周りは水田で囲われ、しっとりとした片田舎の私塾という印象を受ける松下村塾。
ぼんやりと明かりを灯す家に、間に合ったようだと安堵の息がこぼれた。
「行け。準備ができたならば此処で待て」
「いいの? お前も……」
「……早くしろ」
朧は遠くを睨み踵を返す。その後ろ姿に形容しがたい思いがせり上げて、私は言葉に詰まった。結局言いたいことも定まらなくて、落ち着かない気持ちは体を勝手に動かす。
荷物もほっぽって田を仕切る畦道を走った。
ああ、ここ通る度に色んなこと教えてくれたなぁ。そんな思い出が過るから余計に胸が痛む。玄関の戸を開けるのがもどかしくって柵を飛び越えた。
履物を乱暴に脱ぎ捨て、縁側に転がるように上がって、そこで息を整える。
襖の奥から聞こえる大きな寝息に死ぬ程安心した。まだ奈落はこの家に手を出していない、それがわかっただけでよかった。
「おかえりなさい。今回はまた随分と長かった」
その声にはっとして起き上がる。振り向くと松陽があの優しげな微笑みを浮かべていた。
「こんな夜更けに帰ってきたんですね」
「松陽……」
「これは少々話をする必要があるかもしれません」
「っ、松陽」
「はい。どうしましたか」
じんわりと溶けてゆく穏やかな声が。
もう大丈夫なのだという絶対的な信頼が。
脆く壊れかけた心に響いて、強がっていた虚勢は崩れていく。視界はぼやけ喉が震える。堰を切ったように溢れる悲しみ、寂しさ、恐怖。それらを流そうと涙が目に溜まり私は必死に耐えた。
そんな様子に松陽は少し驚いたようだった。けれど何度も言葉で元気づけて、安心させるように頭を撫でられたらどうしようもない。
「ただいま、……っ」
「ここが君のお家だからね。泣きたい時は泣いていいんですよ」
堪え切れなくなりひたすら声を押し殺して泣いた。松陽はずっとずっとそばにいてくれた。
──────
「……嘘だろ」
しった天井の木目にするりと衝撃は言葉になる。
しかし目を閉じて開けてを繰り返しても変わらないものは変わらない。懐かしい匂いと柔らかな布団に包まれて、また鼻の奥がツンとする。
待て待て、さすがに泣かないぞ。もっと気張れ私。
え、ええー? うっそ泣き疲れて寝ちゃった感じ。恥ずかしいんですけど。松陽が寝かせてくれたのか。もうなんか……色々ごめん。
昨日のあれ、かなり酷かったから鼻水と涙で着物ぐちゃぐちゃになっちゃったんだよね。洗わないと。
涙というのはなんとも便利な代物だ。出した分スッキリしている。吹っ切れたと言い換えてもいい。
うん……まぁ、危なかったのは結構あるけどあんだけ泣いたのは初めてだったし。心が軽くなったのも本当だし。
誰かに言うでもなく言葉を募らせていると、近づいてくる気配に瞼を閉ざした。
そいつは部屋の前で立ち止まり、すぅっと静かな音を立てて襖を開けると早足で布団に近寄った。
影がかかってそこに感じる息遣いに、顔を覗き込まれているとしる。
そいつが何か言ったらネタにしてやると狸寝入りしたのだが、次第に居心地が悪くなってきた。
だって無言なんだよ。すっげぇ気まずいよ。
ずっと顔見てんじゃねぇよそんな変な寝顔なの? あ、意識したら気になってきた。
ムズムズする。つーかクシャミしそう。
タイミングを逃してつらくなっていた私は、突然鼻を摘まれて情けない声を出してしまった。
「ふがっ」
「あ」
たまらず半身起こすと、半端に開いた掌をひらひらさせる銀時を睨む。
「なんだよやっぱ起きてんじゃねーか」
「てっめざけんじゃねーぞコラ」
「騙すほうが悪いんですぅ」
長く見ないうちに神経図太くなったな。
元から備わっていただらしなさに余計なものを入れて成長しやがった。
こりゃ将来ダメ人間一直線だな、と予想する。
銀時も銀時のほうで久しぶりに顔を合わせる幼馴染をじっと見つめる。
なんだよ、と眉をひそめたがんーにゃ? と流される。
「そろそろ昼メシだとよ。ヅラが呼んでこいって」
「あー、うん、先行っといてー」
その顔はやっぱり無気力そうである。しかし去り際が楽しそうに見えたのは気のせいだろうか。
あれだけ死んだような顔をしてたのに、鏡を見ると生き生きとしていて。だから気のせいだと片づけれなかった。
「……もらっちゃったかぁ」
「おーっすテメーら。おひさっ」
そんなわけでテンションが上がった私が、いよっとばかりに手を上げて挨拶してやる。
「久しぶりだな。あと数年帰ってこなくてもよかったぜ」
「晋ちゃんは正直じゃないんだからもー」
「雪子。あとで道場にも行ってくれ。やつらがいつ会えるか騒がしかったんだ」
「ん。わかった」
高杉もヅラも相変わらずで、顔立ちが青年に育っているだけで中身は同じだった。
銀時は道場で剣を振るっているらしく、松陽もそれに付き合っているそう。
話に相槌を打ちながら味噌汁を飲むと、懐かしい味にほっとした。
「おいしいね。料理の腕が越されちゃった気分」
「……今日の当番は銀時だったんだ。感想ならあいつに言ってやれ」
「いやだね」
でも、そっか。
「私いなくてもよさそう」
呟いて、自分でうわぁと思う。
聞かれたかな、と窺い見れば別の意味で固まっていた。
「どこか調子が悪いのか? やけにしおらしいし優しいな」
「……なんだよ。ちょっと思っただけじゃないの」
まぁそういうやつらだよなぁ。
ため息を飲んでご飯を掻き込んだ。
「まぁいい。それにしたって雪子にいなくなられては困る」
「ほう?」
「隣でソワソワされては見ておれんからな」
「してねぇよ」
「俺はお前の事とは言っておらんが?」
何を言っとるんだ貴様はと馬鹿を見る目をするヅラに、高杉はあァ? と青筋を立てる。
ソワソワ。そわそわねぇ……。
「してくれたっていいじゃん」
気落ちした声にぐるんと二人とも顔を向けてきた。なんだか見せられなくて味噌汁のお椀で隠す。ずずずっと大袈裟な音を立てて腹に入れた。
うーん、少し想像してみた。
高杉がそわそわ? 片腹痛いな。気持ち悪い想像をしてしまってせっかくの味噌汁が台無しである。
やっぱないな。普段通りの距離感でいいや。うん。
「あっ、雪子ねーちゃんだ」
「ええ! ほんとだ本物だー!」
「ハイハイハイ本物だから。逃げないからひっつくのやめろ」
だいたいなんなの本物って。偽物いたわけ?
誰かが女装して子どもたちの期待に答えたとでも?
そう聞くと銀時はさっと目をそらした。……え?
「ああ。そういえばありましたね。ニセモノニセモノってものすごい非難を受けてましたが」
「だっ、誰がっ? 教えて松陽、めちゃくちゃ気になるー!」
はははどうでしたかねーと体を揺らされながら笑う松陽。
うわあそこにいたかった!
爆笑してやりたかった!
いや私がいなかったからそうなったけど。
ガキどもに聞いても秘密ー! と仲良く笑うだけである。おしゃべりのくせに……。くそぅ。
「だー! もうその話はいいだろーが! 戦おうぜ雪子ォ!」
「お前どうして……、はっもしかして」
「違うからね! 全然まったくそんなわけないからね、同じ男としてそいつが可哀想だから話逸らそうとしてるだけだ!」
「なんだ、違うの。面白そうだったのに」
所定の位置につき構えを取ると刃を交える。
勝負は呆気なく着いた。奈落と戦い続けた経験故に銀時の刀がのろまに見えたから、当たり前に避けて首元すれすれを突く。
「グッ」
「ぴゅう。これ避けれんだ」
口笛を吹くと倒れ込んだ銀時に手を差し伸べる。
「……躱さなかったら首折れてたんだけど」
「けど現に頭と体は繋がってるじゃない。よかったね」
「お前あれよ? そろそろ自分が気をつけるってこと覚えたほうがいいよ」
「覚えてる。使わないだけだ」
その後も何戦かしてみたが私の圧勝で幕を閉じた。余裕を浮かべてニヤニヤと伏せる銀時を見下ろす。
ガキ共は歓声を上げるだけで次にやりたいって子はいないようだ。
後輩が聡い子ばかりで先輩は嬉しいなー。
すると静観していた先生が名乗り出る。
「ふむ。年長者が圧倒しますか。それもいいでしょう。ですが
「おおおー‼︎」
場は一気に緊迫する。
最後に松陽と試合したのいつだったっけ。
まぁいいか。その時はボロボロにされてたっけな。
でも今は。
視線が交わる。
全てを見透かした深い色がまっすぐに私を見た。
ああと思う。やっぱり先生は先生だ。
気合いを発して走る。高く振り上げられた竹刀は軋むような唸りを上げた。
そして完膚なきまでに潰された。
「おーい雪子、大丈夫か」
ペチペチ頰を叩かれて我に返る。目の前に迫った竹刀を最後に意識が途絶えていた。
「いって………、うわアザできてんじゃん」
「あー、松陽珍しく本気だったよな。つーか初めて見た」
そう。普段も本気で指導する松陽が珍しく本気で刀を扱ったのだ。こりゃ確実にバレてんなぁと他人事のように思った。
「てかさ、お前のアレ何?」
「は?」
「だから、あの……さ、殺気、みてぇなアレだよ」
私達以外に人はいなかった。
銀時は気づいたのだ、私の纏う空気の変化に。
こいつも過去が過去だしね。
わかっちゃうもんなのね、人殺しは人殺しのこと。
「そ。まぁ想像してんのとあんまし変わんねーよ」
だから軽く肯定した。そろそろ夕餉を作らないと。行こうとする腕を掴まれて強く引っ張られる。
「……なんで」
「離して」
「答えろよ……ッ」
低くなった声。声変わりでもあったのかな。いや、前々から成長してはいたけれど間が空いて、ぽんっといきなり変わったように感じるだけ。それだけの空白にどでかい汚れを手にしてしまった。
怒ってるなぁとは思う。
でも謝るのも違う気がした。
「ずっと言ってるでしょ。そのほうが面白いから」
そういう存在なんだよ、私は。
離せ、と冷たく吐き捨てると道場を出た。
「ああ、イライラする……!」
旅に出て、あまり帰省しなかった理由を自覚する。こうなることが嫌だった。松陽に理解されて憐れむような目を向けられるのも、銀時に自ら修羅を歩むことを問われるのも。
私は私の為に刀で人を傷つけ殺してきた。
それはこれからも変わらない。
変えちゃいけないんだ。
その日の夕餉は豪華だった。それもそのはず、この私が手によりをかけて作ったのだから。
久しぶりで感覚が衰えた部分もあったが、そこは旅先で入手した調味料やレシピ、それから器用なお手伝いで補った。
「手伝うぞ」
「んー、いや、いいよ。ゆっくりしてたら」
「………なっ、貴様は何者だ? 雪子の皮を被った偽物か。ケモノか? ならばよし」
「まーた偽物って言う。あいにく私にゃプニプニの肉球はないよ」
野菜に添えていた猫の手を広げる。剣ダコがあってボコボコしていた。トントンと刻んでいく隣で、ヅラは火の調子を見ていた。
「居間で休んでてもいいのに」
「劇物をこっそり入れられたらたまらんからな。一緒に作っていたほうがいい」
「そんなことしないとは言い切れないけど……まぁいいや」
長期保存の利く調味料を手にとってしげしげと眺める。
「なるほど、こんなものもあるのか」
「うん。面白かったよー色々と」
旅に出て色んなものに出会った事は事実だ。華やかなちんどん屋など記憶に残るものを語っていく。
ちょうどいいし、そこに滑り込ませた。
「あ、そうそう。あとで贈り物届くと思うから」
「雪子からか? 一体何を企んでいる」
「松陽の分に決まってるでしょ。お土産たんまりで持って帰られなかったんだ」
これは保険だった。なるべく使いたくないもの。
というか見たくない。もし必要がなかったら目に触れる前に隠滅するだけだ。
というかね。
「さっきからひどくない? なんか言うたびに疑われるんだけど」
「過去の言動を振り返れ。自ずとわかるはずだ」
わかってるって。わかった上で言ってるの。
食事を終えてカチャカチャ食器を洗い、やることをなくした私は松陽の部屋に向かった。
その途中、銀時に来いって命令されたけど無視してやった。どーせ昼間の続きだろう。面倒になるのは目に見えていたので断った。
「……雪子」
「今日ね、松陽に話したいことがあるの。……明日なら話すから」
銀時は顔をしかめた。問い詰めたいことはあっただろうが、やがて袖を掴む手が離される。睨むような瞳にコワイコワイと笑った。
「絶対だぞ」
「………おやすみ」
静かな微笑みを浮かべると私は歩く。
背後から苛立ちをたっぷりと含んだため息が漏れた。