「……今日でちょうど二ヶ月か」
パチリ、と目を覚まし。
顔を傾けてカレンダーの日付を確認してからそう呟く。
――最初はどうなることかと思ったが、なんだかんだで慣れるものだな。
ベッドから起き上がり、寝間着を脱いで適当な服に袖を通す。立て掛けてある木刀を横目で確認してから、椅子に座って手のひらにテーピングを巻き始める。
家族はまだ起きていない早朝。日課となった朝の鍛練をこなすために、準備を終えて部屋を出た。
(多少はマシになってきた、か)
小鳥の囀りが聴こえる中、庭で木刀を振るう。
赤樫を持つ手が震えているのがわかる。手に巻いたテーピングの粘着面がずれ、汗と混じり多少の不快感と共に手のひらに粘りけを持たしていた。
この二ヶ月間。身体と剣術の基礎から鍛え直しているわけだが、当然まだまだ前世には遠く及ばない。それでも、剣を取って二ヶ月の人間が至るレベルはとうに超えていると断言出来る。下手な暴漢……暴姦? くらいなら楽に撃退出来るだろう。
しかし満足はしない。護身はひとまずの目的でしかない。俺の目標はあの妖怪爺を超えることだ。前世の俺にも片手で捻られるような今のレベルで満足なんて出来るわけもない。
「…………」
庭に落ちていた小石を拾う。
この程度の石くらいなら、
「ふっ」
軽く上に放り投げたそれを、木刀で打ち据えて。
石は、庭のコンクリートで出来た壁にカツンと軽い音を立てて跳ね返った。
「……はぁ」
木刀であれ、あの程度の石なら粉砕していたあの頃を思い返して溜め息をつく。
まずは斎藤始に追い付くところまでいかなきゃ話にならないな、と嘆息した俺は、汗を流すために家に入るのだった。
シャワーを浴びて、何の気なしに上半身裸で部屋に戻ろうとして、過去の失敗を思い返して危ない危ないと頭を振った。一体何のためにわざわざ部屋に戻って着替えを取ってきたというのか。
一度油断して上半身裸、肩にタオルをかけて朝の家を歩いていたら時雨と遭遇してちょっとした騒ぎになった過去を反省して、きちんと服を着てから脱衣所を出ることに決めたのだろうに。
さらしを胸に巻き付ける。その上からワイシャツを羽織り、先に乾かしておいた髪を簡単にまとめた。
何でわざわざワイシャツなんかを着ているかと聞かれれば――
「おはよう、今朝は早いね」
「おはよ……おっ、そういえば今日からだったか」
「昨日言ってたでしょ」
「そうだけどよ。そうして制服姿見ると実感沸くじゃん?」
先に朝食を取っていたらしい泉姉が、俺の姿をまじまじと見つめてくる。その視線を感じながらトースターに二枚食パンをセットした俺は、たまには目玉焼きでも乗せるか、と冷蔵庫を開けて卵を取り出していた。
そう。今日は俺の初登校日である。無事に編入試験もパスした俺は、晴れて氷華姉と共に高校に通うことになったのだ。
真新しい紺のズボンにワイシャツ、更にブレザーとネクタイを締めれば完璧だ。一度髪の色は大丈夫なのか母さんに質問して、その隣にいる氷華姉に「私の黒髪が見たいのかしら」と冷えた目で見られたのが忘れられない。冗談とか言ってたけどあの目はマジだった。……何やらあの銀髪には思い入れがあるようである。
遠回しに問題ないと言いたかったのはわかるが、あんなに冷たい視線を寄越さなくてもいいと思う。
そんなことを思い返しながら卵をひとつ手にとって台所に立とうとして、
「お兄ちゃん私も~」
「……はいはい」
現れた時雨の眠たそうな声に、もうひとつ卵を取ってから台所に立つ。まぁ、二個ぐらいなら手間は変わらないからいいけども。そろそろかと思ってパンも二枚セットしていたし。
「夏波、準備は出来てるの?」
四人の中では一番朝食を取るのが早く、この時間は食後のココアを飲んでいる氷華姉がそう聞いてくる。頭の中でざっと確認して、大丈夫、と返事をしてからフライパンに卵を落とした。
軽く白身に火を通してから、水を入れて蓋をする。ちなみに俺は半熟派である。
待つ間に焼けた食パンを皿に乗せて回収し、ちょうど出来上がった二個分の目玉焼きを分けて食パンに乗せる。ハムも乗せれば良かった。まぁいいか。
「はい」
「わーい」
待っている間に目も覚めたのか、最初の眠たそうな声はどこへやら。いつの間にか準備されていた牛乳片手に皿を受け取る時雨。
「俺の分もあれば完璧だった」
「あ」
「いいけど」
自分の皿を置いて、再度冷蔵庫へ。
牛乳と蜂蜜を取り出して、コップに少しだけ牛乳を注いでから蜂蜜を入れる。適当にスプーンで混ぜてから、もう一度牛乳を注いで、それを片手にテーブルへと戻る。
「……ずるくないかなーそういうの」
「知らない」
「くそぅ……。先走るんじゃなかった」
自分でやるという選択肢はないのか。
悔しげな妹の言葉をほどほどに受け流しつつ、目玉焼きと共に食パンを頬張った。
「忘れ物はない?」
「大丈夫」
「お弁当は持った?」
「あるよ」
「財布にお金はある?」
「もらった分入ってる」
「ハンカチは? あと」
「ティッシュもある」
「……母さん、遅刻しちゃうわ」
玄関先に立ってから五分程。心配で仕方ないと言わんばかりにしつこいほどにチェックを入れてくる母さんに、ついに氷華姉が苦言を入れる。
どうにも不安そうな母さんに俺は苦笑してから、一度鞄を床に置くと、軽くその背中に腕を回す。
「大丈夫だから、心配しないで」
「……うぅ。旅立つ息子を見送るのが辛い」
「いや帰ってくるから」
ぎゅっ、と。少し痛いくらいに抱き締められたことにまたしても苦笑しながら、体を離す。
名残惜しそうな母さんに手を振って、氷華姉と共に玄関から外に出た。
「そういえば……氷華姉の制服はスカートだけど」
「あら、おかしい?」
「ううん。そうじゃなくて」
「ズボンかスカートは自由に選べるのよ。別段、そこに男女の差は無いわ。私だって両方持っているし……制服を合わせる時に聞かなかったの?」
「ズボンが出て来て安心してたから……」
言われて見れば、提示されたサイズの制服にはスカートの姿もあった。ズボンを手に取った時点で何も言われなかったので、スカートに関してはそこで意識から抜け落ちていたのだ。
それにしても、この二ヶ月でだいぶこの世界の常識を学んできたつもりだが、服装についてはやはりそこまで気にすることもなさそうだ。
前世でのパンツスタイル同様、この世界ではスカートは男女共用の服になる。可愛らしいデザインのもの程男性が好む傾向にあるらしいが、そこは個人の嗜好の範疇だろう。
つまり、俺がスカートをはかなくても特に不自然にはならないと言うこと。泉姉が好む多少パンクな服だろうが、氷華姉が普段着にするようなラインが映えるタイトな服だろうが、言うところの『ガールズ』ファッションを俺が身に付けても、前世でのボーイッシュにあたるので問題はないのだ。
逆に女性が『メンズ』の服を着たら忌避されるのか――つまり、前世での女装――と聞かれれば、これもそういうわけではない。家で言えば時雨なんかはバリバリのギャルファッションである。これには首を傾げざるを得ないのだが……まぁ、そういうもんかと深く考えずに受け入れた方が楽だろう。スカートをはいた男女が仲睦まじく歩いているのを見ると未だに視覚情報から混乱するが、慣れるしかあるまい。
「それ、生身で持ち歩くの?」
「ホルダーもあるけど……すぐ使えるようにしておきたいから。使わずに済めばそれがいいんだけど。」
足を踏み出す度に揺れる木刀が気になるのだろう。ベルトに刺したそれを左手で抑えながらそう返した俺は、学校に近付く程に増えていく視線に少し表情を固くした。
共学とはいえ、そもそもが男性よりも女性の人口が多いらしいこの世界。当然、学校の男女割合も偏ったものになる。
俺の入るクラスは四十人構成の、女子三十名の男子十名だったか。全校生徒で見ても似たような男女比率のようで、半数以上が女子になる。
それを考えると、少しばかり顔が固くなるのは仕方がない。身体の方はリラックス出来ているのだから、それでよしとしてもらいたいものだ。……誰に許しを得る必要もないのだろうが。
「学校に着いたら、まず私と一緒に職員室に向かうわ。そこから先は……」
「大丈夫。ちゃんと出来る」
「……まぁ、それくらいの方が虫がつかなくていいかしらね」
どうやら鉄仮面と化した俺の顔を見て不安を覚えたらしい氷華姉は、軽く息を吐いてそう呟く。まぁいいか、といった風情である。
それより虫って。……まあ、色々と平静を保つために最初は距離を置いて貰いたいのは確かだけれど。
果たして上手くクラスに馴染めるかどうか。柄にもなく緊張しているらしい、と顔を揉みながら通学路を進んでいく俺と、
「ふふっ」
「……?」
何やらどこか楽しげに、後ろ手で鞄を持って俺の隣を歩いていく氷華姉なのであった。
「それでは、私はここで。……夏波、頑張って」
「いや、まぁ……うん、頑張る……?」
職員室にて、氷華姉の去り際のエールに首を傾げながら応える。たかが編入初日で何を頑張れというのか、と思う自分と、まぁ色々と頑張ろうと思う自分がいることによる中途半端な反応である。
「じゃあ、私達も行きましょう。大丈夫、もう予鈴も鳴ったし、生徒は全員教室に入ってるから」
「あ、はい」
俺のクラスの担任である先生が立ち上がり、先導して歩き出す。この人とは既に面識があるので、特に構えることも無くなっている。
何故ならこの人――
氷華姉のいる高校に通うことになるなら、と担任は信用がおける人間に当たって貰いたい母さんとしては渡りに船だったことであろう。
担当するに辺り俺の身の上はほぼ理解しており、面識もあるということでこの高校に置いては氷華姉に次いで頼りに出来る女性だ。
桐谷先生は黒髪のポニーテールを揺らしながら先を進んでいく。教科担は現代文であるが、本人は剣道の有段者である体育会系とも言える人。高校時代にはインターハイにて個人の部で準優勝一回、優勝一回の成績保持者である。無論、剣道部の顧問である。
「ここよ。合図したら入ってきて。かなり女子連中が騒ぐと思うけど、ガン無視で構わないから」
何やら扉の窓から覗き込んでいる女子生徒を一瞥し、桐谷先生はそう俺に告げてきた。
それは教師としてどうなのだろう、と思っている間に、桐谷先生は教室の中へと入っていく。
「何立ってんだ馬鹿者」
一瞬開いた扉の先からは、ザワザワとした喧騒が聴こえてきた。次いで、先生が手に持っていた出欠簿で覗いていた女子生徒の頭をひっぱたいてから、後ろ手で扉を閉めてしまう。
多少緊張しているのか、手には軽く汗をかいている。ただの緊張ではない。教室という狭い空間の中で、家族以外の沢山の女子と相対することに、身体が軽く強張っているのだ。
左手を木刀に添え、ゆっくりと深呼吸する。
――大丈夫。問題ない。
平静を保てている自分を確認したところで、桐谷先生から合図が飛んだ。
意を決して、扉を開いて教室へと足を踏み入れる。迷いなく、真っ直ぐに。表情が固いのは、勘弁して欲しいけれど。