大勢のスタッフがそれぞれ作業する中、リツコは自分の後輩へ視線を向けた。その相手であるマヤは素早いタイピングで次々と処理を進めていく。
「さすがね、マヤ」
「先輩直伝ですから」
言いながらも視線は画面から離さない。と、そこでリツコの目が光る。
「ちょっと待って。そこ、A-8の方が早いわ」
「えっ?」
「先輩にも活躍の場を頂戴?」
「ふふっ、お願いします」
マヤから代わってタイピングを始めるリツコ。その速度はマヤよりも上だった。そんな姿にマヤは苦笑いを浮かべながら呟く。
「まだ先輩には追いつけないなぁ……」
「何言ってるの。私が貴女と同じ頃はこうじゃなかったわ。まだ貴方にも……」
そこでタイピングの手が止まると同時にリツコは振り返って微笑んだ。
「そして私も成長の余地はある。人間死ぬまで勉強よ?」
「……はい」
〆にウインクまでしたリツコのお茶目さにマヤは少しだけ嬉しそうに笑みを返す。そんな風に先輩後輩コンビが和んでいるところへ現れる者がいた。
「お疲れ様。どう? MAGIの診察は」
「順調よ。もう大体は終わったわ。約束通り、今日のテストには間に合わせたから」
「マジ? さすがリツコ達だわ。本当にありがとう。そしてお疲れ様」
「労うならコーヒーのお代わりぐらい持ってきて欲しかったわ。それ、冷めてるわよ」
さり気無くカップへ手を伸ばすミサトへ呆れながら指摘するリツコ。マヤはそんな二人にクスクスと笑う。そしてそのマヤの反応に今度はミサトとリツコが苦笑い。
「でも、同じものが三つもあるってどういう事なの? あたし、いまいち知らないのよねぇ」
「不勉強ね」
「ぐっ!」
「くすっ、教えてもいいけどミサトの」
「すみません赤木博士、こちらを見ていただいても?」
「今行くわ。ごめんなさい、また後で」
「ええ」
一瞬にして仕事モードの顔になったリツコを見て、ミサトも凛々しく頷いた。そんな事もあった後、ようやくリツコ達の仕事も終わりを迎える。リツコの手には温かいコーヒーが入ったカップが握られていた。再び顔を出したミサトが用意したものである。
「MAGIシステム、再起動後、自己診断モードに入りました」
オペレーターの一人がそう告げる。それにマヤも頷いてリツコへ視線を向ける。
「第127次定期検診異常なし」
「了解。みんなお疲れ様。テスト開始まで休んで頂戴。ミサト三佐が手ずからコーヒーを御馳走してくれるわ」
「ちょ、ちょっと! さすがにこれだけの人数分は多いわよぉ!」
「食堂でカップコーヒーを買えば早いですよ?」
「ごちそう様です、葛城三佐」
「あっ、自分はミルクを入れて欲しいです」
「えっ!? ちょ、ちょっとあんた達、本気で言ってる?」
「私達の冗談よ。本気にしないで」
リツコがそう言ってコーヒーを啜ったのを合図にミサト以外が笑い出す。その笑い声を聞いてミサトは少しだけ恥ずかしそうに頬を掻くのであった。
そうやってミサト達と別れた後、リツコはぼんやりと宙を見上げて呟いた。
―――異常なし、か。私は変わっていっても、母さんはもう何も変われないのよね……。
その声には悲しみが色濃く宿っていた。変化しない事の空しさと悲しさが、リツコの中で変化する事の切なさと辛さを上回ったのだ。それはレイの変化を見てきたから。それに付随してシンジやアスカ、更にはミサトの変化もその身で目の当たりにしてきたからこその心境だった……。
『また脱ぐのぉ!?』
アスカの声が通信越しにリツコ達の耳へ響き渡る。その声に恥じらいが多分に込められている事に気付き、リツコとミサトは苦笑する。だが、これは仕方ない事なのだ。何せ今回やってもらう事は裸でのハーモニクステスト。エントリープラグ内へ入る以上、何かあってからでは不味いのだ。
「申し訳ないけどお願いするわ。ここから先は超クリーンルームなの。体を綺麗にして新品の下着に変えても通せないのよ」
『う~っ、今回の目的はオートパイロットの実験なんでしょ? どうしてそれでここまでしなきゃいけないのよぉ!』
『説明を要求します』
『あ、綾波まで……』
『よく言ったわレイ。そうよ。我々は説明をよ~きゅ~する!』
「ですって?」
苦笑いのままでミサトはリツコへ視線を向ける。リツコは少しだけ呆れつつ、微かに笑みを浮かべて三人へ告げた。
「エヴァのテクノロジーは進歩しているの。だから新しいデータは常に必要になる。そのためのやむを得ない処置と思って頂戴」
「ごめんねみんな。これも仕事だと思って割り切ってくれると助かるわ」
『『『……了解』』』
返ってきた声は不承不承というのがしっかり伝わるものだった。それに小さく息を吐くミサトとリツコではあったが、どこかで喜んでもいた。言われるままではなく、ちゃんと自分の意見を言えるようにレイがなった事。ただ反発するだけでなくこちらの意図を理解しようとするアスカ。何よりもそんな二人が仲良く意見を合わせている事。それをとても嬉しく思っていたのだから。
「ね、半年前のアスカに今のアスカの事教えたら信じると思う?」
「同じ事をこっちはレイで聞いてあげるわ」
「じゃ、せーので言いますか」
「そうね。きっと同じ答えだわ」
「せーのっ」
「「絶対信じない」」
一瞬の静寂、そして起きる二つの笑い声。ミサトもリツコも笑いながらこう思っていた。大学時代でもここまで彼女と笑った事があっただろうかと。あの頃は二人も成人したばかりのひよこもいいところだった。それが十年近く経過し、やっとそれなりに大人になれたのだと思う。そう二人は考え、その理由もおぼろげにだが共通していた。
((シンジ君達ね……))
年頃の少年少女。それらと触れ合う事で、自分達もかつての自分とどこかで向き合ったのではないだろうか。そう結論付けて二人は小さく笑う。と、それに互いが気付いた。
「何笑ったのよ?」
「そういうミサトこそ」
またそこで刹那の静寂の後、笑い声が起きる。その楽しげな笑い声は周囲のオペレーター達の咳払いが起きるまで続いた。余談だが、その際に二人は悪戯が見つかった子供のように縮こまった事を追記しておく。
「各パイロット、エントリー準備完了」
「テストスタート」
リツコの掛け声で一斉にオペレーター達が作業を開始する。
「テストスタートします。オートパイロット、記憶開始」
「モニタ異常なし」
「シミュレーションプラグ挿入」
「システムを模擬体と接続します」
「シミュレーションプラグ、MAGIの制御下に入りました」
その流れを聞いてミサトが感心するように息を吐いた。それもそのはず。このテストを初めて行った際は一週間も時間を要したのだ。それに比べればこの段階だけでも高速化が分かると言うもの。なのでミサトは小さくない驚きを浮かべたままリツコへ視線を向けた。
「これがMAGIの実力って事? 早いなんてもんじゃないわね」
「テストは約三時間程で終わる予定よ」
「は~……本当に凄いわね、MAGIもリツコ達も」
「ありがとう。次はカフェオレでももらおうかしら?」
「止めてよ。リツコ達の冗談は冗談って分かり辛いんだからぁ」
その言葉にその場の全員が小さく笑った。その後、テストそのものは順調に進んでいた。誰もがこのまま何事もなく終わると、そう思っていた。シンジ達は違和感を覚えたものの、それも貴重なデータとしてリツコ達は記録していく。
「問題ないようね。MAGIを通常に戻して」
指示を出した後、リツコは不意に心の声を吐露してしまった。
「ジレンマか。作った人間の性格が窺えるわ」
「何? リツコが作ったんじゃないの?」
「そういえば話が途中だったわね。私はシステムアップしただけ。基礎理論と本体を作ったのは赤木ナオコ。母さんよ」
そのどこか感情が抜け落ちたような説明にミサトは言葉を咄嗟に出せなかった。複雑な心境が母親にあるのだと、そう感じ取っただけではない。それはまるで、自分が父に対して抱いているような感情にも近いものを感じたからだ。言葉を失うミサトへリツコは小さく苦笑し、簡潔に話すのだ。MAGIの正体を。自分の母が作り上げた、もう一人の赤木ナオコと言うべきコンピューターの話を……。
その頃、別の場所では冬月がシゲルやマコトと共にある報告を基に確認作業を行っていた。
「これか。報告のあったものは」
「ええ、三日前に搬入されたパーツです。変質部分がここになります」
モニタに表示される映像には、たしかに一部分だけ周囲と異なる色の部分が映し出されていた。
「第87蛋白壁か」
「拡大すると染みのようなものがあります」
「浸蝕か? 温度と伝導率が変化していますね」
「おかしいな。手抜きになるようなスケジュールじゃないと思うんだが……」
ここにもF型の使徒戦による影響があった。本来であれば被害も大きく、いつもどこか張り詰めた雰囲気のネルフ本部になるはずが、苦戦らしい苦戦をほとんどしていない事とF型の驚異的な戦闘力もあって精神的疲弊も軽減されていたのだ。
「使徒が現れてからの工事とはいえ、妙ですね」
「詳しく調べてみますか?」
「……念には念をと言うしな。以前の停電に合わせたかのように使徒が出た事もある。疑わしきは徹底的に調べておけ。碇には私から言っておく」
「「了解」」
結果的にこの判断は間違ってはいなかったのだが、その方法は間違ってしまった。だが、誰も彼らを責める事など出来ないだろう。まさか思うまい。使徒がこんな形で攻めてくるなどと思いもしないのだから。さて、そうとは知らずシゲルとマコトは謎の染みを分析しようとしたのだが……。
「ん?」
「どうした?」
「いや、こんなバカな……」
「何一人で呟いてんだ?」
マコトの様子がおかしくなったのを見てシゲルがどうしたのかと席を立った瞬間だった。
「使徒だっ! パターン青なんだよっ!」
「何だってっ!?」
その言葉にシゲルはマコトのコンソールへ目をやった。そこには間違いなく謎の染みが使徒であると表示されている。それを確認しシゲルはマコトと見合った。
「どうする!? 警報を出すか!?」
「いや、騒ぎ過ぎて使徒に気付かれたら不味い! とにかく司令や副司令に連絡だ!」
「っ!? しかしっ!」
「落ち着こうっ! ……今回の相手はあのサイズだ。あの初号機じゃ戦いようがないだろ」
「…………俺は司令達へ報告する。そっちは葛城三佐達へ頼む」
そのシゲルの言葉に頷こうとして、マコトはある重大な事に気付いて顔色を変えた。そしてそのまま慌ててどこかへ連絡を入れる。
「どうした? また何か」
「不味いんだ! あの下は今何をやってる!?」
「何って……っ!? まさかっ!」
「狙いはエヴァパイロット達かもしれないっ! シンジ君達が危ないっ!」
そう、その使徒が発見された場所の真下がリツコ達の実験している場所なのだ。マコトがマヤへ連絡を入れている間、シゲルは使徒の様子を監視する事にして自分の席へ戻った。すると、既に動きがあったのだ。
「不味いっ! 使徒が動き始めてる!」
「何だってっ?!」
「シグマユニットAフロアに汚染警報! 第87蛋白壁劣化! 発熱してるっ! 第6パイプにも異常発生っ! 不味いぞ!」
「こうなったら本部内へ使徒出現を知らせるっ! まさかこんな形でなんて……っ!」
シゲルとマコトのこの動きにより、リツコ達もそれが使徒の仕業と早々に理解出来たおかげもあり、真っ先にシンジ達の安全確保が行われた。そして発令所へゲンドウと冬月が現れるのも早かった。二人と話していた事で警報の原因があの染みだと分かったからである。
「使徒と言うのは間違いないのか!」
その冬月の声にシゲルが振り向く事なく答えた。
「はい、現在使徒はエヴァパイロット達がテストを行っていた場所へ侵攻し、そこから更に浸蝕を進めています」
「……パイロット達はどうなっている?」
「既に安全確保のためにプラグを緊急射出しました。赤木博士の判断です」
「よし、シグマユニット隔離。セントラルドグマを閉鎖しろ。急げ」
「はっ!」
ゲンドウの指示に応えるべく指を動かすシゲル達。冬月はゲンドウの隣に立ちながら聞こえないように息を吐いた。
「まさか使徒の侵入を許すとはな」
「奴らも必死なのだ。あの初号機と戦わず勝つためにな」
「……パイロットならば勝てる、か」
「あるいはエヴァを回避して目的を果たすつもりかもしれん」
「本当に人間のような考え方だ。厄介極まりない」
噛み締めるような冬月の声にゲンドウは何も言わず、ただ状況を見守っているように見えた。だが、その目はモニタを睨むように捉えている。やがてゲンドウの耳にシグマユニットからの退避が完了した事が報告された。
「よし、警報を止めろ。政府と委員会には万一を想定した訓練だったと伝えるんだ」
「りょ、了解しました。しかし、それでよろしいのですか?」
「問題ない。結果さえ出せれば、だがな」
そのゲンドウの言葉にシゲルは思わず息を呑む。つまり、ゲンドウは使徒を撃破出来なければ責任を取る必要がなく、撃破すればそもそも何の問題もないと言い張れると告げていたのだ。その見た目通りの豪胆さにシゲルは圧倒されながら作業へと戻る。しかし、冬月は分かっていた。今のは豪胆さではないと。それらしい事を言って逃げているだけだと分かっていたのだ。
(息子が成長しているというのに、お前は変わらんのだな碇)
逃げずに現実を見つめ歩いているシンジ。逆に、現実から目を背け過去を追い求めているゲンドウ。親子の道はまだ重なるどころか交わる事さえなかった。
「汚染地区、更に下降! プリブノーボックスからシグマユニット全域へと広がっていますっ!」
「不味いな」
「ああ、アダムに近すぎる」
ここで初めてゲンドウにも焦りの色が浮かんだ。それでもそれを声に乗せないよう、彼は努めて冷静な声を発した。
「汚染はシグマユニットまでで抑えろ。ジオフロントは犠牲にしても構わん。エヴァはどうなっている?」
「第7ケージにて待機しています」
「今すぐ地上へ射出しろ。初号機を優先だ。万一あの初号機を使徒が手にしたらどうする」
「っ! 了解。射出します」
ゲンドウの言葉の裏にある、初号機さえ無事ならば最悪使徒を倒せる可能性が残る事に気付き、マコトは返事と共に操作を開始。その間にも使徒は浸蝕を進め、遂に大深度施設と呼ばれる場所を全て占拠するに至っていた……。
「見ての通り、重水の境目、酸素の多いところは浸蝕されていません」
小康状態になったのを見て、今大人達は侵入した使徒へどう対処するかを話し合っていた。エヴァによる解決は最後の手段とも言える状況であり、そもそもどう倒すのかも難しいと言える。その際は、F型のマステマでのN2ミサイルが使用される事になるだろうと誰もが思ってはいたが。
「好みがはっきりしてますね」
「無菌状態維持のためにオゾンを噴出しているところは汚染されていないな」
「あの使徒、酸素に弱いの?」
「らしいわ。そもそも酸素という名の通り、本来は酸性の毒素よ? 弱いのは妥当だわ」
「では、オゾンを注入すれば……」
「倒せないまでも弱らせるぐらいは出来る?」
微かに希望が見えた空気がその場に流れる。が、そこで待ったをかける者がいた。リツコである。
「短絡的すぎるわ。あの使徒は蛋白壁から侵入してきた。そこからの浸蝕速度を考えると、恐ろしい程の成長力を有している。それに、本当に酸素に弱いのかも引っかかるの」
「どうしてよ?」
「ミサト、そもそも大気中に酸素がどれだけ含まれていると思っているの? 高濃度でなければ効果がないようだけど、逆に言えばそこまでは平気なのよ。高濃度のオゾンは人間にだって有害なの。だから殺菌処理に使うんだから」
そのリツコのもっともな意見にミサトだけでなく他の者達も黙った。それを見てリツコは冷静に告げた。
「迂闊な事をして事態を悪化させる可能性もあります。それでも良ければやってみるべきかと」
「……では、他にどのような手があるのかね?」
そのゲンドウの発言にリツコは小さくため息を吐いた。そうくると予想していたのだろう。もっとも、それは呆れるというよりやれやれという疲労の色が強かったが。
「使徒の目的がエヴァパイロット及び機体の汚染と仮定すれば、既に使徒はその目的を果たせません。なら、次の目的を判明させ阻止するか、あるいはそれを逆手に取るべきかと」
「次の目的?」
「あら、お忘れですか司令。最終的に使徒はセントラルドグマへ侵入しようとするはずです。そのために邪魔なものを排除すると考えれば、今もっとも邪魔なのは何かお分かりのはず」
「…………ここか」
その言葉にリツコは頷いた。本部を排除する。だが、その手段を取るにはあの使徒は小さすぎる。そう誰もが思った。だが、そんな時事態が動いた。
「っ!? 何?!」
「サブコンピューターがハッキングを受けています! 侵入者不明っ!」
「こんな時にっ!? くっ! Cモードで対応っ!」
「防壁を解凍します! 擬似エントリー展開っ!」
一気に慌ただしくなる発令所。その様子を見てリツコは息を呑んだ。それを行っているのが使徒だと仮定すれば、その狙いがおぼろげながら見えたのだ。それは彼女が一番この本部の中枢を知っているからこその発想。そして、微生物のようなごく小さなサイズの使徒だからこそ実行可能な本部の排除方法だった。
(まさか使徒の狙いは……)
有り得ないと思いたいリツコの耳に、次々とオペレーター達の悲鳴のような報告が聞こえてくる。人間業とは思えない速度でのハッキングは、逆探知の結果やはり使徒が行っているものと判明。そのまま使徒によるハッキングは続き、遂にリツコが恐れていた事態へ突入する。そして確信したのだ。使徒の狙いが何かを。
「使徒、MAGIへ侵入っ! MELCHIORへ接触しましたっ! 使徒に乗っ取られます!」
『人工知能MELCHIORより自律自爆が提訴されました。否決、否決、否決、否決』
「やはりそうなのね……っ!」
アナウンスにリツコは歯噛みする。このままでは不味いと分かっているのだ。侵攻を止めようにもその速度は人間の手に負えるものではないとも分かっている。と、そこでリツコはある可能性に賭けた。
「っ! ロジックモードを変更! シンクロコードを15秒単位にしてっ!」
「「「了解っ」」」
そのリツコの指示に即座に呼応するオペレーター達。そしてリツコはそのままの勢いと凛々しさでゲンドウへ告げた。
「私に考えがありますっ! 自律自爆を阻止する方法が!」
その発言にその場の全員が沈黙した。それだけの衝撃と説得力がリツコの声にあったのだ。彼女は、自分の言葉こそが唯一絶対であるとばかりに言い切ったのだから。
「聞こう」
「使徒はMAGIを制圧し自律自爆を決議するつもりです。幸いこちらの処置で使徒の侵攻速度は落とせましたが、それもいつまで持つか分かりません」
「ではどうする?」
「使徒の動きを思い出して頂きたいのです。最初は物理的に本部の制圧を目論んだと考えられます。あるいはエヴァやそのパイロットの排除。ですがそれを阻止された後、使徒は物理的な制圧を諦めながら本部の排除を推し進めました。おそらくですが、制圧した場所から情報や知識を得てそれを基に進化したのだと考えられます」
その説明に誰もが息を呑んだ。もし仮にそうだとすれば、その進化は恐ろしい速度となるからだ。とてもではないが人間など太刀打ちできない程の速度である。そんな存在を相手にどう勝つのか。それを誰もがリツコの口から聞けるのを待った。
「おそらく、使徒の本体とも言うべき中核はMAGIへ侵入したものと見て間違いないわ。だから」
「MAGIを物理的に排除出来れば片がつく?」
「そうでしょうけどダメよ。MAGIを切り捨てる事は本部の破棄と同義。それに、もし今の仮定が間違っていたらどうするの?」
「それ、ブーメランよリツコ」
「違うわ。私は例えMAGIに侵入したのが中核でなくても何とか出来る方法を取るつもり。相手がトカゲなら厳しいけれど、おそらく末端としてもタコの足みたいなものだと思うわ」
リツコの表現にミサトは理解が追いつかない。ただ、マヤは即座に理解出来たようで感心するように表情を輝かせた。
「そうかっ! 切り捨てて逃げる事は出来ないようにする。ハッキングにはハッキングを、ですね!」
「ええ。厳密には相手の凄まじい進化速度を逆手にとって、こちらからそれを促してやるつもりよ」
「進化の終点は死。自滅させる訳か」
「はい。使徒が死を回避するとすれば、MAGIとの共生を図るしかありません。まぁ、こちらの想像もつかない方法で乗り越える可能性も否定しませんが……」
どこか不安そうに述べるリツコの最後にミサトが露骨に嫌そうな顔をした。
「ちょっとちょっと……最後の最後にそんな弱気な事言わないでよね」
「仕方ないじゃない。これがゼロじゃない事の恐ろしさよ。良くも悪くも可能性がある。絶対なんて中々ないのよ? 1+1だって2にならない事があるんだから」
「は? 何言って」
「ミサト、粘土を二つ足したらどうなる?」
「どうって……大きな粘土に……」
「そう。考え方次第で絶対は崩せるの。だから、今回も良い方に考えて。MAGIを失わず使徒を倒せる可能性がある。それだけでいいわ」
そう告げるリツコは軽く微笑みをミサトへ向けると、ゲンドウ達へ凛々しい表情を向けた。
「使徒がコンピューターそのものなら、CASPERを使徒に直結、逆ハックを仕掛けて、自滅促進プログラムを送り込むことができます。ですが」
「同時に使徒に対しても防壁を開放することにもなります」
リツコの言葉を繋ぐようにマヤがそう告げた。それは自分にも手伝わせて欲しいというマヤなりのアピールだった。当然リツコがそれを拒む理由はない。むしろ彼女の方から頼もうと思っていたぐらいだったのだから。
「……こちらが先か、あちらが先か勝負、か」
「はい」
「そのプログラム、間に合うの?」
「間に合わせてみせるわ。だから……」
不安げなミサトへリツコは安心させるように答え、最後にこう締め括った。
―――カフェオレでも用意しておいて。
リツコはマヤと共にMAGIの内部へと入り込んでいた。そこには二人の予想外の光景が広がっていた。
「何ですか、これ? 付箋?」
「開発者の悪戯書きね」
そう返すリツコの声には微かな苦笑が混じっている。彼女も知らなかったのだ。母にそんな一面があるなどと。マヤはそんなリツコの反応に小首を傾げつつ、張り付いている付箋を一枚手に取る。
「凄い……裏コードですよ先輩! MAGIの裏コードっ!」
「裏ワザ大特集ね。なら、これを今後も活用できるようにしないと」
「いいのかなぁ。こんなもの見ちゃって……えっ!? これ、intのCだぁ!」
「はしゃぐ気持ちは分かるけど、少し落ち着きなさい」
「す、すみません。でも、これなら早く出来ますね先輩っ!」
「ええ、そうね。……ありがとう母さん。絶対守ってみせるから」
マヤに聞こえない程の声量で告げられる娘から母への誓い。もう二度と言葉を交わせないからこそ、敢えて言葉にする。こうしてリツコの戦いが始まろうとしていた。一方その頃、シンジ達はと言うと……。
「でも、いつまでこうしてればいいのかな?」
『さぁ? 忘れられてはないと思いたいけどね』
『きっとまだ安全が確保出来ていないんだわ』
プラグ内で裸のまま暇を持て余していた。彼らは使徒が侵入した事は知らない。ただ、緊急事態発生のために現在のような状況になった事だけは分かっているので、何かトラブルが起きたのだろうと思っている。幸か不幸かあのアナウンスが聞こえなかったのだ。それだけ彼らも会話に集中していたと言える。
「それにしても、何が起きたんだろ?」
『またリツコが何かやらかしたんじゃない?』
以前の停電騒ぎの切っ掛けをどこからか聞き出していたアスカがそう言った。その発言にシンジは苦笑いを浮かべる。あのリツコにもそういう一面があるのかと、そう思ったからだ。
『私は葛城三佐が変な場所を触ったを推薦する』
『あら、いい線いってるかも。その可能性も大ね』
「綾波もアスカも結構言うよね……」
特に綾波は。そう心の中で付け足すシンジ。実際、アスカと共同生活を始めて、レイはよりその口数と表情を増やしている。感情を強く表すアスカの影響だろうと思うのだが、そこにはもう一つ理由が存在していた。アスカの感情の発露はシンジを困らせる事もあるが、同じぐらいかそれ以上に喜ばせているとレイは読んでいたのだ。シンジは感情をはっきり出す方が嬉しい。そう判断したレイは、出来る限り自分なりに感情を出すように心がけるようになっていた。
『シンジ、あんたは何が原因だと思う?』
そこで振られた質問にシンジは少しだけ考え、一番有り得ないだろう可能性を挙げる事にした。
―――使徒がここに潜入してたとか?
その発言にアスカとレイは共に笑った。それならばとっくに自分達を回収しに来ているとアスカが返せば、発想力としては意外性に富んでいるとレイも続く。二人の少女がクスクスと笑うのを聞いて恥ずかしくなるシンジだが、彼としては二人に笑って欲しいと思っているのでそれで良かった。三人は知らない。そのシンジの言った事が事実であると。こうして三人はそのまま周囲の音が聞こえない程夢中になって他愛ない話を続ける。
そうやって子供達が楽しげに笑うその裏で、大人達は必死になって戦っていた。それは、普段と逆の構図。命懸けで最前線に立つ事をやっと大人達が代わってやれた戦いであった。
「レンチ取って」
「はい。何かこうしてると大学の頃を思い出すわね」
「25番のボード」
「無視か。これね?」
差し出されたものを受け取りながら、リツコは小さくため息。ミサトなりのリラックス法なのだろうが、どこか不器用にも思えたからだ。彼女の言葉を借りるなら、まさしく大学時代を思い出すだろう。リツコはそんな事を思いながらミサトに付き合う事にした。
「さっきの話、覚えてる?」
「MAGIがリツコのお母さんみたいなものってやつ?」
「ええ」
そこでミサトは気付いた。それを自分がどうしようと考えたかを。
「ごめん。あたし、あまりにも無神経だったわ」
「いいのよ。貴女の結論は作戦部長として当然だわ。でも、あの時も言ったけどMAGIを失う事は本部の破棄と同義なの。それだけは覚えておいて」
「……だから守りたいの?」
その問いかけにリツコの手が一瞬だけ止まる。だがすぐに動き始め作業を続けた。
「どうなのかしら。科学者としてはそうだと思う。でも、私個人としては……何とも言えないわ」
「そ。でも、あたしは何となく分かるわ」
「何が?」
理解出来ないとばかりに返すリツコへ、ミサトは優しい笑みを浮かべながらこう返した。
―――それは自分で分からないとダメよ。あたしも、そうだったもの。
ミサトの声はとても優しく母のような温かみを宿していた。リツコは初めて聞くその声に軽く驚きながら、自分の中で問いかける。
(ミサトは私の母さんへの気持ちが分かるというの? 私自身もどこか掴めないものを……)
と、そこへマコトが息を呑むような声を発した。
「BALTHASARが乗っ取られましたっ!」
『人工知能により自律自爆が決議されました』
その瞬間張り詰めた空気が走る。ミサトはそれでも慌てずリツコの方を見た。彼女は動じる事なく作業を続けている。それが無言の安心感となってミサトの気持ちを後押しした。
「落ち着いて。まだ時間はあるわ。そうでしょリツコ」
「ええ」
『自爆装置は、三者一致の後、20秒で行われます。自爆範囲は、ジオイド深度マイナス280、マイナス140、ゼロフロアーです』
淡々と告げられる内容に周囲は気が気ではない。それでも大人達は必死に使徒へ抗い続ける。迫り来る死の恐怖と戦いながら。そう、どこかで誰もが思っていたのだ。こういう思いをシンジ達はしながら戦っていたのだと。子供達が乗り越えてきたものから、大人である自分達が逃げ出す訳にはいかない。その覚悟と決意がその戦意を支えていた。例え、それが勝ち目のない戦いであったとしても、と。
『特例582発動下のため、人工知能以外によるキャンセルはできません』
「BALTHASAR、CASPERに侵入っ!」
「押されているぞっ!」
「くそっ、速過ぎる!」
狼狽えないようにしつつ、どうしても焦りと不安が滲み出る大人達。けれど、その目に絶望はない。最期の時まで希望を捨てないと腹に決めたのだろう。そんな大人達へ告げられる無情なアナウンス。
『自爆装置作動まで、後、20秒』
「いかんっ!」
「CASPER、18秒後に乗っ取られますっ!」
「まだよ! まだ諦めないでっ! あの子達はこれまで諦めなかったっ!」
誰もがどこかに諦めを抱いた時、ミサトの一喝が響く。その言葉に全員が息を呑む。最も痛烈で効果的な激励だった。自爆まで残り15秒を告げる音声を搔き消すように告げられた言葉が、息絶えそうな希望を僅かに甦らせる。
「あたし達も最後まで諦めない。そうでしょ、リツコ」
『自爆装置作動まで、後、10秒』
「ええ、諦めるには早すぎるわ。1秒以上も余裕があるもの」
「……それって余裕な訳?」
「ゼロやマイナスじゃないのよ? 十分だわ」
そのさらりとした言い方に周囲が思わず沈黙する。カウントダウンがされる中、リツコのタイピング音だけ響く。いや、もう一つ聞こえる音がある。その音を出している相手へ、リツコは最後の仕上げを託す。
「マヤ?」
「行けますっ!」
『4秒、3秒』
「押して」
『2秒、1秒、0秒』
マヤの指が動く。その瞬間、リツコが祈るように呟いた。
―――母さん……。
思わず目を閉じる冬月達。その中で女性達だけが目を開けていた。一瞬とも永遠とも言える静寂が流れ、そしてその時は訪れる。
『人工知能により、自律自爆が解除されました』
「「いやぁったぁぁぁっ!!」」
『なお、特例582も解除されました。MAGIシステム、通常モードに戻ります』
「やれやれ、この歳には堪えるな……」
「そんな事言うと余計歳を取ってしまいますよ、副司令」
「……かもしれん」
マヤの苦笑混じりの言葉に冬月も似たような声を返した。緊張からの解放で誰もが生の喜びと緩和から明るくなる中、リツコはミサトから愛用のカップを渡されていた。
「もう歳ね。徹夜が堪えるわ」
「お疲れ様。ミルク多めにいれといたわ」
「ありがとう。冗談だったのだけどね」
「約束を果たしてくれたもの。これぐらいさせて」
「……出来れば砂糖も欲しかったわ。思った以上に疲れてるみたい」
「あっ、ごめん」
「それと冷たい」
「ぐっ! 言うじゃない」
リツコの容赦のない指摘に軽くこめかみをひくつかせながら、ミサトはそれでも笑顔を崩さなかった。そんな彼女にリツコは小さく笑い、もう一度カップへ口をつけた。すっかり冷えたカフェオレは、不思議と最初よりも甘く感じて彼女は微笑む。
「ミサト、私も分かったかもしれないわ」
「……何が?」
「死ぬ前の晩、母さんはこう言ったの。MAGIは三人の自分だって。科学者としての自分、母としての自分、そして女としての自分。その三人がせめぎ合っているのがMAGI」
「三人の自分……」
「人の持つジレンマをわざと残したのよ。実はプログラムが微妙に変えてあるの」
その言葉にミサトはやっと分かった。あの時、リツコが言ったジレンマとはその事だったのかと。リツコもミサトの反応でそれを察したのだろう。どこか噛み締めるようにこう告げた。
「私は母になれないと、そう思っていた。でも、レイとの触れ合いが僅かだけれどそれを体験させてくれたわ。そう考えると、母さんも苦労したと思う。それでも私の方が苦労してると思うけど」
「ま、レイだものね」
「科学者としては尊敬しているわ」
「それも当然か」
「女としては憎んでいた」
「あら怖い。で、いたなの?」
その問いかけにリツコは頷いた。やっと分かったのだ。今の自分が抱いている個人としての母への気持ちが。
「CASPERには、女としてのパターンがインプットされていたの。最後まで女でいることを守ったのね。ほんと、母さんらしいわ。そして、だからこそ私も信じられたの。だって、母になるにも科学者になるにも、まずは女が根底にあるのだから」
そうミサトへ告げ、リツコはカップの中身を見つめた。カフェオレの色は黒でもなければ白でもない。コーヒーとミルクが混ざり合って出来ている。それは人間にも当てはまると思って呟く。
―――科学者でもあり母でもある。混ざり合ったのが人としての赤木ナオコかしら……。
と、そこへ差し出されるスティックシュガーとコーヒーポット。リツコがその差し出した相手へ目を向ける。そこにはマヤがいた。
「先輩、どうぞ。これで溶かせると思います」
「……そうね、今日は甘い方がありがたいわ」
「葛城三佐もよろしければ」
「悪いわね。ありがとう」
中身の減ったカップへ注がれる熱々のコーヒー。そこへスティックシュガーを流し込み、軽くかき混ぜる。それを見てミサトが茶化すように言った。
―――コーヒーにミルクに砂糖。リツコのMAGIの完成ね。
―――……そう、ね。私のMAGIは当分それでいいわ。
コーヒーは科学者。ミルクは母。なら砂糖は? リツコはそう考えながらカップへ口をつけた。その味は、やはり少し甘味が足りなかった。
―――マヤ、悪いけどもう一本砂糖をもらえる?
その声に返事を返し、スティックシュガーを取りに行くマヤを見送りリツコはため息を吐く。砂糖は女。なら、やはり自分も女を捨てられないのか。そう思ってリツコは普通のカフェオレとなった中身を見つめる。
「憎しみは薄れても、好きになるには遠そうね」
まだ私はコーヒーでいい。そう思うリツコであった。
新戦記エヴァンゲリオン 第十三話「使徒、侵入」完