切っ先の欠けた刀と違い、一部の欠落もない抜群の斬れ味を保つ刀を構え、桂は警戒を強めた。
「銀時、これを」
懐から取り出した小瓶には、とぷんと黄緑色の液体が注がれている。有害そうな液体を飲まされるも数秒すると体に力が戻ってくるようであった。
「お前、なんでここに……」
まだ痺れは残っているが、動かせるようになった唇を無理やり形作って銀時は聞いた。
そもそも桂は、逃げの小太郎の異名を持つほど堅実で聡い戦を得意とする。今回も点在する部隊の中央あたりで全体の指揮を執っているはずだ。
だというのに何故ここにいるのか。
答えは血を吸った重たそうな袖が示す。
触れれば爆発してしまいそうな苛烈な怒気、そして冷ややかな殺意を込めた気迫が放たれる。
ぴりりと空気を震わせるほどの気配に、銀時は痛みを忘れて気圧された。
「我が友をこれ以上傷つけることは断じて許さん。師と友を奪った咎。部下を屠った罪。その命で償ってもらう」
時は少し前に遡る。
戦場を駆ける攘夷軍は幕軍と鬩ぎ合いながらも前線を広げていた。白夜叉や鬼兵隊の活躍もあり桂も第一線に出、奈落の襲撃を受けた。
「貴様らはあの時の……ッ」
松陽と雪子を連れて行った連中のことを片時も忘れたことはなかった。憎しみ、怒り、そういったものが湧き上がり、切っ先を揺らす。
恐れたわけではなかった。
今すぐに奈落の者共を殺し、二人の居場所を吐かせなければ。ずっと願ってきた機会が転がり込んできて桂は震えた。
奥底に眠っていた激しい憤りが表に現れ、桂は容赦なく刀を振るう。視野が狭まり目前の敵を消すことだけがその時の頭を占めた命令だ。
彼は将たる所以の、守る戦いを捨てた。
「は……あああああ!!」
雄叫びをあげ、臆病者の皮を剥ぎ捨てて闘った。
奈落を次々と斬り伏せては、乱入する天人までもを倒していく。普段見せない激昂を喉が張り裂けんばかりに吐き散らし、血を咲かせた。
そして倒した敵を数えるのも面倒になってきた時、耳に届いた助けを求める声。
「かっ、桂さん! 助け、あああッ」
悲鳴は絶叫に変わり、はっとして視線を巡らせると今まさに部下が殺された。どっ、と上体から錫杖が突き出て、半端に伸ばされた手が力なく垂れる。
桂は凍りついた顔でその様を見ていた。
───なんてことだ。俺は怒りに我を忘れ、部下が命を散らすのを眺めることしかできないなんて。
「俺の部下から離れろ!!」
刃を振り上げ桂は走り出す。
障害となるものは斬って斬って、味方を守るためにその身に傷を負いながらも桂は駆けつけた。
「桂さん!」
「待たせたな」
───俺は二度と将であることを投げ出さない。
お前達を後ろにして臆病者で在り続けよう。
桂は強く誓った。
ひとまず軍勢を退け束の間の平静が満たす。
それも向こうで出方をさぐる小軍隊が動き出せば消え去ってしまう泡沫のようなものだったが。
前線から遠のき態勢を整え、他の部隊との合流を図る。奈落が潜入しているのでは作戦が狂う。
やつらは暗殺技術に特化した部隊だ。
ある程度減らしたが、ここだけに全投入とは考えられない。
つまり他の部隊も襲撃を受けているのではないか。先陣切った銀時達や、鬼兵隊がそうでないと言い切れるのか。さらには数年前のあの日姿を現した朧も、行方不明の雪子もここに?
ギリ、と桂は歯噛みした。
焦る……あいつらならば大丈夫だ……探せば会えるかもしれない……焦るな……ここを動くわけにはいかない。
ぐるぐると思考が巡り、パン!! と背中を叩かれて我に返った。
「俺達は大丈夫だ。早く行け!」
「堀田、お前……」
「貴様はあいつらが心配なのだろう。手遅れになる前にさっさと走れって言ってんだよ!」
部隊は合流し戦力が集まりつつあった。抜けるならば今しかない。
ありがとう、と力を込めて言い残し、桂は少数部隊を率いて行った。
途中、鬼兵隊が雪子と数名の奈落と対戦しているのを見た。加勢すべく駆け寄るも高杉の言葉に断腸の思いで張り切り、ひた走る。
そして時は現在。
銀時の首をはねようとした刃は折れ、桂は朧を睨み据えていた。
「ここまで来るのに奈落とやらを何人斬り捨てたことか。だがこちらに向かって正解だったな。まさか奪った解毒剤がすぐに役立つとは思わなかったよ」
「そうだ、ヅラ! 雪子が───」
「ああ。鬼兵隊と交戦しているところが見えた」
瑞々しい活力が湧いてきた銀時は瞠目した。
三人のうち誰かが雪子と刀を交えることは薄々感づいていた。そして恐らくそれは自分だろうと。そう思っていた故に銀時は驚いたのだ。
口で止められるのならどれほど良かったことか。
しかしそう単純な性格は誰もしていなかったので力でねじ伏せ、刀で言うことを聞かせてきた。
物騒な感じだが結局は子どもの頃の名残。
松下村塾で過ごした彼らなりの円滑な生活の術だ。
「加勢しようとした俺を殺す勢いだった。ああなってはもう止められんさ」
「……高杉は何つってた」
「俺に任せろ、と」
ふっと銀時は口角を上げた。
バカじゃねぇの。そうやって止められたこと、一度だってないじゃないか。それでも一人で雪子を救ってみせると言ったのか。とんだ大法螺吹きだ。
そして銀時は自分が笑い、余裕が生まれていることに気づいた。つい先ほどまでには考えられなかった変化だ。
それは桂が助力に来たからである。一人から二人になって、心が強くなったように思えた。
「言うようになったな、あのバカ。いいんじゃねぇの、委ねてやる。その代わりに俺達も委ねられた」
「そうだな。あの時の借りを返してやらねばなるまい」
銀時と桂は、朧へ刃を突きつける。
「二回戦突入と行こうじゃねーか!」
「やつの分まできっちり果たさせてもらうぞ!」
──────
こちらでも、天を旋回する烏が鳴いている。
「あれ、他の二人は来ないんだね」
「てめぇなんぞ俺一人で十分だ!」
「っと、そう。まぁいいや」
高杉の刃を軽々しく受け止めて流す。さっきから同じことの繰り返しだった。余裕を持て余す雪子は楽しそうに軽口を叩く。
「太刀筋はまぁまぁってとこかな。強くなってると思うよ? 私には敵わないだろうけどな。にしてもあそこからよく頑張ったねー。えらいえらい」
「ばかにしてんじゃねぇよ」
「あーわかっちゃう? だって久しぶりなんだもの、ゆっくり話させてよ。どうせ後先短い命なんだからさ」
戦場を支配しているのは雪子だった。ひゅんと風を切っては舞うようにして鬼兵隊を蹴散らす。
いつのまにか奈落が数名ほど助太刀しており、雪子の笑顔はますます胡散臭くなっていった。
「私を足止めして……ううん、足止めされてあげてるけど。こうしている間にも大切な部下は斬り殺されてるねぇ。たぶん奈落のやつら、銀時とヅラも襲撃してんじゃねーの? ああ、朧は銀時のほうに行くって言ってたよ」
「少し黙れ」
「やめないよ。楽しいの。止めちゃったらつまらなくて死んじゃいそうだ」
蔓延る空気はどこまでも薄ら寒い。雪子が投げかける言葉にまったく温度は伴っておらず、高杉の返事は短く冷たい。
あたりに散らばる肉片と破壊された甲冑や刃物。
たった今頰を裂いた痛みも忘れ、高杉は叫んだ。
「ふざけるな!! 楽しいだのつまらないだの、ゴタゴタ抜かしやがって……。てめぇは何のために
すぅっと雪子の表情が消えた。
それも一瞬のことでまた笑顔が貼り付けられる。
「そりゃあ言ったろ、お前達の首を───」
「……ッだから! それにふざけんじゃねぇっつってんだよ!!」
高杉は自殺行為とも取れる鍔迫り合いを挑む。ぐぐっと力を込めてもピクリともしない剛力に冷や汗が流れる。
ただ、今しかないとないと思った。
雪子の核心の近くを探っている状態だ。
硬い硬い核を壊せ。やつの余裕をぶち破れ。
「あの日テメェは裏切り者に成った。そうすることで無力だった俺達を護ったんだろ? そうして組織に戻った。たくさんの人間を殺した! 殺させたのは俺達のせいだ」
まるで……まるで罰は自分達にあるような言い方。雪子は抑えようとした冷笑が漏れた。
小刻みに肩を揺らすと、少し水の滲んだ瞳はどろりと彼女の奥をわずかに映し出した。その吸い込まれそうなほど塗りつぶされた闇色は拒絶で彩られる。
「笑わせないでよ。じゃあなに、私はお前達のために戦ったってわけ? ……違う。私は私のために人を殺してきた!」
それが雪子の生きる術だった。
命令された人物を殺せば松陽に手を出さない。
そう言われてしまえば従うしかなかった。夜兎の本能に従っていればぽっかり穴が空いた心が満たされた気がした。
種族を認識する前に彼女は人を殺していたのだ。
「期待はずれだな。お前達なら、きっと……」
囁いた言葉に高杉は息を呑んだ。
雪子がふ、と唇に弧を描く。
「けどお前じゃだめ。殺せない刀じゃ誰も止められないさ」
ついに雪子の刃が高杉の左腕を斬り裂いた。
そして高杉の勢い余った凶器は雪子の太腿を貫く。白い肌に野蛮な刀身が突き刺さる。
大きな傷を与えたというのに高杉は苦しげに顔を歪めた。
「なぜ……」
「なぜ? はっ、お前が言うんだ。私、結構腹が立ってるんだけど」
どうして刃を流し、折って、躱してばかりで、こちらへの攻撃を疎かにする。こうしてわざわざ傷ついてやらねば高杉は割り切れないだろう。
雪子を傷つけることに躊躇っているのか。この男はそんなに甘かったか?
苛立ちを滲ませた低音が口から出た。
「……覚悟あんの?」
たとえ殺したとしても、かつての仲間を止めるために傷つける覚悟が。
「私は敵だ。攘夷軍を滅ぼす幕府側だよ。……あ、それともこう言ったほうがいいのかな」
雪子は足に突き刺さった刃を高杉へ放り投げた。
すると彼女が持つ武器は何一つなくなる。だが萎縮するどころか増幅していく強者の気配。
「私は夜兎。天人だ。人間じゃないんだよ。……よかったな。これで私を倒せる大義ができたね?」
鬼兵隊総督と獅子喰い。
攘夷軍と幕軍。
人間と天人。
彼らはどうしたって相容れない存在だった。
白くほっそりとした四肢を地上につけ獣のような構えを取る。刹那、大地を穿つ咆哮が轟くと目の前に迫った鉤爪。
「───ッ!!」
裂かれる未来は免れた。だが鋭い蹴りが腹に入れられ宙を舞った体へ、追い討ちをかける二撃、三撃。かは、と血を吐いた。
「そうやってただ無様にやられに来たの? 止めようとしても止められず護りたい者も目の前で死んでいく。何もできずに見続けることしかできない! それがお前達だ! 力がないのなら
荒く呼吸をする。
だめだ、言いたくない。雪子が強く噛んだ唇から赤い血が伝う。それ以上何も本音を口にすることがないように。強く。
だというのに、高杉は笑って言う。
「はっ。お前はそんなに弱っちぃやつだったか? お前の言う余計なものっつーのは、先生が抱えて生きていくべきものだと教えてくれたものだろ」
「そ、れは」
「……誰かを失い続けて俺達は
敬愛する師の教えに彼女の手が震える。
高杉は立ち上がり武器を手にするとさらに続けた。
「雪子。お前も誰かを失ってきただろう。だがそれから逃げることは、吉田松陽の弟子であることを放棄することと同じだ」
逃げてなんかない!
心中で大声で叫んだ言葉は喉に引っかかって、ついぞ出てきてくれなかった。
雪子の脳裏にいくつもの記憶が浮かんだ。
見ず知らずの彼女に優しくしてくれた老夫婦や引き裂かれた親子供。
雪子の手の届くところで死んだ者たち。
命が絶たれる瞬間を見ることしかできなかった己。
すべてはそこから狂い出した。
いや、加速していったのだろう。
任務で暗殺した幕臣。斬り殺した攘夷志士ども。
老夫婦や親子のように互いを思い合っている人間たち。彼らにだって死を悲しんでくれる人間はいただろう。大切に思う人間はいただろう。
雪子は誰かを失ったわけではなかった。
ただ、その誰かに失わせてしまったのだ。
しかし……どうして抱えなければいけないのだろう。そいつが死ななければもっと多くの人間が死んでいた。必要な犠牲だ。
そんなやつだって、自分は背負わなければいけないのか? 正真正銘の悪なのに?
「───うるさい」
二人は距離を詰めると拳と刃をぶつけた。
高杉が唸り声を上げて雪子の身を裂く。
「ぜああああああッ!!」
「──────!」
二人の表情は対照的だった。
彼女を斬るたびに、自身もその部分に痛みが走ったように感じられる。そんな苦痛や胸に広がる感情に耐えるため、高杉は顔を歪めて戦う。
雪子はいつしか笑顔を取り戻していた。それも強がりに過ぎないのだとわかる虚勢。
片腕を掴んで一本背負いをしかけると、空いたほうの腕で抵抗される。致命傷となり得る攻撃は避け、徐々に傷の増えていく身体。
やはり雪子が優勢であった。彼女の武器はしなやかに伸びた体だ。四肢は丈夫な防御にも、鋭い攻撃にもなる。
さらに周りでは鬼兵隊が押され気味だ。総督である高杉がやられているのでは士気が落ちることは自明の理。
「はああッ!」
ついに雪子から叫び声が上がった。
傷だらけの手を握り、振り上げると高杉の体にありったけをぶち込む。吹っ飛ばされていった先を、ゆたりと追っていく。途中で長刀を拾い、斬れ味を確かめるように肉塊を斬る。
つっ、と音もなく断つ。どうやら首を刎ねるには充分らしい。
地面に蹲り激痛に悶える男を見下ろした。
明るい語調を取り戻し歌うように滑らかに紡ぐ。
「ねぇ。誰が助けてなんて言ったの。いつお前らが私に手を差し伸べるほど大きくなったの。どうしてお前達もこっち側に来たわけ」
いっそ悲しそうにも見える表情を浮かべ、雪子は滔々と尋ねた。
自分や銀時は既に血に染まっていた。
だから新たに屍を重ねようが構わない。
高杉や桂は違う。きちんと生まれた家があって、家族がいて、士籍があった。それらを投げ出して共にいたのだ。
あっただろう未来を潰し、闇に引き摺り込んだのは……
「…………ょ」
掠れた声が雪子の耳に届く。
「関係、ねぇよ……、それは俺達の意思だ。……たとえお前が拒絶したって、嫌だって突っぱねようが……勝手に救う。自分勝手なお前にはそれがお似合いだろ」
仰向けになり、逆光で表情の見えない顔を見つめた。力なく微笑む。
「雪子。お前が物騒な天人だろうが、幕軍の英雄だろうが知ったこっちゃねぇよ。俺達にとって、お前は………」
ゆらりと刀が振り上げられた。
その先を聞くことがないように、それでもゆっくりと雪子は高杉の首を狙い腕を掲げたまま静止する。
「このまま首を刎ねてお前を殺したら、あの二人はなんて言うのかな」
「……さァな」
周囲は幕軍の勝利に沸いている。鬼兵隊は壊滅し、かろうじて生き延びた者どもは他の部隊に合流できただろうか。
あの人はおそらく無事だろう。雪子がついているのだから。せめて最期に会いたかった。きっと叱られてしまうだろうけど。
高杉は静かに瞼を閉じた。
覚悟は決まったらしい。歯を食いしばって、雪子は刀を振り下ろし──────とす。と地面に切っ先が入る。
な、と反応する前に足を払われた。
体勢を崩し、反撃するよりも速く刀を奪われ押し倒される。首元にひんやりとした感触が当たった。
「下手に動いたら斬る」
「……冗談きっつい」
「てめぇの耳は飾りか?」
さすがの夜兎でも首と体がおさらばしたら死ぬだろ。淡々と言ってのけた高杉は、周囲で隙を窺う敵に声を張り上げた。
「それ以上近づくんじゃねぇ! てめぇらの大将殺されたくなかったらな」
「あー……うん。そうだな、他んとこに加勢しに行って。どうせ私の行動なんて筒抜けなんでしょ?」
雪子が奈落に向かって言うと、タイミングよく烏が鳴いた。去り、遠くで世界の地鳴りのような音だけが響いている。
まだ戦は終わっていない。
銀時や桂、そして朧との対決はどうなっただろう。高杉がふと思い出したように疑問を覚えるが、それよりも雪子に聞かなければいけないことは山ほどある。
「先生はどこにいる」
「……奈落の本部。地下深くに幽閉されてるけど、元気だよ」
「そうか……」
雪子の口から無事だと聞いて、安堵した。
すぐに口元を引き締めて問う。
「朧とかいう野郎が銀時達と戦ってるらしいな。あいつらならば負けねぇだろうが、そいつがおっ死んでもてめぇは解放されねぇのか」
ここまでやっても救うと言うのか。
雪子は驚きを通り越して呆れた。
つか松陽のためだけに戦ったわけじゃねぇんだ……と場違いながらも嬉しかった。
「無理。まず頭上を飛ぶ烏が監視してる。怪しい行動をとればすぐに裏切り者を処分できるようにね。さらに私が奈落にいるのは松陽のためだ。あの人が奈落に囚われ続ける限り……」
その先は言葉にせずとも伝わっただろう。
雪子はため息ひとつ落っことして、さらに続けた。
「朧は不死だよ。負けたとしても蘇って勝つだろ。んであいつらの首をちょん切るね」
「……先生と同じ、不死だと?」
にわかに信じがたい、恩師が不死という事実を込めて尋ねて、雪子があっさり頷いたために受け入れるしかない。
不死というものがどれほどのものかわからないが、銀時と桂が依然として危険な状況であることは変わりない。
「不死……一体どういうものか」
「……興味持つのやめてよ。あれそんなにいいもんじゃねぇよ、ほんとに」
至近距離で大人びてきた顔をしかめられ、高杉もまた嫌そうに吐き捨てた。
「持ってねぇよ。なりたくもねぇ。……つか、そういうことなら急いであっち向かわねぇと」
立ち上がりかけた体。遠くを見ようと向きを変えた首元へ、雪子はするりと腕を絡めた。高杉は慌てて刀の位置を変えて傷つけないようにすると、倒れ込んでしまわないように地面に両手をつく。
雪子は上半身をピタリを密着させて耳元へ唇を寄せた。面白いこと言ってあげる、と前置きをして。
「朧は松陽の一番弟子だよ」
そしてすらりとした脚を高杉に叩き込み、ぶっ飛ばした。傷口を抉るような蹴りに、地面を転がりながら呻く。
どくどくと血を流す傷口を力尽くで押さえると、高杉は睨んだ。
「雪子ッ……!!」
「悪いな。私が先に楽になるわけにはいかないんだ」
にやり、と口角を上げて笑う。あの頃の、無邪気で楽しかった普通の女の子と同じ笑い方だ。けれど少し悲しみを湛えていたように見えたのは気のせいだろうか。
すぐに正面を向いた時には掻き消されてしまっている。雪子は刃毀れした刀を拾うと片足を一歩前へ。腰を低めて、後方に向けた刀はいつでも振り抜けるように構えた。
雪子がかつて得意としていた構え方に、高杉は瞠目した。
「烏に監視されてる以上、私は自由に行動できない。だが命令を曲解することはできる」
奈落に下された定々の命令は攘夷四天王の首をとること。雪子が天人であることを知らない将軍様が、天人どもに後れを取るなとご丁寧に言ってくれたのだ。
「だから私が殺すために、てめぇらを
「お前……まさか」
硝煙の向こうで天人どもが進軍しているのが見えた。鬼兵隊総督の
いくら二人が強かろうと、あれだけの軍勢に囲まれたらひとたまりもない。通常であればの話だが。
無茶だ、とその言葉を高杉は呑み込んだ。
雪子の一番弟子という単語が蟠りを残している。
今更嘘などつかないだろう。であれば、自分達が憎み倒そうとしていた相手は……
高杉は自身がとんでもないことを託されているとわかったのだ。
銀時達の元へ向かわなければ。
何もかもが手遅れになる。
しかし、このまま雪子を置いておくわけにはいかない。共に行こう、そうすれば……。高杉の逡巡を雪子は見抜いた。
髪を靡かせ、白皙の美貌に優しい優しい微笑みを浮かべる。
「───頼んだよ」
高杉は一度、ぎゅっと目を閉じた。躊躇いを捨て、希望を胸にしっかりと頷く。光を煌めかせる瞳を見つめ、ああ、と言葉を残して戦場を駆ける。
その後ろ姿を見届けることはせず、雪子は彼に背を向けた。
天人の軍隊は迫っていた。
巨体を持つ者、飛行する者、そんな異形の天人達がその手に持つのは無骨な刃。
どれほどの人間の肉を刻み、ミンチに変えてきたか知らないが、それらはガチャガチャと煩わしい音を立てて死を色濃く予感させる。
「我ら天人にすら恐れられる獅子喰い様が攘夷四天王を逃すとはなァ」
「それだとてめぇらの都合でも悪いの?」
「まさか! 俺は嬉しいのさ。手柄を横取りしまくる貴様が目障りだった。高杉の首を生かしてくれたんだ、感謝してもしきれねぇ」
増悪をたっぷりと込めた醜悪な顔はお喋りを続けた。
「それに宇宙中から嫌われている夜兎ならば余計に殺しがいがある」
「ほんっと夜兎って恨まれてんだね。いやこれは恐れ? たった一匹の兎さんが怖いの? かーわいいっ」
鼻で笑えば、ひくりと青筋を立てた天人が声高らかに叫ぶ。
「獅子喰いを殺せえええぇぇぇ!!!」
無数の刃と雄叫びが雪子に襲いかからんとする。
絶体絶命。しかし雪子の心に絶望なんてものは生まれなかった。
興奮と狂気が渦巻く。
あまりの歓喜に体が打ち震える。
これから己の手で生み出す混乱と恐怖がやつらの顔を歪めるのだと思うと、恍惚としてしまいそうだ。
「死にてぇやつからかかってきな。八つ裂きにして血祭りにしてやるよ」
脳髄からどっぷりと浸かるように意識は蕩けていく。しかし敏感な神経がぴりぴりと巡っている。
「きたか、獣が。けど私は呑み込まれないよ」
自我を保ち、それでいて夜兎の獣を飼いならす。
雪子の魂は決して朽ちることはない。屈しない。食いつくさんと暴れ回る本能を飼う。それが雪子にとって抗うこと。
幾千幾万もの軍勢が来ようとまるで雪子は負ける気がしなかった。
夜兎でありながら夜兎を飼いならす女。
宇宙でも稀に見る強さを持った彼女は君臨した。
「吉田松陽が弟子、雪子! 推して参る!!」
俺はできない法螺は吹かない、と未来の彼は言いました。