南端泊地物語―戦乱再起―   作:夕月 日暮

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第十七陣「深海棲艦たちの進撃」

「提督」

 

 神通との通信を打ち切った智美のところに、川内が姿を見せた。

 

 今まで姿を見せていなかっただけで、本当はずっと側にいたのだろう。

 川内は横須賀第二鎮守府の中で、智美の信頼がかなり厚い艦娘の一人である。

 主に諜報や裏方の仕事をこなすが、用事がないときは智美の警護をしている。

 

「なんだ、川内」

「苛々してるね。そこまで分かりやすく苛立っているのは珍しい」

「今は作戦中だ。雑談をしている余裕などない。用件がないなら失せろ」

 

 智美は足を小刻みに動かしながら、心底腹立たしそうに川内を睨みつけた。

 慣れないものは直視すれば震えあがりそうな眼差しである。

 しかし、川内はそれに怯まず見つめ返した。

 

「いらぬ世話だと思うけど、あえて言うよ。少し落ち着いた方が良い」

「貴様に言われるまでもない。落ち着こうと意識はしている」

 

 智美自身、自分がかなり苛立っていることは自覚しているようだった。

 不愉快であることを前面に押し出したような表情をしているが、感情を抑えて話そうと努めていることは川内にも伝わってくる。

 

「さっきの神通の提案、私は悪くない案だと思う。西側の戦線はかなり危うい状況のように思える。救援を出すよう今からでも言った方が良いんじゃないかな」

 

 川内は、大人しく命じられたことを淡々とこなす艦娘である。

 こんな風に意見を述べるのは異例のことだった。

 

「神通のような口を利く。貴様に戦術が分かるのか」

「提督や神通ほどではないかもしれないけど、無学ではないつもりだよ。さっきのやり取りを聞いた感じだと、神通の言葉の方に理があるように思った」

 

 作戦本部詰めのメンバーは、遠巻きに二人のやり取りを見守っている。

 呉の浮田提督もその一人だ。彼は注意深く智美の様子を窺っていた。

 

 彼は作戦本部長として智美に作戦指揮を委ねている。

 それは、逆に考えればいつでも作戦指揮権を智美から取り上げることができる、ということでもあった。

 

 先程のエルモとの一件以来、浮田提督からの眼差しは厳しいものになっている。

 自然、智美は川内に対して慎重な姿勢で臨まざるを得ない。

 

「西側に援軍を送る場合、島の攻略そのものは西部戦線の立て直しを行ってからになる。それでは時間がかかるだろう」

「時間かかるのは良くないけど、絶対にダメというわけでもないんじゃない。むしろ、戦線崩壊して戦力を大きく削られる方が問題だと思うけど」

「……」

「提督さ」

 

 川内は大きく息を吸って、意を決したように言葉を紡ぐ。

 

「西部戦線への援軍を送りたくないの、ショートランドの提督がいるからなんじゃないの?」

 

 川内の指摘に智美は「黙れ」と叫びそうになった――が、かろうじて自重した。

 浮田提督の視線を感じたからだ。

 

「あの人が艦娘人造計画にかかわっていたという裏付けはまだ取れてない。さっきの男の発言以外何もないんだ。まだ提督の仇と判断するには早い。それくらいは分かってるでしょ?」

「……そうだな。だが疑わしい状況ではある。毛利提督が遺した資料にも、あの女らしき被験者の名前は載っていなかった。あの女はただの被験者ではない――そう考えるのが自然だろう」

「だとしてもさ。提督たちの直接の仇ではないでしょ。……時期が違うからね」

 

 川内の指摘に、智美は頷かざるを得なかった。

 あの悲劇が起きた日――智美や妹たち、そして神通の運命を変えたのは、二〇一四年の八月の出来事である。

 

 北条康奈は、そのとき既にショートランドの前の提督に拾われて生活していた。

 彼女が記憶を失う前計画に関わっていたとしても、あの日智美たちを無理矢理艦娘にしようとして逃げ出した者ではない。

 

「……直接の仇ではないとしても、同じ穴の貉だという可能性はある。私たちがいた施設にかかわっていた可能性も、まだ考えられる」

 

 そうやって口にしながらも、智美の声はか細くなっていった。

 少し考えれば分かるようなことだ。

 しかし、智美は仙台に指摘されるまでそのことに気づいていなかった。

 

 エルモという男の存在に過去の出来事を揺さぶられ、判断能力が鈍っている。

 そのことを、智美はようやく実感した。

 

「――うん。普段の提督の目に戻ったね」

 

 智美の内心を見透かしたように川内が言う。

 

「私はこれでも提督に感謝してるし、評価もしている。行き場を失ったところを拾ってもらった恩義もある。だから、余計な口を出させてもらった。さっきまでの提督は、ちょっと見てられなかったからね」

「……ふん。生意気を言う」

 

 智美は礼など口にしない。

 言葉だけの礼に、さほど意味があるとは思えなかった。

 それよりは実績で応えるべきだろう、というのが智美の考えだった。

 

「浮田提督。北軍から少し部隊を西部戦線に回したいが、どうだろうか」

 

 智美に問われて、浮田提督はすぐに首肯した。

 

「良い判断だ。北軍の四分の一までなら問題ないだろう」

 

 浮田提督が応えたとき、作戦本部宛てに通信が入った。

 北軍に参加している拠点の提督からだ。

 

『作戦本部に確認したい。我々は西側に援軍に行った方が良いのか?』

 

 その提督の声には、戸惑いがあった。

 智美や浮田提督は、新たな方針についてまだ何も言っていない。

 にもかかわらず援軍の話が出てきたことに、智美たちも怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「こちら情報部長。北軍の一部を西側に回すことを検討している。だがまだ案はまとまっていない。少し待つように」

『了解した。……だが、良いのか? 一部隊、既に動いているが』

「なに?」

『我々は、その部隊の動きを不審に思ったから連絡を入れたんだ』

 

 そのとき、智美の胸中がざわついた。

 何か――猛烈に嫌な予感がしたのだ。

 

「……その一部隊というのは、どこだ?」

『貴方のところだ、情報部長。横須賀第二の――神通隊だ』

 

 

 

「……本当に良かったのですか?」

 

 西へと進む航路の途上、神通は後ろを振り返って尋ねた。

 そこには、磯風を含む神通隊の全員がいる。

 皆、横須賀第二鎮守府の象徴だった紺のスカーフは外していた。

 

「神通一人だけでは、さすがに援軍にならないだろう」

「それは、そうかもしれませんが……」

 

 神通は一人一人の顔を見た。

 どの表情にも迷いはない。全員、神通と共に行くことを選んだのだ。

 

「それに、私の場合ホームの仲間を助けに行くことにもなる。そういう意味では、行かぬ理由がないというものだ」

「その口振りだと、移籍の件は……」

「すまないな。横須賀第二の居心地は悪くない。私の気性にも合っていると思う。それでも、私の居場所はショートランドだ。神通、貴方の居場所が長尾提督の元であるように」

 

 磯風の言葉に、神通は困ったような笑みをこぼした。

 

「そう言われては、何も言えません」

 

 話しているうちに、南軍の影が見えてきた。

 ショートランド艦隊は南軍の最南端に陣取っている。

 まだ、助けるべき相手は遠い。

 

「……行きましょう。神通隊、突貫します!」

 

 

 

 清霜は、ショートランド艦隊の母船の甲板上で休息を取っていた。

 度重なる敵の攻勢によって、艦隊はかなりの損害を出している。

 清霜も、二度中破に追い込まれた。

 高速修復によって艤装は戦える状態になったが、疲労はそう簡単には取れない。

 

「清霜、ちゃんと休んどけよ」

 

 朝霜が釘を刺したのは、清霜が先程からじっと戦場の方を見続けているからだった。

 

 清霜は、戦えば戦うほど集中力が研ぎ澄まされていくところがある。

 彼女が時折戦場で見せる勘の鋭さというのは、この集中力に起因するところが大きい。

 その集中が、何度も敵の攻勢をしのいでいくにつれて途切れなくなってきている。

 

 高い集中力というのは、いつまでも続くものではない。

 休むときは切っておくべきものだ。そうでなければ、戦いの最中に突如切れてしまうこともある。

 

「休めるときは休むことにだけ集中すべきだな」

 

 そのとき、清霜の頭をポンポンと叩く者がいた。

 戦艦の艦娘――武蔵だ。

 

「……武蔵さん」

「なんだ、武蔵も休憩か?」

「出撃前のな。艤装の点検が済み次第出ることになっている」

 

 武蔵が出撃することになった背景には、作戦本部の方針変更がかかわっている。

 北軍からの増援があれば、西部戦線は攻めに転じる余裕ができる。

 そこで、一番南側に陣取っているショートランドの部隊は、援軍に先駆けて敵陣に突撃を仕掛けることになった。

 

 そこで敵の動揺を誘えれば、援軍を得た残りの軍が敵本隊を叩く。

 誘えないようであれば、残りの軍が敵本隊を抑え、その間にショートランド艦隊が敵拠点まで進軍する。

 

「――ということに決まった。私以外にも母艦守備部隊は一通り出ることになっている」

 

 武蔵のいう母艦守備部隊というのは、ショートランドが誇る主力中の主力である。

 いざというときに備えて母艦で温存されていた、とも言えるメンバーだ。

 それが出撃する以上、ここからの動きはかなり重要な意味を持つということになる。

 

「けど、母艦はどうすんだ?」

「そのことだが、先程康奈たちと相談した結果、ビスマルク隊に守備についてもらうことになった」

「私たちが?」

「そうだ。この母艦と康奈たちのこと、よろしく頼むぞ、二人とも」

 

 武蔵は二人の肩を引き寄せて、ぐっと力強く掴んだ。

 清霜と朝霜の表情に緊張が走る。

 最終防衛線を任される。初めての経験は、二人に重圧となってのしかかってきた。

 

「……武蔵さん」

「ん?」

「――私も、連れて行ってもらえませんか」

 

 武蔵を正面から見据えて、清霜は窺うように尋ねた。

 突然のことに、朝霜と武蔵は言葉を失う。

 

「……なんだ、急に。お前はビスマルク隊に配属されているだろう」

「それは分かってます。母艦の護衛が重要だってことも、分かってます。でも……」

「――やめとけ、清霜」

 

 言い募ろうとした清霜を、朝霜が抑えた。

 

「武蔵たちが行くってんなら、その戦場は相当危険な場所のはずだ。あたしらが行ったところで足手まといにしかならない。死体を増やすだけになる」

「……」

 

 朝霜の言葉は、的を射ている。

 清霜は何度も大きな戦いに参加したことで、飛躍的に成長を遂げている。

 しかし、それでも武蔵たちに比べれば実力不足と言わざるを得ない。

 

 武蔵たちが投入されるような苛烈な戦場に行くにはまだ早い。

 それは、清霜もどこかで理解していた。

 理解しているから、口をつぐむしかなかった。

 

「清霜」

 

 武蔵は腰を落として、清霜たちに目線の高さを合わせた。

 

「こんなときに今更かもしれないが、昔のことについて礼を言わせてくれ」

「お礼?」

「お前と浜風が、私の乗組員たちを救助してくれた件だ」

「――っ」

 

 清霜は息を呑んだ。

 

 武蔵が語っているのは、艦娘になってからの話ではない。

 お互いにまだ艦艇だった頃のことだ。

 戦艦・武蔵が、沈んだときの話だ。

 

 清霜にとっては、脳裏から離れない苦しみの元でもある。

 

「私は、お礼を言われるようなことはしてないです。だって、あのときは見ていることしかできなかったし……」

「私が――武蔵が沈んだときのことか。あれは仕方あるまい。近づけば海流に呑まれてお前たちまで沈みかねないところだった。さっきの朝霜の言葉ではないが、いたずらに犠牲を増やすだけだっただろう。沈みゆくときにそんな光景を見せられたら、たまったものではない」

 

 武蔵は困ったように笑った。

 

「無論、もっと多くの乗組員を助けられれば――という後悔はあった。あったが、それは艦であるこの武蔵自身が背負うべきものだ。お前や浜風に渡すわけにはいかないものさ」

 

 それは清霜を気遣って出た言葉ではない。

 真実、武蔵はそう思っている。聞いている清霜たちにも、それは伝わった。

 

「清霜。私にはもう一つ譲れないものがある。それが何か、分かるか」

「えっ? う、うーん……?」

 

 武蔵の問いに、清霜は必死で頭を働かせた。

 しかし、分かるようで分からない。

 過去のトラウマから、これまで武蔵を避けていたからか――清霜は武蔵という艦娘について、驚くほど無知だった。

 

 悪戦苦闘する清霜を見かねたのか、武蔵は振り返って艦橋を見ながら、その答えを口にした。

 

「ショートランド泊地だ」

「割とありきたりな答えだな」

「はは、言うな朝霜。まあ実際その通りだと思うよ。ありきたりだ。……だが、私は一度それを守れなかった」

 

 昨年の夏。

 AL/MI作戦に出ていて手薄になった各地の鎮守府・基地・泊地は深海棲艦の強襲を受けた。

 

 ショートランド泊地には大和や武蔵がいた。

 しかし、彼女たちの力を持ってしても、守り切れなかったものがある。

 泊地の建物はほぼ破壊され、当時の提督も再起不能に追いやられた。

 

「私は正直ここを離れたくない、という想いがある。今ここは戦地の真っ只中だ。一歩間違えば命を落とす。そんな場所だ」

 

 武蔵の言葉を証明するかのように、敵深海棲艦が放った長距離弾が母艦の近くに落ちて、飛沫を上げた。

 清霜たちのように休憩している艦娘たちは、皆戦場に少なからず意識を向けている。

 間近の戦いを無視できるほど、皆図太い神経を持っているわけではない。

 

 武蔵にとって、ここを離れるのは身を切り裂かれるような思いのすることなのだろう。

 

「清霜。この母艦と康奈たちのことを頼む。私の大事なものを――もう一度助けて欲しい」

 

 先程と同様の武蔵の言葉。

 しかし、それはより重みを増して清霜の肩にのしかかった。

 

 

 

 武蔵たちが出撃して程なく、敵の攻撃の苛烈さが増した。

 こちらが援軍を得たことに向こうも気づいたのだろう。

 

「奴らは早期決着をつけるつもりのようだな」

 

 次々と報告される敵情をまとめながら、新十郎は嫌そうに呻いた。

 

「動揺はほとんど見られない。それどころか、援軍との合流ができてない自分たちの方から攻め立てようとして来てやがる。深海棲艦も馬鹿じゃないってことだ」

 

 深海棲艦にとって一番突破口を開きやすいのは、手薄なショートランド艦隊の陣だった。

 そこを突き崩せれば、リランカ島まで突き進むなり、他の西部戦線の陣を側面から突くなりすることが可能になる。

 

「どうする、提督。自分たちの安全だけ考慮するなら一時撤退するのが無難なとこだと思うが――」

「形の上では悪くないわね。こちらが下がったところに敵が押し寄せてきたなら、脇を他の南軍が突けるだろうし。……ただ、これまで粘っていたところで撤退するとなると」

「士気はガタ落ち、一気に崩れる危険性もなくはない」

 

 実際に身体を張って戦う者たちの士気というのは、指揮官にとって悩ましい要素の一つだった。

 いくら優れた絵図を描こうが、動く者たちの士気がなければ、その通りに物事は運ばない。

 

 ショートランド艦隊は既に何度も戦闘を繰り返しており、艦娘だけでなくスタッフたちの疲労も相当なものになっていた。

 

 逆に、康奈は戦いに集中しているからか、先程までよりも落ち着いていた。

 自分の過去に対する不安はまだ胸中に残っている。

 しかし、そちらに意識を割いている余裕はない。

 今は今このときをどう生き延びるか、それを考えるのが最優先だった。

 

 康奈は海図に敵の陣形を広げて注視する。

 この状況を打開するための最善の一手が、どこかにあるはずだった。

 

『提督! 南西方面から、新たな敵軍が迫ってる!』

 

 そのとき、南側の偵察を行っていた瑞鳳が悲鳴を上げるかのように報告してきた。

 

「瑞鳳、落ち着いて。その軍の陣容は?」

『提督たちがトラック泊地で戦ったって言ってた戦艦水鬼と特徴が一致してる! まだそれなりに距離はあるけど――こっちまでドンドン砲撃を繰り出してきてる!』

 

 瑞鳳の偵察機が捉えた敵の姿が、画像データとして母艦に送られて来た。

 その姿を見て康奈は息を呑んだ。

 瑞鳳が言った通り、その姿はあのとき戦った戦艦水鬼そのものだったからだ。

 

「……どうする、提督」

「今この辺りに残ってる戦力だけで戦艦水鬼の相手はできない。壊滅させられて終わりよ」

「そうだろうな。じゃ、逃げるか」

「ええ。――皆には、最初から全力で逃げてもらうわ」

 

 康奈の言葉に、艦橋のスタッフはざわついた。

 ただ一人、新十郎は「それが良いだろう」と頷く。

 

「中途半端な撤退をして途中から潰走なんてことになれば、艦娘たちの間にも動揺が広がる。最初っから全力で逃げて潰走って形を取れば、後々になって動揺することはなくなるってことだ。全力で潰走してるがこれは計画通りなんだ――ってことになるからな」

「し、しかし皆が全力で逃げたのでは、この母艦が危険に晒されます!」

 

 陣形も何もなく逃げるとなると、母艦の防御が手薄になる。

 戦術や戦略を弁えた深海棲艦が、それを見逃すとは思えなかった。

 

「この船も当然全速力で逃げるわ。大丈夫。護衛としてビスマルク隊は残っているもの」

 

 強がりの笑みを見せて、康奈は全軍に指示を出す。

 

 地獄の退却戦が、幕を開けた。

 

 

 

 リランカ島の戦況が思わしくない。

 そのことを報告で聞いた戦艦水鬼は、迷わず泊地水鬼と連絡を取り合って援軍を出すことを決めた。

 

 それぞれの拠点は連携し合った方が強靭になる。

 個別に動いたのでは、各個撃破されて終わるだけだ。

 

 遠征軍が懸念していたモルディブ方面には、泊地水鬼の拠点がある。

 戦艦水鬼の拠点は更にその西側にあったが――彼女はそこから全速力で自軍を引き連れて来た。

 

『戦いには機というものがある。機は動いた者が掴み取れるものだ。――動け、我が軍勢よ!』

 

 泊地水鬼の繰り出すモルディブ軍と交戦していた艦娘たちは、戦艦水鬼の登場で完全に陣容を崩していた。

 何のまとまりもない状態で、我先にと逃げ出す者が増えていく。

 

 ……このまま追撃して壊滅させてやろうか。

 

 ついそんなことを考えてしまうほど、敵の逃げ惑いようは酷かった。

 なにしろ、母艦と思われる船の警護すらろくにせずバラバラに逃げ出しているのだ。

 

『――ん?』

 

 片方だけになった眼で、戦艦水鬼は敵の母艦と思しきものを凝視した。

 そこには、何人かの艦娘らしき者がいた。

 戦艦。重巡洋艦。空母。駆逐艦――。

 

『……あれは』

 

 駆逐艦の一人に、見覚えがある。

 かなりの距離があったが、失われた方の目に焼き付いた相手だ。見間違えるはずはない。

 

 先日のトラック泊地防衛戦――その最終局面で戦艦水鬼の片目を奪った艦娘だ。

 

『――クク』

 

 顔は無表情のまま、笑いが声になって零れ落ちた。

 

『まさか、こんなに早くまた会えるとは思わなんだ』

 

 戦艦水鬼の全身から、どす黒い感情が溢れ出していく。

 目に見えるはずのないそれを目の当たりにして、戦艦水鬼の側にいた深海棲艦たちは皆一様に怯えた。

 

『者ども』

 

 ただ一点を、己に敗北の味を教えた者の一人を見据えながら、戦艦水鬼は高らかに告げる。

 

『他の有象無象は捨て置け。――あの船だ。あの船を狙え』

 

 オォォ……と戦艦水鬼旗下の軍勢が吼える。

 圧倒的強者に率いられた、武威の軍勢。

 獲物を狩り尽くす戦場の魔獣たちが、一斉にその牙をショートランド艦隊の母艦に向ける。

 

『――逃がすな。皆殺しだ』

 

 

 

『……以上です。こちらの補給部隊は一通り叩けたかと』

「お疲れ様。それじゃ、直接康奈たちのところに向かってちょうだい。どうも向こう、今良い状況じゃないみたいだから」

 

 味方からの通信を切って、叢雲は大きく身体を旋回させた。

 チッと何かが身体を掠めていく。

 こんなやり取りが、もう何度も続いていた。

 

「あら。また避けられた」

 

 人の言葉を紡いだのは、小柄な体躯の深海棲艦だった。

 戦艦水鬼や泊地水鬼たちのような、見る者を圧倒する威圧感はない。

 

 しかし、どこか得体のしれない不気味さを感じさせる。

 

「仲間と雑談しながらこっちの攻撃を避けるなんて……さすがに傷つくわねェ」

「……」

 

 作戦指揮を執っていた叢雲の元に、この正体不明の深海棲艦が姿を現したのは三十分程前のことだった。

 叢雲の周囲にいた艦娘は、皆あっという間に倒されてしまった。

 ただ一人、叢雲は被害を免れ、相手から逃げつつどうにか耐え凌ぎ続けている。

 

「本当は最初の数分で全員倒してしまうつもりだったのだけど……貴方、かなりの使い手なんだ」

「……」

「だんまりなのね。ふふ、人の言葉を話す深海棲艦は怖い?」

「過去にそういう個体がいたのは知っているわ。こうして相対するのは初めてだけど」

「あら。やっと口を利いてくれた」

 

 おかしそうに笑いながら、小柄な深海棲艦は主砲を下げた。

 

「なんだか満足してしまったわ。今日はこのくらいにしておくわね」

「……アンタは何者なの? 目的は?」

 

 叢雲は戦闘態勢を解かずに尋ねた。

 

 少しでも気を抜けば、命を落とす。

 それだけ危険な相手だということを、叢雲はこの三十分間で嫌と言うほど理解していた。

 

「目的というほどの目的はないわ。今回はインド洋の連中の手伝いをしに来ただけだもの。……もっとも、ダミー作戦は全然できそうにないし、なかなか隙もできなさそうだから、適当に敵将の一人でも討って帰ろうかと思っていたのよね」

「そこで運悪く私たちが目をつけられた――ということね。そんな理由で死にそうになったなんて思わなかったわ」

 

 心底うんざりしながら叢雲は吐き捨てた。

 

「私は楽しかったわよ。……ふふ、貴方はどこの艦娘なのかしら? 私は南太平洋の辺りを住処にしてるのよ。もしそっちに来るようなことがあるなら、今度はお互いもっと本気でやり合いましょう――」

 

 そう言い残して、謎の深海棲艦は踵を返した。

 その背中に叢雲が主砲を向けるのと同時に、その深海棲艦を守るかのように、複数の巨大な深海棲艦たちが姿を見せる。

 

 多勢に無勢。今手を出せば、やられるのは叢雲の方だった。

 笑って手を振りながら去っていく深海棲艦を見送り終えると、叢雲は大きく息を吐いた。

 

「あれは――怪物ね」

 

 後に防空棲姫と名付けられる個体の脅威を、叢雲はそう評した。

 

「今は、あれが今回の戦いに参加しなかった幸運を喜ぶべきか。……急いでこっちの軍をとりまとめて、康奈たちのところに戻らないと――」

 

 気持ちを切り替えて西の方に目を向ける。

 

 雲行きが怪しい。

 一雨来そうな予感がした。

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