「君の名は。サヤチン」   作:高尾のり子

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第8話

 

 

 早朝、三葉ちゃんと私のスマフォが二重奏のアラーム音を鳴らして、私と三葉ちゃんを起こした。

「ぅぅ……死にそう…」

「………おはよう……大丈夫?」

 三葉ちゃんが私の口で問う。そして私は、つわりのある三葉ちゃんの身体で起き上がるけど、頭がグラグラして吐き気もする。それでなくても糸守発の始発電車に乗るための早起きは、つらいのに身体が重くて、このまま寝ていたい気持ちが布団に身体を縫いつけようとするみたいだけど、三葉ちゃんが私の手で支えてくれた。

「ありがとう…」

「やっぱり……つらい? 行くのやめる? ……赤ちゃん……」

「ううん……行く。……私が行く。私が悪いから……」

 夕べ、お互いが入れ替わることを見越して、二人で私の家に泊まってる。四葉ちゃんや一葉お婆さんに心配をかけないために。

「…ごめん……着替えを手伝って…」

「うん……」

 三葉ちゃんが持っている服の中でも気に入っていない、ほとんど着ない衣服を着て、髪型も全部おろして、帽子をかぶって、マスクもした。これで誰かに看られても、すぐに宮水三葉だとはわからないはず。あとは用意しておいた現金を持って、ヨロヨロと家を出た。

「…ハァ…ハァ…」

 駅までが遠い。まだ、名取家の敷地を出てないのに、駅まで歩くかと思うと気が遠くなる。つわりって個人差あるらしいけど、こんなに、つらいものなの。三葉ちゃんの身体は月経も重いから、そうなのかな、気絶しそうなほど、つらい。三葉ちゃんが私の身体で肩を貸してくれようとする。

「駅まで送るよ」

「ううん……それは…目立つかも…しれないから……」

 断ってると、私のお姉ちゃんが玄関から出てきた。

「隣町の駅まで、送ってあげる。帰りも糸守駅じゃなくて、一つ前で降りて電話しなよ。迎えに行ってあげるから」

「「ありがとうございます」」

「さっさと乗りなさい」

「はい」

 お姉ちゃんのクルマの助手席に座った。お姉ちゃんが運転席に座って言ってくる。

「シートを倒して、外から見えないように隠れなさい。この時間でも農家の軽トラとか、対向車はあるから」

「はい……ありがとうございます…」

 お姉ちゃんにお礼を言ってシートを倒して、寝そべる。クルマが動き出す前にビニール袋を渡された。

「吐いてシートを汚したりしたら、マジで弁償させるよ。このクルマは350万円だから」

「…はい…気をつけます…」

 まだ、ローンが半分も残ってますもんね。わかってます、絶対、汚しません。車外から心配そうに覗き込んでくる私の顔へ手を振って、別れた。ゆっくりと、お姉ちゃんが運転してくれる。いつも、町外へ出ると運転が荒くなるのに、今は振動させないように優しい運転をしてくれて、一つ山を越えて、隣町の駅に着いた。ここなら、顔見知りは少ないし、変装もしてるから大丈夫。

「ありがとうございました」

「言っておくけど、これ以上、うちの妹に迷惑をかけたら許さないから。あと、お金を返さなかった場合、あんたが堕ろしたこと、秘密にしておくとは限らないよ。覚えておきなさい」

「はい……」

 見たことないほど怖い顔をしたお姉ちゃんに頭を下げて電車に乗った。乗ってから、お姉ちゃんの気遣いを心からありがたいって感じた。やっぱり、始発には糸守駅からも何人か乗っていて、知っている顔だったから。それでも、私が隣町の駅から乗ったし、変装もしてるから宮水三葉とは気づかれてない。このまま顔を伏せて、隅っこに座っていよう。

「………ぅ……ぅぇ…」

 だんだん、いろんな人が乗ってくると、その匂いで吐きそうになるけど、もともと胃の中は空っぽだから、えづくだけで吐くことはなかった。名古屋に着いて新幹線で大阪まで移動する。遠いし交通費もかかるけど、仕方ない。お姉ちゃんが言ってた保護者の同意の問題をクリアするために、私がスマフォで調べた診療所は大阪にある。そこなら保護者の同意なしで中絶手術してくれるって、ネット上で回答してもらった。

「……ハァ……ハァ……」

 脱水状態にならないように、そして吐かないように、少しずつペットボトルのお茶を飲みながら、知らない大阪の街をスマフォのマップを頼りに歩いて、その診療所に着いた。

「……ここなのかな……本当に……」

 一階はペットショップ、二階は動物病院、そして三階が目的地だけど、ネットで教えてもらった通り、看板は出てないし、入口もわかりにくい。全体的に薄暗い感じのビルで、入りにくい。けど、私と同じ目的で来たっぽい女性が一人、ビルに入って行くから、その後ろに続いた。細くて暗い階段をあがると、本当に、ここなのか、疑わしくなるほど入口がわかりにくくて、関係者以外立入禁止なんじゃないかって思うような扉があって、恐る恐る入ってみると、外れてはいなかった。受付なのか、待合室なのか、とにかく女性ばっかりが何人も座っていて、みんな私と同じ目的だって空気感の重さで伝わってくる。

「…………」

 私が立ちつくしてると、奥にいた浅黒い中年の太った女性が、こっちを見て手招きしてる。そっと近づいて訊いてみる。

「……あの……ここで……手術……してもらえるって……本当ですか?」

「ええ」

「………お願いします」

「コースは、どっちにする? 麻酔のある方と、ない方。ある方は15万円、ない方は8万円」

「…………」

 麻酔なし、なんて………でも、15万円を払うと帰りの交通費もギリギリになるし、カウンターに置いてある精神安定剤と痛み止め薬も買って帰りたいのに。

「早く決めなさい」

「……ない方で、お願いします」

 これは罰なのかもしれない、私が受けるべき罰で、償いを求められてるのかも。私は痛い想いをする覚悟をした。

「なら、8万円、前払いだよ」

「はい……これで」

 私は8万円を出した。しっかりと数を数えるだけじゃなくて、太った女性は紙幣が本物なのか確かめるように一枚一枚見つめてから、金庫に入れた。それから札を渡される。

「あなたは、これから38番よ、呼ばれたら、それで反応して。説明は全部、日本語で大丈夫ね?」

「は…はい…。……あんまり難しい専門用語でなければ…」

 言われてみると、カウンターには外国語で書かれた用紙があって、英語もあるけど、英語以外の知らないアルファベッドでの言葉や、中国語、韓国語っぽい用紙もある。たぶん、この太った女性が外国語を話せないから、この用紙を渡して説明の代わりにするんだと感じた。

「順番が来るまで待ってなさい」

「はい」

 私は空いていた丸イスに座った。同じように座って待ってる女性の6割は一目見て外国人だってわかった。ロシア人かもしれないし、フィリピンの人やベトナムの人っぽい顔立ちをしてる人もいる。あとの4割は日本人かもしれないし、韓国人か、中国人かもしれない。どっちか、わかりにくい。私と同じ女子高生くらいの子は一人、あとは雰囲気とお化粧で、なんとなく水商売の人だって感じた。

「…………」

 こんなところに私が来ることになるなんて。

「…………」

 この人たちは、いつもテレビの向こうにいる人たち。

「…………」

 私とは違う世界の人たちのはずなのに、今は私が、ここにいる。

「……………」

 なんで、私が、こんなところに。

「……………」

 こんな汚いビルの、待合室だって丸イスがあるだけの。

「…………」

 すごく不安になる。

「…………」

 逃げ出したい。

「………」

 助けてほしい、誰かに、ここから救い出してほしい。

「……」

 けど、一つだけ安心したのは、後から来た人たちも、だいたいは、麻酔なしの方を選んで8万円を払っていたこと。

「…………」

「38番」

「……………」

「38番は?! スリーエイト! サンハチ!」

「あ、はい!」

「こっち」

「…はい…」

 いよいよ呼ばれて、足が竦みそうになったけど、立ち上がって奥に行った。奥に入ると、もともとバーかスナックか何かだったみたいで、明らかに飲食店の造りなのに、医療器具が置いてあって、ものすごく違和感がある。スナックなら、糸守にもあるけど、狭苦しさが都会っぽくて息が詰まる。すぐにスタッフっぽい青白い痩せた女性が私にステンレスの桶やタオルを渡してくる。

「財布やパスポート、携帯電話、貴重品は、そこの金庫に入れて鍵は自分で管理して。裸になって浣腸して5分は我慢してから、あそこのトイレに入ってください。我慢できないときは、この桶に出してトイレに流して」

「……はい」

 狭い部屋に、いくつも金庫が積み重ねられていて、その一つを選んで財布やスマフォを入れて、脱いだ服は置いてあったカゴに入れた。タオルを腰に巻いて、訊く。

「あの……浣腸は……どこで?」

「今、トイレがつまってるから、そこでしてください。ゴミは、そこに」

「………。はい…」

 床にあるゴミ箱には、いくつも使用済みの浣腸があって、こんなスナックのカウンターみたいなところで、させられるんだって、わかった。渡された3本の浣腸を自分でして、我慢する。

「……ぅぅ……くぅ……」

 お腹が痛い。もともと、つわりで苦しいのに、浣腸までしたから、冷や汗が出てくる。

「ハァ…ハァ…あと何分……」

 スマフォを金庫に入れたから時間がわからない。困ってると、青白い痩せた女性が私の前に砂時計を置いた。

「これが落ちきったらトイレに入って。それまでに我慢できないときは桶に」

 そう言って、今度はトイレのドアをノックしてる。

「37番! そろそろ手術台へ移動してください」

 呼ばれても中から返事がないみたい。かすかに啜り泣いてる声が聞こえてくるから、もしかしたら怖くなって出られないのかも。

「…ぅぅ……くぅぅう…」

 けど、私も他人の心配どころじゃない、お腹が痛くて今にも漏らしそう。

「ハァ…はぅ…」

「…………。床は汚さないでください」

 私の顔色を見た青白い痩せた女性が、ステンレスの桶を足元に移動させてくれた。

「…ぅぅ…くぅ…」

「37番! トイレから出てください! キャンセルされますか?!」

 やっと、砂時計が全部おちてくれた。なのに、一つしかないトイレが空かない。結局、我慢できなくて桶に跨った。なんて情けない。情けなくて、泣けてくる。

「ぐすっ…」

「…ひっく…ぅぅ…」

 トイレに籠もってた女性が出てきて、泣きながら帰っていく。

「キャンセルでも、料金は返還しませんよ」

「……ぐすっ…」

 帰っていく女性と、私は目を合わさないようにした。

「38番、トイレでお尻を洗ってから手術台へ。桶も洗って流しておいてください」

「…はい……」

 人間扱いされてない、名前は伏せられてるっていうより、記録する気もないし、出入りするのは全部女性でも、裸のままなのにプライバシーも何もない。やっと入れたトイレも狭くて汚い。けど、その狭くて汚い便座に似つかわしくないほど最新のウォッシュレットが装着されていて、お尻を洗うことが重要視されてるのがわかったから、しっかりとキレイに洗った。

「38番、そろそろ出てください。次が待ってますから」

「はい……」

 怖い。

 さっきの人は、ここで怖くなったんだ。

 でも、キャンセルしても、お金は戻ってこない。

 何より、まさか、克彦と三葉ちゃんの子供を、三葉ちゃんに産ませるわけにはいかない。私は勇気を振り絞って、トイレを出た。

「38番、あちらへ」

「…はい……」

 元スナックの奥にある個室へ入った。たぶん、もともとはカラオケ設備があった個室には、分娩台みたいな脚を拡げて座るタイプの手術台があって、白衣の男性がいた。

「そこに乗っておいて。タバコを吸ってくるから」

 疲れた目をした白衣の男性は個室を出て、すぐそこでタバコを吸い始めた。

「…………」

 言われた通りに手術台に乗ると、青白い痩せた女性がベルトで身体を固定してくる。腰と胸を太いベルトで巻かれて動けなくなり、腿と足首も1センチも動けないくらい、強く縛られて、手首まで腰の横で固定されて、何一つできなくなった。

「ハァ…ハァ……ハァ…ひっく…」

 怖くて、泣けてくる。

「…ハァ……ハァ…」

 ヤダ、逃げたい。

「これを咥えて」

「…はい…はふっ…」

 丸めたハンドタオルを咥えさせられて、それが白い医療テープで頬に固定される。

「…ぅう……ふうぅ…」

 もう言葉も話せない。口で呼吸もできない。

「痛くても、あまり歯を食いしばると、歯が折れますよ」

「っ…ふうっ…ふうぅ…」

 そんな?! そんなに、痛いの?! イヤだ、ヤダ!

「無理にもがくと、肩や股関節が外れますから、できるだけ力を抜いていなさい」

「ふっ…ふうぅ…」

 イヤ! イヤ! イヤ! 助けて! 助けて! ごめんなさい! ごめんなさい! 私が悪かったから、どうか、助けて! 助けて!! 涙で何も見えなくなった。手足が震えてるのに、固定されてるから、まったく動かない。

「先生、準備できました」

「はじめようか。今、何番?」

「38番です」

「今日も忙しいなァ、お昼休憩あるのか、オレに」

「自分の患者に睡眠薬をもって17人も強姦したような精神科医に、お昼休憩なんて贅沢ですよ」

「痛いとこを、つくね」

 ガチャンと乱暴に手術道具を置いてる音がして、次の瞬間から地獄の苦痛が襲ってきた。冷たくて硬い器具が身体に入ってくる。身体の奥の、奥まで。

「んぐぐぅぅうう!!」

 その激痛で、頭の中が真っ赤になった。痛い、痛い、痛い、お腹の中を引っ掻き回される痛さで、おしっこを漏らしながら、なんで浣腸なんかされたのか理解した。きっと、出しておかないと手術中に漏らして邪魔になるからだって。おしっこだって出しておいたのに痛すぎて、怖すぎて、少し垂らしてしまってる。

「んんんぅううう!!」

「昼飯、どうしようかな。また出前かなぁ。君は?」

「私は拒食症だから」

「食べないと、そのうち死ぬよ」

「点滴してもらいます」

「んんぐううう!!」

「点滴だと、栄養足りないよ。君は優秀だから死なないでほしいなァ」

「優秀じゃなきゃ、いらないんですね」

「そんなものだよ、人間なんて。他人の痛みなんて、どうでもいい」

「先生、この患者、日本語を理解してますから気をつけてください」

「そっか。どうせ、耳に入っても記憶も残らないほど痛いさ。バカな女だ」

「んううううっ!!」

 いっそ、気絶してしまいたいのに、痛みを感じ続けて苦しんだ。後半、苦しんでる私を優しく撫でながら、青白い痩せた女性は子守歌みたいな何かを歌ってくれたけど、それは外国語で意味はわからなかったし、きっと日本語だったとしても理解する余裕なんてなかったと思う。何時間にも感じた地獄の十数分が終わった。

「はい、終わりましたよ。よく頑張ったね」

 口を塞いでいたハンドタオルを外してもらえる。

「…ぅう…ぅう…痛いぃ…」

「身体も外しますね。落ちないでください」

 固定されてたベルトが外された。

「しばらく出血しますから、オムツをあてます」

「…ぐすっ…」

 大人用の紙オムツをされた。

「隣の部屋で15分間、休憩して、異常が無ければ終了です。お疲れ様でした」

「…ぅう…ぅう…ハァ……ぐぅう…」

 痛い、まだ、猛烈に痛い。とても歩けそうにないのに、さっさと立ち上がれとばかりに追い出されて隣室にあったソファベッドに寝た。私が来たことで、先に寝てた人が追い出されてたから、きっと私も15分後には追い出されるんだ。なんて、ひどい対応。

「ぐすっ…ぅうっ…」

「痛み止めと精神安定剤、お買いになりますか?」

 まだ10才くらいのフィリピン人っぽい顔をした女の子がカゴに入れた薬を売りに来る。薬は紙袋にも入って無くて、パッケージそのままを輪ゴムで止めただけ。それでも、買っておかないと、私も苦しむし、明日、三葉ちゃんが苦しむことになる。

「多めにください」

「オオメニー?」

「……」

 あんまり日本語が、わかってない感じ。

「2人分ください」

「はい、お買い上げありがとうございます。1万円です」

 けっこう高い。けど、大量にくれた。まだズキズキと焼けるように下腹部が痛いから、おまけでくれたミネラルウォーターのペットボトルで痛み止め薬と精神安定剤を飲んだ。

「ハァ…ハァ…」

 あっという間に10分が過ぎて、売り子の女の子が新しい紙オムツをもって私のところへ来た。

「これに履き替えてください」

「……はい……ここで?」

「ここで」

「…………」

 言われるとおりに履き替えると、私が脱いだ汚れたオムツを見て、女の子が血の量を確かめて頷いた。

「大丈夫です」

「……」

 この子が判断するの……この10才くらいの四葉ちゃんと同い歳くらいの、日本語も完全じゃなさそうな子が………。

「あと3分で休憩おわりです。金庫から貴重品を出して帰ってください」

「………はい…」

「外で休憩されるなら、斜め向かいにあるネットカフェがいいです」

「……ありがとう……」

 もう気力が無くて追い出されるまま、ビルを出て教えてもらったネットカフェに入ってみた。紹介してくれるだけあってネットカフェの店員も私の顔色を見て、すぐに察してくれる。ネットを使わないという条件でなら、身分証明書無しで半個室タイプのスペースが2時間1000円だったから、そこで横になる。

「…………ネットカフェ難民って……こんなところで暮らすんだ……」

 テレビで見たことがあるけれど、横になってみると女性の身体でも狭い。寝返りもできないくらい。不安だったから財布をしっかり握って休憩する。寝てしまうと、糸守に帰る時間が無くなるから2時間と決めて安静にする。

「……だんだん痛みがマシに……」

 痛み止め薬の効果なのか、傷が落ち着いたのか、だんだん痛みが減ってくる。

「…………匂いも平気に……」

 ネットカフェの中は臭かった。食べ物の匂いと、ジュースの匂い、それに人の体臭がして臭い。なのに、吐き気はほとんどない。驚くほど、あっさりと、つわりは終わってる感じ。そろそろ2時間というところで、トイレに入ってオムツを確かめた。

「……血は止まってるのかな……まだ、少し出てるのかな……」

 出血量はひどくない、と思う。日帰りしなきゃいけないから、もう大阪から糸守へ向かって電車に乗った。

「ぅぅ……揺れると、痛いかも……」

 ネットカフェで寝てるのと違って大阪の地下鉄で揺られると、また痛みが出てきた。スマフォで調べて、もらった痛み止めは2倍、3倍くらいに飲んでも大丈夫と書いてあったので、追加で飲んだ。地下鉄から新幹線に乗ると、楽になった。ちょっと贅沢だったけど指定席にして安静にしてるとマシ。名古屋に着いて、また在来線に乗り換えると、つらいから精神安定剤も追加で飲んだ。

「………マシになってきたかな……」

 薬のおかげなのか、痛みは減って、暗い気持ちも回復してきてくれる。

「……私……頑張ったよね……一人で……こんな、つらいこと……成し遂げた……」

 だんだん達成感が湧いてきた。

「……私………よくやったよ……怖かったし、痛かったけど、ちゃんと終わらせた」

 ハレバレとした気分にさえなってくるほど、気持ちが軽くなってきた。

「よし! 私えらい! 責任を果たして、ちゃんとした。もう大丈夫、三葉ちゃんにも安心してもらえる。フフ、フフフ、やったよ、えらいよ、すごいよ、私」

 なんだか、とっても愉快、こんなに愉快になるはずがない出来事のあとなのに、精神安定剤のおかげなのかな、すごくウキウキする。

「そうだ。克彦の部屋でするパズル、注文しておかなきゃ。しまった、名古屋で買えばよかった。せっかく出かけたのに堕ろしただけで終わって。お土産も買ってない。あ、お土産はいらないか、秘密なんだし。そうそう、糸守駅まで乗っちゃダメなんだ。お姉ちゃんタクシー呼ばないと」

 三葉ちゃんのスマフォから私のスマフォへメールして、それをお姉ちゃんへ転送してもらうと、到着時刻に迎えに来てくれることになった。電車を降りて駅から出ると、見慣れたクルマが待っていてくれた。

「ただいま戻りました」

「………、よく、そんなケロっとした顔してられるね。さっさと乗りなよ」

「はーい」

 助手席に座った。

「シートを倒して隠れなさい」

「あ、そうだった」

 すっかり終わった気分でいたけど、このお出かけは極秘事項なんだった。運転しながら、お姉ちゃんが訊いてくる。

「で、どこの病院で堕ろしたの? 保護者の同意は、どうしたの?」

「それはね、ちゃんとしたよ」

 私が大阪での体験を話すと、前を見ていたお姉ちゃんは一瞬、こっちを軽蔑するような目で見た。

「そんな場末の闇診療所に行ったの………まあ、あんたの身体だから、どうなろうと知ったことじゃないけど。女子高生の無知って怖いわぁ……。そんな非合法な……不衛生っぽい……しかも動物病院の上って……、少しは自分の身体のこと大切に……。あ、私は妹に頼まれて、あんたが、どこに行くか知らず、駅まで送り迎えしただけだから。堕ろすなんて話、聞いてなかったから。そう思っておきなさい」

「はーい。お姉ちゃん、なんか官僚っぽいね、その言い方」

「………あんたに、お姉ちゃんなんて呼ばれたくない。虫酸が走るわ。やめてよね」

「あ、……そうだった」

 つい、三葉ちゃんの身体でいることを忘れてしまった。そのくらい、なんだかハイテンションな気分になってる、これって明らかに精神安定剤の影響だよ。よく考えたら、こんな愉快な気分であるはずないのに、すごくハイ。

「太陽の風♪ 背に受けて♪ 千二百羽ばたこう♪」

 思わず糸守民謡の鼻歌を歌ったら、お姉ちゃんが舌打ちした。

「ちっ……こんなヤツ、送り迎えするんじゃなかった……」

「あ、すいません。ありがとうございます。感謝してますよ、とっても」

「…………」

 もう無言で運転するお姉ちゃんが糸守町に入ってから訊いてくる。

「どこにおろすのがいい? 町のゴミ捨て場? それとも火葬場?」

「えっと、三葉ちゃんに会っておきたいから、このまま家に帰って」

「はァ? あんた、ホントに頭、大丈夫? 悪いバイ菌でも脳に回った?」

「あ、そっか。間違えました。サヤチンに会っておきたいから、名取さんの家にお願いします。テヘ♪」

 我ながらダメだ、かなりハイテンションっていうか、地に足がついてない感じ。すっかり自分が今は三葉ちゃんの身体なこと忘れてる。注意しないと、三葉ちゃんに会ったときも変なことを言ってしまうかも。

「………。早耶香に会って、そんな態度だったらブッ飛ばすから。早耶香は、すっごく心配して一日中、鬱ぎ込んでたんだからね。自分のことみたいに泣いて、学校も休んでたんだから」

「………はい……気をつけます……」

 私の家についた。気持ちを静めて、二階の自分の部屋へ入った。

「ただいま………」

「おかえり! ……どう…だった? ………」

「うん、安心して。すべて終わったから」

「………そう………」

 私の顔が俯くから、三葉ちゃんの手で抱きしめた。

「本当に、ごめんなさい」

「………サヤチン……」

「でも、ちゃんと終わらせてきたよ」

「……………」

「責任を取って、相応の報いは受けたつもり。ちゃんと償いは済ませて来たから」

「……。え? ……」

「痛いのも、怖いのも、すべて私が引き受けたから」

「………痛かったの?」

「うん、すっごく」

「……………もう大丈夫なの?」

「うん。でも、痛み止め薬は飲んでる。ちゃんと、もらってきたから渡しておく……というか、持って帰るね。痛いなら2倍、3倍、飲めば平気だよ。あと、精神安定剤は私の分もあるから少し置いていくね。三葉ちゃんも気持ちが沈むなら飲んでみて。けど、変に気持ちがウキウキするくらい明るくなるから気をつけて」

「……そうだね……なんか……サヤチン、笑ってるもん……」

「ごめんね。やっと終わったって達成感もあってさ」

「…………」

「そんな顔しないで。三葉ちゃんは気持ち的には、まだバージンだよ。彼氏できても、そう言えばいいよ」

「……私……バージン……」

「じゃあ、もう家に帰って安静にしてるね。四葉ちゃんたちに心配かけないように」

「……いろいろ、ありがとう……」

 歩いて帰宅して、お風呂には入らないで、つわりが無いから、ご飯を食べてから、痛み止め薬を飲んで寝た。

 

 

 

 朝起きると、私は私だった。三葉ちゃんは置いていった精神安定剤を飲まなかったみたいで枕元にパッケージごとそのままあった。

「私も飲むの……どうしよう。……別に、この身体は痛みもないし、……」

 そんなに気分が沈んでるわけでも痛みがあるわけでもないし、この精神安定剤を飲むと、やたら明るいハイテンションになってしまって、うかつなことをしそうだから、飲むのを迷う。腕時計を巻いて、制服に着替えてると、お姉ちゃんが部屋に来た。

「おはよう、早耶香。気分は、どう?」

「うん、大丈夫。心配かけて、ごめんね」

「いいよ、そんなこと」

 そう言って抱きしめてくれた。昨日、睨みつけてきた顔と、ぜんぜん違って、本当に女の二面性って怖いよ。お姉ちゃんの目が精神安定剤のパッケージを見つけた。

「これ、あの子にもらったの?」

「うん、精神安定剤だって」

「もう飲んだ?」

「まだ……」

「こんなものを飲むのはやめなさい」

 そう言って勝手にお姉ちゃんがゴミ箱に捨てた。ああ、それは、けっこう高かったのに。

「あの子、とんでもない闇診療所に行ったのよ」

「…そう……なの? ………ネットで教えてもらったって……。それに、薬は、パッケージはキレイだよ?」

「たぶん、本物だとは思うけどね。大阪のことだから、生活保護者が精神病を装って受診して処方されたのを横流ししてるんでしょう。けど、すべてが本物とは限らない。だいたい外国人が関わるようなところだと、偽物の医薬品でも平気で売るし」

「……お姉ちゃん……それは差別発言じゃ……公務員として……ヤバくない?」

「オフレコよ。っていうか、事実よ。海外旅行で薬をもらうのでも、やばいのよ。ちゃんと日本の保険会社に紹介されて行った、まともな病院のはずなのに、変な薬をくれたりするらしいから。それを考えたら闇診療所の薬なんて絶対に飲んじゃダメ。わかった?」

「……はい…」

「とくに精神安定剤って、精神を安定させる薬じゃなくて、躁鬱状態の鬱にある精神を無理矢理に元気でハッピーな気分に変えるから。安定なんかしないの。昨日の、あの子の浮かれた態度、何度殴りつけてやろうと思ったことか。私が役場職員で、あいつが町長の娘じゃなかったら糸守の湖へ投げ捨ててやったのに」

「…………」

「あ、ごめん。あんなんでも、あんたの友達よね。けど、何度も言うけど、付き合う相手は考えなさい。お金を返してもらったら、もう別の友達と仲良くするくらいにした方がいいわ」

「…………」

 お金はね、私が負担するんだよ、大学に入ったらバイトして三年以内に返しますから17%の利息は勘弁してください。それにしても、あの手術、痛かったよォ、地獄の激痛だった、そして借金、一夏の代償は大きかった。三葉ちゃんにも悪いことしたし。

「学校、送っていってあげようか?」

「ううん、歩いていくよ。ありがとう」

 いつも通りに通学路に出ると、克彦に出会った。

「おはよう、克彦」

「おはよう、早耶香」

「ねぇ、このパズルなら、克彦も興味わかない?」

 三葉ちゃんのスマフォで検索した商品を私のスマフォで再検索して克彦に見せた。克彦が気に入りそうなムーの表紙に使われてるような怪しい絵のパズル。

「そうだなぁ、これなら、挑戦してみようかな」

「じゃあ、買っておくね」

 その場で注文した。糸守みたいな山奥にいてもスマフォって超便利。っていうか、大阪みたいな狭苦しい汚い街に住むくらいなら、絶対に糸守の方がいいよ。

「あ……三葉だ。………今日も元気ないな……あいつ……」

「私が話してみるよ。克彦は先に行ってて」

 克彦に先を歩いてもらって、三葉ちゃんに声をかける。

「おはよう、三葉ちゃん。夏バテの調子はどう? 痛む?」

「おはよう、サヤチン………うん……痛みは…薬を飲んでるとマシかな……まだ痛いから2倍くらい飲んだし」

 元気のない様子の三葉ちゃんが自分の下腹部を撫でた。

「本当に、ごめんね。三葉ちゃん」

「………」

「精神安定剤は、飲んだ?」

「……ううん……」

「あんまり気分が沈むようだったら、飲んだ方がいいよ。あれは2倍はやめた方がいいけど。少しは飲んだ方がいいかも」

「………ありがとう…」

「じゃあ、克彦が、こっち見てるから、行くね」

「…うん…」

 先を歩いてる克彦に追いついて言っておく。

「三葉ちゃん、まだ夏バテが続いてるって」

「……そうか…。あいつ、オレのこと、何か言ってたか?」

「ううん。何も」

「………」

「でも、もう近づいて欲しくないみたいだよ。訊いてみようか?」

「……いや…いい。……もう、あいつのことは……考えたくない……あんな気分屋………正直、うんざりだ」

「……克彦…」

 静かに二人で登校して、お昼休みには二人で時間を過ごした。放課後になって克彦に頼む。

「ねぇ、完成したパズルを、また眺めたいから家に行ってもいい?」

「ああ、いいぞ」

 眺めたいなんて口実だった。二人で部屋で過ごしているうちに自然とキスすることができた。とうとう、私の唇で、私と克彦とのファーストキスができた。

「うれしい」

「……早耶香…」

 そのまま3回、キスした後、克彦の手がスカートの中に入ってきたから私は脚を閉じた。

「そこまではヤダよ。ファーストキスの日に、いきなり?」

「……ごめん…つい……なんか、早耶香が慣れた感じだったから」

「あ、ひどい。私、初めてだよ」

「そうか……それは、そうだよな…」

「あと、ちゃんと避妊はしてよね」

 あんな痛い想いは二度とごめんだから。と、自分を戒めてたのに、ついつい何度もキスして、おっぱいまでならいいかなって揉んでもらってると、ショーツを脱いでしまおうか、どうか迷ってしまう。一つになりたい、克彦と。もう最後までいってしまいたい。

「……克彦……やっぱり、エッチしたい?」

「早耶香がイヤじゃなければ…」

「私は…」

 急にドアがノックされた。

「克彦、早耶香ちゃん、夕ご飯を食べてちょうだいな」

「あ…」

 時計を見ると、ずいぶん遅くなってる。

「すいません! すぐ帰ります!」

「いいから食べていってちょうだい。余るのよ」

 克彦のお母さんはドアを開けずに降りていった。なんとなくバレてる気がする。それでも、ちゃんと着衣と髪を整えて、できるだけ早く一階に降りた。

「もう帰ります。遅くまで、すいませんでした」

「遠慮しないで食べて行って。本当に余るの。うちの旦那が、ほら」

 お母さんが隣の部屋を指した。小さな宴会かなにかを数人でしてる気配。

「お客さんですか?」

「町長さんと町議さんたちよ」

「早耶香は気にしなくていい。オレも気にしてないから」

「子供が大人の事情に首を突っ込まなくていいのよ。で、うちの旦那が出前寿司なんかとったから、私が作ったハンバーグが余るってわけよ。さあ、早耶香ちゃん、遠慮しないで食べていって」

「そ、それじゃあ、ありがとうございます。いただきます」

「克彦、テレビをつけてちょうだいな」

「食事中にかよ」

「大人の会話に聞き耳たてなくていいの」

「へいへい」

 確かに三葉ちゃんのお父さんと克彦のお父さんは何か話している。どんな話なのか、興味があるような無いような、大人の男の話を知りたいような、どうでもいいような、けど、テレビの音が、それを圧した。

「韓国で発生した船舶事故により修学旅行中の高校生365人が死…」

「あ、このハンバーグ、美味しいです。お母さん」

「そうかい。どんどん食べてね」

「すっごく美味しい。何を混ぜたんですか?」

「今度教えてあげるよ、また遊びにおいで」

「はい!」

「残された遺族は悲しみに…」

 とうとうファーストキスもできて、今日は私の人生で想い出に残るいい日になった。

 

 





なんだか、今回、やたら三葉さんがかわいそうな話になってきたので、もしかしたら分岐させて複数エンドにするかもしれません。
とりあえず、予定通りのラストを書きますが、複数エンドも、よろしければ読んでやってください。
 

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