暑い。地球に何かとてつもないことが起こっているとしか思えないほどに暑い。眩い熱射線は日傘を差しているというのに貫通して私を苦しめる。暑い。本当にどうしようもなく暑い。この傘はお洒落さを優先するあまり真夏には不向きということがわかった。
高杉やヅラが松陽に師事するようになってから一年が経った。その間、特に変わったことがあったかというとそうでもなく、引っ越しをしたり喧嘩したり遊んだり色々して騒がしくも平和な日々が続いている。
そろそろ一人旅してもいい頃合いじゃないですか松陽? え、だめ? まだ何しでかすかわかったもんじゃない? やだな、何もしないってホント。
傘をパタンと畳んで家に帰ると、ご近所さんから頂いた食料を台所に持っていって朝の仕事は終了。一番の収穫はスイカだ。今日みたいに暑い日にはキンキンに冷やしたスイカを貪りたい。冷やすなら近くの川に行かなければならないが、そこまでまた炎天下の中を歩いていくのは面倒くさいな。
うん、そういう時には下僕の出番。汗を拭いて団扇で涼みながら居間の襖をスパン! と開ける。
「スイカ食べる人ー」
「はーい」
「ん」
「食べる」
「俺も」
上から手を挙げて笑顔で答えてくれた松陽、ジャンプ読みながらなおざりに返事をした銀時、オセロの白い石を迷うことなく置いて顔を上げたヅラ、黒い石を片手に盤上を睨みながら言った高杉。
「銀時、スイカ川で冷やしてこい」
「はあ? なんで俺だけこのクソ暑い中外行かなきゃなんないの。今超いい展開きてっから無理」
「その超いい展開は今から私が読むの」
「絶対ェやだ。そこでオセロボロ負けしてる負け杉くんが行けよ。どうせヅラには勝てないんだからよ」
「誰が負け杉だバカ時。黙って行ってこい。雪子直々の指名だぜ?」
「だから嫌なんだろーが」
「つべこべ言ってないで行け!」
尻を思いっきり蹴り上げると観念した銀時が患部をさすりながら家を出た。ジャンプを手にして畳にゴロンと寝転がり、先週の続きを読んでいく。
「……うわマジで超いい展開来てんじゃん」
「アイツも哀れだな。こんな真夏日にジャンプを取られて歩かされるなど。……ふむ、なかなかいい手だ」
「普段自堕落に過ごしているんだ、これくらいがちょうどいいだろ。……何っ」
「あら、小太郎の連勝記録がまた更新されましたか。おめでとうございます」
「てことは高杉の連敗記録も更新だね。おめでとう」
パチパチ雑な拍手をすると高杉の目つきが鋭くなった。酷いなーせっかく人が祝ってあげたのに。
反対にヅラは松陽に頭を撫でられて嬉しそうに照れていた。羨ましい。
「ウチじゃ小太郎の一強状態ですね」
「将たるもの、盤上の駒を思い通りに動かすなんてお手の物です」
「それは素晴らしい。なら、同じように思い通りにならない駒をどう扱っていくかも学びましょうね」
「思い通りにならない……?」
どういうことだと聞いてくるヅラに、知らんと首を振った高杉。私はピンと来た。というか現在進行形でやって来てる。
玄関の戸をガン無視して柵を乗り越えて縁側から帰ってきたその駒とやらは、戸が開けっ放しの居間に転がり込んでビシッとそれを突きつけた。
「これ今日だって!! 行くぜてめーら!!」
花火大会のお知らせ。大きくそう書かれた紙を見せびらかして銀時は興奮気味に叫んだ。夕方から開催される大会には出店がたくさん並ぶらしく、それがコイツの目的のようだ。
「これはまた楽しそうな行事です。銀時、行きたいのですか?」
「行きたい! 綿飴にリンゴ飴、チョコバナナにたこ焼き!!」
「食いもんばっかじゃねェか。俺ァ花火が見てェ」
「派手好きなお前らしいな、高杉。俺はその花火大会とやらに行ったことがないのでな。何があるのやら」
普段の死んだ目はどうしたと言いたくなるくらい生き生きし出す銀時からチラシを受け取ったヅラが興味深そうに内容を読む。が、少しして私が何も言わないことを疑問に思ったみたいで。
「どうした、雪子。さっきから黙って」
「銀時、スイカは⁇」
「………あっ」
やっぱりか。スイカの代わりにチラシ持ってきた時点で確信してたけど、コイツ花火大会に気を取られてスイカどっかに忘れてきやがった。
コキリ、と拳を重ねてさあぶん殴ってやるぞと息巻くと、松陽が手で制してくる。露骨にホッとした顔をする銀時に、あ? とガラの悪い声が出てしまった。
「まあまあ、雪子。落ち着きなさい。ここは私が一つ教えを授けましょう。頼まれたことを最後まできちんとこなせないハンパ者に、遊ぶ暇などありません」
こつん。なんとも気の抜ける優しい拳が銀時の頭に触れた瞬間、ドゴバァ!!! と激しい破壊音と共に肩まで床下に埋められる。
「花火大会に行くのは冷えたスイカを食べてからにしましょうね」
「……ハイ」
「一番スイカ楽しみにしてたの、松陽先生だったのか」
意外そうな高杉の言葉に、銀時は「そんなら松陽が行ってくればいいじゃん」とタンコブをさすった。
「くっそ暑い」
ぱしゃぱしゃ。ぬるくなった気がする水を蹴ってそう言うと、ヅラは口が悪いと顔をしかめる。
「それはしたないぞ。もっと恥じらいと慎みを持て」
「こーんな暑いのにそんなこと言ってられっか。女子は水遊びもしちゃだめなわけ?」
「そうは言っとらん。ただお前は気にしないことが問題だと指摘しているんだ」
ぱしゃん。一際大きな水飛沫がかかってしまい水分を吸って重くなった裾を見下ろして、ヅラはますます不機嫌そうだ。
ミンミンと蝉が鳴き、拭いても拭いても額に汗は浮き出る。川で水浴びをしたいのは山々だが残念なことに無理なので、裾を持ち上げ白い太腿を晒し、桶に張った水に突っ込むことで我慢する。
「つーかお前は川行かないの。あいつらスイカ冷やすついでに水浴びしてんでしょ?」
「あの二人が一緒だとくだらないことで喧嘩するに決まってる。つまらん巻き添えを食らうのはごめんだ」
「あー、どっちを味方してもどっちかに責められるもんね」
この前はカブトムシで、その前は蝉だった。心がいつまでも少年な銀時は納得するが、高杉がそれに興味を持つとは意外である。ただまぁあいつも男の子なんだなぁと思うだけ。たぶん負けるのが気に食わないだけだろうけど。
チリンチリンと涼しげな音を響かせて、風鈴が頭上で揺らぐ。簾が遮るその向こうにはギラついた太陽が輝いていた。くそ、はしゃぎやがって。お前ちったぁ休めよ。毎年毎年すっげぇ元気になりやがって腹立つなコンチクショウ。
「あ゙ーづーい゙ー」
「暑いな……」
縁側に座り団扇を扇ぐヅラも同意するが、正直もっと薄着になればいいのにと思う。私はキラキラと水面の光る足元をじっと見つめた。
「ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ」
「足突っ込む?」
ピタリと動きを止めたヅラは、恐る恐るといったふうに白い太腿がすらりと伸ばされた大きめの桶に視線を落とす。
「もう一個あったよね、このくらいのやつ。取ってくれば」
「ああ、そうだな。そうしよう。うん」
やけに早口で言うと取りに行って、それから時間をかけて帰ってきた。たぷたぷと冷水で満たされた桶はなんだか新鮮に見える。めっちゃ冷たそう。
「いーなーひんやりしてて。交換してよ」
「嫌だ。ぬるくなったのなら入れ替えてこい」
「えーめんどくさい。あーあ、あっついなー。このままだと倒れちゃうなー」
「今日ばかりは何もする気になれないから勘弁してくれ」
舌打ちすると会話が途切れた。それは居心地の悪い沈黙ではなく、涼を感じさせる沈黙だ。チリンチリン……ミーンミンミンミン……ジジジジ……ミーンミンミンミンミン……そうでもねぇな。
「えいっ」
「あっコラ」
耐えきれず隙を見てヅラの方の桶に両足を突っ込むと、やはり冷たい水が肌を包んでくれて気持ちいい。
「なんなんだ一体……」
ぐで〜〜〜っと体を最大限伸ばし上半身を仰向けに倒すと、真っ青な空に浮かぶ透明のガラスと呆れた顔のヅラがよく見えた。
なんだかムカついたので水中でヅラの足を蹴ると水の軽い抵抗感と水飛沫、つるんとした肌の感触が返ってくる。ちょんちょんと爪先で遊べば、はしたない!! とまた怒られた。
「おらガキども、スイカの差し入れだぞ」
「忘れず水分補給をしてくださいね」
「おっしゃアアアアアア!!!」
剣道の稽古が一区切りついたところで呼びかけると、松陽の注意を聞いてるんだか聞いてないんだか、ざくざく切られた一口サイズのスイカを乗せた大皿に大群が押し寄せてくる。
スイカを食べようと争奪戦が勃発し、その先頭を征くのはやはりあの三人だ。
「このスイカは俺のもんだ!」
「バカ言え、冷やしたのは俺だ。お前一ミリも手伝わなかったろ」
「それとこれとは話は別だろう……早い者勝ちだ!」
「お前ら三人ともズリィよ!」
「おいらたちにも寄越せ!」
譲り合い精神のへったくれもない野郎どもの醜い争いを観戦しながら、別の大皿を持ってくる。あれと違いこっちは大きく切り分けてあった。
「はい松陽。みんなに食べさせたかったからあんなことしたの?」
「ありがとう。ええ、みんなで仲良くスイカを食べられたらいいなと思っていたのですが……」
「あの調子だもんね」
「それを狙ってお皿を一つにしたんでしょう?」
「えへ」
シャクッと気持ちのいい食感と共にスイカを口にして、ペッと種を吐き出す。
「雪子ねーちゃん、どうしてこのスイカはこんなにひんやりしてるの?」
「川で冷やしたからだよ」
下僕2号が。ガキの質問に答えながら、やっぱり人が汗流して冷やしに行ったスイカは美味いなあとしみじみ思った。
やがて大皿が空になると食べるものがなくなったガキどもは楽しそうにお喋りする。
「今日の花火大会みんな行くだろ!?」
「行くー!」
「射的やりたい! 景品全部取ってやる!」
「おっ、負けねーぞ。俺と勝負だ」
「金魚って食べられるかなあ」
「食べれる食べれる。一緒に金魚すくい行こうな」
などと賑やかになっていくと、いつの間にか隣に来ていた高杉がちらりと一瞬だけ視線をよこし、すぐに外すと、躊躇いがちに口を開く。
「雪子。オメーはどうする?」
「花火大会? 食う」
「やっぱりか」
銀時と同じだな。なんて言われてしまい、あれと同じとか嫌なので付け足すことにする。私だって食べ物は大好きだがそれだけじゃないのだ。
「一番楽しみなのはそりゃあ花火よ。かなり前に遠くで小さい花火を見たっきりだから大きいの見たいし。祭りは派手じゃないとつまんないでしょ?」
「……フッ。そうだな。祭りは派手に。お前らしい」
「あとはかわいい女の子と一緒じゃないとね」
バチコーンと可愛らしくウインクをすると。
「ああ、うんと着飾ってこい。男冥利に尽きるぜ」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思っておらず、きょとんとまばたきして黙っていると、高杉は背中を見せて行ってしまう。
……まあ、期待に応えてあげましょう。夜に咲く大輪にも劣らない、地上に咲く美しい花に変身してやろう。
夕方になり、松下村塾の生徒たちは授業が終わった瞬間に教室を飛び出していく。
「じゃあまた後で!」
「入口辺りで集合だからな!」
「可愛い着物着ておしゃれしちゃお!」
バイバーイと手を振って一旦家に帰っていく子どもたちを松陽は見送り、さて、とこちらを見る。
「私たちも遅れないようにしないとね。さあ、ゆっくり支度をしてらっしゃい」
なんてことを言われたので、お言葉に甘えて丁寧に準備を済ませていく。
気づけばお気に入りの可愛い着物は少しずつ増えていて、花火大会にはどれがいいかしらと口元に手を当てて考える。うーん、多分あいつらはどうせ普段着と変わらないだろうし、あの地味な色合いで映える色の生地……てなるとこれか。お、今まで着たことない奴だ。
きゅっと帯締めをして鏡台の前に座り、手入れを欠かさず行ってきた自慢の艶やかな髪を梳く。いつもの簡単なまとめ方ではなくかなり手の込んだ編み方で結うと、仕上げにお気に入りの簪を差した。化粧道具箱を開くと薄く白粉を伸ばし紅を引いて、鏡に映る自分を見る。
うん。かわいい。めちゃくちゃかわいい。今までにない最高傑作では? 久しぶりにここまで気合を入れたからか、極上の仕上がりに心から満足する。
ウキウキで部屋を出て、玄関で待っているであろう松陽に披露しようとすると。
「え!? なんで松陽いないの!?」
「ああ、なんかやりたいことを思い出したって先に出ていったぞ」
「そ、そんな……」
一番に見せたかったのに……! 衝撃で崩れ落ちそうになったが、すんでのところで堪えた。松陽の他にもう一人も姿が見えないからだ。
「で、なんで銀時もいないわけ」
「支度なんて待ってられっかって先に出ていったぞ」
「あいつ許さん」
「まあまあ、家を出たのはついさっきだ。それまでは待っていたからな」
「でも今出てってる時点で有罪だよね」
草履を履いて既に準備万端な二人は私の姿を見ても何も言わない。まあ予想通り。
私は上がり框に腰かけて普段履いているボロボロの履物を遠くにやると、下駄を履く。う、重い。指に力を入れて我慢。これ動きやすさ優先にした方が良かったかなと思うが、今日は足元まで隙をいっぺん残らず無くしたい。
……けどやっぱ履き替えようかな。歩き回るなら普段履きしてないのは向いてない。
うーんと下駄を履いたまま動きを止めていると、下駄に視線を落としたままの私の視界にすっと二本の手が差し伸べられる。
顔を上げれば、仏頂面の高杉と仕方がないと言わんばかりの顔をしたヅラがいて。
「花火大会の軍資金はさっき渡したので終わりだよ」
「誰がこの状況で金をせびるか」
「照れ隠しでもしているのか?」
お見通しのヅラがにんまり笑ったのが悔しくて、二人の大きい掌に白い手を重ね、ぎゅっと折れる寸前まで力強く握って立ち上がる。痛みに悶える奴らを放置して、カランコロンと下駄の涼やかな音を鳴らして数歩歩くと、振り返ってにしっと口角を上げた。
ああ、早く松陽に会いに行きたい。
「あれ、あいつらなんであんなとこに」
花火大会への道中、川にかかった橋に松下村塾の生徒が数人集まっている。向こうもこちらに気づいたみたいで、遠くから声を張り上げた。
「おーい大変だ! 川に溺れた太助を助けようとして銀時が……!」
ひゅっと息を吞んだ私の両隣で、高杉とヅラがけろりとしている。
「なんだ、アイツが助けに入ったなら大丈夫だろう」
「布巾の準備でもするといい。なあ雪子? ……おいっ!?」
思考停止したのはほんの数秒。衝動のままに走り出せば下駄が滑って勢いよく転んだ。顔面を思いっきり地面に強打するが構わず下駄を脱ぎ捨てて、着物の裾を腕力にものを言わせて引き裂くと、格段に動きやすくなった格好の私は全力で橋まで駆けつけた。
「あのバカ泳げないくせに……っ!」
「雪子ねーちゃん!」
ドボン!! 今日一番の水飛沫を派手に立てて川に飛び込む。ぼこぼこした泡が収まると太助と銀時を探す。この川は深いし流れも速い。もしかしたらと嫌な予感が止まらなくて、必死になって周囲を見渡すと、見慣れた白を見つけた。
岩にしがみつく銀時と襟を掴まれた太助。安心した私は二人を両脇に抱えて浮上する。
「───ぷはぁッ!」
「ゲホゲホッ、うっ、ごめん、なさい……!」
ようやく空気を肺に取り込んでむせる銀時と謝る太助を河原に引き上げて、落ち着いた太助に訳を聞くと。
「冷たいスイカ、とーちゃんとかーちゃんに食べさせてやりたくて……」
「だからってこんなとこで冷やすな取るな。溺れるに決まってんだろ。もっと森の小川にしろ。バカに案内させるから」
つーか祭りには行かないの? という質問には、お金がないから何もできない、だからスイカを、という答えだった。通りでスイカを食べて騒ぐガキどもを嬉しそうに見ていたわけだ。コイツの家庭環境は不幸だからな。
懐から軍資金を出すと太助の両手に握らせる。
「それでとーちゃんかーちゃん誘って花火でも見に行きな」
「で、でも……」
「私はいーの。あとでアイツらから金巻き上げるさ」
な? と後押しするように言えば、ぐしゃりと顔を泣き顔に歪めて太助は何度も頭を下げて帰っていく。橋の上で様子を見守っていた生徒たちも安心したようで、「またあとで!」と花火大会へ走っていった。
「あー……全身びしょ濡れ。お化粧落ちた。簪どっかいった。……どうやってカナヅチが溺れてる人を助けられんのよ」
「うるせー……そっちこそどうやって金なしが祭りを満喫すんだよ」
「行く気失せた。帰る」
乱れた髪をかきあげて自分の姿を見下ろす。初めてちゃんと着たのにな。自分の手でズタボロにした着物の裾を持ち上げて雑巾絞りの要領で水気を絞る。
水に濡れて様相が変わっても事情を察したらしく、銀時が弱ったように眉を下げた。あんまり見たことがない顔だった。
「………わ、悪かっ」
「謝んないで。自分が悪いわけじゃないなら、正しい行いをしたのなら、絶対に謝んな」
「……わかった」
ふんと鼻を鳴らして俯く銀時から視線を外し、橋の上にいる二人へ声をかける。
「そーゆーことだから! お前らは男だけで虚しく花火でも見に行っ」
ドボン!! 再び大きな水飛沫が二つ。自ら身を投げたバカどもが河原に辿り着いたころには、私や銀時と同じように水に濡れたぼろ雑巾になっていた。
「困ったな。俺たちも誤って川に落ちてしまった。こんな姿では祭りも楽しめまい」
「なんとも間抜けな四人組だ。さっさと帰ることにしよう」
びちゃびちゃに濡れてるくせに大真面目な顔をして言うものだから、私はおかしくて肩を揺らして笑い声をあげる。それにつられるようにして、みんなも。
夕日に染まったオレンジ色の世界の中、みんな花火大会のほうに行ってしまい静かな空間が広がっていて、私たちだけがうるさくてみすぼらしかった。
やがて夕日に照らされた長い影が差して顔を上げる。
「おやおや、こんなところに雨に降られた子どもたちが雨宿りをしている。よかったら我が家でくつろいでいきませんか?」
今なら線香花火もありますよ。買ってきたらしい安っぽいセットを見せて、松陽はいっとう優しく微笑んだ。
「松陽!」
名前を呼んで松陽のもとに行こうとするも、下駄を吐き捨てて裸足のままだったことに気づく。まあ今更か、と転がった下駄を両手にぶら下げた。ペタペタ走ると足の裏がどんどん汚れていく。
「みんな履物を忘れてしまったようですね」
「え? ……ああ、そうみたい」
両手に履物を持ったびしょ濡れの子どもたちが先生に駆け寄って、重なった影がどこまでもまっすぐ伸びた。
翌日。変わらず松下村塾には明るく元気いっぱいの子どもたちの声がひっきりなしに響いている。話題は昨日の花火大会で、集合時間になっても現れなかった私たちに同じような質問が飛び交った。
「なんで昨日来なかったのー?」
「お前ら探したんだからな!」
ねェなんでなんでー? と口々に言うガキどもへ、私たち四人は声をそろえた。
『雨に降られて川に落ちた』
「えーっ、変なのー!」
「昨日は雨なんか降ってなかったよ?」
嘘だー! そんなわけないじゃん! さらにうるさくなっていく教室で、松陽は宝物を見るような微笑みを浮かべていた。