学校に通うようになって一週間。およそ何の不都合もなく通えているのはいいのだが、目下の懸念……ではないものの、気になる存在であるあの彼女とはあれから出会えていない。
別に出会わなきゃいけない理由も無し、むしろ恐怖症を患っている身からすれば不用意に接触するのは褒められたことではない。あの雰囲気から察するに、あまり人当たりの良い人間とも思えないし。
「じゃあ、私は先に行くけれど……気を付けてね」
「心配し過ぎとは言えないけど。大丈夫、時雨もいるから」
何時もよりも早い時間。これまで一緒に登校していた氷華姉が、生徒会の用事があると先に行くことになり、俺はそれを見送るために玄関先に立っていた。
その表情はあまり変わらない。が、見る人が見れば心配そうな顔をしているのがわかるので、俺は最近可動域が増えた表情を動かして笑顔を作った。
「そんな作り笑いされてもね」
ひどくない?
結局、彼女の心配を解消することも出来ず、かといって遅れる訳にもいかない氷華姉が家を後にする。
心配はもっともだし、俺もまた不安はあるが、それで氷華姉に迷惑をかけるのは望むところではない。幸い途中までは時雨がついてきてくれるので、道中全てで警戒することもない。
これから一人で登校しなければならない場面も出てくるだろう。その練習だと思えばなんてことはない。
そんなことを考えながら、俺は朝食を摂りに踵を返した。
「時雨、まだ?」
「ちょっとだけ待って。あと少し」
「五分前も同じ事言ってた……」
鏡に向かってメイクやら髪型やらに手をかけている時雨に嘆息しながら、そちらに向けて歩を進める。
時間的にはまだ余裕があるが、あまり遅くなると生徒の登校ラッシュに重なるのであまり嬉しくない。不特定多数の女子と共に生徒玄関をくぐるのは、俺にはまだまだ高いハードルなのだ。
「もう充分だと思う」
「お兄ちゃんの隣歩くんだよ!?」
「いや、うん」
ぽん、と背後から両手を肩に置いてあげると、イマイチ要領の得ない返事が気合い共に返ってきた。言いたいことはわからないでもないが。
ちなみにこちらでのメイクは基本的に女性のするもの。およそ俺の常識と相違ないが、その理由が微妙に違っていたりする。女性がメイクをする理由は同じだが、男性の方が少し違うのだ。
こちらの男性は基本的に肌荒れ等のお肌トラブルとは無縁であり、スキンケアはするが化粧はしない。かといって全くしないかと言われればそうではなく、いわゆる勝負所では男性もメイクをするらしい。
男性がメイクをした状態で女性と一対一で出会うこと、それすなわち男性からの本気アピールということだ。
しかし男性の化粧は非常に薄い。そのアピールに気付くことが出来るか出来ないかが、その後の結果如何に大きく関わることになる。
……アピールすらならもっと分かりやすくしろよ、とは思うが、そこはいじらしい男心の難しいところだと思うことにしよう。自分で言っててなんだが意味がわからない。
「変じゃないかな? 大丈夫?」
「大丈夫、可愛い可愛い」
「そ、そう? ……うふふ」
「気持ち悪いぞ」
「うっさい泉姉! ホントは羨ましいくせにー! 行こうお兄ちゃん」
「行くから鞄は持たせて」
捨て台詞よろしく言い放った時雨に腕を掴まれ、連行されそうになりながら辛うじて鞄を回収する。木刀は結局使うことになったホルダーに刺さっているので問題ない。
バタバタと靴を履いている時雨から目を逸らしつつ自分も靴を履く。ただでさえミニスカなんだからもう少し気にして欲しいものだが、見えてもほぼ気にしないのがこちらの女性である。
これが家族以外だと普通に恐怖症から身体が強張るし、その面で心配がいらない家族だと別の意味で身体が強張る。常識的に考えてどちらも危険である。拗らせると容易く禁断の道へと進んでいきそうで怖い。いや、女が駄目だからって男に行くよりは遥かにいいんだけど。健全かどうかは置いといて。
心の中で、妹……時雨は妹……と自分でもどうかと思う自己暗示をかけながら立ち上がる。
そんな俺を見て、勢い勇んで扉に手をかけた時雨だったが、残念ながらその勢いはすぐに萎れることになる。
「よーし、記念すべき初登校、行ってみよ……」
扉を開けた瞬間に、けたたましいサイレンと共に真っ赤な車が横切っていく。尻すぼみに小さくなった時雨の声に被さるようにして消えていった音に目を瞬かせながら、俺は時雨の肩口から外に顔を出した。
「消防車……?」
「みたい、だね」
至近距離で顔を見合わせた俺達は、一抹の不安を感じながらも登校を始めるのだった。
……至近距離過ぎてちょっとドキドキしていたのは秘密である。
「あ、あそこだ……結構すごい」
「みたいだね」
火事の現場は思ったよりも近場だった。
歩き始めて数分の位置にあった家は既に鎮火されていたようで、辺りに燻った匂いを漂わせている。朝だからか野次馬もまばらで、家の様子は簡単に見てとれそうだ。
……半焼、といったところだろうか。怪我人はいなかったのだろうか、と思いながら横切ろうとしたところで、
思いがけない人物の姿が俺の目に入ってきた。
間違いない。あの目立つ赤い長髪。短いスカートに腰巻きのジャージ。生徒会室にいた彼女本人の姿が、吹き抜けになった玄関の奥で誰かに肩を貸していた。
「知り合い?」
「そういうわけじゃない……けど」
家が崩れないかはらはらして、思わず立ち止まってしまう。同時に耳に届く、メキメキと響く嫌な音。不味い。
彼女もそれが聞こえたのだろう。手早く肩を貸していた状態からその人を担ぎ上げ、倒壊寸前の家から飛び出してきた。
――直後に、轟音。
燃えた半分が力尽きるように崩れ落ちる。そして、二階部分にあった柱のような木材が、必死に走る彼女の背後へと落下するのが見えて。
「――お兄ちゃんっ!!」
時雨の制止は聞こえていた。しかし身体は止まらない。
逃げる彼女とすれ違う格好になった俺は、ホルダーから木刀を抜く。信じられないような視線を向けてきた彼女の顔が妙に印象に残った。
「なにを……!!」
迫り来る柱。燃えたならばいくらか脆いか? いいや、水が染みていたならば見た目よりも重いかもしれない。切り上げは捨てる。ならば払うように受け流す――木材が真横だ。角度と体勢が悪い。これも捨てる。ならば。
重心を下げると同時に木刀を顔の横から垂直に木材へと向ける。少しでも弱そうな部分を確認、狙いを定める。
木刀も持たないだろうが――相手とて無事では済まさん!
剛剣・
鉄の塊であろうが打ち負けることのない、木刀での必殺の突きのひとつ。
身体全体の力を乗せた木刀の切っ先が木材に触れた瞬間、嫌な手応えが掌に伝わる。
が、俺は笑った。夏波になって初めて出たであろう、悪どさすら感じる笑みだったであろう。
「はっ……!?」
聞こえた声は誰のものであろうか。
空中で柱を中程から砕いた刹那の中で、俺は他人事のように考えていた。
はじめてのわざ