道化は動けないでいた。自身の目の前に立つ少女に気後れしたわけでは決してない。ただ道化はなぜこの少女が自身の目の前で立っているのかがわからなかった。
赤い雫を滴らせた黒色のマントが酷く重く感じた。
1
「答えなさい道化。それともわたしには教えられないことなのかしら?」
リリは言う。目の前の道化に向けて。真っ赤な血を滴らせる道化に気後れすることなくリリは言った。怖くはなかった。すでに
心優しい少女だと思った。それは間違いではなかった。彼女はただ一人閉じ込められた部屋で傷だらけになってまで、力を示すことで自分たちに恐れられることを承知でそれを成し遂げた。自分を試みずにやりとげた少女がなぜ優しくないと言える。自分を傷つけてまで他人を助ける少女がなぜ優しくないと言える。
彼女は筋金入りのお人好しだ。
「なにか喋りなさいよ!」
「……わたしの正体を知ってどうするのというのですか?」
恐る恐るといった感じだろうか、道化はリリにそう聞いた。
「そう聞くってことはどうにかしてほしいのかしら?」
「そういうわけではありませんが……」
「だったら言いなさい。大丈夫、わたしはあなたの味方とは言わないけどあなたの敵ではないわ」
大事なのは道化に正体を明かさせることであった。家族の一員である彼女に味方や敵などの言葉など関係ない。道化が大事な人であることにリリにとっては変わりないのだから。どう思われても構わない。そんな思いでリリはここにやって来たのだから。
「わたしは……」
「早く言いなさい」
「わたしは……!」
「早くっ!」
道化の語尾が強くなった。同時にリリは怒鳴り上げた。それでも道化は続けようとしない。次の言葉を続けない。
「一言。一言わたしから言わせてもらうわ……。このまま黙ってるならわたしはあんたを一生許さない……!一生よっ!」
ぐっと掌に力が入ったせいか少し語尾に力が籠ってしまった。ぎゅっと握ったリリの掌は開けてみれば血こそ出てないが、力の入れすぎで白く染まっている。
「さああんたは誰なのっ?!いつまでそんなふざけた仮面で己を隠すの!」
沈黙する道化。だが道化は静かに自身の仮面へ向けて手を伸ばした。仮面を掴んだ真っ赤に薄汚れた小さな手は仮面を外そうとゆっくり、ゆっくりと仮面を掴んだまま下がっていく。
「リリ!」
だがその全貌を明かす前にスラムの街中に一つの声が上がった。
「なにしてんだお前っ!あぶねえだろうが下がってろ!?」
短刀とも見れる小ぶりのナイフをその手に少年が一人。リリと道化の目の前で息を切らしながら道化に向けてナイフを構えたラーグがそこには立っていた。
「ラーグ!?」
それはリリも思わぬことだったのだろう。道化を待ち伏せするために夜遅く施設を出たが、誰もが寝静まったと勘違いして出てきたのがリリのミスだった。こんな夜遅くに外へ出る必要など本来このスラムに置いてありえることではない。それが暴力団などであればまだわかるがリリはその人ではない。
ならば心配してラーグがリリを追い懸けてこないわけではないのだから。普段よく喧嘩する二人だがけして仲が悪いわけではなく、むしろ仲がいいほうだ。
「こんな真夜中に外に出たと思ったらなにしてやがんだリリ!こんな物騒なやつに武器の一つも持たずに死にてぇのかお前はぁ!?」
既に正体が割れていると言っていいがそれははリリだけの話である。ラーグはなにも知らない。目の前にいる者が誰なのかまったくもって知りもしない。例えそれがラーグ自身がよく知る人物だったとしても月明かりしかないこの夜のスラムの中、真っ赤な返り血を浴びたふざけた道化の仮面を付けた人間など誰も知人だと思いもしないのだろう。
思うは精神異常者、殺人鬼といった物騒なことだけ。知っていたとしても誰も信じたくない。ましてやラーグは真実を受け止められるほどに強くはなかった。
「待ってラーグ……」
「ああ?なんだよリリ」
ナイフを構えたラーグの後ろでリリは制止をかける。道化は依然動かずに仮面を掴んだ手も半ば止まり、顔の全容は見とれない。
「わたしは納得がいかない……。あんたはそれでいいのかも知れない。でもあたしはそうじゃないの。わかってよ、わたしじゃ力不足?それともあんたにとってわたしはその程度の存在?」
「あ?誰に--」
しかしラーグの声は遮られた。
「そうじゃない。そうじゃ……ないよ……リリ」
それは二人がよく知る声だった。さっきまでは仮面に遮られ、特定の付けにくい声だったのだが、今回のそれは違った。二人ともよく知っている声だ。ここ数日共に過ごした既に家族といって間違いない人物の声。
いつもなら綺麗な蒼い髪が、今は血に染まってどす黒い赤が交じる。いつもなら優しい眼差しを持って家族を見つめている顔が痛みに耐えるように苦痛に染まってる。
「わたしにとってリリもラーグも、今はここにいない皆も家族みたいな特別な存在だよ……」
「だったらっ!……なんであんたはそんな恰好をしてるの……?」
素顔を見せた道化は泣いていた。瞳に涙を浮かべていたわけではないが泣いているように見えた。リリにはそう見えたのだ。
きっとなにか理由(わけ)があったのだろう。リリが知らない、ラーグが知る由もない。誰も知らない理由(わけ)が。
「言えない……」
「なんでよフェル!」
「言えるわけがないっ!!」
それは誰にも知られてはいけない、フェルだけの秘密。誰も知らないフェルだけの理由(わけ)。知られてはいけない、知ってもらいたくない。
「わたしはっ…!わたしはっ!」
それは悲痛な叫び。知ってほしくなかったフェルのこの姿。リリやラーグといった家族には知ってほしくはなかったこの姿。見られたならもうお終いだ。
「--っ、
轟と風が吹き荒れた。近くにいたラーグは余りにもの風の力強さに吹き飛ばされそうになるが風に身体が押されるだけに終わる。
「フェル……」
リリとラーグ、二人の目の前に自身の髪と同じ綺麗な蒼色の魔力を身に纏うフェル。ゆらゆらと陽炎のようにフェルの蒼色の魔力。今だ泣いた表情の少女はだが、しかと決意を秘めた瞳で二人を見据えている。
「逃げるの?あんたはそれでいいとしてわたしが納得するとでも思ってるの?」
「思わないよ。でも……知られるよりずっといい。知ってた?わたしは」
言葉は続かない。それがフェルが一呼吸をおいたこともあるがただそれ以上に。
「フェエルゥウウっっ!!」
突き立てるように構えられたナイフ。傷をつけても構わない。止められるのならそれもいいのだろうと思ったからこそラーグは走った。
「臆病者なんだよ……」
ナイフは届かなかった。向けられた切っ先は掠めることもなく、虚しく空を突く。ほぼ一方的な蹂躙をしてきたといって違いないフェルだが、それでもこの数日間で殺してきた相手にナイフや剣といった刃物を持った相手は少なくはなかった。
それに相手してきたのは大の大人といった者ばかり。背丈も、速さも、力もラーグのそれ以上といった者ばかり相手してきたフェルにとってラーグの決死の突きなど避けるに造作もない。
「ごめんねラーグ」
わざわざ近付いて来てくれたラーグの懐へ一歩。ナイフの切っ先より身体を屈めながら踏み入る。屈むことでラーグの視界からはフェルは急に消えたように見えたに違いない。驚くように硬直したラーグの身体に打撃を与えることなど普通に殴るかよりは楽だろう。
「でもわたしはもう帰れないんだ……」
「がぁあっ!??」
踏み込んだ勢いを乗せた肘の一撃は異常なフェルの怪力と合わさってさらに鋭く、そして重い一撃となったのだろう。本気で殴れば子供であるラーグの身体などきっと真っ二つに裂けたかもしれないがそこはいろいろとやりすぎたフェルは力加減を心得ている。だがそれでもその一撃はラーグを横倒せるに充分。
くの字に曲がったラーグの身体は宙に投げ出されて真夜中の冷たい地面へと打ちつけられた。
「フェルっ!あんた……!」
今にも殴り掛ってきそうなリリ。その鬼のような形相にフェルはリリの琴線に触れてしまったことを知るが、それでもフェルは捕まる気などなかった。例え姉のような存在のリリを怒らせてしまってもそれは変わらない。
「あんたはっ、今自分がなにをしたのかわかってやったの!?」
「邪魔をしたから払いのけた……。ただ、それだけ」
それが、その言葉がさらにリリを激昂させる。
「あんたはっ-っ!?」
「げほっ、げほっ……!」
せき込むラーグの言葉にリリは押し黙り、倒れたラーグの下へと走る。フェルはただそれを見ているだけ。倒れたラーグを抱きよせながらリリはただそこに立つだけのフェルを睨む。それは憎悪の眼差し。怒りに染まったその瞳にフェルはただ悟った。
(ああ、これで……)
「嫌いになった?」
「ええ……、そうね。あんたがこんな奴だったなんて思いもしなかったわ」
「そう」
(そう。これで、これで……よかったんだ)
睨むリリを背後(バック)にフェルは去る。ゆらゆらと揺れ動く蒼の魔力は月明かり以上に辺りを照らして、真夜中の夜のスラムにフェル一人だけが歩いてるように見えた。
「わたしは許さない…。フェル……」
リリの独白に答える者はいない。そこにもう少女はいないのだから。倒れた少年は眠っているのだから。
この日以降フェル・アフシルがこの世界に姿を現すことはなくなった。
◇
「これでよかったのかな……」
『後悔するかい?でも選んだのは君だ。望んだのも君だ。正しい答えなど求めてはいけない。なにが正しいかなんて一生考えたって得られるものなんてない。それこそ人が生きていられる時間なんかでは到底無理だね』
「そうかもしれない、でもわたしは考えてしまうよ……。もっといい方法があったんじゃないかって」
『それもそうだ。人間とは後悔する生き物だよ。考える力が備わってるからこそに、あれやこれなど方法を模索する。……考えたって答えが出ないのにね』
「ずいぶんらしいことを言うね。まるで……」
『人間であったみたいだろ?』
「あなたも人であったの?」
『そうだね……。何百、いや数千年かな。それぐらい前は僕も人だった。神とて最初から神だったわけじゃないんだよ』
「そう……」
『昔は僕もいろいろ後悔したものだ。それこそ神になったころなんかでは特に考えてばかりだった。……話は終わりだよ。約束どうり君には働いてもらうからね、それこそ僕の手足のように』
1
なにもない世界。空白の世界。いくら見渡しても世界を塗りつぶす白い以外存在しない世界。道化はそこにいた。ここならば誰も追っては来れない。それこそ道化に魔力を埋め込んだ科学者ですらそれはかなわない。
ここは存在していない世界。存在していない者を見つけることなどあり得ることではない。でも道化はそこにいる。矛盾している。でもそれでいい。
「手足、ね。構わないけどわたしにできる範囲でお願いするよ」
『それは約束できないかもしれないな。僕は神だ、神が頼むこととはそれこそ人間でできる範疇を超える』
「うわ~。無茶ぶりだねー……」
できるなら遠慮したいところだと道化は言いたいがそれは無理だという話だろう。これは契約なのだから。道化が持ちだした話なれど、それに答えてくれた神である彼に応えないわけにはいかない。
「まあできるだけのことはやるよ」
道化は歩く。なにもない世界を。矛盾した存在は言う。
「わたしはわたしの家族が無事であればそれでいい」
道化は行く。優しき少女は決意したのだから。もう戻れない、戻ることはない。あの優しい暖かな場所を夢見て道化は前に進む。そこに破滅が待っていても。
2
スラムの街はいつもと同じように平常運転していた。捨てられた少年が盗みを働き、ゴミだめの中に少しでも食糧がないかとあさる子供。縄張りを意識して争う大人たち。
変わらない。変わらない毎日。一人の少女が消えても変わることのない
「わたしは魔法を覚える。そしてあの子を探し出すわ。そして謝らせる」
リリはフェルが消えた昨夜にラーグにそう言った。ゴミだめの街と言われるこの世界。だがそれでも管理世界であることに変わりはない。この世界から出る方法はあるのだ。
「魔法か……」
魔法。それは生まれて持った才能に左右されてしまう。まずにリンカーコアという魔力生成機関がなければ話にならないからだ。魔法が普及する管理世界でもそれがないものは少なくはない。あったとしてもごく小さいものもいる。
「くそったれが……」
握った拳を壁に向けて振るう。それはドンという音ともにラーグに痛みを感じさせた。
「あいつは俺たちを裏切ったんだよな……。なんでだよ。意味分かんねぇよっ!」
信じていた。このままずっと大人になるまで、いや大人にってもずっと傍にいるのだと思っていた。裏切られた。家族だと言っていたのに、あっさりと切り捨てていった少女に裏切られた。
「んでリリも連れていくっていうのかよてめぇわよぉ……」
フェルを追うと言うのならばリリもいづれ行ってしまうのだろう。フェルはこの世界にはもういないのだから。あの日、あの夜にフェルは目の前で魔法を使って世界を渡ったのだから。
許せることではない。信頼を裏切ってなお、まだ家族をバラバラにさせることなど許せることではなかった。特にラーグにとっては。リリはまだフェルのことを家族だと思ってるのだろう。だがラーグはもう違った。
「……殺す。あいつは殺す。裏切ったあいつは許せない。家族をバラバラにするあいつは許せない。リリを悲しませたあいつを許すわけににはいかないっ!」
憧れていた。最初に助けてくれてあの少女はまるで自分から見れば、まだ両親がいるころに見た物語の
「だったら僕と来るかい?」
「てめぇは……」
声とともに顔を向ければそこには白衣を着た青年がいた。なにが面白いのか妙な笑顔を浮かべた青年はまるで手招きをするようにラーグを誘う。
「いやー、いいものを見つけたね。探し物は見つからなかったけど成果はあるもんだね」
「なに言ってんだてめぇ……」
青年は怪しかった。それこそここは元研究施設とラーグは聞かされている。白衣という医者か科学者を連想させるものを身につけた青年は探し物に来たとまで言ったのだ。
「なに、見つからないものに今は興味ないよ。それより僕は今は君が欲しいね」
青年は言う。青年の魔の手はもうラーグを絡め取っていることに気付かせず、ラーグは気付かないままただ青年を警戒する。
「力も手に入る。君が殺したいであろうその人間も殺せる。どうだい?充分すぎると僕は思うのだけど」
「…力、か」
伸ばされた手を掴まない道理などラーグにはなかった。だがただ一言。
「……ごめんな」
小さく呟かれたその言葉。近くにいあ青年すら聞き足れなかったその言葉はいったい誰に向けた言葉なのかはラーグ以外誰にもわからないだろう。
3
その日、世界の歯車は回ることになる。道を外れた三人はそれに気付くことなくお互いの道を歩む。終着点が世界を破滅に向かわせることに気付かずに三人は歩む。
望む答えを求めて。
そして八年の時が過ぎた。
夕焼けの空の中で蒼色の輝きが空の一点を覆う。だが空の下で歩く人々がそれに気付くことはない。
幾多の高層ビルが並ぶ街並みの上、真黒なマントと|道化の仮面のそれを付けた少女は空に浮かぶ。
「第97管理外世界地球、ね。ここは昔のわたしがいた地球とはまた違ったとこなんだよね?」
『そうだね。並行世界といえばわかりやすいかもね』
「少しは休みたいところだけどどうせそんな暇もないのでしょう?」
『当たり。君の都合を考える僕じゃないからね。まあ頑張ってよ』
その言葉に道化は呆れを隠せないが、ここ八年。ほとんど変わりばえのない対応にも慣れた道化にはただただ応(りょうかい)と答えるのみ。
『頑張ってね。今回は失敗はできないのだから……』
そんな小さな声に道化は気付くこともなく、道化は夕焼けの空を飛んだ。終着点が近付いてることにも気付かずに。