「取り敢えず、今は仮退院に過ぎないからね。あまり無茶をしないように」
「はい。えっと……長い間ありがとうございました。先生がいなきゃ、ここまで来るなんて出来なかった」
「私は少しずつ君の足元を照らしてあげたに過ぎない。歩んできたのは君の力だ。心から、おめでとうと述べよう」
「……はい」
あれから自分達親子が落ち着いた後に、あれよあれよと言う間に話が進んで仮退院まで決まってしまった。
きっと昼の時点から準備は進めていて、今日の結果如何で直ぐに決められるようにしておいたんだろう。その点も含めて、先生には本当にお世話になった。水瀬夏波が施設で過ごしてきた七年間。人生からみればほんの短い期間かもしれないが、この人は俺の人生の大恩人だと胸を張って言えるだろう。
「母さん、行こう」
「―――――」
「母さん……?」
横に立つ母さんの返事が無い。もう一度呼び掛けながら顔を覗き込むと、どこか遠い目をしながらダバダバと落涙している。いや、まぁ気持ちはわかるけど。
「――はっ! ごめんなさい。ちょっとまだ頭が追い付いてなくて」
「運転中は話し掛けない方がいいかな」
「それは嫌よ! 我慢するから沢山話しましょう!」
「事故だけはやめてね」
「当たり前じゃない。折角元気になってくれた夏波を乗せて事故だなんて……やだ、不安になってきた」
指を噛みながら不穏なことを言う母親に不安を感じつつ、先生に礼をして助手席に乗る。
大丈夫、大丈夫と暗示をかけながら運転席に母さんが乗ったのを横目で見てから、そういえばと俺は窓を開けて先生に最後の質問を投げた。
「そういえば、頭を打った原因って結局なんだったんですか?」
「あぁ、それはね」
その質問に、先生は苦笑しながら――。
「まさか鏡に映った自分を見て気絶したとは……」
「中性的だし、髪も長くなったものねぇ。わからなくもないわ」
先生が、笑い話に出来るのは幸せなことだよ、と微妙な顔をした僕にフォローを入れてくれるくらいバカらしい話。
いや、確かにね? ぱっと見どころかじっくり見ても男だか女だか判断しかねる顔ですよ。実際恐怖症のせいで鏡を見るのも苦しい時だってありました。
だけどまさか自分の顔を見て気絶して後頭部を打っているとは思わなかった。本当に大事にならなくてよかったと心から思う。死因が自分の顔とか悔やんでも悔やみきれねぇわ。
「あ!」
「?」
「こんな幸せな日にコンビニ弁当とかありえない……! 電話しなきゃ!」
「ちゃんと停車してね」
車を走らせながら鞄を探ろうとした母さんに、それを奪って抱えることで停車を促す。
路肩にしっかり停車したのを確認してから、鞄から見えていた携帯を手渡してあげた。その際に微かに指先が触れただけでも、今の母さんには幸せらしい。緩んだ顔で携帯を操作すると、髪を耳に掛けてからそれを当てた。
我が母ながら色っぽいものだ、とどうでもいい感想を胸に秘める。
「あぁ泉? ご飯食べちゃった? ……食べてないのね、よし! 今日は出前取るわよ! 寿司でもピザでもラーメンでも好きなの頼みなさい! 安いのは許さないわよ、お母さんも後少ししたら帰るから!」
「寿司かぁ……楽しみだなぁ」
「――寿司は絶対に頼みなさい。特上からね」
おっと、よだれが。不覚にも想像して口が緩んでしまったようだ。寿司は前世からの大好物である。海産物大好き。お魚愛してる。
爺も奥さんも海産物大好き人間なので、食卓にはよく海産物が並ぶ。俺も爺のつまみがてらに良く魚を捌いたものだ。お陰で自炊スキルはそれなりにある。だって自分でやらなきゃ飯にありつけないこともよくあったからな。
「何があったかって? まぁそれは帰ってからね」
ニコニコ顔で通話を終わらせた母さんは、また直ぐに画面を操作して電話をかけたらしい。耳に当ててすぐに、
「由美子! 明日有給使うわ! 息子の退院祝いよ!」
えぇ……。
「お母さんなんだって?」
「……出前取れってよ。寿司は特上からとか」
「……もうそんな時期? 片付けるの面倒よ、私」
「やけ酒にしてはテンション高かったなぁ。まぁ、母さんだってたまには羽目外さないとやってらんねぇだろ。そこはうちらが支えてやんねぇと」
「……夏波がいれば」
「それは言っちゃいけねぇってやつさ。おら、出前のファイル持ってこい」
「はいはい」
水瀬家にて。
受話器を置いた長女――
年に何度かこういったことはある。
授かった息子が事件にあって、手も触れられないどころか見ることも出来なくなってしまったかと思えば、自分の夫すらも亡くしてしまったのだ。自分だったら自暴自棄になっていてもおかしくないと泉は思う。
それを、半年に一度ほどこうしてやけ酒よろしく高価な出前を取って羽目を外すだけで収めているのだ。娘としては、立派で尊敬出来る母親である。
妹である氷華も、あんな物言いはするが泉と同じ気持ちである。面倒とは言いながらも、くだを巻く瑞樹に最後まで付き合うのは氷華なのだから。
「お母さんまだぁ?」
「もう少しじゃねぇの、黙って待ってろ」
「うへぇー……毎度ながら生殺しぃ……」
寿司を中心に各種オードブルが並んだテーブル前で、ごつんと頭を落とす末っ子
三人の中では一番チャラい奴だが、不真面目な訳ではない。こいつはこいつでその軽い雰囲気で場を明るくする天才ではあるので、今の家に無くてはならないムードメーカーなのだ。むしろ、暗くなってしまった家をどうにかするために今のキャラを作った節ですらある。結果的にそのチャラい雰囲気から男から敬遠され気味なのは御愁傷様だ。
「さて、本当にもうそろそろだとだと思うんだけどな」
立ち上がった泉は、そんなことを呟きながら冷蔵庫へと向かう。母親用の缶ビールを片手に戻ろうとしたところで、予想通りにチャイムが鳴ったので。
「はいはーい、酒の準備なら出来てるぜー……」
「ただいま、姉さん」
「―――――ぇ」
「っと」
出迎えた人間は母親ではなく、小柄な美男子。
取り落とした缶ビールを、鮮やかに髪を翻しながらキャッチした彼を、口を開けたまま固まって見つめる泉。その視界の端では、母親が口に手を当てて笑いを堪えているのが見えているのだが、今の泉にはそちらに気を払う余裕がなかった。
「……取り敢えず、はい。ちゃんと持って」
いつまでも反応が無いことに痺れを切らしたか、件の美男子――夏波は、泉の手を取って缶ビールをその手に握らせる。
そこで、ようやく泉は再起動を果たした。
「か、か、夏波……なのか?」
「うん。ただいま、泉姉さん」
――成る程、これは出前も納得だわ。
目の前で笑う弟の存在に、色々揺さぶられながらも辛うじて冷静だけは保ちきった泉は、熱くなる顔を自覚しながら内心でそう呟くのだった。