――風が長い髪を揺らし、毛先が服の上から背中を撫でているのを感じる。
聴こえてくる草の音に、遠くで響く車の走る音。雑多な音こそ聞こえないが、決して無音ではない環境。しかし、集中が途切れる程のものでもない。
――目を閉じ、自然体のままに。
力みは足の裏から地面へと抜けていく。イメージは、根。地につけた足裏から根を張るように張り巡らされていき、大樹のようにどっしりと身体を安定させていくのを、イメージとして構築していく。
左手に持つ木刀に右手を置いた。握りこむまではしない。小指の付け根を当て、小指と薬指で軽くふわりと包むくらいの力。木刀を引っかけるように持つ程度。
その体勢のまま、不動を保つ。
腹の中へ少しずつ、塊のような力が溜まる。それは次第に大きく、大きく、息を吐くと同時に、蓄積されていく。
そしてそれが、これ以上無いほどに、溢れそうになるまでに溜まった瞬間に。
「――――はぁっ!!」
一際大きく、地面の草が靡いた。
振り抜かれた木刀の剣圧は、不可視の衝撃となって前方を切り裂き、
「……痛ぁ……」
――覚悟していたとはいえ一振りで手の皮が剥けてしまった俺は、情けなく呟くのだった。
「……でもまぁ、一応ましな方ではあるか。使い物になるかは別として」
血が滲み始めた右手は取り敢えず置いておくとして、今しがた放った一振りを省みる。
剣筋もぶれることなく、逆袈裟気味に一直線に振り抜けた。速度も威力も、まぁこの身体で放てる最大のものではあっただろう。刀ならば、巻藁も軽く断てていたはずだ。
当然、前世で同じ技を放った時と比べれば雲泥の差ではある。仮にあの頃の俺と今の俺が今の技を撃ち合ったとして、刀ごと今の俺は切り伏せられているだろう。
それに当然ながら、貧弱とも言えるこの身体だ。いきなり今のような零から百への力の解放を行えば、
「あ、あ痛たた」
このように身体の方がダメージを負うことになってしまう。特に下半身と腰辺りが。それなりに準備運動して身体を暖めた上で放ったというのにこの有り様だ。これでは咄嗟に放つようなことは出来ないだろうし、よしんば放とうとしたところで怪我をするだけで終わるだろう。
「……ま、収穫はあったしよしとしよう」
鼻を鳴らして踵を返す。
満足に技が使えないことなどわかっていたことである。使えるものがあったとしても、今の身体では実用性にかけるということも。
なら何故、それがわかった上で、身体を痛めるのを承知で剣を振るったのか。それは、ひとえにそれ以外の確認の為であった。
知識も精神も、前世のそれをそのままに受け継いでいるのは確かなことだ。効率的な身体の使い方も、感覚だけでなく理論的にだって頭に叩き込まれている。
しかしそれが、今の身体に上手く伝えられるかどうかは、また別の話。
「夏波ー。風呂沸いたぞー」
「今行くよ」
縁側から泉姉が呼んでいる。それに右手で応えたところ、ぎょっとした表情を見せた彼女は、なんと裸足のままでこちらに駆け寄ってきた。ワイルドだな。
「おまっ、なんだよその手!」
「大丈夫。ちゃんと巻くもの買って貰ったから」
「何の為のテーピングかと思ったら……! 氷華! 時雨! ティッシュにガーゼに消毒液持ってこい!」
「そんなに焦らなくても」
「いいから早くお前は家に入れ!」
「うおっ」
ぐい、と肩を抱かれたかと思った瞬間に、ふわりと足が地面から浮き上がる。
なんということだ、生涯で初めてのお姫様抱っこである。もちろん前世含めて。柔道のすくい投げなら爺の奥さんに何発か食らったけどな。
そのままあれよあれよという間に家の中、靴を履いたまま椅子に座らされ、右手を泉姉に捕らえられる。
それを氷華姉が水に濡らしたタオルで血を拭い、時雨が消毒液を含ませたのであろうガーゼでつつく。多少痛いが、まあ慣れた痛みだ。むしろ多少の怪我でこんな処置したことない。
「うわ、ずる剥けてるじゃん。お兄ちゃん何したのさ」
「……素振り?」
「ただの素振りでこんなに!? 何本振ってたのさ!」
「何本というか、一本」
俺の言葉に絶句する時雨。まあ確かに、たかだか一本の素振り程度でこの有り様は傍目にも酷い。負荷のかかった指の付け根、小指から中指の辺りまで一息で皮が剥けてしまっているのだから、見た目にも酷い。今更ながら先にテーピングを巻いておくべきだったかな、と多少後悔しているくらいである。……まぁ、遅かれ早かれこの手の怪我は負うことになるんだけれども。
「……というか、これから風呂なのに。上がってからでもいいと思う」
「シャワーにしろシャワーに。それが嫌ならビニール袋でも何でも使って、手に当たらないようにしろ」
「髪が洗いにくい」
「んなのアタシが……いや、ない、な。うん。今のは忘れろ、忘れてくれ」
「泉姉、下心が漏れてない……?」
「ば、バカ言うな! アタシは純粋にこう……」
「うるさいわね。手元が狂うわ」
ただ一人黙々と包帯を巻いてくれていた氷華姉の、呆れたような声が耳に届く。時雨とのやり取りで、いつの間にか泉姉による右腕のホールドはほどけていた。
ピシッと巻かれた包帯を、最後に粘着テープにて固定したところで、氷華姉は立ち上がる。
「じゃあ、行きましょう」
その言葉に、言い争っていた姉妹の動きがピタリと止まる。俺と言えば、どこに行くというのか、と理解が出来ない為に動かない。
そんな俺の心中を察してか、氷華姉はさも当然と言ったような顔を此方に向けて言ったのだ。
「髪が洗えないんでしょう? 私が洗ってあげるから」
「「ちょっと待ったぁっ!!」」
「何よ。何か文句でも?」
言い争っていたとは思えないほどの息の合った二人。そんな二人に対して、氷華姉はつゆほどの動揺も見せない。それどころか、
「夏波の手じゃこの長い髪を洗うには手間なのはわかるでしょう? 誰かが手伝った方が良いのは確かなこと。本当なら母さんが一番適任なんでしょうけど、今は出掛けてしまっている。泉は長髪のケアなんてしたことないでしょうし、時雨だと普通に危ない」
「私の理由なんかテキトーだし聞き捨てならないし!」
「アタシは……まぁ確かにその通りではあるけどよ……」
肝心の夏波の意見はどうなんだよ、と泉姉がこちらへと視線を向けてくる。
あれ、これ本当に手伝われてしまう流れなのか?
「いや……そもそもそんなに重傷って訳でもないし。包帯とか無しでそのまま入っても良かったんだけど」
「ダメよ」
「それはダメだな」
「無いね~」
今度は三姉妹揃って息を合わせてきた。
そうですか、ダメですか。ならまぁ、多少時間はかかっても、ビニール袋でも使って一人で……。
「仕方ねぇ……まぁ、氷華なら問題ないか」
「むぅ。真に遺憾ながら」
「時雨貴女、それ最近知った言葉使ってるだけでしょう」
…………あれ。もしかして。
「大丈夫? 痛かったら言うのよ」
「平気」
――もしかしてでした。
胸の上までバスタオルを巻いた俺は、結局氷華姉に髪をされるがままに洗われている。別に一緒に入っているわけではないので氷華姉は服を着ているが、それはそれでこちらばかりが恥ずかしい思いをしているような気がして不公平である。別に氷華姉の裸が見たいわけではない。てか見れない。絶対に目を背ける自信がある。
今ばかりは硬い口調と少ない口数に感謝しよう。恥ずかしくて黙り込んでいても、普段とさほど変わらないからだ。
「綺麗な髪ね。手入れはしてたのかしら」
「伸ばしっぱなしではあったけど」
「私のもので合うか不安だわ。時間がある時にちゃんと選びに行きましょう」
「ん」
一掴みずつ、丁寧に扱われているのがわかる。目をつぶったままだから余計に感覚が鋭敏になっているようだ。
それから暫く、無言の時間が続く。多少、気まずい。
「はい、一旦終了。身体が冷えるから湯船に入りなさい」
「あ、うん……」
気が付くと髪が纏められていて、言われるがままに湯船につかる。タオルは外さない。……温泉でもないのにタオルを巻いたまま入るのは違和感があるな。しかも胸まで。
「……本当に、平気になったのね」
「うん?」
「私に……女に身体を見られても平然としてるじゃない」
「あぁ。視線ぐらいならもう平気だよ」
元々の価値観が仕事をしてくれたお陰で、下腹部を直で見られない限りは特に何も思わない。
それも女性恐怖症から来るような抗いようのないものではなく、単に羞恥心からくるもの。つまり、今この場に置いてはその辺りの不安とは無縁なのである。
勿論、見知らぬ女性からの不躾な視線には身体が反応してしまう。今平気なのは、家族である氷華姉だからこそ。
見知らぬ女性がそばにいるだけでもストレスはかかるが、それだけならさほど気にすることもない。
恐怖症がひどく現れるのは女性からの怒気や敵意など、人を害するような感情を目の当たりにした時――これは、家族であろうと辛いものがあるが――や、見知らぬ女性に過度に接近、接触された時。
それでも、気を張っていればどうにか取り乱すことなく抑えきれる。逆に言えば、張り詰めてようやく日常生活を送れるレベルでしかない、ということではあるが。
「もういい?」
「そうね。ほら、座りなさい。流してあげるから」
いずれはこの恐怖症を克服しなければならないだろう。付け焼き刃でどうにかなるものでないことは重々承知の上だ。
それなり以上に長い時間をかけて努力していかなければ、完全に克服することは出来ないだろう。
でも今は、まだこれで充分。
離れていた家族と過ごす、それだけで。
――やっぱり、痕は残っているのね。
シャワーで夏波の髪を流しながら、氷華はそんなことを思う。
タオルから見える僅かな太腿には、赤く何本も筋のように痕が走っている。
遠目から見ればわからない程に薄くなっているが、まじまじと見れば確かにわかるその痕は、氷華の心にほの暗い感情を芽生えさせた。
今は見えないが、腰の辺りには更に酷く残っているであろう、同じ種類の傷痕があるはずだ。
傷はそれだけではない。腕にはポツポツと丸い火傷の痕が残っているし、既に消えたとはいえ、昔は手首足首、そしてその首筋に何かで締め付けられたかのような痕も残っていたのだ。
癒えた傷も含め、最早消えることのない、一生涯残り続けるその傷。それを、目の前の弟に刻み付けた連中。もし眼前に現れたならば、氷華は何の躊躇いもなくこの暗い気持ちに従うだろう。
「氷華姉」
「……なに?」
「怖い顔、してる」
シャワーを止めたところで、夏波に声を掛けられた氷華は、弟の肩越しに見える鏡に映った自分の顔を見た。
成る程確かに、と軽く自分で頬を揉んだ彼女は、その手で髪を耳に掛けてから立ち上がる。
「後は、自分で出来るでしょう?」
「うん、ありがとう」
今ばかりは、口下手な自分に感謝する。何を言えばいいのかわからなくなっても、他所から見れば普段の自分とさほど変わらないだろうから。
きっと変わっていないであろう顔に手を当てながら、氷華は夏波に背を向けた。
「やっぱり気になるよなぁ」
氷華姉の視線があった膝元。一人になったことで何を気にすることも無くなり、用済みになったタオルを外す。
ボディーソープを泡立てて身体に這わせ、腿で手が止まった。
露になった太腿に走る、幾つもの赤い痕。指でなぞれば、過去の痛みが再生されたかのようにピリピリと痺れるように感じる。
太腿だけではなく、腹や胸、腰にも同じような痕がある。俺を誘拐した連中の倒錯的な行為の傷痕だ。打たれ、縛られ、垂らされて這わされて。ようするに、そういう痕だ。特に目立つのが、この打たれた痕である。
「これなら刀傷の方がいくらかましだなぁ」
鞭痕と刀傷。どちらかと言えば前世のそれの方が重傷な気もするが、それに受けるまでの過程を考えればそう思ってしまっても仕方ないようにも思う。
後者は自ら進んだ道。突き進む故に覚悟を持って得たそれは、いわゆる男の勲章と言えるものだ。誇らしくすらあったそれは、誰に見られたって恥ずかしくはなかった。
が、前者は他者の汚い欲望。その痕は醜い傷でしかない。正直な話、こんな傷は誰にも見せたくない程度には恥である。
既に知っている家族になら、気にすることもあまりない。まぁ、この傷を見た皆の反応が辛そうで。そういう意味で見せたくないのはあるけれど。
体を洗い終わる。湯船につかり、片手でぱしゃりと顔に湯をかけた。
誘拐されている間にやられたことは、今でもはっきりと覚えている。
恐らく、前ならば恐怖の象徴であったであろう記憶は、今では屈辱と恥辱、そしてぶつける場所のない怒りを伴う記憶である。
もしあれの記憶媒体が出回っていたならば、俺は舌を噛むことすら視野に入れている。
……まぁ、死ぬまではいかないにしろ。もしこの件で俺を悪戯に挑発してくるような輩がいたならば、そいつには木刀のシミになるのを覚悟してもらうつもりだ。それくらいあの頃の記憶は掛け値なしに地雷である。
警察の話ではひとつ残らず回収、破棄されたと聞いているし、仮にネットに放たれていても即座に削除、ダウンロードするような人間がいれば逮捕案件になるらしい。
そもそも、そんな動画はいわゆる『男優』さん以外ものは非常に厳しく取り締まわれている世界だ。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。
「……とっとと上がるか」
長湯して汗をかけば手の傷が膿むかもしれない。そんなことになればまた文句を言われてしまうだろう。
次からは、先にテーピングを巻いた上で木刀を振るうことにしよう。