええ、どうぞ。慌てないで、落ち着いて」
女性試験官は半泣きで懇願してくる女子高生に優しく微笑んで、そもそもの試験時間は残っているので、待ってくれた。
「ハァっ…ハァっ…」
三葉は左手で股間を押さえながらギュッと内股になって耐えつつ塗り替えていく。どうせ勘で答えた最後の設問など、塗り替えなくてもいいのに、そんな思考力も働かずに最後の設問を中程まで塗り替えたときだった。
じわぁ…
「ひぅ…」
三葉は漏らし始めてしまい、少し下着を濡らしたのを感じた。
「うぅぅ……止まってぇ…」
「あと少しですよ、頑張って」
「は…いぃぃ…」
三葉はブルブルと震えながら塗り替えようとするけれど、もう限界だった。
ショァァァァジョオオオオぉぉ!
生温かい渦巻きがショーツの中で暴れ、それが滲み出してきてイスを濡らし、さらにイスから零れて足元の床に黄色い泉をつくっていく。
「ぅふぁぁぁぁ…」
「…………。あと二つです。もう1分しかありませんよ、書いてしまいなさい」
女性試験官は今現在の羞恥心より、この女子高生の受験を心配して助言してくれる。三葉は泣きながら塗り直して、それから、また泣いた。
「ひくっ…ううっ…あううっ…」
「「「「「……………」」」」」
試験時間が終わり、周囲の他校生が三葉を見ている気がするけれど、顔を伏せて泣いているので、わからない。センター試験初日の最初のテストでの出来事だった。
三葉は早耶香の部屋で目を覚まして焦った。
「っ……」
盛大にオネショしていた。寝る前に早耶香と二人でビールとウイスキーを飲んだとはいえ24歳にして、ありえない恥ずかしい失敗だった。お尻のまわりが大きく濡れていて恥ずかしい。
「……ヤダ……どうしよ……サヤチンの布団なのに……それに、なんで、あの日の夢なんか、今さら……ぐすっ……結局、大学には合格したから、よかったけど、センター試験で、おもらしなんて……」
三葉が悲しい気持ちと恥ずかしさに沈んでいると、早耶香も目を覚ました。
「う~……頭、痛っ…」
二日酔いの頭痛に苦しんでいる。克彦とワインを楽しんだ後に、怖いので三葉とビールやウイスキーを眠くなるまで飲んだので、かなりの二日酔いだった。
「痛ぁぁ……三葉ちゃんは大丈夫? ……………オネショしたの?」
「ごめんなさい。お布団は弁償するから」
「プッ、小便して弁償した。なんてね。あはははは! あ、今のはベンショウとショウベンをかけてね」
まだ酔いが残っていて、酔うと駄洒落のレベルが勤め先の上司と同じになる早耶香に笑われて三葉は泣いた。