廊下を曲がり姿を隠すと押し殺した吐息をこぼす。壁に背を預けて目を閉じた。
今日一日、大丈夫だったかな。上手く笑えていたと思うが。銀時の怒りの声が、高杉のわかりにくい気遣うような目が、ヅラの心配する表情が。それらを揺るがしてくる。
夜空にぽっかり浮かんだ満月はあの日にそっくりで。
蘇る記憶が流れてきて、奥歯を噛み締めた。
少し自己嫌悪に陥る。
不安なことしかやれなくてやっぱりそうか、と納得した自分に。深呼吸をしていつもの表情を形作る。うじうじしてられない。
ここからが本当の戦いだ。
松陽を護れるかは私の手にかかっている。
「松陽。今いい?」
許可を得て襖をそろりと開いた。行灯の温かみある光が室内を照らし、かたりと筆を置いた松陽が座ったまま体の向きを変える。
「そろそろ来ると思っていましたよ」
「……うん」
「私に言わなきゃいけないことがありますよね」
「……はい」
橙色の灯火はほかほかしている。松陽は特筆すべきほどの面持ちでもない。にも関わらず、声から滲み出る凄みに思わず敬語になった。
気のせいかな、優しげな顔に般若が見えるんだけど気のせいかな。気のせいだよね?
向かい合って正座し、私は俯く。
切り口を変えるべきか悩んだ。松陽の正体のあれこれとか、朧のことなんて言おうとか、最初に計画していた道筋がぐにゃんと曲がる。
「話してごらん。私は最後まで聞き遂げますから」
大方察しているだろうに、心中は穏やかでないだろうに。ここでも先生は先生だ。
直接問いただすのではなく、自分から伝えるのを待っている。血に塗れた私を、それでも。
口にして壊れてしまいそうで怖かった。
奈落に殺されかかるよりも居場所がなくなるのが嫌だった。
戻れないところまで来てしまった。
他人の命を背負うには無責任な思いを携え、渇きを潤す為に彷徨う童。私は癇癪を起こして喚くガキと何も違わない。
「私ね、人を殺したんだよ」
言った。言ってしまった。
「たくさんの人を斬った。痛めつけて殺すようなことはしなかったけど、たぶん、苦しんで死んでった」
鮮やかに蘇る記憶。
命が尽きる前に浮かぶのは私への恨みと死の恐怖。それすらも意識せずに死んでった者もいるけれど。
「でもね、後悔していないんだ。愉しんでたの。私、人を殺して喜んでた」
ああ、まただ。瞳に水膜が張る。
涙はずるいものだと思う。そうやって嫌なことも全部流してくれるから。抱えていたものをするっと掻っ攫ってくから。まるで許しを乞うているようで、本当に嫌いだ。
口を塞いでしまいたかった。
大好きな人に醜いところばっか見せて。こんな姿を見せたくなかった。これが私なんだとしられたくなかった。
甘えて、護ろうとして、汚れて、自分は何がしたかったんだろうって虚無感を感じて。
かちかち、と歯が鳴った。
「異常なんだよ。命を奪うことも、愉しむのも平気だった。ただそうやって慣れていくことが……戻れなくなっていくのが悲しかった。私は松下村塾が大事で、失いたくなくて。でも、もうここにはいられない。いちゃいけないんだよ……」
掠れて消えかかった言葉。
私には、あまりにあたたかくて眩しいから。
一日過ごして痛感した。純真無垢でやさしいあの子たち、その輪にいる異物感。松下村塾という大きな光を貪る闇。
いつかこの手で壊してしまうんだって、不安定な思いは確固たる将来図になった。
一緒にいたい。
いちゃいけない。
すれ違った思いはどちらも本心だ。
「……だから松下村塾を離れると?」
濡れた瞳と静かな憤怒を湛えた目がかち合う。
息を止めた。すぅ、と指先が血の抜けたように冷たくなっていく。
「雪子。君はあまりに勝手だ」
ぼんやりとした光に包まれているその顔は、温和な性格からは想像つかないほどに凍てついている。
一体何を言われるのか。未知の領域に踏み込んでいる気がして、耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
「自由気ままな君が己で選んだ道に嘆くだなんて馬鹿馬鹿しい。誰よりも自分の望みを叶えてみせるのに、それを後回しにするだなんて。雪子はそんなにいじらしい子ですか?」
「…………、え」
言葉を失った。
人を殺めるなんて、と憤慨すると思った。
教えに反する道を歩いたと、哀しまれると考えてた。
「雪子は冷酷で狂った人殺しでも、まして怯えて逃げ出すような子じゃない。独りでなんでもかんでも抱え込む優しい子です。家族を護ろうと頑張るただの女の子だと。私はそうしっている」
少し、混乱していた。
果たして松陽はこんなことを言うだろうか。
いいや、断罪されるべきと思い込んでいたからか。無意識に叱られ、許されることを望んでいた?
勝手だと言い表された。正鵠を射るとはまさにこのことだと思う。まぁ、ずっとそうだと自覚しているけれど。
「……正直に言って、君が道を踏み外すことは避けられないと思っていました」
「それは、私が人間じゃないから? バケモノだから?」
平然と言ってのける。
「やと、って言うんだっけ? 詳しく聞いてないけど。何なのそれって」
「ええ。夜の兎、と書きます。宇宙三大傭兵部族の一角ですよ」
夜兎。宙に指で字をなぞらえる。
透き通るように白い肌。尋常ならぬ剛力。大食らい。日光を苦手とし戦いを好む天人。マジかよ特徴ぴったしじゃんかスゲェ。
あんだけ天人に会ったら面白そうとか思ってたのがまさか自分がそうだったとは。
ここまでくると笑いが込み上げてくる。
「夜兎はその危険性から他の種族達によって故郷の星を滅ぼされ、今や絶滅寸前の希少種、と……」
「雪子は種族としての本能に従順だった。じっとしていられず、争い事を探しては奔走する……。昔から君はまっすぐだった」
けれど、と。
松陽は優しさを滲ませた瞳を伏せた。
「我儘を言うなら、君に足掻いて欲しかった。その手で運命に逆らうことが可能なのだと教えて欲しかった。……私は奪うだけしかできなかったから」
「それって、奈落の首領だったことを認めるの?」
「やはりしっていましたか。……どこで聞いたんです」
「奈落に襲われて、そこで色々聞いたの。私のこと。松陽のこと。……虚のことも」
ねえ、松陽。
本当にあなたは何百年もたった一人で生きてきたの。不死の力を得、朧にそれを分け、どれだけの人間を殺したの。
人間に死を与えられそれでも蘇り、終わりのない生に苦しめられてきたあなたは、今何を思って何を感じるの。
これまでの人格が消えたのなら、松陽だって消えちゃうの?
願うことなら嘘だと言って。
そんなことないって笑ってよ。
「…………雪子」
ねえ、松陽。
どうして悲しい顔をするの。
「……いいよ。もう、わかったから」
朧の言ったことは正しかった。
嘘ならどれだけ救われたのかな。
ううん、救われるなんてどの口が言うんだろう。
私は救われるような存在じゃないのに。
「君は誰にも告げていないでしょう」
こくりと頷く。
考えることもしなかった。
「一人で抱え込んでしまったんですね。本来なら君が背負う業でないというのに」
「それは……違うよ。絶対、ちがう」
「いいえ。君に伝えようとしなかった私のせいです」
毅然とした口調で松陽は言う。
バカなことしかしなかった私を。勝手なことして余計な痛みを背負った私を、それでも護ろうとしてくれる。
「君は充分戦った。……これ以上自分を大切にしないのはやめなさい」
どうしてそんなこと言うの。
私がやりたかっただけなのに。自分の意思で、屍が無数に転がる崖を選んだんだ。
大切にしていない? ううん、そうじゃないんだよ。私は善い奴じゃないんだ。何一つ護れはしてないのに、私だけが楽になってしまえと言うのか。
この世の掃除とかほざいて殺した攘夷浪士。優しく世話を焼いてくれた老夫婦の最期。母を残して生きる為に必死だった子ども。子どもの無事を祈っていた母親の恐れ。
奪ってきた命は、抱えた苦しみは、行き場のない想いは一体どうなるの。
「もう自由になってください。君は君の願いを叶えていいんだよ」
やさしく、とけるように脳を浸す。
……願い。それは半ば叶ったようなものだ。
奈落に襲われ命の危機を本能が感知した時、暴れたい衝動と家族に会いたい欲に駆られた。前者があまりに強くて意識は吹っ飛んでったけど。
だから充分だと決めていた。
けれど、その先を望むのならば。
「私は……」
あんな思いはしたくない。
死に際の、あの永劫にも思われる痛みに蝕まれていくのは。ただそれを受け入れるしかない無力さも、ゆっくりと死に近づいていく感覚も。
私は何がしたかったのか。
簡単だ、松陽を護りたかった。私がやらなきゃって、私の意思だから構わないって、この手を赤く染め上げたのだ。
それはまるで朧と変わらないじゃないか。
否定されたのだろうか、わからない。
これまで積み上げたものにヒビが入る。
今までやってきたことが正しいなんて思わない。
それでも間違っていないと信じたかった。
後悔はもうしていない。
そうでもしなきゃ帰ってこれなかった。
家に帰りたい。あいつらに会いたい。その願いは叶ったから。
だから。
「松陽、ここから逃げて」
私はやっぱり、あなたが一番大事なんだよ。
自分よりもずっと。
「奈落が追いかけてる。やつらの狙いは脱退した元頭の松陽なんだ。ここにいたらいずれ、いや、明日にだって襲撃されてもおかしくないんだよ」
「私だけが……?」
「松陽が生きてさえいてくれたらいい。松下村塾だって、きっと……」
松陽のいない松下村塾なんぞ奈落は眼中にもないだろう。
だからこれが最善手だった。
その代わりに多くのものを失ってしまうけれど。
わかっていた。松陽が居なくなった時点で松下村塾はなくなる。別の先生が来て教えを説いても、その人は松陽じゃないから。
松下村塾という名前だけが無様に残った、まったく違うものになるのだ。それは居場所を失うのと同じ。家を壊すことと同じだった。
……でも、私の、あいつらの護りたいものを貫くにはこれしかなかった。
しかし松陽は優しく首を振る。
さらさらと髪が流れ、諭すような声音で包んだ。
「雪子。私はそれを松下村塾とは呼ばないよ。……気に入っているんです。今の生活を」
「でもっ……!」
「教え子と先生、そのどちらも欠けてはならない。それに一人だけでおめおめと逃げ出せませんよ」
松陽の大切なものも、痛いほどしっていた。
故にどうしてと喚いても無駄なことも。
どうすれば、と下唇を噛んだ。
きつくきつく拳を握り頭を回転させる。
これ以上何を言ったらいいの。どうして松陽を護れないの。
冷静さをかなぐり捨てて、滑稽なまでに考える。
笑いたきゃ笑えばいいさ。ファザコンだって罵られても結構。生きてほしくて、笑ってほしくて、必死にもがくことのどこが格好悪い。
そこで、頭を撫でられていることに気づいた。
「……? 何してるの」
「いえ。頑張ってくれているなと」
「あのねぇ、私は必死に……!」
「わかっていますよ。だから嬉しいんです」
柔く微笑む松陽は言葉通り純粋に喜んでいる。
「一人では逃げないと言ったでしょう。ですが、みんなでなら話は別です。しばらくはキツイ旅になるでしょうが、まぁ大丈夫ですよね」
ケロリと告げられてぽかんとする。
少しの間をとって理解すると、今度は硬直した。
「さぁ雪子。今夜はもう寝なさい。明日は早くから出発しますよ」
「えっ。え、マジで? ほんとに?」
「本当ですとも。だから寝なさい。君には休息が必要です」
絶対だかんね。と何度も念押しして部屋を出た。
しばらく歩いてくまなき月の光を浴びて縁側にぺたんと座り込む。
ダメだと思った。9割ぐらい終わったと思った。
諦めはしなかったけれど、絶体絶命だと思った。
「はぁー、よかった。………よかったぁ」
これなら奈落がここに来る前には間に合いそうだ。ともかく松陽の言う通り体を休ませなければならないだろう。今すぐ部屋に戻っても構わなかったが、まだ少し外の空気に触れていたかった。
膝を抱えて座る体勢に変える。
……朧のことどうしよ。
あいつ一応真実話してくれたんだよな。一番弟子なんだよな。存在をしらせてたほうがいいよね……けどさぁ。
傷跡一つないボコボコした掌を見つめる。
青白い光が透き通るように本当に真っ白だ。
かつてはあんなに赤黒かったのになぁ。
錫杖を鳴らして見下ろす目。本気で殺そうとした鋭利な殺意。寂しそうな横顔。そして、松下村塾に向けた背中。
それらがどうにも頭から離れてくれない。
元々の作戦は私が松陽を説得して連れ出し、朧の協力を得ながら逃亡を手助けする。それだけだった。
逆にそれぐらいしか打てる手がなかったに過ぎないのだが。
いくら私と朧がいても、本気を出した奈落には敵わない。それは二人の共通認識だ。
加えて松陽のお供をするのなら、なおさら殺生は禁止であると。
松陽の為に、自らを道理に外した私達がそれでもやれること。ずっと考えていた。
「準備できたら待てって言ってたけど……」
びっくりするよなぁ。ずっと護り続けた師匠にようやく会えると思ったら、そこに弟弟子達もくっついて来ているって。滅多に表情の変わらない奴の驚く顔を想像してしまい、穏やかに頰が緩んでくすりと笑った。
「………よかったなぁ」
それはそれは幸せな未来だ。
ゴタゴタはあるだろうが今やれる中で最も良い道だろう。
うとうとと眠気がさして、明日に備えて眠ろうと立ち上がる。
うーん、もう明日でいっか。
松陽に朧のこと伝えんの。
殺されかかったしいいよね。お互い様だけど。
さて、あいつら何時に起こしてやろうかな。
暖かな気持ちが広がって、明るくなり出すこれからに柄にもなく希望を持った。
……ピリッ─────
身に覚えのある殺意に、びくりと体を震わせる。
弾かれたようにある一点を睨む。星々が燦然と輝き丸い月が昇った見事な夜空、その下に。
ゆらゆら、と不穏に揺れる橙色。
しゃらんしゃらんと遊環が鳴る音。
増幅された殺気がはちきれんばかりに膨れ上がっていた。
縁側を駆ける。松下村塾の門前に飛び出して。
そして足が竦んだ。
……なんて数。戦ってどうにかなるもんじゃない。今までの強襲が可愛く思えてしまうほど、今回は本気だってまざまざと見せつけられた。
いや、この際数なんてどうでもいい。
それよりも、だ。
朧は私を裏切った。
その事実に驚愕する自分がいて、とても嫌になる。
「雪子、これは一体……!」
気配を感じ取った松陽もすぐに外へ出た。
徐々に距離を詰める奈落の連中を視線で捉え、松陽は驚きの吐息を漏らす。やがて姿形がはっきりとして、率いるように中央を歩く男に気づいた。
「まさか……君は」