※ようやく卒論が一息つきそうです。お待たせして申し訳ありません。
※またあらすじを変更しました。不評でしたら戻します。
走る。ただひたすら走る。真っ赤に染まった空、ぬかるんだ地面、肌にこびりつく生温かい汗、人の叫び声のように聞こえる風、全てが不快だった。
何故こうして走っているのかはわからない。ただ、走らないと恐ろしいことになることだけは理解していた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
泥を蹴飛ばし汗を飛ばし我武者羅に走る。だけどいくら走っても景色は変わらない。真っ赤な空に浮かぶ血だまりのような太陽だけが私を冷たく見下ろしている。
「あがっ!?」
そうやって走っていると何かに足首を掴まれが転んでしまった。泥水が襟元から身体の中に入り込み言葉にできない不快感をあたえる。口に泥が入り気持ちが悪い。
「げほ、げほ、な、何なん…………だ……」
後ろを見る。死体が私の足首を掴んでいた。顔の皮膚は腐り変色し、本来眼球があるはずの眼孔はぽっかりと空洞になっている。そんな死体が何十、何百と私の後ろにある血の沼から湧き出て私をそこへ引き込もうとしている。
「ひっ?!」
思わず悲鳴が漏れる。倒れたまま何とか足首に絡まった手を振りほどこうとするが異常なまでの力によって締め付けられる。
「こ、この!」
残った足で死体の顔を蹴りつけるがいくら蹴っても死体は絶対に手を離さない。仕方なく拳銃を抜こうと腰のホルスターに手を伸ばすがそこには何もない。
「あ、あれ何で!?」
そんなことをしている間にも死体は信じられない力で私を引きずろうとする。ぬかるんだ地面は摩擦を失い私の身体を簡単に引きずっていく。
「い、嫌だ!」
必死にもがいて脱出しようとするがその度に力が強まり痛みで顔をしかめる。地面に爪を突き立てても泥を掻くだけで何もつかめない。
どんどんと引きずられていく。いやだ。いやだ。いやだ。
「誰か!誰か助けて!」
助けを呼んでも誰も来ない。真っ赤な空に私の叫び声が吸い込まれていく。戦い方も忘れただ必死にもがく。
そんな努力も虚しく身体が沼に沈んでいく。亡者共は呻き声すら出さずただ私の身体や顔にまとわりつく。息ができない。
「カエデ!殺せんせー!烏間先生、ビッチ先生!みんな!」
いるはずもない人の名前を喉が張り裂けるまで呼び続ける。視界が血に染まっていく。いやだ、まだそこには行きたくない。まだやりたいことだってたくさんあるのに。
「いやだ!いやだよぉ!助けてよぉカエデ!あかり……お姉ちゃん!」
いやだ、いやだ……
「うわぁあぁ!!?」
叫び声と共に飛び起き反射的に枕元に置いてあるM&P40コンパクトを構える。周囲を警戒。前方、左右共に敵影なし。サイトに塗られたトリチウムが発する淡い光の先に映るのは見慣れた自室。
「はぁ、はぁ、夢か……」
セーフティを操作しベッドにもう一度倒れこむ。身体は汗でびっしょり、心臓もまるで破裂しそうなほど脈打っている。
「クソ……」
見ていた夢を思い出す。大量の亡者の群れに血の沼に引きずり込まれる夢だった。今までこうした夢は何度も見てきた。
でもこんなにはっきりと見たのは久しぶりだ。今思い出せば初めに私の足首を掴んだ死体は私が一番初めに殺した人間の顔をしていた。
「まだこんな時間……」
ベッドの傍に置いてある時計に目をやる。まだ朝の5時、いつもなら寝ている時間だろう。少し前の私ならとっくの昔に起きて朝のトレーニングを始めている時間だが、今の私はすっかり遅起きになっていた。
「まあ、そう簡単に忘れられるわけないよ」
カエデに救われたとはいえあれからまだ一週間も経っていないのだ。過去の自分を取り戻したとはいえ記憶に刻み付けられた罪悪感はそう簡単には消えてくれない。
覚悟はしていたことだ。きっとこれからもこうして悪夢となって私を苦しめるだろう。でもこれは私が背負っていなければならないことだ。忘れることは許されない。
「起きるか」
寝ていても仕方がない。上体を起こしベッドに腰かける。もう一度寝る気にはなれない。意識ははっきりしているし汗も酷い。シャワーでも浴びて着替えないと気持ち悪くて仕方がない。
「行くか……」
覚束ない足取りでバスルームへと向かった。
「はぁ……」
温かいシャワーが私の身体の汗を洗い流す。鏡に映った自分の身体を眺める。14歳にしては異常に鍛えられた筋肉。決して太いわけではないと思うが、神崎や矢田のスタイルと比べるとどうしても肩や足の太さが気になってしまう。
「にしても傷だらけだ」
へそから右の脇腹にかけて刻まれた傷跡を指でなぞる。5年前アフガンでタリバンの7.62mmが掠った時の傷だ。
もう少し深い角度で当たっていたら内臓をやられていただろう。もう一度指でなぞる。あの時の焼けるような痛みを思い出し思わず顔をしかめる。
「痛かったな……」
本当に痛かった。これだけじゃない。8年前のもだ。それに7年前も、6、5、4年前も、3年前も、2年前も、全部覚えている。
「痛かったなあ……」
死にたくなるほど痛かったはずなのに、全部押し殺して我慢して、心の中に溜め込んできた。そして解放された今、溜め込んできた痛みが一気に燃えているのだ。
「本当に、痛かったなあ……」
視界が滲む。きっとシャワーのせいだ。
「今日はどうしようか……」
ベッドに腰かけながら今日どうするべきかについて考える。前に似たようなことがあった時は学校を休んでしまった。
流石に学校を休むほどの悪夢はあまり見ないが、それでも何日かに一度、こうして悪夢を見て飛び起きる。
きっとこれから先もっと悪夢を見るようになるだろう。平和な世界を知れば知るほど今までのギャップで苦しめられる。
昔ならバーボンをダブルで呷ればなんとかなったが、もうその手は使えない。二度あることは三度あるというが、流石に説教を喰らうのはもう嫌だ。
「そう言えばあれからわかばパークに行ってないな」
色々ありすぎてすっかり頭から抜け落ちていた。あの子達は随分と私に懐いていたが、あの年ごろの子供は忘れっぽい。流石にもう忘れているだろう。
あの時、初めて自分がいかに異常な環境で暮らしていたかを自覚できた。妬んでしまったことは恥ずべきことだが、私が兵士を止めることができた切欠の一つになったのは言うまでもない。
「今度、暇があったら誰か誘って行ってみるのも悪くないかもしれない」
カエデや陽菜乃ならすぐに子供たちと打ち解けることができるだろう。特にカエデは体系も近い。ただ、手伝うわけでもないのに押しかけては迷惑だろうから、その辺はよく考えなければならないが。
「いっそのことボランティアでも募集していれば口実になるんだけど」
壁にかけてあるカレンダーを見る。そう言えば今日から10月だ。カレンダー捲らないとな。
「あと五カ月か……」
地球が爆発するまで残りわずか。本当なら焦るべきなのだろうが、今の私は悪夢のことで頭が一杯だった。
「そう言えば冷蔵庫、空だったな……」
帰りにスーパーに寄らないと。
携帯電話から電子音が鳴り響く。瞬時にセーフティを解除。ローレディーポジションからシューティングポジションに移行。
25mでゼロインを合わせたエイムポイント社製マイクロT1レッドドットの赤い光点を5m先の三つのターゲットの一つに合わせる。
発砲、エアガンの気の抜ける音と共に銃口からBB弾が放たれターゲットに穴を開けた。
続けて二連射、命中を確認、右のターゲットに移行、照準を合わせ三連射、左のターゲットにサイティング、三連射。
9発撃ったところで弾倉の弾を撃ち尽くしボルトが解放される。すぐさまセーフティをかけながらスリングを使いAR-15を身体の横にずらす。
流れるように腰のホルスターから1911を引き抜きターゲットにダブルタップで撃ち込む。三つある全てのターゲットに確実に叩きこむ。
6発撃った時点で二度目のトランジション。ホルスターに1911を戻し、再びAR-15を横に構え薬室を覗きこむ。作動不良無し。
そのまま左に捻りながら弾倉を弾き飛ばしつつ、手に取った予備弾倉をマグウェルに叩きこみボルトキャッチを叩く、装填完了。
最後に目の前のターゲットに向けて一発だけ発砲、これで終了だ。AR-15を構えたまま左右及び後方を確認。脅威目標なしオールクリア。
弾倉を引き抜き薬室に弾がないことを確認。薬室を閉鎖し標的に向けて空撃ち。セーフティをかけて銃をストレートダウンで保持する。
「……まあこんなものか」
少しキレが鈍くなった気がするが身体に染みついた戦い方は忘れられない。
「おぉー」
背後から聞こえる適当な拍手。振り返ると不破が感心したと言わんばかりに手を叩いていた。訓練はやらなくていいのか。
「相変わらずキレッキレだねー臼井さん」
「まあ、文字通り死ぬほど訓練したからな」
背中に銃を突きつけられて訓練すれば誰だって死ぬ気で覚えるだろう。
「そ、それは笑うべきなんでしょうか?」
「さあな」
どうにも普段の調子がでない。いや、身体の方はこれ以上ないってくらいに絶好調だが、精神がどうにも落ち着かない。
今朝見た夢の光景が脳裏にチラつく。きっとあれは私が今まで殺してきた人たちなんだろう。あんな夢を見てしまう自分の精神状態を心配するべきなのか、真っ当な罪悪感を持つことができたと喜ぶべきなのか。
「臼井さん、大丈夫?汗すごいけど?」
「……え!?あ、いや、そうかありがとう」
ジャージのポケットに突っ込んだハンカチで顔を拭く。拭き終わったハンカチを見るとそこには血がべったりと……
「……うわぁっ!?」
「ッどうしたの!?」
驚いて尻もちをつきながらハンカチを地面に落とす。急に叫んだせいで皆が一斉に私を見た。そんなことよりもあの血は?
「ち、血が……あれ?」
すぐに自分の勘違いだと気が付いた。血に見えたのはハンカチがもとから赤かっただけだった。でも私にはそれが血に見えてしまった。
「くそ、脅かさないでくれよ……」
目眩がして思わず頭を押える。大丈夫だとわかっていても心臓は爆発しそうなほど脈打ち額からは大量の脂汗が滲み出る。夢に見た亡者の顔がチラつく。
「臼井さん、本当に大丈夫?」
「あ、ああ、すまない、心配かけた」
ただでさえ最近は無駄に心配ばかりかけてしまっている。これ以上みっともない醜態は晒せない。立ち上がり頬を叩き気合を入れる。あれはただの夢だ。
「そうじゃなくて……烏間先生!」
自分のことに集中していると不破が先生を呼んでしまった。校舎に続く階段から私達を見下ろしていた先生はこちらに気が付くとすぐに寄ってきた。
「どうかしたか不破さん」
「はい、臼井さん体調悪いみたいなんで、保健室に連れて行きます」
烏間先生は私のことを一瞥すると納得したように頷いてしまった。
「…………そうか。では不破さん、臼井さんを頼む」
それだけ言うと再び訓練の監督に戻っていった。あとに残ったのは不破と腕を掴まれた私だけ。
「はい、行くよー」
「いや、まて私は──」
私が反論する前に不破が腕を引っ張って私を無理やり連れて行く。普段の私の力なら無理やり解くことなど簡単だが、今回はそうもいかなかった。
「祥子!どうしたの!?」
とまあ、こんな状態を晒していると当然カエデがすっ飛んできた。というかカエデだけじゃなくて皆が私のことを見ている。
「うん、なんか、体調悪いみたいだから保健室に連れてく」
「大丈夫なの祥子?」
脳裏にはまだ夢の光景がチラつくが、もうだいぶ落ち着いた。少し深呼吸すればすぐに元通りに戻るだろう。
「あ、ああ大丈夫──」
「「全然大丈夫じゃないでしょ!」」
私の精一杯の反論は二人の言葉に掻き消された。実際、もう目眩はしないし心拍数も正常値まで戻っている。さっきのは一過性の発作のようなものだ。だから大丈夫なのだが……
「不破さん、私も何か手伝う?」
「あ、じゃあ臼井さんの装備取ってくんないかな?こんなジャラジャラしたまま寝かせられないし」
「うん、わかった」
強引に武器とチェストリグやmolleベルトを奪われあっと言う間にジャージだけになってしまった。
「祥子、武器持ちすぎだよお……これでよし、不破さん祥子のことお願い」
「うん、まかして」
私の意見なんて聞く気はないのだろう。これ以上抵抗するのは無駄と判断した私は不破に引きずられるようにして校舎へと歩いていった。
「臼井さんはそこで大人しく寝てること」
「いや、私は……何でもない」
私はと言いかけたところで不破から並々ならぬ威圧感を感じて発言を中断した。純粋に心配してくれるのがわかるだけあってどうにも強く出られない。
窓から烏間先生の指導の声がこちらにまで響いてくる。自分だけが取り残されたような気になってしまい少しだけ焦りを感じた。
「素直でよろしい。じゃあ私は戻るけど何かあったら律とかビッチ先生にすぐ言うのよ」
「……わかった」
「じゃ、またね臼井さん」
そう言って不破は手を振って保健室から去っていった。あとに残されたのは私だけ。天井の木目を眺めながら何もせずただぼうっとする。
「……はぁ、やっぱ休むべきだったか」
球技大会の時はあまりに酷くて学校に行かなかった。あの時も無理して登校していたらこうなっていたのかもしれない。
「畜生……」
いくら身体が強くても、度胸があろうとも、心までは強くはなれない。結局あの誕生日パーティーで子供のように泣いた私こそ本当の私なのだ。
「もっと強くなりたい……」
今までの目を背けるだけの偽りの強さではない。本当の強さだ。自分のしたことを真正面から受け止めて、それでもなお前に進むだけの力。
ここ最近は楽しいことばかりで忘れていたが、やはりきちんと受け止めなくてはならない。絶対に幸せになるつもりだ。でも、過ちをなかったことにしてのうのうと生きるのは違う。
「あぁ、ビール飲みたいなぁ……」
こういった疲れた時はビールが一番だ。とは言え飲むわけにもいかないが。
「何、おっさんみたいなこと言ってんのよ」
「……ビッチ先生」
開いたままだった保健室の扉の先にビッチ先生が呆れた表情で私を見ていた。どうやら聞かれてしまったらしい。
「聞いたわよ。あんた訓練中に倒れたそうね。らしくないじゃない」
「倒れてはいませんよ。ちょっとふらついて尻もちついただけです」
「どっちも似たようなもんでしょ」
凡そ倒れた者に対する態度とは思えないが、この距離感が今は気楽でいい。皆は心配しすぎなのだ。気持ちは嬉しいが余計に気を使ってしまう。
「で、何があったの?見た目は元気そうだけど」
「いや、別に大したことじゃないですよ……」
「血管にガソリン流れてそうなあんたが倒れるくらいなんだから余程のことでしょうが」
血管にガソリンって……まあ、あながち間違ってもないけど。もう少し言い方ってものがあると思う。普通に傷つく。
そんなことを考えているとビッチ先生が放置されていた椅子を私のベッドの横に引っ張りそこに座った。相変わらずスカートが短すぎて下着が見えそうだ。いや、見せてるのか?
「いいから言いなさいよ。あいつらに言えないようなことだって私なら平気でしょ?」
多分言わないとずっとこの問答が続きそうだ。確かに誰かに吐き出してしまいたい気持ちもあったし、大人しく言うとしよう。
「……今朝、夢を見たんですよ」
話そうとすると自ずと脳内に夢の光景がフラッシュバックする。思わず頭を押える。もうだいぶ平気になったがそれでも思い出そうとすると酷く怖い。
「夥しい数の亡者が私を血の沼に引きずり込もうとするんです。逃げようとしてもがいても全然逃げられなくて逆にどんどん引きずり込まれて行って……」
ただの夢だとわかっているのに、思い出すだけでも寒気がする。
「そいつらは言葉こそ話さなかったけど、目がこう言ってたんです。死ね、死ねって」
ビッチ先生は何も言わずただ黙って私の話を聞いてくれた。誰かが聞いてくれるという事実のせいか、私の口はどんどんと軽くなっていく。
「それで、必死にもがいたけど私は何もできなかった……」
心拍数が上がる。呼吸が荒くなり瞬きの回数が異常に増える。
「みんなの名前を呼んで助けを呼んでも誰も来てくれなくて……それでそのまま沼に沈んでいきました……それだけです」
「……そう」
口にすればなんてことない悪夢。きっと誰だって似たような夢は見たことがあるだろう。だから取り立てて騒ぐことでもないはずなのだ。
先生は私の話を聞いてしばらく何も言わなかった。ただ時計の針だけが音を発し続ける。そろそろ起き上がろう。そう思っていた矢先だった。
「それで、あんたはどう思ったの?」
「どうって?」
「その夢を見て何か感じたんでしょ?別に私以外誰も聞いちゃいないわよ」
ビッチ先生に言われ自分の感情を整理していく。あの夢で何を思ったのか、あの地獄の光景で何を感じたのか。そんなの決まっている。
「…………怖かった」
あの感情を表すのなら恐怖以外にない。痛いでも苦しいでもない。ただただ怖かった。
「…………怖かったんです」
「……そう」
「怖くて……怖くて……こ、こわくて……」
感情があふれる。瞳から雨となって零れ落ちる。えづきながらただ怖かったと連呼する。顔を手で覆い吐き出す。ビッチ先生は何も言わずただ黙って頭を撫でてくれた。
「こわかった……こわかったよぉ……」
顔を手で覆い隠し泣き続ける。二学期に入ってから急に涙もろくなってしまった。理由はわかっている。今まで碌に泣きも笑いもしなかったから基準が低いのだろう。だからすぐに泣いてしまう。でも、きっと悪いことじゃない。それだけは確かだった。
「落ち着いた?」
「……すいません。恥ずかしいところ見せて」
ビッチ先生から手渡されたティッシュ箱から一枚取り出し鼻をかむ。あれから数分泣き続けようやく落ち着いた。思い切り泣いたお陰かさっきまでの不安は大分鳴りを潜めていた。やはり溜め込むのはよくないのだろう。
「それにしても意外ね。あんたってそうやって泣くタイプだったんだ」
「私だって人間ですからね。最近まで知りませんでしたけど」
「そこは知っときなさいよ」
化物だのターミネーターだの言われ続ければ誰だってそうなる。結局私は自分のこと機械だと思いこもうとしていただけだったのだろう。だけどどんなに頑張っても人は機械になれないしなってはいけない。
「というかちょっと怖い夢見たくらいで泣くって……私からしたら武装したマフィアが立て籠もるホテルに一人で突っ込む方がよっぽど怖いと思うんだけど」
「適切な装備と情報があればあの程度のチンピラ如きに遅れは取りません」
実際あと二倍いたとしても私なら何とかできた自信がある。殺し屋連中だけは厄介だったがそれ以外は楽勝もいいところだった。
「あっそ……ていうかよく見たらサチコ、あんた目の下の隈酷いわよ。ちゃんと寝てるの?」
昨日は普通に11時には寝たはずなんだが、覚えていないだけでずっと悪夢を見ていたのかもしれない。
「寝不足は美容の天敵よ。若さに任せて適当にやってるとそのうち後悔するわ。サチコも気を付けなさい。女の寿命って凄い短いんだから」
ビッチ先生が言うと説得力がある。この人もあと五年したら……
「なんか失礼なこと考えてないかしら」
「いえ、別に……」
妙な威圧感を感じ目を逸らす。顔に出ていたのだろうか。こうして話しているとビッチ先生まだ20歳には思えないほど大人びている。普段は子供っぽいが、こうした時はやはり経験を積んだ人間なのだと再確認する。
「そう言えば、先生って私にだけはキスしませんよね」
「は、いきなり何言いだすのよ」
ずっと気になっていたことだった。ビッチ先生は授業中、何かと生徒にキスをする。それこそ男女お構いなしにだ。だけど私だけにはしない。大して気にも留めていなかったが思えばおかしい。
「何、もしかしてしてほし「違います」ちょっと!即答しないでよ!」
誰が好き好んで同性とキスしなければならないのだ。いや、そう言う人間も見てきたが私は多分異性愛者だ。
「そんなに思い切り否定しなくてもいいじゃない!この私にキスされるのよ!光栄に思いなさいよ!」
「その自信はどっからくるんだ……」
いや、実際びっくりするほど美人だとは思うけど。目の前の子供っぽい人が世界中の金持ちや要人を誑かしてきた傾国の美女だとは思えなかった。
「って、話がそれた。質問に答えてくださいよ」
途中からキスの話になって本題から逸れてしまった。それとも逸らされたのか。その答えは先生の顔が物語っていた。
「だって、できるわけないじゃない」
「はい?」
「サチコはずっと戦場で戦ってきたんでしょ?だったら……そう言うことだって、あったはずよ。そ、そんな子に無理やりなんてできるわけないじゃない……」
戦場、そう言うこと、無理やり……ここまで言われれば鈍い私でもわかる。つまりは、「そういうこと」だ。確かにそんなトラウマを持っているかもしれない人間に無理にキスなんてできるわけがない。
「いや……まあ、されそうになったことは何度もありますよ。自分で言うのも何ですが見た目は結構良いらしいので」
いくら手入れをしてなくても黒髪の日本人は嫌でも注目を浴びてしまう。治安の悪い国の戦場という異常なまでにストレスの溜まる場所では特にそう言った目で見られやすい。だからそう言ったことは本当によくあることだった。
「でもそういう奴等は全員返り討ちにしてやりました。危ない時もありましたけど……ってビッチ先生?」
簡単に昔のことを思い出しながら話しているとビッチ先生が俯いていた。膝に置かれた手は固く握りしめられ、震えている。
「び、ビッチ先──」
私が言いきる前に視界が真っ暗になった。感触からして頭を抱えるように抱きしめられているのだろう。何となくカエデを思い出した。
「せ、先生?」
先生は何も言わずただ頭を撫で続けた。ここにきてから色んな人に頭を撫でられている気がする。まるで犬みたいだなと思って少し落ち込む。
「どうしたんですかいきなり」
「いいから黙って私のしたいようにさせて」
声は細いがしっかりとした意思を感じる一言。きっと何を言っても止めないだろう。
「そうですか……わかりました」
もはや何も言うまい。ただ黙って頭を撫でられる感触を楽しむ。
「夢なんかよりよっぽど怖い目にあってるじゃない……」
呟いた声は小さすぎてよく聞こえなかった。でも先生が私を大事に思ってくれているのだけはよくわかった。
「もう、いいですか?」
「え?あ、ごめんなさい」
しばらくして私の一言でビッチ先生が我に返った。明るくなる視界に少しだけ名残惜しいと思ってしまう。
「……何よ」
当のビッチ先生は慣れないことをしたせいか顔を赤くしていた。男相手に似たようなことなんていくらでもしてそうなんだが。
「いや、別に」
「じゃあ何でそんなニコニコしてるのよ」
自分の口元を触る。確かにニヤついていた。さっきまでワンワン泣いていたというのに、移り変わりの激しい顔だ。
「いや、なんかビッチ先生が姉みたいな感じだったんで」
カエデは言わずもがなだが何だかんだ言ってビッチ先生もかなり姉みたいな振る舞いをしている。例えるのなら従姉のような関係と言えばいいのだろうか。ビッチ先生も満更でもなさそうだ。
「そ、そう?じゃあ呼びたいなら好きにしていいわよ。ただしイリーナお姉様って「遠慮します」は!?何が不満なのよ!」
「むしろ何故それでいけると思ったんだ……」
いつもと同じように下らない会話で盛り上がる。そのお蔭か心はかなり回復した。あそこでビッチ先生に吐き出せて本当によかったと思う。できなかったら私はきっと溜め込んで、拗らせていたはずだ。
「ま、その様子なら平気そうね。でも今日は無理しないで帰りなさい。送っていってあげるから。タコには私が後で言っておくわ」
「いや、そこまでしなくても」
一人で帰れるしそもそも早退するほど重症ではない。だがそんな私の考えはビッチ先生のデコピンによって叩きのめされた。
「いいのよ、どうせこの後授業ないし。いいから黙って送られなさい。この私にエスコートされるなんて本当ならいくら払っても叶わないのよ?」
これ以上言っても平行線をたどるだけだろう。ここは素直にビッチ先生の好意に甘える他ない。そう言えば松方さんにも好意は素直に受け取っておけと言われたのを思い出した。
「……じゃあ、お願いします」
「そうそう、ガキは大人しく甘えておけばいいのよ」
そういう先生はとても頼もしく見えた。私はこの人に甘えればいいのだろう。でも、この人は誰に甘えればいいのだろうか。ふとそんなことを思った。
「アストンマーチンなんて初めて乗りました」
ビッチ先生の運転する車の助手席に座り景色を眺める。シートは全てレザーで素晴らしい光沢を発している。まるで新品のようだ。いや、実際新車なのだろう。
「へぇ、そういうのも知ってるのね」
「はい、中東の成金の警護をした時に一度見ました。これ自分で買ったんですか?」
「前に仕事で付き合ってあげた石油王から貰ったのよ」
この車いったい幾らすると思っているんだ。確か一軒家が楽に建てられる値段だったはず。やはりオイルマネーは凄まじいな。いや私も買おうと思えば買えるけど。
「誕生日祝いらしいわ、何が愛しのハニーよ!誕生日間違えてるじゃない!私の誕生日は10月10日よ!あの成金デブ」
「ご、ご愁傷さま……」
ハンドルを握りながら吐き捨てるビッチ先生に同情する。でもいいことを聞いた。10月10日、覚えておこう。
「そういや、あんた兵士辞めるんですって?この前タコから聞いたわよ」
「そう言えば言ってませんでしたね。はい、もう足を洗うことにしました」
「…………よかったじゃない」
声が少し震えているように聞こえたのは気のせいだろうか。ふと、ビッチ先生にもし兵士を辞められなかったらパートナーにならないかと言われていたことを思い出した。
「そう言えばあんたにパートナーにならないかって聞いてたわね」
先生も同じことを考えていたらしい。兵士を辞めると決意した以上あの約束は守れそうにない。
「すいません、その話はなかったことにしてくれませんか?」
「元はと言えば私が勝手に持ちかけたことよ。あんたは気にしなくていいの」
そう言う先生の言葉は心なしか元気がなかった。奇しくも似たような境遇を持つ私に思うところがあるのかもしれない。
この人は殺せんせーを暗殺したらどうするのだろうか。また殺し屋に戻るのだろうか。この優しい人が人を殺す。そう考えると少しだけ、嫌だった。
「そろそろね、あの信号の先で降ろすわよ」
「……はい」
そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま車は信号の先で止まった。先生とはこれでお別れだ。もう少し話したい気持ちもあるが、ビッチ先生にも用意があるはずだ。無理に引き止めるのはよくないだろう。
「左ハンドルだから後ろの車に気を付けなさい」
「はい、ありがとうございました」
シートベルトを外しドアミラーで何も来ないことを確認し車から降りる。ガードレールを飛び越え歩道に入る。
「ちょっと!そんなはしたないことしないの!下着見えるわよ」
「え、あ、すいません」
窓を開けて身体を乗り出したビッチ先生に注意された。まだまだ淑女にはほど遠いということか。
「じゃ、私はこれでいくわ。あんたはとっとと帰ってとっとと寝なさい」
そういうビッチ先生の顔にはいつものような明るさはなかった。何か言わなければ。そうだ。ガードレールに手をかけ運転席の窓に近づく。
「まだ何かあるの?もう車出したいんだけど」
「あの!誕生日、楽しみに待っててください!」
私の一言にビッチ先生は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。咄嗟に言ってしまったが、この人のお眼鏡に適うようなものなんて私の財力で買えるのだろうか。
「……そ、期待しないで待ってるわ」
そう一言呟くとビッチ先生の運転する車は去っていった。一瞬だけ見えたサイドミラーに映ったビッチ先生の口元が笑っていたような気がするが、確かめる方法はない。
「……私も帰るか」
暗殺に勉強、やるべきことはたくさんある。だが、私の当面の問題は、このさっきから震えっぱなしの携帯電話をどうするかだった。
「はぁ、どう説明したものやら」
また説教はごめんだ。
家に帰った私は、カエデの電話をいなしたり、陽菜乃や矢田達に大丈夫だとメールを送ったり、殺せんせーに勉強の範囲を聞いたり、カエデの電話をいなしたり、カエデの電話をいなしたりして午後を過ごしていった
『そんなことが……祥子さん、気付くことができず申し訳ありません。モバイル律失格です……』
今はいつも通り勝手にPCに現れた律に何があったのか説明していた。私の説明を聞いた彼女は案の定自責の念に駆られているらしい。
確かに勝手に携帯電話にインストールされたモバイル律によってある程度私の私生活は覗かれているが四六時中見ているわけではない。律も夜は低負荷モードになっているらしいしこれは仕方のないことだ。
『祥子さんが苦しんでいたと言うのに、この体たらく……重ね重ね本当に申し訳ございません』
そう言う律の顔は本当に申し訳なさそうで、逆に私が罪悪感を抱いてしまうレベルだった。本当にこの子がプログラムだとは思えない。
『今、各国の研究データを分析して祥子さんに最も適した睡眠導入用の音声データを作成しています。プログラムの私にはこんな事しかできませんが、どうかお一人で抱え込まないでください』
「……ありがとう」
デジタルな彼女のアナログな温かさに思わず笑みが零れる。こうして話しているとこの子が生きているのではないかと錯覚してしまう。いや、違うか、この子は生きている。魂の仕組みが違うだけで律には立派に魂が宿っている。
「でも律、気持ちは嬉しいがあまり危ない橋は渡らないでくれよ。もし君が消されたら私は絶対に泣いてしまうと思う」
律のハッキングがばれる確率は限りなくゼロに近いが、それでも絶対に大丈夫だとは言いきれない。もしまた初期化なんてことになったら目も当てられない。
『ご忠告ありがとうございます。ですがご心配には及びません!既にインターネット上に私のプログラムコードを移す計画を実行しています。進捗状況はまだ41.05%程ですが、来年の3月までには全てのデータをウェブ上に移行できるかと』
「そ、そうか……」
知らないうちに私の友達が機械生命体から電子生命体に進化しようとしていた。この子はいったいどこに行くのだろうか……
「さて、そろそろ夕飯を作るか。色々あって腹が減った」
ベッドから立ち上がり台所に向かう。何か忘れている気がする。だがこの私が忘れるレベルなので本当にどうでもいいことだろう。軽い足取りで冷蔵庫の前にしゃがみ込み扉を開ける。
「何を作ろうかな…………あれ?」
『どうかしましたか?祥子さん』
見間違いかな、何もないぞ。扉を閉めてもう一度開ける。やはり何もない。飲み物すらない。人工的な冷気が私の顔を虚しく冷やす。
『あの、開けっ放しにすると消費電力が……祥子さん?』
「…………嘘だろ」
そう言えば冷蔵庫空だったの忘れてた。
「まさか私があんな初歩的なミスをするなんて」
買い物籠に鶏肉のパックを詰め込みながらぼやく。色々なことがあって食料が尽きていたことを完全に忘れていた。食事の大切さは身をもって知っているはずなのに。
「昔は芋ばっかりだったな」
毎日、ふかし芋と肉と野菜だけのメニューに調味料は塩だけという、まるで動物の餌のような食事だった。それが今ではこうして献立を考えながら食材とにらめっこするまでに進歩したのだ。
「ある意味健康的な食事だったんだろうけど……」
あれでは食べる楽しみというものがない。食べる楽しみという概念があること自体ここに来てから知ったことだから仕方がないが、いくら何でも味気なさすぎる。
「これだけ買えば三日は大丈夫だろ」
米のパックも入っているせいで籠の重量は恐らく10キロは軽く超えているだろう。それを片手で楽々と持ててしまう自分の怪力に少しだけ憂鬱になる。
「そう言えば再来週テストだったな。勉強しないと」
「ええ、その通りです!いい加減今回のテストで国語を克服してしまいましょう!」
「そうなんですよね。国語が全然わからなくて……ん?」
わかりきったことだが後ろを振り返る。申し訳程度の変装をした殺せんせーが私の買い物籠を覗きこんでいた。
「筍、鶏肉、蓮根……なるほど、今日は筑前煮ですか。美味しそうですねぇ。あ、これ少ないですが本味醂です。料理酒より美味しくなると思いますよ。よかったらどうぞ。わかってると思いますが飲んではいけませんからね」
「ご、ご親切にどうも……あの、何の用ですか?めっちゃ人見てますよ」
変装しているとはいえ2m近い顔が異常にデカい人擬きがいたら誰だって見る。というか烏間先生が苦労するから止めてあげてほしいんだけど。
「いえ、イリーナ先生から臼井さんが早退したと報告を受けたので、心配で見に来ました。ですが、その様子なら平気そうですね」
「ええ、お陰様で」
前に似たようなことがあった時は結局考えないようにしてごまかしてしまったが今回は吐き出すことができた。ビッチ先生には感謝してもしきれない。
「それと、今日の授業の要点をまとめたプリントを作りました。もう臼井さんの家のポストに入れてあるので後で勉強に使ってください」
「なんか、色々すいません」
いきなり倒れて、早退と迷惑を先生達には迷惑をかけっぱなしだ。子供は迷惑をかけるものだと言われればそれまでだがもう少し何とかならなかったものか。
「ヌルフフフ、いいんですよ、それが仕事ですから。それと今度から今日みたいなことがあったら遠慮なく休んでいください」
「はい、そうさせていただきます」
無理に行った結果が今日の体たらくだ。トラウマというのは思っていた以上に私を蝕んでいるらしい。少しでも駄目そうだと思ったら無理せず休むべきなのだろう。
「臼井さん、兵士を辞めたからといっても急がなくていんですよ。生き急ぐ必要なんてどこにもありません。いくらでも遅れなさい。進んでいるという事実が何よりも大事なのです」
「……はい」
やはり無理をしていたことはこの人にはお見通しだったわけだ。いっこうにこの人を越せる気がしない。焦る気持ちはあるが急いで躓くことのないようにしなくてはいけない。
「ヌルフフフ、よろしい!では先生はこれで」
風切り音が鳴り響き先生は去っていった。まるで何事もなかったかのようにスーパーに再び喧騒が戻っていく。籠に入った味醂の小瓶が今起きたことが現実だと告げていた。さて、私もそろそろ帰るか
「お前さん……もしかしてあの時の嬢ちゃんか?」
「はい?」
突然声をかけられ後ろを振り返る。見覚えのある老人が私を見ていた。
用語解説
タリバン
別称ターリバーン。パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム過激派組織。9.11を引き起こしたことで悪名高い。一時期はアフガニスタン全域を支配したこともあった。2018年現在もアフガニスタン軍と戦闘中。
トリチウム
自己発光する放射性物質。別名三重水素。銃の照準器や時計の文字盤に使われている。日本では規制の基準値が高いため時計とかは輸入し辛い。
マイクロT1
エイムポイント社が開発したドットサイト。マイクロと名の付く通りチューブタイプのドットサイトとしてはかなり小さい。これ系統の小型ドットサイトに細身のロングハンドガードが最近の銃のトレンド。宇宙戦艦M4の時代は終わったのだ。
トランジション
メインアームの弾が切れた時や作動不良を起こした時に瞬時にサイドアームに持ち替えるテクニック。実戦ではあまり使わない。失敗すると落としたライフルで股間を強打する。痛かったです。
ストレートダウン
銃の撃たない場合の持ち方。銃口を下に向けて暴発しても誰にも当たらないようにする。
アストンマーチン
イギリスのスポーツカーメーカー。基本的に超高い。中古車でやっと1千万円に下がる。007ではこれを何台も廃車にしたらしい。