海の上に浮かぶような心地よさは無い。泥の中に沈んでるように、重い体。
酷い気怠さの中、吹雪はゆっくりと覚醒した。無機質な蛍光灯の光に、何度かしばたたかせる。うっ、と掠れた声が、薄い唇から漏れた。
しばらくして目が明るさに慣れてくると、軋む体を起こして辺りを見回した。
見覚えのない部屋。そして、彼女が寝かされているベッド以外には何も見当たらない。ベッドの枕元にはセーラー服が丁寧に畳まれており、彼女自身は病衣をまとっていた。
「どうして」
眉間にしわを寄せて考えるが、どうにも記憶がぼんやりとしていた。霞がかかったように、ここに至るまでの事が思い出せない。
このままでは、まるで状況が把握できない。そう考えた吹雪はとにかく外へ出ようと、裸足のまま、記憶をたどりつつ出口へ向かう。おぼつかない足取りで、ゆっくり、確実に歩を進める。
扉を開けると薄暗い通路が伸びている。その先には上へと続く階段。階段を上りきり、開けっ放しの扉を抜けると、そこには医療機器がずらりと並んでいた。
医務室。
吹雪には見覚えがあった。
何度も訪れた事がある、自身の深海悽艦化の経過を観察していた場所だと思い出した。
するすると、糸をほどくよう徐々に思い出す。
「明石・・・は?」
過去へ、過去へと記憶を辿る。
そして。
「っ・・・司令官!」
額に砲弾を受けたような衝撃があった。
自分は吹雪、ここは鎮守府。自身の辿った末路の記憶も甦る。
「戻ってる」
確かに深海悽艦と化し、金剛に沈めてもらった。なのにどうして生きているのか。体を見回しても、あの忌々しい黒の鎧は欠片さえ見当たらなかった。全て悪い夢であったのか・・・。
しかしそんなはずはない、と彼女は断言できた。
鮮烈に残っているあの痛みや苦しみが夢であろうことか、と。
疑問は尽きなかったが、それは後で聞けば良いと隅へ追いやった。吹雪はそれよりも気になる点があったのだ。
ちらりと自分が上ってきた階段…正確にはその扉を見つめる。扉が開きっぱなし、それも電子錠にも関わらず。確か医務室の管理をしていたのは明石。あの明石がそんなミスをするとは考えられなかった。だからこそ、吹雪は焦燥した。
明石がミスをする程に、緊急な事態になっているのではないか、と。
真っ先に頭に思い浮かぶのは鎮守府への襲撃。
吹雪はぐっぱと指先の感覚を確認する。
目覚めた時に比べると、確実に動きが良くなっている。
医務室を後にした彼女は、その出口である工廠の、あまりの静かさにゾッとした。
悪い予感がする。悪夢のようなシナリオが頭に浮かぶ。
(やっぱり襲撃か)
そう断定した吹雪は一目散に執務室に向かう。
途端、ドドン! と遠くで砲撃の音が聞こえた。
窓ガラスが微かにビリビリと軋み、腹の底をまさぐられるような不快な震動が続く。
その一つ一つが、吹雪に一年前を思い出させる。
(急がないと)
まるで昨日の出来事のように鮮明に思い出される、赤い赤い光景。鼻を突き刺すような鉄臭さ。
(急がないと!)
執務室までの廊下が、果てしなく長く感じる。無闇に手足をばたつかせるだけで、前に進まない。そんな錯覚に陥るほどに、吹雪は正気を失っていた。
「・・・っ!」
そして、何もないところで、足をもつれさせて無様に転んだ。
膝をしたたかに打ち付けたが、痛みなどどうでもよかった。奥歯を噛み締める彼女は、必死に焦りを堪えようとしていた。
落ち着けと何度自身に言い聞かせても、動悸が止まない。床から跳ね返る鼓動に、更に緊張を覚える。手足が痺れてくる。
今この瞬間も、弾雨の中戦っている仲間がいる。鎮守府のために、提督のために、身を削っている仲間がいる。
そう考えると、吹雪には現実の自分があまりに情けなかった。
金剛に沈めてもらえていれば、などという酷い八つ当たりすら頭に浮かんでくる。
「地獄だ」
一年前の自分と同じ、無力なまま。おろか、戦場にすら立っていない。自身の努力は何も生まなかった、変えなかった。
悔しさのあまり振り上げた拳は、しかし行き場を失って床に落ちた。
「・・・吹雪か?」
その声に、吹雪の体が跳ねた。
そっと頭を上げると、そこには困惑と驚きをない交ぜにした提督の顔があった。
「司令・・・官」
提督の無事を確認した吹雪は、途端に脱力した。
「ご無事で・・・良かったです」
「吹雪、どういうことだ?」
提督は訝しげに吹雪を見つめる。
「吹雪は轟沈したと報告を受けていた筈だ。私は幻覚でも見ているのか」
「幻覚なんて酷いです」
吹雪が批難の声を上げると、しかし提督は頬をゆるめて笑った。
「冗談だ、許してくれ」
そう言って手を差し伸べると、ぐいと吹雪を立ち上がらせた。
そして、二人のいる廊下に沈黙が流れた。
この無言が、吹雪にとっては苦痛だった。今まで避けていた提督の前で、無力な自分を晒して、どんな顔をすればいいのかわからない。何を話せばいいのかわからない。
混乱する吹雪であったが、対して提督の表情は穏やかだった。
「なんだか懐かしいな。誰もいない鎮守府で、二人きりで話すのは」
「そう、でしょうか」
「そうだとも」
再び沈黙が訪れた。
つい先程まで必死になって探していた提督と会えたにも関わらず、今はこの場を離れたくて仕方がなかった。俯く吹雪の視線は真っ直ぐ下に向けられて、自分の頭がやけに重く感じた。
今、提督は何を考えているのか?
ふと吹雪の頭によぎった。
金縛りにあったように前にも後ろにも動かせない足はそのままに、僅かに首をもたげ、彼女は提督の脚を一瞥した。
その視線を、彼は見逃さなかった。
「・・・なぁ、吹雪」
「はい」
「これを見て、何を考える?」
提督はガチャリと金属の脚をあげて見せた。
「それは・・・」
一瞬、思考が凍りついた。
僅かに和らいだ筈の緊張がたちまち膨らんで、いっそう大きくなって吹雪の元へ戻ってきた。
ぎり、と彼女は歯噛みした。
「それは、私の犯した罪の跡で、一生消えなくて」
一呼吸おいて、
「だから、私にはその罪を背負う責任があって、司令官を守らなくちゃ駄目で、それで。それで…」
提督本人から、自身の考える罪について吐露させられることは、これが初めてだった。喉がカラカラに渇き、胸をこれでもかと締め付けられる。
言いたいことはたくさんある。なのに、吹雪はそれ以降言葉を繋げなかった。
「そうか」
しかし、提督は急かすことも咎めることもなく、受け入れた。そして、
「私はこう考えている」
と前置きし、
「これは勲章なんだと、ね」
「勲章?」
予想していなかった言葉に、吹雪は混乱した。提督は頷くと、部下ではなく、まるで子どもに御伽噺を聞かせるように優しげに語る。
「自分の身を呈して、大切な仲間を助けることができたんだ。吹雪、これはどんなに戦果をあげても手に入れることの出来ない、そして私にとって何よりも価値のある、名誉な勲章だと思っている」
それから、と。
「一年前に私がこの勲章を手に入れてから、吹雪は変わったと感じている。だからもし、その原因が私にあるのであれば」
「司令官は悪くありません!」
思わず吹雪は叫び、
「司令官は、悪くありません」
二度、繰り返し、俯いた。
強い拒絶であった。
心の黒く淀んだ部分に、踏み込まれそうになった事が、酷く恐ろしかったのだ。
「吹雪はこの一年間、本当に頑張っていたね」
「えっ」
またも意外な言葉に、吹雪は思わず顔を上げた。
「ちゃんと私は見ていた。応援していたし、心配していた。でも、吹雪は確実に私から距離をとっていたね」
「・・・・・・それは、司令官のために」
そう言ってから、吹雪は言葉に詰まった。
身を粉にし、情を捨て、がむしゃらになったこの一年間は、本当に司令官のためなのか、と。本当に司令官を見ていたのか、と。目を向けていたのは、吹雪自身ばかりではなかったのか、と。
提督の真っ直ぐな飾らない言葉に、偽りのない瞳に、嘘を返すことはできなかった。
今までの努力が、きまりの悪さを濁す為の、無鉄砲なものだと理解していた。
省みた過去に、どれだけの提督への想いがあろうとも、提督と向き合うことを避けていた。
上っ面だけでも提督の為に努力をしている自分を、俯瞰している自分がいた。化けの皮は元から剥がれていた。
彼女が深海悽艦になったときに言ったのだ。
『殺したくない』と。
自らの手が提督の血で汚れることを怖がった。
「ははっ」
吹雪の口から乾いた笑い声が漏れた。
改めて気づかされたのだ。
全くに無為な時を過ごしていたことを。
──にも関わらず、提督は吹雪が頑張っていたと評したのだ。
彼女の中には大きな後悔が残った。
しかし、どこか救われた気がしたのだ。
そう感じた時、吹雪の一人の時間が終わった。
「もし、吹雪が私のことを大切に思ってくれるのであれば」
「はい」
「私に寄り添って、共に同じ時間を過ごしてほしい」
そう告げ、そっと吹雪の手を握りしめた。
止まっていた二人の時間を、緩やかに溶かすように。
足を失ったことを、運命だと、偶然だと、諦めて忘れることはできた。目を逸らし、見えていない振りをすることだってできた。たとえ彼を避けようとも、それを受け入れて、向き合ってきた吹雪の強さを提督は知っていた。
「私のせいで司令官は脚を失った。これは誰に何を言われても、私の中から消えることはありません」
「うん」
「司令官にとっての勲章でも、私にとっては背負うべき罪であるという考えも変わりません」
今度は驚くほど軽やかに、言葉が流れる。
「でも、もし司令官が許してくださるのであれば」
吹雪は膝をつき、手を握り返す。
「また司令官のお側に居させてください」
それは彼女の決意であり、二人の新たな出発の号令であった。