Fate/Everlasting Shine   作:かってぃー

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第75話 暴悪バース

 ファントム・オブ・ジ・オペラ。かの〝オペラ座の怪人〟に登場する怪人のモデルとなった人物であり、オペラ座地下の迷宮水路に住まい、とある女優に惹かれて彼女を歌姫に導きながらも決して成就することのない愛のために連続殺人を行った男だ。己の叶わぬ思いのために関係のない無辜の人々を殺めたという点では、少なくとも遥の中でファントムとジルは同族だ。つまり、唾棄すべき悪である。敬うべき英霊のひとりであると了解しつつ、敬意と同時に敵意があった。

 ファントムの得物はその手に生えている鋭い鉤爪だ。おおよそ人間としては在り得ない程にその爪は長く、そして硬い。その硬度たるや、神刀たる天叢雲剣と何度か打ち合っても壊れる気配を見せない程である。

 しかしファントムは連続殺人鬼であって戦士ではない。その身に積み上げた術理は何の力もない一般人を一方的に殺戮するための殺人術であって、同格或いはそれ以上の相手と生存を勝ち取るためのものではない。対して遥のそれは自分と同等以上の相手から生存を勝ち取るためのものである。であれば、どちらがより実用に耐えるものであるかなど考えるまでもあるまい。

 ファントムが連続して繰り出す鉤爪の刺突や斬撃を掻い潜り、懐に潜り込むや否やその腹に遥が拳撃を見舞う。更に接触と同時に投影品の鉄杭で再装填されたプロト・バンカーボルトを起動し、その腹に風穴を空けた。

 正面から拳撃とバンカーボルトを喰らったファントムが血飛沫を撒き散らしながら吹き飛び、街路を転がる。だがそれだけの傷を負っておきながらファントムが絶命することはなく、喘鳴を発しながら遥に激烈な殺気を内包した視線を向ける。それを涼しい顔で受け止めて、遥が呟いた。

 

「……あぁ、そうか。アンタ、どっかで見た気がすると思っていたが、リヨンで沖田に瞬殺されたヤツか。気配が全然違うから、分からなかった」

 

 リヨンで沖田に瞬殺されたヤツ、とは第一特異点にて遥らが竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)たるジークフリートを探している間に接敵し、しかし態々臨戦態勢の遥らの前で名乗りをあげようとしたためにその隙を狙った沖田に斬殺されたサーヴァントである。接敵してすぐに斃されたために印象が薄かったが、『不朽』の起源をもつ遥が忘れることはない。

 遥がそんなことを思い出している間にもファントムの腹に空いた大穴は見る間に塞がっていき、瞬く間に何事もなかったかの如く元の状態にまで戻っていた。考えるまでもなく、宿業の力であると解る。魔女や魔法紳士は今の所、叢雲でしか斃せない。

 ファントムの接近を牽制するように叢雲を構え、遥が思考を巡らせる。現時点まで打ち合った限りでは人に近い異形であることを除けばただの殺人鬼でしかないファントムと、同化した神霊の記憶がなくとも対人、対死徒、対悪魔戦闘などの修羅場を潜ってきた遥では武練に決定的な差があるようにも思える。

 しかし遥は未だファントムが秘める能力の全容を把握している訳ではない。今まで態々手加減して戦っていたということはなかろうが、英霊の本質のひとつである宝具も知らないのだから、警戒しておくに越したことはないだろう。だがそれ以外にも遥には知っておくべきことがあった。

 

「なぁ、アンタは何故レディに味方するんだ?」

「知れた事を。クリスティーヌの望みが叶うことが我が至上の歓びなれば」

「そうかよ。……訊いた俺が莫迦だった」

 

 遥は同じ質問をエドワードにもしたが、彼からも遥が望む答えが返ってくることはなかった。当然だ。魔法紳士はレディによって召喚されるに際して彼女に忠誠を誓うように霊基改変を受けているのだから。そのうえ、固有結界の特性のこともある。魔法紳士らは最早英霊ではなく、その在り方はどちらかと言えば畜生のそれに近い。

 理性ではなく己が欲望のために五体を駆動させ、元々持っていた信念や誇りを奪われて英霊は獣畜生にも等しい存在へと堕とされた。その方が都合が良いから。その方が利用しやすいから。確かにそうだ。英霊というものは正当なものであれ、反英霊であれ、総じて我が強い。それを従えるのなら、霊基を弄って精神を歪めてやるのが最も楽だ。そうでなくとも、高尚な精神を堕落させる程に甘い見返りをちらつかせてやれば良い。

 しかし、それは果たして正義か? 他者を堕落させ、零落させ、惑わせた先にあるもの。それは本当に正道か? 否。断じて否だ。人の数だけそれぞれの正道があると弁えていながら、彼は迷いなくそう断じた。それは彼が秘めていながらその血の気が多い気性のために完全な開花をしない英雄の資質の片鱗か。彼は何だかんだと言いつつもやはり悪を看過できぬ性質であるのだ。

 一度大きく呼吸し、瞑目。そうして次に見開かれた時にはその神性を顕す宝珠の如き真紅の瞳に翳りはなかった。己が目の前に立ちはだかる敵を斃す。しかし憐みを以て誅するのではない。それは神そのものや神の使途の役目であって、彼の役目ではない。

 遥が敵を討つのは、有り体に言えば許せないからだ。彼に許されたから何になるという事もないが、彼は己の信念に仇名すものの存在を許しておくことができない。即ち、〝無辜の人々を食い物にする者〟の存在を。

 故に斃す。故に殺す。憐みでなく、義務感でもなく、正義感と憤怒を以て。それは現代においては異端の思考であったが、そもそも彼は現代においてたったひとりの半神なのだ。その思考と倫理が浮世のそれと違っているのは当然のことである。

 騎士が騎士道を奉じるように、武士が武士道を奉じるように、神の使途が神の法を絶対とするように、遥は己の正道をこそ至上とする。そのことに、彼はもう迷いはない。どうあっても己はその在り方以外選べないと、未熟であるが故に可能性に満ちた英雄の卵は悟ったのだ。

 相対するファントムは敵の変化に気付いたのか、より警戒を深くする。何があったかは知らないが、確実に敵から放たれる圧力が増している。その正体は剣気と、神気。いくら戦士でなくとも、人理に刻まれた英霊としてそれを読み違えるファントムではなかった。

 

「――フッ!!」

「ッッ!?」

 

 裂帛の気合と共に放たれた超神速の刺突。それをファントムが得物である鉤爪で防御できたのは、彼が遥を注視していたからだ。偶然ではない。偶然で防御できるほど、遥の武は生半なものではない。こと剣技において、遥は無双の大英雄の領域に片足を踏み入れている。

 間髪入れずに叢雲を受け止めたのとは反対の鉤爪で鎧ごと遥の身体を貫かんおするファントム。だが黙ってそんなものを受ける程遥は愚鈍ではない。攻撃が防がれたと解るや僅かに後方に跳んで反撃を回避。ファントムの鉤爪が遥の鼻先を掠め、空を斬る。

 攻撃の失敗。それは戦闘において最大の隙である。とりわけ、このような超接近状態であるのなら猶更に。故にファントムは下手なリカバリーに出ることなく距離を取ろうとして、しかし遥はそれを許さない。バックステップを踏んだファントムを凌駕する初速度で踏み込み、その懐に潜り込んで拳撃を2発。ファントムが十数メートルも空中を舞い、勢いを殺しきれずに転がる。

 そんな隙を、遥が見逃すはずはない。騎士や武士であれば転がって容易に反撃できない相手を攻撃するのはフェアではないとするのかも知れないが、生憎と遥は剣士であっても騎士でも武士でもない。隙があれば容赦なく()りにいく。

 常人であれば一瞬で詰めることができない距離も、遥にとっては間合いの内だ。転がっている状態から器用に身体を起こして立ち上がるファントムだが、遥の剣撃を躱しきることができず胴体を深々と切り裂かれた。

 普通のサーヴァントであればその時点で消滅はせずともダメージで行動不能になっていただろう。しかしファントムは魔法紳士であり、その程度のダメージであれば問題にもならない。傷は自然治癒に任せるまま、得物たる爪で遥を斬り裂かんと振るう。

 流石何人もの人間をその手にかけてきただけあり、その一撃は正確に遥の喉笛を掻き切る軌道を描いている。だが遥はそれを叢雲で受け、そのまま刃を滑らせるようにファントムの背後に回り込んで振り向きざまにその背に一文字の刀傷を刻んだ。

 それに対抗するように遥の背後から鉤爪を振るうファントム。しかし遥はそちらを見ないまま攻撃の気配を察知し、神刀の刃で受け流すと、その動作を利用して片腕を斬り飛ばしてしまった。大地に落下した怪人の腕が消滅する。

 防御から反撃、そして残心までの全てが完璧な一連の動作の内に終始する斬撃。だが遥はそれを思考と共に進めているのではない。だからといって完全に無意識という訳でもない。遍く雑念、妄念、そういったものを排除し、己を〝空〟にする。そうすることで目的を果たすまでの最適解を見出すのである。

 それはかの二刀流の剣豪が言う所の〝空位〟に至るための道。遥は未だ空位に開眼していないものの、その素養が皆無という訳ではない。むしろ同化した神の記憶からそれを知るからこそ、彼は当然の帰結として開眼に至る道程を歩むことができる。

 邪魔者である遥を殺すべく殺到するファントムの爪撃を、悉く最適解で往なす。ファントムの攻撃は戦士のそれではないものの、人を殺すというその一点においては決して侮ることができるものではない。その一撃を受けても即死することはないが、首は飛ぶ。首が飛べば隙が生まれ、その隙に心臓を潰されれば遥は死ぬ。故にこそ動体視力と心眼によって察知し、弾く。蹴散らす。

 己が敵を注視せよ。無駄を徹底的に省け。忘れてはならぬのは刀を執る剣者としての基本。基礎、基本を突き詰めた先に王道があり、王道を修めたからこそ邪道を見出し、邪道を極めてこそ極致がある。極致へと至らんとするならば、この程度の難行を乗り越えずして何とするか。

 ファントムの攻撃を往なす遥の目に宿るのは殺意。しかしそこにある殺意は憤怒によるものだけではない。彼自身自覚していないことであったが、そこにあったのは敬意であった。

 ファントム・オブ・ジ・オペラ。彼は遥が嫌う類の男ではあったが、曲がりなりにも英霊なのだ。であればその存在にはそれ自身が譲れない誇りや、他者からの思いがあろう。魔法紳士はそれを歪めている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなことはあってはならない。

 だがその敬意は英霊たるファントムに向けられるものであって、魔法紳士ファントムに対して遥が向けるのは純なる嚇怒の殺気と剣気のみ。それを撥ね退けるべく、ファントムは遮二無二に己が身に染み付いた殺人術を揮う。だがそれは遥に通用せず、遂には腕を撥ね上げられた。

 無防備となったファントムの身体。その中に、遥は確かに見た。今まで叢雲の刃が両断するに任せていた魔法紳士を初めとするレディの配下らの核、彼らの霊基を歪める元凶たる宿業を。そして、一度視界に捉え間合いに入れたものを遥が逃す筈もなく。

 

「あ――」

 

 その霊核が、両断された。

 


 

 時は少し遡る。遥がファントムと戦闘を始めたのと殆ど同時に、その近くの路地ではファースト・レディとクシナダが相対していた。レディの場合はあくまでも身体はだが、『弓兵(アーチャー)』と『魔術師(キャスター)』というクラスに似つかわしくない双剣と直刀を携えて。

 クシナダヒメは神霊である。しかし神霊ではあるがアマテラスやスサノオのように司るものもなく、生前は強力な権能もなかった。国津神の中でもその属性は殆ど神霊ではなく人間に近いものであったと言えるだろう。唯一の能力は神霊でありながら他の神体をその身に降ろすことできること。それだけだ。

 だが、それは決してクシナダが弱いということを示しているのではない。彼女は己を含めた姉妹の権能が弱いことを自覚し、故にこそ努力した。神霊でありながら人間と比しても尋常ではない程に。その結果、彼女は巫術だけではなく呪術や当時の日ノ本ではマイナー中のマイナー、未発展も良い所だった魔術の一部を身に付けるに至ったのだ。

 それに加え、彼女の夫はスサノオ、日本神話において最も荒ぶる神である。その武威は他に並ぶ者なく、彼女はそんな夫に魔術や呪術を教え、逆に彼から弓術や剣術を学んだ。結果として彼女は神話に語られないながらも、上位の神に劣らぬ力を備えるようになっていた。

 サーヴァント化によってその力は生前程のものではなくなっているにせよ、三騎士のサーヴァントにも劣るものではない。左手に呪符を、右手に直刀を強化した膂力で以てレディを押し返し、攻撃が通らなかったレディが歯噛みをしつつ苛立ちの滲む表情を浮かべる。

 

「このっ……キャスターのクセに近接戦なんて……!!」

「世界にはそういう巫女もいるというコトです。それを知らぬというのなら……それは、貴女の見識が狭いだけのことではないですか?」

「言ってくれる……!」

 

 クシナダの挑発に対し苛立ちを隠しきれない様子で言葉を返すレディ。しかしその目が苛立ちで曇るようなことはなく、投影魔術を再度行使することで砕けかけた双剣の刃を修復した。クシナダが見る限りにおいて、その完成度はエミヤのそれと比べてもそう見劣りするものではない。

 クシナダはこの特異点に来てすぐにこの戦闘に突入したためクラスカードの存在について知らない。にも関わらずエミヤだけしかもたない筈の特殊な投影を見ても大して驚愕を見せなかったのは、単純にそういうものかと簡単に受け入れてしまっただけだ。そもそも驚愕するくらいならば対策を考える方が余程生産的だとも思っている。

 衛宮の投影魔術は術者の魔力が続く限り固有結界〝無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)〟内部から際限なく物体を取り出すことができる。膨大な魔力を保有するレディであればエミヤのように持ちうる宝具を再興効率かつ最大威力で運用する策などなくとも適当にばら撒くだけでそれなりの脅威となるだろう。

 しかし、先程のような一斉砲撃はないと断言できる。何せクシナダはそれを無傷のうちに防いでしまったのだ。放つだけ無駄に終わるというのは、どんな間抜けであろうと解るというもの。故にレディはその仮初の肉体に、正確にはその核となる英霊の技能と肉体の権能、己の強権に活路を見出す。

 しかしレディの誤算は彼女が戦術の基礎としている錬鉄の弓兵はクシナダの既知であったこと。白黒の夫婦剣を構えて殺意を放つレディを前にして、クシナダは泰然と愛刀を握り、攻撃を仕掛ける。

 だがその直後、視線の先にいた筈のレディが唐突に消失した。何の前触れもなく、忽然と。それに目を剥くクシナダだが、しかしそれで対応を見誤るようなクシナダではない。

 クロエの肉体が有する小聖杯の権能を利用した転移によってクシナダの背後に回り込むレディ。しかしレディの消失を悟った瞬間にその狙いに気付いていたクシナダは呪術を行使することで自らの後方に氷柱を形成。レディは構わず叩き斬らんとするが、氷柱は刃が僅かに食い込んだ直後にそれを巻き込みながら成長する。

 舌打ちを漏らすレディ。しかし彼女はすぐに思考を切り替え、邪魔な氷柱を破壊するため双剣に秘められた神秘を無秩序に解放した。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)。干将・莫耶は元よりそう内包する神秘の総量が多い方ではないものの宝具であることに違いはなく、巨大な爆炎があがる。

 レディはそれに巻き込まれないように後方に跳び、並行して黒弓と偽・偽・螺旋剣(カラドボルグⅢ)を投影。番えると同時に偽・偽・螺旋剣をより長く、細く、剣から矢へと改造し、爆炎の先にいるであろうクシナダに向けて撃ち出した。レディが行った魔法(まじゅつ)による後押しもあって、宝具の矢は音の壁を追い越しソニックブームを撒き散らして猛進する。

 いくら劣化に劣化を重ね元の位階(ランク)から大幅に堕ちた宝具といえど、並みの呪術や魔術で迎撃できるものではない。かといって刀で弾こうとすれば、その瞬間にレディは壊れた幻想を起こすだろう。迎撃するには、それこそ同等のものをぶつけて相殺するしかない。

 しかしレディの表情に余裕はない。彼女にとって、この一射は謂わば測りだ。クシナダがどれほどの脅威か、見定めるための。果たしてレディの放った螺旋の矢は濃密な爆炎を貫き、次の瞬間には()()()()()()()()()()()()()とぶつかり合ってあらぬ方向へと飛び去った。そうして露わになったクシナダの握るモノに、レディが虚勢を滲ませる笑みを浮かべた。

 クシナダの執る弓は、宝具であった。いや、正確に言えば彼女の手の中にあっては宝具として機能しないが、本来それを持つべき者の手に渡れば宝具としての格を取り戻すであろう大弓。末弭(うらはず)から本弭にかけての骨組みは真実骨を加工したものの上から鞣した邪龍の皮を重ねたものであり、弦は鋼鉄すら超える強靭を誇る邪龍の鬣を糸としたもの。脈動する邪龍の魔力は余人にとっては毒でしかないが、こと邪龍の巫女である射手であれば互いの格を押し上げる効果を果たす。

 其は日本神話最強の神格。三貴神の一柱をして搦め手で以て誅する他なかった災厄の具現たる龍神の神格をそのまま弓としたもの。日本の神話には存在しない筈の戦神に酷似した性質を有する海神が、その手に握る神剣と同格の弓を欲した挙句に職人に造らせた神弓がソレだ。神話に語られぬ神具だ。それを目にしたレディが舌打ちを漏らす。

 いくら神弓が本来の担い手ではないクシナダでは真名解放することができない武具であるとはいえ、その格はクロエの肉体が投影するものよりも高い。小聖杯の権能を以てすれば神造兵装も複製可能だが、本体であるイリヤと分離して弱体化したクロエの肉体ではハリボテを造るのが限界であり、本物の神弓から放たれる矢はそれを易々と破壊せしめるであろう。そんなもの、投影するだけ魔力の無駄だ。レディが黒弓を消し、代わりに霊基に使い方が染み付く程に使い慣れた白黒の双剣を再度投影。クシナダもまた神弓を霊体化し、直刀と呪符を取り出しつつ、冷静に敵対者の戦力分析を行う。

 

(少女の戦術……どうやら基本はエミヤ様と同一のモノのようですね。しかし完全に同一でもない。そして……何より、この少女はまだ自分自身の力を一端さえ晒していない)

 

 クシナダは聡明な女神である。その性質が人に近い故か神霊にありがちな思い上がりもなく、たとえ相手が誰であろうと侮ることもなく、過小に評価せずに正確に脅威としての度合いを推し量り対抗策を練ることができる。自らの修めた武威が超常の英傑が宿すそれに遠く及ばないと知るが故の油断の無さと元よりもつ優れた頭脳が合一した、クシナダの戦術眼。それが、この状況にあっても警鐘を鳴らしている。

 現状、戦闘の趨勢はクシナダの方に傾いていると言って良い。投影宝具の一斉掃射を完璧に防ぎ、一対一の戦闘となってからは転移による不意打ちを阻み、更にはあえて神弓を晒して射を迎撃することでこちらにはレディの投影宝具を悉く粉砕し得るだけの弓と至近からの一射を自らが放った一射で叩き落とすことができるだけの技量があると認識させ、弓の使用を牽制してもいる。

 しかし、それだけだ。未だレディは乗っ取った肉体の力しか使っていないことを、クシナダは見抜いていた。自身の力を使わないのか、それとも使えないのか。使えないと判断するのは早計であり、愚行だ。自らを危険に晒す暗愚の所業だ。故に使えるにも関わらず使っていないと仮定し、対応を決定する。

 クシナダの手から零れ、半ば崩落した石畳に落ちる呪符。それを彼女が踏みつけるや、起動した呪術が巻き起こした颶風がその華奢な身体を押し出した。よもや殆ど前触れもなく仕掛けてくるとは思っていなかったのか驚愕を見せるレディ。しかしその驚愕も刹那に終わり、レディがクシナダの一閃を双剣で受ける。

 直刀と双剣の間で火花が散る。それが消えるのも待たずレディはクシナダの身体を撥ね上げ、生まれた間隙を突くように蹴撃を繰り出した。クシナダの鳩尾を正確に貫かんと迫る蹴り。防御用の呪を発動する暇もないと判断し、クシナダは交差させた両腕でそれを受ける。

 レディの肉体であるクロエの筋力ステータスはD。対してクシナダの耐久ステータスはAと、クロエの筋力ステータスが齎す威力を十分に封殺し得るだけのものがある。蹴撃の威力を利用して後方に跳躍。距離を取ったクシナダは腕に残る痺れを無視して再び構えを取った。

 レディの基本戦術を把握した。一撃の重みを体感した。ならばあとはそれを考慮して戦術を決定するのみ。未だレディがクシナダにとって脅威であることに違いはないが、少なくとも大半を既知にできたのだ。

 無茶であった。無謀であった。よもやあえてダメージを受けない範囲で攻撃を受け、敵の力量を図るなど。しかし妥当な判断でもある。剣術や弓術を修めてはいても戦士ではないクシナダが敵の脅威を正確に掴むための、それが最適解であった。

 何の前触れもなくクシナダの背後に展開された氷塊群。尋常な呪術師であれば呪を行使する際に発生する気配でそれと悟られてしまうだろうが、クシナダは神霊だ。その彼女にとって、魔力の扱いなどは呼吸をするかの如く容易いことである。それだけの短時間で生成されたものなら酷く脆くとも不思議ではないが、レディは構造解析に特化したクロエの目を持つが故にそれらひとつひとつが直撃さえすれば英霊であっても一撃で屠り得るものだと悟った。

 無造作に氷塊群が打ち出される。レディはそれを手にした双剣で打ち払おうとはせず、空中に刀剣を投影。それらを氷塊にぶつけることで相殺するも、クシナダの目的はレディの殺害ではない。現状でのレディの殺害は、そのままクロエの殺害にもなってしまう。クシナダはクロエの名も知らないものの、殺してはならないとは分かっている。

 クシナダが放った全ての氷塊が圧壊する。それでもなおその圧倒的な物量を以てクシナダを圧殺せんとばかりに剣弾を放ちつつ、手元に夫婦剣を更に1対投影し、指で挟みこむようにして持つ。頃合を見計らい、剣弾の射出を停止。同時に双剣2対をクシナダに向けて投擲する。あえて軌道を読みやすいように、露骨な構えで。

 当然、クシナダはそれを直刀で払うことで防御し、弾かれた双剣はあらぬ方向へと飛んでいく。それを見て、レディが嗤った。莫迦め、と。レディの狙いは初めから投擲による攻撃ではない。その先だ。彼女が新たな双剣を投影し、それに引かれるようにいて明後日の方向へ飛び去っていた筈の双剣2対が弧を描いて帰還を始める。

 それは、聖杯の片割れの核となっている錬鉄の英霊がその生涯において唯一生み出した、真実彼のみの絶技。そして彼の力を借り受け、行使することができる肉体を持つレディもまた、それを揮うことができる。

 双剣を手に、地を踏み込むレディ。そして、常に黒剣と白剣が共にあるという特性により彼女の手にある双剣に引かれて飛来する2対。その様はさながら剣の結界、否、剣の牢獄だ。それを突破するにはレディの剣も戻ってくる剣も受けず、離脱可能な絶妙なタイミングで彼女を殺すしかない。しかし、クロエの肉体を使っている限りクシナダにレディは殺せない。

 何事かクシナダが唱え、その身から爆発的な魔力が迸る。だが、無駄だ。レディが再び嗤う。何をしようとももう遅い。レディに向けて振るわれた直刀。その奇跡がレディに到達するより早く、彼女はクシナダの背後に転移した。

 

「さぁ、もう逃げ場はないわ! 

 ――堕・鶴翼三連(ブラックバード・シザーハンズ)!!」

 

 剣撃三閃。勝利を確信したが故の口上。双剣を握るレディの手に伝わるのは確かにクシナダの身体を刃が切り裂いたという感覚であり――しかし拭えない違和感にレディの笑みが消えた。

 その原因は明白だ。レディが振るった双剣は確かにクシナダの身体にその剣先を埋めていながら、それ以上動かない。まるで蠢く肉にせき止められてでもいるかのように、その場に固定されているのである。

 双剣によって切り裂かれた装束の隙間。そこから傷口を覗いて、レディはようやくそのカラクリに気付いた。レディの視線の先、そこにあったクシナダの皮膚はまるで龍のようなそれに変化し、その強靭な肉と尋常ならざる回復力で以て刃を抑え込んでいたのである。

 ()()()()()()。ようやく悟ったレディが双剣から手を離してクシナダの間合いから離脱せんとする。だがその直前に四肢に噛みついたクシナダの髪、如何なる原理によってか龍の頭のように変化したそれがレディから転移のための魔力を奪った。

 

「捕らえましたよ。肉を切らせて骨を断つ……とでも言うべきでしょうか。兎に角、これでもう転移で逃げることはできません……!!」

 

 日本神話において、クシナダはその登場から八岐大蛇に捧げられる贄として語られてはいるが、本来の在り方は八岐大蛇の巫女とする説が有力である。そして神霊である彼女は『そういうもの』として生み出されたために半ば権能に近しい力として八岐大蛇の魂をその身に降霊させることができる。遥の持つ鞘は彼女の力を宝具として再現したものだと言えるだろう。

 であれば八岐大蛇を降霊させた遥にできることがクシナダにできない筈もなく、レディの攻撃を避けられないと悟るや否や彼女はその身に八岐大蛇を降霊させ、変質した肉体の性質を利用して剣を受け止めたのだ。

 完全に有利を覆された形である。レディは何とか拘束から逃れようともがくも、クシナダの髪が変化した大蛇の顎はレディを捕らえて離さない。彼女の多頭蛇は見た目こそ尋常なそれと大差はないが、その力は比較にもならない。抵抗も虚しくレディは持ち上げられ、全く無防備な姿をクシナダの前に晒した。

 

「くっ……このォッ……!!」

「返してもらいます、その身体。本来の持ち主に!」

 

 それは王手の宣言であった。クシナダが拘束したレディの鳩尾辺りに呪符を押し当て何事か唱えるやレディの端整な顔が苦悶に歪む。身体は痙攣を始め、額から脂汗が噴き出す。まるで溺死寸前の怪我人か何かのようにぱくぱくと無意識に開かれた口から洩れるのはごく短い喘ぎで、今レディの意識がどのような状態にあるのかを察するにはそれで十分であった。

 クシナダは神霊であると同時に巫女でもある。それ故に彼女は〝霊魂を降霊・憑依させる術〟である巫術に精通し、自在に扱うことができる。そして巫術の行使中の巫女はある意味で〝降ろした霊魂に乗っ取られている状態〟であると言えるため、彼女はそういった状態にある肉体のことを子細に把握していた。だからこそ、こうして肉体に張り付いた魂を魂魄ごと無理矢理に引きはがすという荒業もできる。

 苦悶するレディをクシナダは地面に降ろし、身体に突き刺さった3対の双剣を引き抜く。その傷口は相当に深いものであったが、流石尋常ならざる生命力と回復力をもつ龍神を降霊させているだけあってその傷はすぐに塞がってしまった。しかし蓄積したダメージまでは無視できず降霊解除と同時によろめき、そこで横合いから伸びてきた腕に抱き留められる。

 

「遥、様……」

「大丈夫か……と、訊くだけ野暮か。……ありがとう、クシナダ」

 

 遥はクシナダの強さを知っている。精神の強さは勿論のこと、彼、正確には彼の雛形にして前世たる存在が教授した剣術や弓術、武術の腕前もだ。しかし共に戦ってくれた仲間に感謝しない者がいようか。少なくとも遥は感謝しないような慮外者ではなく、またそうなる気もなかった。しかし不器用な遥に示すことができる感謝など礼の言葉だけで、けれどクシナダにとってはそれで十分に伝わるものでもある。

 クシナダはその性格をよく知っている。元々は天津神だったとは思えないほどに人間性に富み、それ故に高天原から追放されてしまった彼の神とよく似た、いや、同じ不器用さだ。懐かしいその感覚にこみあげてくるものはあるが、ひとまずはそれを棚上げして、直後、レディが苦悶の咆哮をあげた。先程まで余裕を見せていた者のものとは思えない、まるで獣のような咆哮だ。そちらを見て、遥とクシナダが息を呑む。

 そこにいたのは、否、あったのは異形の執念であった。魂を物質化する第三魔法(ヘヴンズフィール)を施した訳でもなく、本来ならば曖昧な想念として消えていくだけのそれが、夜闇よりもなお暗い深淵のような黒い影として可視化されている。クシナダの術によってクロエの肉体から引き剥がされながら、しかしそれでもなお諦めきれぬとばかりに纏わりついて。その目が紫色と薄桃に明滅を繰り返しているのは、恐らくクシナダの巫術によって失われたはずの身体の制御権を意志力のみで離すまいと足掻いているからあろう。途轍もない意志力、執念、そして精神力である。

 

「コイツ……権能に近い強制力をもつ筈のクシナダの巫術を受けたってのによ……!」

『当然、でしょう……!! 私はまだ止まれないのよ……世界を、救うまではッ!!』

 

 果たしてそれは影と身体、どちらから発した声であったのか。地獄の窯で煮詰められ、積もり続けた果てのない怨念をそのままぶちまけたかのような、そんな咆哮であった。それに伴ってクロエの肉体に張り付いていた影が爆発的な衝撃と共に膨張し、反射的に遥とクシナダが防御態勢を取る。可視化される程の嚇怒の魔力。その中で、遥は確かに見た。彼女に回収されたアリスの宝石を、彼女自身が呑み込む姿を。

 瞬間、レディから放たれる嚇怒の魔力が明らかにその圧力を増した。更にその魔力が遥の総身を撫でるや、全身の血液が血管内で沸騰するかのような激烈な疼痛と不快感がその身体に満ちる。ヤツを斃せ、ヤツを殺せと全身の細胞ひとつひとつが叫んでいる。その感覚に、遥は覚えがあった。

 そう。忘れる筈もない。仮に彼の起源が『不朽』でなかったとしても、彼はきっと忘れることはなかっただろう。その感覚は、変異特異点αの最終決戦前、臓硯の願望を受けたこの世全ての悪(アンリマユ)がユスティーツァの肉体と同化して現れた際と同じ感覚だ。それが示す所を、分からない遥ではない。

 漆黒の魔力が晴れる。そうして露わになったレディは、これまでとは聊か装いを異にしていた。一部を団子にして束ねていた髪は全て解かれ、レディの激情を具現化したかのように大きく波打っている。紅い聖骸布の外套は静脈血のように赤黒く変わり、禍々しく。そしてその両側頭部からはおおよそ人間やその他尋常な生物のものではない、捩じくれた角が生えていた。

 人類悪(ビースト)。人類史の内より生まれながらにして、人理悉くを終焉へと導くモノ。英霊はおろか神霊すらも上回る力を有し、完全体ともなればそれ自体が何らかの法則として作用する程の脅威を秘めた、生ける天災である。しかし遥はレディと同じ亜種と出会ったことがあるために、レディの霊基規模(スケール)が異様に小さいことにも気づいた。それでもサーヴァントなどは及びも付かないものであるが大きく見積もってもレディの霊基規模は精々ユスティーツァの半分程度でしかない。警戒して様子を見ている遥たちの前で、レディがよろめく。

 

「ッ……だからこの身体ではやりたくなかったのよ……! あまりにも、願望器として弱すぎる……!」

 

 恐らくクシナダの術が未だ効果を発揮しているということもあるのだろう。しかしそれ以上に、クロエの身体に残された願望器たる機能と霊基強度が、ビーストとして肥大化したレディの霊基に耐え切れない。クロエの身体ごとビースト化しているのならそうはならなかったのだろうが、あくまでもビースト化しているのはレディのみだ。身体の方は魂によって状態を上書きされているだけに過ぎない。彼らには預かり知らぬ事だが、それは別世界におけるアカシャの蛇と『弓』の関係にも似ていよう。尤も、そちらとは異なりこちらは転生などという大層なものではなく、ただの乗っ取りだが。

 遥にはレディがビースト化している原理は分からない。しかし推理することはできる。レディの目的は何であるのか、魔女の身体に埋め込まれている宝石が何であるのか、既にある程度の推測はできている。故にビースト化の理由もおおよその察しは付く。

 しかし、遥の推測が正解なのだとするとたったひとつでビーストに変質するに十分な人類愛を内包した宝石とは、それだけで何人の魂を集積しているのか。想像するだに恐ろしい。加えてそれがひとつだけではなく、4つ存在することも。

 

「レディ、おまえ……手前の欲望のために、いったい何人の魔法少女を犠牲にしてきた!?」

「そんなコト……アナタには関係ないでしょう? それに、態々数えていると思う?」

「なっ……貴様――ッ!!」

 

 激昂し、爆発する感情のままレディに斬りかかる遥。完全に冷静さを失っていながらその剣腕には聊かの翳りもなく、それどころか極限にまで研ぎ澄まされた殺意は彼の思考から余計なものを全て奪い取り、一時的ではあるものの〝空〟と等位の領域へと至らしめた。

 だからだろうか。遥にはクロエを殺さずレディのみを殺す方法を感覚的に理解した。そして、それを実行するために突くべきレディの霊核も視えている。紅玉の瞳に揺れる殺意の焔は、普段の彼からは考えられない程に激しい。

 しかし、不完全とはいえレディはビーストだ。そんな何の芸もない、ただ神性を帯びているだけの超神速による刺突など通用する訳もなく、叢雲の剣先はレディに受け止められ、逆にレディが放った魔力撃によって遥は吹き飛ばされ、その威力でオルテナウスの大部分が粉々に砕け散った。更に魔力撃の余波で家々が崩壊し、遥とクシナダが灰燼に帰した街の瓦礫に沈む。

 

「グ……野郎ォ……!」

「ハハ……イイ気味ね。今まで散々私の邪魔をしてくれて……そのお返しをしてあげ――る……?」

「……?」

 

 怨敵である遥をたった一撃で半ば戦闘不能に近い状態に追い込むことができたからか、どこか上機嫌にも聞こえる声音で言うレディ。しかし予定外のビースト化に耐え切れない身体でそう長く継戦できる訳もなく、不意にその身体がブレた。

 ビーストとなったことで圧倒的な劣勢を覆したまでは良い。しかし元よりクロエの身体はレディにとってはビーストとなる準備が整うまでの仮の宿であり、〝ビーストの霊基によって身体にビーストの概念を上書きする〟という無理矢理な方法ではクロエの霊基はいずれ崩壊してしまう。

 より強い身体が必要だ。霊基規模が、ではない。より願望器としての属性が強い身体に替える必要がある。それも早急に。怨敵を殺すことができる好機を前にしてみすみすそのその機を手放してすまうことに舌打ちを漏らし、レディが転移しようとする。

 

「この……待てッ……!!」

「……ここでアナタを消したいのは山々だけれど、生憎私には時間がないの。だから、今の内に辞世の句でも詠んでおくのね。次に会った時が……アナタの最期よ」

 

 それだけ言い残して、レディは姿を消した。

 


 

 ――幕切れは、あまりに呆気ないものであった。どちらが勝った、負けたという話ではない。この幕切れでは勝敗など判じることはできまい。唐突に目前で起きたそれを、イリヤは一瞬理解することができなかった。

 ただでさえ巨大な目をより大きく見開き、口から血を流すジルの胸から生えているのはイリヤにも見覚えがある陰剣、それに魔力を過剰に込めたオーバーエッジ状態の莫耶。であればそれを握っているのがレディであることは、最早言うまでもあるまい。

 しかし、これは。魔術師や戦士ではなくあくまでも魔法少女(カレイドライナー)でしかないイリヤだが、その出自のために常人を圧倒する魔力事象に対する知覚能力を有する彼女は今のレディが以前のそれとは比較にならない程に霊基規模を拡大させていることにすぐに気づいた。その規模たるや、黒化ギルガメッシュが可愛く思えてくる程だ。

 彼我の間にある決定的な戦力差の前に、どう対応すれば良いか分からずに立ち尽くすイリヤ。だがレディはそんなイリヤの様子は眼中にないとでも言うかのように配下である筈のジルに酷薄な笑みを投げかける。

 

「ォオ、オ――主よ、何故……!?」

「御免なさいね、ジル。本当に御免なさい。えぇ、本当に……」

 

 御免なさい。そう繰り返しながらも、レディの顔に張り付いているのは笑みであった。それも、今までの無機質な笑みではなく心の底からジルを侮蔑しているかのような、極めて強い悪意を感じさせる顔だ。

 イリヤから見れば、それは裏切りだ。なにせ仲間であった筈の魔法紳士にその主であるレディが留めを刺したのだから。けれどレディにとっては既定路線である。元より魔法紳士は最終的にレディの養分になる予定であったのだから。少々前倒しになっているが。

 レディは分かっていた。今、自分が手ずからジルを殺さなければイリヤの救援に駆け付けた遥によってジルは斃され、宝石も回収されてしまうことを。故に手を打った。それだけだ。それだけのことなのだ。

 ジルの身体を貫く莫耶から彼の身体を浸食するかのように黒い文様が伸びていく。それが増えていくにつれてジルの抵抗はより激しく、同時により虚しいものへと変わっていく。そして。

 

「サヨナラ」

 

 グシャリ。擬音に表すならば、ただそれだけで事足りる。レディが何事か呟いたその次の瞬間、ジルの身体は栓をする前に手放したゴム風船の如く萎み、潰れてしまったのである。骨が砕け、肉が挽き潰される異音をあげながら、イリヤの目の前で。

 ジルを『捕食』したことでまたしてもレディの霊基規模が拡大する。それでも完全体(オリジナル)のビーストには遠く及ばないが、只人ならば気配を感知しただけでショック死してしまいかねない程だ。その気配は直前にグロテスク極まる光景を見せつけられたイリヤの精神には毒でしかなく、こみ上げてきた吐瀉を手で抑えながらイリヤが蹲る。

 レディはそんなイリヤを極めて無関心な瞳で一瞥し、ジルの持っていた宝石を拾う。呑み込みはしない。今呑み込んでしまえば、後で美遊の身体を乗っ取るのが面倒になってしまう。故にそのまま懐に仕舞って、今度こそ本当に、この街から立ち去った。

 


 

 他の場所でのことはともかく、この世界、レディの固有結界〝夢幻の墓標(エンド・サクリファイス)〟内にいるメイヴは魔法少女――否、魔女である。しかしその在り様は他の魔女とはあまりにも異なる。自我があるのだ、彼女には。

 魔女が自我を喪う最大の原因はレディの霊基改変、宿業によるものだが、それと同等に彼女らが内包している魔法少女の魂を汲み上げるための宝石もまた、自我を崩していく。何せそれらひとつひとつが呪詛と化した人類愛の塊だ。いかな英霊であれ、いや、人々の思いで如何様にでも変質してしまう英霊だからこそ、それに抗えずに自我を崩壊させてしまうのは自然なことだ。

 だが、メイヴは抗った。抗い続けた。それは彼女がもつ女王としての誇り高さ故であり、英霊としての属性がそういった人々の想念に対して極めて高い抵抗力をもっていたからでもある。

 要は彼女は、あまりにも女王として完成され過ぎていたのだ。その〝女王としての在り方〟はどうあれ、人々の意志を押し退けてでも我を突き通す力は誰よりも高かった。同時に人間として、少女としてはあまりに未完成で、だからこそ耐えることができていた。そう、()()()()()のだ。

 

「ゥヴ、イゥ――アァ、あ――うぁ――」

 

 メイヴが治める〝雪華とハチミツの国〟。その最奥にある城にて、女王は苦悶する。魂そのものを圧搾するかのような苦痛の嵐に晒されながら、最後に残った冷静な部分でメイヴはレディに何かが起きたことを悟った。もう自らが長くないことも。それでも、受け入れられない。受け入れる訳にはいかない。

 

「私は、あんな奴には従わない……! 染められて、たまるものか……!」

 

 その強烈な意志の輝きを内包した方向も、今はただ虚しく響くのみだ。普段は彼女の傍らにいるミニクーちゃんも侵入者を排除してくると言って出て行ったきり戻ってきていない。彼女は自らの内で暴れる他者の感情とひとりきりで戦っている。

 メイヴは理知的な女王である。自らの欲求を最優先に行動するその性格からそれが発揮されることは少ないものの、とある特異点では合理性を突き詰めた狂王と並び立つことができているのがその証左だ。そしてそれ故に、彼女はレディに何もなかろうと自分がいつか自我の崩壊を迎えると分かっていた。

 だからこそレディが固有結界の中に引き込んだ聖杯の少女を狙ったのだ。他でもない、願いを受け止める器である彼女にならばその狂った人類愛の塊を移すことができるだろうと踏んで。結局は失敗してしまったが。

 秒読みで薄れていく意識。代わりに顔を出してくる自分のものではない狂気。次第に狭間を喪って全てが狂気に呑まれていく中で何者かの気配を察知したメイヴはそれがミニクーちゃんのものと思い苦悶の中に喜色を滲ませ、しかし直後にミニクーちゃんでは在り得ない靴音を聞き咎めたことで凍り付いた。

 侵入者によって放り投げられ、軽い音を立てながら床に転がったのはぬいぐるみだ。至る所に刻まれた裂傷から綿が飛び出し、最早原型を留めない程にまで破壊しつくされたそれだが、メイヴは一目でそれがミニクーちゃんであることに気づいた。絶句するメイヴの前で、侵入者たる騎士――ディルムッドは騎士としての礼も何もかも無視して瀕死の女王に赤剣を突きつける。

 

「悪く思うな、女王メイヴ。我が主の命により、その命、頂戴する」

 

 茫然と騎士の姿を見上げるメイヴ。最早彼女には死神の魔手から逃れる術など――――一片たりとて、残されてはいなかった。




 多分遥は黄金の精神よりは漆黒の意思系主人公だろうと思う今日この頃。

【ステータス更新】
真名:ファースト・レディ
クラス:アーチャー→ビースト(?)
理:?

 遥の見立てではどうやら真性のビーストではなくユスティーツァと同じ亜種の模様。
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