鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いに、銀時はふと目を覚ました。時刻を確認すれば6時56分。普段では考えられないような早朝である。が、銀時が驚いたのはそこではない。
白む朝日が差し込む薄暗い室内。見知った天井と、慣れ親しんだ香りがする。味噌汁の香りだ。自然と口の中から涎が分泌される、人生で一番飲んだ味噌汁の香り。それが万事屋のキッチンの方からするのだ。
「………?」
ぼんやりした意識のまま、銀時はのっそり起き上がって寝巻きのままそちらに向かう。素足でヒタヒタ歩いていけば、床がキシキシ鳴った。老朽化が嘆かれる。
近づくにつれて、味噌汁以外の香りにも気づいた。どれも懐かしいものばかり。作業音も聞こえてくる。誰かがキッチンで料理をしているのだ。
そしてついに辿り着いたキッチンでは、割烹着を着た雪子がカチャカチャ卵を溶いていた。出入り口に突っ立った銀時に気づいて振り返る。
「おはよう」
「ああ……おはよう」
あまりに自然に挨拶をしてくるので、銀時も寝ぼけた頭で反射的に返す。雪子の店と比べものにならないほど狭い万事屋のキッチンで料理をする姿が、なんだか眩しく見えた。
「今だし巻き卵焼くから顔洗ってきて、んで手伝え」
「わかった……」
狭いキッチンには数人分の朝ごはんが並べられていて、二口のコンロにはそれぞれ味噌汁の鍋とフライパンがセットされている。見栄えもバランスも抜群に良い朝食を作っているらしかった。
じゅうう、と溶き卵を熱したフライパンに流し込む横顔を見ながら、銀時は呟く。
「結婚してた……?」
なるほど夢か。言葉にせず納得する。夢でなければ、雪子が早朝に万事屋のキッチンで朝ごはんを作っているわけがない。
夢ならば、と銀時は洗面台に向かわずそのままキッチンに足を踏み入れる。流し台まで数歩なので、すぐに雪子に近づいた。
卵の焼き加減を確認する手元を覗き込む。
「朝ごはんなに」
「味噌汁とだし巻き卵とひじきの煮付けと焼き鮭とほうれん草のおひたしと……」
「多い多い、けど美味そう」
「当然でしょ」
幼い頃から口にしてきた馴染みのあるレパートリー。それを目の前にして、作り上げた雪子への想いが溢れ出してきた。
深く考えることなく後ろから優しく抱きしめる。抱き心地のいい柔らかい感触が銀時の身体に伝わって、最高に幸せな感情がじんわりと胸から広がった。
もちもちした尻とむにむにした胸の柔肉を余すことなく堪能する。それぞれを片手で揉んでいるのである。
「あー柔らけェ、ずっと揉んでたい」
「………ぎんとき」
「幸せだなぁ、このまま布団に連れ込んで二度寝してェな」
「銀時、銀時」
「うん?」
穏やかに頷いて顔を上げれば、デザインの不揃いの菜箸が銀時の両眼に突き刺さった。
「がァァァアアアアア」
箸を抜いて血涙を流しながら床をゴロゴロする銀時は、耳を赤くした雪子に気づかない。不機嫌そうに口を尖らせて、ぶつぶつ不満を言う。怒りと照れで顔が熱くなっていた。
「胸と尻揉むわ、布団に連れ込もうとするわ、誰と間違えてんだ。……え、間違えられた……?」
クンと焦げ臭い異臭がして眉をひそめると、短く悲鳴を上げた。だし巻き卵が焦げていたのである。お妙が作るようなレベルにまで到達してはいないが、加熱され過ぎて茶色く嗅げてしまっている。
「ま、まだセーフ……これ銀時の分にしてやろ」
「なに騒いでるネ銀ちゃん。まだ朝の7時……寝る時間ヨ」
「おはよう神楽。顔洗ってきな、朝ごはんだよ」
寝ぼけ眼を擦っていた神楽は抱えていた枕を落とした。
以上が、本日の万事屋で起きた最初の出来事である。
「どうぞ、召し上がれ」
「う、うあおあおおお………」
「正気を保て神楽っ! コイツが何の見返りもなしにこんな豪勢な飯を作るワケがねーんだ。どうせ変なこと企んでんだろ」
「企んでないっつーの」
キラキラと輝いて見える朝ごはんの数々に、涎を垂らして打ち震える神楽と、細肩を掴んで動きを止める銀時。
言われた通りに顔を洗って、居間のソファに並んで座り、さあ朝ごはんだ! と手を合わせかかったところで、冷静になった銀時が待ったをかけたのである。
「コイツの店でならともかく、俺ん家で朝ごはん作る理由がねーんだよ、何かあるに決まってる」
「ま、間違いじゃないけどね」
「ほらな。そういや妖刀はどうした? オタクくんから取り憑かれた妖刀は手から離れないって聞いたけど?」
「それも関係してる。ま、ご飯食べながら話しすっから」
「えー……?」
疑わしい。後で多額請求されるのでは……? いやまあそれを言ったら今まで雪子の店でたくさん食べてきた分もあるけど……なかなか信じる心を持てない銀時に、手を合わせた神楽が催促する。
「銀ちゃん」
「……はぁ、しょーがねェな。……いただきます」
「イタダキマス!」
「はい、いただきます」
三人で手を合わせて、いつもと違う豪勢な朝ごはんが始まった。
炊飯器をすぐそばに控え、神楽はバクバクもぐもぐありったけを口に放り込む。なんせ久方ぶりの雪子のご飯だ。それに昨日の朝ごはんは酢昆布だけだったし。
新しいおかずを食べて「おいしい!」と声を上げ、一心不乱に食べる。その様子を嬉しそうに見つつ、焦って食べなくていいけどなと雪子は思っていた。
「……ん、うまい」
味噌汁を一口飲んで、銀時がぽろっとこぼす。出汁のきいた味噌の味。具材はお揚げとお豆腐とわかめで、雪子に技術を仕込まれた銀時でも同じものは作れないだろうと確信する。
体に染みついた懐かしい味を胃に流し込んで、おかずに箸を伸ばす。どれもこれも幼少期から雪子が得意にしていたものだ。
「……あ」
炊飯器を装備している神楽と違って、銀時には茶碗ではなくお握りが用意されていた。パクッと食べてみれば具材が入っている。その昔、松陽に拾われて初めて食べたのがこのお握りだったっけ、と懐かしい記憶が蘇ってくる。
ふっと口元を緩める銀時を、ひっそり目で確認する雪子。
「なんで俺の卵焼きだけ焦げてんの」
「てめーのせいだ。人の体好き放題触ってきやがって」
「銀ちゃんキモこっち寄らないで」
「だーっ! ちっと揉んだくれーで騒いでんじゃねーよ。俺の股間のセンサーが反応して無意識的に手が動いただけだっつーの」
「神楽、変なことされてない? すぐ相談しろよ」
「銀ちゃんキモ私雪子の家に住むアル」
そんなやりとりをしていると、やがてガララと玄関と戸が引かれる音がした。顔を上げた雪子が弾んだ足取りでそちらに行く。
「おはよう新八、朝ごはんもう食べた?」
「雪子さん!? わ、おはようございます、朝ごはん食べてきちゃったんですけど、もしかして雪子さんが作られたんですか?」
「そう。一応新八の分も作ってたけど、流石に入らないか」
「いえいえ! ぜひいただきます」
「お、食べ盛りー」
「えへへ」
そんな声が聞こえてくる。二人だけになったところで、神楽がずいと尻をずらして銀時に圧をかけた。
「銀ちゃん」
「あん?」
「銀ちゃんと雪子がくっつけば毎朝これが食べられるアルか?」
「かはっっっ」
血反吐を吐く勢いで猛烈な何かが噴き出してきた。ジワと顔が熱くなる。何が恥ずかしいかというと、ひっそり頭の隅で思い描いたことを、恋愛なんててんで理解していなさそうな神楽にズバリ言い当てられたからだ。
「ばっ馬鹿言ってんじゃねーよ神楽ちゃん、大体あの雪子だぞ? 誰かと一緒になれるわけないだろ」
ヅラと結婚する話があがっていたみたいだが、その後確認して結婚の予定はないと言っていたし。
と昔の情報で安心する銀時だが、現時点で雪子は「2年後にもっかいプロポーズされて、ヅラと結婚するか」と考えているので、まるで意味がない。
「ふーん」
その一方で、前々から銀時と雪子は惹かれあっているのでは? と感じていた神楽は「雪子が万事屋に嫁いでくればいいのにな」と思う。
だって作るご飯おいしいし神楽のことを心配してくれるしお金持ちそうだし大好きだし。同じ夜兎だからか「えっまだ食べるの!?」みたいなこともないし。その割に今日の雪子の食事の量は一般人のそれと変わらないようだが……。
「おお! 美味しそうですね、いただきます」
「はい、召し上がれ」
新八も交えて食事を再開する。律儀に一品ごとに感想を述べてくれる新八に相槌を打ちながら、一番最初に食事を終えたのは雪子だった。
「え、もう終わりアルか?」
「朝ごはんだしさらっと終わらせるくらいがちょうどいいじゃん」
「まあわかるけど」
「あはは、僕はちょっと食べ過ぎかな」
自分で淹れたお茶を啜り、ふうと落ち着いた雪子は妖刀を取り出す。先の事件で散々人を斬り殺した白銀の刀だ。
それの登場で、空間の温度がぐっと下がった気がした。実際のところは、妖刀に搭載された冷房機能が働いているだけなのだが。
「私が妖刀に魂を喰われたのはしってるでしょ。それがコレ」
「……村麻紗と同じく、普通の刀に見えますね」
「それにオメーもすっかり普段の横暴なままじゃん。本当に妖刀に喰われたの?」
「妖刀如きが私の体を乗っ取れると? ……はっ」
鼻で笑う。雪子はその昔、夜兎の本能に抗いそれに打ち勝った経験がある。元来の不屈な心意気を含めて、非常に強靭な精神を持っていたのだ。だから土方と比べて妖刀への耐性が高く、体を乗っ取られても性格や思考は雪子のままだったことが多かった。
「けど、現状でも妖刀に憑かれたままなのは変わってない。ほんっと気持ち悪ィ……。だから、この妖刀に込められた怨念を晴らしてやるの。そしたら、私は晴れて自由な身になる」
「トッシーはヘタレだオタクだったけど、お前のは何なの」
すると雪子は顔をそっぽ向けた。なんだ? と思って続きを待つもなかなか口を開かないので、あまり言いたくないらしいと彼らは察する。
そういえば「店に来るな」と万事屋の面々は強く言われていた。時期が妖刀に憑かれた頃と一致するので、変貌した自分を見られたくなかったはずだ。その正体を口にするのも。
『またいらしてね。ああ、お代はいりません。お金よりももっと素敵なものを頂いたから』
『……何ですか?』
『お二人の笑顔』
新八だけは完全に妖刀に呑まれた雪子を知っているので、あれを二人に、特に幼馴染の銀時には知られないだろうと見当をつける。
今日万事屋にやってきたのだって、精神を乗っ取られなくなったから。なので、雪子が正直に打ち明けるかどうか……。
「……夫に浮気された奥さんの怨念」
「え?」
「大和撫子な奥さんがグータラする夫に浮気されて、ブチギレて男を斬った時に使ったヤツがコレ」
「……。……色々言いたいことあるけどやっぱワイドショーで流されてそうな妖刀だなオイ」
「ちなみに長い髪が自慢だったらしい。旦那から見初められたきっかけだから」
それになんというか、身につまされるな。俺結婚したことないけど。
「まー詳しいことはよくわかんないから置いとくけど、とにかくコレは旦那に不倫されて嫉妬に狂った女の執念が込められてるわけ」
「斬られた旦那じゃなくて、斬った嫁さんの方!?」
「それだけ夫を恨んでたってことでしょ? ほんとコワ〜〜」
村田兄妹のところに確認しに行ったので間違いない。ちなみに切れ味・強度共に申し分なく、また改造された醤油が出る機能もまあまあ使えるので、折れるまで使い続けるつもりである。
だから怨念が成仏しないと面倒なのだ。
「それで、どうやって恨みを晴らしてやるアルか?」
「女が言うには、浮気されても最後まで夫に尽くしたかったんだって。だから、まあ、私の体を使って思う存分してもらうしかないでしょ」
「尽くす??」
傲慢無礼な雪子の口からそぐわない発言が飛び出してきた。違和感しかない女の涼やかな視線が銀時に留められる。
「だらしない夫と、主婦として掃除し甲斐のある住居。条件は揃ってる」
「……つまり?」
「……ここでご奉仕させてってこと。……迷惑?」
手慰みにお茶を飲み、時間を潰すように無意味に急須から注ぐ。が、少量だけ注がれて空っぽになった中身を見て、注ぎ足そうと席を立った。
あの雪子がソワソワしているのだ。迷惑ではないかとわざわざ確認までして、許可を求めてきた。
その異常性に、雪子との付き合いが短い新八と神楽でも、何かが起きていると理解する。
「銀ちゃん」
「ン」
「多分、雪子は……頼ろうとしてくれてるアル」
「……。……そーだな」
あの時の雪子が何を抱えていたのか、誰も知ることはできていない。けれど、血みどろの手で人殺しの道具を持ち、最後まで暗殺者としての任務を果たそうとする姿に、新八と神楽はある確信をした。
雪子をその道から引き剥がすのは、きっと、とても難しいのだろう。
神楽と違って雪子は夜兎の本能を愛している。血と戦いに焦がれる忠実な夜兎でいることに葛藤しない。精神構造がまるで違うのだ。
だけど、その代わりに弱い部分を見せようとしてくれている。前までは隠そうとしていたのに。
「雪子さんって、本当に自由で無茶苦茶で……不器用なヒトですね」
彼女元来の気質を変えることはしないけど、違う形で歩み寄ろうとしている。それがわかって、温かい気持ちが胸の内に広がっていく。
あの事件で、どうしても相容れない境界線があることを突きつけられた。自分達では雪子を止められないのだと理解した。
それでも雪子は譲れるものを選び、こちらに寄り添い、妥協と諦念の中で手を伸ばしてくれる。
「ほんとはね、ふざけるなって怒りたいくらいですよ」
近藤や沖田を殺そうとし、自分たちの心配を振り切って、縦横無尽に駆け出していく無鉄砲さが、あの時ばかりは腹立たしかった。
どうして敵対しなければならないのか。どうして知人同士が争う姿を見なければならないのか。怒りと戸惑いでどうにかなりそうで、それでも声よ届けと喉もはち切れんばかりに叫んで。
それで向こうから何の謝罪も弁明もない。
確かに今回の事件は、万事屋は関係がないのかもしれない。だが、それでも教えてくれと思うのが仲間じゃないだろうか。
「だけどまあ、雪子さんについていくなら、これくらいで怒ってたらキリがないんだろうなってわかってきました」
あの一件で生まれかけた軋轢が、形になることなく霧散していく。
「てめーら、ほんと……」
「? なんですか銀さん」
「別に。俺らが子どもん頃、アイツが一人旅してる間攘夷志士狩りしてたって知った時の俺の気持ちわかる?」
「その頃から無茶苦茶だったんですね、納得ですけど……」
あの雪子が自ら弱さを見せるなんて、どれだけ凄いことかこの二人はピンと来ていないようだ。その直向きに雪子を信じ、どれだけ過酷な状況でも諦めないその姿勢に、どれだけ救われているか。
戻ってきた雪子が仏頂面で催促する。
「で、返事は」
「引き受けたぜ、その依頼」
「そ」
平然とした様子を保とうとしているが、見るからに口角が緩んでいるので相当安心したようだ。背もたれに身を預け、お茶を一口啜り、ほうと息をつく。
「断られたらどうしようかと思っちゃった。まあこんだけ豪華な朝食を用意したから、タダで引き下がるつもりはなかったけど」
「えっ」
「もうみんなのお腹の中に入っちゃったものね。依頼料先払いできてラッキーだったわー」
やっぱり企んでやがったこの女。
けどまあ、雪子に奉仕されるのは悪くない。むしろ普段振り回されている分、しっかり尽くしてもらおう……と企む銀時だったが。
「あ、それとお前ら邪魔だから出てって」
「えっ」
「必要なのは掃除や料理ができる、奥さんが家事に集中する環境。新八なら居てもいいけど、他二人は余計なことしそうだから要らないかな」
「雪子ぉ、私は? 私はぁ!?」
「定春連れて散歩にでも行ってろ」
「俺は? 旦那役」
自分の顔を指差して詰め寄る銀時に、少し考えた雪子が一言。
「他の女と喋ってるところ見たら、うっかり殺しそうだからダメ」
「どうして僕は居てよかったんですか?」
「新八なら邪魔しないし、普段どんな掃除してるか聞けるから……ウワ埃きたなっ」
「ああ、銀さんも神楽ちゃんも、掃除なんて進んでしませんからねぇ」
そんなわけで大掃除である。フローリングの隙間の埃から、畳に落ちたお菓子の食べカスまで、全てを排除する大掃除が始まった。これは確かに銀時や神楽が居たら飽きて邪魔してくるだろうなと新八は理解する。
洗濯物を洗って布団を干し、消費期限切れのカビの生えた食べ物を処分し、ゴミをまとめる。その優れた手腕で万事屋はあっという間に綺麗になった。
「あっ」
ある時、本棚の下を漁っていた雪子は、声に反応した新八が顔を向けるより早く、何かを隠した。なんで昔と隠し場所も趣味の一緒なの? と思いつつ。
「どうされましたか?」
「ううん。女を連れ込んでるかもしんないなって思って」
「いやいや、神楽ちゃんもいますし、そんなことしてるわけないでしょう。もしやってたら銀さん蹴っ飛ばされますよ」
「すーぐ足出す」
「誰の影響だと思ってるんですか」
新八が少し恨めしげに言えば、雪子はカラッと笑って「私か」と嬉しそうに言った。
などというやり取りをしながら、掃除は進み、信じられないことに昼頃には大半が完了する。二人ともこういう作業が素早いのだ。
ピカピカになった万事屋の居間で向かい合って座り、のんびりする。
「雪子さんの中の怨念は、もう満足しているんですか?」
「うーん、部屋綺麗にしたらだいぶ楽になったって。あとは晩飯でも作って、一緒に食べて、そんなんでいいかなぁ」
やがてピンポーンと軽快なインターホンの音が鳴った。来客である。
「ん、誰だろ」
「あ僕が出ます」
「いやいや、私が行くよ」
きっと一緒にいるのが銀時であれば「お前が行け」の一言なのだろうなと内心笑いつつ、新八はゆっくり雪子の後を追う。
玄関の戸には三人分の影が映っていた。
「はい、どちら様ですか?」
「おやまあ、あの甲斐性無しから家賃を引きむしりに来たんだけどねぇ、アンタに会うとは」
「お登勢さん。こんにちは。あのバカなら出かけてるよ。家賃なら……ちょっと待ってどんだけ溜め込んでんの?」
スナックお登勢御一行である。親しげに話をするお登勢と雪子に、キャサリンとたま、そして新八が不思議そうな顔をする。
「お登勢様、この方は……」
「雪子さん、お知り合いだったんですか?」
意外というほどでもない。雪子の知人関係は銀時のそれと似ているところがあるから。けれど、スナックと小料理屋、夜の店と昼の店、対照的な店を経営する女将たちがどんな風に関わり合うのか想像できなかった。
「まぁね。ほら、銀時を………このちっこいボロ建築に住まわせてやってるから?」
「ボロくねーわ! それにかぶき町でこれっぽっちの家賃で勘弁してやってんだ、感謝されてしかるべきだね」
雪子は銀時のへそくりが隠されている場所をごく自然に探し当て、封筒から紙幣を取り出し、ひーふーみーよーと数え、きっちり支払いを済ませる。ついでに従業員二人への未払いの給料も没収しようかと思ったが、家賃だけで素寒貧になったのでやめた。
さすが雪子さん! 銀さんから容赦なくお金を毟り取るなんて!
テンションの上がった新八が雪子の後ろから囃し立てる。
「家賃払わないなんてホント駄目だなアイツ! 雪子さん! 僕の! 僕の給料の分は!」
「滞納した家賃代で消えたな」
「お登勢さん……今月の家賃、もう二、三ヶ月待ってもらえませんか?」
「誰が待つかァ! 新八ィ、テメェ手のひらくるっくるじゃねぇか!」
「コレ以上待ツトババアノ機嫌ガ悪クナルンダヨ! 雪子……ワタシノ分ノオ給料ハ?」
「はなからオメーの分はねェキャサリン。何なら今までの食事代で全部私がもらったっていいんだぞ」
「まあまあ、皆様落ち着いて。ここは私の高級オイル代ということで万事解決でしょう」
「何も解決しねーわ!!」
結局年長者を敬うということで、銀時のへそくりは全額お登勢がゲットした。
「ん。未払い分は回収したよ。雪子がいればあのちゃらんぽらんもちったぁマシになるのかねェ」
「あの腐れ天パを私に押し付けるな」
「なんだい、まだ覚悟が決まってないのかい? ややこしいのはわかるけどね、いつまでも遊んでんじゃないよ」
「……。はーい」
十年ほど前、戦争後に解散した頃。どれくらい酷かったか人伝にしか聞いていないから本当のところはしらないけれど、荒れ狂った銀時を沈め、ここへ誘ったのはお登勢である。口にはしないが感謝しているのだ。
それに丁度いい距離感を保ってくれるし、ちょっかいかけても面白い反応はないが受け止めてくれる。それがなんだか心地よくて、雪子はお登勢に懐いていた。
「今度ウチにおいで。雪子の為にとっておいてる酒があるのさ」
「お、いいねェ」
スナックお登勢にお邪魔する約束を取り付け、彼女らは帰っていく。来客はそのくらいで、依頼者は一人も現れなかった。
「依頼、何もなかったな」
「まあいつものことですよ。電話がかかってくるわけでもないし。それに新しく依頼があったとしても、銀さんは受けないと思いますよ」
「なんで? こんな金欠なのに」
空っぽになった封筒をひらひらさせる雪子に、新八が微笑む。
「だって今は、雪子さんがいますから」
「………。依頼者がいるから、新しい依頼は受けられないって言ってよ」
一瞬勘違いをしてしまった。この子は真っ直ぐにこういうことを言うから、あまりに眩しい。
使い古された薄っぺらい布団からは、陽だまりの香りがする。せっかくだからと来客用の布団も天日干ししておいてよかった。自分がそれを使って万事屋で寝ることになるとは思っていなかったから。
「布団うっす、枕かた。私枕変わると寝れないタイプなんだけど」
「文句言うんじゃねー!」
貧乏くさい寝具だが、昔を思い出すから嫌いではない。口だけ不満を垂れて、万事屋の天井を見上げる。
晩御飯を終えて帰宅する新八と同じく、用も済んだし帰るわと上げた雪子の手を掴んだのが神楽だった。一緒に寝て欲しかったのである。川の字で布団を並べながらお話をして眠りたかったし、欲を言えば同じ布団で人肌に安心したかった。まあ後者は却下されてしまったのだが。
「やけに今日は上機嫌だな」
「雪子がいるから」
「………寝ろ早く一生目を覚ますな」
「前から思ってたけど、雪子の照れ隠しって物騒アルな」
全員風呂も済んだので、銀時の寝室に、雪子、神楽、銀時の順で布団を並べ、後は寝るばかり。そんな中で一番お喋りなのは神楽だった。
散歩ついでにそよ姫に会いに行っただとか、定春とこんなことをして遊んだだとか、そんな話を取り留めもなく話をするので、雪子が優しく相槌を打ち、銀時がさっさと寝ろと怠そうに言う。そのなんでもない時間が神楽にはとても楽しかった。
「今度ウチに泊まりに来るヨロシ。雪子ならいつでも歓迎ネ」
「まだ今日が終わった訳でもねーのに、気が早いな」
掛け布団で口元を隠し、ふふふと嬉しそうに笑う神楽を挟んだ先、ごろんと壁側を向いた銀時の白い頭を見て、雪子は意地悪な顔をした。
「さてねェ。家主が何も言わないから、二度目はないかも」
「銀ちゃん」
「……好きにすればいーんでねーの。どうせ俺が言ったって聞かねーんだから」
「そ。じゃあ、好きにする」
そっぽ向いたままの銀時がどんな気持ちなのかわからないけれど、好きにしていいと言われたので、気分で遊びに来ようかしらと思う。でもたくさん出入りするのは精神上よろしくない。だって、たった一日万事屋に居ただけなのに、もう離れ難くなってしまっている。
「じゃあ次来た時は、ちゃんと着替え持参しないとね」
まさかお泊まりすると思っていなかったから、雪子は銀時の寝巻きを借りている。神楽のはもちろんサイズが合わないので致し方ないが、銀時のものも胸部がキツイし腰回りのゴムが緩くてズボンがずれ落ちそうになるから、かなり着心地が悪いのだ。
雪子の店兼家には銀時の分の衣類が置かれているから、私も万事屋に自分の着替えを置いていいかもしれない……と少し先の未来を思い、微笑む。
楽しいな、と思う。
このまま眠りに落ちたら、また万事屋での一日が始まるのだろうか。
朝御飯を用意している間に二人が起きてきて、洗面台で何やら言い争いをしているのが聞こえてくるからコッソリ笑ったり、新八がやって来るから出迎えたり、そんな日常じみた日々に自分も居られるのだろうか。
ありもしない想像をすれば、頭の奥の冷静な自分が嘲笑った。
真夜中、ふと誰かが起き上がって寝室から出て行くのがわかり、銀時の意識が覚醒する。もうずっと前から神楽の寝息が聞こえていて、それが継続しているとなれば、今起きたのが誰かはすぐに理解する。
布団に入ってどのくらい経ったか不明だが、その間銀時は一睡もしていなかった。別に明日仕事があるわけでもないし、今日は街をぶらついていただけなので眠たくなかったのだ。あとはまあ、同じ部屋で雪子が眠っているとなれば、気になって仕方がなかったので。
「…………」
なんとなく耳を澄ませてみるが、遠くに行ってしまったようで聞こえて来ない。待ってみても戻ってくる気配がないので、少し考えて銀時はそちらに向かう。眠ったままの神楽を起こさないよう、そして洗面所の方に行った雪子に気づかれないよう慎重に。
ヒタヒタと素足で暗闇の中の廊下を歩き、開きっぱなしのそこから中を覗く。
するり、ぱさっ。雪子が寝巻きを脱いだ瞬間だった。足元には脱ぎ捨てられた銀時のパジャマ。雪子が今身につけているのはシンプルな黒い下着のみである。
床に落とした衣類を拾おうと屈んだ雪子の目が、出入り口で立ち止まった銀時に向けられた。
「ぎゃ」
「!」
叫びかかった銀時を引き入れ急いで口を塞ぎ、雪子は音を立てずに洗面所と廊下をつなぐ扉を閉めた。
「しっ、神楽が起きる」
「おまっ、さっさと服着ろバカ!」
「じゃあ騒ぐな呼吸を止めろ」
狭い洗面所で、下着姿の雪子は焦ったそぶりを見せない。というより、銀時の方がよっぽど慌てるのでかえって冷静になったのだ。
恥ずかしいは恥ずかしいがコイツの方が顔赤くしてるしええか、くらいである。
「こういう格好初めて見るわけじゃないんだから、わざわざデカイ声を出さなくていいでしょ」
どうせAVとか見てんだから女の下着姿なんて珍しくも何ともないだろうし。
だがずっと見られたいものではない。銀時に後ろを向くように指示を出し、雪子は寝巻きではなく……天鴉の制服に袖を通す。
「……。行くのか」
「仕事でね。あ、朝御飯は冷蔵庫に入ってるからチンして食べろよ」
家を出たらもう帰ってこない。その宣言に等しい発言に、銀時の心が傾いていく。
行くなと言えたらどれだけいいだろう。神楽が寂しい思いをする? 新八が不安を隠して気遣う? その想像は実際その通りで、雪子に会えない間、二人は相当心細い思いをしたようだから、それを伝えたらきっと……。
あの二人を口実にするのは簡単だ。しかし、自分自身はどうだろう。今も昔も護るものは何一つ変わっておらず、腹の底、魂の中心に居座る女が自分の手元から逃げていくのは、腹立たしさに近い感情を抱く。
だって、こんなに散々人を幸せな気持ちにさせておいて、最後まで一緒に居ようとしないのは、無責任じゃないか。
静まりきった洗面所。囁きにも似た小さな声と、衣擦れの音がする。時が経てば経つほど、雪子は支度を終えて止まり木から飛び立ってしまうだろう。
「………お前さ、まだやり残してることあるんじゃねーの」
「ん?」
「奥さんの怨念は、まだてめーの中に残ってるはずだ」
雪子が万事屋に来た理由は、妖刀の呪いを解く為……というのが建前で、本音では新八と神楽が心配だったのだろう。銀時相手には何をしたって嫌われるわけがないという自惚れがあるが、二人にはそこまでの信頼を置けるほどの関係を築けていないので。
だから、妖刀の話題を出せば雪子は食いつくはず。そんな想定のもと、顔はなんてことない普段のものを貼り付けて、思考をフル回転させて銀時は続けた。
何故なら、雪子の支度の手が妙に遅いことから、彼女も本心から仕事に出かけるつもりではないと予想できるからだ。本当に行くのなら、わざわざ銀時をここに留める理由はない。
「どうしてそう思うの」
「男を斬り殺して怨念になるって、相当、あー……奥さんは旦那さんを愛してたんだろうし、愛して欲しかったんだろ」
「そうだね。浮気されてとても……とても寂しかったみたい」
「……なら、やることは決まってる」
ギッと床を軋ませて銀時は雪子に迫る。元々狭い洗面所だ。近づくまま壁に手をついた銀時の両腕に挟まる形になり、何か覚悟を決めた男の面構えに、雪子は抵抗せず受け入れた。壁にぴったり背中をくっつけて、次の言葉を待っている。
「夫婦が夜にすることなんて、限られてんだろ」
雪子は、最後まで夫に尽くしたかったという妻の願いを遂行する為、一日中掃除や料理をしていた。その辺りの欲はきっと満たされたはずだ。
ならば情欲は? 殺してしまうほど愛していた男に触れられなかった女の渇望は? 男に愛されたいという欲求は、まだ疼いているだろう。
銀時の考えを見抜いた雪子は、俯いたままゆっくり口を開く。
「私を抱きたいの?」
直接的な表現に、ドッと鼓動が高鳴った。考えるまま口をついて出た言葉が、つまりそういう意味であることに今更ながら気づいたからだ。
意識していなかった分、汗がブワッと滲む。熱を帯びた頬と緊張で震える拳、話そうとして言葉に詰まって、ほとんどない唾を飲み込んでから、堰を切ったようにペラペラ言った。
「俺がそうしたいってわけじゃねーよ、ただアレだろ? そうしないと雪子が困るだろ? 奥さんの怨念がずっと中にいるんじゃ面倒だろうし、まあ身体を乗っ取られるようなことはないんだろうけど、オメーにとっては煩わしいだろうし。だからまあ、なんだーえっと、依頼? そう依頼の延長線っつーかさ。ちゃんと成仏させないと万事屋の仕事にケチつけられるから、それを潰すためにも仕方がないと思うんだよね」
銀時は驚くほど滑らかに心にもないことを一息で言った。
言い終わった後、痛いほどの沈黙が流れ、やがて雪子がハア〜〜〜〜〜とクソデカため息をついて。
「あ、そういうのいいんで。ちゃんと奥さんも成仏したし」
壁ドンした銀時の腕を暖簾をくぐるみたいにすり抜けて、今度こそ仕事に向かったのだった。
奥さんを成仏させるため、夫に尽くしたいという欲求は万事屋で、夫に愛されたいという欲求は高杉でそれぞれ解消したので、夜ご飯を終えたくらいで依頼は完了してました。
ちなみに最後で銀さんが建前(奥さんを成仏させるため)に逃げなければ、違う展開がありました。