結婚は人生の墓場である、という言葉が存在する。
これは元々、フランスの詩人シャルル・ボードレールが当時国中に蔓延していた性病を憂い残した言葉が誤訳されたものらしいのだが……なるほど、的を射ている。少なくとも誤訳されるのも無理はないと俺は目の前の地獄を何処か他人事の様に見ながら痛感した。
「司令官♪春雨に似合うドレスはどれだと思いますか?」
「どれでも凄く似合うと思うよ……うん」
秋も深まり暑さよりも肌寒さを覚えるようになった九月の昼下がり、俺は執務室の椅子に座らされていた。すぐ隣では肩と肩がぶつかり合うような至近距離で春雨ちゃんがウエディングドレスのカタログをパラパラと恍惚な表情で捲っている。
「もうっ、司令官!春雨はそんな玉虫色の答えが欲しいんじゃありません!司令官の好みが知りたいんです!一生に一度の結婚式……司令官には一番綺麗な春雨を見てもらいたいんですっ、はい!」
「ハハっ……ウレシイヨ」
結婚────春雨ちゃんの口にしたその余りに現実感のない言葉に乾いた返事が零れた。そりゃ俺もいつかはそういうことが有るのかもしれないと漠然と考えてはいたが、それはまだまだ先、少なくとも二十代の事ではないと思っていたのに。なぜ、どうしてこんなことに。
「一応断っておきますが……次逃げたら本当に許しませんよ?といってもその折れた両手片足では逃亡なんてできないですね、はい」
そう言ってギプスでぐるぐる巻きにされた俺の左足を愛おしそうに撫でる。彼女の手は俺の左足から下腹部、胸、やがて首へと移動し最後に顔を近づけこう俺に耳打ちした。
「ようやく────司令官が春雨だけのものに───」
ゾクリと身体中を蛞蝓が這いまわる様な悪寒に襲われる。いや、悪寒なんて生易しい表現では足りない。これは────恐怖だ。
このまま春雨ちゃんとなし崩し的に結婚し家庭と言う名の牢獄に永遠に囚われてしまうのではないか。そんなイメージが俺の脳内を侵食していく。
「しれいかん……」
逃げなくては。そう身体へと指令を送るが折れた手足ではそれは敵わない。
もうダメだ
諦めにも似た覚悟を決めた時、春雨ちゃんの背後にある執務室の扉が開け放たれた。扉の向こうにいたのは時雨と村雨。二人ともその艶やかな髪を少し湿らせ、その先端からは水滴が滴っている。
「お待たせ春雨。お風呂空いたから君も入ってきなよ」
俺に手を這わせていた春雨ちゃんは名残惜しそうに身体を離す。そして去り際にそっと俺の耳元で囁いた。
「残念です。お話の続きはまたお風呂から上がってからしましょうね、司令官」
言い残すと春雨ちゃんはテッテッテと軽い足取りで入渠施設へと向かって行った。
「助かった……いいタイミングで来てくれたなお前ら」
九死に一生を得た気分だ。あのままこの二人が来なかったらどうなっていたか想像もできない。
「別に提督を助けに来たわけじゃないわよ。今回の偽プロポーズは流石に貴方が悪いもの、自業自得よ。まあでも提督を取られたくない時雨はどうだったかは知らないけどね」
「余計なことを言わない」
ポカンと時雨は村雨を軽く小突き黙らせた。普段なにかと俺に噛み付いてきて可愛げのない村雨だが実の姉には弱いらしい。
「提督、僕達が何をしに来たのか……わかってるよね?」
時雨は首を傾げトレードマークである黒髪のお下げを揺らしながら問うた。優しい声色と表情ではあるがこいつと永い付き合いの俺には分かる。今、時雨は過去最大級に激怒している。記憶喪失を偽装した時やサブリミナルで洗脳した時だってここまではキレていなかった。返答を誤ればシバかれる───
「分かってるよ。甲羅棲姫のことだろ?」
そう応えると時雨から発せられていた怒気が萎んでいった。良かった、どうやら正解らしい。
「そう。他にも色々と聞きたいことはあるけどまずはそれだね。あの深海棲艦は一体何者なんだい?陸でも力を使えていたし、君の妹を名乗っていた」
「分からない」
「この後に及んでまだ隠し事を……?ねぇ提督、気づいてないのかもしれないけど僕は今凄く怒っているんだ。僕は何度も忠告したよね?君はあのアイアンボトムサウンドを終わらせた英雄、深海棲艦はいつだって君の命を狙っているって。だというのに何度も……何度も……脱走して今回は手足も折られて死にかけてる」
「し、時雨さん…?」
「僕達はいつだって君の事を心配しているのに君はそんなのお構い無し。ねぇ提督、僕はもう疲れたよ。どうすれば君は僕達の想いに気づいてくれるのかな?」
時雨の身体から黒く、禍々しい空気の様な物がとめどなく溢れでる。何時もの時雨ではない。これは春雨ちゃんの髪が白くなる時と同質のものだ。その異様な雰囲気に村雨までもが顔を引き攣らせている。
「本当に知らねぇんだよ!!アイツとはあの浦島神社で初めて会った!妹がどうのこうの言うのだってデタラメだ!」
あまりの迫力に慌てて時雨に弁解する。すると時雨から漏れ出ていた黒い雰囲気が少しづつ霧散しやがて消えていった。
「ハァ……どうやら本当に知らないみたいだね」
「信じて……くれるのか?」
「まぁ、僕達は今まで散々、何度も何度も君に騙されてきたからね。君が嘘を言っているかどうか何となく分かるようになったんだ。その感覚から云えば君は『嘘は』ついていない。何か隠してはいるようだけどね」
呆れたように言って時雨はため息をついた。そしてどかりと秘書艦用の椅子に腰を下ろして脚を組んだ。村雨は興味が無くなったのか一人で珈琲を淹れて寛いでいる。俺の分は当然ない。
「もういいよ。知ってる事、喋れることだけ教えて」
「知ってる事って言われてもな……」
「なら質問。提督は脱走した後、どうしてあの場所に向かったんだい?」
あの場所というのは浦島神社の事を指しているのだろう。しかし何故、と問われると答えに窮する。元々はカメ型の深海棲艦と接触する為にあの場所へ行った(結局いたのは甲羅棲姫と丙棲姫だけだったが)けどそれをこいつらに言う訳にはいかない。カメの存在はまだ隠しておきたい。
「えっと……観光…かな?」
瞬間、俺の折れた腕に巻かれていたギプスが木っ端微塵に消し飛んだ。パラパラと破片や埃が舞う向こう側で時雨が拳をこちらへ突きつけている。
「僕、さっき怒ってるって言ったよね?」
「へへっ、冗談だろ。ちゃんと話すからそんな怒るなよ」
顔を引きつらせながら宥めると時雨は拳を下ろし、村雨に「ごめん、提督のギプスを巻き直してあげて」と頼んだ。村雨は面倒そうにしながらも渋々と時雨の指示に従う。
「それで?本当のところは?」
時雨はもう一度、邪気のない笑顔で俺に問うてくる。その笑顔の下にとんでもない悪魔を飼っているというのにどうしてそんな顔ができるのか。巷ではこいつを大天使時雨等と呼ぶ奴らが居るらしいがそいつらにコイツの本性を見せつけてやりたい。
「浦島太郎について調べてたんだ」
俺はカメの事を伏せつつも本当の話すことにした。
「浦島太郎……やっぱり何かあるんだね」
「ああ、この間おーちゃんが言っていた『乙姫が怒っているのは玉手箱を開けたからではありません』とか言う言葉の意味が気になってな。あの神社は浦島太郎伝説と縁のある場所らしいから何か手掛かりがあるんじゃねえかと思ったんだ」
「ふーん。それで何か分かったのかい?」
「いいや。春雨ちゃんによく似た巫女さんに色々教えて貰ったが眉唾な話ばかりだったな。挙句には玉手箱の正体がタイムマシンだったとかいう始末だ」
「タイムマシン……そういえば最近山風がそんな事を言ってたような……」
時雨は顎に手を当て何かを考えるような仕草をした。思い当たる点でもあるのだろうか。
「なら次の質問。丙棲姫はどうして君を助けてくれたんだい?」
「俺が知る訳ねえだろ……。本人は『戦争を終わらせたくないから』なんて嘯いていたがどういう意味なのやら」
「そっか……本当に提督も今回の件は何も知らないんだね。なら次は天津風のところへ行ってくるよ。彼女も何かしら隠してそうだしね」
「ああ、行ってこい行ってこい」
シッシと折れた腕を軽く振って時雨を追い払う仕草をした。時雨は頬を膨らませたが何も言わず村雨と向き合う。
「じゃあ村雨、提督がまた逃げ出さないようにしっかり見張っててね」
「うん、村雨に任せといて。といってもこの怪我じゃあしばらくは一人で歩くこともできないと思うけどね」
□□■
「助けてくれ村雨」
時雨が天津風の元へ行き村雨と二人きりになった直後、俺は土下座をした。元々、俺の事を毛嫌いしているこいつに頼み事をするのは癪だが最早手段を選んでいられない。
「ぜっっったい嫌」
「まだ用件も言ってないだろ……」
「聞かなくても分かるわよ。どうせ春雨との結婚式を潰してくれとか言うんでしょ」
「分かってるなら話が早い!その通りだ。頼む!頼れるのはもうお前しか居ないんだよ」
「い・や!自業自得でしょ。脱走する為の嘘で貴方は春雨にプロポーズをして春雨はそれを受けた。なら貴方はその責任を取らなくちゃいけないわ」
そう言って村雨は俺の折れた右手を軽く叩いた。彼女の正論に俺はぐぅの音も出ない。
確かに俺はこの鎮守府から脱走する為に春雨ちゃんに偽りのプロポーズをした。そして脱走には成功したものの本来の目的であった亀型の深海棲艦に会うという目的も達成できず、さらに甲羅棲姫などという俺の妹を自称する深海棲艦に遭遇しボコボコにされた。何とか命は拾ったものの両腕片足は折られ脱走は疎かまともな生活すらままならない。
「お前の言う通りだ。確かに、偽のプロポーズをしたのは間違っていた。やっちゃいけないラインを超えていた。でもな!だからこそ春雨ちゃんが可哀想だと思わないのか!?偽のプロポーズだぞ!?心の籠っていないそんな言葉でお前の妹は結婚をしようとしている……それでいいと思うのか!?」
「いや、あの子あれが偽のプロポーズだってことくらい気づいてるわよ?」
「は?」
「あの子も馬鹿じゃないし、当然よね。けどあの子はそれでも良いと思ったのよ。偽のプロポーズでも何でも貴方と結婚できるならそれで十分なの。健気よね、ほんと」
それじゃ、話は終わりね。式には参列させてもらうわ。そう言ったきり村雨は俺の言葉に耳を貸さなくなった。
このままでは不味い。本当に不味い。洒落にならない。
春雨ちゃんと結婚させられ子供でも作ろうものならもう本当に脱走なんて出来なくなる。そうなれば一生俺はこの鎮守府に縛りつけられることになる。それだけはダメだ、何とかしてこの絶望的状況を脱しなければ……!
しかしその方法がない、この折れた手足では何も出来ない。何か─────何かないのか!!
「なぁ村雨さん……?」
「煩い。仕事して」
藁にもすがる思いで村雨に声をかけるが取り付く島もない。村雨はこちらに視線を寄越すこともなく黙々と執務をこなしている。
最早これまでか────そう諦めかけたその時、突如執務室の扉が再び開け放たれた。
「先輩!!春雨さんと結婚とはどういうことですか!?事と次第によってはぶっ飛ばしますよ!?」
いつもあれだけ鬱陶しく思っていた浜風がこの時ばかりは救いの女神に見えた。
▫️▫️▫️
「なるほど……春雨さんに嘘のプロポーズをしてそれを春雨さんが真に受けてしまったと」
「ああ……」
「普通に先輩が悪いですね」
「ぐっ、分かってるよ。流石にやり過ぎたと後悔してたとこだ」
「それで結局どうするつもりなんですか?まさか本当に結婚するつもりですか?」
「まさか。俺は誰よりも自由を愛する男だ、春雨ちゃんには悪いがまだ家庭を持つつもりなんてサラサラないね」
俺がそう答えると村雨は右手で額を押さえため息をついた。
「そうは言っても春雨は納得しないわよ。下手な言い訳をしたらどうなるか……死にはしないでしょうけどそれなりの覚悟は必要ね」
村雨の言う事は正しい。もしも馬鹿正直に『あのプロポーズは嘘でした!ごめんね!』なんて言おうものならどうなるか───ドラム監獄に幽閉される程度では済まないのは明白だった。
「その通りだ村雨。だから教えてくれ、お前の妹である春雨ちゃんの怒りを鎮めるにはどうすればいい」
「そんなの私にも分からないわよ。あの子、アイアンボトムサウンドで沈む前と貴方にサルベージされた後とでは少し性格が違うのよね……。今の春雨のことは正直よく分からないわ」
「使えねぇな……」
「いちいち頭に来る言い方ね!まぁいいわ、これから私達は姉弟になるんだから見逃してあげる。ね、義弟くん?」
「勘弁してくれ……」
打つ手なし。頼みの綱の村雨も俺に協力する気はないらしく、当てにならない。唯でさえ手足が折れて身動きが取れないのにこの状況でどうすればいいんだ……
「先輩と結婚するのは私です。不本意ですが協力しましょう」
俺が絶望していると浜風が協力を申し出てきた。普段、というか昔から常に俺の敵だった浜風だが味方になればそれなりに頼もしい。ブレーキの壊れた非常識なこいつにしか思いつかない発想もあるかもしれない。
「助かる。それで浜風、俺はどうすれば春雨ちゃんを怒らせることなく、穏便に結婚式を潰せるんだ?」
「いえ、最早結婚をなかったことにするのは不可能です。そんなことをすれば春雨さんが人類の敵になる可能性があります。そうなれば人類は終わりです」
「笑えねぇな……」
春雨ちゃんが人類を裏切り深海棲艦に与する。そんなことはありえないと自分に言い聞かせるが脳裏を過ぎったその光景があまりに鮮明で現実味を帯びており、俺は浜風の言葉を否定することが出来なかった。
「ですからここに至っては先輩と春雨さんの婚姻を阻むことはもう出来ません。ただし……結婚は結婚でもするのはケッコン。そう、ケッコン(仮)です」
「ケッコン(仮)……?そうか────その手があったか!」
数ヶ月前、突如としてこの鎮守府に送られてきたケッコン指輪(※第9話提督と白露型とケッコン(狩)参照)。確かアレは艦娘と【ケッコン】という形だけの婚姻を結んで艦娘の潜在能力を解放する為のアイテムだった。
あの時はなんて悪趣味で品のない物を作るんだと上に呆れたものだったが────なるほど今の状況にお誂え向きじゃねぇか。
春雨ちゃんに結婚指輪ではなくケッコン(仮)指輪を渡す。そうすればあの時のプロポーズも春雨ちゃんの潜在能力を開放するためのものだったと言い訳もできる。完璧だ……むしろそれしかない。
「ナイスアイデアだ浜風。やはりこういう不義理を考えさせればお前の右に出るものはいないな」
「嬉しくないです。それよりも早く指輪を手配してください春雨さんはもう、明日にでも式を執り行うつもりですよ」
「分かってる。村雨、話は聞いてたな?直ぐに指輪を用意してくれ」
「できる訳ないでしょ。アレはまだ実験段階の試行品なのよ?以前あなたのところに送られてきたのだって運用データを取るためだったんだから」
「そんな……」
絶望した。アレがなければ(仮)作戦は使えない。
「そもそも前回送られて来たのはどうしたのよ。誰もケッコン(仮)してないってことは提督がまだ持ってるんじゃないの?」
「アレは……その……バーナーで燃やした」
「ほんっとにこの提督は……」
村雨はため息を吐きながら再び天井を仰いだ。
「仕方ねえだろ!?持ってたら春雨ちゃんや時雨がおかしくなるんだよ!処分するしかなかったんだ!もう一度入手する方法はねえのか!?」
「あるわけないでしょ!正式に運用されるまで大人しく待ってなさい!」
「待てるか!その間に春雨ちゃんが式の準備を終えちまうわッ!」
グルルルと村雨と威嚇し合うが直ぐにその不毛さに気づき膝を折り前に倒れた。折れた両腕では受身を取ることもできず額が床に激突する。鈍い痛みが走ったがそんなことよりも詰んでしまった現状に目の前が真っ暗になった。
「もうダメだぁ……おしまいだぁ……」
絶望し悲観していると誰かが俺の肩を叩いた。首だけを曲げそちらを向くと浜風が一枚の紙を持っている。浜風はニヤリと、口角を上げ不気味な笑みを浮かべながら言った。
「ありますよ、指輪を手に入れる方法」
村雨編スタート。
評価にて点数を付けて貰えると嬉しく思います。