早く、早く。早く治れ。
膝まで見え出して来た己の脚を一瞥して雪子は戦場を睨む。本当はこの状態でも駆け出したいところだが、万全の状態で挑まなければ勝てない相手であることは心底理解していた。治癒中とはいえ斬り落とされたのだから激痛に苛まれるが、それ以上の怒りで紛らわせている。皮肉にも戦地を離脱したおかげで、肉体的にも精神的にも回復できた。
どうやって虚を退けるか。そして仲間を護るか。冷静を取り戻した頭で考えつつ、忙しなく動く眼球が見つめる先は激しい攻防が繰り広げられている。
「私が行くまで持ち堪えろよ……」
磨り減っていた闘志を滾らせ、雪子は祈るように呟いた。
雪子のほうへと吹き飛ばされ、戻ってきた朧の肉体に傷跡一つ残っておらず、銀時達は狂った再生力が治ったのだと理解した。彼の命の源となるエネルギーは無限に供給されるのだから、いつかは治ると予測していたのだ。実際にそれは正しい。けれどそれだけで片づけられるほど、単純な話ではなかった。
数百年に及ぶ膨大な知識と経験により、最も近い答えを導いたのは虚だ。
「私にはわかりますよ。あの娘が小細工をした。腐れかけた肉体を修復し、人間の体に異変を起こしたのだと」
冷徹なその顔に一抹の興奮が見て取れた。血色のない頰に吊り上がった唇が、彼らの覚悟を揺らめかせるように動く。
「非常に面白い。彼女は不死の体に……いえ、アルタナに干渉する力を持っているらしい」
「!!」
「それまで無意識だった力が、自覚していないとはいえ我々に強制力を働かせるとは。あの力が本格的に覚醒すれば私を殺せるかもしれませんね」
神経を尖らせながら、朧は慎重に虚に問うた。
「ならば、貴様はあやつを逃すのか」
「それもいいですねぇ」
あっさりと虚は肯定する。周囲の冷たい眼差しも無視して、細長い指を顎にそえるとうっとりした笑みを浮かべた。
「主人に噛み付く狂犬のように可愛らしい反骨心。どんな苦難も不敵に笑って挑む精神力。それらを成せる多彩な強さ。どれをとっても優秀な逸材だ」
キュウと不気味な微笑みを貼り付けて、囁く。
「この手で全てを奪ってしまいたいほどですよ」
空を舞うしなやかに伸びた足を。
侍道を貫くために刀を握る腕を。
どれほどの困難にも折れない不屈の心を。
屈服させたくなってくるのだ。あの凛とした瞳を、母親と同種の目をしたあの顔を絶望で飾っておきたいではないか。
それはそれで一興であるが、狂暴な今ままでも構わないとも思っていた。手元に繋いでおいたら愉しい日々を過ごせるだろう。不死という絶対的不可侵の領域を唯一脅かす存在が、すぐそこにあるなんて。
底のない恐怖の片鱗を見せた松陽と同じ微笑みに、銀時は青白い顔を歪ませて一歩下がった。しかし隣に立つ仲間の想いが伝わったかのように、昂然とした面持ちで踏み出す。
「させるか! てめぇはここでくたばりやがれ!!」
「おや。それは君達のほうです」
血肉で埋め尽くされた戦場に立ち、場違いなほど穏やかな微笑みを湛えたまま、虚は幼子に言い聞かせるようにゆっくりと話す。
「私という
だから、価値のない銀時達は殺すのだと。虚は血濡れた刀を……松陽や銀時が手にしていた刀を温度のない目で見下ろして、さらに続けた。
「残念なのは彼女です。消すのは性急だったかもしれませんねぇ」
絶対者であるが故の発言に、彼らの瞳が揺らぐ。
久しぶりの血の匂い、そして蓬麗そっくりの顔立ちについ我慢ができなくなってしまった。しかし意外だ。怪我をしていたとはいえ雪子だけならば突然の攻撃にも対応できただろうに。
理由なんて考えるまでもない。
「可哀想に。彼女は君達がいたから傷ついた。それなのに彼女を護りたいのですか? ……放っておきなさい。ただでさえ彼女は左足を失い、致命傷を負ったのだから。こうしている間にもその命が尽きていくでしょう」
「それは違う」
毅然とした声色で朧は言い放った。
「あいつはこんなところで終わるようなヤツではない」
「朧……」
桂が驚いたように名前を呼ぶと、朧はこちらを見て頷いた。信じてくれ、というような決意の表情に頼もしさを覚える。
押し潰されそうな重圧にも負けず、かえって持ち直した彼らは猛攻を再開した。
それでいい。簡単に終わられては、とてもつまらない。
怯えと恐怖に濁った顔で、己に酷い仕打ちを与えてきた人間どもをこの手で滅ぼすのだ。これはその足がかりとなるだろう。
恍惚とした笑みを滲ませて虚は悠々と迎え撃つ。
「ぅ……らぁッ!!」
腹の底に溜まった空気を気合いに代えて、銀時は虚に斬りかかった。遠くに退避させられた雪子のことが気がかりだったが、少しでも他に気を取られれば均衡が崩れるとわかっていたため、やむなく思考から弾く。
……いや、できやしないか。戦う理由も生きる理由も、根っこに居座るのは松陽と雪子だったから。
あの日、夜の静寂をまとった儚い背中と涙を流す姿を見て、銀時は余計なことまで考えてしまった。もしみんなが普通の人間だったら。そんな虚しい想像を。
あの穏やかで幸せな日々は続いたのだろうか。こんな痛くて辛い思いはしなくて済んだのだろうか。
腕を貫かれ、押し殺した呻きをもらしながら、銀時は朦朧としてきた頭で考える。
まただ。終わりそうになった時、昔のことを思い出す。……縋っている? 信頼を寄せていたはずの雪子に、自分はまだ何かを押し付けるつもりなのか。
高杉を笑うこともできはしない。松陽を救えないのだと雪子が投げ出した時、愕然としたのと同時に気づかされた。なら、それはしまっておこう。もう彼女の目には自分は映っていないから。
「ぐっ……ぅおおおおお!!」
ぶしゅッ!! 己の血飛沫で視界が赤く染まり、虚の目に驚きが混じった。銀時は腕を貫いた刀ごと自分の体に縫いつける。捕まえた。高杉と桂が苦悶の顔をして、しかしすぐに意図を察して虚の体を斬り裂く。
朧は懐から翡翠色の輝きを取り出した。雪子に託されたアルタナの結晶石だ。虚のほうへ投擲し、正確無比な狙いを定めて刀を突き出す。硬質な音が響いた後、硬い感触が砕かれ柔らかな肉に突き刺さった。虚の心臓部分から緑色の光が一筋もれ、ぱりんと爆ぜる。
さしもの虚も微笑みを薄れさせ、内側から弾ける熱と激痛に眉根を寄せた。
「煩わしい抵抗を……」
理解できない。今も虚の体は修復され、万全の状態を保っている。対する彼らは朧を除いては満身創痍だ。連戦の疲労、増え続ける傷、意識を失って当然の状態で、それでも何度でも立ち上がる。
闇に呑まれぬ凛とした瞳───同じだ。蓬麗と同じ、強き魂を持つ者だけが持つ輝き。
ああ、いけない。そんな顔をされては。
奪いたくなってしまう。
虚の微笑みに愉悦が浮かぶ。段違いに早められた容赦ない斬撃が彼らを襲う。先程までの戦闘が人間達に合わせられていたかのように。彼らの決死の闘いを嘲笑うかのように。
「負けて……たまるかッ!!」
食らいついた彼らの心に少しずつ絶望が溜まっていく。ずしんと鉛のように重たい体。無理やり動かせば軋む上に、裂傷から流血しまともに立ってすらいられない。柄を握る手が震える。砕かれた甲冑が邪魔だ。足を動かせない。いくつもの雑念が集中を乱し、彼らの思考を鈍らせる。
───諦めるな。心が折れてしまったら、それこそ本当に終わってしまう。
びゅうっ。
雪子の左足を斬り落とした、あの音が。
上半身を大きく裂かれ、大量の鮮血が迸る。崩れ落ち、血溜まりが広がって高杉の足を濡らした。
「ヅラ───ッ!!!」
「…………」
掠れきった声で何かを伝えようとするが、普段の自信に満ちた声音が嘘のように弱々しく、音にもならない声が空気をわずかに揺るがした。
「しっかりしろ!! 目を閉じるな! ヅラ!!」
高杉が必死に呼びかけるが、桂の目に宿っていた光が失われていく。銀時も朧も駆け寄りたい一心だったが虚に阻まれてしまう。
焦りが顕著に現れた剣戟を制すなど虚には容易なことだった。しかしあえて同等に調整することで、他を見る隙を生ませた。仲間が地に伏せる光景を目に焼き付けさせる。
あの蓬麗と同じ目に闇が映し出される。
「感謝しますよ」
銀時の腕をひねり、朧の治りかけの傷口を抉るように掻き立てる。もう彼らに用はない。痛みに絶叫する二人を蹴り飛ばすと、桂に声をかけ続ける高杉の背後にゆらりと立った。
高杉は振り返って、右目で虚を見上げた。
吉田松陽と同じ微笑みがそこにあった。
「私は今、とても満たされましたから」
びゅうっ。
潰れたはずの左目の網膜に閃光が迸った。空から差し込む光に照らされ輝くのは白銀の刀。それが高杉に迫る刀をギリギリのところで押し止めている。
それまで見ていた広い背中とは大違いな細身の体。赤黒く染まった羽織を翻し、雪子は険しい表情で虚を睨んだ。
「なに、してくれてんだ」
ギチギチ、ギギッ。
鍔迫り合いは均衡を保っているように見えたが、刀身が悲鳴をあげ不協和音を響かせている。やがてピシリと亀裂が走り真っ二つに折れた武器を捨て、雪子は拳を握った。
「松陽の大事なモンに手ェ出すな!!」
十二分に蓄えられた力を余すことなく拳に乗せて、虚をめがけてぶん殴る。はなからカケラもなかった容赦をかなぐり捨てていたが、それでも虚が足に力を込めて踏ん張ったため、数メートル後退させる程度だった。たかが数メートル、されど退けた事実は変わらない。
風圧が収まって、高杉は雪子に向かって口を開きかけ、やめた。爆発寸前の怒りが満ちていた。雪子は表情を殺した顔で周囲を見渡す。腕を押さえて蹲る銀時。刀を大地に突き立て呼吸を整える朧。潰された左目から血を流す高杉。そして倒れ伏し絶命しそうな桂。
「………悪い」
雪子はそう囁いた。
くしゃりと顔を歪ませたが、笑顔を貼り付けると剥き出しの白い左足が大地を踏み砕き虚に迫る。
追いかけようとして、彼らは体がとっくに限界を迎えていたことを悟った。あるいは雪子が不敵に笑って駆け出したため、弦のように張り詰められた緊張が弛緩して、安心したからかもしれない。状況は最悪のどん底と言っても過言ではないが、それでも雪子がいるだけで心が持ち直されたのだ。
彼女は己が彼らにとってどんな存在か、いくらか知っていた。だから絶体絶命の状況で、家族が斬られても、笑うのだ。
「まさか……雪子もか……」
震えた声で高杉は言う。何が起きたかはわからないが、雪子の体は傷つくと修復されていく。松陽や朧と同様に。
目線の先に広がる光景は現実離れしていた。両者ともに人間ではない。宇宙の広大な範囲でも頂点に君臨する生物同士が互いの存続を賭けて争っているのである。しかもアルタナによってエネルギーが供給されるという点では互角。
死んでも終わることは許されない。
「ずっとこの時を待っていた……かつて私が逃した赤子が、私を殺す力を持って立ちはだかる時を。さぞかし蓬麗は悲しむことでしょうね。君の母親はどれほど傷つけられようと決して拳を握らなかったというのに」
「傷つけた本人がよく言うよ……つーかあの人にとって、それが戦いだったんだろうね」
かかと蹴りを難なく躱され雪子は地面を粉砕する。すぐさま転がって回避すると、激しい衝撃音とともに大地に大きな亀裂が刻まれた。もし間に合っていなかったら肉片と成り果てていただろう。武器を回収しながら夜兎にも劣らぬ怪力に舌を巻く。
「けど私の戦いはそうじゃない。せいぜいお前を殺すくらいしかできねーし」
「終わることのない私を?」
「そ。やるったらやる」
散々弱音を吐いて涙し、みっともない姿を晒したのだ。その上仲間を殺されかけて平静でいるほうが難しい。おかげで怒りだけは漲ってくる。衝動的な感情を力に変えて雪子は挑発的に笑む。それこそが彼女の常の姿だ。
「望み通りにぶっ殺す」
「……それはそれは」
十数年前の光景が虚の脳内に蘇った。瓜二つの顔立ちがまったく別の表情を浮かべ、虚の前に立っている。
「期待していますよ。……───」
その名を聞いて一瞬ぴくりと片眉を上げた雪子は、雄叫びをあげて虚に斬りかかった。二人が激突するたび強風が彼らの髪を揺らし、ピリピリと突き刺すような殺気と圧に戦慄する。
「君までもが不死者となるとは……歓迎しますよ、同じバケモノとして。しかも朧のように不完全体ではなく、肉体そのものを変化させた上での完全体。私と同じ変異体だ。……教えてくれますか? 何をしたのか」
数秒の黙考の後、しなやかな脚で穿つような蹴りを繰り出しながら答える。
「アルタナの結晶石を飲んで、お前の血を取り込んだだけ。不死の血って便利だな。誰にだって適合するんだもの」
雪子がふと思った感想に虚は違和感を──否、不穏な空気を察知した。
これでわかった。雪子は自身の力に気づいていない。おそらくアルタナという不確定な存在にあらゆる可能性を見出してのことだろう。
惑星のエネルギーたるアルタナは人類の想像を超えた異変をもたらしてきた。不治の病を治し、植物を取り込んで爆発的に成長させ、文明開化に多大な影響を及ぼすなど例をあげればキリがないほどに、その力は偉大だ。
不死者の血を人間に渡してしまえばその能力も継承される。しかし───
「他の惑星と地球の……二種類のアルタナを取り込んだ? 普通ならばその負荷に耐えられず身体が弾け飛ぶでしょうに……」
虚は松陽の時の記憶を遡る。袋に詰められた結晶石の気配は探ったが、結晶石から嫌な気配こそすれ地球のアルタナの気配はしなかった。雪子が飲んだ結晶石は地球産のものではない。つまりそれは雪子には先程松陽や朧を苦しめた手段が効かないということだ。
そこまで考え、虚は前にしていた推測とともに否定する。先天性で完全体の虚でさえ嫌悪するのだ。後天性の雪子に効果がないはずがない。
人間が完全な不死者となるには惑星から漂うアルタナの粒子を取り込むこと。惑星の気まぐれに等しく、期待するだけ無駄だろうが。
もしくは不死者から不死の血を受け継ぐこと。しかし不死の体でない限り出来損ないに成り下がる。
雪子はどれにも当てはまらない。
「いえ、少し違いますか。私の血を変化させ、他のアルタナに合わせたのか……地球のアルタナに干渉して───」
無意識に他の惑星のアルタナに同調させたのだ。
わずか二十歳にも満たないこの娘が。
地を這ってでも生きてやる。絶対に殺してやる。そんな凶暴な執念が生み出した結果。他の誰でもない。雪子だからこそ引きずり出せた好機。
最終的に決定づけた結論は、虚の胸に納得と興奮、そして久しい感情である恐れを抱かせた。
今この瞬間、虚は雪子のことを再認識する。
殺せる可能性を持った蓬麗の子どもから、確実に殺す術を持つ獣に。
吊り上がった口角が狂気的な笑みを形作り、闇に塗りつぶされた瞳がひとときの光を湛えた。
「ますます殺すには惜しい。どうですか、私に恭順しませんか」
光の軌道だけを残して振るわれた刃を躱し、雪子はべっと舌を出す。
「お断り!」