「走れ!!」
兄の言葉に従い、彼は必死に足を動かした。ちらりと後方を見やれば、空母に似た、しかし距離感が狂いそうな程に巨大な艦船――学園艦がそびえている。先程までいたそこから、今は全速力で逃げていた。そしてそれは、周囲の人間も同じ。学園艦から半径二十キロに亘り避難命令が出ていた。
最小クラスでもキロメートル単位の全長を持つ学園艦の動力、甲板都市上の電力を賄うには、大規模な原子炉の搭載は必須であった。幸い海水を濾過すれば冷却水には事欠かず、それを冷却するのも周りの海水を使えばいい。だが当然ながら、海上で原子力事故が起これば甲板都市の住民は逃げ場のないままそれに巻き込まれる可能性があり、また寄港した港でそれが起ころうものなら周辺地域にも被害が及ぶ。
近年叫ばれる学園艦の統廃合は、維持費等の予算の都合ばかりでなく、このリスクを管理する為というのも大きな要因の一つであり――
「あ…っ!」
「! 大丈夫か!?」
思考を巡らせながら走っていた彼は、アスファルトの僅かな出っ張りに足を引っ掛けて転んでしまう。すぐさま気付いた兄が駆け寄り、彼を助け起こそうとしたその時、
「――ッ?!」
「ぐっ…?!」
猛烈な爆風と閃光が、二人を背後から襲った。
やがて風が止み、ゆっくりと光の方へと振り返れば、
「…賢人学園が…」
「……!!」
神秘的な悪夢の如く、黒から白へと変色するキノコ雲が、天を貫いていた。
「にーたん、おきて」
二歳になったばかりの甥の声で、彼は目覚めた。
「…
「かーたんごはんつくった」
彼に晶と呼ばれた子供は、彼の覚醒を確認するや、用を告げてさっさと部屋から出て行ってしまった。閉め忘れた部屋のドアの向こうから、手すりに掴まってゆっくりと階段を下りていく足音が聞こえてくる。
「……」
夢――実際にあった悲劇のプレイバックを見ていたようだ。
「…まあいい」
やおら起き上がった彼は、ほぼ正方形をした自分の部屋を視線でぐるりと見渡す。自分の寝ていたベッドの、丁度足を向けている方角に勉強机、その背後にノートパソコンが載った小さな机。部屋の角に位置するドアを挟んで反対には、ずらりと本が並んだ背の高い棚が配置され、その隣に大きめのクローゼットがある。目的のものは、ベッドの脇に敷かれたマットの上にあった。
ベッドから降り、目的のもの――黒いジャージを手に取る。同居している義姉から、「シャツとパンツだけで降りて来るな」と厳命されていた彼は、普段の寝姿からそれに着替えるのが、朝起きて一番にすることであった。
一階に下りる前に、部屋を出た彼は廊下の突き当たりにある洗面台に足を向けた。蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。下部の引き出しの取っ手に掛けていたタオルで水気を取ると、彼は両手をシンクの縁に置いて身体を支え、じっと鏡を見つめた。
「……」
モンゴロイドにしては高めでスッと通った鼻梁、彫りの深い顔立ち。普段表情筋をあまり動かさないせいで口角は下がり気味で、目も細く、既に意識もはっきりとしているのにどこか眠たげな雰囲気を漂わせている。そして喉の付け根に水平に走る傷跡が、彼に近寄り難い‘神秘性’を纏わせていた。
「…!」
ふと彼は、鏡に映る自身の背後に、自分よりも僅かに背の高い、自分によく似た、しかし自分よりもほうれい線が目立つ老け顔の、眼鏡を掛けた男の姿が映り込んだ気がした。
「…まだ、待っている訳だな」
彼が目を閉じて呟き、再び目を開いた時には、男の姿は消えていた。
一階に下り、すぐ左手のドアを開ければ、そこがキッチンとダイニングだ。ダイニングテーブルに置かれたパンケーキの甘い匂いが、入ってきたばかりの彼の元まで漂ってくる。晶は一足先に席に付き、小さな手で器用にメープルシロップの瓶を持ち、黄金色の液体を全員分のパンケーキに躍らせている。一皿にパンケーキが二枚、皿は三枚。若干小さな皿に載った晶のパンケーキは、少々シロップをかけ過ぎているらしい。
「ジャージ姿も板についてきたようね」
キッチンの角にある冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した金髪の女性が、立ったままテーブルを眺めていた彼に声をかけた。ウェーブしたセミロングの髪は後頭部で一本に纏められ、シンプルな白いブラウスと黒い長ズボンの下に鍛えられた筋肉を隠している。
「…おはよう、ボス」
「おはよう。何度も言うけれど、私はもうボスではないわよ、
「…おはよう、
「それでいい」
挨拶の後の呼び名を彼――残月に訂正させた女性、義姉の喜理恵は満足げな微笑を浮かべ、対して残月は眉一つ動かさず、二人はそれぞれの席に付く。晶の左隣に残月、向かいに喜理恵という具合だ。
「「「いただきます」」」
声を揃えて手を合わせ、朝食が始まる。残月はナイフとフォークで二枚のパンケーキを同時に四等分し、口に運ぶ。一口分が多い上咀嚼が細かく、一口分が喉の奥に消える前に次の一口を突っ込むように食べている為、隣と斜向かいの二人より明らかにペースが速い。四分の三を腹の中に収めてから、オレンジジュースの紙パックから自分のコップになみなみとジュースを注ぎ入れ、残月は喜理恵に問うた。
「随分早いじゃないか」
残月がジュースを少し口に含むと、喜理恵は問い返した。
「何が?」
「晶がさ。どういう風の吹き回しだ? いつもなら早くても八時位だろう」
現在時刻は七時六分。残月の言う通り、まだ二歳の晶が起床するには早い時間帯だ。この三十分後には残月は制服に着替え、八時になる前には高校に行ってしまう。故に本来、朝食の場で晶と鉢合わせることはおろか、先のように晶が自分を起こしにくることすらない筈なのだ。起きている彼と会うのは夕方以降になる。
「晶」
喜理恵は晶に呼びかける。大口を開けてパンケーキを頬張らんとしていた彼は、口に入る前にフォークを皿に置いた。
「どうして早く起きたのか、兄さんに教えてあげなさい」
「うん!」
晶は素直に頷き、残月に向き直った。
「にーたん、『
「!」
戦車道。戦車を用いた武道の一種だ。その名に反して実態は“対戦車道”とでもいうべきもので、戦車を駆る戦車兵と随伴歩兵との連携が鍵となる。
戦車の運用にはその実戦利用初期から随伴歩兵の存在が必要不可欠であった。強力な火砲と強靭な装甲、無限軌道による地形走破能力を以ってしても、最も基本的な兵種である歩兵を完全に圧倒することは叶わなかったのだ。ペリスコープがあるとはいえその視界は劣悪極まり、閉所での機動力は歩兵に遥かに劣る上、車載機銃の面制圧能力の限界から、ギリギリまで接近されれば最早手も足も出ない。総じて戦車は不意打ちに弱いのである。
戦車道が武道として定着した黎明期に於いては、戦車道は‘乙女の嗜み’とされ、その領域に男の踏み入る余地はなく、また歩兵のほの字もなかったが、より実戦に近い形式を求めた結果、随伴歩兵の制度が導入され、男女の境界線は――男が歩兵、女が戦車兵というのが未だ主流だとはいえ――存在しなくなった。
「どういうことだ?」
「かーたんいってた。にーたんせんしゃどーやるって!」
「話を聞きたいそうよ、残月」
「…どうして、俺がまた戦車道を始めると思った?」
表情には殆ど表れていないが、残月は驚愕し、そして困惑していた。自分が小学五年生から中学二年生までを歩兵として費やし、二年前に引退した戦車道。確かにそれを再開しようとはしていたが、その思いを誰かに話した覚えはない。そもそも今彼が通っている高校は、戦車道が二十年前に廃止されていた。
「貴方が転校せずにここに残るって聞いた時から、薄々勘付いてはいたのよ。転校しないことよりも、その時の言い方で」
「……」
晶を産んだばかりの喜理恵と同居し始めたのは引退とほぼ同時期だったが、付き合い自体は長かった。そこからくる経験が、自分の感情の僅かな機微を感じ取ったのだろうと、残月は悟った。その感情は、願ってもない幸運への歓喜と一抹の不安、そして後ろ暗い期待。
観念した。残ったパンケーキを口に押し込み、肯定する。
「…その通りだ」
「私からも聞くわ。
「……」
「貴方がここにいる理由はもうない筈よ。転校して、別の学校で再開したのでもよかったのではないの?」
続けて問われたことを話してもいいものか、残月は逡巡した。この情報を知り得ているのは、情報元以外では自分しかいない。友人を作るだけの時間を昨年度は過ごしてこなかった彼に、信頼できる同級生はいなかった。
…だが或いは、喜理恵なら。
「――ここだけの話だが」
「ええ?」
「…この学園艦――県立大洗学園は、今年度を最後に廃校になるらしい」
「…統廃合計画ね」
「大洗の生徒会は、戦車道全国大会で大洗が優勝すれば、廃校を取り止める約束を役人に取り付けた。二十年ぶりに大洗に戦車道が復活し――負ければ、これが正真正銘最後の年になる」
残月はコップを呷り、ジュースの五分の四を飲み干した。やや乱暴にコップが置かれ、残ったジュースの水面が揺れる。胸中を悟られまいと目を逸らしていたが、そこに反射した喜理恵の目に射竦められた思いがして、残月はコップを少し左にずらした。
「…ミラー教官の言葉、覚えてる?」
残月を見据えていた喜理恵は、諭すような調子で口を開いた。彼女の口から出たのは、残月の中学校時代、戦車道の特別講師として招かれていた恩師の名である。つられて残月は、最も印象に残っていた教訓を口にする。
「“死を懇願した時、勝負は決まる”…?」
「そう。戦いの目的を自らの死の中に見出してしまった者は、決して勝利することはない。残月、今の貴方のようにね」
「!!」
――やはり、見抜かれるか…
自分でも、これが自虐的で卑怯な賭けだとは自覚していた。勝てば残りの高校生活も戦車道ができる。負ければ自然消滅するように戦車道から手を引ける。どちらに転んでも、自分は一人勝ち。それは己の内に、戦車道を続けたい気持ちと辞めたい気持ち――相反し矛盾する二つの感情が同時にあるからだ。
喜理恵は小さく息を吐いてからそっと目を閉じ、数瞬の後、カッと開いた。
「
その瞬間、残月は彼女を‘喜理恵’ではなく‘ボス’と認識していた。
「っ!」
「お前は我が戦友『
ここで初めて、残月は表情らしい表情を見せていた――瞠目である。
自分が戦車道から退いたきっかけは、唯一人の肉親隆信の死であった。自分と同じカルマを背負った彼の病死は、荒涼とした失意と悲嘆、そしていつ己が身の内に潜む死神の鎌に刈られるのかという恐怖をもたらした。兄と同じく歩兵でいれば、自分が兄の二の舞になるやもしれぬ、そんな迷妄に駆られて逃げ出したのが事実だ。
だが、逃げていては、逃げてばかりでは勝てるものも勝てない。「死は敗北ではない」とある作家は遺したが、不名誉な敗北は死にも等しいのだ。そう、今の自分のように、自分が作った‘逃げ場’で自他の尊厳を傷付けて尻に挟むような輩は――
「…すまない、ボス。俺はどうかしていたらしい」
「ようやく気付いたか」
「誓おう。俺は勝つ。逃げずに、戦って、
「…それでいい」
喜理恵の視線が穏やかになったことを確認した残月は、コップを空にしてから自室へと戻った。
ジャージを脱ぎ捨て、クローゼットから制服を取り出す。ハンガーに掛かっていたのは、袖の縁が明るい緑色をした黒い学生服。素早く着替えた残月は、今度は上着の裏ポケットから、錠剤の入った瓶を引っ張り出した。蓋を開け、三つ振り出して口に含み、そのまま洗面台で水を掬って喉の奥へと流し込んだ。
鞄を持って一階に下りると、キッチンとは逆の右手に向かう。玄関脇にある和室は、その奥に仏壇を備え、そこには残月を老け顔にして眼鏡を掛けたような男――隆信の写真が飾られていた。
「……」
残月は鞄を置いて仏壇の前に座り、瞑目して手を合わせた。
目蓋の裏で、残月は自分のすぐ左手を通り過ぎる隆信の姿を幻視した。
次いで、自分の肩に手を置き顔を覗き込んでくる隆信の気配を感じた。
「…待っているところ悪いがな、兄さん」
残月は目を開き、仏壇の兄の写真と視線を合わせた。
「俺はそちらに行くつもりは毛頭ない。どうせ、まだいるんだろう? なら、
仏壇に小さく頭を下げた時、写真に写る隆信の柔らかな笑みが深まったのを、残月は確かに見た。
「いってくる」
玄関から残月が出て行くのをドアの開閉音で察知した時、喜理恵は空になった自分の皿を持って椅子から立ち上がっていた。
「かーたん、ざそろーってなに?」
「…私の夫で、貴方のお父さんよ」
ガルパンに興味を持ち、プロットだけで終わらせるはずが筆が乗ってしまい、半日足らずで書き上げてしまいました。
勘のいい方はわかるかもしれませんが、喜理恵はザ・ボス、隆信はザ・ソローをモデルにしました。今後もこういう人達がでてきます。まんまミラー教官って名前出てるし。
ただタグにもあるように『メタルギア』は出しません。