「おいツラ貸せ」
「ヅラじゃない桂だ」
「言ってねーよ」
何事もない長閑な日の午前のことである。暇だから幕府の犬にちょっかい出しにいこっかな〜〜と考えていたら、突然現れた雪子に呼び出しを食らった。
「雪子さん! おはようございますッ」
「おはようございますッッ!」
「いってらっしゃいませッ」
「あ桂さんお出かけですか? 帰りにガム買ってきてください」
「俺ポテチで」
ここは所謂攘夷浪士たちの溜まり場で、一般市民は近寄らず、真選組をはじめとした警察組織も手を出しあぐねている日本のヨハネスブルグであった。
そんな場所に一人でやってきた雪子は、そこらにいる浪士に「ボスはどこにいるの?」「あちらです雪子さんッ」というやりとりをして、またボスを後ろに引き連れて「また来てくださいね雪子さんッ」と言われた。
つんとおとがいを上げて堂々と歩く雪子の道は自然と開かれ、攘夷浪士たちはみな傍に移動して頭を下げ、いってらっしゃいませと見送りをする。
頭である桂にはしたことがないのに、雪子には息をするように行う礼儀だ。
何故こんなことになっているか。
それは雪子の店で暴れた攘夷浪士が軒並みシメられたからだった。あるいは西郷の店に連れ去られ、全ての常識を塗り替えられて帰ってきたこともあった。
この人に逆らったらヤバイ。彼らは早々に理解し、彼女の下に着くことで命を守ったのである。
「して、何かあったか? 元気がないぞ?」
「お前で遊ぼうと思って」
「ウムいつも通りだな、俺の勘違いだ」
雪子がスタスタ早歩きで進んでいくので、一定の距離を保って後ろからついて行く。元気がないかと思ったがそうでもないらしい。じゃあ機嫌が悪いのかなと、物理的に離れたかった。こういう時に雪子のそばにいて良かったことなど一度もないので。
しかしピタ! とロボットみたいに足を止めた雪子は、振り返って桂の手を掴むと引っ張る。筋張った手が白く柔い手に包まれて驚いたが、そのまま流れに任せておくことにした。
いい歳をした大人二人が手を繋いで歩いてるなんて、はたから見たら滑稽だろう。けれど桂は心地良さを感じていた。懐かしいとさえ思っていた。
珍しいな、と何度も思う。
というか変だ。別に今まで身体的接触が全くなかったわけではない。幼馴染故の気安さからか、男子校的なノリでわちゃわちゃすることだって少なくなかった。
同じ布団で眠ったこともあるし、彼女の背中のそれを見たことだってある。
だけど、無言のまま、何の意図も読めずに、手を繋がれることなんてなかった。
やっぱり何かあったのだろうか。しかし雪子はそのくらいで落ち込んだりへこたれたりする女ではない。
もしあるとすれば、万事屋のあの二人の子ども関連だろうが、それでわざわざ桂を連れ出す必要はない。であれば、やっぱり憂さ晴らしに付き合わされたり? いやでも今のところ手を繋がれているだけだしなぁ。
「どう」
「ドウ?」
「何か心境に変化ある?」
「心境……ドキドキするな」
何を企んでいるのかわからない不安と恐怖で。
心の中で付け足すと、雪子はぬっと顔を近づけた。
「ほんと?」
「ああ、もちろん」
「フーン……」
握っている手を胸元まで高くし、にぎにぎ指で遊んでみる。子どもの頃に戻ったみたいだった。
これはこれでいいけれど、何かが物足りないような。雪子は眉根を寄せる。
「うーん」
「何だ一体」
「銀時みたいな派手な反応がないからつまんない」
「はあ」
ますます変だなーなんて考えているうち、黒塗りの車が停車する場所まで連れて行かれ、雪子は運転手に、桂は助手席に座った。
「俺がそっちに座った方がいいんじゃないか?」
「お前免許持ってないでしょ」
「かもしれない運転を忘れるなよ」
「うん? 急にどした」
「なんか言わなきゃいけない気がして……」
別の世界線の記憶を思い出したところで、車が発進する。目的地がどこか聞かなかったが、元々江戸の外れにいた場所から更に遠のいていくようだった。
それでも視界に入るターミナルをぼうと見ながら、ラジオも音楽もかからない車内で、リラックスした体勢になると桂は雑談に耽る。
雪子は話したいことがあれば話す性格をしているので、何も言わないということは気分じゃないのだろうと判断する。じゃあ、と桂は語りたくなった。
「そういえば、この前将軍が全裸で街を徘徊していたという報告が上がってきていたが、眉唾だろうな」
「そうだねまさか将軍様ゲームで全裸にされたとかそんなことあるわけないものね」
「武器の質が向上していてな、それらの銃火器を利用したテロを引き起こそうとしている連中がいる。が、あれは一般市民にモロに被害が出る。協力してくれるか」
「ん、後で情報ちょーだい」
「西郷殿のところに行かせたら部下たちが帰ってこない……」
「それはしらん」
本当は世界の情勢、といっても江戸や地球規模ではなく、宇宙規模での話をしたかったが、そこに触れると途端にそっけなくなるので残念ながら諦めることにする。
今の桂には力がない。宇宙をもひっくり返すそれがない。だから雪子から教えてもらえない。
高杉はそれを手に入れようと、手段を選ばす好き勝手暴れているようだが、過激な道と違えた桂には縁遠いものだった。
雑談をして、昼飯を食い、また車に乗せられ遠出する。買いたいものややりたいことが本当にないようで、気分で車を止めてはその気になって発進する。
その繰り返しをしているうちにあっという間に時は過ぎていく。子どもたちが家に帰るだろう時間帯だ。
どうして江戸の……かぶき町辺りに行かないのかと問えば、真選組がウロチョロしてるからと返される。
攘夷志士の桂と共にいるところを見られると面倒なのであった。
「本当に取り留めのない一日だったな」
「んー」
雪子はハンドルをトントンと指で叩く仕草をし、生返事をする。大体がそんな感じだった。心半分が何処かに置き去りになったような気分だった。
「悩んでいることがあれば吐き出してみろ。先生のようには答えを出してやれんが、何か力になれるかもしれぬ」
「んー。……んー? んん、そうだなぁ」
真摯に相談役を買って出た桂。彼は知らない。雪子が悩んでいるのは、桂にも関係しているということを。
実家に帰って松陽に決意を告げると『本当にそれでいいんですか。迷いがないなら、私は二人の結婚を祝福します』と返された。
迷いなんて、と笑うことができなくて雪子は言い知れぬ衝撃を受けたのだ。
どうやら自分は結婚に迷っているらしい。自分の意思と反する心理に戸惑った。いつだって己の思うがままに生きてきた女は、自分の知らない自分の本心に迷子のような気持ちになった。
迷いの原因を確かめたくて銀時と桂で試したが、それでもわからなくて……雪子はぼんやりしているのだった。
「……ヅラに言うかスゲェ迷ったんだけど」
「よしきた」
相談ムーヴに入ったことにより調子づいた桂をジロと鋭い目線で釘を刺し、雪子は躊躇いながら口を開く。
「……銀時とね、その……そういう雰囲気になると、どうにも耐えられなくて」
「そういうとは」
「そういうはそういうだよ。感じ取れ」
「無理を言うな」
「………こういうの」
前方に注意を払いながら、ハンドルを握っていない手を桂の太腿に置いて、爪先で引っ掻いた。存外色っぽい仕草で何の予測もしていなかった男の肌が粟立つ。
カッと目を開いて横を見れば相手はこちらに視線をやらず、前ばかりを見ていて何だか悔しかった。
「どうしてなんだろって」
雪子の手が離れ、安心したのか残念だったのか自分でもわからなくなってしまった桂は、つまり顔馴染みとの色事が苦手なのかと思った。一般的な感覚で言えばそうだろう。
しかし、それでは話が繋がらない。銀時だから雪子はダメだと思ったのだ。他の高杉や桂ではなく、銀時だからこそ。
「それは……銀時だからじゃないか?」
「ぅえっ?」
桂は答えの諸々をすっ飛ばして結論を出した。というか答えとかでもなかった。
「雪子自身が問題なのではなく、向こうに原因があるのではと思っただけだ」
「向こう……原因……」
己の内に原因を探していた雪子は、その言葉に風穴が開いたような気分になった。脳裏では今までのアレソレが超高速で駆け抜けていき、やがてこの前の発言に天啓を得る。
『旦那にしたくない』
『あら』
『だってプー太郎だし甲斐性ないしギャンブラーだし酒にだらしないし足臭いし面倒だもの』
『確かにその通りだわ』
「そういう……ことか……!」
銀時がとんでもなくだらしないから、そういうのをしてるのが恥ずかしいって思ったんだ!
雪子はポンコツなのでそのような考えに至った。
世間的にアレな男とそういうことになろうなんて、頭大丈夫ですか? と心配するレベルである。
怠け者で仕事なくて未成年の少女と同居しており定期的に免許取り消しになるとか最悪じゃないか。
そりゃ器用なところあるし料理できるし(ていうか仕込んだし)身内に甘いところがあって決める時は決める男だけど、そんなのセミファイナル並みの刹那の輝きである。
こんな男を好きになるとか生き恥に等しいのでは? 雪子は訝しんだ。
この思考の着地により銀時に関連することで照れないようになるのだが、それは先の話である。
しかしまあ、答えが出たことですっきりした。さっきまでの上の空が嘘のように元気になった雪子が、にこ! と笑顔を向ける。
「あ、そうだ。ヅラってなんかして欲しいことある?」
不穏な台詞に頭の中で警報音が鳴る。して欲しいとは。そんなこと言う前に自分のやりたいことを押し付けてくるタイプだろ。
「急にどうした」
「相談に乗ってくれたお礼ってやつ。あと私のことで頑張ってんなら、何かご褒美があってもいいじゃんっていう私の優しさだけど」
「ああよかったいつもの雪子だな」
あくまで自分の優位は絶対なところ、安心感さえ覚える。しかし、雪子とご褒美という違和感しかないワードの並び。シンプルに怖い。他の連中に押し付けとこう。
「銀時や高杉にでもしれやればいい」
「もうやったし。あとはお前」
「も。黙秘だ」
「あん?」
「命の危機を感じるから……」
唐突に言われたところで浮かんでくるものはないので、後回しにしておく。
昔から良いことと謳いながら最悪を実現させてきた女である。用心するのは当然であった。
「まさかこんな日が訪れるとはな」
夕陽が海に落ちていく。その美しい眺めを視界に入れて、今日一日で感じたことを音に乗せた。
「少なくとも、こんなふうにゆっくりドライブするなんて今までそうなかった。江戸にいると言っても、城郭に篭もりきりだったじゃないか」
「そんな時期もあったなー」
最後の戦いを終えてから、皆でゆっくりできた日々など雀の涙ほどだった。
雪子と朧は組織に戻り、凄まじく荒れた銀時が出て行って、次に高杉が……といったように、またバラバラになるのかと危惧したぐらいだ。
しかし松陽があの頼もしく優しい笑顔で「もう一度、みんなと会えますよ」と言ってくれたので、桂は安心することができた。
やがて松陽は松下村塾を復活させ、桂と高杉が攘夷志士として暗躍し、銀時がお登勢に拾われて万事屋を始め……それから何の前触れもなく雪子が江戸に現れた。
『雪子! お前今までどこにいたんだ!!』
『宇宙』
宇宙と江戸を行ったり来たりする雪子は多忙で捕まえるのが大変だった。何より本人の優先順位的に松陽に勝る存在はなく、ただでさえ短い時間の中で松陽以外に割く時間なんてほぼなかったのだ。
やがて、だんだんと江戸にいる時間の比重が増えて……雪子が店を構えるようになり、宇宙での時間が減って。
「けれど、最近お前はよく店にいるだろう? 先生のところへもよく顔を出していると聞く」
「いっそあっちに移住しても良いくらいなんだけどね。流石にターミナルから遠いから……」
「俺も松下村塾がもっと近くにあればと思う」
「ねー。そしたら昔みたいにみんなで、」
急に言葉を絶った雪子は暫く運転すると、邪魔にならない暗がりに車を止める。それが気になって見てみれば、息を呑むくらい美しい絵が広がっていた。
彼女の髪が夕陽に透けて金色になり、白く血色の良い肌を隠している。すっと通った鼻筋と潤いのある唇が赤く染まっていて、優れた容姿をまざまざと再認識する桂だった。
「ヅラさ、前に……二年経っても私が独身だったらけ、結婚するって言ってたじゃん」
「ああ、そうだな」
「それって……、私のこと……」
顔を桂には向けないまま、雪子は深呼吸をする。
落ち着け。私のこと好きなの? と聞くだけだ。そんなセリフ恥ずかしいことでも何でもない。何なら「私のこと好きじゃん」「はいはい」とかやりとりしたことあるし。てかヅラって私のこと好きだし。えヅラって私のこと好きなの? マジで?
「わた、私のこと好きなの」
「はあ。好いているが」
「!!」
言った!! 本当に言ったこの男!!!
「ふ〜〜〜〜んそうなんだぁ」
「なんだ、お前も俺のこと好きだろう」
「そりゃ好きだけど」
「なら何の問題もないな」
流石に好いていないのに結婚するのはどうかという倫理観はあったらしい。
言葉にして、互いに好きだという認識を得た。プロポーズは済んでいる。受け取ってもらっている。親(松陽)からの了承も得ており、友人(銀時や高杉)にも伝えてある。後は己がテロリストで、相手が幕府のお偉いさんという立場が問題なのでどうしようもないのだけど。
けれど、桂がそうして雪子を娶ると宣言したのは、思春期真っ只中クラスのマドンナに恋をしたガキ大将みたいに、何もできない銀時と高杉の背中を押すためである。
だから今すぐに結婚するわけでも───
「じゃあ、結婚する?」
「うん、うん?」
「だってその、お互い相思相愛なわけじゃん、いい歳してるわけだし。私も身を固めてもいいかな〜って思ってたわけで、アンタが丁度いいな〜って感じてたわけ」
人差し指同士をつんつんくっつけたりしながら、ちらちらと桂を見る。
「二年って区切りよくわかんないし、別に待つ必要ってないじゃん? だからその、今すぐってわけでもないけど、その……」
あの幼馴染どもに発破をかけるつもりで宣言したというのに、一番最初に行動を起こしたのが雪子だなんて、想像しなかった。
これは予想外だと、桂は冷や汗を流す。
雪子も前までなら結婚に踏み出すことはできなかっただろう。しかしお妙の嫁入り騒動、そして先ほどの迷いを絶った桂の答えにより、雪子を止める壁は最早無くなったのである。
「ま、待ってくれ。先生にはどう説明する」
「説明するも何も、ヅラが最初に松陽に言ったんでしょ」
「そうだった!? や、では銀時は! 高杉は、朧殿は!」
「なんでアイツらの名前が出てくんの。私とヅラには関係なくない?」
「貴様本気で言っているのか!?」
どう考えても奴らは雪子を……! 助手席でオロオロガタガタしながら震え上がる。
マズイ。このままでは雪子と結婚することになってしまう!! 自分から言い出しておいて桂は戦々恐々とした。雪子とはそうならないと確信していたからこそ、婚約するという強気な行動に出られたのである。
だがしかし、この状況。江戸の外れで、車の中。運転できるのは雪子しかおらず逃げ場がない。
目の前には結婚を迫る女。後ろには冷たいドアが固く閉ざされているのみである。
「家族になろう」
真剣な眼差しでそう言われたら、こちらも責任と覚悟を腹に収めなければなるまい。
───いや、覚悟など。とうの昔に出来ている。
「……お前が望むなら、俺は何だってしよう」
彼女と出会い、凡そ二十年。
孤独だったその身にたくさんの彩りを与えた女が、もう一度絶たれた繋がりを取り戻そうとしてくれている。
結局、また雪子の思うがままに動いてしまっている。守られ、救われ……されるがままになってしまっている。
「だがしかし、俺はまだ何も成していない。腐敗した政府を叩き、絶対的な権力を誇る天導衆を下しておらぬ。……不甲斐ないばかりだ」
「………」
「だから、お前の隣を歩む時。それは、己が立てた誓いを果たした時でありたいと。そう願う」
先生や仲間を守り続けている雪子のようには、なれていない。その細肩にのしかかる重圧を共に背負えるほど、己は強くないのだと。
そう言って桂は雪子からのプロポーズを保留した。結果として、自分から言った「二年」という時間に決定打を委ねたのである。
暫く沈黙が車内に降りた。覚悟を吐露した男は多言が相応しくないと口を閉ざすし、女は男の言葉をしって深く考え込むばかりだった。
やがて雪子は大きく息を吐くと、脱力したように桂の肩口に額を押し付ける。甘えるような、そんな仕草だった。言い知れぬ衝撃が鳥肌となり、元々ピシッと伸びていた男の背筋がさらに直線的になる。
「私フラれたの」
「別にそういうことでは」
「……わかった。じゃ、二年後にもっかいプロポーズして」
「うん」
う〜〜〜と唸りながら肩をぐりぐりされてどうしたらいいのかわからなくなった。とりあえずぐりぐりする動きを止めたくて抱きしめてみると、正解のようで大人しくなった。
愚図るこどもをあやすように背中をポンポン叩いていれば、やがて桂の背中にも腕が回る。とくとくと心地よく心臓が高鳴っていく。
雪子を優しく抱きしめながら、桂は安堵を得た。
「そう焦るな。お前は良い女だと俺だけはわかっているからな」
「何そんな当たり前のこと言ってんの」
フォローしてあげようとしたら容赦ない一蹴を食らう。
「そも、どうして結婚なんて意識し出したんだ? 今までその気さえなかっただろ」
「……んー。なんていうか。松陽に孫の顔を見せてやりたいなって」
「ほう」
「結婚しないんですかって言われてから……あと、お妙が結婚するって聞いた時も……ああ私ってこのままでいいのかなって思ってさ」
「珍しい。周りに言われて気になったのか」
平素なら周りなんて目に入ってさえいないだろうに。
しかし先生に言われたのか、と納得がいった。だったら雪子が気にするのも無理はない。彼女はこの世の誰よりも松陽を愛しているから。
「それなら、お前はどう思う」
「私?」
「お前自身の意志で、結婚したいと思うのか?」
以前松陽にも同じ問いを重ねられた。あの時は……そう。あれがきっかけで、彼らをもっと意識するようになったのだ。や、前々から何となく思っていたところはあるのだけど。
何一つ具体的な考えは浮かばないものの、雪子の本心は決まっていた。
「お前らとなら、家族になりたいって思ってるよ」
そして桂は、雪子の指す「家族」がかつて自分達で織り成していたものであることを見抜いた。
なるほど。雪子の思う「結婚」とは「家族」になることであり、雪子の言う「好き」とは「家族」として向けられる健全な愛情なのだろう。
であれば、先ほどの好意の確認も無意味なものだ。だって桂も雪子も同種の愛情を抱いているが、「家族」にしかなれない。
世間一般でいう夫婦にはなれないのだろう。
「……そうか。……それなら、俺も同じだよ」
そう告げれば、雪子は心の底から安心した笑顔を見せた。
やはりと確信に至る。
「そっちこそ、今までその素振りさえなかったのに、宣言したのはなんでだよ」
当然の質問である。しかし桂が馬鹿正直に「発破かける為ですまさかお前が一番に動くなんてなはっはー!」と言えば殺されることはわかりきっていたので、それっぽいことを並べることにした。
「似たようなものだ。まあ、お前は一人が嫌いだろう? 寂しくないように一緒にやろうと思ってな。………なんだ?」
「べっつにー。けど、そうだな。お前となら楽しく生きられそう」
驚くほど容易に目に浮かんだ光景は、背後につぶらな瞳の白い化け物がいる幻覚だった。ヅラと結婚したらアイツも一緒にくんの? マジ? やめよっかなと思うくらいリアルだった。
「………。てか、昔のを気にしてるのかと思った」
「昔の? どれのことかわからんな」
「だから、これ」
ふに、と柔い感触が唇に押し付けられる。小さい子どもが純粋な気持ちでしたようなキスだった。性愛が微塵も絡まない、アガペーそのものだった。
邪神の塊みたいな女だったから、それをしてきたのが余計に信じられなくて、桂は固まってされるがままになる。
銀時とそういうのをするのはどうにも恥ずかしさが勝つ。
じゃあ、桂とならどうなるだろう。試してみたくなった。
「子どもの戯れだって無かったことにする?」
唇に触れるか触れないか、もどかしい距離で囁く。
「それとも……本気にさせればいいの」
黒い長髪を耳にかけ、意外と男らしい輪郭をなぞると耳に指を触れさせる。すりすり撫で上げて、ゆっくりと耳の穴に指を入れた。温い肉が焦ったいほど遅く入ってくる。雪子が上半身を密着させてきて、着崩れの音が遠くでした。
桂は興奮で飛び上がりそうになる。同時に、とろんと瞼が落ちてきてその身を完全に委ねたくなった。
細い背中に回していた両腕を下ろし、腰から尻を優しくなぞると、嬉しそうに雪子の目が細まった。歓喜の吐息が漏れる。
褒めているのだ。言葉をつらつら並べない代わりに、仕草と目つきで如実に語ってくる。嫌な気分にはならない。褒められるのが嬉しくて、桂は夢中になって体と体を、唇と唇をペッタリくっつけた。
「……ちゅ、ん」
くっつけるだけで、雪子はそれ以上何もしない。上唇をはむはむしたり、舌でちろと舐めるくらいはするけれど、決定的な侵入はしないまま時が過ぎるのを待った。
緩い快感だけが脳を痺れさせていく。しかし正気を失うには足りない。情欲に溺れるなら、もっと激しく求め合わなければなるまい。
わかっていたから雪子は敢えて健全な口付けで止める。
桂の理性は鋼のように硬い。であれば、時間をかけて一枚一枚を解きほぐしていくつもりだった。我慢は苦手だがこういう忍耐力なら負けない自信があった。
「もっと、………ぁ」
両腿が痺れて動けない。自分の意思が体にちっとも込められない。脱力したままの体に、雪子が体重をかけてくる。心地よい重みだった。本気で抱き締めれば折れてしまいそうな、それでいてふくよかな肉体を擦り寄せられて……堪らなく幸福だった。
「もっと? ……ふ、なら舌出して」
「あウ」
べ、と命じられるまま舌を出す。長くも短くもないが、少しのっぺりとした舌だった。そこに雪子の舌が重なり唾液が絡み合う。固く尖らせた舌をつつと滑らせて、やがて柔らかくすると全部をくっつけた。
じゅ、と吸われて軽く仰け反る。今までゆったりした快感のみを与えられていたから、急に目の覚めるような気持ち良さをぶつけられて睫毛が震えた。
桂は息を荒げて舌を絡め、彼女の口内を弄ると、ガバッ!! なんて大袈裟な動きで雪子が距離を取った。窓ガラスにガツンとぶつかったけれど気にする素振りもなく、口元を手で隠し、焦りを最大限に現した顔で桂を凝視する。
その頬は紅潮し、肩で息をしているのが一瞬でわかった。
「なっ、なっ、なっ!!」
「ど、どうした。初めてではないだろう?」
「さ、そぎゃ、そりゃ、そうだけど、でも、ヅラからするとか、思わないじゃん!!」
何言ってんだコイツ。桂はほんの少し熱の冷めた目で女を見つめた。
正直に言おう。すごく気持ちよかった。このまま溺れてしまえたらと思えるくらいだった。それなのにこちらから仕掛けた途端「もう終わり!」と取り上げられたのである。不満を抱くのも当然だった。
「本気にさせたのはお前だ」
「は」
「なら責任を取って最後までしろ」
今すぐ結婚してくれないくせに!! なんだかキレて泣きそうになりながら、それでも雪子は自分の優位を信じて疑わなかった。
だって攻めているのは私であって、気持ちよくさせてあげているのが私である。そこだけは、何があっても、変わらない……!
しかしまあ、それを覆すのがこの男だった。
「そうだ。ご褒美とやらがあるのだったな。では、俺から逃げることを禁ず」
「にっ逃げてねーし。勘違いしないでくれますぅ?」
「勘違いでも何でもいいが……少し黙ってくれ」
低い声で言われるとぴゃっとなってしまって、何よりご褒美という言葉を放たれてしまい、本当に雪子の逃げ場は無くなった。
そもそもご褒美というのは雪子から与えられるものである。決して雪子に何でも言うことを聞かせる便利な約束ではないのである。
しかしこの男、そういうのを一切無視してものの見事にこの女を完封した。二十年も厄介者のケンカを止めてきたことはある。
喋ることも逃げることもできなくなった雪子は、ゴムどこにやったっけとぼんやり現実逃避をした。
じ、と肌を焦がすような熱に、胸の奥がざわついて仕方がなかった。溶けてしまいそうなくらい顔に熱が集まって、今触れられたら爆発してしまいそうなくらい恥ずかしかった。
言われた通り従順にしている女がやけにかわゆくて、桂は破顔する。
「うん。いい子」
まるで生徒を褒める先生のように頭を撫でられて、もう無理だとなった。
完全敗北である。向こうからグイグイ来られるのも弱いが、先生のような包容力で優しく撫ぜられるのにはもっと弱かった。
手入れの行き届いた髪を梳くようにされて、やがて体をぐいと寄せられる。さっきは自分からのしかかることができたのに、桂から触れられるとどうしようもなく戸惑った。途端に何をすればいいかわからなくなるのである。
顎に手を添えられ、唇を柔くくっつけられる。性急な動きはなく、緊張をほぐす優しいものだった。先程のと思われるお互いの唾液がぬるぬるして気持ちがいい。
頭を撫でられ、優しく唇を覆われ、密着していると……雪子は体の緊張が抜けていくのがわかった。先ほどは、雪子は桂の強靭な理性を剥がしていくつもりでいたが、今は逆に体の強張りを解きほぐされてしまっていた。
「……今度は逃げるなよ」
頃合いを見て、自然と開いていた口内にぬるりと熱い舌が入ってくる。脱力した体では受け入れることしかできない。しかも「逃げることを禁止」されている。加えて全く嫌な気持ちになっていないので、自分から逃げる理由をこねくり回すことさえしなかった。
「はむ、……ん、んっ」
だから雪子はぢゅ、ぢゅ、と唾液を啜り、口付けを激しくしていく。上顎を舌先でくすぐり、舌の付け根をぢゅ〜〜〜と吸って、はふはふ漏れる熱い吐息さえ惜しくて全てを飲み込んだ。
それまで優しく撫でられていた頭を固定するように強く支えられて、男にしては乱暴な仕草だったことに嬉しくなった。余裕が無くなってきている。
連想させるように雪子が腰を前後に揺らすと、尻たぶを思い切り掴まれて揉みしだかれた。二人とも同じことを考え、感じ、一心不乱になってそれへと辿り着こうとしていた。
深くキスをしながらうっとりしていると、急に背中をなぞられて、意識がそちらにどうしても向かってしまった。咄嗟に顔をそらして俯くと、耳朶を唇で啄むように囁かれて心臓が跳ねる。
「嫌か?」
「ううん、ヤじゃない。ただその……弱くて」
この状況でそれを言うのは、男心がわかっているのかどうなのか。ともかく嫌じゃないのだと安心したので、指を立ててカリカリすれば面白いくらいに腰が跳ねて、桂に縋る力が増していく。
吐息がいとも簡単に乱れ、胸に埋めるように顔を押し付けてくる。その様がやけに陶酔的だった。
「フッ、ふっ、……」
あの、あの雪子が、己に首を曝け出して全てを受け入れている。それだけで自分が望むものを手に入れたような万能感に包まれた。
理性が欲に溺れていく。止めるべき理由が見つからない。目の前で無防備に晒された肉を貪り尽くしたくなり、桂は欲望のまま手を動かした。
着崩された着物は簡単に脱がせられる。とっくに落ちていた羽織が座席で輪っかになっていた。乱れた帯に手をかけ───
ビ───!!!!
突然車のクラクションがなって2人の肩が同時にビクついた。弾かれたように後ろを見れば、辺りはすっかり夜になっていた。暗闇を照らす提灯が白黒のパトカーを照らし……しかも見覚えのある人物が車から降りて、こちらに接近している。
マズイ! 逃げの小太郎が策を考え出す前に、雪子の羽織を投げつけられた。
「わぷ!」
「被ってろ」
割れている顔と特徴的な長髪、ついでに……を羽織で隠したところで、雪子は崩れた衣服も髪型も何一つ直さないで運転席の窓を開けた。
「おいお前、変なとこで長いこと車停めて……」
「あらま土方じゃん。奇遇だなこんなところで」
「てめェ、はっ……!?」
土方は、まさか不審な車の運転手が雪子であることも、衣服や髪が乱れ頬が紅潮していることも、何もかもが予想外で言葉を失った。
助手席では羽織で上手く全身を隠しているが、ちらりと見える手や体格から男が座っていることがわかる。つまりはまあ、そういうことであると理解した瞬間、やべえとなった。
コイツのそういう事情は微塵も興味がないが、共にパトカーに乗っていて今こちらに向かってきているのは。
「土方さん。どうですかその車。攘夷志士でも乗ってました?」
「……いや。紛らわしいだけのシロだ。戻るぞ」
未成年である沖田にこれを見せるのははばかられ、早々に立ち去ろうとする。桂が安堵したのも束の間、にっこり笑った雪子は土方の制服の裾をつまむ。
目の前にあの桂小太郎がいるというのに、気づかないでいる警察に面白さを感じたのだ。
「まあまあまあせっかくだし話そうよ」
「俺はお前に話すことなんてねェ」
「おや聞いたことのある声だと思えば………わ」
しっとりと汗ばんだ肌は夜に溶けて、白い肌が提灯に照らされて淡く発光する。乱れた髪が頬について、五指をくねらせて手招く様は衆合地獄の鬼女そのものだった。
大人の女のそういう姿に、沖田はばち! と目を開いて凝視してしまう。その視線を遮るように土方が運転席の前に立ちはだかった。
「あーあー、教育上良くないんで帰ります」
「かぶき町にいればこんなの日常風景でしょーに」
「未成年が相手だぞ。次は公然猥褻罪で逮捕の上切腹だコンニャロ」
行くぞ! と沖田に声をかければ存外素直に応じられ、この車の助手席の男に興味もなく、真選組の二人は引き上げることにした。まさか因縁の相手がそこで堂々としているなんて思わない。
先にパトカーが走り抜けたのを確認して、雪子は羽織を回収し乱れを正す。
アクセルを踏み、ゆっくりと夜の道路を走行する。
「………」
「………」
「邪魔されちゃった」
「ン、んん、……だな」
何をどう言えばいいのかもわからず、桂は真っ黒な外をジッと見つめて、ぽつりと。
「なんか……不倫してるみたいな気持ちになって盛り上がってしまった」
「ぎゃははははははは!!」
ハンドルをバンバン容赦なく叩いて雪子がゲラゲラ笑う。甘い雰囲気が霧散して、いつもの二人の空気が取り戻されていた。残念な気持ちになりながらも快活に笑うその顔が愛おしくて、まあいいかと思うのだった。
あの二人が雪子を好いていると明確にしっている上で彼女とそういうことをするのは……はっきり言って興奮した。とても良かった。
目頭を揉んで、桂はため息をつく。
ぐずぐずしていたら本当にこの女を嫁に貰ってしまう。もうこの際誰でもいいから雪子と結婚してくれ。
心の底から切に願う桂であった。
「………」
横目に見ればさっきまでの欲に溺れる女の姿はどこにもなく、その面影を探してつい手を伸ばしてしまう。信号停止で車を止めた雪子は頬に手を添えられ、ああと理解する。ん、と目を閉じて桂の方に顔を向けた。
「早く、青になっちゃう」
「えっ」
「えっ? ……あ、ち、違った?」
「あっいや」
一瞬だけ口付けを交わすと、二人して真正面だけを見る。キスしたいのかと勘違いをした雪子と、勘違いされたけど勢いでキスをしてしまった桂は、もうお互いを見ようとしなかった。
脳内では『勘違いした! 勘違いした!! しかもヅラに否定されるんじゃなくて本当のことにされた! 気を遣われた!!』やら『ただ顔を見たかっただけなのにあんな顔をされたらしたくなるだろうが馬鹿者めクソかわいかったな』やらどんちゃん騒ぎであった。
どこかに飛んで行ったはずの甘い空気が戻ってきそうで、そうなった本当に最後までやってしまう確信が互いにあった。だから目的地に到着して桂を送り届けるまでずっと無言だった。
「じゃ、また」
「あ、ああ」
「……あの、今日のことは内緒にしてね」
「う、うむ。わかった」
別れの挨拶は手短に、振り返ることもせず桂は歩き雪子は運転する。一人きりになった車の中、桂の残り香が感じられて体温が上昇する。窓を全開にして空気の入れ替えをし、事なきを得た。何が危なかったか自分でもわからないがとにかくそれで平穏になったのだ。
「………ぐ」
勝手に再生される記憶に悶え苦しむ雪子は、途中であった……その、恥ずかしさや嬉しさは、紛れもなく銀時に対して感じていたものと同じであったので、なるほどね……と理解を示すことができた。
今までならばその気持ちと向き合うことをしなかった。だけど戦いの中で成長をした雪子は、今度は誰かに相談するまでもなく、答えを出すことができる。
つまり、攘夷志士であり堅物電波狂人のヅラとそういうことになるのは生き恥!!
やっぱり雪子はポンコツなのでそう結論づけた。
もし誰かが居たならば、こう言っただろう。
それは恋だよ、と。