Fate/Everlasting Shine 作:かってぃー
「──」
変異特異点αから帰還して1日。特異点へのレイシフト前から遥から借りていたシリーズものの漫画を返しに遥の部屋を訪れたオルタは、そこで意外なものを見てふむと唸った。
数十巻にも及ぶ漫画が詰め込まれたバッグを抱えるオルタの前では、この部屋の主でありオルタのマスターでもある遥が静かな寝息を立てて昼寝をしていた。普段はオルタが訪れた際には読書かゲームに興じているか立香に魔術を教えているかであったために、オルタには遥が昼寝をしているイメージがなかった。
だが考えてみれば遥も人間である。腹が空けば食べ物を食べるし、眠りたくなれば眠るのである。多忙極まるカルデアのマスターともなれば、空いた時間に眠っておくのはむしろ賢い判断とも言える。睡眠不足は集中力の大幅な減衰を招き、それは時に死に直結する。
物は試しと本棚の近くにバッグを置いてから頬をつついてみても、遥は身じろぎひとつしない。オルタの細い指が遥の肌を滑る。
「意外と綺麗な肌してるわよね、コイツ……」
仮にこの場がカルデアではなく特異点であれば、オルタは遥に触れた瞬間に刃を突きつけられていただろう。遥は若いが戦士としては間違いなく一流である。そんな遥が戦場で気を抜いて眠っている筈はない。触れられても起きないほど安心して眠っているのは、ここが味方の本陣たるカルデアだからだろう。或いは、先日まで特異点という死地にいた反動かも知れない。遥は一向に起きる気配がない。
起源の効力によるものか、遥の肌はシミどころか肌荒れひとつ見当たらない。サーヴァントであるオルタもまたそれらとは無縁だが、カルデアの女性スタッフからすれば羨望の的であろう。立ち振舞いはともかく、それだけならファッション誌のモデルと言っても通用するレベルだ。
ボタンがひとつふたつ開いた寝間着の襟元から覗くのは見掛けによらず鍛え抜かれた胸筋。着やせするタイプなのだろう、エミヤやボディビルダーほどではないにせよ、それなりのものではある。それだけの筋力と身に宿る神秘があればこそ、遥は英霊相手に単機で勝利することができるのだろう。
そこまで行っても遥に起きる気配はない。そんな遥の様子を前にオルタは妙な悪戯心に駆られ、それと共に沸き上がった異様な興奮にオルタは口の端を歪める。それはオルレアンで見せた竜の魔女としての邪悪なものであるようにも見えるが、それとは何かが決定的に異なっていた。
オルタはジャンヌとは違って粗野ではあるが、物分かりに関してはジャンヌよりも良い節がある。遥のサーヴァントとなった今、以前のように無秩序に力を振るうことはない。そもそもジルの人形であった頃とは違い、今のオルタは憎悪の方向性が定まっている。故に遥にそれを向けることもなければ、それ以前の問題としてオルタが遥に向ける感情はもっと別なものだ。
「さて、呑気に寝てるマスターちゃんはどうしてくれようかしらね……?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべ、ワキワキと手を動かすオルタ。まずは鼻を摘まもうとしたが、しかしすぐにその手を止めた。見る限りは眠っている間の遥は簡単なことでは起きないのだろうが、少しでも死に繋がり得ることをされれば起きるに違いない。例え近づいているのが敵ではないオルタだとしてもである。
いや、或いは──、と不意にオルタの警戒心に一縷の光明が指す。いかな戦闘慣れしている歳に似合わないほどの熟練した剣士である遥でも、よもや味方の本拠地においては余程下手な真似をしない限りは起きないだろう。そんな先の警戒とは相反する思考である。それはまるで悪魔の囁きの如き甘美な色を伴ってオルタの思考に割り込み、それを一瞬にして染め上げた。
恐る恐る伸ばされたオルタの手が遥の髪に触れる。元はまるで夜空のような黒色だった筈の、今となっては見る影もないほどに白く変わってしまった髪。オルタはそれを一房手に取ると、手の中で弄んだ。肌と同じく男性にしては珍しいほどに艶やかな髪が枕に落ちる。それでも遥に反応はなく、それに気を良くしたオルタは更なる行動に出る。
音をたてないようにゆっくりと動き、まるで押し倒したかのような格好で覆い被さる。吐息がかかりそうでかからない微妙な距離である。それでも遥は起きない。安心しきった寝顔を前にオルタが笑みを漏らす。いつもは自分たちの先頭に立って戦意に満ちた顔で戦う遥が目の前で無防備な姿を晒している。その事実がたまらなくオルタに征服感を抱かせる。
男にしては線が細い、アルトリアや沖田と似た、けれどそのなかに戦場に身を置く男性特有の精悍さが宿る顔。手を滑らせてしまえば触れ合ってしまいそうな距離にオルタは自らの拍動が早くなったのを自覚した。まるで熱に浮かされたかのように身体が火照り、頬が上気する。伸ばされたオルタの手が遥の頬を撫でる。
「遥……私の、マスター……」
譫言のように呟くオルタの距離は妙に艶やかだ。だがオルタ自身にその自覚はない。オルタはジャンヌとは違って現代的な感性を有するが、そういう点においては誰よりも素直ではない。自覚していれば誰の前でなくても隠していただろう。
夜桜遥。オルタのマスターにして、たったひとりの共犯者。特異点と化したオルレアンにて同じ復讐者としてオルタと対峙し、彼女を撃ち取った剣士。そして、
異様な男だとオルタは思う。性格が、ではない。遥の成長速度がである。オルレアンにおいては互角だったオルタと遥だが、仮に今戦えば確実に遥が勝つだろう。遥の成長速度は常人のものではなく、まさしく英雄のソレだ。
まるでヘラクレスがヘラによって十二の試練を課せられたかのように、クー・フーリンが単騎でコノートを相手取ったように、遥は人理修復を英雄に至るための試練として課せられた。オルタにはその確信があった。
ではそれは何故、何のために? そんなことをオルタは知らないし、興味もなかった。例え遥の行く先に何があろうと、オルタはただひとりの共犯者の隣でその破滅を見届けるだけである。
自覚のない沖田とは違い、オルタはその思いの由来を知っている。知っているからこそこのような行動に出ているのだ。だがオルタはその思いが成ってはならない、成る筈のないものであることを知っている。人間であろうがなかろうが、遥は生者であり、オルタは生者であることすらも許されなかった幻影なのだ。こうして手の届く位置にいたとしても、それまでだ。ふたりの距離はそれ以上に近くならない。なってはならない。ふとオルタの脳裏を過ったその言葉がオルタの思考を急激に冷やし、熱に変わって何か黒いものがオルタの胸中に流れ込んでくる。勝手に身体を動かす衝動めいたそれを、オルタは幻痛と共に呑み下した。
気配が届きそうで届かない、息が掛かりそうでかからない。そんな距離がオルタに許された
「おや、オルタさん。どうかされましたか? 何かお悩みのようですが……」
「タマモ……いや、何でもないわよ」
オルタと同じく遥によって召喚された反英雄であるサーヴァント、玉藻の前。彼女らは戦闘で組んだことこそないが、私生活で話したことがない訳ではなかった。むしろ同じ反英霊のよしみでカルデアにいるサーヴァントの中では比較的仲が良い。
オルタはタマモに何も言わないが、彼女はタマモがその内心に気づいていることを薄々察していた。だが気づいたうででタマモは黙っているのだ。それはオルタのためでもあるが、同時に遥のためでのある。
タマモ曰く、遥はタマモにとって仕えるべき主君であると同時に弟でもあるらしい。遥もまたいつの間にかタマモを『姉さん』と呼んでいるのだから、それは確かなのだろう。オルタは事情を知らされていないが、ふたりの間に何かがあることは分かる。それはオルタどころかジャンヌですら遠い過去に置き去りにしてしまったもの。所謂家族愛である。──尤も、遥がそれを自覚しているかは別の話であるが。
タマモがあえてオルタに何も言わないのはそれがあるからなのだろう。他のマスターであればタマモは自らを良妻として定義するが、遥の前では例外中の例外として自らを姉として定義している。故にタマモはオルタに敵意を示すことなくこうして見守っている。それはオルタとしてもありがたいことではあるが、それ故に分からない。
「ねぇ、タマモ。おかしいとは思わないの?」
「……オルタさんは、真面目ですね」
「はぐらかすんじゃないわよ。……気づいているんでしょ?」
オルタの問いにタマモは言葉を返さない。けれどタマモの笑みは言葉よりもなお雄弁にオルタにタマモの答えを物語っている。タマモはすでに、オルタが迷っていることについて明確にして確固たる答えを持っている。
だがオルタはそう簡単に割りきることができない。タマモの言う通り、オルタは表面上こそ粗野だが根はこれ以上なく生真面目で潔癖だ。オルタは自らの倫理観に基づき、感情を交えずに越えてはならない一線を規定している。
その一線を自らの意思で踏み越える。それだけの思いと覚悟はオルタにはなかった。果たして踏み越えたとして、その先にはきっと何もない。あるのは永遠の別れという出口だけだ。それはあまりにも虚しい。故にこそ、オルタはその感情を感情の泉の底に沈める。
横からそんなオルタの様子を見ながら、タマモは嘆息する。今のオルタを遥が見ても、悩んでいることは知れても間違いなくその中身までは気づくまい。現代において最高峰の推理力と直感を持つ筈の遥が、である。
何故なら、遥は自らの『幸福』を諦めている。今までの経験がそうさせるのか、或いは人の感性を持ちながら決定的に人間とは異なる精神がそうさせるのか、遥は自分を幸福の席から零れ落ちるべき存在だと思っている。自らの危険も一切顧みずにサーヴァントと戦うのがその良い現れだ。
(そんなことないんですよ……なんて、言っても無駄なんでしょうね)
言って治るくらいならタマモはここまで悩まない。そもそも遥自身、そこまで屈折した性格になることもなかっただろう。遥は立ち振舞いや感性こそ常識人のようだが、実際は屈折しすぎて一周回ってむしろ常識人に見えるだけだ。このカルデアにいる者の中で遥が最も異常だと、タマモは断言できる。だからこそタマモは何も言わず、遥の姉として己を規定しているのだ。
「本当、ままならないものですねぇ……」
そう呟いたタマモの声は誰にも届くことはなく、虚空に溶けた。
現代科学と魔術の粋を結集して建造された研究施設であるカルデアだが、カルデアは何も何一つの娯楽もない実務一辺倒の施設ではない。その内部には巨大な体育館や図書館、カラオケなど一般的な娯楽施設が一通り揃っている。何せ場所が南極の山脈であるのだから、それだけ揃っていなければ職員のフラストレーションが避けられないのである。
故に当然のことながらカルデアにはトレーニングルームも存在する。尤も、人理修復を少ないスタッフで支えている今、その部屋を利用するのはたったふたりのマスターだけと言っても過言ではない状態となっているのだが。
そんなただ広いだけの空間にトレーニング機器が整然と並べられている部屋の中で立香はトレーニングに励んでいた。そうしてベンチプレスをメニュー通りの回数こなして休憩に入った立香にスポーツドリンクを持ったマシュが駆け寄る。
「お疲れさまです、先輩。よかったらどうぞ」
「あぁ。ありがとう、マシュ」
そう言ってから立香はマシュからスポーツドリンクのボトルを受けとると、その中身を一気に喉に流し込んだ。相当に喉が乾いていたのか、一口呷っただけでボトルの中身が半分以上なくなってしまう。そうしてボトルをマシュに返し、額に張り付いた髪を立香が無造作にかき揚げた。
飛び散る汗の飛沫。それだけではなく、汗が立香の首筋から黒いタンクトップから覗く胸板までを伝い、それを見たマシュが妙な背徳感とでも言うべき感覚に目を逸らした。立香はそんなマシュの反応に首を傾げるも、マシュは答えを返さない。マシュ自身、自分の感覚がどういうものか分かっていないのだ。
立香はマシュの内心がわかったわけではないが、無理に聞き出すような趣味もない。マシュが言いたくないのなら立香はそれを問いただすことはしないし、言ってくれるならば必ず聞く。立香は近くに置いておいたタオルで身体を拭き、汗を処理した。
立香がトレーニングルームにてトレーニングに励んでいるのは遥から指示されたからではない。遥は一方的に立香にトレーニングさせることは決してしない。要は自主トレである。立香は自分の力が今のままでは今後の人理修復に付いていくことが難しいことを自覚している。故にこうして自分にできる限りのことをしているのである。
とはいえ、限界以上に己を追い詰めたところで得るものはないことも立香は理解している。そろそろ終わろうかと立香が畳んでおいたカルデアの制服を着る。そうしてマシュと共にトレーニングルームから出ようとした時、それより先に中に入ってくる者がいた。
「立香君、マシュちゃん、ここにいたのね!」
「アイリさん? どうしたの? 何か用──って、何、それ?」
「黄金の鞘、でしょうか。宝具のようですけど……」
果たしてその場に現れたアイリが持っていたのは豪奢にして流麗、そして莫大な魔力を内包した黄金の鞘であった。普通ならばそんな大層なものを前にして卒倒はしないまでも驚愕するのだろうが、ふたりがそうならないのは感覚が狂っているからと言う他ない。
何せ彼らの周囲には複数の宝具を所有するサーヴァントがいる他、立香の相棒である遥もまた生者でありながら宝具、それも宝具としては最強クラスである神造兵装たる神剣を所有しているのである。立香とマシュにとって、最早宝具とはそう珍しいものでもないのである。
とはいえ、宝具を前にして彼らが特に何も思わない訳ではない。特にマシュがアイリが持つ鞘を前にして何か妙な胸騒ぎを覚えていた。自分はそれをしっているのに、どうしてか思い出せない。そんな違和感が胸中を支配する。そうして懸命にその違和感を探っているうち、マシュの口から彼女ですら与り知らぬうちに言葉が漏れる。
「
「あら。マシュちゃん、知ってたのね? そう。この鞘の真名は
「アルトリアが……?」
アイリがそれを持っているのは他でもない、彼女の体内にそれが埋め込まれていたからである。彼女が元々いた世界の聖杯戦争においてアインツベルンはアーサー王を召喚するための触媒とするべく、この鞘を発掘した。そうしてアインツベルンに回収された鞘は聖杯として目覚めるまでアイリが生体としての機能を保つようにするため、アイリの体内に概念武装として埋め込まれたのである。それがアイリがカルデアに来るにあたり、共にカルデアに回収されたのだ。
「というワケで、はい、これ」
「え……? え?」
唐突に全て遠き理想郷を手渡され、アイリの意図が分からずに立香がすっとんきょうな声を漏らす。だが立香はすぐにアイリの意図に気づき、驚愕した顔でアイリを見た。
つまるところ、アイリは立香に全て遠き理想郷を使えと言っているのだ。確かに2騎のアーサー王と契約している立香であればアルトリアかアルが現界している限りは彼女らからの魔力供給により全て遠き理想郷の恩恵を受けることができる。
加えて、立香はマスターだ。彼がいなくては彼のサーヴァントは現界を保つことができない。そしてカルデアの実働部隊の中で最も脆弱なのも立香である。無限の治癒力は確かに立香に与えるのが最適解であろう。
しかし、だからといって素直に受けとることができないのもまた事実であった。どんな事情があるにせよ、全て遠き理想郷はもとはアルトリアやアルの持ち物である。果たして今の所有者から与えられたからといって、彼女らの与り知らぬところで受け取って良いものなのか。
そうして立香が腕の中の全て遠き理想郷を見つめたまま思案していると、その内心を察したのか、アイリはどこか慈愛めいた感情の宿る表情で立香に言う。
「実はね、全て遠き理想郷を立香君に渡すように提案したのはアルトリアとアルなの」
「ふたりが……?」
立香の問いにアイリは無言で首肯する。アイリとて、最初から全て遠き理想郷を立香に渡そうと考えた訳ではない。アイリがあまりに天真爛漫であるため周囲からは忘れられがちだが、アイリは一応貴族の令嬢であったのだ。弁えるべき事の順序は他人よりも弁えている。
そうして全て遠き理想郷を前にしたふたりのアーサー王は、しかし共に首を縦に降ることはなかった。自分たちが使いたいのは山々だが、今は自分たちよりもそれを使うべき者がいる、と。高潔な精神を持つ騎士たちの王は自らの身の安全よりもマスターを優先したのだ。
それは立香を憐れんでのことではない。彼女らは自らの主のことを第一に考え、その生存確率を少しでも上げるために立香に渡すことを提案したのだ。ひとえに立香への忠義と彼が
無限の治癒力を得るということは、逆に言えば簡単には死ぬことができないのと同義だ。例えマシュとの契約による加護を貫通してくる苦痛を受けたとしても、全て遠き理想郷は無理矢理にでも立香を生かそうとするだろう。仮にそうなった時、立香は生存を諦めない。アルトリアたちのその確信を、立香は覚悟と共に受け入れた。元より簡単に死ぬ気など全くないのだから、そのために苦痛を受けることなどとうに受け入れている。
「……分かった。ありがとう、アイリさん。アルトリアたちにも、後でお礼を言わなくちゃね」
そう言うと、立香は腕の中に抱えた全て遠き理想郷に視線を移した。伝説にまでも語られる伝説の鞘。所有者に不老不死にすら近しい力を与えるそれを、本来の持ち主であるアルトリアたちは自分が使うのではなく立香に与えた。それはどんな理由があるにせよ、その最たるものは立香に生きていた欲しいからという一点に帰結する。その事実が立香を奮い立たせる。これだけ忠義を向けられているのだから、それに見合ったマスターにならなければならない、と。
励起した魔術回路から立香が魔力を流し、それに反応した全て遠き理想郷が淡い光を放った。そうしてわずかに浮き上がって半霊体と化し、吸い込まれるようにして立香の体内に消えていく。その瞬間、立香は自身の中で何かが決定的に変質したのを感じ取った。
立香はカルデアにいる者の中では最も一般的な人間である。──否。
身体の調子を確かめるように立香が何度か手を握る。無限の治癒力を与えるという謳い文句は嘘ではないようで、先程まであった疲労感が嘘のように消失している。まるで何か非合法の薬物を接種したかのような異様な感覚に、立香が苦笑いを漏らした。だが、これは十分に有用な効果である。違和感にさえ慣れてしまえば、の話ではあるが。続けて立香が身体を動かしていると、不意にアナウンスが入った。
『立香君、遥君。至急、管制室まで来てくれ。次の特異点についてブリーフィングをしたいんだ』
「ブリーフィング……ちょっと行ってくるね」
果たして、ロマニが召集したブリーフィングは古代ローマと聞いた遥が突如として大興奮しながらサムズアップしたことを除いて特に問題もなく段取り通りに進行した。
第一の特異点たるオルレアンに続く次なる特異点の座標は西暦60年の古代ローマ帝国。年代的に言えばローマ帝国歴代皇帝の中でも暴君として名高いネロ帝の治世ではあるが、ブリタニアのイケニ族女王であるブーディカが反乱を起こしたこと以外には特に目立った出来事もない年である。
相も変わらず特異点化の原因である聖杯の位置は特定できていないが、それについては遥は元から期待していない。それは何もカルデアのスタッフを信頼していないとかそういう訳ではなく、単純に敵の強大さを過小評価していないだけである。人類史の悉くを焼却し尽くすような相手がよもや簡単に聖杯を観測されるような不手際は犯すまい、と思っているのだ。
レイシフト決行は明後日。レイシフト先はレイシフト後の行動の容易さなどを考えて首都ローマ付近に設定すらしい。スタッフたちが必死になってレイシフトの調整を進めている横でブリーフィングを終えた遥は自室に戻る立香と別れて食堂へと来ていた。今夜の夕食の仕込みのためである。献立はジャンヌやオルタ、スタッフのひとりであるムニエルの故郷であるフランスの郷土料理だ。
台所での戦仕度であるレオナルド製の黒いエプロンを着用し、エミヤが投影した調理器具を引っ張り出す。そうして冷蔵庫から食材を取り出そうと遥は冷蔵庫に手を掛けると同時、遥の耳朶を打った。
「あの……ハルさん。少し相談よろしいですか?」
「マシュ? 別に良いけど……少し待っててくれ。コーヒーでも淹れよう。その辺に座って待ってろ」
そう言うと、ハルかは台所の棚を開けてコーヒー豆を取り出した。それは別に遥が持ち込んだものではないが、相当な高級品である。流石極限の閉鎖環境であるだけあって、こういった嗜好品は相当数の備蓄があるのだ。
手慣れた動作で手際よくコーヒーを淹れるその姿はさながらバリスタのようである。遥は魔術師であるためその剣腕や魔術の才ばかりが目立つが、本来得意としているのはこういったものである。
そうしてふたり分のコーヒーを淹れ、うちひとつをカウンター席に座ったマシュに渡す。マシュはまるで初めて見るものを前にした幼子のような動作で恐る恐るコーヒーをひと口呷ると、驚いた顔でそれを見つめた。
「美味いだろ? 豆が良いってのもあるけど、俺自身こういうのの腕前は誰にも負けないって自負してるからな。……で、相談ってのは?」
「はい。実は……私、とてもイケナイ女なのかも知れないんです」
「……んん?」
あまりに予想の斜め上をいくマシュの言葉に遥が思わず声を漏らす。遥としては剣術や魔術の教授か料理の指南といった遥の得意分野に関する相談が来ると思っていたのだが、完全に不意を突かれた形となってしまった。
しかしよく見れば、マシュは少し頬を赤く上気させていた。どうやらマシュの言葉は過剰ではあるがあながち的外れでもないらしいことを察し、遥が指を鳴らす。それによって魔術が起動し、食堂の扉がロックされたうえに完全な防音空間と化した。夜桜に伝わる魔術の完全無詠唱行使。遥の得意技である。
迷った挙げ句に先の言葉を口にしたのであろう。さらに顔を赤くするマシュの前で遥は思案する。マシュの言わんとしていることは何となく分かるが、それが当たっているとすると遥はマシュの相談にのることができない可能性がある。
「……はぁ。イケナイ女ねぇ。また何で?」
「それが……」
遥に問われ、少しずつマシュが事の次第を語り出す。曰く、先程までマシュは立香の自主トレに付き合っていたのだが、その立香が汗に濡れた姿を見て一瞬妙な気分を抱いてしまったらしい。
それだけ聞けば遥がマシュの抱いている感情が何であるか察するには十分に過ぎた。遥はその感情を知らないが、話には聞いたことはある。要は遥は理屈からマシュの感情に迫ったという訳である。
マシュが一瞬妙な気分になったというのは、あくまでも切っ掛けに過ぎない。その感情は元からマシュの中にあって、今回のことでそれが芽を出したのだ。それに気づいた遥は少し逡巡すると、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。
「えー、オホン。……素晴らしい! マシュ、お前は今日、ようやく欲を得た」
「欲……ですか?」
「そう、欲だ。欲望こそ俺たちが生きるためのエネルギー! ……まぁ、なんだ。マシュ。お前は立香から欲望と、それより大きな色彩を貰ったってことさ」
マシュの相談が遥の予想の斜め上を行っていたように遥のその言葉もまたマシュにとって意外だったのか、マシュが目を点にして遥の言葉を反芻する。或いは単純に遥らしからぬテンションに面食らっただけなのかも知れないが。
人間は見たいようにしか世界を見ない。それは言い換えれば、人間は欲望を通して世界を見ているということである。そう言うと些か聞こえが悪いが、しかし欲望がなければ世界を味わうことができずにただ色のない無色透明の世界で生きることしかできないということでもあるのだ。欲望のない世界はあまりに無感動で、色彩がない。以前のマシュはそれだった。
今までカルデアの外に出ることができなかったこともあろう、マシュはあまりに『良い子』に過ぎたのだ。明確な欲望を持たず、自らの意思のない都合の良い実験試料。悪い言い方をすれば、以前のマシュはそれだった。だが今は違う。少なくともマシュは今、遥の前で欲望を見せた。人間の根底にありながら、決して自らに終始しない欲望。──即ち、恋を。
「欲望……私が先輩に抱いたのは、それなんですか?」
「何かそう言うと本当にイケナイ娘みてぇだが……間違ってはいないかな。ただ、マシュのそれは自分のためだけにあるものじゃない。立香を思うが故のものだ。違うか?」
マシュが立香に抱いたそれがマシュ自身の内で終始するものであれば、それは恋ではなくただの性欲にしかなり得ない。それもそれで欲望ではあるが、遥はそんなものの吐露など聞きたくないし、簡単に解答を投げ渡していただろう。
恋、と一言で言えば済む話ではある。しかしその言葉が内包するものはあまりに人間的で複雑だ。それは確かに欲望だが、自らの内で終始するものではない。時として自らの保護という本能さえ超越するそれを、どうして自分のためだけと言うことができるだろうか。
恐らくマシュが立香にそれを抱いたのは、あくまでも立香がマシュにとって初めての『先輩』であるからなのだろう。それは雛鳥が初めに見たものを親と思い込むようなものだ。英雄が戦いに身を置くようなものだ。しかしマシュの場合、そこに彼女自身の意思が介在しない訳ではない。故に遥はマシュに解答そのものを投げて寄越すようなことはしない。他人から一方的に解答を渡されてしまえば、それは一瞬にしてただの欲へと堕する。
「マシュはもっと我が儘になって良いんだ。立香を見ろ。アイツ、善良一辺倒なようで意外に強欲だぜ? 何せ人類史をまるっと焼却するような奴に『オレが生きたいんだからお前は引っ込んでろ』って言ってるようなモンだからな、アイツは」
そう言う遥にマシュはそうですね、と言って微笑む。そんなマシュを前に遥は何故かひどく苦く感じるコーヒーを喉に流し込み、眩しそうに目を細めた。
以前、遥はロマニに自分とマシュは同類だと言った。それは紛れもない事実だ。愛によって産み落とされた身体であるか否かという違いはあれど、彼らは何らかの目的によって生み出された存在である。それ故にマシュは遥にとって、ある種妹のようなものであった。だからこそ、遥はマシュを導く。彼自身未熟なのは理解しているが、できる限りのことをしようとしている。
妹のような存在ということもあろう。過去の自分を見ているようということもあろう。だがそれ以上に、遥は──
──マシュに、そして立香に、幸せでいて欲しいのだ。