波は思っていた以上に穏やかだった。
初めて入った海の底は、ほのかに碧がかった紺色をしていた。
青白く光るクラゲが、透明のスカートをたなびかせて、ゆったり波の中を漂っている。
上を見れば波の形に区切られた日の出の光が差し込んで、幾重もの光の筋を海底に届けていた。
サンゴの木の中から、小指ほどの大きさをした銀色の魚が何匹も群れになって飛び出した。
海底に届いた光の筋を、その体全部を使ってキラキラと纏っている。
「う、はぁ……」
――声に出したのは、誰だったか。
この光景を見ただけで価値があると思えるほどに美しい景色だった。
はっ、と我に帰る。
「や、やるじゃねぇか……ボクの次ぐらいには」
自分でも解るような負け惜しみを口にしてしまった。
『はっはっは、奇麗じゃろ?わしの好きな景色も』
「ええい、このフォスフォフィライト、宝石史上最も美麗な容姿を持つ者。ボク以上の美しさをそう簡単に認める訳には……ッ!」
「何言ってるんだお前。頼むからこの大事な時にアフォスを表に出さないでくれ」
「身内の対応が塩過ぎるッ!?」
戦争なんじゃよ!?このウミウシ、事欠いてボクより奇麗とか言っていたから、これもう戦争なんじゃよ!?
「海は――広く、大きく、美しいが、その分だけ危険も身近にある場所だ。はしゃぐのも解るが、注意しなさい」
「……ふぁい」
先生に頭ヨスヨスされたでござる。
この余裕。流石大人の男は格が違った。
「今更ですけど、先生……その格好で大丈夫ですか?ボクの防護服やジェードの制服は布の数が少ない方ですから十分動けますけど……先生のは直綴(じきとつ)に五条袈裟そのままでしょ?」
しかも下は切袴(きりばかま)である。
何を言ってるか解らない人は「直綴」で画像検索しよう。きっと部位名とかが入った画像が出てくる。
いやボクだって最初からこんなコアな知識あった訳じゃないのよ?
法衣の名前はちゃんと先生が知っていたので、そこから服飾担当のレッド経由でボクにも届きました。
ンでこの衣装、布がものっそ使われているので、あったかそうだけどそれ以上に動き難そうなのである。
そんな状態で波のある海の中ってあーた……
「問題はない。我々は肉の者との国交を築きに行くのだから、極力正装で赴かねば。……それに、動作にもそれほど支障はない」
すっと右手を前に伸ばし、おなじみの「破ァッ!」の動作をゆるりと行う金剛先生。
頼もし過ぎるわ。
王サマなんか、その姿を見て『キャーっ!素敵っ!抱いて!!』とハートマークを撒き散らしておられる。
抱いてっておめえ、もしそう言う機能がボクらにあったとして、このサイズ差じゃおめえなんてオナホだぞオナホ。
「――フォス、王が何か仰っているようだが、なんと?」
「……凛々しく荘厳なそのお姿、一国の王として感服いたします、と」
「はは、それは照れますな。誠に恐縮です」
――なんでボクが気ぃ使ってこんなフィルターかましてあげなきゃならんのよ!?
いっそそのまま通訳して色んなもんをブレイクさせたろか!?
『やっぱええのぉーイイ男って。目の保養じゃのぉー』
ヤロウ……ボクしか言葉が分からないからってまるで実家のように寛いでいやがる。
「……ねえ、王サマ。ボクらの住む砂浜の近海って言ってたけどさ。具体的にどれぐらいかかるの?」
意訳すると、ボクはこのある筈がないのにキリキリしてる気がする胃痛をどんだけ抱えていれば良いんですか、となる訳だけど。
『ふむ。言ったとおり、それほどかからん。距離としては……目の良い物なら、あの砂浜から見る事が出来る程度の距離じゃな』
「――へえ?」
反射的に後ろを向く。
ボクらの住んで居る砂浜が、まだくっきりと見える。
「ボクらの国から見える距離に住んでるんだって」
「ほう。それはそれは……今まで気づかなかったのが不覚です」
『海の中じゃからの、致し方ない。……しかしわしらは、骨の者の存在には気づいておった』
やっとそのまま訳せる言葉が来た。
今度はフィルタを掛けずにそのまま先生たちに伝える。
『魂・肉・骨……その伝説は古くから、わしらの中で語り継がれておった。……一度コンタクトを取ろうとした代もあったようだが、言葉の壁があった為、特に何も起きずに終わった事もあったと聞く』
「――だ、そうですが……変わった事ありました?」
しばし先生が拳を口元に当てて考え込んでいた。
何も思い出せなかったようで、軽く首を振っている。
「……いや、申し訳ない。私たちは完全に認識していない事柄だったようです」
『無理もないの。わしらとお前たちでは住む場所もサイズも違う……此度のような事がまず、奇跡に等しい事なのじゃろう』
たまたま王サマが学校に来て、たまたま言葉が通じる事態になって、たまたまそれをみんなが信じて、たまたま伝説が合致し、国交を結ぼうと思えるようになって……
なるほど、この状況はまさに奇跡だ。
「――改めて、この巡り会わせに感謝します」
『わしもじゃ。――特に……』
「――超絶美形で頭も良いパーフェクトアイドルフォスフォフィライトちゃんと出会えた事はまさに史上の喜びである、と」
『ヘイ、ちゃんと訳せアフォス』
「おい、ちゃんと訳せアフォス」
「こら、ちゃんと訳しなさいア……ん゛ん゛っ、フォス」
「先生ッッ!?」
ちょっと待って今とんでもない暴挙が顔をもたげた気がしたんですが!?
オイこっち向けよロンズデーライト、目を逸らすんじゃあねえ。
「――おっと?」
まるで話を逸らすタイミングでジェードが立ち止まった。
訝しげに視線を移す。――なるほど、その理由は分かった。
少し険しい崖がある。海の中でも崖って言うのかは知らないけれど。
「……少し怖いな。ゆっくり降りれるか?」
「あー……まあ、やってみましょ。王サマちゃんと捕まっててね」
「フォス、不安であれば変わろうか?」
「大丈夫、いざとなったら泳ぐよ。比重の高い身だけども減速ぐらいは出来るでしょ」
『これを機に金剛様に変わると言うのはどうじゃろ?』
「コラちゃんと捕まっててって言ったでしょ」
先生ただでさえ動き難い格好してるんだから、ワガママ言うんじゃありませんっ!
海底の崖は、まるで砂で出来た山の斜面のようだった。
グラススキーでもやるような気分で、斜面をずるずる滑って行く。
――ホント、「生身」とは違うよね。抵抗も浮力もあんまり感じないんだもの。海の中って言うより月の上って感じなんじゃないだろうか。重力1/6ちっく。
「と、とっとっと、とと……ッ!?」
バランスを保つのはむつかしい。
そのうち、滑るような恰好から連続して躓くような形になってしまう。
ジェードと先生も似たようなものだった。
斜面の終わりに辿り着いたときには、こける事こそ無かったものの、着陸の衝撃で盛大に砂を巻き上げてしまう。
「わっぷ……みんな大丈夫?」
視界がホワイトアウトして思わず目の前を払った。
その行為は無意味に等しく、モワモワは元気に漂っている。
「こっちは問題ない。先生は大丈夫ですか?」
「うむ……多少、砂が入った程度だ」
そりゃあの重装備じゃあそうなるよね。
モワモワが落ち着くのを待つついでに、服についた目立つ砂も払っておく。
「王サマは大丈夫?――あれ、王サマ?」
頭の上に待避させておいた容器から重さが消えている事に気づいた。
……ヤバい、どっかに落としたか?
慌てて来た道に視線を向けるが、まだ砂煙で視界が開けない。
『こちらも子細無いぞ、フォス』
前から王サマの返答があった。
声の方向から、どうやら来た道に落としたのではなく斜面の先にぶっ飛ばしてしまったらしい。
「いやあ良かった、ごめんねえ。なんか落としちゃったみたいで――」
「――待てフォス!今のは誰だ!?誰と話している!?」
「……ふぁ?」
モワモワの中でジェードが叫ぶ。
「……もしや、ウェントリコスス王ですか?今のは私にも、聞き取れました」
先生の声が続いた。
――何、声が聞き取れたって?
なんだいきなり?
もしかしてこの砂、言語野を広げるインクルージョンでも潜んでたか……?
『おお、それは嬉しや!この姿であれば、あなた方にもこの声は届くのじゃな』
……この姿??
モワモワしていた煙が落ち着いてくる。
――王サマの声がした場所に、それはふわふわと漂っていた。
薄紅色をベースとした、半透明の体。
ドレスを纏ったような姿をした女の人だ。
腰から下は何本かの太い触手が流れている。
「……王、サマ?」
『おう。どうじゃ、度肝を抜いたじゃろう?』
これ以上ないドヤ顔で、その女の人は胸を張った。
中身のなくなった容器が、むなしく海底に転がった。
『――距離としては、あと半分ほどじゃ。故郷に近づけばこの姿になれる……さしずめ、真の本当の姿と言う事じゃな。ぬしらと良く似ておろう?』
ボクだけじゃない。先生もジェードも固まっていた。
「私たちと……似た、姿……」
『うむ』
「と言う事は……王サマが、肉の者……と言う事ですか?」
『うむ』
コホンと咳払いをして、王サマがボクらに向き直る。
『改めて名乗ろう。肉の者……アドミラビリス族の王、ウェントリコススじゃ。紹介がかような形となって申し訳なかった。
流石に、故郷に近づいたらこの形になる、と言うのは信憑性が薄すぎると感じてな。ここに至るまで伏せさせて頂いた……まあ、多少のイタズラ心も無い訳でもなかったがの。
――出来るなら、この姿で話したかったのじゃ』
そう言って王サマは、淑女のようにスカートっぽいヒラヒラを摘まんで微笑みかけた。
……主に先生に。
このウミウシ、事ここに至って先生への印象をやり直すつもりでいやがる。
「すごい……こんな生物がいるんだな。ぽよぽよしてて、飾りも多くて……上半分は私たちそっくりだけど、胸の所に水袋があるのですね」
『ふっふっふ。これは特に有り難い貴重な部位じゃ。讃えるが良いぞ』
そう言ってジェードにドヤ顔の王サマである。
そのドヤ顔っぷりがちょっとピキッときた。
「……」
ぐわっし!
ぐにゅっ!ぐにゅっ!ぐにゅっ!
「フォ、フォス!?フォス!?」
『ちょっ、コラ何をする!?青きリビドーでも呼び覚ましたか!?』
「いや、結構大きいからシリコンかなと思って」
『言うに事欠いてなんちゅー暴言吐きやがるこの宝石!?』
「発言がことごとくオヤジそのものだったし、王サマって言うからてっきりカマくさいオスだと思ってた。メスだったんだね王サマ。この胸は注射?」
『自前じゃい戯けぇっ!?さては貴様今までの意趣返しだな!?ゴメンナサイ謝るから許して!!』
しょーがねぇ、今回だけだぞ。
「フォス、この馬鹿者!!――申し訳ありません、ウェントリコスス王。後でよく言って聞かせますので!!」
『あ、うん……いや、大丈夫です。わしもチョットちょーしノリ過ぎた所はあったなぁと思うんで、はい』
頭掴まれて強制お辞儀である。
子供と一緒に謝る親の図だった。
@ @ @
『ああ、懐かしいかおりだ……愛しき故郷のかおりだ。何もかもを奪われても、これだけは変わらぬ……これだけは』
王サマが感嘆の声を上げる景色は、ボクにとってはここに来るまでに見た景色と何ら変わりはなかった。
むしろ、サンゴや海藻が少なくなっている気さえする。
「奪われた……そうか、アドミラビリス族は確か、みんな月人に……」
『そうじゃジェード。みんな、みんな連れ去られた。そして月の砂と水を与えられ、思考能力を奪われて……養殖されておる。奇麗な貝殻をつけた者から、その衣を剥がされるのじゃ』
「……酷い」
ジェードが絞り出すように言った。
明日は我が身だ。攫われた宝石たちも、きっとロクな扱いを受けてはいないだろう。
「王よ。それでは、この地には……」
『……うむ。今少し歩くが……恐らく、何も残っていないだろう。何名か逃れてくれていれば、もしかしたらひっそりと命を繋いでくれているかもしれないが……少し、見るのが怖くもある』
自嘲気味に王サマが笑う。その手は固く握りしめられていた。
恐怖から震えているのか、怒りを抑えているのか……それとも。
『……すまないのう、宝石の王よ。国交を結びたいと足を運んで貰った事を解っていながら……おそらくわしには、結べるだけの国も残っていないのだ。厚意に甘える形で連れてきてしまった』
「いいえ」
先生がはっきりと即答した。
「もとより、歓迎しますと伝えたはず。確かに意図した旅ではなかったとは言え、故郷に帰りたいと嘆く『仲間』の頼みを、どうして無碍にできるでしょうか。
――特に、王の様子は日が経つ度に衰えていたように見受けます。口に出来るものが少なく、弱られていたのではありませんか」
先生は、「仲間」と言う言葉を使った。
貝もまた宝石のひとつ、と王サマを歓迎した事はつまり、王サマは先生の中ではもう「仲間」なのだと。
王サマが、その顔をくしゃくしゃにしている。
……きっとその表情の名前を、「罪悪感」と呼んだりもするのだろう。
『――本当に、いい男じゃ。生きる『刻』が同じであれば、1も2もなく求愛しまくっているほどに』
「まるで1度も求愛してないみたいに言うのやめてくれませんかね王サマ。っつーか、人の父親口説くなし」
「ち……父親?」
先生がキョトンと呟いた。ニカッと笑ってあげるのだ。
「そりゃあもう。先生はボクたちの父親も同然じゃない。ねえ?ジェード」
「へ、あ!?……あ、いや、その……そりゃあ、恐れ多くは、ありますけども……その……」
どう返すか混乱して、人差し指をつんつん合わせるジェード。
既に答えを言っているようなものだと思う。
固まる先生と一緒にけたけた笑ってあげた。
「……ま、もちっと肩の力抜きなよ王サマ。その泣きそうなツラも必要ないさ。王サマに悪意があるとは考えていないし、許せないとも思えないんだもの。
――それにね。ボクはまだ総取りを全然諦めていないのよ?」
『フォス……』
「それでもその顔したければ……まあ、失敗した後辺りでお願いします。幸先悪いでしょ?」
『……。お前には、ホント敵わんの……』
「ありゃりゃ、伝わってたんだと思ってたんだけどなぁ。それとももう一回同じ言葉が欲しい?
『いいさ。ボクと王サマの仲じゃない』」
――ああ、王サマ。
今あんた、不意打ち食らった先生みたいな顔してる。
目を見開いて口をだらしなく開けた、脇がガバガバの顔だよ。
『……許して、くれるの?』
「そもそも怒ってないからね」
『頼って、良いの?』
「おうともさ。そんだけの準備をしてきたつもりだよ?動くの先生とジェードだけど!」
力こぶを作っておきながら、最後は結局丸投げですけどね。
――先生の手の平が、ボクの頭の上に乗る。
「……ご家族の、方ですか?」
『……。アクレアツス……弟じゃ。戦いと食う事しか能のないバカだが……何故か、憎めなくての』
「あらら、ボルツの同族かぁ。どこにでもいるものなのね」
「フォス」
「はァーい」
窘められてしまいました。
「え……あれ?あっと、すまないフォス。その、恥ずかしながら……途中から話に置いて行かれている気がして」
ジェードが混乱している。
無理もないよね、途中から明らかに前提が変わっちゃったもの。
ボクとしては、先生がスルッと入ってきた事に少しビックリしてしまいました。ゴメンね先生。
人差し指立てながら教えてあげる。
「カードの話だよ、ジェード。良くみんなで寝る前にやるでしょ?
先生がK(キング)、ジェードがA(エース)、ボクが道化(ジョーカー)、そして王サマが今Q(クイーン)になった。残念ながらJ(ジャック)として用意したボクの剣はボルツに潰されちゃったけども」
「アレは諦めなさい。J(ジャック)にするには不安が過ぎる」
「あらら」
先生が右腕を袖の中に入れた。
前に合わせている襟から手を出して、ガバっと開く。
時代劇なんかでよくある、着物着ている主人公が片腕だけ脱ぐアレだ。
先生体格が良いしイケメンだからすっげえ絵になってる。
……おい、王サマ、自重しろ。目がハートマークになってんぞ。
「まあ、つまりはそう言う事。絵柄(スート)はもちろん全部宝石(ダイヤ)だ」
「フォス、お前の言う『総取り』を確認しておきたい」
「ええ、それはもう。王サマと国交を繋いで、弟さんも助けて、人攫いから情報も引っ張って、大団円で帰還ですよ?」
「……よろしい」
あ、先生の口角が上がった。
珍しいな、こういう笑い方をする先生って結構レアだよ?
――水面の向こうに黒点が揺れる。
きっとアイツ等、ボクらのメンツ見て戸惑っているのだ。
王サマの手を引きながら、先生とジェードの後ろに下がる。
きっとボクの表情も、今の先生と同じような顔になっているだろう。
「ボクらがネギしょってきた哀れなカモだと思うなよぉ?
――勝負(コール)だ!!」
その声を合図にしたように――槍の雨が降り注いだ。
フォスの博物誌?
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その5「フォスフォフィライト」
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薄荷色をした単斜晶系の宝石。
硬度は3半で、全方向に完全な劈開を持つ為衝撃に対して非常に脆い。
上記の特徴の為、結晶にノミやヤスリを入れた場合、ほぼ確実に意図しない割れが発生するほどに繊細である。
断口は不平坦であり、層を重ねたような貝殻状に開く事もある。
断口が不平坦な為か、光に透かすと水面を重ねて薄荷色に染めたような、非常に美しい様相を見せる。
屈折率は低めで光沢はガラス質であり、その輝きは優しく、落ち着いている。
その脆さから、取り扱いには非常に繊細な注意が必要である。
@ @ @
(……こ、こんな感じ……か?)
「あ、シンシャ、何してるの?」
「ああああああああああああああああッッッ!!?
――ダダッ、ダイヤっ!?いや、なんでもない!!別に何もしていないっ!!」
「もう、そんなに驚かなくても……うん?それ何かしら?フォスフォフィライト――?」
「読むなああああああああああああああああッッッ!!」