ムカつく。ただ自分が好きなように生きているのだと言いたげな、能天気なアホ面が。ヒールブーツのかさ増しで高みから自分を見下ろすこの女が。
しかし次いで雪子の格好を見るとその気持ちは少しだけ和らいだ。全力で祭りを楽しんでました感満載の格好……お面に金魚にヨーヨーに、色んなものを身につけていて、よく一人でここまで楽しめるなと思った。
独り身の寂しい奴だなんて笑ってやろうと高杉が口を開くよりも先に、銀時が雪子の方に寄って似たようなアホ面になるのが早かった。
「ええーっ! ウッソ高杉ってばそんな子供騙しにもビビッちゃうの? やっぱチビは心までガキンチョで困るぜオイ〜」
「やめなよ銀時ィ、低杉くん泣いちゃうじゃん〜」
「そういや昔っから俺らに身長勝てなかったもんな。いつまで経っても見下ろされ続ける人生なんだな〜」
あと事前に打ち合わせしたかのように息ぴったりに煽ってくるこの男もムカつく。二人で高杉を囲うようにしてやいのやいの言ってきて、気の短い高杉がカチンと来るのにそう時間はかからなかった。
「おい、俺がいつからお前らに負けた。少なくとも身長は雪子とそう変わらねェはずだ」
「だそうだけど?」
「知らん。なんでわかんのよ気持ち悪い」
ブチッ。血管が切れる音がして口元をヒクヒク痙攣させる高杉は、煙管を懐に直して刀を振り抜いてやろうかと本気で考え、ギリギリのところで堪えた。
煙管に口をつけてゆっくりと煙を吐けば、なんとか精神を落ち着けることができた。
「……ククッ。お巡りさんが将軍暗殺を目論むテロ行為を見過ごすたァ、つくづく腐った国だな」
なァ? とゆるく両の目を細めて目の前の女を見れば、人をコケにした笑みを引っ込めて潤いのあるふっくらした唇を吊り上げると、艶然とした微笑みで目の前の男を見つめ返してくる。
己の美貌を存分に有効活用したその顔は、しかし高杉の神経を逆撫でするだけであった。高杉は昔から女の作った笑顔には毛ほどの興味もなかった。
「向こうで起こってるままごとには興味ねェわ。私が興味があるのは高杉、お前だもん」
「ほう。俺の首でも欲しいのか?」
「天導衆もお喜びになるでしょうね。ま、残念だけど今はいいわ。武器持ってないんだもん」
ヒラヒラと手を振って何も持ってないと主張すると、コテンと小首を傾げる。
「そっちこそ。幕府お抱えの暗殺部隊の副長の首、欲しくないわけ?」
「白い鬼が出なけりゃなァ。いくら弱かろうと手間取るのは面倒だ」
ああ、と雪子もわかったように銀時をチラリと見てくる。
「はぁん? 俺がいつ弱くなった」
「あれ、自覚なかったんだ」
「えっ」
「覇気もねェ、警戒心もねェ、甘いもんばっか食って頭ん中空っぽのまんまのらりくらりと生きてりゃそうならァ」
「ついでに金もなけりゃ甲斐性もない。ウチでタダ飯食らうだけのちゃらんぽらんだもの」
今度は寄ってたかって銀時の悪口を言う二人の息はピッタリだった。
「そりゃそうでしょ。平和ボケしたこの町に住んで何年目? お前がのんびり過ごしている間、私たちは戦って戦って昔の勘を忘れないでいる。何もかも忘れた今のお前じゃ、私らに勝てないよ?」
そう簡単な話じゃないのだ。
いくら10年前に白夜叉として恐れられた男でも、刀を振るう機会を無くし殺気もない世界に暮らしていては勘は鈍る。昔の記憶は遠のくばかりだ。
その一方で、雪子も高杉も未だ血生臭い戦場に生きていた。毎日のように戦に明け暮れていた日々ではなくとも、あの頃の生き方を糧に今この時を生きている。
それは本当の意味で彼女らが自由を取り戻せていないことを示していた。
「まっ別にいいじゃん。つまらなくても平和に生きてられるんだから。……それに、そろそろ行ってくんない。親子揃って私が地獄に送らないといけなくなっちゃう」
ぐっと言葉を飲み込んで駆け出して行った銀時を一瞥すると、くるりと背中を向けた高杉の背中に声を投げかけた。
「もう行くの?」
「ああ。牙なんぞとうに失くしたと思っていたが、まだ残っていたとはなァ」
「アイツとお前とじゃやり方が違うんだよ。……それでも、弱いことに変わりはないけど」
あのままでいてもいいのにね。
ぽそりと囁いた言葉は確かに高杉の耳に届いて、ギリ、と歯噛みする。
あの人を救う為に未だ囚われているお前がそれを言うのか。誰よりも血に濡れて誰よりも屍を積み上げたお前たちが戦場にいるからこそ、高杉も桂も、帰ってこようとはしなかったのに。
「構わねェさ。目的も護るべき者も俺たちは同じだ。……俺は必ずお前らを地上に引きずり下ろしてやるぜ」
やっぱり。そう言いたげなため息が気に食わなくて足を進めた。全てが終わったあの日の誓いに支えられて生きている男は、それを達成するまで止まることはない。
それを知っている雪子は止めようとせず、代わりに伝言を口にする。
「そうだ、言い忘れたことが。ちゃんと松陽んとこ帰ってあげてね。まだ帰ってないのはお前だけだよ」
「言われなくとも。俺もいいか? ……たこ焼きでも食ったのか。歯に青のりついてンぞ」
言うと背後で何やら慌てる気配がしたので、振り返ってその顔を見てやろうかとも思ったが、結局高杉はそのまま行ってしまう。
久しぶりに会った雪子は昔と変わらず自由で愉しそうな笑顔を浮かべるのが上手だった。
ただ、祭りが好きでお洒落することが好きで、そうした普通の女性らしい一面が、昔と同じく色濃く残っていることが、何よりも高杉を安心させた。
何もかも変わっていない。いくつになっても。少女から大人に成長しても。
初めて出会ったあの日から約二十年。ずっと抱え続けた想いを胸に、高杉は進み続ける。
「はいお疲れ〜!」
「……うむ」
その夜、店にたった一人の客として訪ねてきた朧に無理やり持たせたお猪口とビールジョッキをくっつけて乾杯すると、雪子は一気に酒を呷った。
「っぱ〜〜〜!! うまっ。やっぱ一仕事終えた後のビールは最高〜〜!!」
「お前は何もしていないだろう。……下に降りて何をしていた」
「ん〜……高杉と銀時がいたからちょっかい出してた。そっちは?」
「カラクリ共が反逆を起こしてな。将軍を護衛し事態を鎮圧していたら、犯人もろとも姿が消えていた」
「や〜い逃げられてやんの〜〜」
「あの祭りで最も狩らねばならない存在を逃した奴が言えたことか」
朧はその口に苦笑いを浮かべていた。
カウンターの上には雪子が作ったおつまみが所狭しと並べられているが朧はあまり手をつけることなく、ちびちびと上等な日本酒を舐めている。
元来食は細い方だし放っておいても勝手に生き永らえる体だ。食や酒に興味もなく、無味無臭の水を摂取して生きる屍のような朧を叱咤し、あらゆる飯を食わせたのは雪子だった。
何でもいいから食え。私がいる時は必ず私と共に食事しろ。いなくても飯を抜くな。体を労われ死にたいのかふざけんな生きろ。
そう言って新規開店したこの店に引きずるようにして朧を連れてきたのも数年前のことになる。
もしかしてロクな食生活を送っていないのでは? と雪子が疑念を抱いたのは戦争が終結した後のことだった。緊急の問題は大方解決し、組織の体制を新たにして少しずつ自分たちの生活が落ち着いてきた頃、雪子はふと食事する朧の姿を見たことがほとんどないことに気づいた。
本人に聞くのが手っ取り早いと行動に移し、特に困らないから食事を気にしたことがない、と朧が答えを口にしたら、あまりのことに愕然とした雪子の顔は滑稽だった。本人には決して言えないことだが。
「これ美味しいよ。てか私が作ったものは何でも美味しいけど」
食ってみ。と皿を寄越されてじっとこちらを覗いてくるので、朧は大人しく箸をつける。ホロホロと口の中で解ける食感と広がる優しい味がして、くぅぅとお腹が鳴った。
「うまい」
「あはは、お腹空いてんじゃん」
雪子は赤らんだ頬に満足そうな笑顔をくっつけて、どんどん小皿に料理を盛った。それをありがたく頂戴して箸を進めていくと、身体がもっと食べたいと主張する。湧いてくる食欲の望むまま自分から箸を伸ばせば雪子はもっと嬉しそうな顔をした。
「……お前は」
「うん?」
「お前は俺が食べていると嬉しそうにするな。どうしてだ」
食事をとるという行為に意味を見出したことなどなかった。お腹が空いたところで死ぬわけでもないのに、人間じゃないくせに人間のように空腹を訴える体を呪ったことさえあった。まるで生きたいと願っているようで、何もかも捨てたはずの己にそんな本能が残っていることが、浅ましくて仕方がなかった。
だけど、それもいつからか変わっていた。
「そうだなぁ。朧がもっと生きたいって言ってるみたいで安心するからかな」
今は、人間として当たり前の食事さえも楽しいと感じるようになっていた。あれほど関心のなかった食事の時間が待ち遠しいと思えるようになっていた。腹が空いたと訴える体を大切にしたい、生きていたいと思っていた。
それをもたらした存在が隣で照れたようにはにかむので、朧は目元を緩めて静かに酒を飲む。
「……ああ。雪子、お前とこうして酒を飲むのも悪くない」
その男から発せられた言葉なのかと疑うほどに優しく穏やかな声だった。
『申し訳ありません。申し訳ありません』
年端も行かない少女が大人たちに囲まれて土下座をしていた。
天照院奈落がついにあの夜兎の母子を手に入れたと騒ぎ立てて暫くが経ち、母は幽閉、娘は優秀な人形になるべく厳しい教育が施されていると知っていた朧は、ある日その娘を目の当たりにした。
『物分かりの悪い娘め。何度我らの手を煩わせれば気が済むのだ』
『躾として斬ろうが焼こうがすぐに治ってしまうとは。これでは教育になるまい』
『良い良い。次は毒でも浴びせてしまえばよかろうて』
『化け物に生まれたその身を恨むことだな。……ああ、そんな発想もないか』
集団に殴られ蹴られるその身を縮こまらせて、少女は何度も許しを乞うた。
『どうかお許しください。どうか、どうか……』
幼い声が紡ぐ苦痛の言葉は誰にも届くことなく虚空に消えた。
独りぼっちで拷問に耐える小さな体が、攘夷志士たちを喰らうほどに成長した頃、朧は彼女を見つけて仄暗い歓喜に身を包まれていた。
師に救われて自らが何者であるのかを忘れた一羽の烏が当たり前のように享受していた、朧の喉から手が出るほど欲しい平穏な生活を己の意思で手放していたからだ。
『何故それをお前達が……。では、私は……』
『貴様を迎えに来た。虚……いや、吉田松陽を救いたければ、我々奈落の元へ舞い戻ってくるがいい』
朧は彼女の笑顔を壊したかった。殺してやりたいほど憎かった。
だが蓋を開ければ奈落にいた頃の少女とはかけ離れた成長を遂げていた。幼い頃、戦う意思も反抗する意味も持たず地面に頭をこすりつけていた雪子は、どんな戦力差にも屈しない強さを持っていた。
朧が願う未来を壊し、掻き乱して、鬱陶しいほどの明るい笑みであらゆる絶望を捻じ曲げていった。
いつからか彼女への憎しみは消え失せていた。
気づけば隣に居座ってふんぞりかえる雪子を愛おしく感じていた。
先生を取り戻すことも、弟弟子たちと出会うことも、皆で松下村塾に帰ることも、全て彼女がいなければ不可能だった。朧にとって雪子は奇跡や幸福が形となって生きているようなものだった。
「……充分すぎるほど与えられたさ」
こうして誰かと食事をとることが楽しいのだと教えてもらった。生きていくことの尊さを知った。弟弟子たちが成そうとする未来を見てみたいと願った。先生の穏やかな日々の中に己を加えてもらえることを泣きたくなるほどに大切に想った。
半不死者となってこの世の理から外れた存在となった自分が、こんなにも普通の生活を手に入れられるとは。
「ん? なんか言った?」
モグモグと食べていく雪子に何でもないと首を振る。昔の痛ましい境遇をケロッと忘れたように生きる雪子の逞しさには何度も救われた。
だがそれを伝えたところで、じゃあお前もそうやって図々しく生きろと言われるのがわかっているので、朧は弟弟子たちの話を切り出す。
「晋助たちは変わらずいるようだな」
「そーね。攘夷だなんだ言ってるけど、結局のところ私らを救おうとしてんだって」
別に今のままでいいのに。と雪子はグラスに視線を落とした。
たとえ手足に枷をつけられようと今の生活が不満というわけではなかった。松陽が無事に生きている。それだけで満たされているというのに、欲深い弟弟子たちはまだ納得がいかないらしい。
「ま、やれるもんならやってみろって感じだよね」
「そうだな。お前は救われなければならない」
「朧もでしょ?」
「いずれは朽ちる身だ。俺がどうなろうと奴らはどうとも───」
ぱりん!! 雪子が手にしていたジョッキが粉々に粉砕され、破片が柔い肌に傷をつけると黄色い液体と共に血が滴り落ちる。握りつぶしたガラスの破片が雪子の開いた拳からパラパラとこぼれていく。次また似たようなこと言ったらお前はこうなるぞと告げられ、朧は自分が言うべきことをすぐに理解した。
「……すまない」
「それも含めてアイツらが必死になって探し回ってくれてんの。本人が諦めてどうすんの」
細かい切り傷がついた手を水で洗い流しながら雪子は久しぶりに朧の自虐癖が発露したことを疎んだ。
この男は昔からそうだった。松陽とその弟子たちの大切な居場所を奪ったのは自分なのだと、松下村塾の輪に入ることを拒んでいた。弟子たちと出会い言葉を交わしただけで充分なのだと、そのちっぽけな幸福にいつまでも囚われている。
大馬鹿モンだ。よくもまあそのくらいで満足だと言える。
これでも大分マシになったほうだ。一番酷かったのは戦争が終わって新しく作られた松下村塾へ行かないと言ったことだった。
一度たりとも足を踏み入れたことのないそこへ、一番弟子がついに帰ることができるのだとウキウキで支度を進める雪子の笑顔が固まる。
『…………今なんつった』
『松下村塾へはお前一人で行け』
『なんで』
『俺にその資格はない』
曰く、自分の私利私欲のために松下村塾そのものを壊した責任があり云々。雪子にしてみればあまりに馬鹿馬鹿しくくだらなくて、というか資格がないと抜かした時点で怒り心頭に発していたので朧の言い訳など右から左へと聞き流していたので覚えていないが、とにかく行かないの一点張りだった。
その面を思いっきりぶん殴った。何を口走ったかも覚えていないが、雪子の叫びに朧は顔を歪めてやり返してきた。夜兎に肉弾戦で勝てるはずがなく、ボロボロの雪子に引きずられて松下村塾に辿り着いたこれまたボロボロの朧に、松陽は目を丸くした。
『どうして二人ともそんなに怪我してるんです』
『喧嘩した』
『……なるほど、そういうことですか』
松陽は開かれた門を前にして固まる朧に何があったのかを察し、微笑んだ。
かつて雪子たちが住まいにしていた建物とは違うが、どこにでもある何の変哲もない小さな寺子屋は間違いなく彼が憧れた居場所だった。
途方に暮れた迷子のような心細さと、今まで己が彼らにやってきた仕打ちへの罪悪感、色んな感情がごちゃごちゃに混ざり込んで立ち尽くす朧に、全てを洗い流す温かい声が届く。
『朧。帰っておいで』
『………ですが』
ここまで来てまだ愚図るのか。痺れを切らした雪子は朧の正面に立つと、両手を掴んで引っ張った。
『ええい面倒くさい!』
『あ、おいっ』
えいやと松下村塾に引き入れられ、たたらを踏んでついに入ってしまったそこは、すんなりと朧を受け入れた。
ついに入ってしまった。緊張と不安で心が揺れ動き、視線は地面に落とされる。何と言えばいい。何をするのが正しい。答えも何もかもわからなくなって、頭の中がぐるぐると回る。
すると乱暴に掴まれた両手が解かれ、白く細い指が優しく包み込んだ。驚いて正面に顔を向ければ、母の面影を強く残したその顔には穏やかな微笑みが浮かんでいて。
『おかえり』
ぎゅっ、と壊さないように優しい力加減で繋がれた手を、朧はゆっくりと握り返す。
抱えていた後悔、無念、罪悪感。あらゆる悪感情を消し去る言葉をくれた雪子は、その瞳に期待と気遣いを込めて、朧が口を開くのを待っていた。
『………た、ただいま……』
震えた声はあまりに小さく。それでも一番弟子の待ち望んでいた言葉をしかと聞いた松陽は、何度も何度も嬉しそうに泣きそうに頷いた。
『はい。………はい。おかえりなさい。ようやく帰ってきてくれましたね。我が松下村塾の一番弟子が。………ねぇ、朧』
そうして松陽は二人の背中に腕を回して抱き寄せた。雪子と朧は一本ずつ松陽の背中に腕を回すと、肩越しに目を合わせて潤んだ目を見つけて破顔する。二人の笑い声に体を締めつける力が強くなっていった。
『先生、力が強いです』
『私たち潰れちゃう』
『だって、君たちがこんなにも大きくなったものだから。……本当に、立派になりましたね。………ありがとう。ありがとう………』
かつて同じ師に師事した弟子たちは、あんなに小さかった二人は、およそ20年もの歳月を経て、師を背負うほどに大きくなった。
あまりに遠い道のりだった。たくさんの痛みに傷つけられてきた。その先にあったのは幸福だったのだと今ならわかる。生きていてよかったとみんなが想った。
それからは大人しくなったものだが、まだこの男の性根は変わりきっていないらしい。
「まぁいっか。アイツらが変えてくれんのか見ものだし」
ガラスの破片で傷ついた手が見る見るうちに修復されていく様を朧は温度のない目で見ていた。
「雪子。お前のそれは………」
「地球はいいね。いくらでも力が漲ってくる」
汚れたテーブルを片付けると隣に座り、にっこりと笑む。さあまだ飲み明かすぞという気でいるらしい雪子には悪いが、朧は席を立った。
「帰っちゃうの」
「明日には地球を去らねばならないからな」
「……そ。思ったより早いね」
半端に残された料理を見ながら言う。次はどのくらいかかるかな。数ヶ月……もしくは数年? 努めて明るく未来予想図を描けば、朧の手が雪子の手に重ねられる。温かかった。血の通った人間の温度が冷たい温度と溶け合う寸前に離れていく。
「先生を。弟弟子たちを。……頼んだぞ」
その手を掴めたらどんなによかったことか。しかし雪子はくたりと力なく指先で空を掻いて、わかった、と囁くことしか出来なかった。
何度目かの別れはいつもこうやって終わっていく。カララと朧が戸を引けば月光が店内に差しかかった。透き通った白髪を揺らして振り返ると、朧はその目に強い光を宿していた。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
ピシャリと閉じられて静寂が訪れた店内で、寂しい、という女の呟きだけが虚しく響いた。
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