一年前。
それはあまりに唐突な事で、誰を責めるなんて事件の後まで思い付かないほど。
この頃はまだ吹雪が秘書艦を勤めており、今日は雨で冷えるから温かい煎茶でも淹れようかと思案していた。
時刻は午前九時。
吹雪は慣れた手つきで書類をまとめていく。
「吹雪、戸棚からお菓子を出してくれるか?」
「さっき朝御飯食べたばっかりじゃないですか!」
「デザートは食べてないからな」
「まぁいいですけど……ちょうどお茶を淹れようと思ってましたし」
吹雪は取り繕うことなく、ころころと表情を変える。怒ったかと思えばお菓子をひと口、きらきらと目を輝かせる。そんな目まぐるしい変化が、提督は見ていて飽きなかった。
「今日は雨だから遠征控えるか」
寝癖を帽子で撫で付け直し、提督が独りごちる。
ふと吹雪は窓の外を見る。ぱたぱたと雨粒がガラスを叩いていた。そんな静かな執務室に響く。
ドン! と遠くで砲撃音が聞こえた。
こんな天気なのに訓練をしているのか、と吹雪はあまり気に止めなかった。
瞬間、凄まじい衝撃に五感が吹き飛んだ。
壁に強く背中を打ち付け、息が止まる。
朦朧とする意識が、全身の激痛で強引に醒まされた。
何が起こったのかまるでわからない。
チカチカと明滅する視界で辺りを見渡す。壁は崩れ、屋根も一部落ちていた。
瓦礫、瓦礫、瓦礫。
執務室の面影など無い。
攻撃を受けた。ようやくここで認識する。
「司令官!!」
舞う砂煙を吸い、咳き込む。額をつぅと熱いものが伝う。
吹雪は考える。
恐らくは深海棲艦による鎮守府沿岸からの遠距離砲撃。つまり的当てのような、一方的な攻撃が繰り返される絶望的な状況。
ドン! 次いでの砲撃音。
全身から汗が噴き出す。
動かなければ、そう思った途端吹雪の目の前は真っ暗になった。
爆風は壁を突き破り、廊下に放り出される。
司令官に庇われた。彼女がそう気づくのに数秒かかった。
ひたひたと雨粒が顔を濡らす。屋根は無く、曇天の空が見下ろしていた。冷たい、痛い、感覚はまだあることに僅かながら安堵する。
外ではようやく迎撃が始まったのか砲撃の音が連続して聞こえている。
深く深くに潜りかけていた意識を何とか引き上げ、考える。
いつ容赦ない砲撃がまた襲ってくるかわからない状態で、ここに留まる事は愚策でしかない。
「司令……官?」
吹雪は自分を庇ってくれた提督を見る。
ずしりと体に寄り掛かる彼はピクリとも動かなかった。
「司令官?」
トントンと肩を叩いても反応が無い。その手が血で滑ることに気づく。
鼻をつく生臭い鉄の匂い。
そして吹雪は目の当たりにする。
「あ、あぁ……」
全身の震えが止まらなくなり、ガチガチと歯が鳴る。
心臓が鷲掴みされたようにぎりぎり痛む。
視界はぐわんぐわんと歪み、吐き気が込み上げる。
見間違いではないか? そう希望にすがり、ぎゅっと瞑った目を開くと、もう一度提督の方へ向ける。
見間違いではない。夢でも幻でもない残酷な現実。
ぐったりと俯せに横たわるその姿。
彼の両足は膝から下が無かった。
「……っ!!」
叫ぼうにも、喉から出たのは掠れた音だけ。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。じっとりとかいた汗と血で汚れた掌で二度頬を打つ。ここにいては危ない、しかし歩くことさえ出来ない提督を動かすことも難しい。……もしかしたら既に死んでいるのではないか?
吹雪は首を横に振る。
そして一つの答えに辿り着く。
吹雪はそっと提督の下から這い出し、彼の前に立つと両手を広げた。
それは小さな小さな盾。
恐怖は無かった。提督を失うことが何よりも恐ろしかった。
砲撃が一つ。
吹雪の手前に着弾したそれは床を吹き飛ばし、数十センチ四方の瓦礫が腹部を強く打つ。
痛みに涙と鼻水が溢れた。
砲撃が一つ。
残った壁に着弾。コンクリートの破片が腕を深く裂く。
必死に歯を食いしばって堪えた。
砲撃が一つ。
着弾、着弾、着弾。
熱風が舞い、石片が飛び交う中、吹雪は立ち続けた。
金剛と加賀は、深海棲艦を撃退すると一目散に執務室へ向かった。所々屋根が無く、廊下は濡れた瓦礫で走りにくい。何度も躓き、切り傷をつくる。スプリンクラーから滴る水は、それ自体のものか雨によるものか分からなかった。
「テートク!!」
先ず彼女等が見つけたのは廊下に横たわる提督であった。
「……っ!?」
そして彼の足を見て絶句する。
加賀はしゃがみこむとそっと息を確かめ、少し落ち着きを取り戻す。
「大丈夫、息はあるわ」
報告するが、金剛からの返事がない。
「聞いている…の?」
そうして見上げた金剛は、おおよそ正気では無かった。血の気が引き、唇は青白い。目を剥き、口を開けたまま何かをじっと見つめている。
「金剛さん?」
加賀は視線を追う。
そしてその凄惨な光景に、気が狂いかけた。
そこはかつての執務室。
今は一面瓦礫と土塊。所々で鼻をつく煙が燻っている。
場違い甚だしく、そこに少女がいる。
彼女は執務室であった場所に一人、血溜まりの上で仁王立ちしていた。
全身余すとこ無く血に濡れ、腕は途中からあらぬ方向へ曲がり、胸部は陥没していた。
金剛は膝から崩れ落ちる。まるで白昼夢でも見ているかのように、ぼぅとしていた。
「まだ、間に合うかもしれない」
加賀のそれは自分に無理矢理言い聞かせるように覇気無い声で、しかし冷静に。
「すぐに救急車を呼んで。吹雪さんは入渠ドックへ」
担架が到着すると、金剛はそっと吹雪を抱える。その体は冷たく、だらりと下がる手足はまるで人形のようであった。
吹雪は目を覚ました。酷く汗をかいており、下着がべっとりと張りついて気持ちが悪かった。見れば薄い毛布がかけられてある。
「あ、起きられましたか」
声をかけたのは明石。
「検査中に寝てしまうなんて、相当疲れていたんですね」
「……すみません」
「制服はそこのカゴに置いてありますから」
「はい」
寝覚めの悪さに思わず舌打ちが出る。
湿った下着が少し気になったが、構わず袖を通した。
「検査の結果はどうでしたか?」
「特に健康面での問題は無いですねー。吹雪さんの仰ってた通り、肌の白色化と外殻の形成は進行していますが」
それを健康というのか、と吹雪は一人嘆息する。
「深海棲艦化を、治療はおろか抑制する薬すらありません。ただ吹雪さんの場合、激しい戦闘を控えれば症状が進行しないようなので安静にしていただければ」
「深海棲艦になると、どうなるんでしょうね」
どうとは? と明石は首を傾げる。
「記憶、人格、意識。そういったものはどうなるんでしょうね」
「うーん、案外変わるのは外見だけだったり……」
「……」
「しないですね……ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ意地の悪い質問をしました」
ハハハと困ったように笑う明石。
ふと時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
「明日は合同作戦ですから、もう休みますね」
「はい、お疲れ様でした。あまり無理はしないように」
吹雪は明石に頭を下げ部屋を出ると、後ろ手に扉を閉め、またため息をつく。
未だ目の奥にべったりとこびりつく悪夢の残滓。忘れてはいけない、愚かしい自分の未熟さと油断。決して許されることの無い大罪。
提督と、彼を愛し敬する仲間への贖罪には、自身の身体を戦場で砕き、何より提督の恒久の平和をもたらすことだと吹雪は考えていた。
無論、その考えは彼女だけのものである。
誰一人として吹雪を責める者はいなかった。皆が皆、己の不甲斐なさに恥じ、罪を背負おうとした。
しかしあの事件の直後、弱った心は吹雪にすがった。
吹雪は悪くない。そう説得するものは一人去り、二人去り、やがて皆が諦めた。
まるで自分が罪を背負わなくていいような、そんな錯覚に陥ったからだ。
提督は一命を取り留め、長期の入院が決まってからは、秘書艦であった吹雪が指揮を執ることになった。
彼女がまず行ったのは艦娘の整理。
提督への忠誠が無いと評された者は移籍となった。そしてこれに反対するものはいなかった。
不満が全く無かった訳ではない。
それは恐らく同情。そして吹雪一人に罪を背負わせた自責。
「どうだ? かっこいいだろう!」
退院して開口一番、提督は自身の義足を見せびらかして自慢した。その顔には一点の曇りもない。
「車イスもちょっと良いやつを買ったんだ」
ニカッ、と笑って見せる。
彼が着任した時から側にいる吹雪は、それが強がりでないことはわかった。それでも、真っ直ぐ目を合わせることが出来なかった。
「吹雪、怪我は大丈夫か?」
「……」
「吹雪?」
「吹雪!」
「っ!?」
記憶と現実が重なり、我に帰る。
見ると提督がこちらに手を振っていた。
「こんな時間まで、遅いじゃないか」
「……検査があったので」
提督は吹雪の前まで進み、くるりと背を向ける。
「押してくれないか?」
突然のことに少し考え、表情を崩さぬよう首を縦に振る吹雪。
ゆっくりと車イスを動かす。
蛍光灯に照らされる廊下は肌寒く、空気が淀んでいた。
しばらくは二人共に黙っていたが、ふと提督が口を開く。
「なんだか吹雪と話すことが少なくなっちゃったな」
「そう、でしょうか」
「ああ」
会話が途切れる。
一年前までは、この無言が心地よかった。執務室に響くのはペンと紙の音だけ。お互いに気を使わずにいることができた。
それが今は耐え難く辛いものであった。
廊下がいつもより長く感じる。
「吹雪」
また提督が開口する。
「一年前のことまだ許してもらえないか?」
「へ?」
吹雪は思わず提督を押す手を止める。
「許すというのは……何をです?」
「だから、吹雪を大怪我させちゃって」
ぽかんと呆ける吹雪。とぼけているわけではなく、実際混乱していた。そしてようやく言葉を理解すると、
「怒ってるわけないじゃないですか!」
珍しく吹雪は振り立てた。
「でもあれから秘書艦を辞めちゃって、素っ気なくなったからてっきり」
「それは……」
口ごもる吹雪を見て、しかし提督は深く息を吐いた。それは胸のつかえがとれたかのように、
「良かった」
「良かったって……司令官は足を…」
爪が食い込むほど拳を握り締める。
吹雪は怖かった。受け入れなければならない自身の罪であっても、目に映すことが怖かった。しかし、
「そんなの些細な事さ」
くるりと提督は吹雪に向き直り、
「足を失っても、大切な女の子を守れたのだから嬉しいに決まってるだろ」
それは彼の本心で、全くの曇り無い言葉だった。
あっけらかんとした態度。どこまでも純粋で透き通った瞳。
そして。
「……ぷっ、くくく」
だからこそ、吹雪は笑いを堪えられなかった。
侮蔑や嘲りではなく、単純におかしかったのだ。
そうだった、司令官はこういう人だったのだと。
呆れ、安心、懐古、色んなものがごちゃ混ぜになって笑ってしまった。
彼がいつも艦娘の事を第一に考える。艦娘の為に怒り、艦娘の為に悲しみ、艦娘の為に喜び笑う。そんな彼だからこそ皆恭順し、尊敬し、命散る戦場で身を預けることができる。
「な、なんで笑うんだ?」
「ご、ごめんなさい……ふふっ」
涙が出るほどに笑い、目尻を拭う。
「吹雪にこの話をするの結構緊張したんだぞ?」
はぁ、とため息一つ。
ひとしきり笑い終えた吹雪は息を整えると、暫く振りにしっかりと提督の目を見据える。
この僅かな時間で、彼女の覚悟は決まっていた。今しかないと、今でなければいけないと感じていた。
「私は司令官の事を守れませんでした」
それは懺悔。
「すぐ側に居ながら、守れませんでした」
ぎゅぅ、と拳を握り締める。
「だから謝らせてください」
深く、深く頭を下げる。
長く、長く頭を下げる。
それが吹雪の溜め込んだ思い。
ずっと提督と目を合わせることすら怖かった吹雪は、今や不思議と清々しい気分であった。
「頭を上げて、吹雪」
「はい」
「では一つ、お願いを聞いてもらおう」
「お願い、ですか?」
首を傾げる。
「明日は出撃だから……明後日から、秘書艦業務をこなしてもらおう」
またぽかんと口を開ける吹雪。
「でも、私にその資格は……」
「お願い、だよ?」
「……はい」
しぶしぶ受け入れる吹雪は、しかし少し照れているようで後ろ髪をかいた。
少し途切れる会話。その時間はふわふわと奇妙な感覚。
「じゃあ今日はもう休もう。寝室まで送ってくれるかな?」
「わかりましたよ、司令官」
再び提督を押し、歩き出す。
取り戻した久し振りの二人の空間は、少し気恥ずかしかった。
一年間止まっていた時間が突然動きだし、気持ちがついていかない。車イスを持つ手も、緊張からかしっとりと汗ばんでいた。
吹雪は自分より低い位置にある提督の頭を見つめる。
「……でも、私のやることは変わりません」
司令官を守る。
彼女の独り言は誰にも聴こえず。