どうやら母さんはいつも仕事終わりにこの施設に訪問しているらしい。今日もその例に漏れず六時に訪問の予定が入っているから、とその時間まで自由にしていていいと先生から伝えられていた。
昼食を取って部屋に戻った俺は、壁に立て掛けていた木刀を手に取る。やることと言えば、ひとまずは自らの研鑽しかあるまい。
「まずは……」
桐の木刀を構え、軽く上段から振り下ろす。……重い。桐でこれだと、赤樫ではまともに振り回すことなど出来なさそうだ。
他にも、部屋のものにぶつけない程度に木刀を振るう。一通り振って出た結論は、
「話にならない……」
わかってはいたが、そもそものフィジカルが完全に足りていない。そもそもこの世界の男は前世のそれと比べてもひ弱である。進化の過程から違うのだろう、やはり男よりも女の方が肉体的にも強いのがここでは常識なのだ。
さしずめ今の俺は、向こうで言えば引きこもりの女の子がいきなり剣術を始めようとしている存在と同義である。運動神経自体は悪くないのか、頭にあるイメージと実際の動きに然程ズレはない。ただとにかく遅く、ひ弱な剣筋である。
「剛剣はひとまず無理……柔剣を尖らせるのが良いか」
斎藤流のうち、前世にて得意としていたスタイルを早々に諦めてもう片方にシフトすることに決める。無論どちらも習得しているが、あの身体に合っていたのが剛剣だったというだけの話だ。
先手必勝を獲りにいく剛剣と違い、後手必殺を肝とする柔剣にそこまで腕力は必要ない。むしろ強大な力を持てば持つほど制御が難しくなるので、あまり好きではなかったのだが。
「そうと決まれば、ひとつ精神統一としゃれこむか」
腕力がいらない代わりに、どんな状況においても明鏡止水の心持ちを崩さずに持ち続けるのが柔剣の極意である。座禅を組む必要はない。大切なのは、自分を完全に律した上で、周囲の状況を計りきること。それを何時間でも続けられることで、ようやく柔剣のスタートラインに立つことが出来る。
ここは静かだ。手始めにはちょうどいい。
ベッドの上で胡座を組んで肩に木刀をかけた俺は、そのまま時間が来るまで自らの内側を見つめ続けた。
――気配がする。次いで足音が聴こえてくる。先生だろうか。もうそこまで時間が経っていたか。
「開いてますよ」
やはり精神面は前世の経験値をそのまま受け継いでくれている。初回で足音よりも先に気配を感じられたなら上出来であろう。
ノックより先んじて声をかけ、軋む身体を伸ばしてから木刀をベッドの上におく。
「お母さんが見られたよ」
「そうですか」
扉を開いてそう告げた先生の元へと向かう。
部屋から出てようやく時間の経過を実感。あの部屋には窓が無いので、夕焼けに染まる外を見て立ち止まった。考えてみれば、こうして外をまじまじと見るのも久しぶりなんだよな。とにかく女性がいる可能性がある場所には目を向けたくなかったので、窓がある廊下は下を向いて歩いていたのだ。
「これから面会室に行く訳だけど、君には取り敢えず部屋の外で待機してもらうからね」
「えっ」
直ぐ会えないのか、と窓から先生へと顔を向ける。その反応に軽く鼻を鳴らして笑った先生は、当たり前でしょうと眼鏡を持ち上げる。
「君に取って久しぶりとなる女性との接触だ。まずは扉の窓から顔を見て、大丈夫だと判断したら部屋に入ってきてもらうからね。勿論お母さんにはそのことを伝えていない。期待させて駄目でした、では互いに悲しいことになる」
「……了解しました」
言われてみれば当然の処置で、そりゃあそうだと頷いた。
「まぁ、心配はしていないけどね」
「私が先に部屋に入って話をする。五分しっかり自分の状態を確認して大丈夫なら、三回扉をノックするんだ。いいね? 駄目な時は」
「大丈夫ですよ。ほら早く早く」
大胆な賭けに出た割には、ここにきて慎重な姿勢を取り戻してきた先生の背中を押す。仕方ないな、と眉尻を下げて笑った先生を見送って、数メートル先にある部屋に先生が入ったのを確認。
少し経ってからこそこそとその扉に近付いていき、一瞬だけ扉の窓から顔を出した。
先生の真向かいに座っている女性。栗色の髪。長さは俺と同じくらいだが、あちらのほうが遥かに艶やかでキレイであった。
鼻筋の通った顔だ。パッチリした二重だが、垂れ目気味なその下にある泣き黒子が色っぽい。座っていてもわかるスタイルは抜群。我が母親ながら、素晴らしい美人である。
――そう。一目で、彼女が母親だと理解出来た。
扉から身体を離し、壁に寄り掛かって震える身体を抱き締める。震える足は立っていることを許さずに、ズルズルと座り込んでしまっていた。
「参ったな」
これは予想外だ。薄々感じていたことだが、ここまでのものだとは思わなかった。
何が鋼の精神だ。そんなものあっという間にどこかに飛んでいってしまった。
手足の震えは収まらない。それどころか、ボロボロと涙まで溢れだしてきた。どうした水瀬夏波。ちょっと涙腺が弛すぎるんじゃないのか。これじゃあまるで女の子だ。いやまぁある意味では男らしくはあるのかもしれないけれど。
「先生、ごめん」
足に力が入る。心が今までに無いほどに身体を急いている。動いてしまえば、それにはもう抗えない。わずかな制止をかける呵責も振り切って、俺は――
彼女――
職場からは車で三十分程。繁華街から離れた郊外にある、病院の付随施設である男性保護施設が目的地である。
そこには様々な理由で普段の生活を送るのが困難になってしまった男性が、最後に集まる場所である。金銭面で生活が困窮した、事故で様々な障害を追ってしまったなど、自業自得から、自分ではどうしようもなかったような男性を保護するための施設。
そこに、彼女の息子はいる。
「はぁ」
溜め息と共に車から降りた彼女は、携帯を片手に家へと電話をかけた。家で待つ娘達へと連絡を取る為だ。その間も足は進んでいる。
『はーい、どした母さん』
「泉? お母さん夏波のとこにいるから、少し遅くなるわ。晩御飯、食べてていいから」
『あいよー』
短い通話が終わる。携帯をバッグにしまった彼女は、スーツの肩口を軽く払うと、
「夏波、元気かしらねぇ……」
もう五年も会えていない息子を思い浮かべて、大きく息を吐いてから建物のインターホンを押した。
受付を終え、患者が絶対に通ることのない職員用の廊下を抜けて、いつもの面会室へと腰を落ち着ける。
主治医の先生が来るまではまだ少しかかるようだと、瑞樹は机に腕を乗せた。
瑞樹がここに来た時は、決まって職員の男性達はピリピリとした雰囲気で彼女を案内する。それは何も瑞樹だけの話ではなく、女性という存在に対してなのだが、それを思い返して瑞樹は頬杖をつく。
今現在、この男性保護施設にいる男性の数は八人だ。内五名は身体障害者であり、残る三人の内二人は多重債務による生活困窮者である。この七名は瑞樹的にはどうでもいい。男性という存在そのものが貴重なこの世界では、保護施設から男性を引き取って世話をする女性など掃いて捨てる程存在する。近い内にその七名も引き取り手が現れるだろう。
問題は最後の一人である、水瀬夏波。重度の女性恐怖症にて施設に入らざるをえなかった、瑞樹の息子である。
職員が女性訪問者に警戒を抱いているのは、彼の存在があるからであって。その警戒の仕方から、息子の恐怖症は全く良くなっていないのだな、と残念な予想が出来てしまう。
夏波はひどく美しい男児であった。流れる黒髪は艶やかで、指を通しても何一つ引っかかることもない。身体の成長が早かったので、小学校に入る頃には既に親ですら見惚れる程であった。
しかし、その美しさも良い方向ばかりには向かわない。
他の男子からやっかみを受けていた彼は、悲しいくらいに優しく、人への悪意の向けかたを知らなかった。
そんな彼を守ろうと女子が彼を囲い、その内に守ってやっているんだから、と女子の一人が夏波の身体に手を伸ばす。一人がそれをしてしまえば、他の女子とて同じことをしたくなる。
夏波も抵抗こそしたものの、彼女達にまで嫌われれば今度こそ誰も味方がいなくなると悟った彼は、異性に身体を触られる強いストレスを感じながらも、それに耐えていたのだ。
この頃から、精神的に不安定なものを抱えてしまった夏波に気付き、瑞樹と彼女の夫は直ぐに手を下す。息子を精神科に通わせた上で、男子に酷い精神的苦痛を与えた生徒がいると学校側に訴える。
この問題は直ぐに収束し、休みがちになりながらも学校に通うことは出来ていた夏波だったが――その二年後に、決定的な事件が起きてしまった。
夏波は誘拐されてしまったのである。
男子を狙う誘拐グループに目を付けられてしまった夏波は、学校帰りに呆気なく車に連れ込まれてしまう。GPSがついたものは全て道中で捨てられ、夏波が発見されるまでに一週間もの時間がかかってしまった。
それは、その無垢な身体が汚されてしまうには、充分過ぎる時間でもあった。
裏スナップ、DVD、果ては音声媒体に至るまで。押収されたものは五十点を超える。幸いなのはそのどれも世に出る前に押収出来た点だろうか。
それでも、保護された夏波は酷い有り様だった。見た目に見える傷はそこまで多くなかった。それ以上に、心が犯されつくしていた。
瑞樹は今でも忘れることが出来ない。駆け寄った瑞樹に、震える身体ですがり付かれて。
恐怖から自分にすがり付いてきたのか、と思ったが、見上げられた顔を見て、その卑屈な笑みを向けられて、血の気が引いたのだ。
媚を売るように身体を擦り付けて、伸びた手は妖艶に瑞樹の頬を撫でてくる。
そうしなければいけない状況にあったのだろう。性的に媚びることに命の保障を見出だして、必死にそれで命を繋いできたのだろう。
今思えば、あの瞬間が分岐点だった。瑞樹は咄嗟に息子を突き飛ばしそうになって、すんでのところで思い止まった。もしあそこで突き飛ばしてしまっていたら。
きっと、夏波は完全に壊れていた。
結果、正気に戻った夏波は重度の女性恐怖症を発症してしまい、夫を除く家族ですら近寄ることすら出来なくなってしまった。
そしてその夫も、事故によって亡くなってしまった。
このままでは繋がりが無くなってしまう。しかし女性である家族では、なにかしようにも逆効果になってしまう。そんなジレンマを、もう何年も続けている。
「ままならないわ」
「そうでもありませんよ」
扉が開くと同時に、主治医である先生がそんなことを言いながら入ってくる。
聞かれていたかと苦笑してから、それでも。
「気休めは……」
「夏波君が、家族を心配していました」
「えっ……」
「お父さんがいなくて、自分もいなくて、お母さんは大丈夫なんでしょうか、と。お姉さんや妹は元気なのか、と」
「あの子が……そんなことを」
「ですから」
予想外の言葉に、思わず口元に手を合わせる。
今までには無かったことだ。もし、これが良い方向へ向かっている証拠だとするならば。
長らく燻っていた心に、熱が灯ったかのような感覚。そんな瑞樹に、先生がにっこり笑って続きを口にしようとした、その瞬間。
――勢い良く、部屋の扉が開かれて。二人は弾かれたようにそちらに顔を向けた。
そこにいたのは、瑞樹が夢にまで見た息子の姿。
記憶にあるよりも随分大きくなった。無表情ながらもボロボロ涙を流す顔も、更に大人びて美しくなった。艶やかな髪はすっかり色が抜けてしまったのか、灰色のそれは簡単に後ろでまとめられている。
突然の再会に全く頭が働かない。
恐怖症は大丈夫なのか、顔が見れて嬉しい、その髪はどうしたのか、聞きたいことは全く口から出ていってくれない。そもそも、自分の声を聞かせてもいいものかすらもわからない。
「夏波君っ」
「大丈夫」
「……そう、か」
慌てていたのは先生もだった。
しかし、夏波の、涙を流しながらも震えのない声を聞き、直ぐに腰を椅子に落ち着けてしまう。
その反応に、期待してしまう。
夏波と接することが出来るのか。触れ合って、許されるのか。
夏波が近付いてくる。迷いなく、真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってくる。
そして――
俺は、抑えきれない衝動と共に、母親の胸に飛び込んでいた。
俺が――水瀬夏波が、恐怖症に苛まされさながらも再会を願っていた家族。その一人が、愛する母親が目の前にいる。恐怖症のことを気にせずに、何の憂いもなく触れられる。
そのことに、この身体が歓喜しているのだ。
「夏波……夏波なのよね?」
「長い間、心配かけた。ごめん」
「――ううん……! いいの、いいのよ。貴方が元気なら、私はそれで充分……!」
遠慮がちに、震える手で頭を抱えられる。
「参ったなぁ、ハンカチ一枚じゃ足りないよ全く」
先生の声が嬉しそうに響き、俺は母さんの背中に回した腕に、もう少し力を込めるのだった。