―――ばあさんは用済み。所長が言ってるのよ。
それが一人目の綾波レイが自分の生涯を閉じる切っ掛けになった言葉だった。レイはそこへ至るまでの流れも大まかにアスカへ話した。赤木ナオコへの暴言。それがゲンドウと後ろめたい関係にあった彼女へ殺意を抱かせる原因になった事も。全て聞いてアスカはただ一言呟いた。
「……どういう事?」
理解が追いつかない。それがアスカの正直な感想だった。レイが話した内容はどう考えてもそう返すしかないものだったからだ。今、彼女達は更衣室にいた。そこを使うのはパイロットである彼女達だけとも言えたためである。
「言ったままの意味。私は二人目の綾波レイ、だと思う。一人目の綾波レイは赤木ナオコに殺された」
「ちょっと待ってよ。レイ、あんた自分が何言ってるか分かってる?」
「ええ。思い出してしまったの。私は、綾波レイは複製出来る。赤木博士のお母さんを死に追いやったのは一人目の私」
まるで懺悔のような話し方にアスカはどう返していいのか分からなくなるばかりだった。彼女も理解してやりたい気持ちはあるが、如何せん内容が内容だった。どうして信じられる。自分は綾波レイという名のコピーであると告げられて。
「えっと……レイは人間じゃないの?」
「……分からないわ。だけど、人間だったら殺されたら終わり。なら、私は違うのかも」
淡々と返された言葉にアスカは反射的に動いた。レイの体を抱き締めたのである。
「ごめん。あたし、酷い事言わせたわ」
「アスカ……」
「レイ、あんたは人間よ。だって、人間じゃなかったら誰かのために泣いたりしないもの」
「アスカ……っ!」
感じる温もりと思いやり。その優しさがレイに涙を浮かばせる。それに気付いてアスカが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ほら、今だってそうよ。レイは人間よ。例え世界中が違うって言ったってあたしがそう断言してやるわ」
「アスカぁ!」
優しく抱き締めるアスカの事を嬉しく思って抱き締め返すレイ。そしてアスカは彼女へこう告げた。話した内容がどうであれ、ある一点だけは認める事が出来ないからだ。
「リツコのママに殺されたのは、レイかもしれないけどあたしの親友のレイじゃないわ。今、目の前で泣いてる女の子だけがあたしの知ってる、そして唯一の綾波レイよ」
「…………ありがとう、アスカ」
「ん。気にするなって言っても無理でしょうけど、この一点に限れば大丈夫って断言してあげる。シンジも、リツコだってそう言ってくれるわ」
この日、二人は揃って泣き腫らした目で帰宅した。その顔を愛する少年に見せなかった事は、彼女達なりの女らしさなのかもしれない。
次の日、リツコは珍しい客人を研究室へ招いていた。本来であればレイとの勉強会をやる予定だったが、彼女が体調が優れないので休みたいとメールを入れてきたため、リツコは少しだけ寂しく思っていたところだった。故にその相手の来訪をどこか喜んだ。少しはその気持ちが紛れるからと。
「珍しいわね。アスカが私に話があるなんて」
「まあね」
椅子に座り足をバタバタと動かしているアスカに小さく笑みを零し、リツコは向かい側へ座る。
「それで、一体何?」
「ん。リツコが答えにくいなら別にいいんだけどさ。その、リツコのママってどうやって亡くなったの?」
浮かんでいた笑みが消える。その表情には一体何故という疑問がアリアリと浮かんでいた。アスカはそんなリツコの顔を見つめ、真剣な眼差しを向けていた。
「これ、レイの変化に大きく関わってるわ」
「っ!? どういう事!?」
「あの使徒、精神攻撃しかけてきたでしょ? あたしも受けたから分かるの。あいつ、人の記憶を覗いてきた。そのせいで覗かれた本人も思い出すのよ」
「……レイも記憶を覗かれた?」
「ええ。で、ここからは本人の言葉をそのまま使うけど、私は多分二人目だと思うって」
完全にリツコの顔から表情が抜け落ちた。それはある意味で彼女が一番レイに知られたくない事への扉。それを話すべきか否かと考えている内に、よりにもよって知られてしまった。そうリツコは悟った。硬直するリツコへアスカは一番の胆と言える部分を彼女へ告げる。
「でね、レイが言うには、一番目の私はリツコのママに酷い事をした。だから殺されたんだって」
その一言でリツコの中で全てが繋がった。何故急にレイが余所余所しくなったのか。どうしてお母さんと呼んでくれなくなったのか。レイは自分へ罪悪感を抱いたからだと。その答えを得た瞬間、リツコは思わず片手で顔を押さえた。
「バカね……例えそうだとしても、殺す母さんが悪いのに」
「リツコ……」
「あの子に、レイに伝えて頂戴。あの時、母さんは成人した子を持つ大人だった。それが子供に何か言われて殺意を持って動いた時点で罪人だって。それに、貴女はその綾波レイとは違うのだから気にしないで欲しいとも」
「……それ、自分で伝えて。レイは、あの子はリツコの声でその言葉を聞きたいはずだもの」
そのどこか慈愛を感じさせる物言いにリツコはアスカにミサトを重ねた。そんな風に驚くリツコへ背を向け、アスカは部屋を去った。ただ一言、夕方まで部屋には帰らないと言い残して。そうやって残されたリツコは誰もいなくなった部屋で一人呆然となる。どれだけそうしていただろうか。やがて彼女の携帯が鳴った。無意識に通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは彼女の祖母の声。
「そう……いなくなったの、あの子」
それは実家で預かってもらっている愛猫の話だった。リツコは狼狽え悲しむ祖母を慰めながら、どこかでこのままではレイもそうなるのではと思っていた。
「そうね。今度時間を必ず作って一度帰るわ。母さんのお墓にも三年近く行ってないし」
『そうかい? なら、気を付けて帰っておいで』
「ええ、だからお祖母ちゃんも気を落とさないで。今度はこっちから電話するわ」
『うん、うん。リっちゃんも体に気を付けるんだよ?』
「ありがとう。じゃあ、切るわね……」
何も聞こえなくなった携帯を見つめ、リツコは静かに決意する。まだ間に合うはずだと。そう決めた彼女は行動が早かった。いや、それだけレイを失いたくなかったのだろう。即座に立ち上がるとそのままの格好で外へと向かったのだ。長いエスカレーターを駆け上がり、レイの住むアパート目指して走り出して。
(伝えなくちゃ……レイに、私の方こそ罪人だって。貴女が思い悩む原因だって、私は無関係じゃない! 貴女が苦しむ必要なんてないのっ!)
低いとは言えヒールの靴だ。走るには適していない。それに苛立ちを感じながらリツコは急いだ。時折通り過ぎる人達の奇異な視線を浴びながら、それをまったく意にも介さずリツコは走る。そして、遂に彼女はアスカとレイの住む部屋の前まで辿り着いた。
「っはぁ……っはぁ……全力疾走、っなんて学生時代以来ね。っこれを機に、運動でも始めようかしら……」
小さく苦笑しながらリツコは息を整えていく。やがて肩を揺らして呼吸しなくなった辺りで呼び鈴を鳴らす。すると、ややあってから彼女が一番会いたい相手の声が聞こえてきた。
『はい。どちら様でしょうか?』
「レイ、私よ。貴女に伝えたい事があるの」
『赤木博士……?』
「そのままでいいわ。アスカから聞いたの。貴女の悩みと苦しみの理由。だから、こう心から言うわ。それは今の綾波レイには関係ない」
そのはっきりとした言い方でインターホン越しにレイが息を呑んだ。それに気付かずリツコは言葉を続ける。
「母さんの事は、たしかに別の綾波レイにも責任はあるわ。だけど、それは貴女とは別人よ。私を、赤木リツコをお母さんと慕ってくれた貴女じゃない」
『……博士』
聞こえてきた声はどこか涙ぐんだもの。それにリツコは小さく笑みを浮かべて問いかけた。
―――あら、もうお母さんとは呼んでくれないの?
心からの愛情を込めて告げた言葉への返事は、声ではなく開かれたドアだった。そこには両手で目元を拭いながら泣きじゃくるレイの姿があった。それを見た瞬間、リツコは思わず駆け寄り抱き締めた。それはまるで、母親が迷子になった我が子を見つけた時のように。
「いいの? ホントにお母さんって呼んでいいの?」
「ええ……ええっ! 貴女は綾波レイだけど、その記憶のレイではないから! 異なる存在なのっ!」
涙を流すレイへリツコは力強く断言する。本当に罪人なのは自分だと、そう心の中で叫びながら。リツコの声にレイは両手を目元から離した。そして彼女の背中へとそれを回して抱き締める。
「っ! お母さん……お母さんっ!」
「ごめんなさい。貴女にこんな想いをさせてしまって。もう、大丈夫だから。綾波レイはもう貴女だけよ。これからずっと。お母さんがそうしてあげるわ」
レイの頭を優しく撫でながらリツコは決意を固めた。それがどういう事を意味するのかを理解しながら、己の胸で泣く子をこれ以上苦しめないで済むようにと。どれぐらいそうしていたのだろう。いつしかレイは静かになり、寝息を立てていた。
「……泣き疲れて眠ってしまったのね。ホント、子供だわ」
どこか嬉しそうに笑い、リツコは起こさぬようにそっとレイの体を抱き抱える。さすがにその重量は、鍛えている訳ではないリツコには中々厳しいものがあったが、それでも何とか部屋の中へ運び込んでソファへ寝かせる事に成功した。
「これは……白衣は諦めた方がいいわね」
帰ろうとしたリツコだったが、レイの手が彼女の白衣をしっかり掴んでいる事にそこで気付いた。なので苦笑しつつそれを脱ぎ、そのままレイの体へかけてやる。すると、その白衣をレイがしっかりと抱きしめたのだ。
「……レイ、弱いお母さんを許して。さっきの約束を果たしたら、ちゃんと全部話すから」
一度だけ優しくレイの頭を撫で、リツコはそっと部屋を出た。そしてドアを閉めるとまずアスカへ連絡を入れる。彼女もリツコの声から上手くいった事を察し、すぐに帰ると返して通話は終わる。ならばと次にリツコが連絡を入れたのはミサト。
『もしもし?』
「ミサト、いつかの件話すわ。私の研究室で待ってて。そうね、それなりに時間がかかるからコーヒー……いえ」
ふと何かを思い出してリツコは笑う。きっとこれだけで親友には伝わる事があるだろうと。
―――ミルク多めのカフェオレを用意しておいて。砂糖は抜きで、ね。
ミサトを連れてリツコは白衣を着ないままでターミナルドグマの入口へとやってきていた。そこまで二人は一言も発していない。会話をする雰囲気ではなかったのだ。リツコは強い決意を持ってこの場に来ていたし、ミサトもそれを感じ取り緊張の面持ちでいた。
「覚悟はいい?」
「……ええ。リョウジを連れて来てあげたかったぐらいよ」
「そう。でも、きっと今回はリョウちゃんの見たいものじゃないわ」
IDカードを通し、リツコは中へと足を進める。ミサトもその後を追うように足を踏み出した。そのまま二人は深層部へと向かう。エレベーターでも会話はなく、二人は強張った顔のままだった。そして二人はある場所へと辿り着く。そこは、人類進化研究所・3号分室。リツコが中の明かりを点けると殺風景な部屋が広がっていた。
「生命の息吹の欠片もない場所ね」
「ここでレイは生まれたわ。綾波レイの部屋よ」
「……ここで?」
「ええ、ここで。ここから始まり、今はあそこまで変わった。シンジ君が水でアスカが光となったのでしょうね」
噛み締めるような言葉にミサトも小さく頷いた。殺風景な部屋は、まさしくミサトが知るシンジが来る前のレイそのものだったからだ。それを変えていったのはリツコの挙げた二人。それでも、彼女はもう一人挙げねばならない事を知っている。
「それとリツコも、でしょ?」
「……私は違うわ。私こそ変えてもらったのよ」
「なら、リツコは空気よ。レイが取り込んで吐き出す事で変化する。相互変換ってとこ?」
「言い得て妙、ね……。ついてきて。ここは通過点よ」
再び歩き出すリツコを追う形でミサトも動き出す。次に二人が見た物はエヴァらしきものの残骸達だった。
「これは?」
「初期の失敗作。十年前に破棄されたの」
「エヴァの墓場、ね」
「ゴミ捨て場みたいな認識よ。そして、シンジ君の母親が消えた場所でもある」
「ここが?!」
無言で頷くリツコにミサトは二の句が継げない。ここである意味全ては始まったのかと察したからだ。あの親子がすれ違う事になった始まりの場所。そこにミサトは何とも言えない気持ちを抱いた。そんな彼女へ一度だけ視線をやり、リツコはポツリと呟いた。
「貴女が悲しんでも仕方ないわ。これはあの二人が乗り越えるべき問題よ」
「……だとしても、やっぱりやりきれないじゃない」
「すっかりシンジ君の姉みたいね。でも、私も人の事は言えないか」
「リツコ……」
「次、行きましょう。そこが今回の終着点。私の過去へのけじめと、未来への覚悟を示す場所よ」
そう告げるとリツコは先程よりも力強く歩き出す。その背に決意のようなものを感じてミサトは息を呑む。一体何がこの先にあるのだろうと思いつつ、彼女はその背を追った。やがて辿り着いた場所も真っ暗な闇に包まれた部屋だった。
「ここは?」
「ダミーシステムの大元。そして、私がレイへ話す事の出来なかった最大の要因」
「……どういう事? ダミープラグがレイのパーソナルを基にしてるっていうのと関係ある?」
「大有りよ。真実を見せるわ。かなりショッキングな光景だから覚悟して」
その言葉で部屋に明かりが点る。明るさに少しだけ目を細めるミサトだったが、その視界に映ってきた光景に絶句する。部屋の壁一面が水槽のようになっていて、そこにはレイそっくりの少女達が存在していたのだ。
「嘘……でしょ……?」
「いえ、これが現実。分かったでしょ? 既に私は咎人なの。ここにあるのをパーツと考え、扱い、平然とレイを娘のように接してきた。ホント、極悪人ね」
淡々と話すリツコだが、その顔はまるで感情が抜け落ちたかのようなものだった。見ているミサトが思わず何も言えなくなるような。
「ダミーシステムのコア。それがこの子達。神様を拾ったと喜び、それへ手を伸ばして罰が当たった。それが十五年前。それで拾ったはずの神様も消えてしまったので、自分達で復活させようとしたの。それがアダム」
「セカンドインパクトの真相と、そこから始まる計画……」
「そして、アダムから神様に似せて人間を作った。それがエヴァ」
最後の言葉にミサトは息を呑んだ。エヴァが人間。だとすれば、何故碇ユイはエヴァに取り込まれたのだ。その疑問を眼差しへ宿して彼女はリツコを見た。
「エヴァには本来魂がない。だから人の魂が宿らせてあるのよ。みんなサルベージされたものだけど」
「レイは?」
「あの子は魂が入った入れ物だった。あの子にしか魂は生まれなかったの。ここに並ぶ子達は魂がない。ただの入れ物なのよ」
「入れ物……」
顔を伏せて告げられるリツコの告白にミサトは理解するので精一杯だった。それだけ今の話は衝撃と驚愕に溢れていたのだ。
「そう、入れ物よ。だから、だから壊すのっ! あの子は、レイは一人だけ! もう二人目なんて思わせたくないからっ! だからっ! だから……っ!」
涙を浮かべて叫ぶリツコだったが、その手が何かのスイッチを押そうとして止まる。それがおそらくこの少女達を殺すスイッチなのだろうと察しを付け、ミサトはリツコへと近寄りその手を下ろさせる。
「ミサト……?」
「入れ物だって、そう思わないと殺せない。壊すって表現もそのため。だけど、やっぱり出来ないんでしょ? レイにそっくりなこの子達は殺せないって……」
「…………勝手よね。自分達の都合で命を作って、弄って、弄んで、本当にっ……身勝手だわ……っ!」
崩れるようにその場へ座り込むリツコ。ポタリポタリと床へ水滴が落ちる。彼女はミサトから顔を背け声も無く泣いていた。悔やんでいたのだ。過去の自分を。ゲンドウへ想いを寄せ、女として生きていた頃の自分を。科学者として、女として充実していたとそう思っていた。思い込んでいたかつての自分を。そんな彼女の目を覚ましたのは、シンジとレイだった。彼女以上の気持ちをゲンドウへ抱き、健気に生きる少年の姿と、彼女が母の真似事をする事になり、慕ってくれた純粋な少女。その姿がリツコを変えた。
(許してくれなんて言えない。だけど、せめてあの子が人並の幸せを掴めるようにはなって欲しい。ああ、本当に勝手だわ。自分勝手過ぎる。一年前には欠片としてそんな事を思ってもいなかった癖に。それどころかあの人を奪っていくと恨みさえしそうだったのに……)
無様ね。そう小さく呟いてリツコは笑う。その悲しげな笑い声が室内に響き、ミサトは何とも言えない顔を浮かべた。と、そこへ聞こえてくる足音がある。それに気付いて二人が警戒するように部屋の入口を見つめた。そこへゆっくりと現れたのは一人の男性。
「「司令……」」
「やはりここにいたか」
一瞬にして表情が強張るミサトと呆気に取られるリツコ。そんな二人を無視するようにゲンドウは視線をリツコの頭上へ向ける。
「……レイのためか?」
「以外に何がありますか? 今更貴方の都合なんて気にしません」
「リツコ……」
はっきりと告げる言葉に確かな強さを感じ、ミサトは少しだけ驚きの声を漏らす。ゲンドウはそんなリツコに微かな笑みを浮かべると、彼女が押そうとしていたスイッチを躊躇いなく押した。その瞬間、バラバラになっていくレイと同じ顔をした存在達。あまりの事に呆然とする二人へゲンドウは告げた。
―――私も己の罪と向き合う時が来た。これはそのための始まりに過ぎん。
その横顔はミサトもリツコも見た事のないものだった。それこそがゲンドウの男の顔。いや、父の顔だろう。息子が嫌われてもいいと本音をぶつけてくれた事で目覚めた、ゲンドウの秘められていた男の部分である。
「赤木君、君がもうその手を汚す必要はない。元々私が一人でやるべき事だったのだ。それを私の弱さが君達母娘まで巻き込んだ。謝って済む事ではないが、本当にすまなかった」
「っ! 今更……今更そんな事を言うんですかっ!? ユイさんを想いながら母さんや私を抱いておいてっ!」
「ああ、その通りだ。許してくれと言うつもりはないしそんな資格もないのは分かっている。だが、これだけはお願いしたい。せめてシンジの力にはなってやってくれ。私ではなく、あいつに君達の力を貸してやって欲しい。使徒はその力を増し、あの初号機でさえ互角にするのが難しくなりつつある。あいつは私の事を信じると言ってくれた。何をしてきたとしても、それは全てユイのためだと思うと」
ここまで饒舌なゲンドウにリツコさえも言葉が無かった。本気で変わったと、そう二人は感じていた。息子を想う気持ちで今のゲンドウは動いている。そう信じられる程に彼は真剣だった。
「だから、私はあいつに話すつもりだ。例え嫌われ、拒絶されるとしても、最初にそれをあいつにしたのは私だ。全ての原因はこちらにある。ならば、同じ事をされるだけに過ぎん。それが因果応報というものだ」
「……それが司令の、碇ゲンドウの本心ですか?」
「そうだ」
ミサトの問いかけへ即答し、ゲンドウは彼女達へ背を向ける。
「葛城三佐、今日ここで見た事聞いた事は君の胸だけでしまっておいた方がいい。彼もシンジにとっては大切な存在となっているようだ。私は息子を泣かせたくない」
「……他言無用、ですか。それなら見逃すと?」
「好きにとってくれて構わん。それと、くれぐれもシンジへこの話をしないでくれ。それは、私の父としての最後の仕事になるかもしれないからな」
それだけ言い残し、ゲンドウはその場を去った。残されたミサトとリツコは、その背が見えなくなるまでその場を動けなかった。やがてその背が見えなくなり、足音さえ聞こえなくなってやっと二人は互いの顔を見合わせる。
「……あれって司令よね?」
「ええ、ゲンドウさんだったわ」
「あんな人なの?」
「……いえ、私が知る限りは違った。もっと自分を見せない人だったもの」
それに、あそこまで家族思いなら不倫などしない。そう内心で付け加え、リツコは誰もいなくなった廊下を見つめた。そして、微かに息を吹き返しそうな女へ釘を刺すようにこう呟く。
―――ユイさんに許してもらいたいのよ、ゲンドウさんは。
ミサトがダミーシステムの真実を知った次の日、シンジはゲンドウにレイの事を話すと言われて司令室へやってきていた。以前の時と違い、室内に緊迫した空気が流れている事にシンジは気付いた。それだけ今回の話は重いのだろうと察し、彼は小さく唾を飲んだ。
「と、父さん。来たよ」
「……ああ。まずは座れ」
「う、うん……」
部屋の入口から椅子を目指して歩き出すシンジ。次第に見えてくるゲンドウの表情もどこか強張っているのを確認し、彼の中で不安が強くなっていく。それでも足を止める事はしない。今の彼に目の前の事から逃げ出すという選択肢はないに等しいからだ。椅子へ座り、ゲンドウと向き合うシンジ。先に話を振ったのはゲンドウだった。
「レイの事を聞きたいのだったな」
「うん、そうだよ。綾波がどうしてエヴァに乗れるのか。綾波は両親の記憶がないって言ってた。生まれる前に亡くなったのか、あるいは物心つく前に引き取られたのか。僕はそれも知らないから」
「レイに親はいない」
「……そうなんだ」
短く言い切られた内容にシンジは一瞬ではあるが悲痛な表情を浮かべた。やはりレイの世間ずれはそれも原因なのだろうと思ったからだ。だが、ゲンドウはそんな彼へ更なる驚きを与えていく。
「そもそも普通の人間ではない」
「……どういう、意味?」
「レイは、男と女が結ばれて生まれた命ではないという事だ。もっと言えば受精という過程を経ていない存在だ」
今度こそシンジは言葉を失った。ゲンドウの告げた内容はそれだけの衝撃を持っていたからだ。レイが人間ではない。その生まれ方は生命の辿る方法ではないもの。そう告げられたのである。だが、そこで思考を停止する事は今のシンジには出来なかった。何故なら彼女は愛する女性となったのだ。
「綾波は、綾波は人間じゃないって言うの?」
「そうだ。生物学的にはそうなる」
「じゃ、一体綾波は」
そこでシンジの携帯が鳴った。流れを断ち切られる形になり、やや微妙な表情をするシンジへゲンドウは軽く息を吐いて携帯を見つめて頷いた。出てもいいという合図と取り、シンジは通話ボタンを押す。相手は加持だった。
「もしもし」
『やあ、シンジ君。今、電話大丈夫か?』
チラリとゲンドウを見つめ、シンジはある事を思い付いて通話を続ける事にした。
「はい、大丈夫です」
『そうか。いや、大した用件じゃない。以前から話していた引っ越しの件だ。君さえ良ければ来週頭にでも行えるぞ』
「ホントですか?」
『ああ。俺も手伝うし、そもそも大きな荷物はネルフの方でやってくれる。だからおそらくそんなに時間はかからない』
シンジはそうなのかと目でゲンドウへ尋ねる。すると彼は小さく頷く。
「あの、加持さん」
『ん?』
「僕、父さんと上手く暮らしていけるでしょうか?」
その問いかけは目の前のゲンドウへのものでもあった。その証拠にシンジはゲンドウを見つめたまま話している。微かに息を呑むゲンドウの耳に、加持の困ったような苦笑いが聞こえてきた。
『それは俺には分からないなぁ。ただ、あの司令がミサトから言われたとは言え、自ら君へ話を持ちかけたんだ。いつかも言ったが、こういうのは本気なら隠さない。今のあの人は紛れもなく君の父親をしてる。俺はそう思うよ』
「……言ってくれる」
加持の言葉に無意識に小さく笑みを浮かべるゲンドウ。それを見てシンジは軽く驚きながらも嬉しそうに笑った。加持の言葉が正しいと思えたからだ。だからこそ彼は二人の男へしっかりと答える。
―――分かりました。じゃ、僕もちゃんと子供します。
どこか楽しそうな声に加持とゲンドウが揃って一瞬言葉を無くし、同時に声を上げて笑った。幸い加持にはゲンドウの声が聞こえなかったようで、そのまま通話は程なくして終了する。携帯をしまい、シンジは息を吐いてゲンドウへ向き直った。
「父さん、僕は子供だから分からない事だらけだ。だから自分が思った事を信じる事にするよ」
「そうか」
「うん。だから綾波は人間だよ。それで、僕の大事な彼女だ」
「…………そうか」
「綾波がエヴァに乗れるのは、きっとその生まれに理由があるんだよね? ならそれでいいよ。うん、それだけでいい」
まるで自分へ言い聞かせるような言葉に、ゲンドウは息を吐いて笑みを浮かべた。強い子だと、そう思ったのだ。自分とはまったく違うとも。世の中の嫌な事や汚い事を見聞きしても、シンジは自分の信念を貫こうとするのだろう。そこは自分とは違う。そうゲンドウは考えた。だが、彼もそういう意味では同じだった。何があろうと自分の信念を貫こうとするところは。例え世界全てを敵に回したとしても、と。
「シンジ、お前は私が何をしていたとしても母さんのためだから信じると言ったな。例えば人を殺しているとしても、それは今も変わらないか?」
「……正直そうだとしたら迷うよ。でも、そうだとしたら僕が信じる信じないじゃないからね。そんな事、したの?」
「近い事はしているかもしれん。母さんと再会するためになりふり構わず生きてきたからな」
「そっか。それでも、父さんはきっとそういう意味では一貫してるとも思う。母さんと僕、両方へ意識を割けなかったから母さんだけにした事からもね」
「シンジ……」
そこでシンジは一旦言葉を切ってゲンドウを見つめた。その真っ直ぐな眼差しにゲンドウは眩しいものを感じるも、それでも目を背ける事なく見つめ返す。それにシンジは嬉しそうに笑って頷いた。
「だから、今の父さんがする事なら僕は信じられる。僕もちゃんと見てくれる、今の父さんなら」
「……そうか」
噛み締めるような声。それにシンジはもう一度頷いた。そこで彼にとっての予想外の事が起きる。何とゲンドウがその場でシンジの予定を尋ね、引っ越しの段取りを決めてしまったのだ。更にその日、彼も手伝う事を決めてしまい、冬月へ当日とその翌日のスケジュール変更を依頼してしまう。その強引な行動力にシンジは気付いた。ゲンドウは一度決めたら突き進んでしまうタイプなのだろうと。そして、本気で動き出すと止める事が難しい相手だろうとも。
「ああ、頼む。息子の引っ越し祝いもしたいのでな」
「と、父さん。何もそこまで」
「何を言っている。お前もアスカ君やレイを誘っておけ。今までしてやれなかった分、その日ぐらいは父親らしい事をさせてくれ」
不器用な愛し方。どこか人の事を考えていない行動。それでも、今のシンジには伝わるのだ。その根底に何があるのか。きっと母も父のそういうところを分かったのだろう。そう考えてシンジは苦笑する。
―――分かった。じゃ、期待しとくよ。
―――ああ。
父へまだ信じ切れない部分は残る。それでも、ならば信じられる部分だけは信じ抜くと決めて少年は部屋を後にする。その背を見つめ、父は思うのだ。もっと早く気付いていればと。そう、自分にはまず少年がいたのだと。血を分けた一人息子。その存在をどうしてもっと早く大事にし、妻と同じぐらいに愛してやれなかったのか。
(本当に俺は変わっていないな。いつだって自分の事しか考えていない。ユイが戻ってこなかったのはそれも原因かもしれないな。俺が父親らしくなかったから、ユイは突き放したのかもしれない)
そんな事さえ考えてゲンドウは大きく息を吐いた。彼は知らず大きな成長を遂げていた。妻のサルベージが失敗した原因が自らにあるのではないかと思い出しているのだ。男ではなく親となったゲンドウは、ちゃんと父をしていなかった事を母をしていたユイが不満に思っていたかもしれないと、そう思い始めていた。
碇親子が会話をしていた頃、レイはリツコから白衣を研究室へ届けて欲しいとの連絡を受け、少しだけ気まずい気持ちでそこを訪れていた。が、そこでリツコは普段と違い私服で彼女を出迎えたのだ。どういう事だと理解出来ないレイへリツコはどこか辛そうな表情で話し出す。
「レイ、私は貴女に謝らないといけない事があるの」
その切り出しにレイは表情を強張らせる。捨てられる。あるいは突き放されると思ったのだ。だが、その考えはリツコが続けた言葉で否定される事となる。
「私は貴女がクローンだと知っていたの」
「……どういう事ですか?」
「貴女が苦しんでいた原因。それに私も少なからず関わっていたのよ。だから私は」
そこまでしかリツコは言葉を紡げなかった。何故ならレイが彼女へ抱き着いたからだ。あまりにも突然な行動にリツコは思わず言葉を出せず、ただ胸に感じる温もりでそれがレイだと分かったぐらいに驚いていた。
「レイ……?」
「良かった……私、お母さんに捨てられるのかと思ったの」
「……私の母さんの事なら気にしなくていいと」
「違うの。これ、白衣を置いて行ったからネルフを辞めてしまうんじゃないかって……」
消え入るような声にリツコは不意を突かれた顔になり、やがてゆっくりと微笑みを浮かべた。言われて成程と思ってしまったのだ。仕事着を置いて帰った事をレイが辞職する気かもしれないと考え、更に翌日にはそれを届けて欲しいと呼び出し、入室すれば私服で出迎えて謝る事があると切り出す。ここまで揃えば彼女の想像もあながち間違いではない。だからこそ愛おしさを込めて告げる。
「バカね。それに私が仕事を辞めるとしてもレイを捨てるはずないわ。お母さんなんて呼ばせたのよ? ちゃんと責任は果たすわ」
「本当? 私を置いていなくなったりしない?」
「ええ。約束するわ」
レイの頭を優しく撫でながらリツコはその愛おしさを噛み締める。そう、レイは純真無垢なのだ。だからこそ人の綺麗な部分や強い部分、優しい部分を見せなければならない。彼女の事を知っている者としても、その母代わりとしても。リツコもここにきて完全に心が決まった。最早彼女は女ではない。母へと完全に変化したのだ。
「レイ、白衣を貸してくれる?」
「……ええ」
「ありがとう」
レイから受け取った白衣へ袖を通し、リツコはある事を少女へ告げる。
「レイ、いつになるか分からないけれど、私の実家へ、生まれた場所へ一緒に行かない?」
「お母さんの?」
「そう。私の母さんの母さんがいるの。それと、母さんのお墓もそこにあるのよ」
最後の言葉でレイが表情を曇らせる。だからこそ、リツコはレイの体をそっと抱きしめて告げた。
―――一緒に墓参りして欲しいの。私の娘よって、そう教えたいから。
目を大きく見開いて、レイは聞こえた言葉が本当か確かめるようにリツコへ視線を向ける。
「お母さん、今の……」
「手続きしましょう。養子縁組って言ってね、私とレイはその気になれば本当に母娘になれるの」
「……そうなったら、二人だけの秘密じゃなくてもいいの?」
「ええ」
「碇君やアスカへ教えてもいいの?」
「そうなったらね」
「いつでもお母さんって呼んでいいの?」
「勿論」
「っ! お母さんっ!」
もしかすると、それはレイの中で一番嬉しかった瞬間だったのかもしれない。シンジから愛を告げられた時も彼女は嬉しかった。だが、それはアスカと一緒だった。しかし、今回のは違う。今回は彼女だけなのだ。自分だけが得られた気持ち。自分にしか向けられない想い。レイにとってそれは初めての事だったのだから。
リツコの胸の中に顔を埋めるレイ。聞こえてくる心音が心地良く思え、レイはどこかで同じ音を聞いた事を思い出す。それはあの日の記憶。同じようにリツコと抱き締め合って擬似的な母娘関係が始まりを告げた日の事。あの時と同じ場所、同じ行為。だけど、その関係は変わっている。それが不思議で、でも納得出来てしまう事がまた不思議に感じるレイだった。
「レイ? 寝ちゃダメよ?」
「……ええ、分かってる」
「そう。なら、悪いけどそろそろ仕事をさせてくれない?」
「嫌」
「あら、ワガママさん」
「そうよ。今の私はアスカなの」
「ふふっ、それ、アスカに言っちゃおうかしら?」
「ダメ。今のはお母さんだから言ったの」
話しながら二人は思う。これが母娘なのだろうかと。リツコもレイも普通の母娘関係など知らない。手探りの状態である。だからだろう。不安を感じつつ、こう思い出していたのだ。自分達はこれでいいのだと。自分達しか出来ない母娘のやり取りをすればいい。そう思って二人は笑みを見せ合う。
―――とにかく、お母さんは仕事があるから。もう帰りなさい。
―――分かったわ。じゃ、お仕事頑張ってお母さん。
―――ええ。レイも気を付けて帰りなさい。
血の繋がりだけが家族を作るのではない。それをこの二人も肌で感じ始めていた。子供達はそれぞれに親や大人と向き合い、大人達は子供と向き合う事で成長していく。この日を境にレイは以前にも増して感情が豊かになっていく。表情が変わる事も増え、クラスの人気も男女共に増していくのだ。それをシンジ達は嬉しく思って笑みを浮かべる事となる。
ベッド以外何も無くなった部屋を見て、シンジは感慨深いものを感じていた。そこは彼の部屋だった場所。明日からは当分空き部屋となるらしい。そう、遂に引っ越しの日が来たのである。
「この天井も、見慣れたなぁ……」
視線を上げて眺める景色にここへ来た初日を思い出すシンジ。また同じ事を思うのだろうか。どこかでそんな事を考えながら彼は殺風景になった部屋へ静かに一礼した。
「お世話になりました」
当然返ってくる言葉はない―――はずだった。
「こちらこそお世話になったわね」
「……ミサトさん? 仕事はどうしたんですか?」
「ん。ちょっち抜けてきた」
聞こえてきた声に振り返れば制服姿のミサトがそこにいた。その表情と目はどこか寂しそうに見える。シンジもそれを感じ取り、似たような顔を返した。
「その、本当に今までありがとうございました。あの日、ミサトさんが僕を同居させようとしてくれなかったら」
「そこまで。これで二度と会えない訳じゃないんだし、これはめでたい事なのよ? しんみりするのは無し無し」
「ミサトさん……」
「ま、これからも遊びに来てくれていいわ。それと、もしお父さんと上手くいかなくなったらいつでも帰ってきなさい。ここはシンジ君の部屋よ。君が帰ってくれば、ね」
「……はい、ありがとうございます」
こみ上げてくるものを何とか堪えてシンジは笑みを返した。それにミサトも慈愛の微笑みを返して頷く。丁度そこへ加持が顔を出した。
「もう終わったか? そろそろ行くぞ」
「はい。ミサトさん、それと加持さんも明日の引っ越し祝い出てくれますか?」
「俺は構わないが……」
「あたしも可能だけど、顔を出してご挨拶だけして帰るわ。リョウジもそうしたら?」
「だな」
どこか苦笑する二人にシンジは気を遣われていると理解し、そんな事は必要ないと告げようとして先に二人に機先を制される。
「シンジ君、気持ちは嬉しいけれどあたし達は他人なの。それに、もしかしたら貴方の彼女達は家族になるかもしれないけど、あたし達は絶対にないから」
「そういう事だ。シンジ君、ここがある種の正念場だぞ。ここで親父さんに二人の彼女を娘にしたいと思わせるんだ。そうすれば有り得ない未来が近付くかもしれないぞ?」
「有り得ない未来って……」
その表現で浮かぶのはいつかの妄想。それを現実にしてもいい。そんな夢物語を思い浮かべ、シンジは頬を掻いた。こうしてシンジは最低限の荷物を積んだ軽トラックで加持と共にゲンドウの住む部屋へと向かう。すると、到着した二人をゲンドウが出迎えたのだ。普段と違い、汗を掻いてもいいようにTシャツとジャージ姿で。
「……父さん、その格好は」
「着がえた。荷物を運ぶからな。普段の物では余計汗を掻くと思った」
「何と言いますか、意外とお似合いですよ司令」
「……そういうそちらもな」
小さく笑みを見せ合うゲンドウと加持。その妙な雰囲気にシンジは小首を傾げるも、気にしない方がいいと判断して段ボール箱を一つ抱え、部屋の中へと歩く。リビングを通りドアが開いている近くの部屋を見ると、ミサトのマンションであてがわれた部屋より少しだけ広めの部屋があり、彼が父に言われて選んだ新しいベッドとチェロ、それに業者へ持って行ってもらったいくつかの段ボール箱が置いてあった。だが、それらの箱は見れば衣類と本、下着類だけ。書いてある文字を見てゲンドウが運んだ証拠だ。その事に気付いて嬉しく思うシンジの後ろに気配が近付く。なのでシンジは振り向いてゲンドウ達の姿を確認して笑みを見せた。
「ありがとう父さん。これ、意外と重かったでしょ」
「本だけはな。衣服の類はそうでもない。加持君、それはここでいい」
「分かりました。で、シンジ君、他に部屋へ運んでおきたいものはあるか?」
「いえ、とりあえずこれだけでいいです。父さん、残りはそこに置いたままでもいい?」
「ああ、構わん」
そのやり取りを聞いて加持は内心で驚いていた。どう聞いても普通の会話だったからだ。おかしな話だが、シンジとゲンドウが普通の親子として会話する事は、加持にとってはかなり普通ではない事と思っていたからだ。
「なら俺は帰るとするわ。ついでに、ミサトの部屋へ運べる物は運んでおきたいんでね」
「そうですか」
「ああ。では司令、失礼します」
「今日は助かった。息子に代わって礼を言う」
「いえ、自分の方こそご子息には色々と助けてもらいましたので」
言い終わると加持は一礼しその場を去る。その背を見送り、シンジはゲンドウへ視線を向けた。するとその目が合う。そこで少しだけ二人は見つめ合い、やがてどちらでもなく小さく笑った。
「とりあえず引っ越し祝いを明日するって言ってたけど料理とかは?」
「既に予約してある。明日の午後六時に届くはずだ」
「へぇ、何予約したの?」
「こういう時は寿司と相場が決まっている」
新しい自室へ移動して少しだけ荷解きを始めるシンジと、残る段ボール箱を隅へと移動させるゲンドウ。顔を向け合わなくても心を向け合い会話を続ける。それはどこにでもある光景かもしれない。だけど、それがこの二人には少し前まで有り得なかった光景なのだ。何でもないような事が幸せとはよく言ったもの。今、この瞬間シンジとゲンドウは小さくない幸せを感じていたのだから。
―――そうそう。父さん、アスカと綾波は誘ったよ。
―――そうか。で、来るのか?
―――うん。それとミサトさんは加持さんと一緒に挨拶だけしに来るって。
―――……しまったな。葛城君を忘れていたか。そちらは私が声を掛けるべきだった。
既に特別な事と感じず会話を続ける二人。そんな彼らを碇ユイが見れば何と言っただろう。やっとかとため息を吐いただろうか。もしくは、やっとかと微笑みを浮かべただろうか。その答えは初号機だけが知っている……。
「レイは何着て行くの?」
「え?」
シンジが新しい部屋で荷解きを始めた頃、アスカとレイは自宅でTシャツにハーフパンツという格好で寛いでいた。シンジがいる頃は絶対しなかったし出来なかった格好ではある。女二人で過ごしているからこその状態であり、シンジがいても平然と似た格好が出来たミサトとは違う。そこは好きな異性として彼を意識しているかいないかの差だろう。
「明日の引っ越し祝いよ。ほら、司令もいるじゃない」
「……特別な格好じゃないとダメなの?」
「そこまでは言わないけど……」
昔ならここでアスカの言わんとしている事を理解出来ないレイだったが、今は違った。言いよどんだ事から何かを察したのである。
「碇君だけじゃなく司令にも好印象を与えた方がいい?」
「ん。だって、未来の義父になるかもしれないじゃない。なら、少しはね」
「義父……そうね」
ゲンドウが父になる。それはレイにとって複雑な感情を抱かせる。それも以前なら有り得なかった事だ。リツコを母と慕い、アスカを親友と思い、シンジを彼氏と愛するようになったからこその変化である。
(碇司令がお父さん? ……今の碇司令は私をどう思っているのだろう……?)
レイの記憶にあるゲンドウは彼女を通して何か違うものを見ていた。だが、シンジと関り変化した今のゲンドウとは会っていない。なら、それを確かめるためにも今日は大事な日になる。そう考えたレイは小さく頷くとアスカへ視線を向けた。
「何?」
「アスカ、服を買いに行きたい」
「服?」
「ええ。私、碇君と二人で会うために買った物しか私服がないの」
その言葉でアスカもこれまでの事を思い出す。たしかに外出する際、レイはあの訓練の際に購入した服ばかり着ていたと。
「……言われてみればそうね。よし、なら着替えますか」
「ありがとうアスカ」
「いいわよ。あたしも新しい服買うとするわ。シンジの目を釘付けにしてやるんだから」
「させない。私に向けさせる」
「言うじゃない。あ、レイ? 着るのはあのワンピースにしなさいよ? じゃなかったら怒るからね」
「分かったわ」
それから十分後、ある店に二人の姿があった。そこはかつてレイがリツコとミサトに連れられて訪れた場所。今彼女が着ているワンピースを買った店だった。
「どういうのがいいの?」
「レイ、まず自分でいいなって思う物を選びなさいよ。で、それをあたしに見せて。そこで初めて意見を言うわ」
アスカのやや突き放す言葉にレイは一度だけ瞬きする。だがすぐにその意図を察して頷いた。アスカはレイの自主性を重んじようとしていたのだ。あるいはレイの好みを探るためだったのかもしれない。とにかく、レイはアスカの言葉通り初めて自分の感性で物を選ぼうとしていた。
「赤、青、黄、緑、白、黒。色だけでも沢山あるのね」
そこではたとレイが止まった。
「碇君の好きな色は何色……?」
呟かれた内容を彼が聞けば小さな驚きと大きな喜びを見せただろう。レイが他者の好みを気にして、自らの選択に影響させようとしているのだから。残念ながら今回はその答えを与える者はいない。それでもレイは今までの事を思い出し、自身の格好を見て頷く。あの時、シンジは白いワンピース姿の自分を見て固まっていた事を思い出して。
「白にしましょう。きっと碇君が喜んでくれるわ」
そうと決まれば次はデザイン。白の服を目につく限り手に取り、考え、戻す。当然だがこれという物がレイには分からない。彼女はまだ明確な判断基準が出来ていないためである。
「……露出が多いのは一般的に男性は好む。でも、碇君に見られるだけじゃなくて司令にも見られると恥ずかしい」
想像しての呟きは、レイの成長と変化を如実に示していた。あのピクニックのような行動はもうレイには出来ない。いや、シンジと二人きりなら可能かもしれないが。結局レイは、白の服から着ても恥ずかしくないし見られてもいいと感じた物を数点持ってアスカの元へと戻る。既にアスカは何着か試着をしており、レイが合流した時には真紅のカクテルドレスを手にしていた。
「アスカ、持って来たわ」
「ん? どれどれ……」
レイの手にある服を眺めるアスカだが、その表情が段々苦笑していく。その理由がレイには分からないので小首を傾げた。
「普段着ならいいけど、今回はお祝いに着ていくんだから。こういう派手な感じのがいいわ」
「……ドレス?」
「そ。でも、レイのセンスは何となく分かった。これ、見られても恥ずかしくない奴選んだでしょ?」
「ええ」
ずばりで当てた彼女に内心で驚くレイだったが、アスカはむしろため息を吐いた。分かったのだ。まだレイはオシャレを楽しむ感性が備わっていないのだと。そうなればする事は一つだ。アスカはレイへ持ってきた服を元々あった場所へ戻させ、着せ替え人形のように様々な服を着せる事にしたのである。
「これ」
「分かった」
渡される服を次々と着ては見せ着ては見せを繰り返す。その内にレイも感覚で分かり始める。ただそれはどういう服が似合うかではなく、服装を変える事で見てくれる人の印象が異なっていく事。アスカは笑みを見せたり、首を傾げたり、時には驚きを見せたりとその表情と感情を変えたからだ。
やがてレイとアスカが同じ服で意見を一致させる。それを着たレイにアスカが頷き、着ている本人も一番いいと思えたのだ。何よりもレイ自身が着てみたかった。それは蒼のカクテルドレス。どこか零号機を思わせる色合いだったのもその一因かもしれない。
「アスカ、私はこれがいい」
「あたしもそれが一番いいと思うわ」
「それで、私はアスカに着て欲しい物があるの」
「へぇ、レイがあたしに? どれよ?」
「これ」
そう言ってレイが手に取ったのは真紅のカクテルドレス。レイが合流した時、アスカが手にしていた物だ。そこでアスカも気付いた。何を想ってレイがそれを薦めているのかを。
「エヴァの色?」
「ええ。私はやっぱり零号機でしょ?」
「……そうね。うん、ならそれで行きましょう」
本来であれば中学生が買うような物ではないかもしれないが、そこは年齢の割に大人びた二人である。店員が訝しむ事もなくあっさりと支払は終わった。ネルフからの給料支給額は、パイロットである彼女達の場合、かなりの高額であった。故にアスカの用意してきた資金はとても中学生とは思えない額だった事もそれに影響している。
「さて、なら次は靴ね」
「靴?」
「そうよ。いい服にはいい靴。上下揃えて初めて完成なの」
「……それが足元を見られるの語源?」
「じゃない? とにかく行くわよ」
こうして靴もドレスと揃いの色で決める事になり、最後にアクセサリーを購入しに行きレイとアスカの買い物は無事終了。後は明日の引っ越し祝いへ行くだけとなった。そして、その日こそレイとリツコにとって忘れられない日となる。
明けて翌日、ネルフ本部にシンジ達の姿があった。使徒が現れたのである。いや、正確には使徒と思われる存在だろう。この時点ではその反応は確定していなかったのだ。
「目標は、大涌谷上空にて滞空。定点回転を続けています」
「目標のATフィールド、依然健在」
「弐号機、参号機共にいつでも攻撃可能です」
オペレーター三人の言葉を聞いてミサトは頷き、リツコへ視線を向ける。彼女はMAGIからの目標に対する反応を見つめていたのだ。
「リツコ、何か分かった?」
「いえ、パターンは青からオレンジへ周期的に変化してるわ。ただ、思い出して欲しいの。同じようにパターン青で現れなかった使徒がいたでしょ?」
「……厄介系って事ね」
「ええ。だから、あれも用心するべきよ。擬態かあるいはダミーの可能性もある」
初号機をディラックの海へ引きずり込んだ使徒を引き合いに出し、警戒を促すリツコにミサトも同意するように頷いてゲンドウへと顔を向けた。彼はモニタを見つめ何事かを思案しているように見えた。それでもミサトは構わず意見を述べる事にした。
「司令、まずは様子見として無人偵察機を出したいのですが」
「許可する。それでその後は目標の動き次第か?」
「そうなりますが、初号機は出来るだけ出さないで片付けたいと思います」
「……そうだな。だが、切り札は効果を出せる状況が決まっている。出し惜しんでただのババにされないようにな」
「了解しました」
今やゲンドウの指示に疑問を抱く者はいなくなっていた。今のもそう。初号機を使いたくないミサトへ、必要とあれば気にせず使えとその判断に任せると告げたのだ。今の発令所はまさしく一体感があった。誰もがエヴァパイロット達の安全を第一に考えながら使徒殲滅を目指す。そんな環境となっていたのだ。
「日向二尉、至急」
ミサトが偵察機の事を指示しようとしたその時であった。
「目標に動きありっ! 参号機へ接触しますっ!」
「っ!? レイ、応戦してっ!」
『了解っ』
突如として動きを見せた使徒は、そのまま一番近くにいた参号機へと襲い掛かった。その紐のような状態となった使徒を辛うじて回避し、参号機はすぐさま完成したばかりの劣化版マステマでの射撃を行う。それは使徒のフィールドに阻まれ通用しない。
「ダメ。やっぱりこれでは通じない」
『レイっ! 離れてっ!』
聞こえた声にレイは参号機を反射的に動かす。それに合わせたかのように収束フィールドが使徒へと直撃した。弐号機の攻撃である。だが、それさえも使徒のフィールドを破る事は叶わない。使徒を左右から挟むように参号機と弐号機が見つめ合う。
「アスカ、あの使徒のフィールドも硬いわ」
『みたいね。今回の装備じゃ前回みたいにはいかないか』
悔しげなアスカの声にレイも同じ気持ちを覚える。やはり攻撃力は未だにあの初号機がトップクラスなのだ。しかも突き抜けて。と、そこでレイは思い出す事があった。強固なフィールドを持つ相手に二機のエヴァで立ち向かう。それはレイにとって忘れられない思い出の一つ。
「なら、ヤシマ作戦で行きましょう」
『ヤシマ作戦? ……成程。了解よ』
「葛城三佐、構いませんか?」
『ええ。現場の事は基本そっちに一任するわ。何かあればこちらで指示を出すから』
無責任とも取れるミサトのやり方だが、常識に囚われない使徒を相手にする以上一瞬の判断ミスが命取りになりかねない。であれば実際戦う者達に一任する方がいいと言える。要所要所で指示を出す方が使徒戦に関してはメリットが多いとこれまでの事で分かっているのだ。
「アスカ、とどめは任せるわ」
『任せなさい。きっちり仕留めてやるわよ!』
参号機が使徒へ射撃を加えてフィールドを展開、その間に弐号機が逆方向から攻撃し無防備な相手を撃破。これが今回のヤシマ作戦である。
参号機がマステマで射撃を仕掛けるも、当然のようにそれを使徒のフィールドが阻む。その瞬間、弐号機の放った収束フィールドが使徒へと直撃した―――のだが。
「「っ!?」」
それはフィールドによって阻まれたのだ。そこでレイはガトリング攻撃を点制圧から面制圧へと変える。するとフィールドの全貌が明らかになった。使徒のフィールドは前面を覆うように展開されており、180度までは完全に守れるようになっていたのだ。それを見たミサトは拳を握る。気付いたのだ。使徒が過去の作戦へも対応をしている事に。
「やってくれる……っ! 二人共、使徒のフィールドは下手をしたら全面展開出来る可能性があるわ! 一旦距離を取ってっ!」
『『了解っ!』』
「ヤシマ作戦、失敗ね。やはり使徒は学習していると見て間違いないわ」
「そうね。このままじゃ手詰まりよ。仮に背面はフィールドを張れないとしても、あの収束フィールドで仕留め切れるかも分からないわ。いえ、そちらも対応してると考えた方がいいか」
モニタを見つめミサトが何か手を考え始めたその時だった。輪のような使徒が回転数を上げたのは。それはそのまま上昇を続ける。何が目的だと誰もが意図を掴みかねていた時、マコトが使徒の内部に高エネルギー反応を確認したのだ。
「使徒内部に高エネルギー反応っ!」
「何ですってっ!?」
その瞬間、使徒の内部から放射状に光が放たれ、展開していたフィールドが周囲へ飛び散った。突然の事に慌てながらもアスカとレイは回避する。だが、使徒は回転しているため全方位を隈なく攻撃し続けた。それは弐号機が行った収束フィールドを別のエネルギーで押し出す攻撃の模倣。周囲に遮蔽物がなく、参号機と弐号機は遂に避けきれなくなりフィールドを展開して凌ごうとした。
「くっ……これは……っ!」
「収束しても耐え切れない……っ? 不味い……っ!」
強度が上がった参号機と収束して強度を上げる弐号機だったが、それでも絶え間なく襲う使徒のフィールド攻撃に突破されるのは時間の問題だった。かといって反撃出来るはずもなく、二人はどうする事も出来ないでいた。一方のミサト達も何か手を打とうとしていたが、初号機を出撃させてもあの攻撃では身動きが取れないのも事実。結局のところ、何も有効策が見つからないままであった。
「弐号機、参号機、共にフィールドへ亀裂を確認っ!」
「使徒のエネルギー反応、依然として高いままです!」
「シンジ君が出させて欲しいと申し出ていますっ!」
「ミサト、どうするの?」
悠長に考えていられる時間はない。ミサトはそう思って一つの賭けに出た。
「初号機を出してっ! ただし、リフトの速度を下げずに射出っ! シンジ君っ! 使徒の上方からの急降下攻撃よ!」
『分かりましたっ!』
「使徒の死角になるかもしれない可能性に賭ける、か……」
「悪くない手だ。ただし一度きりだろうがな」
ゲンドウの指摘はもっともだった。使徒は高い学習能力を有している。であれば、初号機の攻撃も不意を突けるのは初回限りだろう。彼らの見ているモニタの中では、弐号機と参号機のフィールドが今にも破られそうになっている。
『二人共、シンジ君が行くまで耐えてっ!』
「聞いた……? シンジが来るみたいよ……っ!」
「なら……しっかり使徒の注意を引いておかないと……っ!」
「「フィールド全開っ!」」
今出来る精一杯の事を。その気持ちが二機のエヴァのフィールドを辛うじてもたせていた。だが、使徒も気付いているのだろう。もうそれは最後の足掻きである事に。後一押しすれば終わる。そう思ったのか使徒が更に苛烈なフィールド攻撃を行った瞬間、二機のフィールドが砕け散った。その衝撃で体勢を崩して仰け反る弐号機と参号機。そこへ追撃のようにフィールド攻撃が放たれようとしたまさにその時。
「させるもんかぁぁぁぁぁっ!!」
射出された勢いのまま初号機がマゴロク・E・ソードを取り出し、使徒の上空からそのまま突っ込んだのだ。斬り付けるのではなく刺し貫くようにして。落下速度に機体の重量、それらを乗せた一撃は使徒を見事に捉えて刃をその体へ貫かせて大地へと這わせた。まるで生き物のように這いずり回って暴れる使徒だったが、それも次第に勢いを無くし、最後には完全に動かなくなった。
「「シンジ(碇君)っ!」」
「な、何とかなったかな?」
使徒を地面へ串刺しにして初号機はマゴロク・E・ソードから手を離した。まるで標本のような状態となった使徒を見てシンジは何とも言えない気分になる。初号機も姿を戻し、アスカとレイがエヴァを近付けようと動かしたまさにその瞬間。
―――パターン青、確認っ! まだ使徒は倒れていませんっ!
マコトの声が響くのと使徒が再び動き出すのは同時だった。使徒は仮死状態となり、MAGIだけでなく初号機さえも欺いて見せた。咄嗟の事で動きが遅れるシンジ達へ襲いかかる使徒。狙いは初号機であると見抜いて、レイが参号機を辛うじて動かし身代わりになった。
「目標っ! 参号機と物理的接触っ!」
「参号機のフィールドは!?」
「展開中ですが侵蝕されていきますっ!」
あまりの事に緊迫感が強まる発令所。と、そこでリツコがある事に気付いて叫んだ。
「シンジ君っ! アスカっ! 迂闊に手を出してはダメよっ! 貴方達まで侵蝕されるわっ!」
『でもリツコさんっ!』
『このままじゃレイが、レイが危ないじゃないっ!』
「分かってる! でも貴方達まで巻き込んだらレイはどう思うのっ!」
『『っ!?』』
二人の見ている目の前で参号機は使徒へ侵蝕されていく。どうにかしたい。助けたい。そんな気持ちで動きたがるシンジとアスカへリツコがぶつけた怒声は彼らの胸に響いた。彼女のレイへの気持ちが伝わったからである。シンジもアスカもリツコがレイと深い絆を持っている事はそれとなく知っている。そんな彼女がレイの事を助けたいと思わぬはずがない。にも関わらず、真っ先に提言したのがレイの救出ではなく自分達の安全。それがリツコの大人としての在り方なのだと、少年少女は痛感したのだ。
「参号機の生体部品、侵蝕率増加っ!」
「シンジ君! アスカ! 遠距離で使徒を攻撃して!」
「使徒、侵蝕を強めていきます! このままではっ!」
「先輩っ! 侵蝕率が5%を超えますっ!」
「っ!? レイっ!」
マヤの言葉が意味する事に気付き、リツコは息を呑みながらも叫んだ。愛しい我が子を呼ぶように。一方、シンジとアスカはミサトの指示通り使徒から距離を取って攻撃を開始した。だが、そこで恐ろしい光景を見る事になる。
「いい? 同時でいくわよ?」
「うん、分かった」
片手にプログナイフを持ち、弐号機が構える。初号機もマステマを構えて使徒へとガトリング攻撃を放つ体勢を取った。弐号機の突き出した掌へ出現する収束フィールド。それを見て初号機がガトリング攻撃を開始。と同時に弐号機は収束フィールドをプログナイフで押し出した。
「これならっ!」
「いけるはずっ!」
前後で挟み撃ちした攻撃は、使徒に届く瞬間フィールドによって阻まれる。だが、それは使徒の周囲だけではない。参号機さえも自身を守るように展開したのだ。それが何を意味するのかに気付いてリツコは目を見開いた。既に参号機は使徒と同調していると察したのだ。だからこそ無意識に彼女は呼んだ。少女の名を。
―――レイっ! 返事をしてっ!
何もない真っ白な空間。そこにレイはいた。いや、彼女の意識はとでも言えばいいのだろうか。夢か現か分からぬまま、彼女は何かを感じて問いかけた。
「誰?」
「私。エヴァの中の私」
まるで空間が半分に分かれたように色が変わり、もう一人のレイを名乗る黒いプラグスーツの少女がいる場所から後ろが黒く染まる。
「違う。私じゃない。それはもう私じゃないわ」
「どうしてそう思うの?」
「貴女からは温もりを感じない。碇君やアスカ、お母さんにあるような温もりがないもの」
「そう。だけどもう遅いわ」
その言葉を契機にゆっくりと黒が白を飲み込み始める。侵蝕しているのだ。使徒はレイを飲み込もうとしていた。
「私と一つになりましょう? 私の心をあなたにも分けてあげる。この気持ちをあなたにも」
使徒の言葉通り、レイの中に、ある感情のようなものが流れ込んできた。それはレイが最近まで感じていた感情。心が辛く苦しいもの。レイが自分の気持ちを感じたと理解したのだろう。使徒はどこか嬉しそうに告げた。
「痛いでしょ? 心が痛いでしょう?」
「……いえ、これは痛いんじゃない。寂しいと言うの。私がもうお母さんに会えないと思って感じた気持ち。そう、あなたは寂しいのね」
「さびしい?」
レイの中を急速に駆け巡る冷たい気持ち。忘れていたはずの気持ちが彼女の中で目を覚ます。リツコの母を死に追いやった記憶とそれが理由で始まる辛く苦しい思い出。寂しいと強く感じる事となった時間。その弱気になった心を感じて使徒は不思議そうにレイを見つめる。その眼差しさえ今のレイには耐え切れない。まるで罪人である彼女が何故生きているのかと問うようだったからだ。
(私は、やっぱり許されるべきじゃない。お母さんのお母さんを死なせた原因なんだもの……)
黒が白を全て塗り潰しそうになる。もう無理。そうレイが思って目を閉じた時だった。
―――レイっ! 返事をしてっ!
聞こえてきたのは彼女が母と慕う女性の声。そこに込められた感情に気付き、レイは目を見開いた。その脳裏を幾多もの思い出が駆け巡る。リツコとの勉強会から始まり、母と呼んだ事や抱き締めあった事、弁当を作り共に食べて笑った事、部屋の玄関で抱き締めてもらった事。そして最後に、本当の母娘になろうと言われた事を思い出してレイは叫ぶ。
「お母さんっ!」
「お母さん? ママの事? 一体それは何?」
ほんの僅かではあるが、白が黒の中に残っていた。それはレイ自身。彼女のプラグスーツは未だに白だった。そして、自分へ問いかける使徒の姿にレイはある事を思い出す。そう、リツコとの勉強会を。だからだろう。レイは気付けばこう返していた。
―――知りたいなら教えてあげる。だから私と一緒においで?
―――いいの?
―――ええ。一つにはなれないけれど、一緒にいてあげる。ほら、それなら寂しくないわ。エヴァの、参号機の中ならきっと。
―――……ホントだ。ここなら寂しくないみたい。
瞬間、黒が一気に白へと変わった。使徒は参号機の中に残る第十三使徒の残滓を感じ取ったのだ。だからレイの言う通りに従った。そう、参号機に残っていた使徒の力。それは同化能力。エヴァと同化した使徒の力。それこそが残された能力だったのだ。故に参号機の性能も上昇していたのだから。
こうして使徒を同化する事で参号機は侵蝕を食い止めた。そして、それはレイが無垢に全てを受け入れる事が出来る存在だからこその結果でもある。
『レイっ! 返事をしなさい! お願い返事をしてっ! お願いよぉ!』
「……ここは……エヴァの中? お母さん……?」
『っ!? レイ!? レイなのね!? 無事なのね!』
初めて聞くリツコの取り乱す声に驚きながらも、それがどうしてかを察してレイは微笑んで涙を流す。
「ええ、無事よ。心配してくれてありがとう、お母さん。お母さんの声、聞こえたわ」
まだ意識が完全に覚醒していないのだろう。レイは夢現なまま嬉しそうな声を出す。その噛み締めるような返事に、インカムを握り締めていたリツコは体を震わせながら言葉を返した。
「あら、ダメよ……レイ? まだっ……任務中、でしょ? ……っ!」
「リツコ!?」
そこまでだった。発令所の誰もが見る中でリツコは遂に涙を見せた。今までどんな時も気丈に振舞い、感情を露わにしないよう努めていた女性が堪え切れずに涙を流したのだ。片手で口元を押さえながらも残る片手はインカムを放そうとしない。まるで娘との繋がりを放したくないとばかりに。そのままその場に泣き崩れるリツコへミサトが慌てて駆け寄る。ゲンドウ達にも動揺が走るが、ただ一人この男だけは冷静だった。
「碇、念のため回収機を出すか?」
「……そうだな。青葉二尉、参号機は回収機を出すと伝えろ。日向二尉、初号機と弐号機へは自力で帰還するように言え」
「了解しました。レイ、聞こえるか?」
「シンジ君、アスカ、聞いてたかもしれないが……」
「伊吹二尉、葛城三佐と共に赤木博士を研究室まで連れて行ってやれ。休ませた方がいい」
「わ、分かりました」
シゲルとマコトがそれぞれ連絡する中、マヤがミサトと共にリツコを優しく立ち上がらせ、何事か声を掛けながら発令所を後にする。それを見送り、冬月は小さく笑ってゲンドウを見た。
「お前にしては温かい指示じゃないか」
「いけないでしょうか?」
「いや、いいと思うぞ。きっと今のお前を見ればユイ君も喜ぶだろう」
「……だといいのですが」
変わった。そう強く感じて冬月は笑みを見せる。その理由をすぐに察し、彼は噛み締めるように呟く。
―――朱に交われば赤くなる、か……。思えば、私も強く関わろうとはしていなかったな。
第十六使徒の殲滅。それを聞いて俄かに活気づく者達がいた。ゼーレである。
「遂に第16の使徒まで倒した」
「これで我らの死海文書に記された使徒は残り一つ」
「あの参号機の能力はどうする? 使徒を取り込んでしまったようだが……」
「何、恐れる事はない。使徒は取り込めてもアレは取り込めんさ。アレには一応パイロットがいる」
不穏な言い方ではあるが、それに周囲も納得したような反応を返す。それが収まるのを待ってキールが通る声で告げた。
「約束の時は近い。ここまでの道のりは長く、犠牲もあった」
「だが、全ては些末なものだ。零号機の損失程度ならば許容出来る」
その言葉に誰もが肯定的な反応を示す。実際、ここまでの使徒戦の被害は本来よりも圧倒的に少なく済んでいる。勿論それはあの初号機あっての事だが、それだけではない様々な変化がそこへ繋がっているのだ。それを知る由もないゼーレではあるが、彼らにとって大事なのは過程ではなく結果である。そこから考えれば、ある意味で現状はあの人物のおかげとも言えた。
「碇の手腕、と見るべきか?」
「あの初号機あっての結果ではあるが、奴でなければサードの手綱は握れんだろう」
「では、奴はこのままと?」
「それが良かろう。妻への執着も薄れてきたようだしな。下手に首輪を絞めると何をしでかすか分からん」
「息子との繋がり。そこに妻の面影を見たか……」
キールの言葉はある意味で正鵠を射ていた。だがそれだけではない。シンジの成長がゲンドウをも成長させたのだ。そして妻への執着はある意味で薄れているが、またある意味ではより濃くなっているとも言える。シンジの成長を見せてやりたい。母の姿を、声を、一度でいいからその目で見させて、耳で聞かせてやりたいと。
「とにかく、これで計画はその達成が見えてきた。最後の瞬間まで慎重にいかねば、な」
そのまとめに誰もが同調して話し合いは終わる。不気味に蠢く計画。その成就を願いながら……。
テーブルに置かれた大きな桶。そこにはいかにも高そうな寿司が並んでいる。更にかんぴょうや錦糸玉子、桜でんぶなどが入ったちらし寿司もある。ただ、ちらし寿司はシンジの手作りだった。彼は普通の寿司ではレイが食べられない物ばかりであると思い出し、メディカルチェックが終わるや買い物に行ってこれを作ったのだ。それと、一台のカメラがある。ゲンドウが新しく買った物だ。シンジとの思い出を残しユイに見せられたらと、そう考えての事だった。
「お寿司、時間通りに来たね」
「ああ。まだ食べるな」
「分かってるよ。そこまで子供扱いは止めて欲しいな」
使徒戦の後処理を冬月が引き受けた事もあり、ゲンドウはシンジと共に部屋へ帰宅する事が出来た。それでも出来る限りはと仕事を片付けているので、そこもまた成長したと言えるのかもしれない。現在時刻は午後六時を過ぎたところ。そろそろ二人の来客が来る事だ。そう思ってシンジは今か今かと玄関口で待っていた。その様子を小さく苦笑してゲンドウが見ていると知らずに。と、そこへ来客を告げる音が響く。
「来たみたい」
「そうか」
珍しく子供のような面を出しているシンジにゲンドウは笑みを浮かべる。彼は知らない。それが自分と一緒にいるからだとは。これからは父親と共に暮らす。そう強く感じるからこそ、やっとシンジは子供らしい一面を出せるようになっていたのだ。
「いらっしゃい二人……共……」
喜び勇んでドアを開けたシンジを待っていたのは、真紅と真蒼のドレスに身を包み、足元さえも同じ色で揃えた絶世の美少女達。更には、それぞれが自身のイメージカラーで揃いのイヤリングを付けていた。それは星を模った物。何をそこに込めたのかは本人達のみぞ知る。
「グーテンアーベント」
「こんばんは」
にっこりと笑顔を浮かべるアスカとレイ。その美しさに思わず見惚れていたシンジはそこでやっと我に返った。
「あ、えっとこんばんは。その、よく来てくれたね。嬉しいよ、アスカ、綾波。上がって」
「「ふふっ、お邪魔します」」
ドギマギしているシンジに気付き、一瞬だけ互いに視線を向け合う少女達。すると、シンジの後ろから現れたゲンドウが二人の格好を見て固まる。まさかそこまでするとは思っていなかったのだ。
「お邪魔しています司令。今日はお招きいただきありがとうございます」
「ありがとうございます」
「い、いや……大したもてなしも出来ないがゆっくりしていってくれ」
「「はい」」
二人にタジタジなゲンドウを眺め、シンジは内心安堵する。自分だけではなかったと思って。
(良かった。今の二人には父さんも狼狽えるんだ。なら、僕が動揺するのは当然だよ。で、でも……綺麗だなぁ、今日のアスカと綾波)
シンジは飲み物の用意をしながら少しだけ後ろを振り返る。そこには椅子に座って談笑するアスカとレイの姿があった。それがまるでどこかのお嬢様に見え、シンジは自身の格好へ目をやった。何の変哲もない普段着である。これでは二人と釣り合いが取れない。そう思ってため息を吐くシンジへ近付く者がいた。
「シンジ、それは私がやる。お前は二人の相手を」
「父さん、それってアスカ達と話す事がないからでしょ?」
「……いかんか?」
「綾波とは前話してたじゃないか。逃げちゃダメだよ」
そうきっぱり返し、シンジは飲み物をグラスへ注ぎ終えるとそれを盆に載せて運んでしまった。残される形となったゲンドウだったが、息子の逃げるなとの言葉を思い出して一度息を吐くと、意を決したようにテーブルへと向かう。そして、シンジとゲンドウが座り、向かい側にアスカとレイがいる状態になったところでグラスを全員が持った。
「では、シンジの引っ越しと君達三人の無事を祝って、乾杯」
「「「乾杯っ」」」
そこからは不思議な時間だったとしか言いようがなかった。ゲンドウが不器用なりにアスカとレイへ寿司を食べるようすすめ、シンジがそのぎこちなさに苦笑し、またある時はシンジ作のちらし寿司に三人が美味いと太鼓判を押す。アスカがゲンドウと将来を見据えた話をしようとする横で、レイはシンジへ服を買いに行った時の話をする。そうこうしているとまた来客を告げる音がした。ミサト達だと思ってシンジが動こうとすると、その肩へゲンドウが手を乗せた。
「私が出よう。お前が主役なのだからあまり働くな」
「……うん、ありがとう父さん」
その申し出に甘え、シンジはその場に座りアスカとレイの三人で話し出す。内容は翌日からの登校はどうして欲しいかだった。それに困った反応を返すシンジをアスカとレイが笑みを浮かべながら優しく問い詰めていく。それを聞きながらゲンドウはドアを開けた。そこにいたのはある意味で予想通りの人物が二人と一人の予想外の存在。
「こんばんは。昨日振りですな、司令」
「……君達か。それに……」
「こんばんは」
どこか冷めたようなリツコの声にゲンドウは何か返す事もなく視線を向ける。その気まずくなりそうな気配を察し、ミサトが少しだけ困ったような顔をして口を開いた。
「こんばんは。その、シンちゃん、いえシンジ君の引っ越し祝いに挨拶をと」
「そうか。それと呼び方はそれでも構わん。あいつにとっては私よりも君の方が立派な保護者だったろう」
「そんな……」
「謙遜しなくていい。色々と押し付けてしまって申し訳なかった」
言って頭を下げるゲンドウに三人が揃って驚きを浮かべる。まさかプライベートとは言えそこまでするのかと思ったのだ。
「頭を上げてください。私もシンちゃんには迷惑をかけてましたから」
「……それでも、あいつは君からちゃんとした愛情を受けた。本来ならば私がやらねばならない事だ」
しっかりと言い切り、ゲンドウは顔を家の中へ向けた。そこからは三人の楽しげな声が聞こえてくる。それに笑みを浮かべながらゲンドウはミサト達へ告げた。
「君達に聞きたいのだが、私はまだ間に合うだろうか?」
「……ええ、間に合いますとも。何せ、俺も似たような事を想っていましたからね」
「リョウジ……」
「十年は長いですが、それでも人の寿命で考えれば精々八分の一ぐらいです。なら、まだ十分取り返しはききますよ」
「葛城君もそう思うか?」
「そうですね。私も父への想いを見つめ直すのに十年以上かかりました。なら、まだ間に合うかと」
「そうか……赤木君はどうだ」
二人の実体験絡みの肯定を受け、ゲンドウは噛み締めるように答えてリツコへ尋ねた。その声にリツコはどこか遠い目をしつつ、それでもゲンドウへ視線を合わせて答えた。
「過去だけを見ないのでしたら、いくらでも未来は変えられますわ」
「……過去だけを見ないなら、か」
どこか苦い顔をし、ゲンドウは空を見上げた。そこに光る星を見つめ小さく彼は頷くと、ミサト達へ視線を戻して微かに笑みを浮かべてこう切り出した。
「上がっていってくれ。シンジ達が喜ぶ」
「いえ、私達は……」
両手を動かし断ろうとするミサトだったが、その手を加持がそっと止める。
「ミサト、お言葉に甘えよう。シンジ君のお父さんがこう言ってくれてるんだ」
「…………そう、ね。リツコもいい?」
「そうね。シンジ君のお父さんのお誘いなら」
加持の言い方でミサトもリツコも気付いたのだ。今のゲンドウは本当に父親なのだと。司令ではない。だからその顔を立てよう。その意図を察してミサト達はゲンドウの案内で部屋へと上がる。
―――ミサトさん! リツコさんに加持さんも!
―――こんばんはシンちゃん。って、アスカとレイ、凄いわね。決めてきたじゃない。
―――ホント。良く似合ってるわよ、二人共。
―――こりゃ綺麗だ。こんな彼女達を持つシンジ君は果報者ですね、碇さん。
―――ああ、正直シンジにはもったいない気もするが。
―――あら? シンジのパパには悪いけど、あたしもレイもシンジ以外とは付き合うなんて考えてないんで。
―――そういう事です。
―――ちょ、ちょっと、アスカも綾波も恥ずかしいから離れてよぉ……。
響き合う笑い声。それを聞きながらシンジも笑みを零す。自分が守りたいものが自分を守ってくれる事を実感しながら。やがて、碇家に新しく写真が飾られる事となる。そこには、二人の少女に抱き着かれ照れくさそうに笑う少年と、それを見て微笑む四人の大人が写っていた……。
碇シンジは精神レベルが上がった。勇者のLVが上がった。
新戦記エヴァンゲリオン 第二十三話「涙」完
ここで一度シンジの状態をおさらい。
精神コマンド……気迫 直感 集中 不屈 魂 勇気
特殊技能……底力LV9 見切り ガード 気力限界突破 アタッカー 勇者LV7
……かなり敵無しな感じですね。もう一度全部乗せゼルエルが来ても、余裕ではないですが確実に勝てるぐらいにはなったかと。