色々と致命的なダメージを負ったとしても、時間が経てば案外どうとでもなるもの。立ち上がれなくなれそうな一撃を食らったとしても、流れる時間が緩やかに癒してくれるものである。
……自分が言うと洒落にもならないが、この度のそれはそこまで重たい話ではない。今でも思い出すと羞恥から走り出しそうになる程度のものだ。
深く掘り下げる必要も無ければ掘り下げたくもない内容なので、この話はここで終わらせてしまうことにして。
「おはよう」
「おう、おはよう」
日課の素振りを終えてシャワーも浴び終わり、身支度も完了した状態で早起きしていたらしい泉姉と挨拶を交わす。ここ最近は色々とどたばたしていたせいか、平穏な朝がひどく久しぶりに感じる今日この頃である。
あんなことがあっても家族は変わらず接してくれる。というか、間違いなく思うところはあれどデリカシー的な意味で触れずにいてくれているのであろう。もうそこそこ吹っ切れた感はあるとはいえ、その対応も実にありがたいところであった。
「今日はアタシが車で送ってやるから、のんびりしててもいいぞ」
「…………?」
「単に午前中の予定が無いだけさ。夏波だけじゃなくて、他の二人も一緒にまとめて送るから」
「ありがとう」
「どうしたしまして。朝飯食っちまえよ」
「ん」
今日は午後からしか講義が無いのであろうか。そもそも大学のシステムがよくわからないので考えたところで無意味なのだが、うっすらとそんなことを考えながらトースターに食パンを放り込む。
「そういえば、母さんは?」
「もう仕事にいった」
「……早いね」
「あれで忙しい人だからな。仕事中の母さん見たら目を疑うぜ」
いっつもあぁなら何にも言わないんだけどな、なんて笑いながら言う泉姉だが、その言葉に悪意は無い。きっと、彼女は母さんを信頼して、尊敬しているのだ。それに応えられるだけのことを母さんはしてきたのだろうし、これからもしていくのだろう。
「……なんだ、珍しい」
「ん?」
「笑ってるぞ」
「ふふ」
どうやら知らぬ内に口元が弛んでいたらしい。それを指摘されて自覚して、なんだかそれも面白くて笑ってしまう。
基本鉄仮面なこの顔が緩むのは泉姉が言うように珍しい。家族の前ではそこそこ動くし笑顔だって見せているはずだが、どうやらまたそれとは違った表情だったようだ。
「アタシらは別に平気だけど、あんまり他の人間にその顔しない方がいいぞ」
「多分しようとしても出来ない」
「うおっ……いきなり真顔になるなよ」
そこまで驚かなくてもいいと思う。
「よぉ、久しぶり」
「久しぶり」
登校を終え、SHRの時間が過ぎた後の休み時間。数日振りに会うクラスメイトである一条が挨拶をしてきた。あの事件が起きた日から数日の引きこもりを経て暫く学校を休んでしまっていた俺は、どうやらちょっとした話題を生んでしまっていたらしい。
「何かの事故にでも巻き込まれたんじゃないかって皆噂してたんだぜ」
「そういうわけじゃ無いんだけど」
「先生からは体調不良としか聞かされて無いからなぁ。実際、そんなに酷かったのか?」
机に腰掛けながら聞いてくる一条に、さてどう答えたものかと思案する。
体調不良というのは別に間違ってはいない。しかし、病気かと聞かれると素直に頷けないのが難しいところである。
「言いにくいことならまぁいいんだけどさ」
どうでもよさそうに足をぶらつかせる一条。実際、どうしても聞きたいという訳でも無いのだろうが……。
なんとなく。なんとなくだが、隠し事をしているようで気持ちが落ち着かなくなった俺は、同性ならいいかと正直に言ってみることにした。勿論、事細かに教えるつもりは無いが。
「ちょっと」
「ん?」
軽く手招きをすると、一条は躊躇いなくこちらに耳を寄せてきた。あまり大声で言うようなことでも無いので、その耳に口を寄せ、何故休むことになったのかを端的に伝える。
すると、一条は合点がいった、と言わんばかりに声を上げて何度か頷いた。
「俺はそうでもない方だけど、お前は特別重たいんだな。きつかったろ」
「……うん」
それはもう。
「家族とかに頼れなかったのか?」
「うち、男は一人だから」
「あー……。まぁ、もし学校で辛くなったら俺とか、他の男子に声かけろよ。流石にこの年になれば薬くらい皆持ってるだろうしな」
「ありがとう。助かる」
「どういたしまして」
グッ、と親指を立ててサムズアップしてくる一条に、自然と顔が緩むのを感じる。
……あ、今自然と笑えてるかもしれない。
「相変わらずの魔性っぷりだな」
「…………」
「あ、また無表情」
余談だが、今日の授業には性教育が含まれていた。
今までの授業で一番真面目に聞いた。
「ふぅ」
放課後。
久しぶりとなる学校だったので幾らか気を張ってしまったが、致し方ないと言うことにしておく。ほら、さっきの授業でもあの日の前後は情緒不安定になりやすいって言ってたしさ……。
今更色々とどうしようも無いことだが、あの経験を知った後なら前世の女性にも優しくなれそうな気がした。勿論、全く同じではない……どころか、違うことの方が多いのだろうが。それでも、月一で身体を気にしなければならないことを思うと少しだけ憂鬱になる。
ともあれ、今日はもう帰るだけである。家族に心配はかけたく無いので寄り道無しで真っ直ぐ帰ろうと思うのだが……。
「…………」
今日の、午後辺りからだろうか。授業が終わって短い休み時間がくる度に、教室の外から遠巻きにこちらを伺ってくる存在があっては気になって仕方がない。
隠れているつもりが赤混じりの髪がチラチラと見えている辺り、なんとも言えない雰囲気を放っている。そもそも彼女の存在がこの学校でちょっと浮いているのもあって違和感が凄いことになっていた。
「…………」
視線こそ向けて無いもののその存在感は無視できず、しかし迂闊に話し掛けて前のようなことになればいよいよ氷華姉に本気の説教を喰らってしまうだろう。
そんなことを考えながらも、机の横に掛けた鞄を手に取った俺が向かった先は──
「用があるなら声掛ければいい」
「うひゃっ」
一度は彼女──陽華がいる側とは反対側の扉から教室を出た俺だったが、どうにも気になって結局声を掛けてしまうのだった。