翌日。
先生に呼ばれ、指定されていた部屋へと入る。
来たね、と椅子を回して此方を向いた先生は、一瞬目を見開いた後に柔らかく微笑んでくる。
「束ねたんだね。うん、似合っているよ」
「どうも」
「しかし輪ゴムは頂けない。後で用意しておこう」
詳しい髪型などわからないので、取り敢えずポニーテールみたいにしてみたが、似合っていないわけではないらしい。しかし、後ろを見せてもいないのに何故輪ゴムだとわかったのか。侮れないな、先生。
「君が手に入れられるものなんて輪ゴムぐらいしかないだろう。持っていることもないだろうしね」
何を当たり前のことを、と小さく息を吐かれる。心まで読まれた、戦慄。
とまぁ、ふざけるのはここまでにしておいて。
用意されていた丸椅子に腰掛け、何やら写真をごそごそしている先生を待つ。
「さて、始めよう。まずは君がどの辺りまで耐えられるのか、その再確認までだ。いいかい、しっかり気持ちを落ち着けて。ゆっくりでいい。目を閉じて、意識して呼吸をしよう」
言われるままに、目を閉じる。吸って、吐いて。もう一度、吸って、吐いて。先生の声が聞こえる。深呼吸を数回続けて、自分の心音だけが大きく聞こえるようになった辺りで次の指示が飛ぶ。
「よし。じゃあ先ずは、君の母親のことを頭に思い浮かべるんだ。お姉さんでもいい、勿論、妹さんでも」
それぐらいなら問題ない。スムーズに、母親、姉、妹の順で顔を思い浮かべていく。ちなみに姉は二人いて、長男の自分、その下に妹の四人。そこに母親を加えて水瀬家は五人家族である。父親は…父親は?
「……どうかしたかい? 気分が悪くなったなら直ぐに止めるんだ」
「……いえ、大丈夫です」
嫌なことを思い出してしまった。父親は、自分が施設に入ってしまった後に事故死してしまったのだ。
無理に忘れてしまっていたものを、俺が思い出してしまった。家族の中で、唯一繋がりを残すことが出来ていた、かけがえのない存在は、もうこの世にはいない。
「先生」
「……なんだい?」
「母さんは……家族は、元気でしょうか。僕……俺がいなくなって、父さんもいなくなって。……大丈夫なんでしょうか」
「……心配しなくていい。お母さんは週に一度必ず君の様子を聞きに来る。お姉さん達も、妹さんを連れてたまに顔を見せる。全員、元気でやっていけているようだ」
「そう、ですか」
柔らかい布で、目元を拭われる。目をつぶったままに涙を流してしまっていたらしい。
「――大丈夫です。次を」
「うん。次は……こちらからいこう」
深く掘り下げることなく、あっさりと次に進もうとしてくれる先生に心の中で感謝を告げる。本当に、優しい人だ。
先生はデスクの上にある写真ではなく、その横にあるテープレコーダーのスイッチを入れた。流れてきたのは……街中の喧騒のようだ。
軽く首を傾げた俺の反応を見てから、先生は次々と流す音を変えていく。徐々に女性らしき声の割合が増えていき、その意図が理解出来た。
嫌悪感は感じない。身体にも反応はない。手足の震えも起きない。それは、最後に流された女性歌手の歌になっても変わらなかった。
「……ふむ。では、この写真を一枚ずつ見ていってもらう。無理だと思ったら、直ぐに目をつぶるなり逸らすなりするんだよ」
聴覚の次は視覚らしい。
一枚目の写真は、少し古めの集合写真だ。どうやら学校の卒業写真か何かのようで。
「……これ、先生?」
「そこまで詳しく見なくても宜しい。では次」
「恥ずかしがらなくても……」
写真の中の一人を指で指したところで、咳払いをしながらパッと写真を一番後ろに持っていってしまう先生。どうやらあれは先生の学生時代のものだったらしい。
そこから先の写真は、先程のテープレコーダーと趣向が同じだった。徐々に女性の割合が増えていき、最後には水着の美人さんの写真が出てきていた。
「これも大丈夫、と」
「ちなみに、この方は?」
「私の娘」
「なんと」
衝撃の事実。どうやら艶やかな黒髪キューティクルは遺伝らしい。写真の女性も、それは見事な天使の輪が浮かんでいた。
っていうか先生何歳なんだろう。この人成人してそうなんだけど、それじゃあこの若々しい先生は四十路過ぎの可能性が……。
「ふむ……夏波君。率直に聞くけど、何があったんだい?」
「えっ」
眼鏡をキラリと光らせた先生の言葉に、内心でどきりとしてしまう。先生はそんな俺の反応を知ってか知らずか、くいっと眼鏡を上げながら手元のカルテらしき紙を眺めながら、
「正直、ここまでの回復は劇的過ぎる。君の過去に起きた事件の質、量。それによって植え付けられた心的外傷は深い。長い時間をかけて快方に向かったとも考えられるが、何の切っ掛けもなしにそれが起こると考えるのは、些か短絡的で楽観視が過ぎる」
とんとん、と娘の写真を指で小突く先生は、更に続ける。
「今の三つのテスト。似たようなものを半年に一度行ってきたが、今までのいずれも、君は最初のイメージの時点でつまづいていた。比較的リラックス状態の時ですら、こんな肌面積が多い写真を見たら軽いパニックを起こしていたんだ。それが、今の君は全く拒否反応を起こしていない。半年前の記録を見ても、この回復は有り得ないと言ってもいい」
言われてみれば、半年に一度ほど必ずと言っていいほど情緒が不安定になることがあったことを思い出す。その日は先生のカウンセリングから始まり、ぽつらぽつらと家族の話をするのが始まりだったような気がする。
そこから数日間、妙に息苦しく過ごしにくい日々が続くのだ。放送に女性の声が混じっているような感覚から、目のつく場所に不自然な写真が貼ってあったり。時には視線を感じることすらもあった。
数日間だけなので気のせいか偶然と片付けていたが、成る程あれは回復の具合を見るための負荷テストだった訳だ。
「それを踏まえて聞こう。何か、あったんだろう?」
「えっと……」
さてどう答えたものか。
先生の言葉は最もだ。この人から見れば、頭を打った患者が翌日いきなり回復してしまったようにしか見えない。何かあったとしか考えられないだろうし、事実それは合っている。
が、ばか正直に前世の記憶が戻ったんで平気になりました、とか答えた日には間違いなく別の精神障害を疑われる。女性恐怖症患者が、良くて頭に花畑を抱えた馬鹿に変わるだけである。
「実は……」
「実は?」
「あの、笑わないでくださいね」
勿論、と力強く頷いてくれる先生。出来れば先程の深く掘り下げないやつをここでもやってほしいです。
うつむいてどうしようどうしようと頭が回る。笑わないでくださいとか、逆に笑わせるネタもないわ。
これで相手が爺なら、伝家の宝刀である奥さんを召還してしまえば万事OK、全てをなし崩しに出来るのに。
――いや待てよ。そうか。
顔を上げる。黙りこんでいた僕を、先生はじっと待っていてくれたようだ。それに若干の罪悪感を感じながらも、俺は降りてきた天啓を放つ為に口を開いた。
「気絶していた時に、夢を見たんです」
「夢?」
「はい。その中で、俺は今とは違う姿で日々を過ごしていました」
ほう、と興味深げに先生が顎に手を当てる。
リアリティには自信がある。なんせ前世だ。いや、勝手に前世と決めてはいるが、それこそ俺の頭が造り出した架空の記憶なのかもしれないが、真贋はこの際どうでもいい。
大事なのは、先生を納得させる――この一点のみ!
「違うのは俺だけじゃなく。基本社会も、現実とはかけ離れてました。男も女も数に差はなく、働きに出るのは女ではなく男。家を守り子供を育てるのが女の役目。そんな世界です」
「…………」
「社会的立場も、女性よりかは男性の方が有利だったように思います。女尊男卑ではなく、男尊女卑が辞書に載っています。俺は、それを当たり前の事実として受け止め、何ら不自由なく生きてます」
「この世界とは真逆ということだ。男女の立ち位置があべこべだね」
「はい。当然、俺は女性恐怖症なんて患っていませんでしたし……何より、その夢で俺は強かった」
「……強い? それは、力的な意味で、かい?」
怪訝そうな顔をした先生に、俺は自信を持って頷く。
デスクに立て掛けられていた桐の木刀を手に持って、顔の前に立てた。
「俺はじ……お祖父さんに、剣術を習っていたんです。それはもう強い人でした。小さな頃から何度も何度も挑んで、その度に打ち負かされては自らを鍛えぬく。それが、日常でした」
さぁここからが話の肝だ。
俺が何故いきなりここまでの驚異的回復を遂げたのか――その理由を、あの爺を利用して作り上げる!
「とんでもなく強いお祖父さんでしたが、同じようにとんでもないお祖父さんでもありました。怖いと思ったのは一度や二度ではありません。冗談抜きで死に目も見ましたし、殺されると思ったことも何度もあります」
「それは……虐待ではないのかな」
「多分普通に虐待です。警察に現場を見られたら一発でしょっぴいて貰えたかと」
っていうか一回ぐらい捕まればよかったのに。俺が通報したら国家権力に頼ったみたいで負けた気がするので、結局通報はしなかったけどな。
その代わりに奥さんには数えきれない程に絞られていたから、それもあって通報はしなかったのだが。
「それでも諦めずに挑戦し続け、今の俺と同じ歳になる頃には、怖いものは殆ど無くなっていました。力にものを言わせる野蛮な考えかもしれませんが……」
「強い力を持ったことで、自分に自信がついた訳だね」
「はい。その自信も一日ごとにお祖父さんに砕かれたので、過信も慢心もすることはありませんでしたが」
実際あの爺、全く褒めて伸ばすってことをしなかったからな。だから道場に人来ねぇんだよ。残った人間は軒並み化け物みたいに強くなる訳だが、そこまでに至るふるいの網の目がザル過ぎる。
人が幼い時分に巻き藁を切って喜んでいるところに、おもむろにその横に何本かまとめて片手で振って切り落としてからニヤリと去っていく。しかも片付けない。残るのは憤慨する幼い俺と、水の滴る巻き藁の無惨な姿のみである。巻き藁だってただじゃないんだから、無駄に使ってバレれば奥さんにぼこぼこにされるのは目に見えているのにそれでもやる。何があの爺を駆り立てているのかが全くわからん。
そんな爺に食らい付いていくには、負けず嫌いに反骨心をカンストさせなければ到底やっていけなかった。
「他にも話せば色々あるんですが……その夢を思い返すと、不思議と強くなれた気がするんです。実際、前よりも女性が怖くない。勿論、付け焼き刃なのかもしれませんけど」
木刀を胸に抱えて、目を閉じる。
女性に怯える水瀬夏波はもういない。もはや心の病は俺という人格で上書きされたと言ってもいいだろう。
残るは身体に刻み込まれているであろう恐怖を取り除くのみ。それは、これからの話。
「付け焼き刃じゃなく、この気持ちを本物にする為に、強くなりたいんです。あの夢の、自分のように。……おかしい、ですよね」
「いいや。切っ掛けがなんであれ、その気持ちは大切にするべきだ」
「……先生?」
目を開く。
眼鏡の奥に、強い眼差しが見えた。何やら今の話が先生の琴線に触れたようだ。まぁ、あれだけなら爺も不器用なだけの良い人に思えなくもないのかもしれないだろうしな。
「うん。予定を大幅に変更する必要があるな。少し賭けになるけれど……」
「賭け、ですか」
「そうだ。実は今日、君のお母さんがここに来る予定になっている。もうわかるだろう? 実際に面会してみようじゃないか。そこで問題が起きなければ、君には仮退院の許可を出すことが出来る」
お、おぉ?
一足飛びに話が進んでいく。それは願ってもない話だが、慎重な先生にしては些か冒険が過ぎないだろうか。
そんな想いをまたしても読み取られたのか、先生はいつもとは違う力強い笑みを浮かべた。
「チャンスと見たら、一気に進むのが僕の方針なのさ。そして今はチャンスと見た。君を外の世界に羽ばたかせられる願ってもないチャンスさ」
こうしてはいられないとバタバタ荷物を片付けていく先生の横顔はすごくイキイキとしている。多分、こういうところが先生が先生になれた由縁なんだろう。
なんせこの人、この女性社会にて、男性の身でありながら医者になったエリート中のエリートなのだし。
そんな先生の期待を裏切る訳にはいかないな、と木刀を握る手に力が入る。
「顔を見るのは、五年ぶりか」
八歳の頃からこの男性保護施設に出入りし始め、その二年後にとどめとなる事件が起きて外に出られなくなった年から、五年。
十五歳となった俺を見て、母さんはどんな反応を示すだろうか。
そして、その時に俺の身体は平静でいてくれるだろうか。……きっと大丈夫だろう。どんな恐怖であろうとこの鋼の精神でねじ伏せてくれる。
女性恐怖症など、真剣の恐怖を知らねば剣士足り得ぬと本身の刀で襲い来る妖怪爺に比べれば塵芥もいいところだ。
……これ、恐怖症を抑えるにはいいかもしれんが、仄かに怒りが沸いてくるのが玉に傷だな。あの爺め。
爺はファンタジーの中でも化け物足る存在。