冷たい水しぶきが舞う中、戦は、熱を増していく――
――――――荊州水軍 右翼――――――
愛刀「鈴音」を片手に握り締めた思春は、敵船に接舷して乗り込むやいなや、敵兵の相手を味方に任せて一目散に駆け抜けていく。
狙いは、荊州水軍都督、蔡瑁。
呉軍からすれば、最も厄介な相手なのは間違いなく水蓮。ここで彼女が倒されてしまうと荊州水軍の主攻である右翼が打ち破られ、連鎖的に他の戦場にも士気の低下などの影響が響くだろう。
それ程、この水上戦闘において水蓮の存在は大きいのだ。
「敵将だッ!倒せ!!」
当然そんな思春を見逃すはずもなく、わらわらと兵が思春を討ち取らんと集まってくるが、
「……邪魔だ」
そんな彼らをまるで意に介さないとばかりに、思春の姿が掻き消え、刃を振るう軌跡が彼らの間を縫うように走る。
「……え?」
突然の出来事に兵が反応出来ずにいると、リィン――と鈴の音が彼らの後ろから聞こえてくる。
「な……ッ……」
ゴトリと、彼らの首が離れる前に見たのは、背中越しに此方を目を向ける冷酷な少女の顔だった。
「ふん、たわいもない」
そう冷たく言い放つと、再度船の奥に向かって進んでいく。
「……あれか」
大きく旗が掲げられた部屋。おそらく、そこがこの船の本営だろう。
そうあたりをつけた思春が近づいていくと、
彼女の周囲がいきなり暗くなる。
「これは……ッ!!」
今彼女がいるのは甲鈑の上なので灯を落とされた訳でもなく、太陽も変わらず高い位置で輝いている。ならば、答えは一つ。
思春が上を見上げると、そこには大きく広げられた布が覆い被さって来ていた。
「くッ……」
直ぐに反応したのが功を奏したのか、完全に被さる前になんとか逃げることに成功。
しかし、ほっとする間も無く、上から刃が襲いかかる。
「はぁっ!!」
降ってきたのは水蓮。両手には、切っ先を下に向けた「波及」が強く握られている。
布を避けた直後の思春は、地面を転がるようにして動き、甲鈑にギャリィン!!と、避けられた切っ先が地面を削る音が響く。
「……中々やってくれる」
頬に走る一筋の傷。それを手の甲で拭いながら呟く思春。
「正攻法で勝てない相手なら、策を尽くすのは当然。……私は、そう学んだわ」
くるりと、槍を一回転させて構え直して、思春と対峙する水蓮。
二人の間の、緊張が高まっていく。
「……何を興奮しているの?」
「我ら孫呉からすれば宿敵になる相手。興奮もする」
水蓮の挑発に敢えて乗り、さらに自身の熱を上げる思春。体はもう、臨戦態勢に入っている。
「…………」
つっ……と、頬に汗が流れる水蓮。あわよくば、先ほどの奇襲で思春の手か足に傷でも負わせれば良かったのだが、そう上手くはいかない。
だが水蓮にとって、物事が上手くいかないのはいつものことだ。
戦も、政治も、恋も、いつも彼女は、目の前のそれをを全力で乗り越えてきた。ただ、今回もそうするだけ。
「いいわ、来なさい甘寧!私の戦いを見せてあげる」
「もとよりそのつもりだ」
ぐっと深く体を沈めた思春が、強く地面を蹴り付けながら一気に斬りかかり、水蓮がそれを迎え撃つ。
一騎打ちが、始まった。
――――――呉水軍 右翼――――――
燃える荊州水軍の中を、ゆっくりと進んでいく呉水軍右翼。
高速艇の油壺と火矢の一斉掃射の連携により荊州水軍左翼を退けた後は、そのまま荊州軍本船に攻め寄らんとばかりに突き進んでいた。
普通、一気に進軍したりすれば、戦列が細く伸びてしまい各個撃破される可能性が高まってしまう。
しかし、呉軍は豊富な兵力を頼りに、後列からどんどん後詰を送り込んでおり、その心配も必要ない。
「小蓮さま、前方に敵船が見えてきましたよ~」
「次の相手ね!また倒してやるんだから!」
穏の報告を受け、元気よく答える小蓮。練度は当然、兵全体の指揮も高く、正に敵なし。
荊州軍は今回の戦に襄陽、江陵の兵の殆どを駆り出している。もしこの水戦で負ければ、残るは各兵三千ほどしか残っていない襄陽、江陵城があるのみ。この戦で負ける=全滅の戦いなのだ。
「油は補充したわね!早速行くわよ!」
「し、小蓮さまっ、まだ敵兵確認してませんよぉ!……行っちゃった……」
まだ敵船の影しか見えていないのに、穏の制止を振りきって飛び出していく。勢いがあるのはいいが、少し慌てすぎである。
こう言う時に、足を救われやすいのだ。
「陸遜さま、後方よりご報告が!」
「今小蓮さまが出て行ったばかりですから、私が聞きます。何かあったんですか~」
「はっ、補充予定の船が幾つか燃えたので補充が遅れるとの事、ついては少し進軍を抑えて欲しいと」
「船が燃えた?江夏の黄祖さんが動いたんですか~」
今は丁度、江夏の前に長く戦列が伸びてしまっている。船が燃えたとすれば、先ず江夏からの攻撃を疑うのは当たり前だ。
「いえ、少し距離を詰めてはいますが、まだ接触までは……」
「でしたら不審火か何かでしょうか……とりあえず小蓮様に戻ってくるように合図しておきますね」
軍師に必要な能力の一つに危険予知がある。敏感に相手の策の匂いを感じ取るのは、何よりもその人のセンスを問われる。
当然、優秀な軍師である穏は、何かきな臭いものを感じて直ぐに指示を下すが、小蓮は良い気はしない。
「なんで
穏が掲げた狼煙を見て、思わずそうごちる小蓮。
とは言え、ここで無視してもし危険な目にあったら、姉たちに怒られるのは目に見えている。
しぶしぶ来た道を帰ろうと船首を翻すと――
突如、小蓮の目の前の川に、火が走る。
「な、なんで川が燃えるのよ!!」
小蓮と穏を分断するかのように、川に走る火柱。
「て、敵船が加速っ!?此方に迫って来ます!!」
「ええっ、うそっ!!」
この時を待っていたとばかりに、小蓮たちに迫ってくる荊州水軍。そのせいか、ぼんやりと見えていた敵の船がハッキリと見えてくる。
「あれは……劉表の船!!」
小蓮たちと対峙していたのは、後ろに待機しているはずの聖たちであった。
当然、穏も聖が迫ってきているのを確認する。
「あれは劉表さん!?と言う事はこの火も……」
「報告ッ!江夏の敵兵一万が、此方に向かって進軍中!!」
「……十分戦えるだけの兵はいる筈ですよ?」
いつ江夏の兵と戦っても大丈夫なように、十分な兵は配置している筈。
いちいち反応していては先頭と大きく離されてしまうし、何より小蓮が孤立している今、そんな余裕は穏にはない。
「それが……後ろにも川に数多の火が走り、操船者が逃げてしまい、大半の船が動けなくなっていると……」
「これは……拙いですねぇ……」
これで間違いなく、この火が荊州軍の策略であるのは確定した。
すぐに穏は、先頭の軍を二つに分けて片方は後詰の援護。そして自身が残りの半分を率いて小蓮の救出に向かう。
そして、呉水軍の動きを船の上から見ていた聖たちも、ここぞとばかりに動き出す。
「聖さま。敵の陣形が崩れているです」
「うん。蓬梅ちゃんの策が成功したね」
今回、聖たちが使用した策は「水上火計」
最初に破った荊州軍左翼の船に幾つか油を積んでおき、呉軍がその上を通過するタイミングで火を点け水上に火計を起こしたのだ。無論、江夏の兵一万も油を流している。
この火の目的は、相手の船を焼くことではなく足止めである。
船を進めるための櫂。それを漕いでいる人は皆水面近くにいる。
彼らからすれば、櫂を突き出している穴からしか外が見えないため、いきなり火が飛び込んできたら漕ぐのをやめ、真っ先に逃げるのは当然。
そして水上で動きが止まった船は、ただの的である。
「今よっ!全軍っ、押し込みなさい!!」
鈴梅の声を合図に、一斉に突撃していく荊州軍左翼。江夏の兵たちも、それに呼応して呉水軍右翼に横激を浴びせかける。
「狙いは敵の将です!……できれば捕獲して下さい」
聖たちに最も近い位置にいる将は小蓮と穏。嘗て孫堅を殺してしまい、その娘である孫策に恨まれている聖は、これ以上の怨恨を重ねることを避けようとしているのだ。
「旋回、早くっ!!」
迫り来る荊州軍から逃げるため慌てて船を回そうとしても、そう簡単には船は方向転換出来ない。
「ダメです!敵船の方が早いっ!?」
「だったら前に進むわっ!」
小蓮の狙いは船と船との間。小型船であることを利用して、一旦荊州軍の後ろに抜けようと動き始める。
「いっけえぇーーっ!!」
一番大きく空いている船と船の間を一瞬で見極め、突き進む小蓮。だが、
「……甘いです。想像通りです」
ガクンと、小蓮たちの船が停止する。
「ち、ちょっとっ!なんで船が止まるのよ!」
「ダメです、網が引っかかってます!」
聖たちはそれを見越し、わざと開けた隙間に小蓮を誘導させ、その間に網を張っておいたのだ。
小型の「走舸」と、大型の「楼船」二隻では、どちらが力があるのかは明白だ。
そのまま小蓮を助けに来た穏も包囲し、見事聖たちは小蓮と穏の捕縛に成功したのだった。