さて、基本的にこの世界では、女性と男性では基礎的な身体能力から明確な差が出ているのはそれなりに確認出来ている。下手をすれば、前世のそれよりもその格差は大きいとすら言えるかもしれない。
その中で、俺は男性の中ではかなり身体能力は高い方だと自負出来る。そもそも記憶が戻って鍛え始める前から、運動神経そのものは言うほど悪くはなかった。それが、俺という人格が宿ってから身体を壊さない程度には鍛え続けてきたのだ。
中でも、既に以前の身体を越えている部分がある。それが――
「多対一とか程度が知れる」
「そういうなよ、時間に限りがあるからなっ」
体勢を崩していた俺に、陽華から凄まじい威力でボールが放たれる。
てっきり投げるのも取るのも互いに一人ずつ、つまり外野の邪魔はないのかと思っていたが甘かった。避ければ外野にボールが渡り、また外野から攻撃、避ければ陽華へとボールが。つまり、リスク覚悟で捕球しなければ永遠に攻撃されるという嫌な構図が完成してしまう。
そして、今は俺が外野のフェイントにより完全に体勢が崩れてしまっている。地面を蹴ってその場から飛び退くことが出来る荷重状態ではない。
当たった、と陽華の口元が緩むのが見えた。
――が、
「甘い」
「うえっ!?」
胸まで迫っていたボールが、額すれすれで身体の上を通り抜けていく。まさか避けるとは思っていなかったのか、外野もこぼれ球には反応出来ずにそのまま壁に跳ね返る。当然、内野まで戻ってきて。
「ようやく、こっちの番」
マトリックスどころではないのけ反りから起き上がり、ボール片手にニヤリと笑う。
――柔軟性。関節の可動域やしなやかさは間違いなく前世のそれを越えている。
無論、前世とてそれなり以上に身体のケアはしていたので硬いことはなかったのだが、特筆するようなものではなかった。
それに比べてこの身体にはまだ無駄な筋肉というものがついていない分、凝り固まるようなこともない。そこに体幹の強化をしていけば、先程のような無茶な体勢を保持することも可能になった訳だ。
「あんまり長引かせたくない。出来れば当たってくれると助かる」
「お前が素直に当たれば直ぐに終わるんだぜ?」
「性格的に難しい話」
「それが俺の答えってことだ」
半ば意味の無い会話を終えて、ひとつふたつとボールを地面についた。
さて、こうしてボールが手の内に入ったのはいいのだが、此方もこれで決め手というものに欠けている。そもそも球技と言うものには縁が無かったし、身体能力にモノを言わせたゴリ押しも陽花相手には分が悪い。
取りにくい場所に投げては避けられてしまうし、かといってぬるい箇所に投げても取られてしまうのが落ちだ。
先程までやられていたように外野と協力してもいいのだが、それで仕留められるようなら当にこの試合は終わっている。
そもそも俺が投げるボールの力はクラスの女子よりも多少強い程度のものでしかない。威力だけなら俺よりもある他の女子が投げたものを軽々と受け止める彼女には通じないのだ。
「……詰んでる」
「何か言ったか?」
「なんでも――ないっ」
とにかく投げないと始まらないし終わらない。
そう思い、助走から髪を翻しながらひねりを最大に使ってボールを放つ。当然のようにそれを受け止めた陽花は、歯を見せて笑った。
「剣が無きゃこの程度か?」
「……そもそも剣の意味が無い」
わざと取れる程度の力で放たれたボールを受け止め、分かりやすい煽りに無表情でそう返した。ドッジボールに剣を持って何をしろと言うのだろうか。
……しかし、はからずもこんなところで彼女との差を感じてしまっている自分がいるのも事実。
剣を抜きにした純粋な身体能力、身体の力とその使い方に関しては、自分は陽花と比べて劣ってしまっているのだ。
これがこんな玉遊びではなく、無手での組手なら俺は簡単に組伏せられて終わっているだろう。剣を持っても、恐らくは五分と五分。前の身体ならば圧倒出来たのかもわからないが、生憎今の身体はこの水瀬夏波のものである。
……それでも、そこらの一般人とは一線をかくす戦力はあるはずなのだが。目の前の彼女はやはり普通ではないということか。
そこからは今度こそ一対一の投げ合いになっていた。が、傍目には拮抗しているように見えて、そこには僅かに、しかし確実に差が出来ている。それを実感しているのは、劣っている存在である俺と――あの顔を見る限り、陽花も感じているのだろう。ほくそ笑むその顔に微かな苛立ちを覚え、放つボールに力が籠る。
「おっと。へへ、良い玉放るようになってきたな」
「早く終わらせたいだけ」
「そう言うなって。今終わるさ」
そう言って、陽花はきっと、そこで初めて本気を出した。
本能的に直感で感じる。今から来る玉は、間違いなく取れない。反射的に逃げる体勢を取ろうとする身体を押さえ付けて、
「――おら、よぉっ!!」
そして、陽花の手から弾が放たれた。
避ける選択肢は消えている。しかし、これは捕ることは叶わない。この時点で俺の負けは決まったに等しい。
――普通なら。
腰を落とし、砲弾投げのように右手を顎の下に。
迫り来るボールへと照準を合わせ、一歩大きく左足を踏み出した。
剛剣・鋼打の力を無手斎藤源流にて放つ、突きの一撃。指をたたんだ熊の手で放たれる掌底は、ブロック塀すら打ち砕く。
無手斎藤源流、我流――無手・鋼打。
「んなっ?」
ボールと掌が当たった音とは思えない、鞭を打つような音が響いた瞬間には、ボールは陽花の顔面に迫っており。
「確かに終わった。こっちの勝ちで、だけど」
見事に陽花の顔面を捉えたボールは、尚も勢いを持って俺へと跳ね返る。
それを取った俺の捨て台詞と共に、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
「じゃあ、俺達先に行くな。先生には言っといてやるよ」
「ごめん、お願い」
「良いって良いって。面白かったしな」
保健室の出口にて、一条含む男子数名と女子数名が手を振りながら去っていく。曲がり角でその姿が見えなくなるまで見送った後に、俺は大きく溜め息をついた。
「まさか気を失うとは思わなかった……」
彼女が眠るベッドから離れた椅子に腰かけ、備え付けられている本棚から適当なものを手に取って開く。当然、木刀は肩に預けた状態だ。
ベッドに横たわるのは当然ながら陽花であり、女子の手を借りて気を失ってしまった彼女を保健室に運んできた訳だが。
果たして俺があんな方法でボールを返すのが余程予想外だったのか、もしくはボールの威力が余程高かったのか。まぁ、両方だったのだろう。幸いその整った顔立ちに傷はなく、ただ少し赤くなっただけにとどまっていた。
流石に倒れたままの彼女を捨て置く訳にもいかず、その原因を作り出した自分が保健室に付き添うことにしたのだ。当然ながら、俺は彼女には触れられないので他の女子と男子数名がここまで陽花を連れてきてくれたのだが。
「……んぉっ?」
ベッドから間の抜けた声が聞こえてくる。どうやら目を覚ましたらしい、と本から顔を上げてそちらに目をやった。
陽花は起き上がり、頭をポリポリと掻いた後、キョロキョロと周りを見渡して此方を見つけると、何やら歯を見せて笑って見せた。
その表情の理由に考えが及ばず、きっと俺は怪訝そうな顔を返していただろう。しかし陽花は嬉しそうに笑ったまま口を開く。
「いやぁ、婆以外に気絶させられたのは初めてだ」
「……君の投げるボールが強かったせい」
「よく言うぜ。それに自分の力乗っけて返してきたくせに」
「だとしても、それで気を失うのは情けない」
「あー……それは、そうかも」
実際、逆の立場なら玉遊びで気絶したとして、起き抜けに感じる感情は恥の一言だろう。そもそも、何の勝負であれ気を失う時点で敗北は確定である。
俺の考えが彼女に伝わったのか、そもそも同じ考えが頭にあるのか、その言葉にばつが悪そうに視線を外した陽花は、そのままばたりとベッドに倒れてしまった。
立ち上がり、彼女のそばに歩み寄る。
「っ」
「甘い」
直後、勢いよく伸ばされた手をかわし、その手を脇に挟んで木刀を顔の直ぐ横に突き立てた。何のつもりか知らないが、そんな不意打ちにもならない仕掛けにはかからない。
灰色の髪が陽花の顔に被さり、至近距離で睨み合うこと数秒――ここで彼女は、声を上げて笑い始めた。
「……何」
「いや参った。まさかここまでやる奴とは思わなかったんだ」
「……手加減してるくせに」
「いやぁ、剣持たれたら本気出しても五分五分ってとこじゃねぇ? ……ってか、女が苦手じゃなかったんじゃ」
言い切られる前に、頭が戦闘モードから切り替わってしまい、弾かれるように陽花から距離を取る。二歩三歩と地面を蹴って保健室の入り口まで後ずさった俺は、荒い息と共に陽花を睨み付けた。
くそ、脳筋思考から外れると一気に恐怖症が襲い掛かってくる。久しく味わっていなかった苦しさに汗が吹き出てきた。
俺の豹変振りに、面食らった様子の陽花はその大きな目を瞬かせる。
「お、おい。そこまでショックだったか?」
「ちか、寄らないで」
「で、でもよ」
立ち上がり、狼狽えながらもこちらに駆け寄ろうとしてくる陽花を言葉で止める。しかし、尚もその足が止まらないのを見た俺は、
「――寄るなと……言っている」
「っ!」
震える脚で立ち上がり、震える声で。しかし、その威圧だけは衰えることなく。
本気の気当たりを受けた陽花は、そこでようやくその足を止めた。
「はぁっ……。ごめん、なさい。君が、悪いわけじゃ、ないけど」
「あ、あぁ」
「っ今日は、さよなら」
後ろ手で扉を開き、踵を返して保健室から飛びだした。
そこで、俺の思考は完全に恐怖症に支配される。
「嫌だ……嫌だっ!!」
――思えば、俺はここで初めて、水瀬夏波という人間が抱える傷の深さを知ることが出来たのだと思う。俺という人格が目覚めて、ようやくその傷口に治癒の兆しが見えたというだけで。俺がそれに直接触れることをしなかったからわからなかっただけの話であって。
走り出した俺の身体は、しかし直ぐに誰かに力ずくで止められていた。次いで、頭が抱え込まれる。柔らかく、暖かな感触。
「落ち着いて。私がわかる?」
「嫌だ、離して……っ」
「それこそ嫌よ。聞きなさい。私がわかる? 痛くないわ。熱くもない。危ないことは、何もしない。私は、貴方の姉なのだから」
「姉……、氷華姉……?」
「そうよ。今は何も聞かないわ。だから落ち着いて。今貴方の前にいるのは私だけ。怖いものは何も見えない。私だけ見ていなさい。そうすれば、全て大丈夫」
狂乱しかけ、暴れる俺を抑えていたのは氷華姉だった。
胸に抱いていた俺の顔を、今度は両手で包み込んで顔を合わせる。その切れ長の瞳は真正面から俺を捉えて離さない。必然、此方も視線を外せない。
「落ち着いた?」
「……氷華、ねえ」
「そうよ。貴方の頼れるお姉さん」
「安心、する」
「……眠たい?」
「少し……」
「そう。なら、眠っていいわよ。ずっと傍にいてあげる。安心なさい」
「……ごめん。……でも、誰も、何も、悪くなくて」
「全部貴方が起きてから聞く。何かするなら、そのあとだから大丈夫」
「約束……」
「えぇ。おやすみなさい」
どこまでも、氷華姉の最後の一言が染み渡るようで。
どうやら、俺はそこで気を失ってしまったようだった。
――今まで体験していた症状は、ただその傷口を眺めていたようなものであって。
――その傷が生む痛みは、俺の想像を遥かに越えていて。
――これを直接刻まれた水瀬夏波は、どれ程の苦しみだったのだろうと。
落ちる思考の中で、そんなことを考えていたことだけは、覚えている。
……まぁ、こんな理不尽に黙って負けを認める程、俺は潔い人間ではないのだが。