※今回は繋ぎなので少し短いです。
来るべき期末テストに向けて、私達はとにかく勉強に勉強を重ねた。時に教わり時に教えられ、私達はA組に勝つために自らの刃を磨いた。
時折何故勉強するのかと疑問に思う時がある。戦場にいた頃は頭が良くなければ食い物にされてしまうことを嫌でも知っていたからだった。戦場では初めに運の悪い奴が死に次に頭の悪い奴から死んでいく。
死ぬこと自体はどうでもよかった。だが無駄死には嫌だった。だから銃撃の合間に必死になって勉強した。怒鳴られ馬鹿にされ時には勉強道具を奪われることもあったが、それでも私は勉強を続けた。
私は多分その頃から勉強するのが好きになっていたのだろう。理由なんてものはなく、単に好きだからというただそれだけのことだ。そんなのでいいのかと思う時があるが、多分そんなのでいいのだと思う。
だから私は今日も勉強をする。今日は二学期期末試験、決戦の時がやってきた。
「随分とまあ酷い殺気だなあ」
本校舎の廊下を歩きながら私は教室から飛んでくる呪詛のようなA組の殺気を感じた。まあ殺気というには随分と濁っていて本当の殺気を知っている私からすれば可愛いものである。
「その割には臼井さんいつも通りじゃん」
「当たり前だろ。人数がいたところでにわか仕込みの殺気など怖くもなんともない」
カルマは口でこそいつも通りのお気楽な態度だが、その表情は覇気に満ちていた。そこには以前のような慢心は一欠片も見当たらない。今回は本気で獲りにいくつもりなのだろう。
「臼井ちゃん、そうやって油断してるとまた私に抜かされちゃうんじゃないの?」
「そっちこそ、気を抜いて順位落ちないように気を付けろよ」
「はいはい、わかってますって」
すっかり距離の縮んだ中村と軽口を叩きあう。こうして皆いつもどおりに振る舞っているが、本当は内心緊張していることだろう。かくいう私もかなり緊張している。今回のテストはそれだけ尋常じゃないということだ。
何が出題されるかはまだわからないが、今まで勉強した内容を鑑みれば恐らく中学生のレベルなどとうに超えた問題が出題されるだろう。文字通りこれが私達の中学生としての集大成になると思われる。
指定された教室に入る。席に着く。開始の合図はまだならない。結果がどうなるかはわからない。だが、何があっても後悔だけはしないようにしたいものだ。
試験官の手が振り下ろされる。さあ、ショウタイムと行こう。
「そこまで!」
静まり返った教室に試験官の終了の号令だけが響き渡る。数式を書きなぐった答案用紙から手を離しペンを置いて額の汗を拭いた。
「終わったか……」
椅子に深く座りフル活用した脳細胞に休息を与える。これで全ての学科の試験が終わった。できることは全てやった。もう泣いても笑っても後はただ結果を待つのみ。
「これで二学期の期末試験は終了だ。解散」
答案用紙を返却し試験官が去って行く。その瞬間、教室に皆が盛大に溜息を吐いた。私と同じで皆も相当に疲れていたらしい。それもそうだ。あんなもの中学生でやる問題じゃないだろうに。
「カルマ、どうだった?」
私は隣に座るカルマへ声をかけた。あれだけ難しい問題の山だったのにも関わらず、彼はどことなく優し気な笑みを浮かべていた。
「ん?まあ、ぼちぼち」
「なんだそれ、私は最後の問題が解けなかったよ。なんだあの自分の領域というのは」
問題そのものは時間をかければ答えられただろう。ただその時間が足りなさ過ぎた。これだけレベルが上がるとなると、これからの高校生活の勉強が物足りなくなってしまうのではと不安になるくらいだ。
「あんなの小学生でも解けんでしょ。臼井さんも問題帰ってきたら解いてみなよ。今の臼井さんなら絶対解けるから」
「まあ昔の私の学力じゃあ無理だろうな」
私がそう言うと彼は違うと言いたげに首を振った。もう以前のような人を見下す素振りも慢心も見当たらない。私はここで人を知って自分を知った。彼もきっとそうなのだろう。
「そういうのじゃないんだけど……ま、いいか。ねぇ臼井さん」
「なんだ?」
「世界って広いよね」
驚くわけでも怖気づくわけでもなく、ただ満足気に世界の広さを謳う。そう言うことか。私の世界が広がったように、彼の世界も広がった。ただそれだけのことだ。
「……そうだな」
噛みしめるように答える。できることは全てやった。仮にこれが実らなかったとしても、私には後悔はない。あとはゆっくり結果を待つとしよう。
「そうだよな……」
私はもう一度、息を吐いたのであった。
E組、良く言えば木の温もりの感じられる、悪く言えば埃っぽくて古臭い、そんな教室で皆が固唾を飲んで担任の動向を見守る。
「これから君達の答案を返却します」
教壇に立つ殺せんせーの言葉に私は唾を飲みこんだ。戦闘以外でここまで緊張したのは久しぶりだ。それだけ今回のテストには全力を注いできたつもりだった。
「と言っても、皆さんは点数よりも順位のほうが気になるでしょう」
その通りだ。正直そんなことよりも皆が50位以内に入っているかのほうが余程気になる。自分一人の努力ではないのだ。教えて教わり、皆で努力してきた最後のテスト。個人の点数など最早どうでもいい。
「ですので、先に順位を発表してしまいましょう!」
殺せんせーが黒板にテストの順位を張り出した。固唾を飲んで殺せんせーの言葉を待っていた皆も耐えきれずに一人また一人と立ち上がり、やがては黒板の前に群がっていく。
「ど、どうだ……」
二学期期末トップ50と大きく印字された用紙、そこには50人分の生徒の名前が記載されていた。1位、赤羽カルマ、2位、浅野学秀、3位、中村莉桜、4位、磯貝悠馬、5位、竹林孝太郎……
「6位、臼井祥子……」
私の名前を見つけ小さく呟く。ほっと息を吐くと同時に身体の中に何かが込み上げていく。だが爆発には未だ至らない。再び順位を目で追っていく。
「46位、寺坂竜馬……」
彼はいつもテストでは最下位だった。そんな彼が46位……それより下に私の知っている名前は一つもない。それが意味することはただ一つ。
「やっ」
それは誰の声だったのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。感情が込み上げる。込み上げたものが溢れ出し、そして──
「「「「「やったぁ!!」」」」」
爆発した。
教室に皆の歓声が爆音のように響き渡る。陽気な者も、大人しい者も、男も女も、誰もが喜びに飛び跳ねた。
私はその中で一人佇んでいた。喜んでいないわけではない。ただ、まだ実感が伴わなかった。
「やったよ祥子!」
「あ、ああ!」
カエデが私の手を掴んで飛び跳ねる。そうか……やったのか、私達は。改めてやり遂げた事の意味を噛みしめる。心の中で何かが爆発する。
「やりましたよ皆さん!」
「やったよ、陽菜ちゃん祥子ちゃん!」
「やったね!みんな!」
奥田や陽菜乃、桃花たちと一緒に輪を作り共に喜びに打ち震える。そんな姿に私も嬉しくてたまらなくなり共に歓声をあげてしまう。
「やったー!!」
外聞もへったくれもない有様。きっと傍から見れば滑稽だろう。だが、それがどうした。私達は今猛烈に嬉しいのだ。
「やったぞ寺坂!」
「お、おう。そうだな」
込み上げる喜びを隠さず寺坂に近づく。今回一番頑張ったのは間違いなくカルマと寺坂だろう。特に寺坂が頑張らなければこの結果は有り得なかった。一番の功労者と言っても過言ではないだろう。
「46位おめでとう!寺坂!」
「嫌味か!……けどまあ、あんがとよ」
面と向かって褒められて気恥ずかしいのか、彼は横を向きながら頬を掻いている。本当なら一緒にハイタッチしたい気分だが、多分やってくれないだろう。
「あれ、もしかして寺りん照れてるの?」
「そんなんじゃねえよ!頭撫でるの止めろ!」
「えへへ、よしよしー!」
寺坂を弄り出した倉橋を横目に私は黒板に張り出された順位を改めて眺めた。律の代理の人を含め総勢29人。全員がA組を押さえトップ50位以内に入り込んでいる。落ちこぼれと蔑まれたE組がここまでやり遂げたのだ。
「本当に良くやったよなあ」
殺せんせーという最高の教師と皆の弛まぬ努力の成果だ。A組だって決して努力していなかったわけではない。ただ、やり方が悪かった。理事長には悪いが私はやはりこちらのほうが好きだ。
もう一度順位を一位から追って行く。浅野はカルマと三点差だったのか。本当に僅差だったというわけか。結局中村には負けてしまったか。まあ些細なことだ。
「6位、臼井祥子…………444点」
偶然にも並んだ数字に思わず自嘲する。自己ベストは更新できたが縁起が悪いというレベルではない。ただ、ある意味私には相応しい数字かもしれないな……
「ま、いっか!」
どうせただの偶然だ。私は不意に心に走ったノイズを除去し皆の輪の中に戻っていった。受験に暗殺、何よりもカエデのこと、やらなければならないことは沢山ある。だが、今はこの瞬間を喜ぼう。
「さて皆さん、晴れて全員E組を抜ける資格を得たわけですが、この山から出たい人はいますか?」
皆の歓声も落ち着いた頃、殺せんせーはいつものようにニヤリと笑ってわかりきった質問を投げかけてきた。皆の顔を見れば一目瞭然なのにあえて質問をするのだ。この人もたいがい良い性格をしている。
「ふっ、愚問だな」
そんなわかりきった質問にはわかりきった答えが返ってくるのは当然のことで、私達は銃やナイフを持って殺意満点の答えを先生に返した。
私は教室を後ろからBB弾の飛び交う様を眺めながら確かな満足感を感じていた。銃撃を止め一人頬づえをつく。これで学生としての私達の戦いは最高の結果で終わった。後はこの人をどうやって殺すかだ。
そんな未来に思いを馳せていたその時だった。
「ッ!」
エアガンの気の抜けた銃声が飛び交う教室で、私の鍛え抜かれた聴覚が遠くから聞き慣れた音を感じ取った。立ち上がり窓に向かう。
「どうしましたか?祥子さん」
「……何か来る」
この音と振動には覚えがある。この鳥肌の立つ様な振動、金属の軋む音。戦場で飽きる程聞いた履帯の音だった。思わず冷や汗が流れる。そんな私の様子にただ事ではないことを察知した皆が窓に駆け寄る。
「みんな、あれ見て!」
片岡が窓から外を指さす。その先には二両の大型油圧ショベルが徐々にこちらに近づいてきていた。まさか……私は嫌な予感がした。
「あぁ!校舎が!」
私達が見ているのにも関わらずショベルカーが悠々と鍵爪のついたバケットを校舎に突き立てた。油圧駆動の莫大なトルクの前に木造の校舎は音を立てて崩れていく。あっと言う間に校舎の半分が瓦礫の山となった。
その非現実的な光景に一瞬頭がパニックになりかけるがすぐさま立ち直り状況を考察する。旧校舎は半ば見捨てられているようなものの、一応は学校の敷地だ。そんなところにこんなものを通す許可を下せる人間など限られている。
「今朝の理事会で決定しました。この校舎は今日を以って解体します」
重機の喧騒に交じりどこまでも冷たい声が聞こえる。そしてそんなことをする人など私は一人しか知らない。
「早急に退出の準備をお願いします」
浅野理事長がどこまでも冷たい目で私達を見下ろしていた。
「今ここで、私が貴方を殺します」
解雇通知という必殺の武器を片手に理事長はどこまでも冷めた目で殺せんせーにそう宣言した。その目はどこまでも本気だった。
「もしもこの教室を守りたいのなら、私とギャンブルをしてもらいます」
理事長の一声により解体が中断され外に追いやられる私達、もぬけの殻となった教室には理事長と殺せんせーが向き合っていた。そんな彼等の前には五つの机が半円上に並べられていた。
理事長が持ってきた鞄から五冊の問題集と五つ円筒形の物体を取り出し机の上に置いた。その物体がなんであるかを認識した瞬間、私の背筋は凍り付いた。
重量感を感じる金属製のボデイに見慣れたレバー、そしてピン、間違いなく手榴弾だった。何度も使っていたからわかる。あれは間違いなく本物だ。
「う、臼井さん、あれ本物なの?」
「あ、ああ……多分本物だ……」
私の確信めいた表情に原が顔を青くした。皆が突然の事態に困惑する中、理事長はなんの躊躇いもなくピンを抜きギャンブルのルールを説明した。
理事長が提示したギャンブル、それは文字通り命を賭けたゲームだった。彼曰く五つの手榴弾のうち一つが本物の対人用手榴弾。そしてそれ以外は対先生手榴弾。
ピンを抜いたそれらを問題集の適当なページの間に挟み殺せんせーがそれを解答する。その際解答が終わるまでその場から動いてはいけない。
ただでさえピンを抜いて非常に危険な状態の手榴弾、しかも信管に細工がしてあるらしくレバーが外れた瞬間に起爆するようになっているらしい。
勝利条件はどちらが死ぬかギブアップするまで、理事長が対先生手榴弾を喰らっても服が焦げるだけだろう。つまり殺せんせーが勝つには四回に渡って己を蝕む弾丸をその身に受けなければいけないのだ。
殺せんせーが負ければ私達は旧校舎を追い出され理事長の言う新しいE組で勉強することになるという。彼の口ぶりからして悪質な洗脳の類に近い教育を施されるのだろう。冗談じゃない。
「理事長、貴方正気ですか?」
腹に爆弾を詰めた私が言えることではないが、今の彼は明らかに真面じゃない。表面上は理性的に振る舞っているが錯乱していたとしてもおかしくない。E組に負けたことがそこまで衝撃的なことだったのか。
「私は至って正気だよ臼井さん」
駄目だ。話が通じない。というよりも端から話に応じるつもりなどないのだろう。恐らく私や先生が何を言おうと理事長が心変わりすることなど有り得ない。
「さて殺せんせー、チャレンジしますか?」
この勝負、確実にどちらが死ぬまで終わらない。見た所手榴弾はコンカッションのようだ。どこでこんなものを手に入れたのだ。だが今はそんなことはどうでもいい。
それよりも被害のほうが心配だ。仮にコンカッションだった場合、この狭い教室での爆発は洒落にならない。おまけにこの校舎は木造だ。破片などにより深刻な人的被害が出ても不思議ではない。
「……どうする」
私は教室を出る際にバックパックから密かに持ち出したVP9に意識を向けた。弾倉には麻酔弾が込められている。ボルトを操作して装填すればすぐにでも撃てるだろう。
「……ッ!」
これしかない。私が意を決してジャケットに手を突っ込みVP9に手を掛けたその瞬間だった。
「臼井さん!ここは先生に任せてくれませんか?」
殺せんせーのいつになく真剣な声で私の動きが制止される。その声に一瞬固まる私、だがすぐに我を取り戻し声を荒らげ抗議する。
「なっ!?正気ですか!」
「えぇ、私なら大丈夫です。皆さんは安全な場所に下がっていてください」
そう言って殺せんせーは机の真ん中に置かれた椅子に腰かけた。納得できない。私がそう思ってもう一度抗議しようとしたその時だった。
「やめとけ臼井」
寺坂が私の肩に手を置いて首を振った。私だってわかっている。今ここで二人を止めたところで根本的な解決にはならいことなど。むしろ余計に事態が悪化するだけだろう。
「だ、だが……」
「ここで理事長止めたって意味ねえことくらいてめぇにもわかんだろが」
言い返せない。肩の力を抜きVP9から手を離す。ここは殺せんせーを信じて見守るしかないのか。
「では殺せんせー、問題を解いてください」
その言葉と共に理事長の暗殺が始まった。殺せんせーの性格を読み切った、どこまでも一方的で合理的な暗殺だった。
「皆、絶対に窓から顔を出すなよ。破片で失明するぞ」
私がきつく言うと皆は冷汗を流しながらしゃがみ込んだ。五つの問題集に挟んだ手榴弾のうちどれが本物かわからない以上、細心の注意を払うべきだ。本当ならもっと離れるべきだろうが、E組の存亡を賭けた暗殺だ。私達には見守る義務がある。
教室から二人の話声が聞こえる。いよいと本当に始めるようだ。私はもしもの時に備えて耳に手を当てた。
「……ッ!!」
軽い破裂音、ほぼ同時に空いた窓から私達の肩にBB弾が降り注ぐ。どうやら間に合わなかったようだ。恐る恐る窓から教室を覗きこむ。
「マジかよ……」
誰かが呟く。そこには今まで見たことないくらいに顔がドロドロに溶けた先生がいた。数百個の対先生BB弾を真正面からその身に受けたのだ。むしろこれですんだのが奇跡だろう。
あと三回、どう軽く見積もっても殺せんせーがこの攻撃に耐えられるとは思えない。こんなものは最早暗殺とは言えない。ただの一方的な処刑だ。
「強者はいつだって好きなように弱者を殺せる……君達も覚えておきなさい、これがこの世界の真理、誰にも抗えない絶対の掟だ」
理事長はどこまでも冷めた笑顔で弱肉強食の理をこの国にばら撒くと言った。殺せんせーを殺すのも全てはこのため。つまり彼は今の今に至るまで教育のことしか考えていなかったのだ。
気に入らない……本当に気に入らない……
「さぁ殺せんせー、私の教育の礎のひと──」
「ふざけるな!!」
誰かの大きな、それは大きな声が響き渡った。この場にいる全ての者の動きが止まった。渚も、カエデも、理事長も、殺せんせーも、皆が私を見つめていた。
ようやく合点がいった。そうか、この声は私が出したのか。
「臼井さん、勝負の邪──」
「さっきから聞いてれば好き放題言いやがって!」
「さ、祥子?」
どうしてこんなにイライラするのかわからない。理事長の言うことは何一つ間違っていないし私だってどちらかと言えば理事長の考えに近い。
「弱かったら!何したって、何させたって構わないのか!強いのがそんなに偉いのか!!」
私はこの苛立ちを覚えている。偽殺せんせー事件の時、シロに感じたものと今感じている苛立ちは同質のものだ。
「何が強者だ!何が礎だ!それで犠牲になるのはいつだって弱者じゃないか!」
「君にそれを言う資格はない。君はいつだって自らの力で敵をねじ伏せてきた側の人間のはずだ」
冷静に、そして毅然と私の言葉に正論と言う名の剣を突き刺す。その通りだ。私が着ている制服も、私が持っている文房具も、私の命でさえ、全ては敵から勝ち取ってきた物だった。
「…………ッ」
言い返せない。私が皆のように、ただ耐えることしかできなかった立場なら、違うと、そうではないと言い返せるのかもしれない。でも私は違う。私はいつだって虐げる側で、強者だったのだから。
「でも……そうだとしても……」
皆の視線が私に突き刺さる。そんな視線から逃れるために私は顔を下に向けた。沸騰した頭が急激に冷やされる。何をやっているんだ私は……。浅はかな言動に己を恥じる。
「それでいいんですよ臼井さん、君の考えはとても立派です。これからもその考えを忘れないでください」
「……ッ!」
顔を上げる。視界に映ったのは先ほどと同じドロドロになった殺せんせーと問題集。だがよく見ると一冊の問題集の表紙の上にメモが置かれていた。どういうことだ?
「殺せんせー、問題は……」
「はい、ちゃんと解いてちゃんと閉じました。正解のはずです」
理事長は目を見開いたまま何も言わない。一言も反論しないということはそういうことなのだろう。さっきは間に合わなかったのに……
「実を言うとこの問題集のシリーズ、見覚えがあるんですよ。数学だけは長いこと生徒に貸していたせいでうろ覚えでしたが……お恥ずかしい限りです」
殺せんせーの触手がぶれる。次の瞬間には三冊目の問題集の回答が終わっていた。どうやら本当に記憶しているようだ。
「先に言っておきますが、偶然ではありませんよ。ただ少し日本全国の問題集を覚えていただけです」
再び触手がぶれる。あっと言う間に四冊目の問題集の回答が終わった。残りは一冊。まだ殺せんせーは生きている。
「教師になるのだから当たり前のことでしょう?」
そう言って殺せんせーは当たり前のように、当たり前ではないことを言った。そうだ、思い出した。この人は誰よりも理不尽で、誰よりも優しくて、そして誰よりも勉強熱心だったことに。
「浅野理事長、最後の一冊を開きますか?」
殺せんせーはまるで死刑宣告のように勝利宣言を突きつけた。五つの手榴弾のうち本物は一つ。先ほど爆発したのは対先生手榴弾なので確率は25%、決して低いとは言えない。
「もし理事長が殺せんせーを首にしても私たちは構いません。その時はまた違うところで暗殺教室を続けるだけですから」
片岡の言葉に皆が頷いた。そう、もし仮に理事長が約束を反故にして殺せんせーを追い出したとしても、今更E組が理事長に従うことなどない。最早彼の理論は破綻した。普通の人間ならこの時点でギブアップするだろう。
ただ私は知っている。
「……ここまで真正面から歯向かわれたのは今年で何度目だろうか。本気で言い返されたことなど本当に久しぶりだった……」
私は理事長の目に何か嫌なものを感じ取った。私はこの眼に見覚えがある。あの誕生日の日、鏡の前で見た私自身の目とそっくりだった。
「殺せんせー、私の教育論ではね、もし貴方が地球を滅ぼすのならそれでもいいんですよ」
理事長が問題集に手を伸ばす。私は知っている。この人が普通じゃないことを。
「全員伏せろぉ!!」
背を向けて地面にダイブする。砂利と土が制服を汚すがそんなことを気にしている暇はない。耳を塞ぎ来るべき爆発に備える。
「──ッ!」
振動、そして衝撃、爆音と爆風が背後で轟いた。本当に開いてしまうとは……あの人はどこまでも本気だったわけか……
「って理事長は!?」
こんなことをしている場合ではない。もし至近距離で手榴弾が起爆すれば破片、熱、衝撃でどう足掻いても無事ではすまない。私は慌てて立ち上がり窓から教室を覗きこんだ。
「…………はぁ」
視界に映る光景に私は安堵の溜息を吐いた。そこには半透明のシートのようなものに包まれ、唖然とした表情で殺せんせーを見つめる理事長の姿があった。
「ヌルフフフ、私の脱皮をお忘れですか?」
二学期に入ってから一度も使っていないので忘れかけていたが、殺せんせーは月に一度脱皮できるのだった。確かにこれならコンカッション程度難なく防げる。でもこれがあるなら何故最初の爆発時に使わなかったのだろうか。
いや、私と同じだ。殺せんせーは初めから理事長が自爆することをわかっていたのだ。殺せんせーは暗殺される際、絶対に死人は出さない。いつだって手入れして何倍にも良くして返してしまうのだ。
「何故わかったという顔をしていますね。それは、貴方と私が似た者同士だからです」
殺せんせーは静かに語り出した。お互いに意地っ張りで教育に命を賭けていること、理事長が塾を経営していたこと、そこで何かが起きてしまったこと、そして当時の教育方針が今の殺せんせーの教育の理想像だと。
「臼井さんは先ほど理事長に反論していましたが、一つだけ間違いがあります」
間違い、どういうことなのだろうか。殺せんせーは疑問に思う私達を一瞥し口を開いた。
「弱者を食い物にするのではなくむしろその逆、心無い強者から自らの身を守れるように、一人で孤独に苦しまないために、人への思いやりを持てるように……どれもE組があったからこそできたことです」
ああ、そういうことか。私はこの瞬間、理事長がE組を作った本当の理由を知った。
E組があったから孤独じゃなくなった。辛い境遇を知っているから人に優しくできた。悩みを吐き出すことができた。仮にE組がなかったら皆今も一人で悩み孤独に苦しんでいたかもしれない。
晒し上げるのではなく守るため、強くなるため。殺すのではなく生かす教育。口ではなんだかんだ言っても二人は骨の髄まで教育者だったというわけか。
「同じ教育馬鹿同士、これからもお互いの理想の教育を貫きましょう」
勝負はあった。いや、今回の件は勝負などではない。道を踏み外しかけた一人の教育者を、一人の教育者が元の道に戻した。ただそれだけのことなのだろう。
「そう、ですね……」
11月、秋も終わりを迎えたこの月。一つの因縁がひっそりと終焉を迎えた。
「これはクリーニングだな……」
私は案の定土塗れになった制服を見てげんなりとした。
後日談、というかその後の話。結局理事長は温情という形を以ってE組の存続を認めた。殆ど理事長の負けのようなものなのに、頑なに認めようとしないあたりやはり相当な負けず嫌いなのだろう。
だが去って行く理事長の顔は初めてE組で出会った時の冷たさが消え、代わりに私が理事長と対面した時に見せたどことなく優し気な顔になっていた。きっとあれが本当の理事長の姿なのだろう。
浅野とは仲があまりよくなかったようだが、今の理事長なら上手くやれるのではないだろうか。あの二人の絆など想像できないが、案外一緒にレストランに行くとか、そんなありふれたものなのかもしれない。
こうして一つの確執に決着がついたわけなのだが、意趣返しのつもりなのか解体しかけた校舎はなんの補填もなく放置された。お陰でしばらくはわかばパークの時のように自力で修繕しなければならないだろう。律と千葉にはまた頑張ってもらうほかあるまい。
「これで中学生としてやるべきことはだいたい終わったのか……」
もう少しで12月に入る。これからは本格的に暗殺に取り組む時期だ。殺せんせーの地球爆破まで残り約三カ月。受験に暗殺、そして卒業、やることは山もりだ。
「やること、か…………」
私はうっすらと空に浮かぶ三日月を見上げて息を吐いた。そう、私には一つ、本当にやらなければならないことが残っている。ずっと目を逸らしていたこと、優しさに甘え見ないふりをしていたこと……
誰もがこの暗殺教室で己の壁を乗り越えていった。渚も、カルマも、寺坂も、陽菜乃も、桃花も、速水も、そして私や理事長でさえも。
だが一人だけ、たった一人だけ乗り越えられていない人間がいる。私の親友であり、大切な仲間、そして誰よりも信頼している家族のような人。
「……あかり」
私はその人の名前を呟いた。私はあの人に沢山のものを貰った。今度は、今度こそ私が返す番だ。何ができるかはわからない、何もできないのかもしれない。けど、何もしないわけにはいかない。
「いい加減時計の針を進めよう」
例え世界が敵になったとしても、私はあの人の味方でいよう。
「そんな泥だらけの恰好で何を進めるんだい?」
振り返る。驚きに目を見開く。
「久しぶりだねぇ、臼井祥子……いや」
夕闇の住宅街、街灯と街灯の間に白い影が立っていた。
「ハードラックって呼ぶべきかな?」
影が嘯く。頭巾の奥に隠れた紫目が怪しく光輝いた。
用語解説は次回やりたいな。