機動戦士ローガンダム   作:J・バウアー

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ただの俗物

 ビルの一室でトオルは資料に目を通していた。

 その時、内線が入り面会者がやって来た旨が伝えられた。程なくして現れたのは、宅配便のドライバーだった。ドライバーは手荷物を持っている。

「失礼します。伝票にサインをして下さいますよう、お願いします」

 トオルはボールペンで、伝票の指定の場所に自らの氏名を記入した。

「まさか、自分がこのような役目を背負うことになるとはなぁ」

 手荷物を受け取りドライバーの退出を確認すると、トオルは手荷物の封を開けて中身を確認した。中には樹脂製の容器と手書きのイラストが入っている。この容器にイラストを印刷して一万個作成すると幾らかかるのか見積してほしいというのが、発送人の要望だった。

「やれやれ、今日も遅くなりそうだ…」

 ひとつぼやいてから、トオルは受話器に手を伸ばした。

 

 トオルがカドモス研でひと騒動を起こしてから、約半年が過ぎようとしていた。

 トオルは念願かなって軍を退役し、ラモンの紹介で入社した会社に勤めている。商社マンになったと言えば聞こえがいいが、商社と言っても大小様々である。トオルの勤める商社は、よく言って中堅といったところだ。しかも、年齢が30歳に届かないので、部長とか課長といった肩書のない、ただのヒラ社員としての入社だった。

「うっわぁぁ」

 初任給の給与明細を見て驚いた。軍に所属していた頃と違い、只の営業部員であるトオルは、自らの仕事だけでなく営業部の雑用もこなさなければならない。先輩社員の手伝いもする。すると、自然と残業時間が長くなるのだが、総支給は軍の頃の半分以下だった。しかも、そこから税金や家賃、光熱水費、自分とジーナの食費など必要経費を差し引くと、

「こんな金額でやっていけるのかな…」

 と不安になったものである。事務所は、ネメシス=シティの中心部にある商業テナントビルにある。トオルより年少なのは、女性の事務員くらいで、あとは50代半ばの社長、50歳前の部長、40代半ばの課長、3~40歳くらいの先輩社員が三人と、トオルより年長の男ばかりである。小さな会社だが、人間関係は悪くない。今のところ、トオルに与えられた仕事も、社長、部長が切り開いた得意先を回るくらいで、無茶を言われず、やりがいはある。給与明細を見るまでは、軍を辞めてよかったなと思っていた。だが、

「…やっぱり辞めなければよかったかな」

 と思ってしまう。平和ボケしてしまった軍は、ぬるま湯体質だった。決められた仕事の反復と、上司の顔色伺いがほとんどだったので、自分のやっていることの意義が見出せずにいた。だが、今の仕事は違う。顧客のニーズを聞き出し、その要望に応える。それに代価を支払ってもらえる。自分の仕事には価値がある。そう思える。それがいい。で、その対価が給与明細に現れている…はずなのだが。

「まぁ、自分だけの力ではないからなぁ」

 トオルは心の中でぼやいたものである。

半年が過ぎた今でも、トオルの仕事は、社長と部長が切り開いた得意先をまわって仕事をもらうことだ。だがら、いくら大きな取引が出来たとしても、大したことではないのだが、まだ民間慣れしていないトオルにしてみれば、取引額に比べてかなり安い給与は、残念でならない。拾われた身分だから足元を見られているのかと訝しんだこともあったが、机に無造作に置いてあった先輩社員の給与明細をチラッとみたら、あまり大差がなかったので、違う意味で衝撃を受けた。

「これでも、うちの給料はいい方だよ」

という先輩社員の声を聞いて、更に驚いたものである。

 一方のジーナは、周囲の意見を踏まえて公立の高校へ行くことになった。高校一年の編入試験を経ての入学である。入学して一か月くらいは、すぐに家へと帰ってきていたようだが、最近はトオルよりも帰宅が遅い日が増えてきた。

「部活って面白いですね」

 ジーナは研究所で肉体を強化されているため、運動部への入部は禁止されている。体育の授業では、全力を出して目立ってしまわないよう、ジーナ自身にも注意していたし、学校にも事情を説明して、彼女が一番手にならないよう配慮してもらった。彼女が入部したのは、裁縫部であった。たまたま校内で展示されていた刺繍を見て、興味が湧いたのがきっかけだそうだ。

「人間、何に興味を持つか、分からないものだなぁ」

 たまたまトオルたちの家にやって来たラモン大尉が、ジーナの下手くそな刺繍を見てつぶやいた。トオルの家は、7階建ての集合住宅の五階にある。2LDKだが、二人暮らしなら十分な広さだ。リビング・ダイニングにはダイニングテーブルと背の低いチェスト、そして小さなテレビがある。窓にかけてあるクリーム色のカーテンは、ホームセンターでジーナが選んだものだ。そのジーナは、すでに夜の八時を回っているのだが帰宅していない。休暇を持て余していたラモンが来たとき、トオルは週末に作り置きしていたパスタの具を温め、ゆがいたパスタに乗っけて食べていたところだった。食事を済ませたトオルは、コップを二つ出して、それぞれにティーバッグを入れ、それにポットのお湯を注いだ。

「しかも、最近は料理研究会にも顔を出してるみたいなんだ。おかげで、家事の一切は私の担当だよ」

「なるほど。家の中が嵐の後みたいになっているのは、それが理由ですか」

 トオルの家事能力が初心者クラスであることは、先刻ご承知のラモンである。ラモンは、トオルから差し出された紅茶を受け取った。

「だいぶ、ジーナも学校に慣れたみたいですな」

「まぁね。学校の先生から週に一回連絡が入るのだが、学業の方も申し分ないし、他の生徒とのいざこざもなさそうだ。申し分のない娘だよ」

「娘ですか。高校生の女の子を娘というには、中佐は若すぎますな」

「自分でもそう思うが…大尉、私はもう中佐ではないぞ」

「それは失敬…」

 言葉とは裏腹に、ラモンはとぼけた表情をした。

「それはそうと中佐。仕事の方はどうなんです?」

 仕事を紹介したラモンとしては、トオルの働きぶりが気になるところだ。トオルは自分の紅茶を、ラモンの座るダイニングテーブルに持って来た。ラモンの向かいの椅子に腰かけ、一口紅茶をすする。

「やりがいはある。人間社会に、というより、経済社会の一員になれたという満足感はある。まだ下っ端だけどね。でも、生活が厳しいな。貯金があったから何とかなっているが、一体いつまで持ちこたえるかなぁ」

「ジーナの引取り費用がかからなくて良かったですな」

「まったくだ」

 床に散らばる洗濯済みの衣服が目に入った。気になってしまったので、トオルは椅子から立ち上がり、散らかっている衣服の片付けを始めた。

「軍にいる頃は全く気付かなかったのだが、温室でぬくぬく過ごしてきていたことが肌身に染みたよ。庶民生活が楽でないということは以前から耳にしていたのだが、結局は体験してみないと真に理解することはできないということだな」

「まぁ、体験せずとも身近な人の体験談で分かるという例もありますし」

「それはあなたのことかね、ラモンさん」

「いえいえ一般論ですよ」

「まったく。ついこの間まで、大尉は杓子定規のお堅い軍人の典型だと思っていたんだがなぁ」

「中佐も、その辺にいるただのボンボン軍人だと思っていましたよ」

「あいにく、私はボンボンではないよ。養護施設の出身さ」

「えっ。そうなんですか?」

 トオルの出自を聞いて、ラモンは驚いた。若くして軍の高位にいる理由として一番納得できるのは、血筋のよさである。親が政府の高官であれば、軍機省官房からの指示で高官の子息に対する人事上の忖度が働く。全くたいしたことのない功績にも勲章が与えられて出世することなど日常茶飯事。だから若くして中佐の位にいたトオルは上位階級の出だとラモンは思ったのだ。養護施設の子供たちの就職先は教職員による判定で決まる。優秀と教職員に判定された子供達は、たいてい公的機関へ就職する。軍も公的機関の一つなので、若くして中佐に上り詰めたトオルは養護学校も認めたエリートということになる。そんなエリートが何故、火星なんかに赴任したのか。それと、そんなエリートが何故、簡単に退職を受理してもらえたのか。

「それにしては中佐の退職、トントン拍子に事が進みましたね」

 ラモンは注意深く言葉を選んでトオルに尋ねた。当のトオルは頭を掻き、洗濯物を片付けたあと椅子に戻り、紅茶をまた一口すすった。

「まぁ、あの事件がきっかけで、私は見限られたのかもしれないな。でも、そのおかげで自由な生活が手に入った。今のところは、自分の選択に満足しているよ」

「それは何よりです。カタリナとハムザも、中佐殿のことを気にしていましたからな。その言葉を伝えておきますよ」

「そうだな。彼らは元気にしているのか?」

「カタリナはともかく、ハムザは元気いっぱいですな」

 ラモンはテーブルに置いてある焼き菓子に手を伸ばした。

「全く相手にされていないのに、遠い部署にいるカタリナにちょっかいを掛けていますよ。あのエネルギーは一体どこから湧いてくるのやら」

「相手にされていないのがいいのだろう。しかし、あれだけ熱心に言い寄られてもビクともしないカタリナもすごいな。誰か決まった相手でもいるのかな」

「どうでしょうね。カタリナとは、テレビドラマの話しかしないですからね」

 焼き菓子を頬張ったラモンは、紅茶を飲み干した。入れ違いにトオルが焼き菓子に手を伸ばした。

「そういえば、ラモン大尉には奥さんがいるのかな?」

 トオルの問いにラモンが答えようとしたとき、遠くから衝撃音と爆発音が響き渡ってきた。ドーンという鈍い音が窓のサッシと共鳴して変な音をたてる。

「な、何だ」

 トオルとラモンが、異口同音の声を上げた。声を上げたと同時に、市内各所に設置されているスピーカーからサイレンが響き渡る。一般市民には浸透していないが、軍関係の二人には、この音が何を意味しているか即座に理解できた。

「何故、戒厳布告が…」

 ラモンは窓に近づき、カーテンを開けて外の様子を伺う。人々が外に出て騒然としている。パトカーと警察官の姿も散見される。まだ軍関係者の姿は見受けられない。ラモンが外の様子を伺っているうちに、更に爆発音が数回響いてきた。建物群の向こうで、爆発のものと思われる光球がちらほら見える。

「一体何があったのでしょう?」

 ラモンが振り返って部屋の中へと視線を移すと、そそくさと着替え始めているトオルの姿があった。半年前まで身に着けていた連邦軍の制服だ。

「まだそんなもの、持っておられたのですか」

 窓の外のパニックには似つかわしくない毒気のある声を、ラモンは吐き出した。トオルも負けてられないと、意地の悪い笑顔を向ける。

「断捨離は大の苦手でね。幼いころ、思い入れのあるものは宝箱にしまっておくようにと躾けられたものさ」

「シワだらけで薄汚れた制服に愛着があるとは思えませんが」

「シワの数が思い入れの数ってね。まっ、こういう時は、普段着よりも軍服の方が動き易いだろう」

 トオルの言うことはもっともだとラモンは思った。きっと外にいる群衆は、市警に家に帰るようにと言われるだろう。その点、軍人であれば戒厳布告下でも、比較的自由に動けるはずだ。

 トオルがズボンを穿いてベルトを締め、椅子に引っ掛けてある上着に手を掛けようとしたとき、トオルの携帯端末が鳴り響いた。上着に行きかけた右手を、テーブルの上に置いてある携帯端末へと伸ばす。画面を見ると、ジーナからの着信だった。あわてて通話ボタンを押して端末を耳に当てた。トオルが声を出そうとする前にスピーカーから、雑音とともにジーナの声が響いてきた。

「トオルさん。落し物拾った。公園まで来て。家の近くの。よろしくね。じゃ」

「お、おい!」

 トオルが声を出したころには通話が切れていた。意味が分からないので掛け直してみたものの、何が原因か分からないがつながらない。仕方がないので端末を机に置き、椅子に掛けている上着に手を伸ばす。

「何だかよく分からんが、近所の公園へ来いと言っている」

 とトオルはラモンに告げた。爆発音などは収まっているが、サイレンや群衆の声などで外は騒がしいままだ。扉のそばに置いてある自らのサイドバックをラモンは掴んだ。

「ジーナから深夜のデートのお誘いですか。デートにしては、なんともタイミングが悪いですね」

「高校生でもあるまいし。公園でデートは、味気ないな」

「ジーナは高校生でしょ」

「私の希望は受け入れてもらえないか」

「年少者の希望に沿ってあげるのが、年長者の懐の深さというものです」

「それもそうだな」

 トオルは制服の上着のボタンを留めた。テーブルのそばにあるサイドバッグにテーブル上の携帯端末をしまいこんだ。

「そろそろ行くけど、大尉はどうする」

「軍からの呼び出しもありませんし、家に帰ってもヒマですし、中佐殿につきあいますよ」

「人のデートの邪魔をする。これを人は何と言うか知っているかね?」

「粋なことだというのですよ。外が騒がしいのでお二人の護衛をします。久しぶりにジーナの顔を見れるとは、嬉しい限りですな」

 ラモンがいかつい顔をニヤッとさせたのを見て苦笑いしたトオルは、ラモンを促して玄関へ向かい、部屋の明かりを消した。

 

 外に出ると、家路を急ぐ人々の流れと、様子をうかがいに外へと出て行く人々の流れがぶつかって、人波が渦を巻いて混沌としていた。市警が、電光掲示板や拡声器を使って帰宅を促しているが、この人波のうねりには効を奏しておらず、為すがままの体である。トオルはわざわざ連邦軍の制服を着て出たのだが、誰にも誰何されることがないまま、普段の三倍は時間をかけて、近所の公園にたどり着いた。

住宅街にあるごく平凡な公園である。幼児が遊ぶ屋外型の遊具がいくつかあり、遊具スペースとは別にサッカーや野球ができるグラウンドがある。こんな状況なので、当然のごとく公園は警察により封鎖されていて、中に入ることができなくなっている。

「さて、どうしたものか」

 と思案しようとする前に、一人の警察官がトオルに近づいてきた。

「この度は、ご苦労様です」

トオルとラモンに対して敬礼を施す。さすがに警官は軍隊の内情を知らないので、制服姿のトオルも現役の軍人だと思ったようだ。トオルは悠然と敬礼を返した。

「217師団作戦参謀のタカハシ中佐だ。ネメシス基地へ向かう途中に混乱に巻き込まれたのだが、一体何が起きたのか、教えてもらえないか」

「は、私には分かりかねますので、公園内にいるジーリ警部に聞いて頂けませんか」

「分かった。では、中に入れてもらえないか」

「かしこまりました。どうぞ」

よほど混乱しているのであろう。トオルは身分照会を受けることなく、一般人が立ち入りを禁じられている公園の中へ難なく入ることができた。ラモンも一緒に入ろうとするが、

「グリンカ伍長が来るかもしれない。デ=ラ=ゴーヤ大尉はここで待機してくれ」

とトオルに言われてしまった。無位無官のトオルがこの先どんな立ち振る舞いをするのか大いに興味があったが、これまた無位無官のジーナが公園に来るという以上、外で待っていないと会うことができない可能性がある。やむを得ない。

「了解致しました」

 ラモンは、敬礼を以ってトオルに答えた。

 外から垣間見た通り、公園の中は閑散としていた。警官たちが各所に散らばって、人々に帰宅を促しているからであろう。グラウンドにはワゴン車が一台停車しており、様々な機材が設置され、そこに三人ほどの人影が見える。そのうちの一人が、先程の警官が言っていたジーリ警部であろう。ヘッドホンのマイクに向かって何やら指示を出しているようだ。他の二人も、ワゴン車を出入りしたり、機材をいじったりしており、トオルには全く気付く様子がない。トオルは、自らジーリ警部に声をかけるつもりはなかった。この混乱した状況の詳細を知りたいのは知りたいが、下手に話しかけて身分を偽っていることを知られるのはまずい。ジーリ警部たちに気付かれるのが先か、ジーナが来るのが先か。ジーリ警部に気付かれたら、情報だけを聞き出してすぐにこの場から立ち去るしかないだろうなと考えているうちに、何やら大きな物体が、轟音とともに、空からここまで近づいているのが見えてきた。

「な、何だ!」

 大声を出して空を見上げたのは、向こうにいるジーリ警部たちだ。トオルは、見上げた視線の先にある、半年前に見たことのある物体、いやモビルスーツに、開いた口がふさがらなかった。

「な、なんであれが、こんなところにあるんだ?」

 トオルが見たのは、半年前にウラノス=シティに運び、そして返品された機密。コードナンバー:RX-780、コードネーム:ローガンダムであった。余計な装飾が全くないシンプルな人体型の、全長18.7メートルのこのモビルスーツは、資料で見たことのある一年戦争時に活躍したRX-78ガンダムのフォルムを色濃く残している。違うのは、青と白を基調とした色合いが、黒と灰色を基調として暗いイメージであることくらいであろう。かつてティターンズで開発されたガンダムマークⅡを髣髴とさせる。そのガンダムは、ドダイといった補助飛行装置なしの単独飛行をしており、やがて公園のグラウンドに着陸した。

 公園に着陸したのを確認すると、トオルはローガンダムに向かって走り出した。突然の出来事にあっけにとられているジーリ警部達は、トオルの接近に気付かない。ローガンダムは着陸すると、胸位置にあるコクピットハッチを開けた。ローガンダムの姿を確認してからずっと胸騒ぎがしていたトオルの予想通り、コクピットハッチから顔を出したのは、トオルのよく知る人物だった。

「トオルさん。こんなもの拾ってしまったんだけど、どうすればいいかしら」

「うーん、困ったねぇ」

 女子高生の制服姿のジーナに無邪気な声で尋ねられたが、どう返事すればいいかトオルには思い浮かばなかった。

 

 一人乗りを前提にして設計されているモビルスーツのコクピットは、狭い。操縦席の後ろに補助シートがあるが、あくまでも予備として取り付けられているので、座りにくい。そのコクピットに、三人が乗り込んでいるのだから、窮屈極まりない。ローガンダムの接近に気付いたラモンは、急いで公園内に入り、トオルとともにジーナが操縦するローガンダムに乗り込んだ。あっけに取られているジーリ警部を尻目に、ローガンダムはその場から飛び立ったのだが、

「トオルさん、これからどこに行けばいいかな?」

 とジーナに尋ねられても、補助シートに座るトオルは即答できない。一体何をどうすればいいのか、訳が分からないのが本音だ。何の前触れもなく混乱が発生し、その正体も分からないところに突然、高校生のジーナを乗せてローガンダムがやってきた。しかも、それに勝手に乗り込み、さまよっているというのだ。悪い夢を見ているとしか思えないほど現実味がない。目を覚ませば、トーストと目玉焼きの朝食を頬張り、未だ慣れないスーツに着替え、通学かばんを抱えたジーナとともに玄関を出て行くという日常が待っている気がする。だが、頬をつねると痛みを感じる。あまりにベタな行為をしたトオルは、バツの悪い気持ちを押し込めて、最善の道を探った。今の自分たちにとって、何が一番大事か。

「ネメシスの基地に行くしかないな。家に帰ったところで、ローガンダムは部屋に入らない」

「懐中電灯で照らして小さくできるわけではないですからね。それしかないでしょう」

 トオルの提案に、ジーナの足元で居心地悪そうに座るラモンが同調した。二人の意見が一致したので、ジーナは操縦桿を操って機体の向きを変える。それとともに、補助席に座るトオルが、手元にある通信機器をいじくりだした。無機質で耳障りな電子音が響いたあと、人の声が聞こえだした。必死さが伝わる、聞き覚えがある声だ。

「…こちら217師団5113大隊のハムザ少尉です。どなたか応答願います」

「ハムザ少尉か。私だ、タカハシだ」

「タカハシ中佐ですか。よかった。やっと誰か応答してくれた…」

「今、ラモンとジーナと三人でローガンダムに乗っている。着陸できそうか」

「は、ローガンダム? 何でローガンダムなんかに?」

「質問はあとだ。どうだ。いけるか」

「はぁ、まあ、大丈夫だと思いますが」

「分かった。そっちに向かうので、出迎えに出て来い」

「ちょっとま」

 トオルは一方的に通信を切った。すでに基地は、目前にまで迫ってきていた。

 

 連邦軍ネメシス駐留基地は、基地の規模としては小さい方である。駐留するのは第217師団だけ。大きい師団では二万人を抱えるが、217師団の兵員は一万人程度と少ない。航空戦力もモビルスーツ三体だけで、有翼の航空機はない。従って、滑走路も一本しか設置されていない。だが、何故か倉庫だけは数が多く、しかも一つの大きさが大きい。なぜこんなに倉庫スペースをとっているのか、その目的が分からないのは、半分以上の倉庫が使われていないからだ。トオルは、そうした未使用の倉庫の一つに、ローガンダムを隠していたのだが、一体誰が、何の目的でガンダムを持ち出したのか。この疑問がトオルの頭をよぎったが、すぐに考えを別の方向へ変えた。そんなことよりも優先すべきことがたくさんある。優先順位の一番が、ネメシス駐留基地に向かうことだ。そしてその目的は今、達成されようとしている。

 基地の誘導に従い、ジーナは手慣れた操作でガンダムを基地に着陸させた。眼下には、半年前ぶりに見る二人の懐かしい人物がいた。コクピットハッチを開けたジーナが、先に外に出た。

「うわ。何で女子高生がガンダムを操縦しているんだ?」

「よく見なさいよ。あれはジーナでしょ」

 カタリナにたしなめられたハムザが、目を凝らした。

「本当だ。雰囲気が違うから、気が付かなかった」

 ジーナは、着陸させたローガンダムを屈んだ姿勢にして、左手をコクピットのそばに差し出させた。ジーナは、コクピットハッチを開け、コクピットからガンダムの左手に飛び移り、そこから地面に飛び降りた。制服がスカートなので、どうしても下着が見えてしまうのだが、ジーナは全く気にする素振りを見せない。ジーナに続いてラモン、トオルがコクピットから出た。トオルが地面に飛び降りると、ラモンたち四人はトオルに敬礼を施した。

「中佐に来て頂いて、正直ほっとしています」

 ハムザにしては珍しく、やつれた表情をしている。この陽気な男に、一体何があったのか。

「急に出動命令が出まして。とりあえずこの場にいる者だけでいいから、装備を整えてウラノス=シティへ向かうようにとの事で。総務課員や整備士、通信士といった一部の非戦闘員以外、みな出て行ってしまいました。もう一体何が何だか。残った私たちへの指示もないし、暴動は発生するし。中佐、私たちどうすればいいんですかねぇ」

「どうすればって、中佐はもう軍人ではないのよ」

「そういうカタリナ大尉だって、中佐が来られると聞いて、喜んでたじゃないですか」

 こんな状況だというのに、カタリナとハムザのやり取りを見て、ラモンは笑い出しそうになった。トオルは軍服を身にまとってはいるものの、既に軍籍を離れている。それなのに、トオルのことを中佐と呼んで、まるで自分たちの上司のようにとらえている。そのトオルはといえば、それらしく腕を組んでいるが、表情は至ってのんびりとしているように見える。こんな緊迫した状況下でも、慌てる素振りを見せず、部下たちを不安にさせないところが、はるか年下の上司をラモンが敬う要因の一つであった。

「まぁ、こんなところで立ち話をしても仕方がないから、とりあえず司令部へ行こう。こういうときこそ、落ち着いて状況を整理することが大切だ。ところで」

 トオルが司令部に向かって歩き出したので、皆それに付き従った。トオルの隣にはハムザがいる。そのハムザにトオルは視線だけを向ける。

「士官で司令部に残っている者はいないのか」

「参謀長のバルドック大佐と、司令部のレーメル少佐、キバキ大隊長くらいだと思います。カタリナ大尉、どうですかね」

「それくらいだったと思います。下士官は全部で百人くらいですね。ほとんど裏方ですが」

「…そりゃすごいな」

 トオルの第217師団勤務は短かったが、それでもハムザが挙げた三人の評判が悪いことくらいは知っていた。三人に共通するのは、仕事が遅い、どこにいるか分からない、責任逃れの常習犯の三つであった。士官で残っているのがこの三人だけなら、ハムザたちが右往左往するのも仕方がないなとトオルは思った。

「最高位はバルドック大佐か。どこにいるんだ」

「ネト中将に置いてけぼりを食らって、参謀長室で、すねてるはずです」

「いい年をして、一体何を考えているのやら。参謀長なんだから、こういう時こそしっかりしてもらわないといけないんだが」

「あのナックルに、そんなこと求めても仕方ないでしょ。今頃、携帯端末のゲームに夢中ですよ」

 ハムザが前に出て、トオルのために司令部ビルのガラス扉を開ける。中の照明は普段通りに点灯しているので、電源は死んでいないようだ。トオルが入ったのを確認すると、ハムザは再びトオルのそばに近寄った。

「バルドックに何か御用でもあるのですか」

「もちろんさ。落し物は持ち主に返すのが常識だろう」

「落し物って?」

 トオルはこの時、ハムザに意地の悪い笑顔を見せた。

「ジーナが学校で拾ったというローガンダムさ。あんなものを、退職金の上乗せとして貰っても仕方がない。落し物を持ち主に返したら、ただの俗物はさっさと退散するさ」

「えーっ、私たちに愛の手を差し出してくれないのですか」

「私が現役なら、業務として、いやいや手を差し出さないこともないのだが。ジーナと早く帰って、明日に備えないといけない。サラリーマンは大変なんだぞ」

「こんな緊急事態に、明日も何もないでしょ」

「企業戦士は、どんな事態であろうと戦うのさ。暴動が何だ。企業戦士が明るい未来を創るのだ。俺たちこそ、火星の希望の星なのだ」

「そんなに自分に酔ってると、バルドックに鼻で笑われますよ」

 ハムザに指摘されて、トオルはきまりの悪い表情になった。階段を上がって最上階まで上がる。師団長室の隣が参謀長室だ。そこにトオルのお目当てがいるはずだ。

「できれば会いたくないが、仕方がない」

 トオルは扉をノックする。来訪を告げても返事がないので「失礼します」と声をかけて扉を開けた。

 中を見渡すと、紙袋や書籍が無造作に放置され、薄汚くなっているデスクに座り、電子端末と格闘している人物がいた。砂漠の一歩手前まで薄くなった、プラチナブロンドなのか只の白髪なのか分からない禿げ頭と、瞳の色が何色なのか分からないくらいの小さな目、酒で赤焼けて薄汚くなった顔、そして師団長以上に太った体が印象的な、五十代くらいの中年が、第二一七師団参謀長のバルドック大佐であった。携帯端末で遊んでいるであろうというハムザの予想を覆し、集中してキーボードを叩いている。こんな奴でも、こういう時は仕事をするんだと、トオルは感心した。

「お忙しいところ、失礼いたします」

「おぉ、来たか」

 参謀長は、端末の操作を止めてトオルに視線を向けた。バルドックの反応に、トオルは少なからず違和感を覚えた。トオルが現役で、しかも大佐に呼ばれたのであれば、この反応はおかしくない。だが、トオルは既に退役しており、しかも呼ばれもしないのに参謀長室へ入ってきたのだ。だからこんな時は、

「何だ、お前は。何しに来たのだ」

と言われるのが当然のはずだ。どのように話を進めるか、前もって考えていたのだが、思わぬ反応に意表を突かれ、トオルは黙り込んでしまった。会話の主導権を握るため、せめて大佐の表情だけでも読み取ろうとしたのだが、分厚い脂肪がバルドック大佐の表情を隠しているので、何を考えているのかさっぱり分からない。どうやってシナリオを立て直すかを考え始めたが、結局大佐に機先を制されてしまった。

「もうすぐで処理が終わるから、ちょっとそこで待っておれ。部下を連れてきたんだな。みな、中へ入ってもらって構わんぞ」

「あ、ありがとうございます」

 普段、「ナックルヘッド」と陰口をたたいているバルドックに先手を打たれて、トオルは面白くなかった。仕事が遅い、どこにいるか分からない、責任逃れの三拍子でまともに仕事をしているところなぞ見たことがない大佐が、端末を使って一体何をしているのか。皆目見当もつかない。大佐の事務仕事が終わるまで、ものの数分しか経っていないが、あせりもあって一〇倍くらいに長く感じた。

 何かをプリントアウトしたみたいだ。大佐は席を立ってプリンターから出てきた紙を取り出すと、それをトオルに差し出した。

「君は、これから第二一七師団の参謀長代理だ。これが辞令だ。現役復帰の手続きも済んでいる。君の手腕には大いに期待させてもらうぞ」

「はぁ?」

「さすがはレーメル少佐だ。ツカハシ中佐をこんなに早く見つけ出すとは。ところで、レーメル少佐はどうしたんだ?」

「はぁ、まぁ」

「まぁいい、こんな事態だ。はぐれてしまったものは仕方がない。しかしツカハシ中佐。部下まで連れて参上してくるとは。君のやる気に私は感動している。一刻も早く事態を収拾してくれたまえ。たのんだぞ」

「はぁ、まぁ」

「法令に反しない限り、どんな手段を使っても構わない。さぁ行きたまえ」

「はぁ、まぁ、では」

 トオルは形だけの敬礼を施し、大佐の言う部下を引き連れて参謀長室から退出した。

 

「ツカハシ中佐殿。ご愁傷様です。大佐殿ではないですが、私も中佐殿のご手腕に大いに期待していますよ」

 大笑いとともにハムザがトオルに敬礼してみせたのは、参謀長室を出たあと、今は空室になっているかつての作戦参謀室に、トオルたちが入ったあとだった。空室といっても、トオルが退役してからは誰も利用していないので、トオルが現役でいた頃のまま、扉から入って左奥にデスク、中央に作業用の大きな机と椅子が六脚、右手には書棚とソファ、そしてテレビがある。正面は窓だが、ブラインドが下ろされていて外の様子は分からない。トオルはデスクで端末を開き、何やら調べ物をしている。他の四人は椅子に腰掛けている。そのうちの一人、カタリナ大尉は机に頬杖をしてつぶやいた。

「しかしあの大佐も、責任逃れのためとはいえ、ものすごい方法を考えたものね。この事態に対する責任を、全てトオル中佐に押し付けるなんて」

「いくら気に入らないからといって、退役した人間を引っ張り出すとは、バルドックも大した奴だな。だがカタリナ大尉、いくらバルドックが師団参謀長で大佐だからといって、退役した人間を現役復帰させることなんかできるのか」

「さぁ、どうでしょうか。こんなパターンは、めったにないですから」

 ラモン大尉の疑問に、総務畑のカタリナも即答できない。これが師団長のネト中将であれば、一定の人事権を握っているので、軍機省に現役復帰を事後承諾させることもできるかもしれない。バルドックの猫騙しに意表を突かれて参謀長代理なんかを引き受けてしまったはいいが、足元を掬われることも十分にありえる。

 そんな微妙な立場に立たされて、とんでもない責任を押し付けられているトオルなのだが、一同の視線の先にいる青年将校の表情は、不安にさいなまれて顔色を悪くしているのかと思いきや、むすっとして不機嫌そうであった。こういう場面で不安の色を見せないところはさすがだなとラモンは感心する。

「中佐、何かご不満でもおありですか?」

「ああ、大有りだ。これで不満を持たない奴は、どうかしている」

トオルは端末を操作しながらラモンに答えた。理由が気になるのでハムザが理由を尋ねると、トオルは毒気のこもった声で答えた。

「あのハゲオヤジ。俺の名前を間違えやがった。ツカハシではない。タカハシだっての。つい最近まで、直属の部下だったんだから、名前くらいちゃんと覚えてろってんだ」

「怒るポイント、そこなんですか。訳の分からない責任を、押し付けられたことではなくて。 ナックルヘッドに名前間違われたところで、私だったら気にしませんが」

「いや、名前は大事だ。百歩譲ってユーモアで間違って見せたのならともかく、本気で部下の名前を間違えるのは、人としての礼儀に反する」

「では、あのナックルが、場を和まそうとユーモアでわざと間違えたのだとしたら、中佐はお許しになられるのですか」

「なれるわけないだろ。ナックルの分際で、私をユーモアのダシにするなんて、百万年早いわ」

「トオルさん。ごめんなさい。私が、あんなものを拾ったばっかりに」

 トオルに一番近い席に座るジーナが申し訳なさそうにつぶやいた。はっとしたトオルは表情を変え、優しい視線をジーナに向けた。

「謝ることはない。別に悪いことをしたわけではない。だが、ちょっと知りたいんだが」

 トオルはジーナの瞳を覗き込んだ。

「ローガンダムは、拾おうと思って拾えるものではない。経緯を教えてくれないか」

 トオルにジッと見られて、ジーナは俯いてしまった。

「えーっと、そんなにかしこまって言わなきゃいけないことですか」

「万引きしてガンダムをとってきた訳ではあるまい。隠すことはないだろ」

「拾うとか万引きとか、まるで玩具か何かみたいに扱われて、ローガンダムを開発した人たちは、さぞ落胆するでしょうな」

「それくらいで落胆するような連中ではないだろう。あんな物騒なもの作って平気なんだから、心臓に剛毛が生えているさ」

 ラモンの皮肉に片目をつぶってみせたトオルは、再びジーナの方を向いた。

「まぁ、単に気になるだけさ。言いたくないのなら言わなくてもいい」

「別に言いたくない訳ではないんです。一体どこから話せばいいのか、分からないだけなので」

「うーむ。今日は、いつもより帰りが遅かった気がするが、それと何か関係があるのか」

「そうなんです。宿題があったのに、机に置き忘れていたから、途中で学校に戻ったんです」

 このあとにジーナが続けた内容によると、こうだ。3階の教室に戻って教科書とノートを机の引き出しから自分のカバンに移している時に、異変が起こった。どこの部隊か分からないが、軍用車両の一団と一体のモビルスーツが校庭にやってきた。気になって窓の外を見遣ると、たくさんの軍用車両から兵士たちが資材を持ち出して設営を始めているのが見えた。機銃などの武器も持ち出され、物々しい雰囲気が漂っている。別の兵士の一団が、校舎の中へと入っていくのが見えた。

「これはまずい」

 強化人間だった頃の勘が働き、ジーナはカバンを小脇に抱えて教室を出た。裏口へ回ると袋小路に追い込まれる危険があるので、正面玄関を目指す。下校時間をとっくに過ぎているので、兵士たちも生徒がいないと思っているのか、3階までは上がってこようとしない。難なく2階まで下りることができたので、そっと下の様子を伺う。事務員室の方から、当直の職員と兵士が揉めている声が聞こえてきた。階段の踊り場の窓越しに外を見ると、モビルスーツの正体が、以前ウラノス=シティへ運んだローガンダムであることが分かった。不慣れなパイロットが乗っていたのか、ハッチは開けっ放しで、しかもコクピットを地面からかなり近い位置に向けているので、簡単に乗り込めそうである。いくらなんでも不用心だなと他人事ながら心配していると、いつのまにか声がしなくなっており、代わりに学校職員が兵士に連行されている様子が目に留まった。

「突破口はどこにあるかなぁ」

 モビルスーツを中心に軍用車両とテントが設営されているが、学校を完全に掌握するため兵士たちは散り散りバラバラになっていて、モビルスーツの周りには幹部らしき士官たち以外はいないようだ。裏手の門にも兵士が向かっている気配がある。

「これは、正面突破が一番かも」

 などと考えていると、ちょうどおあつらえ向きに、

「誰だ!」

 とどなる声がした。

「きゃあ!こわーい!なにー?」

 心の中で舌を出しながら、ジーナはお上品ぶってみせた。現れた兵士は、相手が女子高生であることを確認すると、安心したようで、

「こんな遅くまで何してるんだ。危ないからこっちに来なさい」

と手招きした。

「えーっ、なになにー。なにがはじまるのー?」

 十分に用心しながら阿呆の真似をしてみる。ジーナが動こうとしないので、兵士の方が無警戒にジーナへと近づいてきた。

「ほぅ、よく見ると綺麗な顔をしてるじゃないか。おじさんと今からたのしいこ…!!」

 無警戒にジーナの間合いに入った兵士が見たのは、かよわい女子高生のおびえる姿ではなく、ネコ科の猛獣を思わせるギラリと光った鋭い眼光だった。ジーナの右こぶしが兵士の腹を思い切りえぐった。その一撃で兵士の体が宙に浮き、兵士は激痛とともにそのまま意識を失った。兵士の体を壁際に寄せ、兵士の懐にしまってあったブラスターを抜き取る。音と気配を消したまま素早く正面玄関までやって来た。学校職員が二人、士官も二人だけしかいなかった。しかも四人とも、何か話をしていて、こちらに気付く気配はない。これはチャンスといわんばかりに、ジーナはローガンダムに向かって走り出した。

「何をしている!」

 士官の一人が気付いたときには、ジーナはコクピットの中に潜り込んでいた。

「離れないと危ないよ!」

 捨て台詞を残して、ジーナはコクピットハッチを閉めた。ハッチを開けっ放しにしていただけあって、動力に火は入ったままだ。慣れた手つきでローガンダムのバーニアを全開にし、飛び上がらせた。下で士官が何やら叫んでいるが、ジーナは気にも留めず自分の携帯端末を取り出してダイヤルした。発信ボタンを押して端末を耳に当てた。

「トオルさん。落し物拾った。公園まで来て。家の近くの。よろしくね。じゃ」

 これだけ言うと、ジーナは通話を切った。

「…というわけ。別にたいしたことじゃ…」

「いや、たいしたことだろ。あぶないじゃないか。怪我でもしたら大変じゃないか!」

 ジーナの事を本気で心配するトオルの姿を見て、ハムザがため息を漏らした。

「ジーナに殴られた兵士、無事なんだろうか。あの時と違って本気で殴ったみたいだし。俺、そっちの方が心配なんだけど」

「あらハムザ、あんまりな言い方をするね。ジーナは花も恥じらう女子高生。かよわい女の子の心配をするのが、フェミニストというものじゃないの。フェミニストのあんたが、男の方を心配するとは、本末転倒じゃない?」

「大の男が吹き飛ぶところを見なければ、違っていたかもしれませんね。あれを食らうのだけは、ご免こうむりたいですから」

 ハムザはカタリナに肩をすくめてみせた。

 トオルはカタリナとハムザのやり取りには目もくれず、ラモンの方に視線を向けた。

「ところで大尉。ジーナの学校を占拠した部隊に、心当たりはないか?」

 唐突な質問を受けてラモンは肩をすくめてみせた。

「そうはおっしゃられても、情報がなさすぎますね。今言えることは、緊急出動した部隊の一部が、何らかの理由で分かれたのではないか、ということくらいでしょうか」

「その根拠は?」

「根拠はないですよ。消去法に基づく勘ですね。混乱を利用してネメシスを武力制圧しようと企む叛乱部隊なら、手薄になっているここ、ネメシス駐留基地を制圧しに来るはずですから。そうではなく、軍事設備が全くない学校に根拠地を敷いたということ、そして十分な軍備を整えているということを考えたら、ネト中将の部隊から分かれて出た部隊。こう考えるのが妥当かなと思うくらいです」

「そうだろうな。下手にここに来たら、叛乱の意思がなくても叛乱部隊と思われても仕方がないからな」

 トオルはこうラモンに答えると、再び端末の操作を始めた。

 トオルの他に、端末の操作を始めた人物がいる。ハムザだ。作業用テーブルにも一台端末が置いてあるのを、慣れた手つきで操作している。

「一体何を始めているの」

「まぁ。ちょっと気になりましたから。ここをこうやって、っと」

 トオルの三倍のスピードでキーボードを叩きながら、ハムザはカタリナの問いに答えた。

「私、ハムザさんが真面目に仕事しているのを初めて見た」

「私もだ。女の子を口説く以外に、ハムザが真面目になることがあるとは知らなかった」

「ちょっと、そこのお二人さん。ちゃんと聞こえていますよ。おっと、間違った。危ない危ない」

 ジーナとラモンがからかってきたことにも、ハムザはキーボードを猛烈な勢いで叩きながら何気なく答える。それから、ものの数十秒後。

「出て来た、出て来た。これが知りたかったんだ」

画面に出てきたのは一覧表だった。日付と姓名、そして新旧の所属がずらりと並んでいる。

「ちょっとこれ、人事異動の一覧表じゃない。わっ、半年後まで出てるわ」

 画面を覗き込んだカタリナが驚きの声を上げる。それもそのはず、ハムザが開いたのは、軍機省官房のホストコンピュータだったのだ。

「こんなものを覗いて、大丈夫なの?」

「何ヶ所も間に挟んで第三総軍のサーバーを経由させているから、分かりませんよ。データの書き換えとか、遠隔操作をしない限り、ここまでたどり着けません。大丈夫。そんなことよりも、ナックルの言っていたのが、果たして本当なのか…。うーん、やっぱりないねぇ」

「何がないのだ?」

 ラモンも画面を覗き込んできた。ハムザは、椅子の背もたれに身体を預けたので、椅子がきいいと小さく悲鳴を上げた。

「トオル中佐の現役復帰ですよ。本当に手続きされていたら、まだ本決まりでなくてもこのリストには載っているはずですから」

「やっぱりあのナックルは、でまかせを言ったのか。とんでもないやつだな。このまま言うとおりに参謀長代理を振舞っていたら、中佐は牢屋行きだったのか」

 腕を組み、ラモンはうなった。軍人を詐称して命令を発したら、連邦軍基本法に基づいて逮捕拘禁されてしまう。ナックルの野郎は、何の落ち度もないトオルをハメようとしたのか。そう思うとラモンは怒りに打ち震えた。

「ちょっと待って。あれ、おかしいわ」

 ハムザに代わって、カタリナが端末を操作し、疑問の声を上げた。慌ててハムザとラモンは端末に視線を向ける。今から約半年前の人事異動の画面だ。あるはずの名前がない。

「トオル中佐は退役しているはずなのに、その通知が入っていない」

「えっ、どういうことだ?」

「ラモン大尉、見て下さい。ほら、ないでしょ」

「ほ、本当だ。トオル中佐、退役扱いにされてない」

ラモン、カタリナ、ハムザの三人は、互いの顔を見合わせた。何でこんなことが。三人同時に同じことが頭に浮かんだ。

「確かなことは、ネト中将もバルドック大佐も、このことを知っているということだな」

 ラモンの感想に、二人は同意した。どんな手を使ったか分からないが、退役していないトオルに退職金を支払う手続きができるとすれば、人事権を握っているネト中将以外にありえない。そして、何の権限もないのに、バルドックが臆面もなくトオルに現役復帰を告げ、参謀長代理に仕立て上げることなど、トオルが現役であることを知っていないとできないはずだ。と、そのとき。

「うん、間違いない。これでいけるはずだ」

トオルは声を上げ、プリンターで出力された紙をつかんだ。

「カタリナ大尉、ちょっと来てくれ。確か君は、法務も扱えるのだろう」

「はい」

 何の気構えもなくカタリナは、トオルから手渡された紙を見る。字面を追うにつれて、カタリナの瞳は、驚きでみるみる大きくなっていった。

「ちょっとこれ、えーっ。こんなのアリなのですか」

「やりすぎかなぁ。法令上、問題はないと思うのだが」

「ちょっと待ってください。こんな前例、聞いたことがないので、調べてみます」

 カタリナは再び端末の前に座り、人事異動の画面を最小化させて、トオルの示した方策について調査を始めた。キーボードの傍に置いたトオルのメモを、ラモンが取り上げた。カタリナとは違い、ラモンは字面を追うにつれてあきれた表情になって言った。

「こんなウルトラC、誰も思いつかないだろうな。中佐殿の頭の中は、一体どうなっているのだ」

「どれどれ、うわぁ。これが実現したら、ナックルはどんな顔しますかねぇ」

 ラモンに渡されたメモを見て、ハムザも唸った。そして二人とも、カタリナの操作する端末の画面を見る。条文や判例がずらっと並んでいる。こういう方面に弱い二人は、画面に映し出された文章を二・三行読んだだけで、頭がクラクラしてきた。

「そこの二人、油を売っている暇があるのなら、やってほしいことがあるのだが」

「一体何を?」

端末をカタリナに奪われたハムザが尋ねた。トオルの表情を見ていやな予感がする。

「今度は何を企んでいるのです」

「企むとは心外だな。ごくまっとうなことで、しかもハムザ少尉の好きそうなことなんだけど。嫌ならカタリナ大尉の手伝いでもするか?」

「カタリナ大尉と一緒の仕事をさせてもらえるなんて、何てありがたいことを」

「お前、法律のこと分かるのか」

 ラモンは、すました表情のハムザをまじまじと見た。普段おちゃらけているが実はインテリだったのかと、ラモンはハムザのことを見直しかけたが、とんだ勘違いだった。

「法律?そんなの、分かるわけがないでしょ」

「法律のことが分からなくて、カタリナ大尉のことを、どうやって手伝うんだ」

「そりゃ、決まっているでしょう。お疲れの大尉のために、肩や腰や足の裏や、その他諸々をマッサージ…」

 ゴン!という音が部屋に響いた気がした。ラモンのゲンコツでヒリヒリする頭を、ハムザは一生懸命マッサージする。

「痛いなぁ。ただの冗談じゃないですか。半分本気だけど」

「私はそういう冗談は嫌いだ」

「横暴だなぁ。自分の価値観を、人に押し付けるなんて」

「そろそろ本題に入りたいんだけど、いいかな」

「これは失礼しました」

 トオルに対してラモンとハムザが異口同音で答えた。トオルは笑いを抑えるのに苦労しながら、ラモンとハムザに指令を出した。

「ハムザにとっては、きっと朝飯前だと思う。通信センターに行って、火星中に飛び交っている連邦軍及び市警の無線通信を全て拾い、発信者、送信者、通信内容をまとめて欲しい。基地にいる人間は、いくら使ってくれてもかまわない」

これを聞いて、さすがのハムザも目を丸くした。

「これは無茶なことをおっしゃる。今は非常事態です。一分間に一体どれだけの通信が受発信されているとお思いですか」

「それでも、ハムザにしてみたら朝飯前だろう」

「まったく。中佐ときたら…高くつきますよ」

「みなさん、飲み物でもどうぞ」

 トレーを片手にジーナが入室してきた。人数分のホットコーヒーが用意されていた。最初にトオルにコーヒーを配る。

「気なんか遣わなくていいのに。ありがとう」

「いいんです。どうせヒマだから」

 トオルの感謝に照れながらジーナは答えた。他の三人に飲み物を配るジーナに、トオルは声をかけた。

「そのテレビでも見てるといい。暇つぶしにはなるだろう」

「中佐殿も、若い女の子には優しいんですね」

 ハムザの毒舌に、トオルは意地の悪い笑顔を作った。

「まだまだハムザ大先生には及ばんよ。ジーナ、テレビの傍にリモコンがあるぞ」

 トオルに促され、ジーナはテレビの電源を入れた。だが、どのチャンネルを見てもカラーバーか静止画ばかりで、番組は放映されていなかった。

「…これは深刻だ」

 ラモンが吐息した。暴動の影響は、放送局にも及んでいる。すでに深夜に差し掛かろうとしている今、火星を取り巻く状況を掴む術はないのだろうか。コーヒーをすすったハムザが、苦々しいながらも覚悟を決めた表情を作った。

「今、何が起きているのか分からないままでは、対策の立てようがないですよね。了解です中佐。この仕事、ジーナがくれたおいしいコーヒー一杯で受けますよ」

「それはありがたい。頼んだぞ少尉」

「では」

 コーヒーを一気に飲み干すと、ラモンとハムザはトオルに敬礼を施し、作戦参謀室をあとにした。既に時計の針は、12時を回っていた。

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