お家に帰ろう   作:睡眠人間

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人間を愛した者

獣の咆哮が戦場に轟き、両者が激突する度に放たれる威圧は凄まじいものだった。

 

「やあぁぁぁああッ!!」

 

喉が裂けんばかりに声を出しながら雪子は大地を駆けた。刹那、背後に現れた敵に反応し虚は対抗するも、鋭利な刃が肉を断つ前にとてつもなく重い拳が飛ぶ。

今度は踏ん張ることもせず勢いのまま吹き飛ばされた虚は宙を舞う。着地寸前に体勢を整え、砕かれた肋骨が修復されているのを意識しながら顔を上げれば、猛獣は目前に迫っていた。

躱す時間すら与えられず、違和感が身体中を駆け巡った後には虚の至る所から血が流れた。

 

優勢なのは雪子だった。最期だと悟った彼女は夜兎の本能を使い、人間であることを完全に捨て去ったのだ。どれほど血に濡れ魂が汚れようと拭うことのできなかったニンゲンの心を、ついに手放した。すると夜兎の本能が歓喜するように暴走する。もっとも止めるつもりもはなからない。心の奥でそっと儚く微笑んだ少女は消え、にっと明るく笑う女性が背中を向けていた。無意識にこぼした別れの言葉が誰に向けたものかはわからない。けれど、それでよかったのだと思う。

 

「私が気づかないとでも思った?」

 

頰に一筋の線が走るとつぅっと赤い雫が垂れ修復が始まる。鍔迫り合いになり、背けた顔をまっすぐ虚に向けると雪子は口を開いた。

 

「松陽はまだ消えちゃいない。いや、意識は眠っているんだろうな。でも精神そのものが殺されたってことでもない」

「ほう、面白いことを言いますねぇ。では君は、私が彼を殺せなかったと?」

「まさか。殺さなかったんでしょ?」

 

ギラついた双眸が虚を睨みつける。

 

「ほんとなめてくれる。そうやって松陽の命を握っているとでも脅せば、私が従うとでも思ってたわけ」

 

細い腕に赤紫の血管が浮かび上がり、震えている。それが恐怖や怯えでないことを理解していた。これは純粋な怒りだ。感情に反応するように、雪子の踏みしめた大地が緑色の光を仄かに漂わせる。

 

「お断りって言っただろ。私は私の為に生きてきた。お前みたいな最低野郎に膝をつくなんて嫌だね」

「君がここまで反抗的だとは……私の読みも甘かったようだ。今度は蓬麗(母親)だけでなく、吉田松陽(父親)までも踏み台にしますか」

 

言外に雪子の推測を肯定し、そして生かすも殺すも彼次第だと示した。

 

「かもね。とはいえ、誰も松陽を見捨てようとは言ってないよ」

 

ついに雪子が均衡を保っていた刃を流し、勢いのまま二撃を振り出せば、すかさず虚は逆手に持ち替え迎え撃つ。十字に交差した箇所から火花が散った。深紅に染まった刀身から覗く視線は凍えている。

 

「お前は松陽を殺さなかった。てことはお前が松陽の人格を押し退けて目を覚ましたように、松陽もお前の意識を引っ込めることができんじゃないの?」

 

虚が付け入る隙を生み出したのは、虚を目覚めさせるほど松陽を追い詰めたのは自分であると自覚したゆえの発言に、揺らぐことのなかった水面が不穏にさざ波を起こしていた。

それは虚の身体に刻まれた記憶が疼いたから。しかし外側に出されることはなく、不気味な血の色の瞳が細められる。

 

「君が私を追い詰めると? 勘違いをしているようですねぇ……確かに君ほどの力があれば殺すことは可能でしょう。しかし精神を崩すとなれば君ではもの足りない」

 

何百年と生きた虚は断言した。

 

人間は死を恐れるものだ。苦痛を嫌い安寧を求め、普通でないものを弾こうとする。虚の、いや無数の虚達の記憶の中の人間どもは、不死身というバケモノを痛めつけ、嬲り殺し、そして命を奪って安堵してきた。その根底にあるのは異常への拒絶。許容できない事態を回避する本能だ。

 

何度堪え難い激痛を与えられただろうか。何度泣き喚いた己を見下ろし嘲笑されただろうか。終わりのない未来に絶望し、抵抗もしなかった己を、何度人間達は───……

 

彼らはありとあらゆるものをくれた。

痛み。殺意。怯え。畏怖。憎悪。……死。

 

「痛みも死も私は恐れない。なぜならそれが私の一部だからです」

 

ある程度雪子もわかっていたため鷹揚に頷く。

 

「だろうね。けどさ、内側の痛みはそうじゃないでしょ」

「内側……それが君の賭けですか」

「ああ。ほんとはこの手で消滅させたいんだけど」

 

トントン、と自分の心臓部分を叩けば弾け飛びそうなほどに心臓が跳ねた。本格的に肉体が綻び始めていることを意識しながら、告げる。

 

「私は松陽を信じてるよ」

 

彼女の答えはそれだった。自分の言葉に勇気づけられたように、血色の良過ぎる顔に笑みが取り戻される。

 

「ねぇ松陽。聞こえてるかな。私は悪ガキだからさ、叱ってくれる先生がいないと困るんだよね」

 

ビキビキッ。いよいよ血管が走り出したように顔まで侵食した。煮崩れ寸前の肉体はかろうじて形を保っているだけで、ほんの些細な振動で崩れてしまいそうだ。

どちらに時間が残されているかなんて一目瞭然だった。しかし怯むことのない眼差しに射抜かれ、至近距離にある虚の表情に驚愕が浮かぶ。

 

朽ちることのないまっすぐな魂に打ち震えたのは、かなり衝撃的だったが、それ以上に。

器に刻まれた魂が、吉田松陽の記憶が、はっきりと覚醒の兆しを見せたことに驚いた。

 

「帰ってこい、松陽!!」

 

ジャリイィィン───!! 甲高い金属音と共に双方の刀が引き抜かれる。パッと火花が散り、衝撃の走った雪子の右肘から血が迸った。苦痛に顔を歪めるがぐずぐずになった皮膚がどこまで耐えられるかわからない。雪子はくるりと刀を回転させると虚めがけて突き刺そうとし、動きが止まる。

ドッ、と雪子の背中から鋭い切っ先が現れ、華奢な上半身から血飛沫が舞った。さらに刀の破片を掴むと虚は雪子の両目を潰す。

 

「ぁぁあああッ……!!」

 

喉から血と悲鳴が吐き出される。一時的に暗くなった両目にこびりついた愉悦と狂気を孕んだ微笑みを、雪子は心底恐怖した。仰け反った拍子に体を貫通した刃が内臓をぐちゅりと斬る。

 

「痛いですか? ……そうでしょうね、それが普通なのでしょう」

 

ぞわり、と肌を撫でつける囁き声が降ってきた。潰されてぐちゃぐちゃになった目玉から血の涙が流れる。

 

「でもね、私は何も感じない。……可哀想な子。いくらバケモノに近づこうと、生まれついた本物には敵いませんよ」

「ぁ、ぁあ……!」

「君は贋作に成り果てた。制御できない力は暴走し、その身を蝕むだけです」

 

虚は見抜いた。雪子の体に宿ったはずの力が絞り出されようとしていることに。アルタナの結晶石を飲み込み地球の龍脈を順応させたところで、所詮は急拵えの不死身の体。アルタナが定着することはなく環境の激変に異物を排除しようと、つまりは元の体に戻ろうとしているのだ。

 

「……せぇなッ……んなこと、わかってんだよ。なぁ………!」

 

喀血しながら雪子は忌々しげに眉根を寄せた。チカチカと翡翠の閃光が輝いて両者の顔を照らす。激情に反応を示したように、次第に濃く強くなっていった。

 

「だから……最期だから、テメェに負けちゃいけねェんだ………、一人にしちゃ、ダメなんだよ……」

「それは君か、あるいは吉田松陽か……どちらにせよ、親子共々この手で葬ってあげましょう」

「それは無理………だってお前は、ここで、終わっていくからな!!」

 

己を貫く刃を握りしめてほんの少しだけ治ってきた目玉が捉えたのは、虚の背後で大きく振りかぶった姿だった。

 

「おおおおおおぉぉッ!!!」

 

朧は雄叫びをあげて背中を大きく斬り裂いた。雪子はぐらついて前のめりになった虚の刀を握る手に触れた。驚くほどその手は冷たかったのに、雪子の手は灼熱のようだった。

 

──────……!!!!

 

一瞬、電流が流れたように両者の間に駆け巡った衝動は、混乱と動揺を生み出した。大きく飛び退いた虚は信じられないものを見る目で己の手を見つめる。赤く濡れた手のひらに血管のような亀裂が入っており、そこから小さく血が滲む。手だけではない。右手から赤いヒビが縦横無尽に走って、肌は張り詰めたように違和感を主張する。

 

「小娘が……一体何をした」

 

いつのまにか大地に光が浮かび上がっていた。青空から降り注ぐ柔らかな陽光と翡翠色が溶け合い、神秘的な美しさを醸す。

その下で初めて怒りの色を見せた虚は低くひび割れた呟きをこぼした。しかし右目の破片を取り除いた雪子はビクビク痙攣を起こす手のひらを不審げに見下ろすだけだ。もしかして、と希望の道を見出した雪子が、己の前に背中を向けた朧に声を投げる。

 

「朧……あいつらは」

「逃げろと言ってきた」

「ばか、そんなこと言ったらますます動かないでしょーが」

 

苦笑いを滲ませて笑うと、刀を杖代わりによろめきながら立ち上がる。剥き出しの左足に走る、虚と同じような赤いヒビに朧は口を開いた。

 

「それは何だ。なぜ治りが遅い」

「あー、そろそろ限界っつーか、再生力が尽きそうなんだよね」

 

気丈な振る舞いを意識しつつ話す雪子の足元は、特に強い光で満たされていた。それが雪子の身体に流れると限界を迎えそうな肉体とは裏腹に、完治した鋭い双眸に強い意志が宿る。

 

「虚。どうやらお前は常にこの星にいたからアルタナが尽きることはなかったんだな。だがその逆を経験したことはない、か」

「……どういうことですか」

「あれ、まだわかんない? さっきまで余裕ぶってたくせに?」

 

どうしてこんなに心強く感じるんだろう、と雪子は考えながら続けた。

 

「器いっぱいに満たされたアルタナがそれ以上の負荷に耐えられないんだ。これはその予兆ってことだろうね」

 

雪子は龍脈を操りエネルギーに変換することができる。接触した瞬間、大地から流れるアルタナを体内に取り込み雪子を媒介にしてそれが虚に流れ出したのだろう。堰きとめられたダムが決壊するように、崩壊の蓋が開けられた。

 

「無限に湧くアルタナを溜め込み過ぎれば器がすり減り、やがて弾け飛ぶだろう。不死身の器の崩壊は、お前の消滅を確かなものにする」

 

ビギッ!! 口角の上がった頰に浮き出た血管から血飛沫が飛んだ。そのぐずぐずになった狂気的な笑みに、虚の中に恐れが広がった。

 

確証はない。しかし否定もできない。

 

それでいいのだ。揺らぐことに意味がある。

雪子と朧は背中合わせに構えて一斉に地を蹴った。しかしそこで絶望が訪れる。

 

パァン!!! 弾け飛んだ音は雪子の左足から発生した。潰れた皮膚から吹き出した肉片や骨が弾け、続いて腹部からも同様の現象が起きた。

 

「なっ……雪子!!」

「よそ見は危険ですよ」

 

朧の必死な声を耳にして雪子は凍りついた目で彼のほうを見ようとし、目の前に迫る狂気の塊に気づく。

 

びゅうっ。

 

肩口から横腹へと一直線に刀が振るわれ、右腕が斬り落とされる。さらに勢いは止まらず横腹から皮膚を裂いて侵入し、真っ赤な花を咲かせた。

 

「貴様ッ!!!」

 

怒りに満ちた双眸で睨みつけ朧は虚の腕を突き刺す。攻撃の対象が雪子から朧に移されて、呼吸を躊躇わせるほどの冷気と殺意が集中した。朧は心臓を握り潰されるような威圧感に耐えながら、歯を食いしばって迎え撃つ。

 

支えを失った雪子の身体は己の血肉が作った赤へと落ちた。

 

「、うぇっ」

 

痛みが来るよりも早く吐き気を感じ胃の中から迫り上がったモノを大量の血や吐瀉物とともに吐く。胃の中が空っぽになるまでえずき最悪の気分だった。身体がピクピクと痙攣し、全てを嘔吐した後に目を映ったのは飲み込んだはずのアルタナの結晶石だった。

 

役目は果たしたとでもいうように神々しい光の消えたそれを愕然と見下ろし、雪子は己の命の終わりを悟った。意識が曖昧になって痛覚が麻痺してきたように、少しの刺激だけが身体中で喚いている。

 

───身体が冷たい。呼吸が苦しい。

 

けれど諦めてはならない。ほとんど掻き消されつつあった覚悟をなけなしの勇気で持ち直し、雪子は残酷な世界を直視した。

 

霞んだ視界に動く影は四つ。鬱陶しくも少しだけ羨ましかった黒髪がいないことから、頼むから生きていてほしい、なんて遅すぎることを願う。

 

「………ぅ、……?」

 

じっと見つめていると戦場の光景に違和感を感じた。彼らの動きがぎこちない。怪我を負いだいぶ血を失っただろうからふらついて当然だ。しかし一番動きに滑らかさがないのは虚のほうで、理由がわからずに目を細めたその先に答えはあった。

 

 

「ぜああああああああッ!!!」

 

銀時は壮絶な怒りを雄叫びに代え、虚に斬り込んだ。高杉も朧も、幾度となく傷つき、膝をつくのが当然なほど苦痛を味わってもなお、倒れなかった。

 

その決死の眼差しに、虚の刀に迷いが生まれる。

 

なぜだ。なぜ人間どもは、絶望しない。

 

死にたいと乞うほどの痛みを与え、仲間を奪ってやったというのに。彼らの仲間はもうじき死ぬというのに。

 

どうして、私は……

 

人間を恐れている?

 

───それは君が何も知らないから。

 

似た声が内側から響いた。五臓六腑にしみわたるように優しくどこまでも穏やかで、慈愛に満ちた声だった。

 

───私は知っている。人間がいかに強く逞しく、そして美しい魂を持っているかを。

 

違う。お前も解っているだろう。彼らが我々に何をしてきたか。どこが強い。どこが美しい。あれほど醜悪でか弱い存在は他にない。

 

───いいえ。私は彼らにそう教えてもらった。人間とは、時に誰よりも勇敢になれることを。

 

……ふざけるな。

 

永劫の時を圧縮したような苛立ちの声音にぴたりと声は止む。虚は全身に滾る怒りを感じながら数々の記憶を巡っていた。

 

無数の虚たちは、ただ一人の虚を除いては人間を好意的に捉えてこなかった。人間を憎み、恐れ、焦がれていても人間に対する悪感情が消えることはない。鬼と呼び、切り刻み串刺しにし火炙りにし、利用してきた彼らをどうして愛することができようか。

 

増幅していく憎しみを抑えるものはいなかった。

吉田松陽を除いては。

 

彼の存在は奇跡だった。迫害を受け続けてもなお人間と友好的でいようとし、蓬麗や朧の影響か寺子屋を開き、みなしごを拾った。

 

虚にはそれが腹立たしくて仕方がなかったのだ。

 

───人間を滅ぼしたい君からすれば、私の行いはこれまで死んでいった()への裏切りだったのでしょう。

 

再び穏やかな声が響いた。

 

───でもね、私は人間達と共に生きたかった。化け物の()を生み出したのは彼らですが、救ってくれたのも彼らなのです。

 

ああ、知っている。この胸に広がる形容しがたい痛みは、松陽を介して虚の動きを鈍らせていた。

 

───この痛みが、彼らがくれた愛そのもの。昔の自分に苦しみ、罪に苛まれ、戦い続けた証。

 

ああ、わかってしまった。息苦しいほど痛いのに、愛おしい。この気持ちを知ってしまえば人間達への憎しみなど微風に吹かれて消えてしまう。

 

───ほら。見えるでしょう。

 

共に笑い、共に泣き、共に生きた日々の情景が、吉田松陽の記憶が流れてくる。同時に目まぐるしい感情の奔流が心を乱した。

 

優しい木漏れ陽が瞼の裏をじんわりと刺激し、若草の匂いを運んだ風には名前を呼ぶ複数の声も混じっている。

 

『松陽先生!』

 

これ以上ないほど忌まわしく、愛おしい声が重なり響く。

 

そうか……私は知りたかったのだ。

わからないから、知っていたかったのだ。

 

 

記憶の奥にいつまでも残っていた一人の女性が、蕩けるような微笑みを浮かべた気がした。

 

 

瞼を下ろし、持ち上げれば彼らの顔がよく見える。足掻き、傷つき、立ち上がる人間達の姿に、内側から衝動的な感情が込み上げてきた。

 

「ほとんど……消えかかっていたというのに。蘇る気力すら奪われたというのに………」

 

足が重い。思考が揺らぐ。

 

「戦うか……信じて護るために………」

 

内側から縛られる圧迫感を振り払い、虚は力任せに刀を円を描くようにして斬り裂いた。

しかし血は流れない。近寄るなと威嚇すべく空を斬ったのだ。その異常とも取れる行動に銀時達の動きが止まる。殺気が収まり、震えてしまうような冷気も消えていた。

 

ふらふらと危うい足取りである一点を目指して歩く。綻びかけた身体を引きずって彼らは追いかけ、一定の距離を開けて雪子のもとに集う。

 

ずる、ずる……と這いずって進んでいた雪子はふと陰ったことに気づいて顔をゆっくりとあげた。

 

「ぁ、」

 

鈍い光を放ち刀身がまっすぐ天に向かって掲げられている。逆光になって表情はよく見えない。そして、重力に従って落ちてくる。雪子は目を閉じなかった。最期まで気高く生きようと決めていたからだ。

 

だから、滲んだ視界に見える穏やかな緑色の瞳にそっと微笑んだ。

 

振り下ろされ、長髪の数束が切断される。すぐ隣に崩れ落ちるように座り込んだ。血に濡れた美しい輪郭線を描く頰に一滴の雫が落ちた。赤を洗い流すように肌を伝い、地面に吸い込まれていく。

───涙。

 

「なぜ、私は泣いている………」

 

再び、一滴。左手に落ちた液体が沁みて腕を少しずつ天に伸ばした。辿り着いた頰を確かめるように撫でると、接した部分から残り少ない血が滲んだ。

 

「おかえりなさい……」

 

微風に掻き消されそうなほど小さな声は震えていた。雪子の透き通った目は水が張っていて、いよいよ溢れ出した涙が一筋流れていく。

 

「すまなかった……私が、私が………」

「………ごめんね。もう、……聞こえないの」

 

儚げに微笑んだ雪子は、もう心残りはないと言わんばかりに幸せそうだった。もはや助かることはないだろう。右腕と左足は断ち切られ、腹から内臓がぐちゃぐちゃになっているのが見えた。

 

「……朧。小太郎を連れて来なさい」

「はっ……」

「銀時。晋助。雪子の隣に……」

 

しかし松陽は諦めなかった。温度のない手を包み込むように握り、流れ込んでくるエネルギーを感じる。

痛みなどどうだっていい。ここに来るまでに背負ってきた弟子達の苦しみに比べれば。この絶望を変えられるのは雪子と松陽しかいないのだ。

 

仄かに漂っていた光の粒子が強い閃光を放ち始めた。二人の辺りに浮かび上がる翡翠色に高杉はつい先程の光景を思い出す。終わったことを受け止められない非情な現実に思考は停止していた。淡く美しい光は今度は慈愛に満ちたもので、心がすぅと穏やかになっていく。

 

桂を抱えた朧が戻ってきて、覚悟を決めた眼差しが全員を見渡した。

 

 

何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。なのに、芯の通ったぬくもりが全身を癒していった気がした。

 

あったかいな。もう少しこのままでいたい。

 

おかえりって、言えてよかった。

 

 

あとは、そうだな。

まあ、いいや。

 

 

意識はそこで途切れてしまった。

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