火星まであと約一週間というところまでロニーたちは帰ってきたのだが、ロニーが出した提案に対するルーデンドルフからの返答は一向に来る気配がない。しびれを切らしたロニーは、ルーデンドルフに督促の通信を送った。
「まだ、決心がつかないのですか」
ロニーは静かな声で詰め寄った。ルーデンドルフは、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべていた。
「そうは言っても、相手はかつての仲間だったのだ。簡単に割り切れるものではない」
「それでは、連邦軍の介入を受け、共和国の存在自体が危うくなってもいいとおっしゃるのか」
「連邦軍が介入してくるとは限らん」
「介入の発表があってからでは遅いのです」
仮面の士官は、手厳しく老将軍を断じた。
「本艦は、まもなく火星圏に到着します。これ以上、座して待つことはできません。以降、本艦は独自の行動を執らせて頂きます」
「それは困る。貴官の持つ戦力は極めて重要だ」
「衛星軌道上からの援護射撃に本艦が加わったところで、どれほどの効果があるとお思いか」
すでに総艦艇一千隻に上る第七艦隊の大部分が、火星の衛星軌道上に展開している。そこに戦艦が一隻加わったところで意味がないのは明らかだ。ごく当たり前のことを指摘されたので、さすがのルーデンドルフも真っ向から否定することができなかった。
「ウラノス=シティへの直接攻撃には、反対が根強いのだ。ウラノスには企業の火星本社が集中しており、人口も多い。宇宙ステーション“クロノス”とつなぐ軌道エレベータなどの重要な施設も数多くある。それらが灰燼に帰してしまったら、経済的損失が計り知れない」
低い声でこう唸るルーデンドルフの話を聞いてロニーは、ルーデンドルフの煮え切らない態度の理由を悟った。他の顧問官たちに反対されているから許可できないなんて、プライドが邪魔して言えなかったのだろう。だが、もっと早く言って欲しかった。時間があれば、もっと有効な方法を採ることができたのに。悔しがっても、時間は戻ってこない。
「それでしたら、ウラノスを可能な限り無傷で落としてみせますので、ウラノス攻略の指揮権を与えて下さいませんか」
「そんなことが可能なのか?」
「二日後に作戦の概略を送ります。納得して頂けなければ諦めます」
「分かった。貴官からの計画書を待とう」
「はっ」
ロニーはルーデンドルフに敬礼した。
火星から木星までの長い航海の中、宇宙戦闘母艦“ヴィーザル”からは一人の脱落者も出なかった。それどころか、乗組員が一人増えている。そいつの名は、アロワ=シェロン。木星からの密航者である。“ヴィーザル”艦長のロニー=ファルコーネ大佐は、密航者を着の身着のままで宇宙空間に放り出すことも考えたが、そうすると100000000%確実に死んでしまう。それでは寝覚めが悪いので、やむを得ず独房に放り込むことにした。独房の放り込んだのはいいが、そいつは人の1.5倍は飯を食う。働きもしない人間にタダ飯食わせるのもシャクなので、独房に放り込んでから二週間後、監視付きで外に出してやることにした。
「やっと、俺の素晴らしさに気付いたのか。愚か者ども…グハッ」
言い終わる前に、監視役のジーナにアロワは腹を殴られた。
「そんなこと言うなら、もうしばらく独房に入っていてもらおうかしら」
「……飯炊き女のくせに生意気な」
秀麗な顔を苦痛で歪ませながらアロワはつぶやいた。幸いにもジーナには聞こえていなかったみたいで、当のジーナはアロワに目もくれず面前のロニーに問いかけた。
「大佐。こんなの、外に出しても大して役に立たないと思いますが、どうされるのですか?」
第三者がいる場合、ジーナはロニーのことを“大佐”と呼んで敬語を使う。ジーナに敬語を使われると何だか背中がこそばゆくなるロニーは、腕組みをして少し考え込んだ。
「……そうだなぁ。艦内全部のトイレでも掃除してもらおうか」
「と、トイレ掃除だと」
ズキズキ痛む腹をさすりながら、アロワはロニーを睨みつけた。だが、アロワの眼光は、ロニーの仮面を貫くことはできなかった。
「文句があるなら、今すぐ出て行ってくれて構わない。バーニアをプレゼントしてやるから、木星への宇宙遊泳の旅に出たらどうだ」
「また、それか。それしか言えないのか。程度の低い奴だ」
「そうか。よく分かった。ジーナ、ノーマルスーツとバーニアを持ってきてくれ」
「分かった分かった分かったぁぁぁ!!」
アロワは慌ててロニーの言葉をさえぎった。
「こうなったら、トイレ掃除検定百段の腕前を披露してやる。こんな幸運、またとないぞ。ありがたく思うのだな」
フハハハと不適に笑うアロワ。ロニーとジーナは、トイレ掃除に検定なんてあるのかとあきれてしまい、げんなりしてしまった。そして、ロニーとジーナは、更にげんなりしてしまった。それは、アロワのトイレ掃除が滅茶苦茶だったからだ。
長距離惑星間航行において、水は貴重な資源である。使用済みの水は全て完全ろ過をして再利用しているのだが、それでも蒸発したりして減少する。だから、飲料、調理、入浴以外での水の利用は、極力控えるようにする。掃除には極力水を使わないようにしているのだが、アロワのトイレ掃除は水を豪快に使うものだった。
「…あんた、トイレ掃除の仕方も知らないの」
水浸しのトイレを見て、ジーナは脱力してしまった。これだけの水があれば、大浴場利用の日を一日増やせただろうな思うと、怒りさえ湧いてくる。
「トイレ掃除に水はつきものだろう」
そっくり返って偉そうに講釈を垂れるアロワ。だめだこりゃ。頭を抱えてしまったジーナは、雑巾を探し出して黙々と水浸しのトイレを拭き、絞ってバケツに水を溜める。その様子をアロワは不思議そうに眺めた。
「そんなことしなくても、これだけ空気が乾燥していたら、すぐに乾くぞ」
「水は貴重品なの。乾燥しちゃうと水が減ってしまうでしょ」
「いらん労力を使う奴だな。水なんか蛇口ひねればいくらでも出てくるだろ」
「あ、ん、た、ね、ぇ……」
ジーナはつかつかとアロワに歩み寄ると、雑巾をアロワに突き出した。
「ぐだぐだ言っていないで、あんたも水を拭き取る」
「何で俺が?」
「あんたがやらかしたからでしょうが」
ジーナが拳を固めて殴る素振りをしたものだから、アロワは身を竦ませた。
「分かった分かった分かったぁぁぁ。やりますよ。やらせていただきますよ。まったく、何て凶暴な奴だ。まるで血に飢えたケモノだ」
「何か言った?」
「いーえ、何も」
しれっと答えると、アロワは水浸しのトイレ拭きを始めたのだった。