「…トオルさん、トオルさん。朝ですよ。起きて下さい…」
ジーナの柔らかい声が、心地よくトオルの耳に響く。今日も仕事だ。まだ覚えなければならないことが沢山ある。部長にどやされないかなぁ。尻拭いしてくれた課長に、また迷惑掛けやしないかなぁ。この前行った新規取引先の仕事、実を結ばないかなぁ。その前に、顔を洗って髭を剃って、ジーナの作ったハムエッグトーストを食べて、着替えて、それから…
「…もう。こっちは徹夜で必死こいてたってのに、エラい人はこれだから…」
ん、この声はハムザ?何でハムザが家にいるんだ…
「はっ!」
突っ伏した顔を、トオルは思いっきり跳ね上げた。事務処理を続けている途中で、寝オチをしたようだ。目の前にあるモニターに、Zの文字が無限に続いている。肩に毛布の感触がある。そして見上げた先には、ハムザとジーナの姿があった。
「おはようございます。ハムザ少尉が来られていますよ」
「…あ、ジーナ。毛布はお前が…」
「そんなことよりも中佐、少尉が」
「おはようございます、タカハシ中佐。お目覚め早々で申し訳ありませんが、すぐに通信センターまで来て頂けませんかねぇ」
ハムザは思いっきり毒のこもった声を出したのだが、寝起きでボーっとしているトオルに、毒は全く通じなかった。
「もう朝か。何か分かったか」
「一晩かけたので色々と。詳しいことはセンターで」
「そうか。それじゃ行こうか」
トオルはあくびを一つすると、肩に掛けられた毛布と畳み、立ち上がった。
「あれ。カタリナ大尉は?」
「中佐が眠られたあとしばらくして、仮眠室へ行かれました」
「そうか。気を使わせて悪かったな」
ジーナの返答を聞いて、トオルは頭を掻いた。
通信センターは、司令部ビルの最上階にある。司令室を兼ねているので、かなり広い。各種モニターや端末がたくさん備えられており、通信士10名ほどの席と師団長や各参謀、連隊長や大隊長など幹部の席も備えてある。大隊長であるラモンは、自らの席に座っており、ハムザに連れられて入室してきたトオルとジーナの姿を確かめると、通信士たちともども席から立ち上がり、トオルに対して敬礼を施した。トオルは参謀長の席に座った。トオルの着席を確かめ、発言の許可をもらうと、ラモンは収集した通信の内容について説明を始めた。
その説明によると、混乱の原因は、ネメシス=シティに隣接するヘルメス=シティに駐在するカイヨー少将の第七七旅団ではないかということ、ネト中将率いる第217師団の本隊は、ウラノス=シティへ向かったようだということ、その本隊から、セイン=ウィン大佐が率いる第1185連隊が離脱して、ジーナの高校に厚い防御陣を敷いて駐留しているということ、火星に点在する各シティに駐在する連邦軍は、各々独自の動きをしていて、全く統制がとれていないということ、統制がとれていない連邦軍の一部は第77旅団のように暴徒化していること、また、別の一部は以後の行動に対する指示を要請していること、そしてウラノス=シティの総督府は、音信不通のままであるということ、ウラノス=シティは、厳重な通信封鎖が敷かれ、上空にはあらゆる人工衛星を近づけることができないようにされているので、様子が全く分からないということ、そして、
「ウラノス=シティで、大規模な熱源反応が感知されています。おそらくウラノス=シティでは…」
「大規模な戦闘行為が発生した…か」
ラモンの言葉に、トオルが続けた。ネト中将が総督府側の応援に行ったのか、それとも叛乱軍側に組みしているのかは分からないが、この戦闘行為に加わっているのだけは確かだ。ネト中将の旗色がどちらか、おそらくウィン大佐は知っている。だが、
「ネト中将のことは、後回しだな」
とトオルは思う。トオルはラモンに、指示を待っている部隊の指揮官には、陣容を整理することと、後日必ず指示を出すのでそのまま待機することを戒厳司令官名で発令すること、そして、暴徒化している部隊には、原隊への復帰を同じく戒厳司令官名で勧告すること、さらに、以上の指示に従った部隊とそうでない部隊を整理することを指示して、席から立ち上がった。
「中佐、これからどちらへ」
ラモンの問いかけに、トオルはあくびを一つして答えた。
「いまいち頭が冴えないので、シャワーを浴びてくる。そのあと基地内を巡回してから戻る。それからジーナ、悪いが当面ローガンダムのパイロットを任せるから、そのつもりで準備をしておいてくれないか」
「了解です中佐」
ジーナの敬礼を確認すると、トオルは通信センターをあとにした。
基地内を巡回した結果、電気水道、そして食料と燃料の備蓄には問題はないが、先日ハムザが言った通り兵員と軍備に不安があることを把握したトオルは、再び通信センターに向かった。午前中のうちにトオルは、食事や洗面の為に交代で休憩をとるよう指示を出していたため、ラモン、カタリナ、ハムザ、ジーナの四人が一堂に会したのは、時計の針が2時を回ったころだった。
「せめて一個連隊、いや一個大隊だけでも残っていたら、楽だったんだけどなぁ」
参謀長席に座るトオルはぼやいた。整備兵といった非戦闘員しか残っておらず、銃火器も不足しているので、トオルが自ら軍を率いて、治安回復に乗り出すことは困難である。市警は、市長の指揮統率下にあるので、軍は関与できない。
「暴徒たちを、ローガンダムで踏み潰したらどうです」
「無実の市民を避け、暴徒だけを選んで踏み潰せたら楽だなぁ。ジーナ、出来るかい」
「そんなの、出来る訳ないでしょ」
ハムザの冗談に乗っかったトオルの要望は、あえなく粉砕された。
「まあ、ガンダムの事は置いといくとして。ところでハムザ。レストランのル・モンドは健在だろうか」
「あの辺は、市警本部も近いので、大丈夫だと思いますよ。今日の晩メシは、そこで食べるのですか。それならご相伴にあずかりたいのですが」
「10年経ったらおごってやるよ」
「それは楽しみですねぇ」
ハムザ自身は、高級フレンチなんかに興味はない。そんなことよりも気になることがあった。
「ところで参謀長代理。例の腹案、いつ実行に移すお考えなのですか」
「そうだなぁ」
ハムザの疑問に、トオルはもっともらしく腕を組んで見せ、カタリナの方を向いた。
「法的な裏付けは取れたのかなぁ」
「本省に問い合わせて、内諾まで取れています。あとは開始のタイミングだけです」
「さすが大尉。仕事が早いな」
「お褒めの言葉を下さり誠に光栄であります。泊まり込みだったので、今日はこれで帰らせてもらってもよろしいでしょうか」
「それは困る。大尉には、まだ仕事が残っている」
ご褒美を拒絶され、カタリナはふくれっ面を作ったが、それもすぐに消えた。理由は、来襲を知らせる警報音が響いてきたからだった。通信士の一人が絶叫する。
「ヘルメス=シティ方面より、二機の未確認飛行物体が接近中」
「モビルスーツか?」
「分かりません。ウラノスからの通信妨害がひどくて。有視界確認もできません」
通信士の回答に不満顔のトオルは、立ち上がって宣言した。
「これから状況を確かめに、ガンダムで出る。準備は整っているか」
「いけません中佐。直々にモビルスーツで出撃など!」
あわててラモンが引き止める。だが、トオルは引こうとしない。
「民間機なのか、戦闘用のモビルスーツなのかも分からないのに、判断のしようがないではないか。直接この目で見ないことには、対処ができん。出る」
トオルは身をひるがえして通信センターを出ようとしたが、ジーナが両腕を広げて立ち塞がった。
「だめです中佐。中佐がここから離れたら、誰が代わりをするのです。ガンダムで出ることなら、私ができます。命じて下さい。ガンダムで出るように」
「そんな危ないこと、お前に命令なんかできるか。お前は学生だ。家に帰れないから、ここに居てもらっているだけだ。戦闘行為をさせるためではない」
トオルにたしなめられ、ジーナの表情が暗くなった。
「そんな。さっき、ガンダムのパイロットを任せると、私に言ってくれたじゃないですか。あれは嘘だったのですか。中佐に頼りにされたの、嬉しかったのに…」
「そ、それは。モビルスーツ戦になる可能性がないと思ったから…」
「中佐。ここはジーナに任せましょう」
沈うつな表情になったジーナを見て慌てふためいたトオルに、ラモンが注進した。
「ジーナなら大丈夫です。十分に訓練を積んでいます。中佐が出るよりは生還率が高いですよ」
「…そうか。私が出るよりは生還率が高いか…」
トオルはこうつぶやくと、意を決した表情でジーナに向きなおった。
「ジーナ。悪いがガンダムで出てくれるか。まず、不明機にネメシス市内に入らないよう勧告するんだ。勧告に従わなかったら撃墜してもいいし、こっちに引き返してきても構わない。判断はお前に任せる」
「分かりました。ジーナ=グリンカ、ローガンダムで出ます」
「くれぐれも、危ないまねはするなよ。危ないと思ったら帰って来いよ」
「分かりました。気をつけます。大丈夫ですから。行ってきます」
学生服姿のジーナは、律動感のある所作で敬礼を施し、通信センターから出て行った。
トオルと一緒にジーナの後姿を見ていたラモンは、トオルを見やってため息をついた。
「それにしても中佐。いつからそんな心配性になったのです。いつぞやの隠密作戦のときなんか、こんな大胆な人はいないと思ったのですが」
「私は自分のことを、大胆だとも心配性だとも思ったことはないんだけどね」
トオルは、ラモンの指摘に不本意そうな表情を作った。そんなトオルに、ハムザがつっ込みを入れた。
「中佐、女の子に気を遣わせちゃダメでしょ。そんなことよりも、ジーナ、学生服姿でガンダム操縦するのかなぁ」
「あんたのそれは、余計な気遣いというのよ。ちゃんと仕事しなさい」
トオルにつっ込みを入れたハムザが、逆にカタリナにつっ込みを入れられてしまった。
一方のジーナは、駆け足で整備班の詰所に飛び込んだ。年季の入った制服を着ている50代くらいの男性の姿を見つけると、ジーナは大きな声で呼びかけた。
「パベルさん。出撃命令が出た。出られるかしら」
ジーナに呼ばれた壮年の整備兵は、作業中の手を止めてジーナの方を向いた。
「ガンダムか。いつでも出れるぞ。ただ、ライフルの弾が少ないから、ジェグナのライフルを持って行け」
「ありがとう」
と述べると、ジーナは詰所の扉を閉め、ガンダムが格納されている倉庫に向かった。ジェグナとはジムタイプの非可変型量産モビルスーツで、現在の連邦軍の主力を担っている。第217師団にも三機配属されていたのだが、全てネト師団長が連れて行っているので、基地に残っているのは、予備の武器弾薬だけである。ジーナは昇降機を操作して、直立しているローガンダムのコクピットに乗り込んだ。手馴れた動作でコクピットハッチを閉め、動力を起動させると、ガンダムのモノ・アイに光がともった。ガンダムはラックに掛けられたジェグナのライフルを手に取ると、そのまま倉庫の外まで歩き出す。しばらくすると、ガンダムのコクピットのモニターに、ハムザの顔が映し出された。いつも通りのにやけた表情だ。
「ジーナ、正体不明の二機は、おそらくジェグナだ。気をつけろよ。ところで、言うタイミングがなかったから今言うけど、ジーナ、学生服姿似合っているな」
「まったく。ハムザさんらしいですね。服装のことなんか、今言わなくてもいいでしょ」
「軍服姿ではなく学生服姿のお前を、中佐殿はえらくお気に入りなんだ。だから、戦果なんか気にせずに、無事に戻って来い。いいな」
「分かりました。ジーナ=グリンカ。ローガンダム、行きます」
ハムザの言葉から感じたトオルの思いを噛みしめ、ジーナはローガンダムを跳躍させた。ミノフスキークラフトシステムの発達と軽量化により、ローガンダムはドダイといった推進補助システムに頼ることなく、重力下を単独で飛行することができる。ジーナはアクセルを踏み込み、ガンダムを加速させた。ネメシス駐留基地が、みるみる小さくなっていく。あっという間に、ネメシスのドーム外縁部に達した。ドームの外で、通信可能距離に二機の不明機が近づいてくるのを待つ。やがてモニターに、不明機についての詳細が映し出された。ハムザの予想通り、二機ともジェグナだった。ビームサーベルとライフル、シールドの標準装備だ。ジーナは、コクピットに備え付けられている集音器を掴んだ。
「接近中のジェグナ二機に告ぐ。ネメシス=シティは第217師団の管轄領域である。所属機以外の進入は許可されていないので、速やかに引き返されたし」
ジーナは警告を発して10数秒ほど待ったが、二機とも撤退する様子はなく、また返信もよこしてこなかった。ジーナはもう一度、警告を発した。
「速やかに引き返されよ。警告に従わない場合は撃墜する。」
しばらく待ってはみたものの、変化はなかった。
「そっちがそう出るなら…」
心の中で決意表明をしたジーナは、ガンダムにライフルを構えさせた。そして二機に対してそれぞれ威嚇射撃を行った。ガンダムが放ったビームは、それぞれのジェグナから2メートルだけ離れた位置を貫いた。神業といっていい。これより近ければ、直撃せずともビームの発するエネルギーで損傷は免れない。かといってこれよりも離れていれば、相手に直撃の恐怖心を与えることができない。そのおかげで二機のジェグナは、直撃を免れようと体勢を崩した。それだけなら、ジーナはまだ様子を見ようと思っていたのだが、二機のうちの一機が、ジーナのローガンダムに向けてライフルを撃った。体勢を崩していたので、射線はガンダムからだいぶ離れた距離を走っていったのだが、ジーナの怒りの導線に火をつけてしまった。
「警告に従わないものとみなし、撃墜する」
ジーナは宣言すると、攻撃してきていない方のジェグナへ急接近した。急接近といっても一直線で向かっていったりしない。ジーナのガンダムに攻撃を加えた方のジェグナが、進撃を阻止しようとライフルを撃つが、不規則にジグザグ飛行をしているジーナのガンダムにかすりもしない。体勢を崩したままのジェグナは、簡単にガンダムの接近を許すと、ビームサーベルを抜き放ったガンダムにいいように斬られてしまった。エネルギーと動力の中心であるバックパックが切り取られ、両足と頭を切り取られる。たった三つの斬撃でジェグナは胴体と腕だけになった。推力を失ってしまったので、バランスを保つことができなくなった。もはや、火星の重力に引かれて落下することしかできない。死角になる位置で斬撃を加えていたので、もう一機のジェグナは、援護射撃すらできなかった。バックパックと足を斬られた段階で援護射撃を諦め、ビームサーベルを抜いてガンダムに接近したのだが、すでに時遅し。頭を斬った返す刀で、ガンダムは恐ろしいほどの正確さとタイミングで、サーベルを握ったジェグナの腕を斬り落とした。そして、同じようにバックパック、足、頭を切り落とす。そして、両腕だけのジェグナと片腕だけのジェグナをネメシス=シティとは反対の方向へ蹴飛ばした。二機のジェグナのコクピットからパイロットの脱出ポッドが射出されたのを確認すると、ジーナは二機のジェグナを射撃、爆破した。
「危ないことするなって言ってたもんなぁ。中佐に怒られるかなぁ」
ジェグナ二機の撃墜を確認すると、ジーナは機首をひるがえし、ネメシス駐留基地への帰路についた。
悲劇の主人公は、青ざめた顔を、向かいに佇む三人の軍人に向け、執務デスクの豪奢な椅子に身体を預けていた。主人公の名前はオーランド=ブルーム。ネメシス=シティの市長である。市長といえば、火星総督の直下で市政の全般を掌握する権力者である。火星は連邦政府の直轄地なので、連邦議会が選任する総督が火星の行政を掌握している。火星に暮らす人々は連邦議会議員の選挙権しかない。総督府には議会がなく、総督を頂点とした火星全域を監理する官僚機構とシティごとに配置されている役人機構のみがある。その役人機構の頂点に立つのが市長である。普通、市長は市議会や市民オンブズマンなどから権力の制約を受けるのだが、火星には市議会も市民オンブズマンもなく、市長はただ総督の指揮監督のみを受ける。すなわち総督の目の届かないところではやりたい放題なので、市長の椅子というのは、誰もがうらやむ羨望の的なのである。本来であれば、我が世の春を謳歌し、満面の笑みを浮かべているはずのブルーム氏が、借金取りに追われる夜逃げ前の貧乏人みたいな表情をしているのは、ひとえに外の環境のせいであった。つい最近発生した暴動が、市警の手に負えない状態にまで拡大し、いざという時の頼みの綱である連邦軍も、どういうわけか雲隠れしてしまっている。市警の機能が麻痺してしまっているのか、本部長はおろか他の幹部にも連絡がつかないので、全く状況がつかめない。しかも、直属の上司である火星総督からの指示を請おうにも、いくら電話しても総督府は出てくれない。このまま暴動が無制限に拡大してしまえば、混乱の責任を取らされるかもしれない。その恐怖にブルーム氏は怯えていたのである。そのブルーム氏のもとに、嫌がるバルドック大佐とカタリナ大尉を伴ってトオルが訪問したのは、ジーナが二機のジェグナを葬ったのを確認してすぐであった。
「君たち、よく来てくれた。礼を言う」
三人の軍人にブルーム市長は覇気のない声をかけた。手入れをされた鮮やかな金髪。白い肌はきめが細かく、40代半ばとは思えないほど若々しく見える。身にまとっているスーツもぴしっとしているので、日々の生活にも女性にも困ることはなさそうだ。それに対し、相対する三人の軍人はといえば、これまた対照的に一人を除いて全くパッとしない。無味乾燥な軍服を纏っていることは仕方がないとは言え、トオルとバルドックの軍服は薄汚れてヨレヨレなので、みっともない。その二人と並んで立っているカタリナは、せめて自分のようにアイロンを当てていれば少しはマシなのにと、心の中でため息をついた。ところがトオルの関心は、そんなカタリナの気持ちには全く向いていなかった。
「いえ。お迎えが遅くなり申し訳ありません」
トオルは声を震わせて深々と頭を下げた。トオルがあまりに申し訳なさそうにするので、横に並ぶ二人も慌てて頭を下げる。トオルは今にも泣き出しそうな表情のまま顔を上げた。
「本来であれば、一も二もなくすぐに市長閣下の御許に駆けつけなければならないところなのですが、師団長のネトが任務を放棄して行方をくらましてしまったため、判断が遅れてしまいました。市長閣下にご不便をお掛けしたこと、軍を代表してお詫び申し上げます」
「いやいや、この建物から一生出られないかとヒヤヒヤしたよ。君たちが来てくれて安心した。ありがとう。ところで、君の名は」
「第217師団参謀長代理のタカハシ=トオル中佐であります」
「タカハシ中佐か。頼りにしているよ。それと、確かあなたは、参謀長のバルドック大佐ではないか」
「はい…」
「何故あなたが指揮を執らないのだ?」
「それについては、私が申し上げます」
表情が冴えず俯いたままのバルドックに代わって、トオルがブルームの問いに答えた。
「バルドック大佐は、任務を放棄した師団長のネトと激しく遣り合ったことで心身に不調をきたしております。病床に伏しておられたのですが、小官が閣下の許に伺うと申し上げたところ、このまま不義理をしたままではいられないと、病身を押して来られた次第です。何卒、寛大なお取り計らいをお願い申し上げます」
「そうか。そうとは知らずに、無神経なことを言った。許してもらえるとありがたい」
ブルーム市長の謝意を受けて、バルドックは頭を下げた。
「恐縮でございます、閣下。つきましては、体調が優れないのでこの場を下がらせて頂きたいのですが」
「結構だとも。くれぐれもご自愛なされよ」
ブルーム市長の言葉にバルドックは敬礼を以って答えた。先にこの場を逃亡するバルドックに、カタリナが恨めしそうな視線を送る。カタリナの隣でバルドックを見送ったトオルが、緊張した表情を作って市長に語りかけた。
「ご存知かどうか分かりませんが、現在ネメシスを取り巻く環境は最悪であると言っても過言ではありません」
「そうだろうな。どことも連絡がつかないので、ここ市長室は絶海の孤島と同じだ。中佐は何か掴んでいるのか」
「はっ。全容には程遠いですが、ある程度でしたら」
トオルは、混乱の原因が隣のヘリオス=シティにあること、第217師団麾下の第1185連隊が帰順して来ず、ネメシス市内の高校に陣取って動かないこと、駐留基地内に残っている兵力はごくわずかで、治安回復に当たることが困難であること、を述べた。
「バルドック大佐から全面的な信任を頂いてはいるものの、その影響力はネメシス駐留基地内に限られており、第1185連隊を含め、他の旅団や連隊をまとめるには、今のままでは役不足で、どうしようもありません」
「何が言いたいのかね、中佐。今の私には、優雅なティータイムを味わいながら腹の探り合いを楽しむ余裕はないんだよ。はっきりと言ったらどうだ」
「これは失礼しました。ティータイムといえば、今、ル・モンドで閣下のために夕食を準備させています。よろしければ、このあとご案内させていただきますが、いかがですか」
「ル・モンドって、あのル・モンドか、フランス料理の」
ブルーム市長の目が輝いたのを、トオルは見逃さなかった。ここが攻め時だった。
「はい。ご不便をきたしているだろうと、せめて食事だけはと思いまして、周辺の治安だけでも回復させました。ですが、小官の今の力ではここまでが精一杯で、完全に治安を回復させるには、市長閣下のお力にすがるしかありません」
「私の力といっても、この市長室から出ることもできないのに、一体何ができるのだ」
「それにつきまして、閣下。そこのテーブルにある端末をお借りすることができますでしょうか」
「あっ、あぁ。構わないが、それと何か関係があるのか」
「順を追って説明いたします。カタリナ大尉、端末を使って準備を始めてくれないか」
「かしこまりました」
カタリナは市長に敬礼すると、トオルが市長から利用許可をもらった端末の席に座り、操作を始めた。その動作を確認したトオルは、改めて市長に向き直った。
「現在、総督府とコンタクトが取れない状態になっていることは、閣下もご存知かと思います。ウラノス=シティを中心に大規模な熱源反応が確認されていることからも、戦闘状態に入っていることは、まず間違いありません」
「せ、戦闘状態!?」
驚くブルーム市長に構わず、トオルは淡々と説明を続けた。
「こうした事態を踏まえ、小官は、市長閣下が、臨時行政長官として治安回復の陣頭指揮を取ることができるか、地球の内務省法制局と協議を行い、内務長官閣下に対する市長閣下からの直々の要請があれば問題ないとの結論を得ることができました。閣下が臨時行政長官となり、小官を保安司令官少将に任じていただければ、小官は持てる力の全てを以って、閣下のご期待に応える所存であります」
「そ、そんなことが可能なのか」
「火星の現況をお伝えしたところ、内務省法制局のバウリー課長は、かかる事態に対し、大変憂慮をなされており、すぐに長官に話を通すとおっしゃっておられました。カタリナ大尉、どうだ」
「今、バウリー課長が、カミンスキー内務長官に取り次いでおられるところです。しばらくお待ち頂けますか」
カタリナの返事に、トオルは力強く頷いた。思いもよらない展開にブルーム市長は、落ち着きを失って目を白黒させている。内務長官は、地球連邦政府の最高行政機関である内閣の構成員であり、火星総督の直属の上司にあたる。その内務長官と、これから直接やりとりを行わなければならない。それも事前準備なしに。こんな事態に直面して、緊張しないほうがおかしかった。そんな市長の内心を見透かしたかのように、トオルは市長に語りかけた。
「ご心配には及びません。長官とは小官が話を致します。閣下は小官のそばで、ただ同意して頂くだけで結構です。それよりも、少し時間があるので、窓の外をご覧になりませんか」
「あっ、あぁ」
トオルがカーテンを開けて外の陽光を室内に導いた。トオルに続いて窓のそばに立った市長は、見たことのない巨大な人工物を見つけた。黒を基調にした人型の人工物。
「あれは、新型のモビルスーツか…」
「はい。聞いたことがおありでしょうか。ガンダムです。ローガンダム」
「…ガンダム。時代の守護神…か」
市庁舎へ向かう前、トオルはジーナに、基地へは戻らずに市庁舎の前に来るようにと命じていた。華奢な姿ながらも何か安心感をあたえる独特のフォルム。しばらくガンダムをじっと眺めていたブルーム市長は、決意を込めた表情でこう呟いた。
「…中佐。君を信じよう」
「光栄です、閣下」
ほどなく、カタリナから声が掛かった。市長とトオルは、カタリナのいる端末席へと歩き始めた。