自分が誰かを好きになる日が来るなんて、想像もできなかった。でも、それはただの子どもの強がりで、妬みとそう変わらない感情を隠していただけなんだろう。
人より少しかわいかったり、人より少し内気だったり、人より少し優しかったり、プラスかマイナスかに関わらずなにかがはみ出してしまうと好機とばかりに輪から蹴り出されてしまうこんな世界だから、夢も希望も愛も友情も嘘くさくて。
どうでもいいことで一喜一憂するみんなを輪の外から眺めて、誰もわたしの声なんて聴いてないのにバカみたいだと罵って背を向けてきた。
……そうじゃないな。背を向けられていたのはわたしで、輪の中に入りたくて気を引こうとしていただけ。自分が弾かれていることを認めたくなくて、相手を下に見ることで「わたしはもっと特別なんだ」って誤魔化してきた。
だって、優れていることを隠さなきゃ生きられないなんて、息苦しくてたまらない。生きるのが苦しい。
苦しいのは嫌だから、わたしにとって都合のいい解釈をして、輪の中にいない自分に正当性を見出そうとした。
結果的にわたしは男子から人気を得て、その人気にあやかろうとする女子との繋がりを持てたけど、薄っぺらい繋がりなんて輪の中に入ったとは到底言えなくて、慰めにもならなかった。
誰かを好きになる感覚も、誰かを大切に想う気持ちも、わたしにはなにもわからない。
わたしがちょっとにこやかに話しかけただけで告白してくる男子は沢山いたけど、あの人たちがわたしのどこを好きになったのか全然理解できなくて、恐怖すらあった。
わからないままに何年も経過して、もうどうでもいーやなんて諦めていたところに現れたのが、先輩だった。
ほかの男子たちと先輩が違う理由なんてしらないし、先輩の黒歴史を聞く限り先輩ももともとはそう変わらなかったじゃないかとか予想はできるけど、そんなことはどうでもいい。
わたしが求めていたのはほかの男子と違う男子じゃない。わたしが本当に欲しかったのは、わたしと同じように弾かれた人だったんだ。
自分だけじゃないと、一人じゃないんだとわかれば心は安らいで、いつのまにか目で追うようになっていた。これが恋なんだろうと思った。
でも、実はそんなのは不幸なやつが自分と同じくらい不幸なやつを見つけて同じ境遇のやつがいたって喜ぶようなもので、本質的には過去にした誤魔化しとなにも変わらない。
わたしが弾かれていることはそのままで、わたしが輪の中にいなくても大丈夫だと感じられる理由ができただけ。
それに気づいたのは、廊下で先輩の震える声を耳にしたとき。わたしは変わらず一人だったんだと思い知らされた。
わたしと先輩は全然違う。輪の中に入れないやつが二人いたって、わたしと先輩が同じ輪の中にいることにはならない。当たり前だった。
これは恋じゃない。それなら、わたしは恋なんて一生わからないままなんじゃないかって出会う前と同じ思考に戻っちゃって、でもわたしは諦めきれなくて。
諦めきれなくて、葉山先輩に——
× × × ×
気だるさに包まれながらまぶたを持ち上げた。目を擦ると手が濡れて、そこでようやく泣いていたことに気づく。
「……なんでだろ」
なんだか懐かしいものを見ていた気がする。懐かしいもの——昔のわたし。
きっかけがあるとすれば、昨日の先輩とのデートかな。それがどうして昔のわたしに繋がるのかよくわかんないけど、なんとなくそんな気がする。
「なんでもいいや……」
むくりとベッドから身体を起こして、テーブルの上に放り投げてあったスマホを取った。待受画面には何件かのLINE電話の着信とメッセージの通知が一件表示されている。通知をタップしてトーク画面を開くと、そこには業務連絡みたいに簡潔に用件だけが記されていた。
『明日の午後一時に今日と同じ場所に来てくれ』
先輩からのお誘い。いつものわたしなら嬉しくて眠気も飛んじゃうくらいなんだけどな……。逃げるみたいに飛び出してきちゃったし、合わせる顔とかないし。
それでもちょっと行きたいなぁとか思ってしまうあたり、本当にどうしようもないなこいつ。行ってなにすんだって話でしょ、振られて解散ファイナルアンサー。
返事もせずにLINEを閉じて立ち上がった。昨日は家に着くなり服だけ着替えてベッドに飛び込んだから髪がこれ以上ないくらいぼっさぼさになっている。冬だからベタつきはないけど、やっぱりちょっと気持ち悪い。
「とりあえず、お風呂……」
十二月二十五日の午前四時、眠気が抜けないまま風呂場へと向かった。
「シャワーか……貯めよっかな」
なんだか身体がだるいのでお湯を張ることにする。疲れた身体には入浴と睡眠と食事! 食事はお風呂入ってからするし、睡眠はアホほどしたので、とりあえず貯まるまで顔でも洗っておこうかな。
鏡を見ると酷い顔の女がこっちを向いていた。うわ……そういえばメイク落としてないじゃん。まずはメイク落としからですね、なんてだらだらやっていたら、顔がすっきりする頃にはお風呂はすっかり貯まっていて、服を脱いで浴室へ踏み入る。
「うわ、寒……」
冬の早朝に裸は地獄。やっぱ貯めて正解だったわ、これ。シャワーじゃ絶対出た瞬間に冷える。
一日サボったので念入りに身体と髪を洗って湯舟に浸かると意図せず息が漏れた。疲れてますね、わたし。
「ふぅ……」
ぼーっと天井を眺めながら、昨日のことを思い返してみる。
まず、先輩に服装を褒めてもらえた。偉そうなことを言いはしたけど、ぶっちゃけめちゃくちゃ悩んだので、実はめちゃくちゃ嬉しかったりする。欲を言えば似合ってるより、かわいいとかがよかったけど、先輩にそれを期待するのは酷だろう。
ちなみにわたしのお小遣いで買える服ではないので、前日の二十三日、お母さんにクリスマスプレゼントとして買ってもらったものだったりする。
本屋さんでは先輩のオススメの本を買えた。密かに先輩の趣味に興味が湧いていたので、これもなかなかグッドイベント。しっかり読めるかは読んでみなきゃわかんないけど、別に活字は嫌いじゃないしなんとかなりそう。
お昼に食べたパスタは美味しかったし、あーんとかしてもらったし、思い返すとのぼせそうになるから、あのときのわたしはよく耐えたなと我ながら驚愕してしまう。先輩のあーんだよ!? めっちゃ渋々だったけど!
その次は、ショッピングか……先輩に選んでもらったバレッタ、今度出かけるときにつけてこ。先輩と出かけることは、まあ、ないかもしれないけど……うん、プレゼントも渡せたし、今はそれはいいっていうか。ほんとに。
最後がボウリング……あ、だから疲れてるのか。なんか肩が痛いと思ったらそういうことね。ワンゲームで筋肉痛とか大丈夫なの、わたしの身体。
「はぁ……楽しかったな」
当たり前だけど、楽しかった時間のほうが圧倒的に長いんだよね。だって、好きな人とクリスマスデートなんてベッタベタなことしたわけだし、そりゃ楽しくないわけがない。
楽しくなくなる理由はあったし、実際泣いちゃったりもしたわけだけど、総合的に見てみればプラスで、わたしとしては……その、本当に、最後に楽しい思い出が作れてよかったっていうか。
「……っ」
本心だ。全部、本音で心から思ってることに違いなくて、でも、つらいのも苦しいのも本当のことで。
「だめ、だなぁ……っ」
こんなんじゃ、なんのために、全部言ったのかわからない。苦しくなるのが嫌で離れたのに、離れても今度は別の苦しさが襲ってきて、嫌になる。
「せんぱいっ……」
会いたい。もう一度顔が見たい。でも、わたしの欲は勇気にはなってくれないから、わたしはただ自業自得の胸の痛みに泣きじゃくることしかできなかった。
× × × ×
ぺら、とページを捲って、文字列を読む前に時計に目を向けた。短針がぴったり一を指しているのを確認し、それから傍らに置いていたスマホへ、そうしてようやく文字列に戻ってきた視線を下から上に動かして内容を頭に入れる。
さっきから、こんなことを繰り返している。
読書に没頭したいのに時間ばかりを気にしてしまって、全然ページが進んでない。せっかく、先輩に選んでもらったのに。
「……やめよ」
栞を挟んでから本を閉じて、ソファから腰を持ち上げる。と、同じようにソファでくつろいでいたお母さんから声をかけられた。
「部屋戻るの?」
「あ、うん」
「そう。……昨日は、うまくいかなかったの?」
「……うん。ちょっと、いろいろ、あって」
「そっか、大変だったね」
「う、ん……っ」
優しくしてもらえる理由なんてないのに、なにも聞かずに無条件に優しくしてくれるお母さんに背を向けて自室へと戻った。
苦しいんだ、優しさが。自分しか悪くないのに、わたしがどれだけどうしようもなくてもお母さんはいつもわたしの味方をしてくれる。責めてもらった方が、まだマシだった。
布団にくるまっても、身体の震えはおさまらなかった。
× × × ×
「ん、ぅん……」
薄っすらとまぶたを持ち上げて、いつのまにか寝てしまっていたことに気づいた。身体を起こしてスマホで時刻を確認すると、十六時を過ぎている。
「……三時間くらい、か」
昼寝にしては長過ぎる。これは夜眠れないかもなぁなんて思いながらぐぐっと伸びをすると、テーブルになにか置かれているのが視界に入った。
「……あ、ケーキだ」
そういえば、昨日は夕飯も食べずに寝たからケーキも食べてない。横には「よかったら食べてね」と書かれたメモが添えられている。
……心配、かけてるよね。よくない、よくないよ。ていうか、クリスマスプレゼントも渡せてないし。あとでちゃんとお礼言わないと。
それはともかく今はケーキ。甘いものは脳の疲れに効くって言うしね!
多分、お母さんの手作りだろう。我が家ではクリスマスケーキも誕生日ケーキも手作りだ。わたしがお菓子づくりをするようになったのも、小さな頃からケーキ作りを手伝ったりしていたからかもしれない。これが、刷り込み……。
というわけで、ラップを外してまず一口。
「んーーーっ! 甘い!」
わたしを甘やかすお母さんくらい甘い。ガトーショコラ最高。ブッシュドノエル的なクリスマスケーキを期待していなかったこともないが、ケーキというだけでクリスマス気分にはなれる。
二口目を口に運ぼうとすると、コンコンと扉がノックされた。
「いろは? 起きてる?」
「起きてるよー」
扉を開けて姿を見せたお母さんはマグカップを持っていて、
「ココア、飲む?」
「あはは……うん、飲む」
過保護な親だ。まあ、クリスマスケーキは一人で黙々と食べるものでもないからいいというか、助かるんだけど。
「お母さんも一緒に食べよーよ」
わたしが誘うと、お母さんは嬉しそうにはにかんで頷いた。
女子会ならぬ親娘会の開催だ。お話ししながらケーキを食べるだけだけど。
「……いいの?」
ケーキを食べ終えてくつろいでいると、独り言みたいな声量で問われた。なんだかついこの間にもこんなことあったなぁ。
「……うん、いいの」
「そっか。なら、いいんだけどね」
寂しげな表情から目を逸らしてしまった。
気になるのかな……そりゃ気になるか。イブにるんるんで出掛けた娘が帰ってきたと思ったら夕ご飯も食べずに寝て、翌日は早起きしていつもはしない読書。その上、時間は気にしてるし、本閉じて部屋戻ったら速攻寝てるし。
気にしないほうが無理あるでしょ、こんなん。
沈黙に居心地の悪さを感じていると、スマホが着信を報せる。画面には、比企谷小町の文字。
「……うわ」
素で嫌がってしまった。いやだってほら、絶対怒られるじゃないですかー、あー、やだなー、出たくないなー。でも出ないともっと怒られるよなー……。
「リビング、戻ってるね」
「あ、うん……」
お母さんが部屋から出て行ってもまだスマホは鳴り続けている。……出るしかないよね。
「……も、もしもし」
『——やっと出た! もう! どうせなにもしてなかったんですから、さっさと出てくださいよ!』
わたしの後輩がひどい! なにもしてなくないし! ケーキ食べたりココア飲んだりしてたし! ……終わってたけど。
「な、なんの用?」
『なにって、そんなの聴かなくてもわかってるんじゃないんですか』
「うっ……」
ええ、わかっていますとも。一つしかないもんね。
『……行かないんですか?』
ぴりぴりと電話越しでもイラつきが伝わってきた。
ていうか小町ちゃんも知ってるんだ。同じ家に住んでるんだから当たり前か。
「……行かないよ。だいたい、もう五時だし。先輩ももう帰ってきてるんじゃないの?」
『っ……まだですよ』
「え?」
『まだ、帰ってきてないんですよっ!』
なにを言っているのか理解するのに少し時間がかかった。
まだ、帰ってない? 反射的に耳から電話を離して時間を確認すると、現在時刻は間違いなく五時だった。
「え……いや、そんなわけ、だって、もう四時間も。わ、わたしが来ないから、ついでに街をうろついてる、とか……」
『お兄ちゃんが、一人で、街で、四時間もですか? 本当に? 本当に、そう思うんですか?』
「それ、は……」
思えない。わたしと出かけた翌日で疲れているだろうし、家から出たのだって異常なくらいなのに、用もないのにぶらつくなんて絶対にありえない。
そういう人だ。そういう人だと知っているから、だから、不思議で。
「で、でも……わたしを待ってるかどうかは……」
『じゃあなにを待ってるんですか。いろは先輩と会うために駅に向かったお兄ちゃんは、一体、他に誰を待ってるって言うんですか? ……適当な言い訳ばっかりしないでくださいよ。小町、怒ってるんですけど』
つい口を噤んでしまった。なにを言えばいいのかわからなかったし、下手なことを言ってこれ以上怒らせたくなかった。
わたしが黙り込んでいると、小町ちゃんははぁとため息をこぼして、
『行かないならいいですよ、もう。それならそれで、せめていろは先輩がお兄ちゃんに言ってあげてください……そうしないと、動かないので』
見捨てられたような気分だった。それは多分、心のどこかで小町ちゃんがまた背中を押してくれるのだと甘えていたから。
わたしは行きたくなかったわけじゃない。行かなきゃならない理由が欲しかった。
『小町は伝えましたからね、それじゃ——』
「待ってっ……!」
このまま切ってしまうのが怖かった。
「待って……行く、から」
『……どうしたんですか、急に』
「別に急じゃないよ……もとから行かなきゃって気持ちはあったから」
でも、行きたくない気持ちもあって、わたしは行って散々な目にあっても自分を誤魔化せる保険が欲しかったんだ。今もそう。
人のせいに出来る理由を探している。
「……行かなきゃ、でしょ。応援してくれた小町ちゃんのためにも」
『……そういうとこですよ。いいんです、もう。小町のことなんて気にしなくて大丈夫ですから。無理して行かなくてもいいんですよ』
「っ……だ、だって、怒ってるって」
『——怒ってますよっ。怒ってるけど……小町が怒ってるのは、もっと、もっと別のことなのに。なんで、わかってくれないんですか……』
「そんなの、そんなこと言われたって……わかんないよ」
いっつもなんにもわからない。後輩のこと、先輩のこと、自分のこと。なんにもわかんなくて、でもそれは、
『わかろうとしてないだけじゃないんですか』
そうだ。ずっと目を背けてきた。自分に都合よく解釈して、人の気持ちなんて、考えたこともなかった。
「……ごめんね」
『っ……ごめん、じゃなくて! 小町は、謝ってほしいから怒ってるわけでも、いろは先輩が失敗したときに謝って済ませられる相手になったつもりもないのに……』
「でも、そんなの、謝るしか……」
『……いろは先輩は、小町がどうしていろは先輩を応援するのか考えたこと、ありますか?』
× × × ×
急いで支度をして、自室の扉を開けた。思い出したようにテーブルの上の包みを引ったくってリビングに飛び込む。
「お母さんっ」
ソファに座っていたお母さんは、驚いたように顔を上げてわたしを見る。
「……出掛けるの?」
「うん。ちょっと、行きたいところがあって。あと、これ、クリスマスプレゼント」
素直に受け取ったお母さんは柔らかく微笑んで、
「ありがとう」
「ううん……。心配かけて——」
違う。わたしは言いかけた言葉を飲み込んで、もう一度口を開く。
「心配、してくれてありがとう。行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
家を飛び出すと外はもう真っ暗で、寒風にぶるりと身体が震えた。目的地に向かいながら、小町ちゃんとの会話を思い出す。
『小町はいろは先輩のためにいろいろ言ったりしますけど、でも、それはいろは先輩のことだから……別に小町のためになにかして欲しいなんて思ってないんですよ』
誰かのためにというのは、おためごかしであったりすることも多いけれど、基本的には自分の得になるものではない。それでも、相手を想うからこそ利がなくても協力できる。
『いろは先輩は小町のためなんて言いますけど……そんなの、小町は望んでない。小町のせいに、しないでくださいよ……いろは先輩のことなのに、どうしてそうやって、動く理由を他人に求めようとするんですか?』
「それは、だって……」
『失敗したら怖いからですか? 間違えても誰かのせいに出来るからですか? そんなの……そんな風にっ、失敗することばっかり考えて、自分がどうしたいかなんて考えもしないからっ……。だから、だから簡単に逃げ出せちゃうんですよ……っ!』
全部、見透かされていた。それは、それこそが、小町ちゃんがわたしのことをしっかり見ていたという証明で、わたしはいつもそんな後輩を都合よく利用していたんだ。
なにかを成したいのなら、自分の責任で、自分の意思で、自分の気持ちを隠さずに行動すべきだった。
『なにか保険がないと立ち止まってしまうなら、もういいです。本当はこんなこと、言いたくなかったですけど……でも、それでもいろは先輩じゃないとダメだから』
強く唇を噛み締めた。
悔しさとか情けなさとか、自分のことを嫌いになってしまいそうな感情が絶え間なく溢れてくる。
『小町がいろは先輩を応援するのは、もちろんいろは先輩が大切だっていうのもありますけど……本当はそれだけじゃなくて、小町はお兄ちゃんも、大切だから、幸せに、なって欲しいから……だからっ』
後悔だった。
小町ちゃんの言葉を耳にして、生まれたのは後悔。
また後悔だ。なにもしないで、なにもできなくて、非生産的な人生を歩むわたしが唯一生み出せるのが後悔。
でも、後悔しないなんてことはできないから。もう、いい。いいんだ、もう自分の足で歩けるから。
「お待たせ、しました……」
昨日と同じ場所で、先輩はマックスコーヒーを片手に佇んでいた。周囲にカップルが溢れているため、なんだか対比でものすごくどんよりとして見える。
「……本当に待ったわ」
時刻はまもなく六時。本当に一時からここにいたのだとすると、五時間は待たせたことになる。それに関してはまじで申し訳なさしかない。
「ごめんなさい……」
わたしが素直に謝罪の言葉を告げると、先輩は真面目な顔をして、
「もう、来ないかと思ってた」
「……来ない、つもりでしたよ。でも、来なきゃいけない——いえ、行きたいって思えたから、ずっと思ってたから、来ました」
そうだ。一番強い気持ちに従ったら、迷いも葛藤もいらなくて、来てしまえばなにを恐れていたのかと過去の自分をバカにすらできてしまう。
「先輩に、会いたかったんです。先輩に会えなくなるのが嫌だったんです……」
二度目。でも、あのときとは違う。しっかりと先輩の瞳を見据えて、これが本当の気持ちだと、これがわたしの原動力なんだと訴える。
「——好き、です。先輩」
そこで終わりじゃない。もっと言わなきゃいけないことが沢山ある。
「小町ちゃんに、全部聞いちゃいました」
「全部って……」
こくりと頷くと先輩は少しだけ顔を赤らめて、それから長いため息を吐き出す。どうやら、怒ってはいないようだ。けど、怒っていないからいいというわけでもない。
「ごめんなさい……小町ちゃんが悪いわけじゃなくて、わたしのせいなんです。わたしが、いつまでもうじうじしてたから……そうやって、ここに来ても傷つかないんだって教えてもらわなきゃ動けないから仕方なく話しただけで」
後輩にあんなことまで言わせてと、どうしても思ってしまう。でもそれじゃダメなんだ。
わたしはわたしの意志で、誰の影響を受けたわけでもなく、先輩に会いたいから離れたくないからここに来たんだって、それが周りからみてどれだけ嘘くさくても、伝えたい。
「わたしは基本的にそういう人間で、いつも誰かに後押しされてようやく動き出せるような情けないやつなんですけど、今日は……今日だけは、違うんです。そうじゃなくて、わたしが先輩に会いたいから。もっと、ちゃんと、先輩の目を見てまっすぐ気持ちを伝えるために、ここに来たんです」
信じて欲しいなんて、言えないな。信じてもらえるようなこと、してきてないから。
先輩にも、自分にも、わたしは嘘ばっかりついて、騙し騙し生きてきたから、今更そんなことを言う資格はなくて、
「……お前は、葉山のことが好きなんだと思ってた」
こんなことを言われてしまっても、仕方がない。
「……わたしは葉山先輩に告白しましたけど、それは自分の気持ちを確かめたかったからなんです。これが恋なのか、わたしは本当に葉山先輩が好きなのか、この気持ちは本物、なのか」
「まだ、覚えてたのか」
「忘れられないって、言ったじゃないですか」
忘れない、忘れられない。わたしを変えるきっかけになったあの言葉は今でも鮮明に思い出せる。
「あの告白は、葉山先輩が好きだからしたんじゃなくて……先輩と関わって、先輩の影響を受けたからこそのものだったんです。モノレールの中でそのことに気づいて、先輩への気持ちも自覚しました」
一年も前の話。 自覚すると同時に雪乃先輩や結衣先輩の顔が浮かんできて、敵わないんだろうなと思った。せっかく誰かを好きになる気持ちがわかったのにどうしてと泣きそうにもなった。
でも、今はそのことはいい。過去より、目の前のことが大事だ。
「だから、ずっとなんです。ずっと、嘘なんです……わたしはずっと先輩と出掛けたいから先輩を誘って、先輩と話したいから先輩に話しかけて、全部……全部っ、先輩といたかったから……っ」
言いたくないことを、言おうとしている。結局、それも全部わたしのためで、わたしが納得したいだけの、ただのエゴなんだけど、そういうエゴこそを、今この場で先輩に見せなきゃいけないんだ。
わたしがどういう人間なのかってことは、わたしが隠していたら知ってもらえないから。
「怖いから嘘をついて、嫌だから逃げて、そういうことばっかりする……わたしはそういう、弱いやつで、だから、本当は先輩に、好きになってもらえるような、そんな部分、全然なくって……っ。強くも、ないんですけどっ……それでもわたしの——」
——わたしのこと、好きだって言ってくれますか?
すべて言い切る前に、言うのを咎めるように先輩は口を開いた。
「逃げちゃ、ダメなのかよ」
怒っているような、いつもより荒い語気に肩が震えた。先輩はそんなわたしを気にしたのか、一度大きく息を吐いて、再びわたしを見つめる。
「……いいだろ、逃げたって。嫌なことから逃げたっていいだろ、怖いから嘘をつくののなにが悪いんだよ。誰だってしてることだ。自分のために嘘をついて、罪悪感を抱かずに平然と生きてる。普通だろ、そんなの」
「で、でもっ、わたしは……」
「だったら、俺はどうなんだよ。俺だって変わらない。嫌なことから逃げるし、嘘だってつく。悪いと思ったことなんてないし、そうやって自己防衛することのどこが悪いのかもわかんねぇよ」
「先輩は……先輩はわたしとは、違うじゃないですか」
「そうだな……俺とお前は違う。俺はお前が思ってるような人間じゃない。お前はここに来たのは安全だからじゃないと言ってたが、俺はそうじゃない。安全だからだ。安全だから、お前をここに呼んだ。安全だから、ずっと待ってた」
自嘲げに笑う様は切なげで、ついさっきわたし自身がそれを否定してしまったせいで声をかけることもできない。
「俺はそういう人間だ。確信がなきゃ動けない。人の気持ちを信じられない。誰かの行動に無理やり理屈をくっつけて、勘違いしないように自惚れないように、そんな風に生きていくことしかできない」
「……生き方を、変える、のは……難しいこと、です」
「お前にだって、それは当てはまるはずだろ。難しいから変えなくていいなら、恥じる必要もないんじゃねぇのか」
「そ、そうかも、しれませんけど……」
「かもじゃねーだろ。……だいたい、そんなのどうでもいいんだ。自分の生き方とかお前の生き方とか、興味がないわけじゃないが、重要なことじゃない。お前が嘘をついていたとか、嫌なことから逃げるやつだったとか、関係ないんだよ。俺が……俺がお前を、す、好きになったのは、そういうことじゃなくて……もっと、単純で。俺は、ただ——」
自然とずれていた視線が、わたしに戻ってくる。
「——俺の隣で笑うお前を、もっと見ていたいと思った」
茹でダコのように赤く染まった顔でそんなことを言われ、つい真抜けな声を漏らした。
わたしは二、三度瞬きをして、じっと先輩を見つめる。すると、先輩は居心地が悪そうに身じろぎをして、視線を宙に彷徨わせながら、
「……お前は、そうじゃねぇのか? どうして、俺のことを……その、好き、になったんだよ」
そんなことを問われて、改めて考えてみる。
わたしはどうして、先輩のことを好きになったんだろう。
「最初は、なにか、同類を見つけたような親近感を感じていました」
集団から弾かれる側の人間はだいたい決まっている。初めて部室に入ったときには、この人も一人なんだろうなと勝手な推測をしていた。
「でも、違いました。一人でしたけど、先輩とわたしは一人と一人でしかない……二人にはなれない。だから、葉山先輩に突撃したりしたんですけど、モノレールの中で気づいたんです……同じじゃなくても、いいんだって」
同じじゃなくてもいい。同じ人間なんていない。わたしたちは学校や社会という括りの中で生きていて、一見みんな同じように見えるけど、それぞれがそれぞれのコミュニティを持っていて、考え方も全然違っていて、だから、人を羨んだり、妬んだり、マイナスな感情を相手にぶつけてしまうことも多い。
でも、本当はそれだけじゃないんだ。いじめとかばっかりを問題に掲げては学校教育を叩く人がいるけど、恋愛だって本質的にはなにも変わらなくて。
誰かが好きって気持ちは、誰かを羨んだりすることとほとんど同じで。
「違うから、好きになれたんです……。先輩はわたしとは違う。わたしにない魅力がある。わたししか見れない顔がある。他の男子は、わたしじゃなくても同じ顔をしますけど、でも、仕方なさそうに笑って、無愛想な優しさを向けてくれるのは……先輩だけで、だからわたしは、先輩のことが好き、なんです」
そうなんだ。わたしはわたしだけが見れる先輩の顔を見ていたくて、ずっと隣にいたくて。その気持ちだけは、先輩と一緒で。
「……なら、俺とお前は同じだろ。俺もお前も、お互いの欠点を知っても、それを重要視していない。それは、欠点を欠点としていないからだ。足りていない部分さえ、好きだと、そう感じるからだ」
一歩、先輩はわたしへと足を踏み出す。その手には、いつのまにかわたしが昨日渡したものと同じ袋があって。そこでようやく、腕に明るい茶色のブレスレットが着けられていることに気づいた。
「昨日の、お返しだ。来年も、再来年も、これから、ずっと……お前にクリスマスプレゼントを渡したい。お前から、もらいたい。受け取って……くれるか?」
わたしは答える前に自然とその袋を受け取っていて、
「開けても、いいですか……?」
頷きを見て、袋の中に入っていた小さな化粧箱を取り出した。その中には、わたしが見ていたピアスが丁寧に収められている。
「……見てて、くれたんですね」
「目が離せないだけだ……それで」
「もっと、ちゃんと聴きたいです。わがまま、ですかね」
緩む頬をどうにもできないまま頼むと、先輩はわたしの好きな笑顔で、わたしの好きな口調で、わたしのことが好きだと、
「……一色、お前のことが好きだ。付き合ってほしい」
わたしと付き合いたいと、そう言ってくれる。
それがなによりも嬉しくて、幸せで。わたしは泣きそうになりながら、お返事を。
「はいっ。わたしも、大好きです、せんぱいっ……」
クリスマス。街がイルミネーションに彩られ、沢山のカップルが溢れる日。
こうして先輩と結ばれることになるなんて一年前のわたしには想像もできなくて、ううん、昨日でさえそんなこと考えてなくて、今もまだ実感がわかないくらい。
不器用な先輩とわたしのことだから、これからもすれ違ったりすることがあるのかもしれない。その度に小町ちゃんに迷惑をかけちゃうんだろうと思うと本当に申し訳ないんだけど、でもなるべく二人で解決できるように頑張るから見捨てずに応援してほしいというのが、いまだに弱いわたしの情けない気持ちだ。
『自信を持って行ってきてください……不安に思うことなんて、もうなにもないんですから』
「……ごめんね」
『っ……だから』
「あと、ありがとう。……今度、もう一回言うから」
『はいっ……待ってますよ。行ってらっしゃい』
——ありがとう。
口の中でつぶやいた。
当たり前だ。
「ごめんね、小町ちゃんのために頑張ったけどだめだった」なんて言葉、言われたくないに決まってる。
「小町ちゃんのおかげでうまくいったよ、ありがとう」って、そういう報告をしなきゃいけなかったんだ。どういたしましてって、笑って言ってもらうべきだったんだ。
「……なににやにやしてんだ?」
声のほうに顔を向けると、不思議そうにわたしを見る先輩がいた。……先輩だってにやにやしてるくせに。
「なんでもないでーす。あっ」
とんっと地面を蹴って、先輩の前に飛び出した。わたしは笑顔を向けて——なんて、意識するまでもなく満面の笑みを浮かべながら、
「わたし、手が冷たいです」
右手を差し出すと、先輩は面食らったようにわたしの手を凝視して、それからそっと手を重ねてくれる。
「……ふふっ、幸せですね」
「……お前、そういうのは卑怯だろ」
聞こえないふりをして歩き出した。手袋の上からなのに、右手どころか身体ごとぽかぽかとしてくる。
奇跡のホワイトクリスマスなんて言うけど、好きな人が自分のことを好きだってことがもう特別なんだから、そんな二人組が街に溢れるこの日は、雪なんて降らなくても奇跡の日だと思う。
そんな奇跡の日々を、わたしは先輩と手を繋いで歩いていきたい。
了