機動戦士ローガンダム   作:J・バウアー

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昇竜篇
地球連邦軍第三総軍第17方面軍第217師団司令部作戦参謀中佐


 火星地球化計画が発動して、およそ150年の年月が過ぎた。火星の重力を上げるため木星の核から重金属を抽出して火星の核へ注入、それと同時に太陽光集光ミラーの建設と、小規模な彗星を大量に火星にぶつけて水蒸気量を増やす業務に50年かけ、火星に初めての降雨が確認された。以後、40万平方キロメートル達する酸素発生システムを建設し、様々な植物を火星の陸地部分に栽培、海になる部分には様々な水棲動植物を放ち、地球に近い食物連鎖の確立が確認されるまでに、更に50年の年月を必要とした。そこから都市や農地の整備などが行われたが、これらは約5年で完了した。莫大な時間と費用を要した火星地球化計画は、何度も頓挫しかけた。表現できないほど巨額な経費が国家財政を圧迫し、全人類規模の財政破綻の一歩手前にまで追い込まれながら、政治的指導者及び官僚、財界が皆熱心であったこと、何度か現出した好景気により民衆の所得が増加して人口増と消費マインドが刺激されたことによって税収が増加したこともあって、寸前で財政破綻を回避することができたという幸運から、何とか完成にこぎつけることができたのである。

 この頃の火星の表面は、海と陸地に分かれており、陸地にはコケ類を中心に植物が群生していた。海の青と地面の赤、植物の緑、そして白い雲によって、火星を宇宙から見たら小さな地球に見える。だが、火星全体の大気組成はまだ地球と同一ではなく、特にオゾン層が貧弱であるため、人々はいくつかのシティに居住している。シティは、ドームの中に作られた閉鎖空間である。ドーム自体は、ミノフスキークラフトを利用した圧縮空気でできているため、外部との通り抜けは簡単なのだが、ドームの外側には紫外線などの有害な宇宙線が降り注いでいるため、宇宙服なしで長時間生存することはできない。そんなシティの一つに、ネメシス=シティと呼ばれる都市があった。ネメシス=シティは、人口30万程度の中規模な地方都市である。その中心部から約10キロメートル離れた場所に、小さな宇宙港がある。宇宙港とは言うものの、係留されているもののほとんどは、有翼の小型飛行機で、主に火星各地に点在するシティをつなぐ定期便として使われている。中には火星の重力圏を脱して、宇宙ステーション「クロノス」に行く便もある。月など地球圏へ行くには、「クロノス」で大規模な宇宙船に乗り換えるシステムになっている。それぞれのシティから直接地球圏へ行くのは、エネルギーコストの無駄である。という認識から、こういうシステムが採用されたのである。ちなみに、地球やスペースコロニー、月との貿易は、軌道エレベータを利用して行われる。軌道エレベータは、火星総督府のあるウラノス=シティにあり、一言で言えば地上と宇宙空間をつなぐ巨大なパイプである。そのパイプの中にエレベータが設置されており、エレベータの延べ床面積は1平方キロにも達する。宇宙空間側の終点に設置されているのが、宇宙ステーションの「クロノス」である。

 そのネメシス宇宙港にたたずむ、一人の青年がいた。適度に伸びた直毛の黒髪、鋭いながらも柔らかさが秘められた茶色がかった黒い瞳、張りのあるきめ細かい肌をもつその青年の名は、タカハシ=トオルといった。年齢は28歳。年齢より若く見える容貌と、飾らないラフな服装から、傍から見れば留年した大学生に見える。そのトオルは、宇宙港から力強く飛立つ飛行機を見るのが好きだった。飛立つ飛行機が向かう宇宙には、無限の広がりがあり、その向かう先に思いを馳せると、まるで自分が旅行者になって冒険をしているような錯覚を覚える。人類は木星にまで生存圏を広げているが、その先については開発が進んでいない。土星の衛星タイタンには、巨大なメタンの海が広がっているようだが、その表面は一体どうなっているのだろうか。海王星の青色を直に目にしたら、どれだけ鮮やかに感じるのだろうか。逆に、故郷の地球や、短い間だったが居を構えていたサイド3の3バンチコロニーは、今どのようになっているだろうか。夢と郷愁にひたって、暫くの間、現実逃避を味わえる場所が、この宇宙港だった。

 宇宙港は、その規模に見合った人の行き交いで賑わっている。待ち合いの椅子には、カッターシャツにタイトスカートの女性が足を組んで腰掛け、文庫本をめくりながら飛行機の到着を待っている。新聞を読んでいるスーツ姿の男性の姿もある。本も新聞も、太古から伝わる紙で作られている。これだけ文明が進歩しても、コスト面やリサイクル面において、紙より優れた素材は現れなかった。書かれている内容も、きっと昔とそう変わらないのかもしれない。手にしている人の性格や、取り巻く環境も。俯いて仮眠をとっている初老の男性に、陽気におしゃべりしている学生風の女性たち。こうした風景の一部に溶け込んでいる自分。ここには、平和に人生を謳歌している人たちであふれている。かつて地球だけを活動範囲にしていた時代から、変わることのないありふれた光景。こうした中で一人ゆったりと過ごしていると、日常では気にすることもない、平和という目に見えない貴重なものを感じることができる気がして、満たされた気持ちになってくるのだ。

「そこのお兄さん」

 呼び止められて振り返ると、初老の女性が佇んでいた。

「トイレはどこか知らないかい?」

「えーっと…、あちらではないでしょうか」

 トオルは、天井に取り付けられている簡易表示板を見つけ、トイレを指し示す方角を指差した。だが、その初老の女性は、耳が遠いのかトオルの指差す先を見ようとせず、じっとトオルを見つめたままだ。どうも、この女性は自分一人でトイレに行く気がないようだ。トオルは一つため息をついて、初老の女性に向き直った。

「…もしよろしければ、近くまでお連れしましょうか?」

「そりゃ悪いねえ。お兄さんは学生さんかえ?」

「……こう見えても、卒業してだいぶ経っているんですよ」

「ほう。それは御免なさいね。お兄さん、男前だからねえ」

 こう言ってその女性は屈託なく笑った。いつも褒めてくれるのは、年配の女性ばかり。どうせなら、自分と同年代の女性から褒められたいものだと思う。同年代の異性に好意を持たれたいと思うのは、人類誕生以前から脈々と受け継がれるDNAのなせる業だろうな。そんな感想を胸に、その初老の女性とトイレまで連れて行き、礼をいわれてその前で別れると、トオルは展望室へと向かった。

 展望室の窓ガラス越しには、赤い機体のカシオペアスペースラインの飛行機が飛立つ姿があった。その飛行機は何の問題もなく離陸し、少しずつ姿が小さくなっていく。小さな点になったのを確認すると、トオルはのどの渇きを潤そうと自販機エリアへと身を翻した。すると、一人の連邦軍士官が、トオルに向かってやって来るのが見えた。くすんだ金髪を短く刈り上げ、老年に差し掛かりそうな容貌ながらも、がっちりとした体型をしている。明らかに場違いな空気を感じてその場に居合わせた人々の表情は一様にこわばった。だが、トオル一人だけ、やれやれといった表情をしている。一定の距離まで近づくと、その軍人は姿勢を正し、トオルに対して敬礼を施した。

「タカハシ中佐、緊急の用件が入りましたので、参上致しました」

「…今日は休暇なんだけどなぁ」

 貧乏学生に、いかつい軍人が敬礼をほどこしている光景は、傍から見ると三流喜劇のように見える。実際、この場に居合わせた人たちは、これまた一様にきょとんとした表情になった。軍人の仕種に対してか、どう見ても貧乏学生にしか見えないこの若者が連邦軍の中佐だったことに対してか。こうした周囲の評価などお構いなしに、トオルは右手で自身の黒髪を軽くかきむしった。

「デ=ラ=ゴーヤ大尉。いったい何があったんだ?」

 せっかくの非日常を楽しんでいたのに、こうもずけずけと日常を持ち込まれ、トオルは明らかに不機嫌だった。しかも、何故この男は、自分がここにいることを知っていたのだろうか。自分のプライベートを知らないうちに把握されていることにも不快感を覚え、一言言ってやろうと思ったところ、デ=ラ=ゴーヤ大尉に機先を制された。

「師団長閣下が中佐殿をお呼びです。車を待たせていますので、今すぐ師団司令部までお越し願います」

「…やれやれ。普段仕事してないから、お灸でも据えられるのかな」

ボヤキと共に大きくため息を一つつくと、律動的な歩調で歩みを進めるデ=ラ=ゴーヤ大尉の後ろを追って、展望室を後にした。

 

 ネメシス・シティーに駐留している連邦軍の正式名称は、地球連邦軍第三総軍第17方面軍第217師団である。そこに所属するトオルの肩書きは、第217師団司令部作戦参謀中佐だった。弱冠28歳で連邦軍の中佐になったのには、当然のごとく訳がある。一言で言えば、彼が英雄になってしまったからである。更に詳しく言えば、彼は自らの指揮する部隊のみで、サイド3の反乱を鎮圧したからである。こう言うと、トオルはかつてのレビル大将クラスの大物のように聞こえるが、実際に彼が指揮した軍団は、レビル将軍のような何10万人もの兵力ではなく、10数人の一個小隊であった。一個小隊で鎮圧できる反乱なんてたかが知れており、通常であれば英雄扱いされることなどないのであるが、この時に捕らえた首魁が、とんでもない大物であった。この首魁は、隠密裏にサイド3をまるごと蜂起させる計画を握っていた。もしトオルの鎮圧が遅れていたら、一年戦争の再来になっていたであろう。軍首脳とすれば、こんな事件など闇に葬ってしまいたかったであろうが、すでに武力反乱のトリガーは引かれていて、反乱の序章である大規模なテロが、あらゆる報道機関の手によって世界中に伝えられてしまったものだから、事件を闇に葬ることができず、逆に、首魁の逮捕を大々的に報道して、世界を安心させなければならなかった。結果、トオルの武勲を軍首脳部は認めるしかなく、トオルは二階級特進して少佐になった。その後、ダカールの統合作戦本部で2年勤めたのち、火星への転勤を命じられたのである。中佐に昇進しての栄転だが、実のところ体のいい左遷と言っていい。エリートコースに乗ったものであれば、たとえ本部以外に出ることがあっても、かつての先進国以外から出ることはない。ましてや地球圏を離れることなどありえない。

「厄介払いをしたかったのだろうな」

というのが、トオルの感想である。かつてジオン公国のギレン=ザビは、地球連邦を絶対的民主主義と評したが、今では絶対的民主主義など完全な形骸となっている。まず、普通の人は、地球連邦政府の最高立法機関である評議会議員に立候補できない。立候補するためには、選挙管理委員会に委託金を支払わねばならないのであるが、この金額が高すぎて払うことができない。更に、当選するためには知名度を上げねばならず、そのために運動資金が必要なのだが、普通の人にそんな大金を用意することができない。すなわち、資産家でなければ、立候補できないのである。かつては、寄付金などを集めて選挙活動を行い、当選を勝ち取る者も数多くいた。しかし、第三期宇宙開発計画が始まって間もなく、連邦最高裁判所は、こうした寄付が贈賄に当たると判断してしまった。この判例によって、いよいよ資産家しか評議会議員に立候補できなくなったのである。どれも似たり寄ったりの貴族を選ぶ以外、選択肢がない。いまだ民主主義を標榜してはいるものの、実質上の貴族主義に連邦は陥ってしまったのである。貴族化が一挙に進行した結果、文官、武官を問わず、資産家の覚えが良い者しかエリートコースに乗れなくなった。トオルは、英雄にはなったものの、有力な資産家の後ろ盾を持っていなかった。政府は、世間受けを狙って功績を上げたトオルを、英雄として最初は優遇してみせる必要があった。だが、月日が流れてトオルの知名度が薄れると、トオルの存在自体が邪魔になったのだ。

 かつてのジオン=ズム=ダイクンは、このような扱いを受けたあと辞職して、政界へと打って出たが、トオルは火星行きの辞令を粛々と受け取った。トオル自身は、周囲がもてはやすほど自分を英雄だなどと思っておらず、周囲が放つ羨望と嫉妬の渦にいい加減嫌気がさし、地球から離れたいと強く感じていたところだったから、火星行きは本人にとって願ってもないことだった。

 しかし、28歳で中佐というのは、あまりに異例である。実際、28歳での中佐は最年少タイ記録。トオルの他、のちに宇宙艦隊司令長官となるブライト=ノア大将を含め3人しかいない。年齢不相応の高い身分は、必要以上に他者から警戒と嫉妬を受ける。戦乱時代に武勲を立てて発言権を確立できたブライトですら、中佐時代は苦労した。ましてや、平時においてはそれ以上である。佐官以上のものであれば、赴任先に初めて訪れた際、下士官が空港まで出迎えに来るのであるが、トオルの場合誰も来なかった。普通28歳といえば良くて大尉だから、まあ当然かなと思ったが、あてがわれた宿舎がこれまた酷かった。佐官クラスの邸宅など論外で、下士官が入る寄宿舎だったので、これにはさすがのトオルも文句をつけた。表面上は手配ミスと言っていたが、果たして本当なのかどうか眉唾物だ。結局は、規定通りの佐官クラスが入る邸宅に入居することができた。

「こんなもので終わらないだろうな…」

と初出勤を前にして、トオルは覚悟を決めていたのだが、その予想は大きく外れた。まず、嫉妬の炎を全開にして嫌がらせをするような者が、ひとりもいなかった。これは、出自を問わず、人柄や実績を重視する気概溢れる職場だったから……という素晴らしい理由ではなく、ただ単に、無気力と怠惰に満ち溢れ、仕事や他人のことなどどうでもいい人間ばかりだったからである。

「まぁ、適当にやってくれたまえ」

 着任の挨拶に対するネト師団長の返答は、たったこれだけだった。

「彼がラモン=デ=ラ=ゴーヤ大尉だ。仕事の内容については彼に尋ねたまえ」

 上司に当たるバルドック参謀長の話もこれっきりだ。

同僚に当たる幹部たちなど、挨拶に行っても話に応じてくれない。

紹介を受けた部下に当たるこのラモン=デ=ラ=ゴーヤ大尉というのも、あまりに胡散臭い。師団付の大隊長で、顔に刻まれた年輪から相当の年配者というのは分かるが、仕事に関すること以外、とにかく何も話そうとしない。慇懃無礼の見本と言っていいくらいだ。

 その慇懃無礼なラモン大尉の後を追って、宇宙港のターミナルビルを出ると、ゲートの正面に、あたかも高官を待っていますと言いたげな黒塗りの高級そうな車が、人だかりを前にして鎮座していた。一体誰を待っている車なのかとトオルが思うのもつかの間、ラモン大尉は無言でその車の扉を開け、トオルに乗り込むようにと促した。何でまた、こんな場所にこんな車を寄越したんだ。折角の休暇を台無しにされて不機嫌なトオルは、ひょっとしたら精一杯の好意で迎えに来てくれたのかもしれないにもかかわらず、心の中でラモン大尉に毒づいた。一体どんな人物が来るのか。政府のお偉方か、はたまた有名な芸能人か。期待に胸を膨らませて待った結果、実際に来たのは全くさえない青年だった。別にこちらが頼んだわけではないのに、期待に添えなかったからといって車の周りに集まった面々が、自分に侮蔑と羨望との視線を送ってくることも、トオルは気に入らなかった。トオルの隣に乗り込んでいるラモン大尉が、全く一言も発しないことも、トオルは気に入らない。まだ居住空間として出来上がったばかりの火星に、樹木が少ないことも気に入らない。折角の休日を潰されて師団司令部に連行される自分とは対照的に、自由を謳歌するかのように爽快に天空へと飛び立つ宇宙船の姿が気に入らない…。目に付くものことごとくに毒づいたトオルは、最後に衛兵の敬礼の腕の角度に対して毒づくと、車は師団司令部が入るビルにたどり着いた。

 師団司令部が入るビルは、コンクリート打ちっぱなしで何の飾り気もない、3階建ての建物である。司令部のみが入っている小さなビルで、兵舎や倉庫と渡り廊下で繋がれている。屋上にアンテナが林立しているのは、旧世紀からの名残だろうか。そのビルの2階に師団長室がある。エレベータが設置されていないので、階段で上がる。途中、何人かの士官や兵士に出くわしたのだが、みなラモン大尉に敬礼を施しても、新参者で顔が知られておらず、かつ私服で風采があがらない30歳前の若造のトオルには、一瞥もくれることはなかった。士官の中には、ちゃんと敬礼をしないトオルを睨みつける者もいた。いくら年上でも、尉官クラスの士官に睨みつけられていい気がしないトオルは、どんな言葉で毒づくか考えているうちに、師団長室の扉が視界に入ってきた。

 ひと呼吸入れてから扉をノックした。

「タカハシ=トオル中佐、入ります」

「…入りたまえ」

「失礼します」

 一時期、官公庁の扉はほぼ全て全自動開閉だったが、チャンドラ=ラオが宇宙開発省長官に就いてからは、可能な限り無駄を省くという大号令が発せられ、一部を除いてすべての官公庁の扉は、自動扉から旧世紀の取手付きの扉に改められている。ちなみに、トオルに与えられている作戦参謀室の扉も、当然取手付きの扉である。

 目前にある師団長室のドアのドアノブをひねり、合板製の扉を開ける。師団長室はごくありふれた執務室で、師団長のデスクと副官用のデスク、そして簡素な応接セット、何台かのキャビネットがあるだけの殺風景なものだった。師団長デスクの椅子にネト中将が座っていた。浅黒い肌、白髪が混じった短い縮れ毛、肥満気味のがっしりとした体つきをしている。年の頃は50代半ばといったところか。他の参謀や副官といった司令部のメンバーはおらず、師団長以外にいるのは副官用デスクの前にいる三人だけであるが、いずれも見覚えがない。二人が女性で一人が男性。入室してきたトオルに、一人の女性と男性が視線を向けた。トオルに視線を向けた女性は若い、というか若すぎる。10代半ばに見える。ダークブラウンの髪をおかっぱに切りそろえ、トオルより頭一つ低い身長と、華奢な体躯の女の子なので、制服を着ていなければ、とても軍人には見えない。だが、入室してきたトオルに向けた、前髪の奥に鋭く光るエメラルドグリーンの瞳が、彼女をただの少女ではないことを伺わせた。もう一人の女性は、これまた連邦軍の制服を着ていなければとても軍人にみえないのだが、それは先述の少女とは全く別の理由からである。年齢は20代の半ばくらいだろうか。スタイルだけを見ると、凹凸の落差が激しい上半身と、すらりと長い脚は、まるでモデルのようだ。ところが一転、顔を見ると、大きな黒縁メガネがとても印象的で、くすんだ豊かな金髪と俯いた姿勢に表情が隠され、雰囲気からして暗そうな文系の女学生に見える。トオルが入室してきても、全く姿勢を変えずじっとしていた。対して、入室してきたトオルに好奇心いっぱいの視線を向けた男性は、20代の前半だろう。短く刈り込んだ黒髪と浅黒い肌。直立した時の姿勢と引き締まった体型からして、体操選手のように見える。浅黒い肌で目立たないが、うっすらとヒゲを生やしている。それがこの男を妙に色っぽく見せているのだが、三人とも軍人らしく、アクセサリーなどは身に着けていない。

 ただ一人、軍服を着ていないトオルに対して、ネト師団長が声をかけた。

「中佐。君を呼んだのは、緊急事態が発生したからだ。そこに並ぶ四人と一緒に、これから申し渡す任務を果たしてほしいのだが…」

 四人ということは、この三人だけでなく、自分の後ろに佇むラモン大尉も含まれるようだ。自分を含め、パッと見が色物ぞろいの五人で、一体何をさせるつもりなのだろうか…。トオルは、師団長の張りのない声に耳を傾けた。

「…えっと、何だ。統合参謀本部から第三総軍宛に、ある機密が送られてくる手筈になっていたのだが、何をどう間違えたのか、総司令部のあるウラノス=シティではなく、ここネメシス=シティに来てしまった。君たちの任務は、その機密をウラノスまで運ぶこと。すでに準備は整っているので、あとは出発するだけだ。君が責任者。運転はそこにいるデ=ラ=ゴーヤ大尉、万一機密を取り扱う必要が生じたときのためにグリンカ伍長、それからオペレータとしてトスカネリ大尉とハムザ少尉を付ける。これからすぐに取り掛かってもらい、明後日の正午を目処に総軍司令部へ届けること。何か質問は」

「…あまりにも突然のことなので、何を質問すればいいかも分からない状態です。そこにいる三人とは面識すらないので、簡単な打合せと、我々が運ぶ機密とやらを見させて頂いてから質問をさせて頂きたいのですが、それでよろしいでしょうか」

 トオルの言い分にも理はあるのだが、師団長は面倒くさげな視線をトオルに向けた。

「あまり時間はないのだが…」

「1時間もあれば十分です。そこを何とかお願いできないでしょうか」

「分かった。時間厳守で頼むぞ」

「ご配慮ありがとうございます。では一時間後にまた伺います」

 トオルは師団長に敬礼を施すと、四人を引き連れて師団長室を後にした。

 

 司令部ビルの2階には、第217師団の幹部、すなわち師団長、参謀長、作戦参謀、後方参謀、そして三人の連隊長それぞれの事務室と会議室が並んでいる。トオルは、自身の作戦参謀室に四人を招き入れた。師団長室よりひと周りほど小さい部屋に、事務机とソファ、作業用の大きな机に椅子、そして小さな書棚がある。散らかった印象はないが、トオルが整頓を心がける性格を持っているからではなく、ただ単に赴任してきて間もないから、散らかすほど書類がたまっていないだけに過ぎない。そんな事務室に五人もいるので、狭苦しく感じる。そんな中で、トオルはまず自己紹介から始めた。長椅子のソファに座っている、浅黒い肌の若い男性の名は、ハムザ=ビン少尉。通信士である。引き締まった体つきだが、スポーツを嗜んでいるというわけではないらしい。

「トレーニングを日課にしていますから」

というのが彼の弁である。ずいぶんとストイックな奴だなと思ったトオルだったが、理由を聞いて、彼に対する評価が真逆になった。

「腹が出てると、女の子にもてないじゃないですか」

「確かに。私も気をつけることにしよう」

 トオルは食べても太らないという、人もうらやむ体質をしている。ハムザの涙ぐましい努力を粉々にしそうなので、自分の体質については黙っておこうと思ったトオルであった。

 女の子大好きのハムザがしきりに気にしている、一人掛けのソファに座る黒縁メガネのくすんだ金髪の女性の名は、カタリナ=トスカネリ大尉。司令部の総務課員である。

「たまたま出勤したら、師団長につかまった」

ため、この任務を言い渡されたそうだ。テレビドラマの予約が出来なかったことが残念でたまらないらしい。彼氏の有無についてハムザが問いかけるも、ノーコメントであった。

 ハムザの隣で長椅子のソファに座るおかっぱ頭の女性は、ジーナ=グリンカ伍長。カタリナと違って、線の細い少年のような、華奢な体躯の女の子。年はこの中で群を抜いて若そうだが、カタリナ以上に寡黙で、彼女のことを話すのは、意外にもラモン大尉だった。

「中佐、この子はまだ16歳です。それでいて機動大隊の所属です。」

「と、いうことは…」

 トオルは続きの言葉を止めた。機動大隊とは、人型及びそれに類する形状の搭乗型の大型機動兵器、通称モビルスーツ、モビルアーマーで構成される部隊である。その搭乗員は、大半が熟練したパイロットだが、中にはニュータイプといわれる、感覚が研ぎ澄まされた人物、もしくはそれに類する少年少女が充てられることもある。ニュータイプに類するものとして、施設で養成される強化人間というものがある。強化人間は、一年戦争の終結後、敗戦国のジオン公国文化技術省の研究機関を接収した軍機省のニュータイプ研究所において、研究、試験が重ねられ、誕生したものである。ニュータイプについては未知の部分が大きく、その研究は遅々として進まなかった。研究の遅れを取り戻そうと焦った研究者の中には、非人道的な人体実験に走るものも現れた。当時の軍の実力者であったティターンズの総帥ジャミトフ=ハイマンが、そうした行為を掣肘しなかったこともあって、そうした「えぐい」方法を採る研究者はどんどん増えていった。そのせいもあって、グリプス戦役の頃は完成に程遠い代物だった強化人間が、第二次ネオ・ジオン抗争のころになると、一定の成果が表れた。ところが、いつの頃からか非人道的な人体実験は行われなくなり、軍自体が強化人間への興味を失っていったこともあって、目に付くような進歩は見られなくなり、やがてニュータイプ研究所は、軍機省から宇宙開発省の管轄下へと移された。結局、非人道的な手段も厭わないマッドサイエンティストの集団という、ダーティーな印象だけがニュータイプ研究所に残ってしまった。そのニュータイプ研究所に所属し、軍へ出向している強化人間の軍服は、詰襟タイプが主流の連邦軍とは違ってブレザータイプのジャケットにネクタイというスタイルなので、とにかく目立つ。ジーナの着ている軍服と彼女の所属から、ダーティーなイメージの研究所を連想してしまったため、トオルは先に続ける言葉を止めてしまったのである。

 自己紹介のあとの3~40分ほどは、歓談に終始した。と言っても、大半はハムザが話していたのだが。丁度話題が途切れたところで、トオルが皆を見渡した。

「ところで、この貴重な休暇を台無しにしてくれた師団長に対して、何か言いたいことはあるか?」

「そうですねぇ。何でこのメンバーなんでしょうね」

 ハムザの疑問に、トオルは首肯した。いくら機密を運ぶにしても、メンバーの階級が高すぎる。責任者に中佐クラスを置くのは理解できるとしても、大尉ニ名に少尉一名と士官が四人。対して兵卒はたったの一人で、しかも10代。それに皆、所属が別というのも変だ。トオルとしても是非聞きたいところなのだが。

「でも、それは聞けないな」

「小官もそう考えます」

 ラモン大尉が、トオルの意見に賛同した。師団長の目にたまたま入った者を指名したとか、名簿から無作為に抽出したとか、適当に選んだなんて言えないだろうし、はたまた、師団長が気に入らない人間に、嫌がらせで任務を与えたなんてことも言えないだろう。尋ねたところで、まともな答えを聞き出せるはずがなかった。

 カタリナ大尉が挙手して、トオルに発言の許可を求めた。

「実務上のことなのですが、万が一襲撃を受けた場合に備えて、どう対処すればよいかは、確認されたほうがいいと思います」

「それは確かに重要だな。携帯できる武装、使用できる武器、武装グループに対する交渉権の範囲、発砲の許可…枚挙に暇がないな」

 カタリナの意見は重要だった。これをはっきりさせておかないと、自分の生命や地位に重大な影響を及ぼす。トオルは手帳にメモを取り、改めて周囲を見渡し、一人の人物に視線を定めた。

「グリンカ伍長はどう思う?」

 トオルの指名を受けた少女は、一瞬驚いた表情をしたが、視線を下に向け黙っている。無表情のように見えるが、頬が薄く色づいてきていることから、このような場で発言を求められたことがなく、緊張しているのではないか。トオルはそう感じたので、しばらく待とうと思ったのだが、数十秒も経たないうちにラモン大尉が沈黙を破った。

「ジーナ、聞こえなかったのか。早く奉答したまえ」

「まぁいいじゃないか大尉」

 手振りでラモンを制すると、トオルはジーナ向き合った。

「君とは年が離れた人間ばっかりで、緊張しているのかもしれないが、たった五人しかいないんだ。別に何でもいい。気になっていることがあれば、遠慮なく言ってくれないだろうか」

「緊張なんかしておりません」

 キッと、ジーナはトオルを睨んだ。こぶしを握り締めているところを見ると、上司に向かって反抗的な態度をとったらどうなるか、ジーナは覚悟を決めているのだろう。トオルがおもむろに右手を挙げたので、ジーナは目をぎゅっと閉じた。ところが、ジーナが予想した顔の痛みは、一向にやって来ない。ジーナはそっと目を開くと、右手で自分の背中を掻いているトオルの姿が目に入った。

「そんなに大声出さなくてもいいよ。まぁ、君くらいの年だと、ハムザ少尉みたいにパッと切り出すのは難しいだろうな。それじゃ、こちらから聞きたいのだが、ジーナは機動大隊にいるのだから、トラックとか重機とかも扱えるのかな」

「…中佐殿は、私を修正なさらないのですか?」

 睨みつけた相手の階級が自分とたった一つしか変わらなくても、上官に逆らったと見做されれば、容赦なく鉄拳が飛んでくるのが当たり前だった。目の前にしているトオルは、自分よりも何階級も上の、いわば雲の上に近いほどの上官である。それなのに、この風変わりな上官は、鉄拳どころか、睨みつけた自分に対して微笑みかけてくるではないか。ジーナにとっては、あまりにも意外で衝撃的なことだったのだが、トオルにはそんなジーナの内心は分からなかった。

「修正ねぇ。君のようなかわいい女の子をぶん殴っても、後味が悪いだけなんだけど。そうは思わないかね、ハムザ少尉」

「えっ、そこ、私に振りますか」

 肩をすくめて見せるハムザから、トオルは視線を再びジーナに向けた。

「たった五人なんだ。少々のことに目くじら立てても仕方ないさ。それよりも、何か気になることがあれば、あとでもいいから教えてくれないかな」

「は、はい…」

 拍子抜けした表情で、トオルを眺めるジーナだった。

 

 トオルがラモンを伴って再び師団長室に入室したのは、約束の1時間を30分以上過ぎた後だった。あまり時間にうるさくない師団長なのだが、さすがに機嫌が悪かった。

「貴官の腕時計の針の進みは、私のものと比べて、ずいぶんと遅いようだな」

「申し訳ありません。今つけているディスカウントストアで購入した腕時計は、明日にでも買い替えることにします」

 急に呼び出されたことへの貸しは、これでチャラだなとトオルは思った。

 先程のミーティングで出た疑問点について、師団長に質問すると、意外なほど要望に対して寛大だった。護身用の銃火器については、必要と思うものは積める限り積んで構わないし、他に持って行きたいものがあれば何でも持って行ってよい。緊急対応については、トオルがその場で判断すればよく、事後報告さえすれば構わないとのこと。通行するルートも自由。目的地はウラノス=シティ近郊のアキレウス駐留基地。受取人は、第三総軍参謀長のチャン=ミンスク中将。他、必要と思われる情報は全て教えてもらえた。だが、運搬する機密について尋ねると、

「それは言えないことになっている。まぁ、運ぶものを見れば、自ずと分かると思うが」

としか答えてもらえなかった。質疑事項については以上であるとトオルが述べると、師団長は椅子から立ち上がった。

「それでは、速やかに任務についてもらいたい。貴官らの健闘を祈る」

「全力を尽くします」

 お互い敬礼を施し、トオルが師団長室から辞去すると、廊下にはにわか作りのトオルの部下たちが佇んでいた。

「どうでしたか、中佐どの」

 後ろ手を組んだハムザが尋ねる。ハムザのくだけた態度にラモンが眉をしかめたが、当のハムザは一向に気にしない。尋ねられたトオルも、そんなことは意に介さず、両手を広げてみせた。

「好きにしていいんだとさ。ありがたいというよりも、何だか不気味だな」

「急に呼び出して用事を言いつけたもんだから、少しは引け目を感じているんでしょう」

「あの師団長が?そんなタマだとは思えんけど」

「まぁ、今詮索したところで何も分からんでしょう。とにかく出発の準備をしましょうや」

「そうだな。とりあえず、皆ノーマルスーツを着用するように」

 トオルが皆に指示を出した。現在の火星は、都市ごとにドームが建設されている閉鎖空間である。ドーム自体はミノフスキークラフトを利用した圧縮空気でできているため通り抜けは簡単だが、ドームの外側では宇宙服なしで生存できない。軍人に支給されている宇宙服をノーマルスーツというが、ゆったりした一般用と、肌にフィットしたパイロット用の二種類ある。長時間宇宙空間に滞在するわけではなく、かつ身動きのとりやすさを考えて、トオルはパイロット用のノーマルスーツを選択した。他の皆も、トオルと同じ選択をする。それぞれ更衣室でノーマルスーツの着用を済ませると、1階出口に近いブリーフィングルームに集合した。そこには、施設中隊の隊長と、三名の隊員が控えていた。中隊長は直立姿勢でトオルに敬礼した。

「今回、タカハシ中佐殿の指揮で輸送して頂く機密ですが、50トントレーラーでの搬送になります」

「トレーラー?」

 唸ったのはラモンだった。

「そんな大きなものを運ぶのか。やたら目立つではないか」

「まぁ大尉、中隊長にそんなこと言っても仕方がないさ。ところで」

 ラモンをなだめつつ、トオルは意地の悪い視線を中隊長に向けた。

「師団長閣下は、必要なものをいくらでも持って行ってよいとおっしゃった。必要なものをここにまとめたので、用意してもらえないかな」

 トオルに差し出された、メモというには大きな紙を中隊長は受取り、ざっと目を通す。みるみる中隊長の顔色が悪くなっていった。

「これを全部揃えろとおっしゃるのですか」

「ないとは言わせないぞ。どのくらいで準備できる?」

「トレーラーの中身を全部積み替える必要があります。少なくとも3時間は」

「だめだ。1時間だな」

「そんな。回せる人数は、ここにいる三人と、せいぜいあとニ人くらいですよ」

「そうか。私たち五人、そして君も合わせれば11人になる。十分いけるはずだ」

「そ、そんな…」

さりげなく自分を外したのだが、中佐殿には通じず、がっくりとうなだれてしまう中隊長。その彼の肩に、ラモンが手を置いた。

「準備して終わりのお前たちと違って、俺たちの任務はこれから始まるんだ。はなむけ代わりに手伝ってくれてもいいだろ」

「分かったよ、分かりましたよ。でも、貸しだからな」

「じゃ、頼むぜ」

 ラモンの笑い声が響く。三人の施設中隊の隊員が皆、ニヤッとしたのをトオルは見逃さなかった。

 

 トオルたちが乗り込む50トントレーラーは、とにかく長い。全長30メートルはある上に、横幅も高さもあるので、とにかく目立つ。トレーラーの荷台は、旧世紀からあるウィング車仕様で、中に何が積んであるのか、外からでは全く分からない。荷台の中の荷物の積み替え作業をしたので、荷台の中に積んである機密が何なのか、トオル達は知ることができた。

「何であんなものが、こんなところにあるんでしょうかねぇ」

 ハムザが抱く疑問も当然だとトオルは思う。だいたい今の火星に必要な代物であるとは到底思えない。ただの誤配にしろ、それを正しい送り先に届けるのは、トオル達のようなにわか作りの寄せ集め集団ではなく、もっとちゃんとした部隊がするべきだ。それなのに、トオルたちに運ばせようとするのは、何か裏があるのか、それとも…。

「一介の総務課員の私に、こんな任務を与えるとは、きっと上の人たちは何も考えていないのでしょうね」

 おそらく、このカタリナの感想が正しいのだろうとトオルは思う。機密のことはしゃべれないと言っておきながら、基地内の不特定多数が目撃できるような杜撰な管理をしているところからも、機密を真剣に取り扱う気を感じられない。管理も適当、運搬も適当。何もかも適当なのだろう。

 トレーラーのキャブには三人しか乗り込めないので、トレーラーに二人、他の三人は装甲輸送車に乗り込むことになった。トレーラーの運転はラモン、助手席にジーナ。輸送車にハムザ、カタリナ、トオルが乗り込む。

「せっかくの休日が台無しになったと思っていたのですが、あなたのような美しい人とドライブができるなんて、とても素晴らしい日になりそうです。お邪魔虫がいなければ、より最高だったですが」

「はぁ。なに寝言を言ってるの」

 ハムザのケーキをハチミツとメープルシロップで塗り固めたような甘い語り掛けに、カタリナはまるでハエでも払うかのようなぶっきらぼうな口調で答える。全く相手にされないハムザだが、これくらいのことではへこたれない。

「僕のドライブテク、なかなかのものですよ。休日には車でよく出掛けるものですから。ゆったりとした超安全運転でも、ちょっとしたスリルのあるラフな運転でも、大尉の好みに合わせますよ」

「どうせ、前を走るトレーラーの後ろを付いていくだけでしょ。ドライブテクなんか関係ないと思うけど」

「いやいや、それは違いますよ。それなら是非僕の隣に座って僕の運転をじっくり味わってもらいたいですね」

「そう。でも残念ながら運転するのは私らしいから、自慢のテクニックは別の女の子にでも披露したらどう」

「えーっ」

 誰が見ても分かる落胆の色をハムザは見せたのだが、こんなことで会話を途切れさせては何も進展しない。周りを見渡し別の話題を探る。

「ずいぶんと物騒なものを積み込んでいますけど、これらは全て中佐殿のご指示なのですかねぇ」

「…一概にもそうとも言い切れないけど。ハムザ少尉、口ばかり動かさず手足を動かしなさい。まだ積み込み作業は終わっていないんだからね」

「うわ、命令口調もまた魅力的だ…」

 ハムザの言葉に対してカタリナは沈黙で答えたので、ハムザの試みはここで一旦終了となった。

 一方、ジーナはラモンと作業が一緒になった。

「少しは体調、よくなったのか」

 この二人は旧知の間柄のようだ。ラモンは一旦気を許した相手にはとことん気を使うので、性別や世代を問わず顔が広い。ジーナが先日来頭痛を訴えていたのが気になっていた。尋ねられた方はといえば、作業の手を止めることもなく、問いかけたラモンに視線を向けることもなく、

「はい」

と無味乾燥な答えを返すだけだった。そんなジーナに対して、ラモンは何故か優しく問いかけ続ける。

「ならいいのだが。やっぱり、研究所から完全にこっちに移籍することはできないのか」

「研究所から出たければ、これまでに掛かった費用を弁済しろと言われていますから、難しいと思います」

 強化人間の育成には、莫大な費用が掛かる。被験者たちが研究所から逃げ出さないよう、研究員達は様々な手を使って引き留めに掛かる。或る者には達成不可能な条件を示したり、また或る者にはありもしない夢と希望を与えたり。被験者たちも必死だが、研究員たちも必死だ。しかし、なぜここまでして強化人間を養成する必要があるのか、ラモンを含め大部分の人たちは知らない。

 ジーナには、他の被験者たちに比べて現実的な条件が示されている。だが、提示された金額を支払うことは、ジーナにとって夢物語であった。

「ですが、誇らしくも感じられます。」

「なぜだ?」

「だって、私には、それだけの金額の価値があるということでしょう」

「……」

 ラモンは答えに窮した。人間の価値をカネに換算して比べることなどできないとラモンは思っているのだが、なぜカネに換算してはいけないのかと聞かれても、ジーナを説得できる自信がラモンにはなかった。

「…まあ、お前が納得しているのならいい。ただ、私としては、人をお金で量るやり方は好きではないね」

「なぜ」

「まぁ、何となくだ」

「では、お金で量ることを止めます」

「……」

 納得していないことは明らかだ。自分の限界が身に染みるラモンだった。

 結局、準備に要した時間は、1時間を少し回ったくらいだった。何事もなく順調にいって、ネメシス=シティを出るのに2時間、ネメシスからウラノス=シティまで1日、そしてアキレウス駐留基地内の移動と受渡手続で時間、帰りに1日、途中休憩を何回か挟むことを考えると、締めて二日半といったところか。今が昼前なので、

「帰ってきたら夜中か…。絶対代休を取ってやる」

とトオルは決意を固めた。

「カタリナ大尉のとなりだ~!休日出勤バンザイ」

とハムザ。

「こんなことなら、あの番組録画しとくんだった。再放送いつかなぁ」

とカタリナ。

「よし、準備万端。何事もなければいいが…」

とラモン。

「……」

とジーナ。 それぞれ思いは違えども任務は一つ。

「無事のご帰還を祈念します」

「ありがとう」

 制服を油まみれにしてしまった施設中隊長の敬礼に答礼すると、トオルは運転席のハムザに指示を出す。トオルたちの乗る輸送車を先頭にして、一行はウラノス・シティーに向けて出発したのだった。

 

 男は機嫌が悪かった。

 ネメシス=シティとウラノス=シティの中間部、所々にコケ類が生える赤茶色の荒野の道なき道を、小型の装甲車3台が一列に並んで走行していた。その真ん中の車の後部座席に座るその男は、ふてぶてしそうに足と腕を組み、眉をしかめて前方の運転手の後頭部を睨んでいる。パイロット用のダークグレーのノーマルスーツを着込んでいる彼の名は、レオン=バネッタといった。階級は中尉。彼は、非公式の命令を受け部下を率いて行動していた。

「ネメシス=シティからウラノス=シティに運び込まれる機密を奪取せよ」

というのが彼に与えられた命令だった。ところが、彼の上司はケチだった。機密について尋ねると、

「大きさは大変大きい。決して小さくない」

と曖昧だし、万全を期して自身が率いる小隊を動かしたいと願い出ると、

「大人数だと目立つので、一個分隊だけで対処するように」

と言われ、仕舞いには、

「軽迫撃砲以上の武装は目立つので、それ以下の武装に止めること」

と念を押される始末である。しかも、ターゲットがどういう輸送手段、ルートを通るかといった基本的な情報も与えられない非公式な命令を、喜んで引き受ける人間などいるはずがない。しかも、ターゲットに動きが出たので、準備時間もなしに緊急出動せよとのこと。情報不足、兵力不足、火器不足、準備不足の四重苦である。

「命令謹んでお受けいたします」

 それ以外の返答が許されないという五重苦に、腸が煮えくり返っているレオンであった。

 自身の小隊から人選してにわか作りの分隊をこしらえ、装甲車3台に分乗して、ターゲットが通るであろうと思われるネメシス=ウラノス間へ向かった。

 火星の空は青黒い。まだ酸素濃度が薄くオゾン層が未発達なので、都市ドームの外に出ると昼でも薄暗い。モビルスーツにでも乗って空を駆け巡れば、少しは気がまぎれるだろうが、面白味のない空の下、コケ類と岩しかない地面の上を這いずり回っているだけでは、一向に腹の虫がおさまらない。

「さっさと終わらせて帰りたい」

 整地されていない地面に体を揺すられているレオンの頭の中は、この文章だけがエンドレスで流れ続けていた。そんな彼には、機密とやらを奪うための腹案があった。ターゲットが機密とやらを運ぶにあたって、護衛にしろ、武装にしろ、たいしたものを揃えていないと、レオンは確信している。機密というからには、目立たないようにする必要がある。大人数で護衛したら、否応なくマスコミ等の目を引く。武装車両を多数揃えても同様だ。従って、護衛の武装車両は1台もしくはゼロ。大きなものを運ぶとあれば、トラックかそれに類する大型車両に絞られる。輸送機を使っての空輸は、墜落というリスクを考えると妥当ではないからだ。であれば、こちらが少人数であっても何とかなる。ターゲットよりも先回りして、2台でターゲットの左右を挟み、残りの1台でターゲットの頭を押さえてターゲットを停車させ、機密を奪うというのが、レオンの描いた基本戦術であった。ターゲットを制圧するために、装甲車には重機関銃が備え付けられている。レオンの的確な指揮と、3台の装甲車の連携に乱れがない限り、ほぼ100%任務は遂行されるはずである。士官学校でも成績が優秀であったレオンは、自身の指揮には自信があった。

「ターゲット、ネメシス・シティーを出た模様」

 運転席の隣に座る通信士がレオンに告げる。ネメシス駐屯基地から出た怪しい大型車両には、既に目星をつけてある。あとは、その動きを、衛星を通じて監視するだけ。特に難しい作業ではない。レオンが乗る装甲車は、ターゲットの正面約3キロメートルの地点に回り込んだ。残り2台の装甲車についても、予定の位置にまもなく到着するはずである。

 レオンの乗る装甲車の中は、車のエンジン音の他、通信士が持つブックタイプの電子端末が出す規則正しい電子音だけで、静まり返っている。電子端末のモニターには、周辺地図とターゲット、そして味方の3台の装甲車の位置が映し出されている。

「よし、そろそろだな」

 後部座席から身を乗り出してモニターを眺めていたレオンが、そろそろ作戦行動開始の指示を出そうとしたその時、異変が起こった。

「な、何だ!」

 突然モニターの画像が歪み、すぐに白黒の砂嵐状態になった。規則正しい電子音は、電子ノイズ音に変わっている。車載の別の検知器が、警告音を響かせている。

「ミノフスキー粒子が散布された模様!」

「はあ!?」

 通信士の報告に、レオンは奇声を上げた。トレノフ・Y・ミノフスキー博士が発見し、その名が付けられたミノフスキー粒子は、物理学の常識を覆す画期的なもので、通信の妨害から、反重力推進システムへの応用など、用途は幅広い。通信の妨害を目的としたミノフスキー粒子発生装置は、年を追うごとに小型化が進められたが、それでも10キロメートル四方の通信を妨害させるためには、最低でも小型車1台分の大きさの装置が必要だ。

「まさか、あんなに大きな装置を、ターゲットは積み込んでいるというのか…!」

 ありえない。レオンは心の中で大きく叫んだ。しかもこんな重要なタイミングで撒くとは、連中はうちの装甲車に隠しカメラでも仕込んでいるのか? いくら毒づいたところで、散布されたミノフスキー粒子は消えてなくならない。予定の中でも特に重要なところを邪魔されてしまったので、レオンは狼狽した。

「やむを得ない。ターゲットへ向けて突入する」

「我々だけでですか?」

 運転手が悲鳴を上げてレオンに抗議したが、返ってきたのは怒声だった。

「当り前だろうが!嫌なら、他の2台に連絡を付けてみろ」

 運転手は観念して、装甲車の進路をターゲットに向けた。サンルーフを開けたレオンは、天井から体を乗り出すと、屋根に取り付けてある機関銃の柄を握った。バイザー越しに遠くを見やる。こうなったら、威嚇射撃でトラックを止めてやる。覚悟を決めた。体当たりにも似た行為に、もはや作戦なんてものはない。場当たり的な博打行為に出たレオンの背中に、冷たいものが流れる。ものの数秒が、数時間にも感じる。やがて前方に、走行車の存在を感じさせる砂埃が舞うのが見えてきた。機関銃のスコープに片目を当てる。といっても、ノーマルスーツのバイザー越しなので見え辛いのだが、スコープ越しに2台の地上車が見えてきた。先頭に装甲輸送車、後ろにトレーラー。その時、

「ミノフスキー粒子の濃度が薄くなってきました。通信が戻ります」

 と通信士が報告してきたが、味方の2台がどこにいるかなど、もはやレオンには関係のないことだった。1分もしないうちに、銃撃戦が始まるはずである。まずは先頭の輸送車に銃撃を浴びせて怯ませ、右か左にハンドルを切らせたところを、ターゲットのトレーラーにぶつかる覚悟で突進し、トレーラーを停車させる。敵の輸送車が戻ってくる前に、トレーラーを制圧する。そのためには一旦停車して、輸送車に正確な銃撃をあびせなければ。そう思い、運転手に停車の指示を出した。そして、装甲車が停止するや否やといったその時、

「うあああ!」

 レオンを含め、装甲車に乗っている全ての者が絶叫した。前方に、巨大な光の壁が突き刺さったのだ。オレンジ色に輝く光の槍は、軍人なら誰もが知っているメガ粒子砲によるものであった。メガ粒子砲が空から降ってくる。上空に何かいるのか。戦艦か、モビルスーツか?レオンは空を見上げたが、それらしいものは何も見当たらない。

「……ぐ、軍事衛星か…」

 あまりにも衝撃的な出来事に茫然としながら、レオンはつぶやいた。メガ粒子砲の衝撃で装甲車の電子機器はショートを起こし、機能不全に陥っている。もはや彼らに、機密奪取を行う気力は残っていなかった。そんな彼らをあざ笑うかのように、輸送車とトレーラーが横を通り過ぎていった。

 

 男は意気消沈していた。

 男は自らの才覚には自信を持っていた。士官学校を三位の席次で卒業し、統合参謀本部勤務を経て二四歳で中尉に任官。伯父が連邦軍の高官でもあるので、数々の成功を収めて出世することを、レオン=バネッタは信じて疑わなかった。今回与えられた任務も、僅かな情報を頼りにターゲットの進行ルートや保有戦力を割り出し、すばやく効率的な作戦を立案し、的確に部隊を指揮して成功を収めるはずであった。それが結局おめおめと失敗し、査問を受ける立場になってしまったのである。

「何か言いたいことがあるか」

 薄暗く、殺風景な会議室。簡易な長机に佐官クラスの士官が三名座って、正面に座るレオンを見据えている。上官の一人がレオンにこう冷たく言い放った。普段のレオンなら声に出さずとも、情報も何もなしで成功なんかするものか、くらいは毒づくだろうが、あいにく失敗のショックから抜け出せないでいるので、

「何もありません。小官の能力が及びませんでした」

と殊勝なことしか口に出せなかった。自身の能力と家系を自負して横柄な姿勢が垣間見えることもあるレオンだが、今は珍しくも真面目にうなだれている。そんな姿を見て、上司たちも幾分か追及の手を緩めた。三人の士官が口々に感想を述べる。

「いくら機密といえども、ミノフスキー粒子散布装置に軍事衛星を使ってくるとは。これを予測して対策を立てるのは、困難だったのではないか」

「うーむ、確かに。まだ経験の浅いバネッタ中尉に、今回の責任を全て背負わせるのは酷かもしれんな」

「しかし、あんなものを用意するとはな。ターゲットの指揮官は一体誰なのだ」

 机の上に電子端末を置いている士官が、キーボードをたたく。調査に要した時間はほんの数分だった。

「タカハシ=トオル中佐。第217師団の作戦参謀。火星に赴任してまだ3ヶ月です。年齢は28歳」

「28歳で中佐?若いな」

「それよりも、どこかで聞いた名だな」

 先程の士官が再びキーボードをたたき始める。これまた数分で解答が出た。

「3年前のサイド3反乱事件鎮圧の功労者で、連邦名誉勲章を受章しています」

「…あぁ、あの事件か」

 この士官は苦々しく吐き捨てた。タカハシ中佐に対する追及はこれで止まり、タカハシ中佐の随行者に話題が移った。彼らの経歴を聞くと、その士官の表情が変わった。

「これは、これは…。この中佐殿の命運も、ここまでかもしれんな」

 苦笑が漏れる。全員の評価点がDと表示されてある。佐官クラスなのに、何故このような情報を見ることができるのかは謎だが、それはとりあえず置いといて、こんな落第点がついている連中に任せたということは、運んでいる機密というものの正体が見えてくる。

「まんまと担がれた訳だ。バネッタ中尉の失敗は、不問に付してもよさそうだ」

 この場で最高位と思われる士官のこの一言で、この査問会は散会の運びとなった。

 

「どうにか撒いたようだな…」

 トオルはため息をついた。トオルは今回の機密運搬のために、ミノフスキー粒子発生装置だけでなく、軍事衛星にアクセスできる端末、グレネードランチャー、機関銃、ハンドブラスター、スタンガンなど、あらゆるものを準備していた。トレーラーの左右ウィングの内側には、小型の熱誘導ミサイルを一発ずつ設置するほど念を入れており、おそらく2個中隊の来襲にも耐えられるだろう。結局来襲してきたのは、1個分隊程度の戦力だったので、全く損害を受けなかった。

「…全く大した人だ、タカハシ中佐は」

 トオルの作戦立案と指揮能力の高さを、初めて目の当たりにしたラモンは歎息した。どんなに良くても、トオルの乗る装甲輸送車の小破は免れないだろうと思っていただけに、無傷で撃退したこの若い上官に対する見方を、ラモンは改める必要を感じていた。

感心するラモンとは対照的に、ハムザは不平たらたらである。

「僕に、こんなことをさせるなんて、超過勤務手当てを頂きますよ」

 軍事衛星にアクセスして、メガ粒子砲を撃ち込んだのは、通信士のハムザだったのだが、どうも彼は、プログラミングが得意であることを隠していたかったらしい。

「妙に勘ぐられたくないですからね」

というのが、彼の弁である。彼にしてみれば、政府のシステムをハッキングすることすら難しいことではないらしいが、大っぴらにすると“平穏な”生活が送れなくなる可能性が高くなるから、ひた隠しにしてきたらしい。今回トオルは、通信士ということでハムザに端末を渡して操作を指示したのだが、想定以上の成果を上げることができたのは嬉しい誤算だった。

 道なき道を進み、まもなくウラノス・シティーへと到着する。ネメシスも中堅と言える規模の都市だが、火星の中心都市であるウラノスは、明らかに大都会だった。まだ遠く離れているにもかかわらず、またミノフスキークラフトを利用した圧縮空気でできているドーム越しであるにもかかわらず、摩天楼の迫力が、ひしひしと伝わってくる。

「あーあ。せっかく来たのに、夜の街はおあずけかぁ」

 だいぶ日も翳ってきた。大都会ウラノスには、それなりの大きな繁華街もある。機密を無事運び込んだら、寄り道もせずにネメシスへとんぼ返りすると言われていたので、遊び盛りのハムザは残念でならなかった。

「あんた一人で来た時に、思う存分遊べばいいじゃない」

「つれないことを言わないで下さいよ。大尉の頬がピンクに染まるところを、じっくりと眺めていたかったのに」

「なに色気づいてるのよ。いいかげんにしな」

 無感情に言い捨てるところが、逆に小気味いいなと、傍で聞いているトオルは思う。長い髪とメガネで、素顔が今一よく分からないが、きっと美人の内に入りそうな気がする。果たしてカタリナには、いい人がいるのだろうか。ま、いたとしてもハムザには関係のないことかもしれないが。

「それじゃ、ネメシスに帰ったら一杯行きましょう。夜遅くまでやっているいい店がありますから」

「中佐殿をお誘いするなんて、あんたも宮仕えが板についてきたわね」

「いえいえ、定時を過ぎてまで仕事をするほど、僕は人間できていませんから。かわいい後輩のために時間を作って下さいよ」

 明らかに避けられているにもかかわらず、ハムザは諦めるどころか、よけいに食らいついていることに、トオルは感心してしまった。ハムザの努力は、果たして報われるのであろうか。

「どうしても見たいドラマがあるから、またの機会ね」

 あら残念。天の岩戸は開かなかったか。きっぱりと断られてしまって、ハムザは落胆してしまったのかと思いきや、

「では明日も誘いますので、是非時間を作ってくださいね」

ときた。うわぁ、へこたれんな。

「明日も用事があるから難しいわね」

 おいおいカタリナさん。そこまで追い討ちをかけるか。同性としてハムザに同情しかけたトオルだが、

「では、明日も明後日も明々後日も、更に次の日も、お誘いに伺いますからよろしく!」

「……」

 さすがのカタリナさんも、返答できなくなってしまった。ひょっとしてカタリナさん、ハムザに寄り切られてしまうんじゃないだろうか。まるで恋愛ドラマの観客になった気分のトオルが、前方の窓の外を見やると、ウラノス=シティが目前に迫ってきていた。舗装もされていない迂回ルートから幹線道路に入る。検問待ちの渋滞を抜け、一時間もすればアキレウス駐留基地だ。トオルたちの不本意な仕事も、山場を迎えようとしていた。

 

 第三総軍総司令部は、ウラノス・シティー中心の火星総督府と同じ敷地内にある。第三総軍総司令官のドゥセック上級大将以下総司令部のスタッフは、そこに勤務しているのだが、総司令部直属の第一方面軍は、ウラノス・シティー外縁のアキレウス駐屯基地に司令部を置いている。トオルたちは、総司令部ではなく、アキレウス駐屯基地に行くよう命じられていた。

 アキレウス駐屯基地は、宇宙港も備える火星で最大級の軍事基地である。収容可能艦艇数は、大小合わせて1000隻以上で、第八艦隊の母港にもなっている。駐留する兵員の総数は、第八艦隊と第一方面軍配下の3個師団、1個旅団を合わせて計6万3000名。この基地だけで一つの都市くらいの規模がある。最重要拠点なので、入門のチェックも厳しい。順番待ちだけでも相当時間がかかるのだが、トオルの上司である師団長が発行してくれた通行証を見せると、衛兵が別の通用門へと案内してくれた。そしてその衛兵は、紙製の基地内案内図を片手に、どの建物へ向かうべきかをトオルたちに教えてくれた。

 普段なら、車載のナビゲーションシステムに場所を入力してもらえるのだが、任務が任務なだけに、トオルに手渡されたのは、先程衛兵が持っていた紙製の地図である。旧世紀さながら、鉛筆で印が入れてある。

「すごく大きな倉庫だなあ」

 目的地は、戦艦が2隻は入れそうな大きな倉庫である。場所は基地の中心部に近い。地上車の行き来も多く、外部からは見えにくいので、機密の受け渡しには好都合だ。既にあたりは暗くなっているのだが、行き交う人と車が多く喧騒としている。人々の服装はまちまちだが、大別して5種類に分けられる。一つ目は、スーツ姿。軍機省もしくはそれ以外の役人か、軍事関係の企業人だろう。ニつ目は、グレーが基調の軍服姿。一部を除いてほとんどの軍人が着用している。連邦軍が組織されてから若干のモデルチェンジがなされてきているが、基本は変わらない。トオルたちも、一名を除きこの軍服を着用している。三つ目は、青が基調の軍服姿。総軍とは別の組織である宇宙艦隊に所属する軍人が着用している。四つ目は、作業着タイプの軍服姿。ベーシックな軍服よりも濃いグレーのズボンと開襟シャツに、濃紺色のジャンパーがベース。工兵が主に着用しているので、服のどこかしらに機械油などの汚れが付いている。動き易いので、まれにモビルスーツや戦闘機のパイロットも着用している。五つ目がそれ以外だが、中には私服姿の者もいて、おそらくは仕事を終えて帰路についている者だろう。あと、ジーナが着用しているニュータイプ研究所からの出向兵の軍服を着ている者もいる。連邦軍にしては珍しい、ブレザータイプのジャケットにネクタイ。基本形状は同じだが、研究所によってブレザーの色が違う。ネクタイは市販のものであれば何でもよい。これを着ている者はほとんどいないが、いるととにかく目立つので、目立つのが嫌いな者は私服を着ている。軍隊に所属している者が私服で勤務すると始末書ものだが、出向兵の場合は扱いがあいまいなので、咎められることはあまりないようだ。こうした人々の間を縫って、トオルたちは目的地の倉庫までたどり着いた。ガルダ型の巨大輸送機が楽々と入れそうな開口部から中に入り、適当な場所に輸送車とトレーラーを止める。しばらくすると、三人の軍人がやって来たので、トオルたちは降車して一か所に集まった。

「遠路はるばるお疲れ様です。私は総司令部付きの士官で、インベル大尉と申します」

 中肉中背の士官がトオルに敬礼を施す。見たところ30代半ばといったところか。トオルは、答礼を返しつつあたりを見渡した。

「出迎えありがとう。ところで総軍参謀長のチャン中将のお姿が見えないが」

「参謀長閣下は所用があり、お見えになりません。代わりに小官が承ります」

「はぁ?」

 いくらトオルの方が階級が上で、しかも場所が人けの少ない倉庫であったとしても、出すのは控えた方が良い声を、トオルは出してしまった。あわてて表情を取り繕う。

「217師団長のネト中将より、この機密は直接チャン中将閣下へ引き渡すようにと指示されている。貴官へ引き渡すことはできないので、至急チャン中将へお越し下さるよう取次ぎを願いたい」

「それは困りましたな。小官の立場では、直接参謀長閣下に伺いを立てることができかねます」

 なんだこいつは。言葉遣いは丁寧だが、こっちが年下だとみてバカにしていないか。いらだつ心を押さえつけ、トオルはインベル大尉を見据えた。

「こちらも命令を受けている以上、チャン中将に来ていただかなければ、帰ることができん。いくら時間がかかっても構わないので、何としてでも取り次ぎ願えないか」

「…仕方ありませんね。私の上司に問い合わせてみますので、そのままお待ち下さい」

 軽く敬礼したあと、インベル大尉は二人の部下を従えてこの場を離れた。インベル大尉の背中を睨みながら、トオルの胸の内に、もやもやしたものが湧きあがった。自分たちが運んできたものは、重要機密のはず。仮に参謀長に急用が入ったとしても、代わりに来る士官は、どんなに階級が低くとも将官以上のはず。それなのに、佐官どころか尉官が来るとは。何かがおかしい。しかし、その疑問を解決するには、今のトオルには材料がなさすぎた。

 再びインベル大尉が姿を現したのは、あれから20分後だった。何もないところで立ったままじっと待つのは結構苦痛だ。トオルのイライラは限界に近づきつつあった。

「上司に取次ぎを依頼しました」

 ついに敬礼もせず、インベル大尉はトオルに告げた。たったそれだけのことに、20分も待たせやがった。普通20分かけたら参謀長に話を通せないか?トオルの悪魔の心が天使の心に、こいつ殴っていいか、とせきたてる。天使の心が待ったをかけたので、トオルは震える手を自ら押さえつけた。

「あと、どれくらい待てばいいだろうか」

「分かりかねます」

「…ならば、車の中で待たせてもらってもいいだろうか」

「いいでしょう。連絡が入りましたら、そちらへ伺います」

 なんでこいつの許可をもらわなければならないんだ!ラモンは、トオルの顔が怒りで赤くなっていくのに気付いた。あわててトオルとインベルの間に入る。

「では、我々は車内で待機する。連絡が来たらすぐに来てくれ」

 ラモンの言葉に冷たい視線で答えると、インベルは踵を返して去っていった。トオルの雰囲気が只事でないので、トオルより年下の三人が輸送車に、トオルとラモンがトレーラーに乗り込んだ。トレーラーの助手席に座ると、トオルはラモンに、

「悪い。八つ当たりしていいか」

と律儀に前置きして、激情をぶちまけた。

「こっちは休みを割いて来てやっているというのに、何でこんな扱いを受けねばならんのだ。あんな三下をよこしやがって、チャンの野郎。一体何様なんだ」

「第三総軍の参謀長閣下でしょう」

「参謀長ごときが何だ。俺たち労働者様がいなければ、ただのジジイじゃないか。労働者様がいるから、偉そうにできるんだ。偉そうにできる礼を言いに来てもいいんじゃないか?」

「礼を言うつもりがあるかどうかは分かりませんが、無視はできないから、彼を寄越してきたのでしょう」

「あんな三下、無視しているも同じだ。このままだと一生、この倉庫から出られんかも知れんぞ」

 さすがにそれはないだろうと言いかけて、ラモンは止めた。トオルの言い分に一部だが理を感じたのだ。一生出られないことはないだろうが、確かに不自然だ。総軍の司令部は別の場所にあるとしても、ここには第一方面軍の司令部がある。チャン参謀長なら、第一方面軍の司令部を動かして、しかるべき人物をよこすことが可能なはずだ。それを、総軍司令部付とはいえ下士官をよこすとは、まともに応対しようとしていないのは明らかだ。タカハシ中佐が妥協しない限り、話は平行線を辿り、長期化する可能性は十分にある。

「とにかくだ。ニ時間待っても音沙汰がなければ、師団長に顛末を報告してこのままネメシスへ帰還する。全く、たまったもんじゃない!」

 トオルはダッシュボードに足を投げ出し、組んだ両手を後頭部へ回した。ラモンはトオルに

「分かりました、その旨を皆に伝えて参ります」

と告げて敬礼を施すと、トレーラーの運転席を離れて他の三人が乗る走行輸送車へと歩き出した。自分の子供くらいに若い上司に対し、ラモンは再び感心した。軍隊は、「行って死んで来い」という理不尽な命令がまかりとおる、世界で唯一の特殊な組織である。軍隊内の命令には絶大な力が宿っているので、軍隊に属する者には、命令を妄信的に信じる傾向がある。そのため、部下に対して、まるで王様にでもなった気分で命令を発する者も多く、また逆に、何の疑問も感じずに命令を受ける者も多い。今回のこの扱いに対しても、総軍参謀長の威光を借りたインベル大尉に、唯々諾々と従って機密を引き渡してしまったとしても、おかしなことではない。それにも関わらず、トオル中佐は、自らの立場と理論をもって堂々と反論を述べ、しかも今後の方針を瞬時に自ら立案した。こんな人物がもっと上に行けば、軍隊も捨てたものではなのになとラモンは思った。

 ラモンは装甲輸送車の後部座席に乗り込み、ジーナの隣に座った。前には運転席にカタリナが、助手席にはハムザがいる。

「中佐殿は、ここで2時間は待つとおっしゃられている。それまでこのまま待機だ」

「了解です」

 ラモンの言葉にカタリナが答えた。

「しかし一体、何でこんなことに。総軍と師団の意思疎通ができていなかったんでしょうか」

「うーむ」

 師団長とトオルが話している場に、ラモンは同席している。師団長の話し振りからすると、とても意思疎通ができていなかったとは思えなかった。ただ、師団長が聞き間違いをしていたのであれば、その限りではないが。ただ、チャン参謀長自身が受け取りに行けない場合についての取り決めといった大事なことを、果たして師団長が聞き漏らすだろうか。意思疎通はできていたと確信しているのだが、確証はない。

「でも、確かなことが一つだけあると思います」

「そいつはなんだい、お嬢さん」

 自分よりだいぶ年下の、まだあどけなさが残るジーナが、珍しくも口を開いたことに驚きつつも、少しは自分たちに馴染んできたことを喜ばしく思うハムザが、彼女に発言を促した。当のジーナは、少々照れた素振りを見せたが、堂々と自らの意見を述べた。

「私たちが持ってきたものは、参謀長にとって大事なものではないということです」

「……」

 一同皆押し黙ってしまった。薄々感じていたことを、明確な形で示されてしまった。自分たちがここまで運んできたものは、一体何なのか。トオルが怒ったのは、ひょっとしてそのことを悟ってしまったからだろうか。だからトオルは、待てる時間は2時間と区切ったのだろうか。

 四人がそれぞれ自らの思いにふけり、しばらくの沈黙が流れたが、長くはなかった。しばらくすると、自分たちのものとは異なる、複数の地上車のエンジン音が近づいてきた。そちらに目を遣ると、自分たちが乗ってきたようなトレーラーが1台と、それを護衛するように装甲車が3台、倉庫の中に入ってくるのが見えた。それらはラモンたちから離れた場所で停車すると、出迎えのため、倉庫の事務所からインベル大尉と三人の上級将校が姿を現した。

「あ、あれは…」

 ラモンには、三人の上級将校の一人に見覚えがあった。やや中年太りした、頭髪が薄く、そして遠めに見てもはっきりと分かる豊かなもみあげと、それに連なる口ひげ。第三総軍参謀長のチャン=ミンスク中将に間違いない。

「あっ、中佐!」

 トレーラーから降りて真っすぐチャン中将の元へと歩き出しているトオルの姿を確認し、装甲輸送車に乗る四人は、あわてて扉を開け、彼らの上司の後を追った。

「これは一体どういうことでしょうか、閣下。是非ご説明を頂きたい」

 トレーラーから降りてきた士官と握手を交わすチャン中将に、トオルは詰め寄った。表情を消しているが、鋭い視線を放つトオルを、まるで汚物を見るかのような目つきでチャン中将は眺め、

「何だ、ここまで来れたのか…」

と、独り言のようにつぶやくと、そのままインベル大尉に視線を移した。

「まだ彼らに、お帰りいただいていなかったのかね」

「はっ、申し訳ありません。閣下のご命令を伝えたのですが、従う気がないようでして」

 こいつ、トオル中佐とのやりとりを、意図的に捻じ曲げやがった。ラモンは殺気を放った視線をインベル大尉に向けた。その一方でトオルはインベルのことなど眼中にないようで、視線をチャン中将に固定したまま動かさない。トオルの視線がうるさくなった中将は、やれやれといったポーズをとった。

「君たち、察しが悪いね。これ以上私を煩わせないでくれないか」

「貴様ら、立場をわきまえんか!」

 参謀長の隣に控える強面の士官がトオルたちを怒鳴りつけた。襟の階級章を見たところ大佐らしい。あまりの迫力に、大佐の部下たちのほうがひきつっている。ところが、怒鳴られたトオルは、全く表情を変えずにチャンを見据えた。

「いいえ、ここは譲れません。でないと小官は、我々にご下命下さった第217師団長のネト中将閣下に復命することができません。お手を煩わせて申し訳ありませんが、是非参謀長閣下から、直々のご説明をいただきたい」

 ここまで理路整然と主張されたら、強面の大佐も黙ってしまった。あまりに冷静に言葉を紡ぐトオルの姿を見て、たったさっきまで怒り狂っていた人物と同一なのかとラモンは疑ってしまう。カタリナとハムザはというと、この場の緊迫感で凍り付いてしまっている。

「まったく。ネトさんも厄介な奴を選んだものだ…」

 チャンは独り言を言ったつもりだろうが、トオルには聞こえていた。厄介で悪かったな、でも厄介なのはお前のほうだとトオルは思ったが、そんな素振りは微塵も見せない。ひたすらチャンに鋭い視線を突き刺し、続きの言葉を発するよう無言で圧力をかける。結局、チャンのほうが根負けしてしまった。

「君らも薄々感じてはいると思うが、今ここに来たトレーラーに乗っているものが本物の機密だ。君らは叛乱分子を引きつけるための囮だったわけだ。見事に囮の役目を果たしてくれた。ご苦労さん。これでいいかな」

「お褒め下さり、ありがとうございます」

 チャンの声もトオルの声もセリフを棒読みしたかのようで、全く誠意のないものだった。あらかた予想はしていたが、チャンの態度があまりに冷淡で、トオル以外の三人は肩を落としてしまった。

「これで用件は済んだはずだ。インベル大尉、彼らにお帰り頂きたまえ」

「かしこまりました」

 インベル大尉は背筋をぴんと伸ばし、教科書に載っている手本のような敬礼をチャン中将に施した。そのインベル大尉は、チャンに対する恭しさとは正反対の態度でトオルの肩をつかむと、

「さあ、閣下のお言葉だ。さっさと荷物をまとめてネメシスへ帰るんだ」

と、およそ目上の者に対する言葉遣いとは思えない声を投げつけた。もはやインベル大尉のことなど目に入っていないトオルは、自らの手帳にボールペンで何やらメモをとっており、それをチャン中将に差し出した。

「すみませんが、これにサインをお願いできませんか」

「まだ私を煩わせるのか。いいかげんにしろ」

「そうおっしゃらずにお願いします。これが最後ですから」

 トオルに押し切られてチャンは、しぶしぶ手帳とボールペンを受け取って署名した。無言でトオルにつき返すと、そのままチャンはトオルに背を向けた。トオルは背中を向けるチャン中将に形ばかりの敬礼をしたあと、

「ご命令に従いネメシスへ帰還しますが、アシがないので乗って来たトレーラーと輸送車で帰ってよろしいでしょうか。あとお邪魔でしょうから、荷物も一緒に持って帰りたいのですが」

と尋ねたのだが、チャン中将はもはや相手をしたくないらしく、代わりに先ほどの大佐が答えた。

「好きにするがいい」

「ありがとうございます。それでは失礼します」

 インベル大尉に引きずられながら、もはや誰に対してか分からない敬礼をトオルは施した。

 トオルとインベルが、その場から離れていくので、トオルの部下たちも慌てて敬礼を施し、後を追う。すると、インベルがトオルに話しかける声が聞こえてきた。

「まったく、囮のくせに閣下のお手を患わせやがって。何で、おとなしく捕まってくれないかな。まぁ、名誉の戦死でも良かったけど」

「……」

 トオルは黙ったままだ。強者に媚びて弱者を踏みつける性格のインベル大尉は、上位者をいたぶれる快感に上気していた。更なる優越感に浸りたいからか、言わなくてもいいことをペラペラとしゃべり出す。

「この火星には、叛乱を企てる極悪人どもがいる。そいつらが、火星に配備されるローガンダムの強奪を企んでいる、という情報を掴んだ。そこで参謀長閣下は、ローガンダムがネメシスからウラノスに運び込まれるという、偽の情報を流した。やつらが、まんまとエサに食らい付いたことまでは分かったのだが、まさかここまで無事にたどり着けるとは、全く運のいい奴らだ」

「……」

「おまえたちは捨て駒だったんだ。まさか、自分たちが選ばれた者なんて、自惚れたりはしてないだろうな」

 トオルが黙ったままでいるのを見て、インベル大尉は下品な笑い声を上げた。自分よりも10歳近くも若いくせに、二つも階級が上のトオルのことが気に入らなかった。そのトオルを、チャン中将と一緒になって捨て駒のように扱えることに、インベル大尉は至極満足だった。ざまあみろ、調子に乗るからだ。ネメシスの片田舎に左遷された身のくせに、中佐であることを鼻にかけやがって。もっと落ち込め。落ち込んで、一生窓際でウジウジしていやがれ。

「殉職したら、二階級特進で准将閣下だったのに、もったいなか……」

“ったな!”とインベルは続けたかったが、できなかった。インベルの続きの言葉を妨害したのは、トオルでもラモンでもハムザでも、はたまたカタリナでもなかった。トオル同様の無表情を貫いていたジーナは、すすっと前に進み出ると、憎悪で醜く歪むインベルの顔面に、硬いこぶしをぶっ放したのだ。ジーナは強化人間なだけに、華奢な姿かたちからは想像もできない腕力を持っている。しかも、インベルはジーナに対して無警戒だったので、ジーナのパンチをまともに受け、それこそ文字通り吹き飛んでしまった。あまりに突拍子な出来事に、さすがのトオルも目を丸くした。ラモンもカタリナもハムザも驚きで声が出ない。殴られたインベルは、口にたまった血を吐き捨てると、鋭い視線でジーナを睨んだ。

「貴様。上官に向かってこんなことをして、ただで済むと思っているのか…」

「…根性が歪んだ大人を修正したまでだ。なにが悪い」

 ジーナの声は、絶対零度の冷たさでインベルを貫く。殴ったのは歪んだ大人であって上官ではないと言い放つ。

「貴様が軍人なら、たとえ年下であっても、上官であるタカハシ中佐殿に対して、そのような口は利かない。従って、貴様は軍人ではない。軍人ではない貴様を殴ったところで、私が罪に問われることはない」

「…貴様の顔は覚えたからな」

「私は忘れるけどな」

 インベルに冷たい一瞥をくれたジーナは、トオルの手を掴む。

「さぁ中佐。こんなところ、すぐに出て行きましょう」

「あ、あぁ」

 呆然とするトオルは、ジーナに引っ張られてトレーラーへと乗り込んだ。その姿を目で追っていた三人もあわてて、乗ってきた装甲輸送車に乗り込む。バックミラー越しに、インベル大尉のふらつく姿と、遠目にチャン中将たちが談笑している姿が目に入った。インベルが一人でいるところを見ると、インベルが殴られたことにチャン中将達は気付いていないようだ。トオルは奴らの存在全てを忘れたいので、バックミラーから隣の助手席に座るジーナに視線を移した。

「さぁ、俺たちの故郷へと帰るか」

 トオルは、トレーラーのエンジンをスタートさせると、シフトレバーとハンドルに手をやり、アクセルを踏み込んだ。トオルたちにとっての悪夢が、今終わろうとしていた。

 

 トレーラーの中は静寂に包まれていた。ジーナはもともと寡黙だし、トオルは一人考え事にふけっていた。トオルは今回のことに腹を立てていたが、それ以上に危機感を感じていた。インベル大尉が捨て台詞のように言った「捨て駒」は、あながち嘘ではないと思う。もしそうでないなら、囮であることを前もって伝えていてくれてもよさそうだ。トオルたちが成功しようとしまいと、極論を言ってしまえば生きていようと死んでいようと、どうでもよかったのではないか。ということは、軍の上層部は、トオルのこれ以上の昇進を望んでいないどころか、もしかしたら排除したいのかもしれない。そう考えると、トオルは自らの身の振り方に、思いを巡らさずにはいられなかった。

 トオルは、ジーナのことにも考えを向けた。助手席に座る彼女の横顔を見てると、この華奢で涼しげな表情をしている10代半ばの少女が、大の大人を殴り飛ばしたことなど、まるで夢でも見ているかのようだ。知り合ってまだ間もないので決め付けるわけにはいかないが、一見クールに見えるこの少女の体の奥底には、感情の嵐が吹き荒れているのかもしれない。ジーナのことについて、ラモンと相談したいなとトオルは思った。

「グリンカ伍長、ちょっといいかな」

「はい」

 ジーナの声は静かで、インベル大尉を圧倒した迫力は微塵もない。トオルは注意深く言葉を選ぶために、一つ間を置いた。

「私は前線勤めが長く、その道の知り合いがいないので、ニュータイプ研究所というものを良く知らない。どういうものか教えてもらえないだろうか」

「たとえ相手が立場のある士官であろうと、一兵卒の私が研究所のことをお話しすることは禁じられています」

「そうか…」

 当たり前だろうなとトオルは思う。ニュータイプ研究所は、今も変わらず連邦政府の最重要機密事項のままだ。たとえ断片的なものであろうと、内情が漏れたら大変なことになる。

「すまなかった。聞かなかったことにしてくれ。ただ、伍長のことを、ちょっと知りたかっただけなのだ」

「えっ、私のことですか」

 ジーナがまじまじとトオルの顔を覗き込む。表情を表に出さない彼女が、驚いた表情を見せたので、トオルは意外に感じた。

「別に深い意味はない。他人から自分のことを、聞かれたことはなかったのか」

「ニュータイプ研究所について尋ねられたことは、これまでに何度もありました」

「そうか。それは煩わしかっただろうな」

 このように言われて、ジーナがわずかに微笑んだようにトオルは感じた。

「研究所に入ったのは、いつなんだ」

「記憶にありません。研究員によれば、生後間もなくだったと聞いています」

 いつの時代にも孤児というものはいるものだ。ジーナにとっては研究所が家だった。八歳くらいまでは研究所内の保育施設にいて、ゆるやかな時間を過ごしていたらしい。とはいっても、四六時中、かけっこやら木登りやらで、毎日くたくたになっていたようだが。幼少期から、基礎体力だけは鍛えられていたのだなと、トオルは感じた。

「環境が急変したのは、10歳になる頃でした。朝から夜まで様々な訓練がスケジュールされていて、ほとんど休む暇がありませんでした。気が付くと一緒に育った仲間がかなり減っていたのですが、彼らがどこに行ってしまったのか、全く分かりません。あまりにつらいので、逃げ出すことも何度か考えたのですが、私に付いている教師たちが睨みを利かせていて、とてもその隙はありませんでした」

「その訓練がずっと続いたわけだ。で、軍に来たのは、いつ頃なんだ」

「一年前です。ようやく解放されるのかと期待したのですが、ただの出向のようで、三年後には研究所に戻されるそうです」

「研究所から出ることはできないのか」

「私がここまで成長するまでにかかった費用を弁済できたら、研究所を出て行ってもいいと言われています」

 研究所からジーナに提示された金額を聞いて、トオルは少々驚いた。トオルの予想より若干高かった。

「なるほど。ところで、今は過ごしやすいか?」

「そうですね。中佐の部下になれれば、文句はないのですが。今の部署はイマイチです」

「それは嬉しいね。機会があれば取り計らってもらおうかな」

 トオルはジーナが所属している研究所の名称と場所を聞き出すと、趣味があるのか尋ねてみた。

「趣味って何ですか?」

「うーん。それは人に教わるものではないな。機会があったら調べてみたらいい」

「分かりました。ところで中佐、気になったのですが」

「何だ?」

「私たちが運んだ機密ですが、どうしてもガラクタには見えないんです」

「……」

 ジーナの感想にトオルは答えなかった。ただ、窓越しに広がる荒野を見やる。もはやトオルには、自分が運んだものの正体に興味はなく、忌々しさだけが残った。遠目にウラノス=シティとは格段に小さい町のあかりが見えた。トオルたちのねぐらがあるネメシス=シティが、少しずつ近づいてきた。

 

 ネメシス=シティに到着したのは、夜中を過ぎていた。とりあえず、乗ってきたトレーラーと装甲輸送車を、基地の適当な場所に止め、トオル達は一旦散会して仮眠をとることにした。基地に帰還した日の13時には復命するよう師団長に命じられていたので、その前の11時にミーティングルームに集まるよう皆に指示を出すと、トオルは足早に自らの宿舎へ向かった。疲れていた。とにかく横になりたかった。サイド3での事件のあとに比べると肉体的には楽だが、精神的には結構参っていた。今回一緒になった四人は、皆いいやつらだ。それなのに、自分もろとも捨石のごとく扱われたことが許せなく、またそんな評価しかされていないことに落胆していた。そのため、疲れているにもかかわらずなかなか寝付くことができず、睡眠不足のまま翌朝を迎えた。

 トオルが時間通りにミーティングルームに入ると、他の四人はすでに入室しており、談笑にふけっていた。四人の表情を見る限り、意気消沈していたり、怒りに打ち震えたりしてはいないようで、トオルはほっとした。

「皆、仕事を持って忙しいにもかかわらず、集まってくれてありがとな」

「まぁ、これも仕事のうちですからね。師団長直々の命令で動いたことですから、うちの上司も快く送り出してくれました」」

と、トオルに対して明るい声で答えたのは、ハムザだった。

「よそ者の私の場合、どこにいようと誰も文句を言いません」

「まぁ、あれだけ派手に準備をしていたら、誰だって何かあったと思いますよ」

「事務所にいても退屈なだけですから、呼んでもらえて嬉しいですわ」

 と、ジーナ、ラモン、カタリナが続ける。打ち解けた雰囲気のまま、ウラノスへ行く準備をしていた時や、それぞれ車内にいた時についての雑談で数分を過ごしたあと、トオルがこう切り出した。

「ところで、これから師団長に会いに行くのだが、果たしてどこまで話をすればいいだろうか」

「別に、何も隠し立てしなくてもいいとは思いますが」

「それはどうかしら」

 適当に答えたハムザに、カタリナが眼鏡越しに冷たい視線を投げた。

「襲撃されたことはきちんと報告しないといけないと思うけど、ウラノスまで持って行った機密が、実はニセモノでした、って正直に言っていいのかしら」

「何故です」

「だって、私たち以外は皆、あれは本物だって信じているのよ。ニセモノだったことを師団長に伝える役目は、私たちではなくチャン中将だと思う」

「俺たちには荷が重いというわけですか」

「でも、そうとは言い切れん」

 ハムザとカタリナのやりとりに割り込んできたのはラモンだった。

「ウラノスで、チャン中将からの言質を中佐殿がメモにとっておられる。中将のサインも頂いているので、我々が報告しても問題はないはずだ」

「なるほど。何であんなことしたのか不思議だったが、こういうときのためだったのですか。ミノフスキー粒子発生装置を積み込んだり、軍事衛星起動ユニットを持ち込んだり、中佐殿の準備の良さには頭が下がりますわ」

 トオルに向かってハムザは両腕を広げてみせた。それに対してトオルは腕を組み、やや前のめりの姿勢を取って、ハムザを見やる。

「その起動ユニットを難なく使いこなして、敵の装甲車スレスレにメガ粒子砲をぶち込むハムザ少尉殿の腕にこそ、頭が下がるよ」

「…あのう。お互いを称え合っているように聞こえないのですが…」

「ジーナ、分かってきたんだな」

 ラモンがジーナの肩をポンと叩いた。ニヤッと笑って、こう続ける。

「でも、仲が悪いというわけではないぞ」

「えっ、そうなのですか?」

 ジーナが真面目に驚いている姿を見て、トオルは微笑ましくなった。ほんの数日、一緒に過ごしただけなのに、ジーナに表情が出てきたことが嬉しかった。

「少し話がそれてしまったが、私の結論からすると、今回起きたことは師団長に全て話してしまおうと思っている。そして報告には、デ=ラ=ゴーヤ大尉に同行してもらう。大尉、来てもらえるか」

「了解いたしました」

「では、ミーティングはここまでとしよう。みな、忙しいところ、時間をとってくれてありがとう」

「はっ」

 四人は起立してトオルに敬礼を施した。

 

「まったく、何てことをしてくれたんだ!」

 13時になったので、命令通りトオルがラモンを伴い師団長室に入ったのだが、入るなり師団長から怒声が飛んできた。

「チャン参謀長から連絡が入った。軍事衛星のメガ粒子砲を、誰の断りで発射したんだ」

「出発前に、閣下から裁量の自由を頂いたはずですが」

「あれは範囲外だ」

 トオルが畏まりもせずに平然としているので、師団長の怒りがヒートアップした。

「中佐は何を勘違いしているのか。軍事衛星に対する権限は、我が師団ではなく総軍に属している。そんなことも知らずに、よく作戦参謀が務まるな。着任してから今まで、一体何をしてきたのだ」

 トオルは事態を飲み込めなかった。自分は、師団長に復命するために来たはずだ。そのために、メンバーを集めてミーティングまでした。自分の報告に漏れがあったときのために、ラモンにも来てもらった。それなのに、報告をしようとする隙を、中将は一切与えてくれないばかりか、一方的にまくし立てるばかりだ。軍事衛星へアクセスする権限が総軍司令部にしかないのであれば、なぜ操作できる端末が師団司令部にあるのだ。おかしいではないか。任務が完遂されたことについて、賞賛されることは期待していないが、せめて労ってくれることくらいは期待していただけに、トオルの失望は大きかった。

「私の不徳であります。重ね重ねご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」

 師団長に対して頭を下げたトオルだが、その表情を見る限りとても反省しているようには見えない。トオルの態度が気に入らないのか、師団長のトオルに向ける視線は硬いままだ。トオルも師団長に慈悲を求める気はないようで、すぐに頭を上げると、何かを決意したような目で師団長を見据えた。

「結論を申し上げますと、我々がウラノスへ運んだ機密はニセモノだと、チャン参謀長から告げられました。受け取りも拒否されましたので、そのまま持って帰りました。なお、ウラノスへ向かっている道中に、一個分隊くらいの集団から襲撃を受けました。これは、先程お叱りを受けました軍事衛星を用いて撃退に成功しましたが、急なことで通信の傍受もできず、またウラノスへ一刻も早く向かうべきとの判断から、捕虜をとることもできなかったので、襲撃者の特定はできておりません。襲撃による当方の損害はありませんでした。ただ、チャン参謀長のお話を伺ったところ、我々は囮だったとのことなので、本来であれば、襲撃してきた集団に我々は拉致されるか、あるいはその凶弾に倒れて名誉の戦死を遂げてニセの機密を奪われるべきでした。それにもかかわらず、無傷で襲撃者を撃退しただけでなく、ニセの機密を守り抜くという大失態を犯してしまいました。また、無断で軍事衛星を利用したことについても、責任を強く痛感しております。そこで」

 トオルは制服の胸ポケットから一通の封書を取り出し、師団長の机の上に置いた。

「ご期待に沿えず戦死できなかった責任を取るため、職を辞したいと思います。今まで大変お世話になりました」

「ちょちょちょ、ちょっと待て!」

 さっきまでの威勢はどこへやら。師団長は狼狽しながら立ち上がった。

「何も、そこまですることはない。始末書の一つでも書いてくれればいいのだ。とりあえず今日はもういいから、これを持って帰って、少し頭を冷やすといい」

「いいえ。私が犯した過ちは、始末書などで責任を取ることはできません。どうかお納め下さいますようお願い致します。それでは、失礼致します」

 トオルの辞表を持ったまま力なく立っている師団長に敬礼すると、トオルは踵を返して師団長室をあとにした。急展開についていけなくなり呆然としていたラモンも、慌てて師団長に敬礼し、トオルの後を追った。

「突然何てことをおっしゃるんですか。一体いつ辞めるとお決めになったのです」

 師団長室の扉を丁重に閉めたラモンは、トオルに駆け寄って問い詰めた。当のトオルは晴れ晴れとした表情でラモンを見やった。

「だいぶ前から考えていたんだが、決定打は昨日の事件だな。辞表を書いて懐に入れていたんだが、出すか出さないかは、今日のネトのおっさんの態度で決めるつもりだった」

「そういうことですか。中佐殿のおっしゃるだいぶ前のことは分かりませんが、師団長があんなに態度を変える人だとは思いませんでした。お怒りになるのも無理ないです。たとえ軍をお辞めになったとしても、中佐殿はまだ若いからやり直しが効くでしょう。ところで、中佐殿には、次の仕事の当てはあるのですか」

「ない!」

「ええっ!」

 驚くラモンを尻目に、トオルは自らの事務室に向かって歩き出した。

「こっちに来て日が浅いんだ。当てなんか、あるわけがない。しばらくは、求人広告と職業安定所通いになるだろうさ」

「作戦に対しては用意周到なのに、ご自分の人生設計に対しては、いい加減なのですな」

「誰でも、自分のこととなると、客観視が難しいだろう。私だって例外じゃない」

 トオルは、振り返ってラモンに片眼を閉じて見せた。トオルの事務室は目前である。

「ところで大尉。今日の晩、体空いているか?」

「来るもの拒まず、が私の信条です」

「そうか。ちょいと相談がある。六時に私のところまで来てくれ。一緒にメシを食おう。できれば、グリンカ伍長を連れてきてほしいのだが」

「了解しました。では六時に」

 ラモンに軽く答礼すると、トオルは事務室の扉を開けて中へと入っていった。

 

 基地からタクシーで30分も走ると、ネメシスの繁華街である。ハムザが嘆いたように、ウラノスとは比較できないくらいこぢんまりとしている。怪しげなネオンや照明がまたたく店はまばらで、大半が小料理屋や全国チェーンのレストランで占められている。雑貨店や学習塾もあるので、日が暮れてまもない時間帯だと、今宵の一杯を求めてさまよう勤め人にまぎれて、子供たちの姿も見受けられる。その人混みの中に三人の人影があった。三人とも年齢性別がまちまちなので、学生のグループにも勤め人のグループにも、はたまた家族にも見えない。二人は、スラックスを穿いてジャケットを羽織っている無個性な服装をした、風采の上がらない男なのだが、一人が、上は白無地の半袖Tシャツと地味だが、下はすらりと引き締まった足が否応なく目立つホットパンツを穿き、頭には羽根飾りのついた茶色のカウボーイハットをかぶっており、帽子の下から覗かれる白皙の整った顔立ちと鋭いエメラルドグリーンの瞳が中性的に見えるハイティーンの若い女性なので、すれ違う人々の目を引き付けてしまう。

「アイドルのお忍びかしら」

 とすれ違った女子学生がささやいたことから、風采の上がらない二人の男はマネージャーかボディーガードと思われたようだ。彼女たちに、三人とも実は軍人だと教えてあげたら、きっと驚くに違いない。

 トオルとラモン、そしてジーナの三人は、いわゆる居酒屋と呼ばれている大衆向けの小料理屋に入った。店員に案内されて個室に入る。五~六人程度の個室を備えた居酒屋は、今や一般的になっており、あらゆるグループが利用している。トオルたちが入った個室の隣からも、笑いが入った話し声が聞こえてくる。備え付けの簡易なクローゼットに帽子やら上着やらを入れると、三人は適当な場所に腰を下ろした。

「あー、腹減った。今日の食堂の定食、うまくなかったなぁ」

「あれは、味が薄すぎますな」

 トオルに相槌を打ったラモンは、ジーナの方を向いた。

「上着も着ないで寒くないのか」

「これくらいが丁度いいです」

「元気がいいな。おじさんたちには羨ましい限りだ」

 ラモンの放った台詞のごく一部に、トオルは引っ掛かった。

「“たち”はないだろ、大尉。さりげなく私を仲間に引き込んだな。私はまだ20代だ」

「えっ。30代半ばくらいかと思っていましたが」

「そんなに老けて見えるかなぁ。ジーナ、どう思う」

 表情には出なかったが、トオルにファーストネームを呼ばれてジーナは驚いたようで、返事が一拍遅れた。

「中佐殿は、私と年齢が離れているので、よく分かりません」

「ふーむ。ならジーナから見て私は、お兄さん、おじさん、おじいさん、年下のどれ?」

「おじさんです」

「がーん。即答かよ。まだ20代なのに…」

 肩を落とすトオルを押しのけてラモンが乗り出してきた。

「なら、私はどれになる」

「おじいさんです」

「がーん。私だってまだ50代に入ったばかりなのに」

「50代だったら仕方ないだろう。孫がいてもおかしくない」

「そんなことはありませんよ。60代でもバリバリの現役いっぱいいます。そう言われる中佐も、20代後半なら子供がいてもおかしくないから、おじさんと言われても仕方ないでしょう」

「大尉、もうやめよう。互いの傷に塩をこすりつけ合っても痛いだけで、いいことはない」

 ノックの音に続いて店員が入って来て、コース料理の開始を告げるとともに飲み物のオーダーを取る。店員が退出してしばらく談笑が続き、コース料理の二皿目が出たところで、トオルがジーナに切り出した。

「ところで、ジーナ。ラモン大尉は知っているのだが、私は軍を辞めようと思っている」

「そうですか」

 口調も表情も淡々としたままフォークに刺したサラダを口へと運ぶジーナに、トオルは言葉をつづけた。

「軍を辞めたら退職金が出る。そこそこ出世できたから、金額もなかなかたいしたものだ。貯金を合わせれば、この前ジーナが話してくれた、研究所を出るための費用ぐらいは払えると思う」

「えっ!」

 めったなことでは崩れないジーナの目の色、表情が変わった。ラモンもジョッキを置いてトオルに向き直る。当のトオルは、ジョッキに残っていたビールを平らげると、ジーナの瞳を覗き込んだ。

「どうだ、ジーナ。軍を辞めて、普通の生活を送ってみる気はないか。勘違いしてもらったら困るが、お前に妙な気があるから言っているのではない。性別のことが気になるなら、住まいは別でも構わない。せっかくの貴重な青春時代を、軍なんかで過ごすのは、あまりにもったいない。お前は素直で賢い子だ。研究所や軍というせまい空間ではなく、もっと広い世界に出た方が、きっとお前の為になると思う。どうだ?」

「ちょっと待ってください、中佐!」

 トオルの言葉を、ラモンが遮った。

「軍を辞めた後のこと、考えてないのですよね。ご自分の生活がはっきりしていないのに、どうやってジーナを食わしてやるのですか?」

「まぁまぁ大尉。そんなに目くじら立てなくても…」

「嫌でも立ててしまいます。んんん!もうっ。あなたという人は。ほんとに!もう、こうなったら仕方ないですね」

「ん?」

「あなた一人なら退職金もあるし、お辞めになったあとのことは放っておこうと思っていたのですが、なけなしの金をジーナの為につぎ込んで無一文になるのなら仕方ないです。私に当てがあるので、仕事のことは任せて下さい」

「そうか、それは助かる」

「ただし、文句は言わないで下さいよ」

「もちろんだが、警備員の類だけはやめてくれよ。棍棒や銃といった武器の類は嫌いなんだ」

「今軍人している方が、何を言っているんです」

「分かった、分かった。文句は言わないよ。ところで」

 トオルはジーナに視線を移した。

「肝心の姫の意見が聞けていないのだが。どうだ。辞める気があるか?」

「…本当なのですか、本気なのですか」

 ジーナの瞳は潤んでいた。両手を口に当ててトオルをじっと見つめる。トオルは優しく微笑んだ。

「ここで知り合ったのも何かの縁だ。あとは、お前次第だ」

「…よろしくお願いします」

 か細い声を精一杯振り絞って、ジーナは答えた。トオルは力強く頷いた。

「分かった。あとは研究所がどう出るかだな。ところで、ラモン大尉」

「はい?」

「大尉は、その研究所というものについて、何か知らないか」

 トオルに尋ねられたラモンは、腕を組んだ。

「少しかじった程度なので、よく知りません。要は、研究所の誰と交渉すればいいか、ということでしょう」

「そうだ。だがそもそも、あれは一体何なのだ?」

「あそこはブラックボックスですからね。表向きは、生体科学研究所と名乗って、宇宙空間に対応できるヒトの体の研究を主なテーマとしています。しかも宇宙開発省の管轄下なので、中身がよく見えません。ニュータイプ研究所という俗称も、軍関係者くらいしか知らないはずですから」

「だよな。てっきり軍の管轄下にあると思っていたのだが、何で宇宙開発省なんだ」

「それも謎ですね。もともと、旧ジオン公国文化技術省の研究機関を、連邦軍が接収したのが始まりだったのですが、チャンドラ=ラオ長官が宇宙開発省に無理やり引っ張り込んだと聞いています」

「地球連邦政府の中興の祖だよな。彼がいなければ、人類社会が崩壊していたと言われている」

「ホー=フェイリン長官の後継者として辣腕を振るったラオ長官の発言権は絶大で、政府高官の誰もが、彼には逆らえなかったと言われています。実際、彼がいなければ、我々が今いる火星は、未だに居住不可能の不毛な惑星のままだったでしょうから」

「でも、ラオ長官の秘密主義は好きではないな。この火星が、どのようにして改造されたのか。不明な点が結構あるのだろう」

「そうですね。地球の半分以下の火星に、どうやって地球並みの重力を持たせることができたのか。一般報道向けには、木星の重金属を大量に火星の核に注ぎ込んだことになっていますが。巨大惑星である木星の核から、一体どうやって重金属を採取したのか」

「まっ、重力の謎については置いておくとして、ラオ長官の功績が立派過ぎるだけに、ラオ長官の真似をして、秘密主義をとる官僚どもが増えたと思う」

「それが研究所にも当てはまると」

「そういうこと。だいたい、研究所がどこにあるのかも知られていないよな。カドモス=シティの郊外だったよな」

「こまかい場所は、ジーナが知っているでしょう。それよりも、行って誰に会えばいいかということです」

「その点もジーナに教えてもらうしかないのだが、この前、ウラノスから帰る途中に研究所のことを聞こうとしたら、教えてくれなかった。どうだ、ジーナ。やっぱり教えてくれる気にはならないか」

 トオルに話を振られたジーナは、気まずい表情を作った。

「…研究所の連絡先、教えてもらってないんです。何かあったときは、機動大隊のバートン少佐が、研究所とやりとりするようになっているので。すみません…」

「そうか。ジーナが悪いわけじゃないから、謝ることはない。でも、バートンに、軍を辞めるついでにジーナを引き取りたいから、研究所の連絡先を教えてくれとは言いにくいなぁ」

「作戦参謀ともあろうものが、一介の伍長のことを研究所に問い合わせするのは変ですし、また、退役する人間に、政府の機密を教える馬鹿もいませんからな」

 このラモンの述懐に、トオルは相槌を打った。

「そういうこと。だが、アポもなく飛び込みで研究所へ行ったところで、追い返されるのがオチだからな。面倒をかけて申し訳ないが、当てを探す手伝いをしてもらえないかな」

「ジーナのことは、私も気になっていました。喜んでお手伝いしますよ。でも、トオル中佐も調べて下さいよ。あなたは、まだ現役の中佐なんです。アクセスできる範囲も、私よりも広いのですから」

「分かっていますよ、ラモンさん。私自身のことだから、誰かに丸投げしないように心がけるよ」

「…私にも、何かできることはありませんか?」

 申し訳なさそうにジーナが、恐る恐る尋ねてきたが、

「これは大人の問題だから、気にするな。お前は、新しい生活を夢見ていればいい。といっても、相手があっての話だから、話がポシャるかもしれない。まあとにかく、私たちに任せておけ」

と、トオルは取り合わなかった。丁度このときに三皿目の料理が運ばれてきた。

「面倒なことは、明日以降考えよう。折角の料理が冷めてはもったいない」

「賛成ですな」

 トオルの言葉にラモンもジーナも同調した。

 

 三人の夕食会の数日後、トオルはジーナを伴って、カドモス=シティに向かうべくネメシスの中央駅に来ていた。カドモス=シティは、ネメシスから南東方向へ500キロメートルほど離れたネメシス同様の中堅都市で、ネメシスとは幹線道路の他にリニアライナーで結ばれている。辞表が受理されたとはいっても退職日はまだ先なので、トオルは作戦参謀の立場を利用して、カドモス=シティでの職務上の用件を作った。その職務上、モビルスーツの若手パイロットが必要ということにして、ジーナを連れてきたのである。二人は、カドモス=シティで一泊する予定にしていた。

 駅は、何の特徴もないシンプルな作りの白っぽい建物で、これもまたどこにでもありそうな駅ビルが付帯している。駅の入り口には、バスの停留所、適度な植栽と噴水がある。行き交う人の服装もまちまちなのだが、連邦軍士官の制服姿のトオルと、ニュータイプ研究所からの出向兵の制服姿のジーナは、何の変哲もない光景の中で異彩を放っていた。警察官や軍人というものに対して、人というものは、イベントといった特殊な場所であれば写真を撮ったり握手を求めたりするが、駅などといった通常の場所においては、特にやましいことがないにもかかわらず避ける傾向にある。動物園にいる猛獣には興味を示すが、サバンナをうろつく野生の猛獣には逃げようとするようなものかと、トオルは思った。

 二人は、中央口からリニアライナーの改札を目指した。二人とも連邦軍の所属証をもっているので、それを使えば改札はフリーパスである。エスカレータに乗って改札の上にあるプラットホームに出た。

「カドモスまで一時間くらいだな。本でも読んで時間つぶすか。ところでジーナは、何か暇つぶしのための小道具を持って来ているのかい」

 トオルは伸びをしながら何気なくジーナを見やったのだが、当のジーナは直立姿勢のまま、

「何もありません」

 と抑揚のない声で答えるだけだった。張りつめた空気をまき散らすジーナの姿に、トオルはため息をついた。

「今日は私と二人だけだと言ったよな。何をそんなに肩肘張ってるんだ」

「今は任務中であります。中佐殿を前にしてくつろぐなど、そんな失礼な真似はできません」

「任務はあくまで建前だ。本当の用件は知っているのだろう」

「了解しております」

「だったら、そんな言葉遣いや態度をしなくてもいいんじゃないか」

「そんな訳には参りません。中佐殿と私とでは年齢も階級も大きく違います」

「うーん。じゃあ…」

 トオルは自分のカバンの口を開けて手を突っ込んだ。中から一冊の本を取り出す。

「電車に乗ったら、これ読んどいて」

 旧世紀からある紙製のハードカバーの本である。書店の名前が入ったハトロン紙のブックカバーが付いている。

「これは軍事教本か何かですか」

 ジーナは、両手で差し出された本を受け取りつつトオルに尋ねる。トオルはニヤッと笑った。

「人生の軍事教本かな。別に軍人でなくとも、人は戦っていかねばならない。読んだら感想を聞かせてくれ」

「了解いたしました」

 本をショルダーバッグにしまうと、ジーナは敬礼を施した。丁度そのとき、六両編成のリニアカーが、プラットホームに進入してきた。

「しかし、研究所というのも不思議な組織だなあ。コンタクトを取ろうと、火星開発庁に問い合わせしてみたんだが、あ、火星開発庁とは、宇宙開発省の火星の出先機関なんだが、その火星開発庁には、研究所を監理する部署がないんだ」

「そうですか」

 トオルの言葉に、ジーナはありきたりな相槌を打つ。10代の少女が行政組織の細部を知っているはずがない。というより興味もないことだ。ジーナが話を聞いていないことに気付かない訳ではないが、トオルは話を続ける。

「研究所は本省直属なので地球へ行って下さいと言われてしまった。まいったよ。地球に問い合わせて、電話じゃダメだから地球まで来てくださいなんて言われても困るし」

 進入してきたリニアカーが止まり、トオルたちの前にある乗降口の扉が開く。中から乗客が数名降りてきた。スーツ姿の男女と私服姿の女性だけで、制服姿の者はいない。皆が降車したのを見計らって、トオルたちはリニアカーに乗り込んだ。二人とも指定席を予約してある。手に持っている座席予約券を見て座席番号を確認し、座るべき場所を探す。車内は全て前向きの左右二列シートになっている。トオルたちは進行方向を向いて右側の列のシートだった。上部のラックに手荷物を入れ、窓側にジーナを座らせ、通路側に自らも座ると、トオルは缶コーヒーの栓を開けて、二口すすった。

「うーん、やはりコーヒーはいいなあ。疲れた心に染み渡るこのほろ苦さ。コーヒーを発明した人は天才だ」

「そうですか」

「ところでジーナは飲み物を用意してないのかい」

「ありますよ」

 ジーナは足元に置いてある自らのショルダーバッグの中から、ラベルの付いていないペットボトルを取り出した。

「特製スポーツドリンクです。製法は秘密です」

「研究所の特製品か?」

「そうです。飲んでみますか」

「いいねえ。是非頂戴しようか」

 ジーナからペットボトルを受取り、蓋を開ける。甘酸っぱい中に草の匂いか何かが混じった妙な匂いがしたが、気にせず一口飲んでみる。全般的に味は薄いのだが、甘いのやら酸っぱいのやら苦いのやら、よく分からない味がした。だが、

「うーん。よく分からん変な味がするなあ。でも」

 と言ってトオルはもう二口ほど飲む。味わいながらトオルは何か得心したような面持ちでペットボトルを眺めた。

「何だか癖になりそうな味だな。これ、製品化したら売れるかもしれんぞ」

「そうですか」

「ジーナは、そうは思わないんか」

「昔から当たり前のように飲んできましたから。おいしいとも何とも思ったことないです」

「そうか」

 トオルはジーナ越しに、車窓に映る風景を見やった。いつの間にか発車していたようで、ネメシス=シティの郊外まで来たようだ。一軒家がちらほら。コケ類と岩だらけの荒野が見えだしていた。

「まぁ、それは置いといて。そういやどこまで話したっけ。そうだ。地球に問い合わせするように言われたところまでだったかな」

「そうですか」

「そうそう。それで、ネットを使って研究所の表の名前である生体科学研究所を調べてみたら、火星の出先機関の一覧表が載っててね。そこに、カドモスの研究所の代表番号も書いてあった。代表番号に電話したところで、相手になんかしてくれないだろうと思ったけど、他に方法がないから、ダメもとで電話してみたんだ」

「そうですか」

「私の職名を名乗ったら、担当に代わりますとすぐに応対してくれてね。担当者も、私の都合のいい日に来てくれて構わないと言ってくれたんだ。トントン拍子で話が進んだから、ビックリしてしまったよ」

「そうですか」

「って、ジーナ。お前さっきから『そうですか』ばっかりじゃないか。私の苦労に少しは感動してくれたっていいだろう」

「とてもありがたいことだと感謝しております。ですが中佐殿。言葉を区切られるたびに、『感謝申し上げます』と頭を下げるのは、先程おっしゃられた『くだけるように』というご指示に反すると思うのですが」

「まぁ、そうなんだけどなぁ。さっきから表情が変わらないから、うれしくないのかなと勘ぐってしまったんだよ」

「うれしいのは、うれしいのですが…」

 ここで、ジーナが照れくさそうな表情をしてうつむいてしまった。トオルは怪訝そうにジーナを伺った。

「どうした」

「…はっきり申し上げますと、緊張しています。こんなことは初めてです」

「ほう。そうなのか」

 トオルはニヤッと笑った。

「ウラノスで鉄拳ぶちかます子でも緊張するんだな。けっこう、けっこう」

「もう、茶化さないでください」

 頬を赤くしてふくれたジーナが、じーっとトオルをにらんだ。くくくっと笑ってトオルはジーナに振り向いた。

「まぁ大丈夫だ。そんなに気になるなら、本でも読んで気を紛らわすことだな」

「分かりました。おっしゃる通りにします」

 そう言うとジーナはカバンから、先程トオルから手渡された本を取り出した。この子を軍隊の枠内に閉じ込めておくのは、やはりもったいないと、トオルは改めて思ったのだった。

 

 カドモス=シティに到着すると、トオルはジーナを伴ってカドモスの連邦軍駐屯基地へと向かった。トオルは連邦軍の中佐なので、迎えを寄越すこともできるのだが、今回は非公式の打診ということにしているので、流しのタクシーを捕まえて基地へと向かった。カドモスには、ネメシスの他に三つの都市に駐留する連邦軍を統括する第17方面軍の司令部がある。と言っても、第1方面軍のアキレウス駐屯基地のように大きなものではなく、どちらかというと、ネメシスの駐屯基地と似たり寄ったりの規模だ。トオルが作った用事は、第17方面軍との非常時の連携についての打合せで、特にモビルスーツ隊の共同作戦についての詰めの作業を重点的に行うことにしていた。若手の搭乗員の意見を取り入れようということになった、というよりトオルがそうなるように話を仕向けたので、ジーナを連れてきたのである。方面軍の先任参謀と作戦参謀、そしてカドモスに駐留する第一八八師団から作戦参謀と若手のパイロットが同席する予定である。

 カドモス中央駅からタクシーで20分。カドモス駐屯基地に到着した。司令部ビルには方面軍司令部も入っているので、ネメシス駐屯基地に比べて大きく、5階建てになっている。正面玄関も広くとられており、入ってすぐに受付がある。トオルはジーナを伴い、受付にいる女性に声をかけた。

「ネメシスに駐留している第217師団司令部作戦参謀のタカハシです。方面軍先任参謀のシンクレア大佐をお願いしたいのですが」

「タカハシ中佐様ですね。お伺いしております。係りの者を呼びますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」

 トオルは受付の女性に会釈すると、2セットある応接セットのうち、受付に近い方の長椅子に腰掛けた。ジーナが隣に座る。広い玄関の所々に鉢植えの植栽が置いてある。壁のほとんどがガラス張りなので、外の光が存分に入るのが心地いい。ネメシスの司令部ビルも、このような作りだったらいいのになと、トオルはうらやましく思った。

 5分もしないうちに、一人の青年士官がやって来た。くすんだブロンドの金髪を短く刈り込んだ、すっきりとした顔立ちをした背の高い士官である。青い瞳の鋭さから、自らの才覚に自信があることを窺わせる。年齢は20代前半くらいか。襟についている階級章を見ると、彼は中尉のようである。その青年士官がトオルの方に向かってきたので、トオルとジーナは立ち上がった。

「お初にお目にかかります。私は方面軍司令部付のレオン=バネッタと申します。217師団のタカハシ中佐でしょうか」

「いかにも、私がタカハシだ」

 トオルが名乗ると、バネッタ中尉は驚きの表情をして敬礼した。

「これは失礼しました。シンクレア大佐ほか、皆様がお待ちしていますので、会議室までご案内します」

 バネッタ中尉の案内を受けて、トオルとジーナは司令部の奥へと入っていった。

 

 第17方面軍と第188師団のメンバーとの打ち合わせは、夕方まで続いた。机上演習やら装備の確認やら何やら行ったのだが、それでも話がまとまらなかったので、翌日に持ち越しということで、その場は散会した。

「やれやれ。ついでのつもりだったのに、えらく手間が掛かったなぁ」

 ジーナと一緒に乗り込んだタクシーの中で、トオルはつぶやいた。タクシーの目的地は、カドモス生体科学研究所である。俗称カドモス研。トオルの中では、このカドモス研に行くことが本来の目的であった。トオルが事前に得ている情報といえば、ネット上に公開されている施設紹介と、周辺の地図くらいである。施設は、カドモス=シティの南東端にあるフィアナ総合大学の中にある。フィアナ総合大学は、大学だけでなく、新生児から6歳児までを預かる保育施設、7歳~11歳までの初等教育施設、12歳から15歳までの中等教育施設、16歳から18歳までの高等教育施設も併設されている巨大な教育機関で、敷地面積はカドモス駐屯基地の四倍以上に達する。そのフィアナ大の片隅に、カドモス研がある。大学の正門に警備員が立っているが、検問はない。そのまま案内板の通りに右に曲がり左に曲がっていくうちに、研究所に近づいてきた。研究所は、人目に付かないようにするためか、火星では珍しく森の中に建っていた。鳥も放されていて、ちょっとしたリゾート地のようである。トオルはずっと外の風景を眺めていたのだが、研究所の建物が見えてきたので、ふっとジーナの方を振り向くと、彼女は両こぶしを握り締めて下をじっと見ていた。緊張しているにしては様子が変だと、トオルは思った。

「どうした。気が進まないのか」

 トオルの問いかけにも、ジーナはすぐに答えなかった。

「…こわいです」

「…」

 ジーナの真意がトオルには分からない。でも、こんな状態のジーナを連れて行っても仕方がない。ついさっきまで研究所を辞めたがっていたのだから、気が変わったとは思えない。

「まあいい。気持ちが落ち着くまで、タクシーで待っていなさい。無理してまで、一緒に来る必要はないよ」

「…ありがとうございます」

 タクシーは程なく、キャノピーを備えた大きな車寄せに進入した。正面玄関の前で停止すると、タクシーの扉が開く。トオルだけが降車して、タクシーは来客駐車場へと向かった。一人降りたトオルは、ガラス製の全自動扉を開けて中に入り、受付を目指す。受付には誰もおらず、電話機が置いてあるだけだ。トオルは受話器を取り、そばに置いてある内線表に書かれた番号をダイヤルした。

「第217師団のタカハシです。マキノ博士をお願いしたいのですが」

「マキノですね。しばらくお待ちください」

 女性の声で手短に返答されると、トオルは受話器を置いた。

 程なくして、白衣を着た女性が現れた。すらっとしていて、身長はトオルと同じくらい。腰まである長い髪を無造作に束ねている40代半ばくらいの女性で、顔立ちは整っており、若い頃は衆目を集める存在であっただろうと思われる。ただ、疲労が濃いせいか顔に生気がない。よほどあわてていたのか、呼吸が乱れていた。

「遠いところ、ようこそおいで下さいました。私がマキノです。ジーナの教育訓練を担当しておりました。宜しくお願いします。所長も是非ご挨拶したいと申しておりまして、部屋で中佐殿をお待ちしております。ご案内致しますので、こちらへおいで下さい」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 トオルも挨拶を返したが、このマキノという女性のおどおどとした表情と声が気になった。ニュータイプ研究所と軍は密接につながっているのだから、軍人には慣れているはずだ。なのに、何故こんなに緊張しているのか。不思議に思ったが、そんな気持ちは横に置いておくことにして、トオルはマキノ博士に案内され、応接室に入った。応接室は、マホガニー製と思われる木材で壁面が覆われており、大きな窓の向こうには、きれいに手入れされた庭が広がっている。大きな風景画が掛けられており、キャビネットや机は紫檀製。間違いなく、この研究所の中で最も高級な応接室であろう。軍人であれば将官クラスが通されるような場所に、何故中佐ごときの自分が通されたのか、トオルは狐に化かされた気分になった。しかも、トオルが入室してきた時には、既に所長らしき人物だけでなく、幹部らしき二名の人物がすでに待機していた。トオルが入室してくると同時に、三人は勢いよく立ち上がり、トオルに向かって深々と頭を下げた。50代半ばくらいの、年齢を感じさせない豊かな黒髪をオールバックにし、手入れの行き届いた口ひげと堂々とした体格、品のあるネクタイと、おそらく特注の白衣が自らの存在を引き立たせている男性が、ややトオルを見上げるようにして、口を開いた。

「このたびは大変お忙しいところをお越し下さいまして、ありがとうございます。私が所長のカーロイです。このたびは、弊所のグリンカが多大なるご迷惑をおかけしたとのことで、研究所を代表してお詫び申し上げます」

「???」

 トオルは面食らった。何のことかさっぱり分からなかった。勧められるままに、トオルは上座のソファに腰を掛けた。トオルの着席を確認すると、カーロイと名乗った所長、そして二人の人物も、所長を挟んで腰掛ける。マキノ博士は、入り口のそばに立ったままである。相手から情報を引き出したいので、驚きの表情を完全に隠してトオルは無言を貫く。しばらく沈黙が流れると、カーロイ所長は、トオルが怒っているものと勝手に勘違いし、ぺらぺらと話し出した。

「弊所は常日頃、生徒に対し、軍隊というものについて及び軍隊内での上下関係について、十分な教育をしております。ただ、グリンカの生来の気の強さには、我々もほとほと手を焼いておりまして。まさか、士官の方を殴り飛ばすとは。我々の手落ちとおっしゃられても、返す言葉もございません」

 なるほど。ジーナがインベル大尉を殴り飛ばしたことが、問題となったわけだ。軍がクレームをつけにやって来た。と彼らは思ったのだろう。所長をはじめとした皆の、戦々恐々とした態度に、トオルはようやく合点がいった。と同時に、この場に、ジーナを連れてこなかった偶然にも感謝した。もしジーナがいたら、この場にいる研究所の面々に、さんざんなじられたであろうことが容易に想像できた。

「つきましては、グリンカには再教育を施したいと思います。もちろん、代わりの者もすぐに手配したいと思います。グリンカの指導教官も変更致します。今回のことは、どうかそれで穏便に済ませてもらうことができないでしょうか」

 深々と頭を下げた所長が、トオルに会話のバトンを渡した。当のトオルは、腕を組んだまま、もっともらしい表情を作っている。トオルがスムーズに研究所の面々に会うことができたのは、事を荒立てたくないという研究所側の意図があった訳だ。ラモン大尉が先日、トオルが現役の中佐なのでアクセスできる範囲が広い、と言っていたことを思い出した。なるほど、トオルが作戦参謀中佐という高級軍人でなければ、きっと研究所も会ってはくれなかっただろう。だがこの時のトオルは、自分の階級に感謝する以上に、所長が放った言葉に引っかかった。

「再教育とは、具体的にどのようなことをされるのですか」

 トオルのこの問いかけに、カーロイ所長は、一瞬だけだが意外そうな表情をした。そして左隣にいる人物に顔を向け、ニ、三言小声で何か話しかける。話を受けた人物がトオルに視線を向けた。

「教育プログラムの担当主幹を務めております、エテマジと申します。今回考えております再教育プランですが、グリンカ生来の気性に由来するトラブルですので、抜本的な治療から入りたいと考えております。催眠療法、投薬、脳波矯正処置を施し、ことの善悪を最初から教育し直します」

「はぁ?」

 なんじゃそりゃあ!と続けて出て来そうになった言葉を、トオルは慌てて飲み込んだ。それでも居並ぶ四人には、十分過ぎるほどの圧力がかかったみたいであった。

「中佐殿には生ぬるく感じるかもしれませんが、この再教育プランでグリンカの性格は改善されると考えております。グリンカは未成年ですので、罰を与えるということだけは、平にご容赦願いたいのですが」

 エテマジ博士の言葉に合わせて四人が再び頭を下げる。もう勘違いにも程がある。トオルは組んだ腕を解き、姿勢を正して所長に問いかけた。

「再教育については分かりました。カーロイ所長、ひとつ尋ねたいのですが、今回のグリンカ伍長の件について、軍のどこから連絡が入ったのでしょうか」

「と、おっしゃいますと?」

「今回の件が、我が第217師団から連絡が入ったのか、確認したいのですが」

 カーロイ所長は、今度は右側の人物に顔を向けた。この人物が所長の代わりにトオルに答える。

「この研究所で総務を預かります、ジャンメールと申します。今回の件ですが、アキレウス基地の第55師団から連絡が入ったと記録されています」

「第55師団の誰からですか」

「師団司令部名義というだけで、どなたかは分かりません。着番号通知を確認致しましたので、この連絡が司令部からであることは間違いありません」

「そうですか」

 トオルは腕を組んで、一呼吸置いた。

「グリンカ伍長が、第1方面軍のどこかに所属するインベル大尉という士官を、殴り飛ばしたのは事実です」

 このトオルの言葉を受けた居並ぶ四人は、それぞれ落胆の色を示した。トオルは四人の表情を確認し、言葉を続けた。

「ですが、グリンカ伍長が起こした行為は、インベル大尉が上位者である私に対し、暴言を吐き続けたことが原因で発生したものです。インベル大尉の素行に問題があったのですが、いずれにしろ伍長が大尉を殴ることは問題なので、グリンカ伍長に対する処分を第217師団のネト司令官と話し合った結果、譴責で済ませるということに決定しました。そしてその処分は、すでに完了しております」

「えっ!」

 異口同音で同時に四人が声を上げた。そんなことはお構い無しにトオルは続ける。

「この件は、既に解決しております。グリンカ伍長は、第17方面軍第217師団の所属です。第1方面軍第55師団と、師団どころか方面軍まで違う司令部から、とやかく言われる筋合いはありません。もし今後、第55師団司令部からこの件について話がありましたら、第217師団司令部に話を通すようにおっしゃって下さい。以後のことは、我々が対処致します」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

 カーロイ所長がトオルに深々と頭を下げた。でも、これで終わりではなかった。トオルの視線は、依然厳しいままであった。

「ところで、ジャンメールさん。あなたは総務を担当しているとのことですが、グリンカ伍長の所属が、軍のどこであるか、きちんと把握しておられたのですか?」

「えっ、そ、それは…」

「もし把握できていたのであれば、第55師団からクレームが入ったとしても、門前払いにすることができたのではありませんか。そして、何故このようなクレームが入ったことを、我が二一七師団に連絡してこられなかったのですか」

「…」

「ところでジャンメールさんは、元々どういったお仕事をされていたのですか」

 トオルに詰問されて俯いてしまったジャンメールに代わり、所長が答えた。

「ジャンメール博士も、元は研究員です。総務課の仕事は数名の研究員が兼任で執り行っております」

「…」

 トオルは思わず天を仰いだ。理系尊重文系蔑視の流れがここまで来たかとトオルは嘆いた。研究所は、研究員がいてこそ成り立つ。それはそうかもしれないが、研究員だけでは研究所は絶対成り立たない。ある製薬会社があった。その製薬会社は、他社より優れた薬品を開発するため、優秀な研究員の確保と最新の機材の購入に資金を回すことにした。この会社の販売は堅調だったが、余剰資金がないので、資金を捻出するために販売管理費すなわち販売にかかるコストを削減することにした。削減の方法として、販売専任の職員を削減して研究員に販売を兼任させ、交際費も削減した。よい薬品であれば誰が売っても売れる。しかも研究員であれば薬品の特性を熟知しているので、顧客に丁寧な説明ができるというのが理由だった。研究開発費を増やして他社より優れた薬品ができ、顧客へのフォローもよくなるので、会社の実績は更に上がるものと、当時の経営陣は一石二鳥を確信していたのだが、結果は真逆で、倒産寸前にまで追い込まれた。何故か。研究員は販売に関しは素人なので、顧客に対するフォローが全くできなかった。顧客の要求に対してとんちんかんな回答をするので、満足を与えるどころか不満ばかりを与えていった。その結果、少々品質が劣っても他社の薬品で構わないということで、上得意のリピーターまでもが他社製品に切り替えてしまった。すなわちコミュニケーションの不足。そして、販売に関して素人の研究員が、顧客の要望を十分捉える事が出来なかったため、全く需要のないものについての薬品研究が進められ、結果新薬が全く売れずに不良在庫が累積し、赤字が蓄積されていった。すなわち情報収集及び分析の不足、などが主な理由である。当時の経営陣は全員が解任され、もとの経営方針に戻されたのだが、流出してしまった当時の優秀な販売員の穴埋めは容易ではなく、今でも苦しい経営が続いているという。要は、製薬会社だから薬品を作る優秀な研究員がいればいいわけではなく、それを販売するための人員、会社を運営するための人員も、研究員同様に重要なのである。それなのに、理系偏重主義が蔓延して経営陣が理系で埋め尽くされると、販売や庶務といった文系の部署を軽視する傾向が顕著になる。数字は絶対だと言う。数学の世界では1+1は絶対に2である。だが、人間社会は必ずしも1+1は2にはならない。それが分からない人が多い。このカドモス研にも同じことが言える。総務といえば、法律や規則というものに精通している必要がある。もし精通していれば、ジーナの所属する第217師団ではなく方面軍すらも違う第55師団からのクレームに対し、真っ正直に受け取らず、第217師団に連絡を取って確認を取るのが当たり前だと分かるはずだ。総務なんて大した仕事でないから、法律や規則に疎い研究員であるジャンメール博士に任せても大丈夫だと上が判断するから、こういう初歩的な間違いを犯して、大した問題でないことも大火事にしてしまうのだ。

 トオルが感じている問題点はそれだけでなかった。次にトオルの厳しい視線はエテマジ博士に向けられた。

「それからエテマジさん。あなたは今回の件について、グリンカ伍長が一方的に悪いと決めつけていましたね。私の説明を受けて、今どのように思われていますか」

「そ、それは…。やはりグリンカの峻烈な性格には問題があるので、養育の必要性は残されているものと…」

「やはり、薬物を用いた性格矯正は必要だと」

「はぁ、まぁ」

 エテマジ博士の曖昧な返事にトオルはついに堪忍袋の緒を切らし、右こぶしを強く握って振り上げ、目前の机を思い切り叩いた。

「人体に多大な悪影響を及ぼす薬物療法を用いるのに、その適当な態度はなんだ!あなた方は、未成年のジーナのことをどう思っているのか。ただの実験動物か?違うだろう!彼女はれっきとした人間だ。しかも未成年だ。大学の敷地内に居を構えているのなら、何故教育者らしく、未成年を守ろうとしないのだ。いい大人なのだから、妙な保身に走ったりするな!」

 トオルの怒号に、トオルよりはるかに年長の四人が皆すくみ上がった。四人とも視線も肩も落としている。高級応接室はしんと静まり返った。トオルは怒っていた。人間社会は弱肉強食だ。嫌なこと、特に悪いことが起きた責任は、ほぼ百パーセントと言っていいほど上位者ではなく、下位の力のない者に向かう。命令した者が責任を負わずにこの世の春を謳歌し、命令された者が罰を受けることなど日常茶飯事だ。だが、それはおかしい。強者が富を独占したり、弱者に責任を押し付けたりするのはおかしい。弱肉強食は人間社会に活気と発展を促すが、行き過ぎてはならないのだ。弱肉強食のバランスをとるために、様々な法律や規則が整備され、その規範に基づく道徳心が教育され、今の人間社会がある。特に、弱い立場の子供たちは、将来を担う大切な存在なのだから、大切にされなければならないはずだ。それなのに、この事件の責任を、未成年のジーナ一人に負わせて終わりにしようとするエテマジ博士の行為は、断じて許せなかった。

 トオルの怒りの矛先は、カーロイ所長にも向いた。

「そして所長。この問題を何故周到に調査せず、なぜグリンカ伍長一人の責任問題に矮小化してしまったのです。グリンカ伍長を再教育して済む問題ではありません。この件について所長は、研究所としてどのようにお考えか」

 すくみ上がってしまっている所長は、すぐに返答できなかった。時計の秒針が百回も音をたてていないにもかかわらず、何時間も過ぎているように感じた。トオルの見解に異を唱えることは、もはや不可能だった。

「…ことの重大性を、深く認識しております」

 こう答えるのがやっとだった。もはやトオルと目を合わそうともしない。所長の返答にトオルは不満だったが、これ以上の追及はできないとも感じていた。この件に関する抜本的な問題は、所長ではなくもっと上に起因しているからだ。

「分かりました。この件についての研究所としての見解は、のちほど文書で頂けるものと期待しています。ところで、私から提案があるのですが」

「…何でしょうか」

 上目遣いで所長はトオルを見た。トオルはソファの背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。

「ジーナの身柄を私が預かりたい。研究所としてそれを承認してもらいたいのだが」

「…!」

 叱責されて俯いていた四人の目が、一斉にトオルに向いた。さすがの所長も、目を大きく見開いて、しわ枯れた声を出す。

「そ、それはあまりにも前代未聞のことで。一般の方が、強化人間を引き取るなど…」

「何の事情も鑑みずに薬物療法に踏み切る方々が、よくもまあそんなことを言う」

「…」

「もちろん、私は素人だから、定期的にそちらと連絡を取り合う。そっちとしても、問題児がいなくなるので、願ったり叶ったりではないか」

 この場の主導権は、完全にトオルが握っている。よほどのことでもない限り、所長はトオルの要望を断ることができなかった。

「タカハシ中佐殿であれば、軍の方なので身元にも問題ないと思います。分かりました。中佐殿のご意向に沿うよう、研究所としても進めていきたいと思います。ですから、今回のことについては」

「分かっている。他言はしない」

「ありがとうございます。できましたら、これからもご指導、ご鞭撻を賜りますよう宜しくお願い致します」

 四人一斉、トオルに頭を下げた。相変わらず保身に気を遣う所長の態度が気にくわなかったが、ジーナの身元引受という問題をクリアできたことに満足するか、とトオルは自分を納得させることにした。既に日は沈み、夜の帳が広がり出していた。

 

 ジーナの戸籍異動など書類上の手続きが必要なので、後日改めて研究所まで来てほしいと要望されたトオルは、一旦研究所を後にすることになった。マキノ博士に案内されて応接室を出たトオルは、頭を掻いた。

「まだ若輩の身でありながら、出過ぎた真似をしたようで」

「いえ。とんでもありません」

 廊下を歩きながら、マキノ博士が返した。先程まで高圧的だった人物とは思えない低姿勢な言葉遣いをするトオルに、戸惑いを感じているようである。

「私たちに、教育者としての側面が欠落していたのは事実です。糾弾されても仕方がありません。研究所は、機構の目ばかりを気にする風潮になっていました」

「機構とは何ですか」

 トオルの問いにマキノ博士は簡単に答えた。機構とは、地球をはじめ各所に点在する生体科学研究所を統括する組織で、正式名称は「宇宙生体学研究機構」という。教育科学省か保健衛生省の下部機関に聞こえるが、宇宙開発省の下部機関である。

「機構からの臨床結果の催促が厳しいので、皆研究にばかり目が行っています。宇宙開発省を憚ってか、教育科学省火星学区からの定期審査も儀礼的になっていたので、生徒たちの生活環境に、私たちはあまり気を配っていませんでした」

「なるほど、そういうことだったのですか。ところで、実はグリンカ伍長を連れてきているのですが…」

「えっ。ジーナ、来ているのですか?」

 マキノ博士の暗い表情に一条の光が走った。表情と声色、そして何よりジーナのことをファーストネームで呼んだことから、マキノ博士にとってジーナはただの被験者ではないことをトオルは悟った。

「はい。来てはいるのですが、どうも中に入ることに戸惑っているようでして。車の中で待たせています。よかったら、お会いしますか」

 玄関の自動扉にたどり着いた。外に出ると、マキノ博士は手帳を取り出すとサラサラとメモ書きをし、その部分をちぎってトオルに差し出した。

「いえ。何の前触れもなく私が会いに行くと、きっとジーナも戸惑うでしょう。タカハシ中佐、こんなことを頼める立場ではないのですが、ジーナに私と会う気があるか尋ねてもらえないでしょうか。そして、もし会ってもらえるなら、こちらまで連絡を入れてもらえないでしょうか」

 沈んだ気持ちを隠そうと笑顔を作るマキノ博士が不憫に思えてきたトオルは、マキノ博士のメモを快く受け取った。

「分かりました。あなたと会うように話をしてみます。ただ、私たちは別件の出張でカドモスまで来ているものですから、明日には帰らなければなりません。今日の夜、ご都合よろしいでしょうか」

「ええ。大丈夫です」

「では、のちほど」

 トオルの敬礼にマキノ博士はお辞儀で返した。トオルは踵を返して来客用駐車場に向かう。ジーナを乗せたままのタクシーが止まっている。運転手がトオルの姿を確認すると、後部乗降扉を開いた。

「お疲れ様です。お嬢さんはよくお休みですよ」

 運転手の言う通り、ジーナは扉を枕にして寝息を立てていた。緊張で疲れていたのだろう。トオルが乗り込んでジーナの隣に座っても、起きる気配がない。トオルは予約を取っている市内のホテルに行くよう運転手に指示を出すと、ジーナの肩を軽くゆすった。

「ジーナ」

 トオルが呼び掛けに、ジーナは薄目を開いて一つあくびをした。

「あっ、中佐。お帰りなさい」

 寝ぼけた声で答える。眠気を取り払おうと目をこするジーナにトオルは語りかけた。

「ジーナ、研究所に話を通してきたよ。これからは、私が父親代わりだ。よろしくな」

「えっ」

 ジーナは驚いた。生きて研究所から籍を抜いたことのある強化人間は、ジーナの知る限り一人もいない。前代未聞の出来事なのに、たった数時間で話がまとまってしまうとは、ジーナは想像すらしていなかった。

「…おかね、はらったのですか」

 自由を手に入れるために必要な金額を研究所から提示されたとき、そのあまりの大金から自分の価値に誇りを持っていたのだが、今はジーナにとってその大金がトオルに対する引け目になっていた。ジーナの心配そうな目を見て、トオルは微笑みを返した。

「それがな。お金はいらないらしいんだ。私だったら、ジーナの身元引受人として申し分ないから、是非お願いしたいって言われたよ。こういう時は、日ごろの行いがモノを言うな」

 トオルは笑った。こういう時にラモンがいたらツッコミが入るのだろうが、ジーナは代わりに屈託のない笑顔を見せた。

「まさか、こんな日が来るなんて、思ってもいませんでした。ありがとうございます」

 ジーナの満面の笑みなんて初めて見たと、ラモンならきっと言うだろう。やはり子供には笑顔が一番似合う。研究所の面々は、ジーナの気性にケチをつけていたが、この子の気性はまっすぐだ。育ち方さえ間違わなければ、何の問題もないはずだ。ジーナの笑顔を見てトオルは、自分の判断が正しいことを確信した。

「手続きが完了したら、お前は私の被保護者になる。研究所の生徒でも、軍の伍長でもなくなって、ただのジーナ=グリンカになる。進路についてどうするか。まだ時間があるから、ラモンたちと話をして決めようや」

「はい。よろしくお願いします」

 ジーナはぺこっと頭を下げた。ジーナはまだ10代半ばの女の子。こんなにかわいらしい女の子が、インベル大尉を殴り飛ばしたとは想像できない。トオルは少し間を置いた。タクシーは、フィアナ総合大学の敷地から出て、市街地に出る幹線道路に入る。行き交う車のヘッドライトがまぶしい。

「ジーナ、マキノ博士に会ったよ」

「…」

 トオルのつぶやきにジーナは答えない。聞こえていたのか、いないのか。聞こえていたとしたら、ジーナの中には単純ならざる思いがあるのだろう。だがトオルは、無粋を承知で話を続けた。

「あまり話をしていないので、どういう人か分からないが、悪い印象はなかったな。話は変わるが、このあとマキノさんと一緒に晩飯を食べることになっている。お前も一緒にどうだ。マキノ博士も、ジーナと会いたいみたいだし。最後だと思って、会ってやってもらえんか」

「…」

 やはりジーナは黙っている。車内は、車の交差音とエンジン音に支配される。市街地が近づいてきているからか、目にする車の量が明らかに増えてきた。街灯とネオンで、漆黒の夜が彩られる。窓から差し込む街の光が、ジーナの白皙の顔を輝かせる。中心部まで数キロメートルの表示が見えてきたとき、ジーナが口を開いた。

「…マキノ博士はいい人でした。でも、今はまだ…」

「そうか。なら無理しなくていい。すまんが、今日は一人で夕食摂ってくれるか」

「ごめんなさい」

「あやまらなくていいよ。こっちこそ変なこと言って悪かったな。それから、マキノ博士からメモを預かっている。読むか捨てるか、ジーナが決めてくれ」

 トオルは上着の内ポケットから、一枚の紙を取り出してジーナに渡した。 タクシーがリニアライナーの高架の下をくぐった。トオルたちの今宵の宿は間近であった。長いカドモス滞在初日は、まだまだ続く。

 

 トオルとマキノ博士は、各地に点在するチェーン店のレストランで夕食を共にすることにした。トオルは滞在先のホテルの部屋で制服を脱ぎ、私服に着替えた。Tシャツの上にジャケット、下は洗いざらしのジーパンと相変わらず見栄えが悪い。待ち合わせまで時間があるので、トオルはホテルを出て散策することにした。

 まだ夕食時ということもあって、行き交う人も多い。町の造りは違うが都市の規模が近いので、ネメシスにいるような錯覚を覚える。学校帰りの子供の姿、家路につく勤め人。夜遊びに出てきた学生。買い物に来ている老夫婦。そうした人たちで賑わう一つの街角で演説をしている、スーツ姿の男性が目に入った。年齢は自分と同じくらいだろうか。茶色の髪を短く刈っており、凛々しさと清潔感が感じられた。

「…いまだ火星では、連邦政府による直接統治が行われています。火星には議会がありません。地球から来る総督は、火星に長くても三年しかおらず、しかも庶民が生活する場所に来ることはありません。そんな総督や、その側近たちに、火星に住む人たちの気持ちが分かるはずがありません。我々アリップは、火星に住む人たちのこころが火星全体に染み渡るよう、連邦政府に対して粘り強く働きかけていきます。人々のこころを丁寧に受け取って、大事に育む人材を探します。育てます。集めます。そして議会を作ります。総督府の代わりに議会を作り、人々のこころが映し出される社会を目指します。新しい枠組み作りに取り組んでいきます。希望ある社会を目指す私たちに賛同して下さる方、ぜひ署名にご協力ください。みなさん、力を合わせて、新しい時代の扉を開けようではありませんか…」

 トオルはこれまでも、この手の演説に何度か出くわしたことがあるが、気にしたことがなかった。だが何故か今回は、思わず立ち止まって演説に耳を傾けた。今になって気にし出したのは、軍を辞めると決めたからかもしれない。トオルはこれまで、預金通帳をじっくりと見たことがない。残高を気にしなくても、生活していけるからだ。官舎住まいなので、家賃はおろか、ガス電気水道料金も支払う必要がない。司令部には食堂があり、希望すれば朝昼晩三度の食事にありつくことができる。定期的に支払うものといえば、携帯端末の利用料金くらいしかなく、それもごく短い通話くらいにしか使わないので、利用料もわずかである。趣味と言えば、映画鑑賞と読書くらいなので、お金を使うことがほとんどない。若くして中佐のトオルは高給取りであり、しかも出費がほとんどないため、実はすごい金持ちなのである。だからトオルは、お金の心配をしたことがない。火星で暮らしていくのは大変だと、こうした演説や一部のメディアから見聞きするのだが、トオルには実感が湧かなかった。軍を離れたら、どんな生活が待ち受けているのか。収入はどれくらいになるのか。家賃や光熱水費はどれくらいか。税金はどれだけ持って行かれるのか。トオルには想像がつかない。ジーナのことや引継ぎなどの残務処理に気を取られていたが、そろそろ新生活のことも考えていかなければならなかった。

 まだ演説が続きそうだったが、待ち合わせの時間が近づいてきたため、トオルは早々にこの場を立ち去った。目指すレストランは、5階建てテナントビルの1階にある。レストラン専用の入り口を見やると、そこにグレーのパンツスーツ姿のマキノ博士の姿があった。トオルがカドモス研に行って思ったのは、研究所には極端な肥満がいないことだ。マキノ博士は、長い髪を結い上げており、年相応の端正な顔立ちとすらりとした肢体からやり手のキャリアに見える。トオルはマキノ博士に会釈した。

「お待たせしたみたいで、申し訳ありません」

「こちらこそ、ご迷惑をおかけします」

 マキノ博士は頭を下げた。トオルの方がマキノ博士よりだいぶ年下なのだが、それを気にする素振りを全く見せないところからも、謙虚で誠実な人柄を感じさせた。

「実はとても腹が減っておりまして。早速中へと入りましょう」

 トオルに促され、二人はレストランの扉をくぐった。店員に人数を告げると、二人掛けのテーブルへ案内された。太陽光色で明るく照らされた30メートル四方くらいの広々とした店内は、テーブルごとに人間の背丈より若干低い仕切りで間仕切りされており、一定のプライベートと開放感が満たされる。標準的なファミリーレストランのスタイルだが、トオルは嫌いではない。四角四辺の食事メニューも、毎日なら飽き飽きするが、たまにだとおいしいと感じられる。

 それぞれが店員にオーダーを伝える。端末にオーダーを入力した店員が姿を消した後、マキノ博士は向かいに座るトオルに頭を下げた。

「忙しいところを突然お邪魔して、申し訳ありません」

「いえ、気にすることはありませんよ。丁度私も、博士にお聞きしたいことがありましたから」

トオルのこの返答に、マキノ博士が驚きの表情を浮かべた。

「手続きについてでしたら、研究所でもお話させていただいたと思うのですが」

「そんなことではありません。ちょっと研究所では話しづらいことですので」

マキノ博士の表情に緊張が走ったので、トオルは頭をかいた。

「そんな大袈裟なことではないのです」

 と前もって話を始めたのは、なぜ、研究所は大勢の子供を囲い込んで研究活動をすることができるのか。そして、その子供達が成長したあと、どのような進路を取るのか。強化人間として成長していく子供たちには、どのようなケアが必要なのか。これら三つの疑問についてであった。

「研究所であれば、体面を取り繕われて肝心な話が聞けないと思ったのです。ここであれば、本音で話してもらえると思うのですが」

「なるほど、そういうことでしたか」

マキノ博士は表情を緩ませた。

「研究所でのタカハシ中佐の迫力が凄まじかったので、てっきりジーナとのことで責められるとばかり思っていました」

「ジーナの様子から、あなたとは何かあったのだろうと思います。そのことについて、ジーナが私に助けを求めてきたのであれば、黙っていないでしょう。ですが彼女は、あなたとの関係について黙ったままです。であれば、あなたとの関係を根掘り葉掘りするのは、よけいなお節介だと私は思います。ジーナ、あなたのことを『いい人でした』と言っていました。ジーナの心の扉は、僅かだけど開いてきていると思います。私とすれば、大人のあなたの方から、ジーナに飛び込んでもらいたいと思っています」

「そうですか」

「まだ、あなたもジーナも、心の整理がついていないと思うので、また機会を作って話をしましょう。お会いできるようになったら、こちらから連絡しますので」

「ありがとうございます。その日を楽しみにしています」

 とトオルに礼を述べたあと、マキノ博士は、さっきのトオルの疑問について答え始めた。

 現在の人間社会は、地球連邦政府以外に政府はなく、全人類が連邦政府の法律に従わなければならない。その連邦政府は、かねてより頻発していた家庭内トラブルに対処するために、公権力の介入が難しい家庭というプライベートな部分に介入する決意を固めた。婚姻したのちにお互いの仲がこじれたとしても、当人同士だけであれば、たとえ婚姻関係を継続したとしても当人同士以外に迷惑をかけることはない。だが、親や子供などがからむと、感情のもつれから必然的に家庭環境は悪化する。家庭環境の悪化で一番被害を受けるのは、当人同士の子供である。夫婦の関係がたとえ良好でも子供が虐待を受けるケースはあるが、それはほんの僅かである。しかし、夫婦関係が悪い場合は、百パーセントと言っていいほど子供は何らかの虐待を受ける。そのため、当時のツァイ内閣が、民法の大改正を実施することを決めた。一定の点数以上の虐待点がついた場合、両親の親権は剥奪され子供は自動的に養護施設に入所するという、ものすごい大ナタであった。家庭というプライベートに公権力がずかずかと入り込むこの改正に、与野党から非難の声が上がったが、ツァイ首相は議会で反対論者たちを糾弾した。

「子供を自分の所有物と考える大人のエゴイズムが、かよわい子供たちを虐待の地獄に落としているのだ。考えを改めよ。この法案に反対する者は、子供虐待推進論者である」

 と反対論者たちを抵抗勢力に仕立て上げた。批評家たちも賛成に傾き、世論がツァイ首相の改正案に理解を示し始めたことから、ツァイ首相は強硬採決に踏み切り民法改正案を可決成立させた。家族法が根本から変わったといっていいくらいの変革なので、施行から2~3年ほど混乱が続いたが、5年を過ぎてからは子供の虐待件数が大幅に減少していった。

「ツァイ首相の改革により児童養護施設の数が何百倍にもなったことは、中佐もご存じだと思います」

「そうですね。現代史で習った記憶があります。ですが、反対論者たちが言うほど社会保障関連費は膨れ上がらなかったのでしょう」

「そうなんです。そこがポイントになるのですが…」

 マキノ博士の指摘はこうだ。マイノリティーであった児童養護施設出身者が、施設と出身者の増加によって広く世間に認知されるようになった。そして施設の増加とともに、今まで画一的だった施設の在り方が、多様なものとなっていく。その一つとして、学校との融合がある。児童養護施設を、学校の学生寮という位置付けにするものが数多く現れた。学生寮化した児童養護施設は、学校と一体運営できるので、人件費を含め様々な経費を大幅にカット出来る。従って、児童養護施設が増えた割には、かかる費用が上がらなかったという訳だ。

「しかも、改正が施行されてから20年後に、思わぬ成果が出たことをご存知ですか」

「消極的離職率の低下と、生産性の向上ですよね。これも教科書に出ていました」

 ツァイ首相の改革が失敗であったなら、ここまで詳しく教科書には出てこないだろう。ツァイ首相の改革の真骨頂は、実は法改正施行の20年後にあったのだ。消極的離職とは連邦政府の用語で「仕事の内容、報酬、職場環境などに不満を持った上で退職」することを指す。逆の積極的離職は「更なるキャリアアップや新天地を目指すといった自らの積極的な意思を持って退職」することを指す。概ね70%代で推移していた消極的離職率が20年後を境に、急に減少していったのだ。当初は誰も理由が分からなかったのだが、ある学者が一つの結論を出した。

 親の元で暮らすのが普通だった頃は、子供が自分の将来を決めるに当たり、親の存在が大きかった。子供自身にその職への適性がないにもかかわらず、親が勤め人であれば自分も勤め人になったり、農家なら農家になったりする例がある。また、適性がないどころかその仕事につきたいとも思わないのに、親が「〇〇〇になりなさい」と積極的に勧める例もある。子供が自らなりたいものを決めたとしても、親が子を適切に導くことができなければ望む仕事に就くことができない例もあり、結果望まない職を転々とすることが多々ある。だが、養護施設の職員は、親のように、自分の跡を継ぐことや、自分の望む職に就くことを子供に強制することはない。子供がなりたい仕事を決めたとしたら、どうすればその仕事につくことができるか、専門家を紹介してあげることもできる。更には、子供の両親についてのデータや子供の生育環境や素行についてのデータを元に客観的に子供を見ることができるので、その子に適した職業を勧めることもできる。養護施設が世間的に認知されたことで、職員の立場も強くなったため、もし施設出身者が職場でハラスメントを起こしたとしても、職員が立ち入って自らの判断で労働局へ通告することもできる。

「非難轟々の中で強行採決された改正は、生産性の向上による税収増から大成功と結論づけられています。この改正により、養護施設が従来の福祉保健省から教育科学省の管轄に移行され、養護施設と教育機関の結びつきが一層強くなりました。施設の入所者が極端に増えたので、私たち生体科学研究所に流れてくる子供たちも飛躍的に増えたのも事実です」

「なるほど。ツァイ首相は、研究所の発展にも一役買ったという訳ですか」

「そうです。研究所の数も、一旦は存続の危機に陥ったこともあるのですが、今では一年戦争後の発足当初に比べて大幅に増えました。それから中佐の二番目の疑問、子供たちの進路についてですが…」

 研究所は子供たちの教育機関も兼ねている。幼少時は研究所の付属教育機関で過ごし、10歳になると強化人間としての適性検査を受けさせられる。適性から外れた子供たちは、一般の教育機関へ転校することになり、合格した子供たちは、研究所で過ごすことになる。彼らの進路は様々である。ジーナのように研究所から軍へ出向するもの、他の研究所や別の官民の機関に出向するもの、そのまま研究所に残るもの。類型分けすることは出来ないが、ただ一つ言えることがある。

「彼らは、研究所の支配から逃れることは出来ない」

 どの組織に属することになったとしても、研究所から籍を抜くことはほぼ不可能なのだ。

「進路を決めるのは研究所で、本人の意思が反映されることはまずありません。ですが、私の知る限りトラブルが発生した例は全くありません」

「その子にとってベストな選択をしている、という自負があるわけですね」

 トオルの問いかけにマキノ博士は首肯する。それを見てトオルは、意地の悪い笑顔を作る。

「ですが、職員の方々が子供たちを虐待するという例もあるでしょう。先程あなた方が、ジーナに性格矯正をしようとしたように」

 トオルのカウンターパンチに、マキノ博士は表情を歪めた。

「おっしゃる通りです。実の両親にしろ養父母にしろ、親には教職員による虐待から子供たちを守る役目もあると思います。本来子供たちを守るべき立場にいる養護施設の教職員たちが万一子供たちを虐待するようなことがあったとしたらどうしたらよいか、ということは、法改正当時からの課題でもあったようです」

 教職員の育成プログラム、待遇改善、職務のマニュアル化など、様々な方策が立てられ修正されてきているが、制度施行から長い年月が経とうとする今でも、未だ過渡期にすぎないとマキノ博士は言う。

「少し話が逸れましたが、ジーナのような研究所の子供に、引き取り手が現れたのは、前代未聞のことでした。というのも、強化を受けた子供たちは、精神的にも不安定で、しかも肉体的にも強化されているので、一旦暴れ出したら一般の人では手に負えなくなるからです。その点、タカハシ中佐であれば、私も安心できます。このようなことを言える立場ではないのですが、どうかジーナのこと、宜しくお願いします」

「できる限りのことはしてあげたいと考えています。ただ、一つだけ気になることがあるのですが」

「何でしょうか?」

 少しばかり照れた表情を作ったトオルは、少し間をおいてマキノ博士に尋ねた。

「…ジーナと私は、養父子としては年齢が近い上に性別が違うのですが、そこが問題になったりしないのでしょうか」

 トオルの心配に対して、マキノ博士は笑顔を作った。

「先程も申しましたが、強化を受けた子供は、一般人の手には負えません。自分の身は自分で守れます。もし万一間違いを起こしたとしても、それはジーナ自身の意思によるものですから、それを私たち部外者が干渉するのは、お節介を通り越して筋違いというものです。だから、くれぐれも気をつけて下さい。ジーナが間違いを起こしたら、それは養父の責任ですから」

「なるほど。肝に銘じておきます。あと、ジーナへの心と体のケアについて、研究所の協力をお願いしたいのですが」

「それはこちらからもお願いします。きっとこの取り組みが、研究所の子供たちの未来に、新たな選択肢を与えることになると思います」

「責任重大ですね。では、ジーナの素敵な未来に乾杯しましょうか」

 二人は自らのグラスを、この場にいない少女に掲げた。

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