「ヅラ! 目ェ覚ませ、おいッ!!」
「さ、わぐな……ちゃんと、聞こえている……」
銀時と高杉の呼びかけや、朧の無音の祈りが届いたかのように、桂は焦れったいほどゆっくりとした動作で目を開いた。かすかだが光の宿った瞳に安堵し、あらためて桂の容体を探る。
肩から脇腹にかけてを斬られ、大量の血液を失った。止血剤や痛み止めを飲ませたり朧が応急処置を施したとはいえ、誰一人として安心できる者はいない。すぐに医者に診てもらわねば絶たれる命だとわかっていた。
俺達のせいだ。後悔の念に駆られ拳を強く握る彼らに、桂は弱々しく笑いかける。
「俺は……もう、立つこともできなんだ。だが、お前達ならば、きっと……」
「ああ、やってやるさ」
伸ばされた冷たい手を掴んで、銀時は痛みを捻じ曲げ、笑う。
「だから、少しの間だけ寝てろ。起きたら、全てがもと通りになっている」
高杉の言葉に桂は口元を緩め、虚ろな目を朧に向けた。朧が無言で頷いたのを暗くなった視界で見届けて、桂は再び瞼を下ろす。死んだように眠る桂の懐から覗く、血染めの表紙に目を奪われた。
「……松下村塾の教本」
朧が静かな表情でそれを手に取る。虚に斬られたくたびれた紙切れは、年季が入っていてボロボロだった。厚みのある教本のおかげでかろうじて命拾いしたのだ。
何も言葉を発することなく皺になるくらい力強く教本を掴んだ朧は、己の懐から似たような和綴じの本を取り出した。
赤く染まったそれを目に留め、被害の少ない部分からどうにか文字を読み取った高杉は尋ねる。
「留魂録……? それは、もしや……」
「ああ。先生が残してくださったものだ」
高杉は渡された留魂録を大事そうに見つめた。銀時も覗き込むようにして、神妙な顔で文字を追う。
血でくっついてしまった頁だらけで、とてもまともに読めそうにない。それでも諦めず、滲んだ部分から言葉を拾おうとする。
「すまなかった。お前達に渡す前に、こんなことになってしまった」
「いいんだ。それに松陽はんなこと気にしねぇよ」
「だが……これはあやつを止める役割を担うはずだった。しかし、もはや他に虚を相手にできる者はいない。先生はそれを予期していたのかもしれん」
そして兄弟子同士で暗黙のうちに理解していたことを口にする。
「あやつが……雪子が自己犠牲などという精神を持ち合わせて戦っていることは、絶対にないだろう。全て自分のためだと言い張るだろうし、それが事実だ。たとえ……」
遠くで戦いに没頭する雪子を見やり、朧は感情を無理やり押し殺した声音で続けた。
「───たとえそれで身を滅ぼしても、本望だと言うだろう」
「……ッ」
「それはこれまでの話だ。お前達と再会し、変わる前のな……」
師と似通う優しげな眼差しが銀時、高杉、桂を見つめる。そこに己はいないのだと悟ったような顔で、まだ認めないつもりなのかと銀時は驚いた。
しかし口を挟む前に、朧は武器を手にして戦場に足を向ける。
「お前達は桂を連れて行け。今ならまだ間に合うはずだ」
「逃げろってことなら断るぜ」
「これが最後でいい。聞いてくれ。お前達を死なすわけにはいかぬ」
壮絶な覚悟を滾らせた瞳はもう彼らを見てはいなかった。人外どもが本能を剥き出しにして暴れ回る、そんな戦地を睨み据えているばかりだ。
いつまでこの兄弟子は己を後回しにするのだろうか。驚きや苛立ちを通り越して呆れ果てた銀時は、無意識のうちに疑問をこぼしていた。
「……じゃ、あいつは何のために戦ってんだよ」
漠然とした質問に一瞬だけ朧の視線が引き戻される。
「松陽がいなくなり、魂の根っこっつーもんが崩れてもおかしくねぇさ。特に雪子はな。だがあいつは折れたりなんてしなかった。じゃあ、今のあいつの根っこにあんのは何だろうな」
「お前達だろう。先生と同等に護り通そうとしていたのだから」
間髪入れず答えられた言葉に眦を吊り上げ、銀時は低く唸るように否定した。
「それだけじゃねェだろ。……あいつの一番近くにいるの、おめーなんじゃねェの?」
「………何?」
「だーかーらぁ、雪子が戦う理由に別のもんがあるとしたら、それはてめーだよ」
高杉が弾かれるように朧の顔を見上げる。当の本人は数回まばたきをした後に、たっぷりと間を空けて、やはり首をひねった。
───愉しい。
数えることもやめてしまった。折れた武器を捨てて、拳を握ると骨が軋むような音が響く。それでいい。加減なんていらない。至近距離にある顔にぶち込んでやれ。
「っ……ぁああ!!」
神速で突き上げた拳は虚に止められてしまう。その際に虚の掌は潰され、血飛沫が冷たい頰に飛ぶ。不死とはいえ痛みが消えることはない。しかし虚の表情は崩れず、さらに狂気に染め上げられた。
その顔、絶対に歪ませてやる。確固たる目標を抱いた雪子は続けて蹴りを放った。鋭く、穿つように、穴が空くまで。五度目にしてようやく肉を貫いた感触がした。だが同時にひんやりとした冷たい痛みが脚を伝う。瞬時にそれは灼熱の痛覚となった。
声を押し殺して距離を取る。蒸気が身体中から上がり、痛みが消えていく。
「初めてですよ……ここまで私を追い詰めることのできた存在は」
囁かれた声色には少しの賛嘆が含まれているようだった。まるで感心するかのような表情は、悔しくも松陽と似ている。
「とはいえ、惜しむらくは君の不死の源である、アルタナを生み出す惑星が
現在の雪子は、他の惑星のアルタナに完全に依存する不老不死者だ。そこに留まれば永遠と生きられる存在である。
虚の発言からある程度推測した雪子は、そう自分の命が長くないことを知った。ここは地球。器に溜まったエネルギーが尽きない限りは再生するが、途切れた場合は供給源がないのだ。
つまり、その視点から見れば雪子は銀時達と同様に有限の命である。地球にいれば肉体が腐り落ちるまで死ぬことのない朧と違って。
時間はそう残されてはいない。
「なら、時間切れになる前にお前を殺せばいい話でしょ? とても愉しいから残念だけど」
「減らず口を。君に力こそあれ、制御できていないのは明白ですよ。私を殺すための……ね」
不死者を終わらせるには、生命エネルギーとなるアルタナの補給を遮断するのみだ。一番手っ取り早い手段は現時点で実現不可能のため、他の方法を……たとえば、ここ一帯の龍脈を封じてしまえば。
「フン。はなから期待しちゃいないっつーの」
口では強気な姿勢を貫くが、雪子の中に焦りが加速し出してきていた。
強さはほぼ互角。雪子は虚を止めることができるし、逆も然り。しかし無限の命が尽きかけているのは雪子のほうだった。
時間稼ぎになれば十分。だから、早く行ってくれ。そう願ってばかりなのに肝心の奴らは虚の隙を窺っている。
それだけ信じてくれているのだ。
雪子ならば、きっと。
そんなことできたら苦労しねーよと呟き、バカなの死にたいの? と本気で考えてしまうほどに、焦燥感が増していた。
雪子の不穏な心境を映し出すかのように、周囲の景色が変わった───かに思えた。陽光が降り乳白色に照らされた大地から、淡い緑色が一条の閃光を放って揺らめいたように。
けれど瞼を下ろし、開いた瞬間には平常に戻っている。
「幻でも見ましたか?」
ぴくっと眉根を寄せた雪子は、脳内を切り替えて戦いに専念しようとする。しかし集中を掻き乱すように、あの声が、あの人と同じ穏やかな声がするのだ。
「どれほど気丈に振る舞ってもわかりますよ。何百年と見てきましたからね、
苛烈さを増した猛撃をいなし、虚は涼しげな表情で続けた。
「吉田松陽に教えられた人間としての在り方と、己の本能が喚く夜兎としての在り方。これらは決して交わることはありません。君は今まで都合のいいように生き方を変えてきたようですが、そうもいかなくなった」
「……黙れよ」
「結局、君は抗うこともしなかった。醜く生きるために。価値のない彼らを護るために。自ら敗北を選んだのです」
だから、君は松陽を傷つけた。
冷水を浴びせられたような最悪の気分に、浮かんでいた笑みは掻き消され、秘めていた憤怒が表に出る。
「その結果、君を止めるために彼らは戦わなければならなかった。吉田松陽はその手で弟子を痛めつけなければならなかった」
朧げな視界に映った、必死な彼らの叫びを思い出すことはできない。
「君は本能に呑まれ、暴走したのです。目の前にいる者を惨殺し、固い絆で結ばれたはずの弟子達もその例外ではなかった。吉田松陽は、その未来を変えようと君に刃を向けた……動きを封じようと足を狙って」
反撃をくらい、手と刀を失ってもなお、松陽は雪子を止めようと戦った。
「それが松陽の最期の砦を壊し、私を蘇らせる最大の起因となった。……もうわかったでしょう?」
この事態を招いたのは君ですよ。
激しく揺れ動く感情に反応したかのように、腰にくくりつけたアルタナの結晶石が眩い光を放出した。俯いた雪子は拾った蛮刀を離し、代わりに大地を踏みしめて立つ。
「そうだな。私のせいだ」
そのひび割れた声に虚は確信した。穢されることのない眼差しが、魂が朽ちていくことを。闇に塗りつぶされた瞳を見せてほしい。それは正反対の結果としてすぐに叶った。
「だから、私はお前を殺す。私の力で終わらせてやる」
制御できない? 暴走した?
それで虚を殺せるのなら、いいよ。私の何だってくれてやる。
漲る闘志と殺意を力に代え、不敵に笑う。すると宿主に呼応するように体内から膨大なエネルギーが湧き出してくるのを感じた。
残っていたアルタナ全てが放出されようとしているのだ。地球のアルタナに干渉し、他の惑星のアルタナに調整したとはいえ、所詮はその場しのぎに過ぎなかった。急激な変化に肉体は悲鳴を上げている。器が弾け飛ぶ前に異物を排除しようとする本能的な働きだ。
───これが最期か。
「本物のバケモノに呑まれて自滅するのが先か。あるいは新たな道を開くのか」
空虚な瞳はまっすぐ雪子に向けられ、一挙手一投足を見逃さないように集中していた。
己と対等な存在の、正真正銘の最期の足掻き。これを打ち砕けば虚を止める存在はいなくなる。
「その手で証明しなさい。吉田松陽の弟子よ」
ビギッと血管が浮き出る。全身を全能感に包まれた。アルタナを───言うなれば星の純粋な力を解放した雪子の周囲の圧は、凄まじい気迫に満ち満ちていた。
それまで虚と戦っている間は、肉体が、思考が、重力が大地が煩わしかった。もっと速く。もっと強く。思い通りに体を動かすには世界が不要で、思考に追いつけない肉体が邪魔だった。
本能に劣る思考が淘汰される。
「───じゃあな」