「ぼうっとしていては、避けれませんよ。」
対する神通教官の構えは上段や八相でもなく、緩やかに正眼の構え。
視線を交わしながら彼女は、接近を悟らせぬよう摺り足で間合い的確に詰め鋭い突きを放ってきた。
弛緩した言葉から一拍、力みを感じさせない語調のまま瞬きの一瞬を以て、視界の端から像をぶらし、ごうっと音を立て竹刀が人体の急所である私の喉元を目掛けて吸い込まれゆく。
——っ、速い!!
神通教官とは一足一刀の間合い、腕と竹刀の長さは目算で四尺六寸ほどで彼女からも私も一歩下がれば当たらないそれだけ距離があったはずだのに瞬間移動が如く歩法だけで近付くような相手だ。
この場から一歩下がり避けるか、首を逸らし返し太刀か逡巡する。
いや、そんな真っ当さが通用する相手ではあるまい。
多少無様でも斜め後ろに勢いをつけ、屈みながら背を使い転がる様にして小さく側転。
反動で立ち上がり前へ飛び込むようにして最速の突きを以て応酬する。
「つぇぇいッ!!!」
突きというのは振るうよりも速く、威力を一点に集中することができる。
反面、点の攻撃は攻撃範囲が狭いため練達であればこそ避けられ易く伸ばした腕を戻す間は致命的な隙となる。
腕を戻さねば返せぬ今の神通教官に、二の太刀は望むべくもない。
狙うは首の一点、軸を逸らされることを注意しながら切っ先が彼女の首へ。
——その首、獲ったぞ。
ふと眼が合った。平時と変わらぬ平静な色、否。
目尻が下がり口元に浮かぶのは笑みか。その余裕に内心を焦りが浮かぶ。
惑わされるな、一夜。
一足下がったとて既に回避は不可能だ、首を逸らしたとて追従してみせるとも。
払いをする隙は彼女にはないのだ。そら、腕を見よ。
今とて腕を引いて……いない?
「東郷、獲ってなどいません。」
耳元で囁かれたかのように、小さな声が。神通教官の声が確かに耳に届いた。
神通教官は突いた腕と足を引かず、むしろ前へ飛び込んだ。
正確に狙ったはずの突きは目測がずれ、最小限の動きで彼女の腕と腕の間から右首を掠り突き抜ける。
互いの距離が狭まり私の突いた腕も彼女の腕の間へ。
——不味い。
背後でかたんと物が落ちる音がしたかと思うと、右腕上腕をその両手に掴まれる。
神通教官は更に一歩左足を踏み込み捻り屈む。
飛び出した身体は自然と背面を見せた彼女の背に乗せられ視界は天地を返し背に痛烈な痛みが走る。
「東郷、大丈夫か!」「一夜ッ!?」
暗転する意識の中、仲間の声が聞こえた。
1936年-7月 東京 八王子 海軍幼年学校 修練場
覗き騒動から一週間が経過し私を含めて篠崎、金淵、山河そして綴里は夜の修練場にいた。
普通なら自室にいる自習時間。かような場所に私たちだけがいる理由はその騒動に端を発していた。
ある意味で激動の一週間。
当日の段階では何事かも知らなかった女子生徒たちも翌朝にはほぼ全員の知るところとなり、神通教官の処罰程度では収まりがつかなくなったのだ。
当事者であった篠崎、金淵、山河…そして「特別扱いはしません」といわれた私を含めた四名への取調もとい、面談。そしてそれは同じ三号生、学級を跨いで二号生や一号生にも行われた。
神通教官の圧力と被害者女子生徒一同の熱意の甲斐あってか、篠崎たち以外にも余罪が発覚するに至ってしまい学校中が巻き込んでの騒動へ。訓育は中止になり実に一両日も掛かった教官らの会議の結果は、関係者とされる一号生の自主退学、二号生以下は禁則追加、篠崎らには夕食後の神通教官直々の追加訓育という罰則だった。
この程度に収まったのは友情ともいえる。
私が海軍の若手士官だった頃も下世話な問題は割と起きていた。
夜間外出から逢引も珍しくはない。
私とて時には協力し口裏を合わせたこともある。
勿論、発覚すれば重度の体罰や食事睡眠なしの謹慎、酷い時は不名誉除隊である。戦争の気運が高まる時期での不名誉除隊など、事が事だけに真っ当な手段では生きてはいけまい。
ただ、あくまでも女性軍人は存在しなかった世界の話だ、当然ながら共同生活などもありえない。
現代社会の軍こそ女性にも門を開いているが男女感の問題は数多く、その点で武家の娘が軍人になるのは当たり前、同じ屋根の下で男女が寝泊まりすることをよりによって軍が許容している世界なのだ。
男女間の悩みは海幼でも今に始まった話ではないのだろう。
——流石に、覗きが発覚したのは初だとは思うが。
軍人を志願する未来の士官たちからすれば、退学という処置は重い。
積極的な関与が裏付けされた一号生以外が軽度で済んだ理由。
それは十三歳という年齢に武家や高位階級の子息子女であることを踏まえ、判断に悩んだ教官たちに対して「自らの監督不足として罪を被ります」と神通教官が言い放ったからだそうだ。
事件後も完全無罪だった綴里が仲の良い女子生徒から聞いたらしい。
私は彼女ならば、ありえそうな話だと思った。
下らない案件で会議が長引いたのは、扱いの難しい立場の生徒をどうするか。
仮に大将の子息を退学などさせれば自身のキャリアに関わり軽すぎれば海軍省やこれまた長官の子女などから突き上げを喰らうのだ。
その点、神通教官や三笠母上といった艦娘も難しい立場にあるようだし何より彼女自身がそういった階級や人間関係に意図して頓着していないように振る舞っている節がある。
事件により男子全員が肩身の狭い思いをしたが、その噂が流布すると男子は神通教官を畏敬し不満を口にしなくなり。
女子からは尊敬され、神通教官の態度が軟化したように感じるのは気のせいではない。
すべてがよい方向に進んでいるようにも思えるが問題もあった。
当然、私は男子である。あるので好意的とまでいかずとも会話や食事をしたことがあった女子生徒からはまず避けらるようになった。
当たり前のことだが、悲しい。
もてはやされたいとは思わないが、そこはやはり男なのだ。
精神的に枯れてはいても身体は若いので反応はしてしまう。
もう一つ。
生物が生きるに欠かせない休憩はあれど娯楽の少ない時代に、まず楽しみだと言い切れるものは食事だ。
海幼での食事は三食制、大食堂を使用して各々が配膳を持ち当番の子からよそって貰い好きな席で食べるのだが、女子が当番だったとき…というか男子が当番であることはまずないので頂ける量が激しく変動するのだ。
主食に一汁二菜、稀に甘味があるので相手の感情次第では主食が大盛りに汁、菜なし…とか主食なしで汁、菜半分だとか。
篠崎などは主犯と知れ渡っているから、誰よりもあからさまに少ない。
勇気を出してお代わりを言い出せる勇者は今のところいないようだ。
女子の方が多い環境で、女子を敵に回すのはやはり危険だと実感した。
考えてみればあの時代の女学生にも大和撫子とはほど遠い人物は多くいた気もする。
食事だけではなく生活面からも中々に辛く綴里が気を利かせてくれるから耐えられている、と彼に言葉にして感謝するのは両手指の数では足りまい。
その影響、ではないとは思うのだが私が困るだろう場面では助けてくれるし。
綴里との距離が近付いた、気がする。二人きりの時は名前で呼び合うようにもなった。
神通教官との接触で青い顔をしていた理由は未だ聞かせてはくれないが、頻度も減り入学当初の笑顔を見せてくれるのは友として大変喜ばしい。
だが、それと反するように学校内空気が重い、とにかく重かった。
この空気で普段通りに振る舞えるのは神通教官と、女子生徒からも女性認定されている綴里くらいなものだ。
だからこそ、綴里の笑顔に胸が華やかになるに違いない。
今の私なら神通教官が、もし満面の笑顔を見せたら恋に落ちる可能性もなきにしもあらず…母上でもいい。いや、よくない。
何にしても綴里の愛らしい笑顔はやはり、男子とは思えない。
と思わず口にすると「一夜には言われたくないよ」と不満げに言われてしまった。
頭髪に制限がないとはいえ、確かに母上仕立てられた髪は明らかに長いだろう。
顔の作りも女性寄りであることは渋々認めざるを得ない。
亡くなる前、爺様からは「目つきが生意気」だの「目を綴じていれば母以上になる」だの有り難い言葉を戴いているので可愛い訳ではないのだろう。可愛いなどと言われても、今世とてれっきとした男なので困るのだが。
髪を維持しているのは単に「切りたい」なんて言うと母上が悲しそうな表情をするため、切るに切れず維持しているだけで。
そうして今に至る。
要は神通教官の罰則として私たちは修練場にいる。
綴里は「東郷が罰則を受けるなら、同じ寮室の僕も同罪です!」という進言が酌まれたに過ぎない。
背中の痛みに耐えながら正座して、神通教官と金淵の試合を見ている。
視界の端では既に綴里、篠崎と山河が気絶し寝かされていた。前者は健闘し後者二人は速攻で沈んだ。
どうやら気絶すると私も含めて神通教官に端まで運ばれるようだが、綴里は仰向けに寝かされているのに対して二人は殺人現場の死体のような倒れ方のままである。哀れかな、野郎二人。
金淵が、いま沈んだ。十三にして既に神通教官と同じくらいの身長で体格のよい彼が横合いに倒れる。
夜の修練を通して、私は神通教官への認識を改めざるを得ないなと思い始めていた。
教官は座学を担当し、術科では顔をまず出さないで他の教官らに専ら、顔に大きな傷のある鏑木教官が私たちを訓育してくれていたため、身体を動かすことは得意ではないのかと考えていたがどうやら違ったようだ。
先の試合にしても、手加減はしているのだろうが防具が防具の体を成していない。
あの突きとて直撃すれば喉を潰され再起不能になるのではないか、と肝を冷やしたほどの速さを感じた。
無論、避けると確信した上での突き通しなのかもしれないが……。
背負い投げされた私の防具は見事に割れ、先の馬鹿三名との試合では面一本で全ての竹刀を叩き折っている。
艦娘については結局、兵器であるとの発言や神職に近いという同期らの証言しか聞かされていないが身体能力も人並み外れているらしい。
思えば母上も成人男性ですら重いだろう家具の類を平然と持ち上げていた気がする。
——まさか制御が出来ないから術科に参加していないだけなのでは。
そんなことを考えていると面を脱いだ神通教官が此方へ近寄ってきた。
「東郷、三号生。背に異常はありませんか?」
「はい、大丈夫かと。」
私の返答に神通教官は安心したのか微笑すると、思い出したように思案顔になる。
「そうですか……ところで。」
「はい?」
「貴方は、剣術の心得があるのですか?」
前世では確かにある。皇族の血縁として学ばされた柳生新陰流だ。
江戸柳生と呼ばれたそれは私の内にあり師には「久那貞様には才能はありませんな」と断言されたが、皆伝は頂いていた。それ以外にも古武術などおよそ身を護る技術は叩き込まれた。
ただ、海軍でましてや海の上で役に立つことはなかったと断言できる。
当然といえば当然の話だ。部下や後輩を指導するときに使えたかな、くらいだろう。
鍛えれば鍛えるほど身についた前世と違い、今生の身体はあまり肉が付いてはくれないので自己稽古は怠りがちだった。勝てるとは思っていなかったが慢心していたのもやはり事実。
「はい、少しだけ祖父に。」
していない、というのは違和感を与えてしまうかもしれないと爺様を使った。
得心した表情を見るに正解だったのだろう。
「成程。少し本気を出してしまいました、よい師……だったのでしょうね。」
「はい、尊敬している人物の一人です。」
これは嘘ではない。爺様の名がこれ以上傷付かぬようこれを機に鍛えなおすとしよう。
1936年-12月 東京 八王子 海軍幼年学校 教室
神通教官の物腰が少し、柔らかくなり覗き騒動の混乱も治まった頃。
午前の訓育終了すると教壇から教科書を抱えた鏑木教官が私を呼び出した。
「東郷三号生、ちっと俺と一緒に来てくれな。」
「はい?」
教室から退室する彼の後を追うと「悪いねぇ」と苦笑しながら手招きしている。
この男、一見すると人相は凶悪だがフランクな口調と相まって女子からの人気が高い。
神通教官とはあまりよくない関係性のようだが。
暫く歩くと扉の前で止まる。
「ここだ。実を云うと、お前さんに会いたいっていう御方が居てなぁ。」
「はぁ……その御方とは?」
「入ってくれりゃあ、分かるさね。」
応える気はないということか。
鏑木教官は、緩そうな雰囲気だが規則には堅い。
おそらくは発言を禁じられているのかもしれない。
——この部屋は確か、使われていない筈だが。
扉をノックして「入ってくれ」という声を聞いてから入室する。
鏑木教官は入らないで私に軽く頭を下げると扉を閉めた。
室内は簡易の用具室、広さは六畳あるかないか。
中央に私たちが普段教室で使う机が二つ並び、それを挟まれる形に椅子があり窓に面した向かい側には既に座っている中年男性がいる。
灰色のスーツに身を包んで、眼差しは柔らかい。
一般人ということはないのだろう。はて、この顔どこかで。
三笠…いや違う、爺様の家でもないな。海幼で見掛ければ気付くだろう。
直接、言葉を交わしていれば記憶に残る。会話はしていない、しかしこの視線を私は知っているようだ。
——国葬に参加していなかったか、そもそも前世で……。
「米内……閣下であらせられますか?」
男の眼が細くなっていく、値踏みするかのような色。
記憶に残る
ほぼ外地にいた私とは接点もほぼなかったが、唯一熱に浮かされることなく冷静な視点を以て国内を取りまとめていた将官の一人で、戦後処理で力を入れていたときにお会いした気もする。
「ふむ、質問に質問で返すようで申し訳ないね。僕は何処かで会ったことがあったかな。」
「いえ、残念ながら記憶にありません。ですが海軍では珍しく芯を持った方だと祖父が。」
「ふっ……はっはっは!物怖じしない子だね、君は。鏑木くんが面白いというのも分かるよ。」
鏑木教官が…?接点が見えない。が米内閣下であることは間違いないらしい。
背筋を正し敬礼しようとすると首を振って米内閣下は私を止めた。
「東郷、だと違和感が拭えないな。ええと一夜くんと呼んでもいいかい?」
「はい。」
「じゃあ、一夜くん。僕は軍人として赴いてる訳じゃないから大仰な礼は要らないからね。」
「…はい。」
詭弁だとは思う、が軍の意向ではなく独断ということだろうか。
「率直な話を云おう。君の力を貸してほしいんだ。」
「力、でありますか。差し支えなければ詳しくお聞きしてもよろしいですか。」
穏やかな表情のまま、米内閣下は大仰に頷きながら「無論だよ」と続ける。
「実は、君が東郷さんの血を継いでいないことは知っているんだ。
大多数は知らないんだろうが、そんなこと実際問題じゃない。」
「君が思っている以上に、この海幼は色んな思惑が入り乱れていてね。
皇家、武家はいうに及ばず海軍の細かな組織がどれだけあるのか。政界も力を入れているしね。」
「君の知っているところだと、神通くんや綴里くん…確か同期生だったかな。」
「鏑木教官も、ですね。」
「そうだね、彼は私だけの手足というわけでもないが。」
思っている以上の力が働いているのはわかる。だが、その意が酌めない。
軍神東郷を祭り上げる陣営にとっては私は神輿にはなりうる。
何のためか?発言力と組織力の強化だろう。
それを見越して成績面で優秀さをアピールしているのだからそこはいい。
ただ、それだけなのだ。
今はたかだか十の坊主に過ぎずどれだけ秀才でも実績がない。
学生にまで手を伸ばして私を勢力圏に入れるほどには思えない。
釈然としない表情を読み取ったのだろう、米内閣下は続けた。
「一夜くん、君たち海幼生が何と呼ばれているか知っているかね。」
「いえ、存じ上げません。」
「艦神特別幹部候補生、いってしまえば艦娘候補とそれを指揮し支える幹部育成だね。」
——なんといった。艦娘候補……?
「ここはね、武家が率先して子女を送り出す艦娘育成機関なんだ。」